言葉と表現と射影のブログ

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<<   作成日時 : 2015/01/03 19:39   >>

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〈揶揄の自由〉にすぎないものを、
'ペンの力は屈しない'と称える愛国的スローガンは
pointless で, まったく無意味

「差別を前提にした諷刺は諷刺ではない。これは揶揄にすぎない。ペンは剣よりも愉快犯的に人の精神を傷つけることをいくらでもするものだ。このヨーロッパの独善的な諷刺という揶揄を、自己の排他的他者イスラムに向けたとき、その結果は何かとは明らかであったはずだ。フランスの事件は、ヨーロッパが自ら生み出した事件であり、危機である。〈表現の自由〉の大合唱は、〈揶揄の自由〉であることを押し隠して、フランスの危機を世界の危機へと押し進めようとしている。9.11.から始まったブッシュの戦争をわれわれは押しとどめることができなかった。パリのテロから始まるかもしれぬ戦争を押しとどめる力は、ヨーロッパの反省的知性と、前の戦争体験からくる民族の相互融和の重要性を市民たちがあらためて想起することにある。だがフランスの議会で代議士たちがマルセイエーズを歌うのを聴くと、世界の危機を知らぬ独善の歌声をわたしは聞いてしまう。」子安宣邦氏


「〈表現の自由〉の大合唱は、〈揶揄の自由〉であることを押し隠して、フランスの危機を世界の危機へと押し進めようとしている。」


週刊紙「シャルリー・エブド」最新号の表紙は、同紙への連帯の象徴となった「私はシャルリー」の標語をムハンマドに持たせて、「すべては許される」との見出しをつけたものでした。シングルイッシューに陥った追悼デモー各国首脳が自己宣伝に利用しているーを風刺するものとして成り立っていると思いますが、ただし、ここに国家権力(警察)によって守られるようになってこの絵を描いている自分たちの皮肉な姿をどこかにえがきこまなければ、フェアーじゃない。私はアナーキーな風刺画も風刺の精神として尊重したいのですけど、なにか、これではまるで単純な同化主義の教説にしか読み取れませんね。自己正当化と秩序の感覚?かれらのペン、風刺の破壊力はその程度かと思ってしまうのでありますが


二一世紀の集団肖像画の意味

集団肖像画の傑作は、17世紀のレンブラントの「夜警」でした。帝国の王と貴族ほどには裕福ではなかった、モデルの台頭してきた '市民' たちはお金を出しあって自分たちの姿を描いてもらったのが、集団肖像画の始まり。このようなイメージに夜警国家の意味を読み取ることができます。ここで夜警国家とは、国家の機能を、外敵の防御、国内の治安維持など最小限の夜警的な役割に限定した国家をいいます。さて21世紀に再び貴族の如く現われてきたこの諸国首脳たちは、市民デモを都合よく利用して、集団肖像写真を撮ってもらっているのは、しかし一体なんのために?どうみても、ヒューマニズムからの抗議で集まったとはおもえません。経済の絆の不在を覆い隠すことができなくなったヨーロッパ連合を、これから政治的な絆に置き換えることを告げる21世紀の<帝国>の肖像画?しかしこのような文化的同化主義が、いっそうヨーロッパのなかのイスラムを絶望させていかないのでしょうか?


わたしとあなたとかれかのじょのこの場所

俳優の語りのリズムから独立しようと模索する動き。俳優のこの動きによってはじめて、他者の現前のなかで考えなかったことを考えることができるようになる思考の舞台。そうして戯曲 (ひとりの声)の支配から逃れていくような書く舞台


感想文

客が考えなかったことをたしかに考えはじめた思考の舞台、素晴らしい舞台だったようです
調子がはずれたマーチ曲に沿って動くジョンとジョーの動きがユーモラスで非常に面白いのですね。 演出んは、「音楽に合わせる必要がありません」と二人に指示をだしていました。演劇の枠組みのなかで、このように動きからリズムを独立させるという試みは大変ラディカルで、短い時間の移動のパフォーマンスしたが現代バレーのようでした

2005年のロンドンでの同時爆破事件の実行犯たちも、当初は海外の仕業とされていましたが、実際は追い込まれたアラブ系移民の子供たち、つまりこう言うこともできるとおもいますが、イギリス人自身でした。

フランス歴史人類学者 エマニュエル・トッド
…だが、フランスが今回の事態に対処したいのであれば、冷静になって社会の構造問題を直視すべきだ。北アフリカ系移民の二世、三世の多くが社会に絶望し野獣と化すのはなぜなのか。…中でも移民の子どもたちが最大の打撃を被る。さらに日常的に差別され、ヘイトスピーチにさらされる。「文化人」らが移民の文化そのものを邪悪だと非難する。…私も言論の自由が民主主義の柱だと考える。だが、ムハンマドやイエスを愚弄し続ける「シャルリー・エプド」のあり方は、不信の時代では、有効でないと思う。移民の若者がかろうじて手にしたささやかなもに唾を吐きかけるような行為だ。ところがフランスは今、誰もが「私はシャルリーだ」と名乗り、犠牲者たちと共にある。私は感情に流されて、理性を失いたくない。今、フランスで発言すれば、「テロリストにくみする」と受けとめられ、袋だたきに遭うだろう。だからフランスでは取材に応じていない。独りぼっちの気分だ。
ー 読売新聞(電話インタビュー、編集委員 鶴原徹也)


われわれの眼からは、所謂「テロリスト」を非難しても、イスラムを取り囲む新植民地主義の戦争体制の<構造>を変えないかぎり何も変わらない未来が明白にみえる。かれらからみれば、全体主義的国体の安倍を非難しても、自民党一党支配の<構造>を変えなければ何も変わらないことがあまりに自明な事だ

瀧川 幸辰

東京学派の小野清一郎とほぼ同時期にドイツ刑法学における構成要件の理論を日本に初めて紹介し、犯罪を構成要件に該当する違法有責な行為であるとする現在の日本の刑法学の基礎を築いた[6]。

瀧川は違法性の実質について、当初M・E・マイヤーにならって国家的条理違反としていたが、その後生活利益の侵害であると改説し、前期旧派・古典学派の立場を明らかにした。その立場は佐伯千仭、中山研一、平野龍一らに継承されているが、瀧川の刑法理論は、当時の左翼的・マルクス主義的な思想を背景に、階級対立社会では、罪刑法定主義が厳守されなければ、刑法が階級抑圧の手段とされてしまうとして客観主義を強調するもので、このような立場からは、社会防衛・主観主義を強調する牧野英一らの新派刑法理論が批判されるのは当然のことながら、同じ客観主義を主張する小野に対してもその道義的責任を強調する国家主義的な刑法理論は批判されることになり、このような反国家的な思想が危険思想とみなされ後に滝川事件を引き起こすきっかけとなった。


美濃部達吉 ‏
機関説と申しまするは、国家をそれ自身に目的を有する恒久的の団体、一つの法人と観念いたしまして、天皇は法人たる国家の元首たる地位にありまし、天皇が憲法に従って行わせられまする行為カ、即ち国家の行為たる効カを生ずるということを言い現わすものであります。(演説「一身上の弁明」)

ちなみにね、英国の政治家が最も恐怖するのは、新聞の風刺画に醜く描かれた自分の姿といわれます。不快感を与えるほど視覚的にグロテスクに描くのは、新聞の読者のためでも。つまり風刺画で冷やした頭で、政治家の騙してくる甘い言葉をしっかりと吟味するためです。風刺画ならば安倍の語る言葉を下呂の滝として描くぐらいでないとね。なのに、この国の新聞は、無意味な似顔絵、内閣支持率を助けるただの肖像画? しかみせませんよね。

ここで、言葉の風刺画をひとつ。渡辺一民氏はくりかえし言っていました。「いつも、二人の他者が大切です。見上げる他者と見下げる他者のことです。だから日本人はフランスとコリアを考えなければなりません」。つまり、根拠なくアジア人(イスラムも含まれます)を見下げる自己を否定しても、そのときその代わりに、根拠なく見上げるヨーロッパ人に自己を同一化するならば、ふたたび、根拠なく誰かを見下げる自己になっていくだろうという洞察だったとおもいます。市民は常に、二つの他者を考えて行動する責任があると言いたかったのだろう、と、こういうときにだからこそおもいかえしています。

根拠なくアジア人(イスラムも含まれる)を見下げる自己を否定しても、そのときその代わりに、根拠なく見上げるヨーロッパ人に自己を同一化するならば、ふたたび根拠なく誰かを見下げる自己になっていくことになるかもしれません。こういうときだからこそ、市民は常に、同時に二つの他者を考えて行動する責任があるのではないだろうかと自分自身に問いかけています。


私の提案

成人式に税金を無駄につかうのをやめてそのかわりに、二十歳になった人全員に、世界を見ることができるようにパスポートを無料で支給してあげてください !


この国で壇上にあがった出世した大人の方々が得意に自慢する通りでしたら本当の所、この国はこんなに滅茶苦茶になっていないはずじゃないですか?いかにも時代遅れの成人式に税金を無駄につかうのをやめて、そのかわりに、二十歳になったひとびと全員に世界を見ることができるようにパスポートを無料で支給してあげてください !



なんでもかんでもフランスに常に対抗意識を燃やすイギリス

パリで起きたテロ事件も例外でなく、英国メディアは2005年7月のロンドンの同時爆破テロの方が先だと勝ち誇っているとはね!?ロンドンにいましたからあの日のことはきのうの出来事のようによく覚えています。ライバルのパリを破って、オリンピックのロンドン開催を決めて国中が勝利の盃を挙げたその翌日でした。「アンチゴネ」みたいな演劇のように栄光からどん底へのカタストロフィーが起きたのです。煙のなか、出口をもとめて地下鉄の長いトンネルを彷徨い歩いた人々。テレビでインタビューを受けた若い演出家が叫びました 、'ロンドンは古代ギリシャの劇場となった!'


Question. 古代ギリシャにおいて民主主義は演劇とともに発達したといわれるが、それはどういうことか?

Answer.アテネの市場で互いの素性もよく判らないワイワイガヤガヤ、ウロウロウヨウヨが歴史上初めて誕生しました。商業と交通のおかげで言葉の交換が可能となっていったことが大切です。そうして、語る人間にとってもっとも必要なことは、政治をできるかぎり人間的なものにすることでした。(つまりギリシャの神々の立像であれ靖国の英霊であれ、このような'超越的なもの'に政治を委ねないことを意味します。) 政治を「人間の基本」(human fundamentals) にできるだけ即したものにする、この「人間の基本」にもっとも即した政治原理、そして実際のありよう、かたちが、小田実の言葉では、<でもくらてぃや>です。この語る <でもくらてぃや>のもとで、語るために必要な修辞学が発展しました。さらに語る劇場が構成されていきます。哲学・思想が古代ギリシャからあらわれました。さて現代の話。この市民の思想をアナーキズムとの思想的連関においてとらえなおすとしたら、子安宣邦氏の問題提起に沿ってこういうこともえるでしょう。たとえば、集団的自衛権の戦争とか、原発やTPPとかでも、これらにかんする決定を、もうはや議会 (国会)だけに委ねることが不可能ならば、 この<でもくらてぃや>がまさに"デモくらえ'に成るというような代補性に、市民の思想が住処とします。つまり<選ぶ>という選挙の行き過ぎた間接性にたいして、<語る>市民が自らの力で、国家の最高の決定をなしうる力(クラトス)を、依拠できる自らの直接性に取り戻すということが重要となってくるということではないでしょうか ー ワイワイガヤガヤ、ウロウロウヨウヨと。


でもくらてぃや (1)

Question. 小田実の「でもくらてぃや」とは何か。古代ギリシャについてこういいます。
「それこそ毎日「アゴラ」へ来てワイワイガヤガヤやっていた、あるいはウロウロウヨウヨしていた。そして、おたがいの素性も判らぬままに「アゴラ」の近くのプニュクスの丘なる大衆集会の場に駆け上がって、宣戦布告して戦争をするや否やの自らの死活にかかわる問題の決定にまで参加していた「民」としての「デモス」でもあったことです。」
「私たち人間にとってもっとも必要なことは、政治をできるかぎり人間的なものにすることです。べつの言い方で言えば、政治を「人間の基本」にできるかぎり即したものにする、この「人間の基本」にもっとも即した政治原理、そして、実際のありよう、かたちが、私は<でもくらてぃや>だと考えています。」


でもくらてぃや (2)

Question. ではなぜ<デモクラティア>ではなく、平仮名<でもくらてぃや>なのでしょうか?
「私(小田)の考える「でもくらてぃや」はそうした古代アテナイの、あるいは、古代アテナイ以来の「デモクラティア」、差別、排他、抑圧、支配、侵略の「伝統」と手を切った、そしてまた、軍事、戦争、暴力、それらを一切のキナくさい、血なまぐさいものを拒否することに基本を定めた「でもくらてぃや」です。その根本的ちがいを確認しておく意味で「デモクラティア」と片仮名で書くのではなく平仮名で「でもくらてぃや」と書くことにしたのです。」


でもくらてぃや (3)

・戦争中の体験やと、われわれはかってに生きたでしょう。国家に関係なしにきたんだもん、国家は崩壊しているんですね。…ぼくは、国家はなくたっていい、人間は生きる、という実感はあるのです。『天下大乱を生きる(司馬遼太郎との対談)』1977
・経済大国だけではこれはもう人間は死に絶えるということになる。経済大国であるならば、それこそその力を使ってぜひ人間の国をつくろうじゃありませんか。そのことをやっぱりここの場で超党派で議論していただきたい。「第百四十二回国会参議院災害対策特別委員会会議録第六号」より1998
・これが「阪神・淡路大震災」の被災地の現場に生きる、直接の死者六千数百人、以後の関連死、孤独死等の多数の死者の重みに思いを致しながら、今なお被災の苦しみの中で生きる私たちの、皆さまがたに対する心からの訴えです。「私たちの訴え」1999
・彼(三木清)の言う修辞学というのは、つまり社会を分析するんじゃなくて、社会をいかに動かすか、いかに変えるか、というような手だてとしての学です。そういう修辞学がわれわれには欠けているということを三木氏は力説しているんです。『対話篇(中村真一郎との対談)』1973
・絶対的被害者と絶対的加害者のあいだに、無数の「被害者=加害者」が存在する。それが「被害者=加害者」の全体のかたちです。そう全体のさまを見すえることで、自分の責任のありどころもはっきりする。『ひとりでもやる、ひとりでもやめる―「良心的軍事拒否国家」日本・市民の選択』2000
・「われ=われ」が「長いものに巻かれる」のは仕方がない。しかし、「長いものに巻かれながら巻き返す」 −私たち、「人間みなチョボチョボや」の「われ=われ」の生きる道はそこにある。いや、たぶん、そこにしかない。『随論・日本人の精神』2004
・「共生」の英語訳として私が考え出したのは「co-habitance of different values」ですが、ちがった価値、居住環境をもつ一方、人間が「共生」する。その一方人間のいろいろな価値を対等・平等に保障する。それが民主主義です。『ラディカルに平和を問う』2005
・今でも、「公共」とか「安全」の名を借りて、暴力的な政策が横行しています。しかし、そもそも「公共」とは、政府と同義ではありません。そして、政府の構想に対する賛成・反対は別として、政府が出してくるものだけが、「政策」ではありません。『ラディカルに平和を問う』2005
・私の「反戦」の根拠には、いつもふつうの市民、「小さな人間」の現実的な認識、思考が根にある。「大きな人間」は幻想で生きられるかも知れないが、「小さな人間」は生きられないからだ。「私の「反戦」の根拠」2006


戦争中の体験やと、われわれはかってに生きたでしょう。国家に関係なしにきたんだもん、国家は崩壊しているんですね。…ぼくは、国家はなくたっていい、人間は生きる、という実感はあるのです。『天下大乱を生きる(司馬遼太郎との対談)』1977

経済大国だけではこれはもう人間は死に絶えるということになる。経済大国であるならば、それこそその力を使ってぜひ人間の国をつくろうじゃありませんか。そのことをやっぱりここの場で超党派で議論していただきたい。「第百四十二回国会参議院災害対策特別委員会会議録第六号」より1998

これが「阪神・淡路大震災」の被災地の現場に生きる、直接の死者六千数百人、以後の関連死、孤独死等の多数の死者の重みに思いを致しながら、今なお被災の苦しみの中で生きる私たちの、皆さまがたに対する心からの訴えです。「私たちの訴え」1999

彼(三木清)の言う修辞学というのは、つまり社会を分析するんじゃなくて、社会をいかに動かすか、いかに変えるか、というような手だてとしての学です。そういう修辞学がわれわれには欠けているということを三木氏は力説しているんです。『対話篇(中村真一郎との対談)』1973

絶対的被害者と絶対的加害者のあいだに、無数の「被害者=加害者」が存在する。それが「被害者=加害者」の全体のかたちです。そう全体のさまを見すえることで、自分の責任のありどころもはっきりする。『ひとりでもやる、ひとりでもやめる―「良心的軍事拒否国家」日本・市民の選択』2000

「われ=われ」が「長いものに巻かれる」のは仕方がない。しかし、「長いものに巻かれながら巻き返す」 −私たち、「人間みなチョボチョボや」の「われ=われ」の生きる道はそこにある。いや、たぶん、そこにしかない。『随論・日本人の精神』2004

「共生」の英語訳として私が考え出したのは「co-habitance of different values」ですが、ちがった価値、居住環境をもつ一方、人間が「共生」する。その一方人間のいろいろな価値を対等・平等に保障する。それが民主主義です。『ラディカルに平和を問う』2005

今でも、「公共」とか「安全」の名を借りて、暴力的な政策が横行しています。しかし、そもそも「公共」とは、政府と同義ではありません。そして、政府の構想に対する賛成・反対は別として、政府が出してくるものだけが、「政策」ではありません。『ラディカルに平和を問う』2005

私の「反戦」の根拠には、いつもふつうの市民、「小さな人間」の現実的な認識、思考が根にある。「大きな人間」は幻想で生きられるかも知れないが、「小さな人間」は生きられないからだ。「私の「反戦」の根拠」2006


人格は国家によって主権者として成り立つ、というヘーゲル的な考え方が根底にある。

「現代の民主主義は一般に、国民(people)が選挙で代議士を選ぶ、代表制民主主義として考えられている。しかし、代表制は民主制とは異質である。モンテスキューが言ったように、代表制は寡頭制の一種にすぎない。そのため、代表制民主主義は寡頭制に帰着する。実際、日本の代議士の有力者はほとんど世襲的である。だから、民主主義が活きて存在するためには、代表制でないような直接行動、すなわち「動く集会」がなければならない。個々人が主権者として、自らを代表する者として登場しうるのは、匿名選挙ではなく、デモにおいてである」
(柄谷行人)

帝国は、グローバル資本主義にたいする抵抗のデモを民族主義とみなし、禁止できるとでもいうつもりなのか?





マルグリット・デュラス
人間の真理を免れているというだけで、欲望も、人間の特徴ではない狂気も免れてはいない神々 (モーリス・ブランショ「破壊する」)



ジェイムス・ジョイスの「ユリシーズ」のテレマコス挿話における<マーテル塔>は、近代のいわば'外界なき'前衛精神の決定的勝利を意味していたといわれる。言い換えれば、<マーテル塔>は、「ユリシーズ」が書かれた1920年代ヨーロッパ知識人の特権的な場所をあらわしていたというのである。ところで柄谷行人の、(最近は佐藤優の)、特権性はただ彼らが「資本論」を読んでいる、あるいは解釈できるということに由来するのだが、かくもこのような日本知識人の「資本論」の他に依るべきテクストが無いという特権的読みが<マーテル塔>的にみえてしまうのは一体なぜなのだろうか?なににしてもジャック・デリダの本を読む大前提として、近代ヨーロッパのエクリチュールの思考としての基底に、ギリシャ語とラテン語が存在したことを知らなければならない。同様に、東アジアが思考を獲得するためには、原初的テクストを読む漢字文化圏として成立しなければならなかったのである。近代の<読み>が"外界' の排除として始まったことは何を意味するのか?近代の<読み>にとっては、古代ギリシャ語・ラテン語、そして漢字、から与えられるエクリチュール性が二次的なものとして配置されてくる。結局ジョイスを除いて二十年代前衛芸術家達は、声の故郷、ファシズムへ傾倒した。現代アイルランド人の判読できない古代ケルトに遡ると想定されたゲール語で唱える知識達人はマーテル塔から資本主義の問題を分析してみせる。それは、「資本論」だけに依るとしながらそこに記述されてはいない国家や民族の役割を心の中に書かれた文字(=声)に従って読み出す柄谷の姿とかわらない。エクリチュールの外部性をいうデリダの問題提起は、ゴダールの仕事に分かりやすくみることができる (シナリオ=声の内部から外に出る映像のエクリチュール性)。柄谷の言うように本当に、この路(帝国=声)しかないのか?この路の内部に他の路が存在しければ最悪の映画をみるだろうという危機感
"The journalists at Charlie Hebdo are now rightly being celebrated as martyrs on behalf of freedom of expression, but let’s face it: If they had tried to publish their satirical newspaper on any American university campus over the last two decades it wouldn’t have lasted 30 seconds," writes Op-Ed columnist David Brooks.


植民地主義とは法律の権力で植民地国民族資本の成長の条件を奪い尽くすことだった。殆どの国は政治的な独立後も経済的に依存し続けている。ロンドンではパリと同様に移民が大きな割合を占める。なぜ移民を受け入れるのか、そもそもなぜ来るのか、と、目の前の現実だけを見る無知には差別がみえてこない

21世紀は民族の問題は無くただ市民の問題しかない

啓蒙思想のヴォルテールは、ローマ文化の優位性は映像の多義的解釈にあると言いました。ところで風刺画というのは、フランスの言論の自由の歴史の一部だったから、常に民主主義と一体の問題として構成されてくるものです。今回の風刺画の問題は、社会秩序の維持と表現の自由という人権の間のバランスの問題として決着がつくでしょうが、単純ではありません。この種の問題はフランス一国を超える問題としてあることを隠ぺいできないからです。これは潜在的にヨーロッパ全体の問題、ヨーロッパの動乱の問題に関わります。そこでこの事件を契機に、ただし抽象的な全体像から、ヨーロッパの中の他者を考えています。映像の解釈は、<一義的>か<多義的>なのか?と、まるで世の中がやっと、映画世界のゴダールの問題提起に追いついてきたかのようです。だからこそ、<一義性>でいわれる意味は重要ではありません。寧ろ<一義性>の言説が、それを繰り返し言う者に触発する政治的な意味の方を読むべきなのです。このときヨーロッパの中の他者において、<一義性>とは全く正反対の<多義性>のアナーキーが意味されていることを見逃せません。他方、「リベラル」という名のもとに映像の多義的解釈を言うものは、その内容とは全く正反対の、一義性のヨーロッパ帝国ー文化的の同化主義ーを政治的に求め始めてきた可能性もあるのです。(ヨーロッパの中のイスラムは彼らがヨーロッパの知を与えた歴史ーギリシャとローマの学問ーを知っているためか、近代国家の同化主義の方向に有り難く行かないようですが。) 結論は、21世紀は民族の問題は無くただ市民の問題しかないということ。私の全体的な観察では、昨年のスコットランドの独立運動にあらわれてきたように、ヨーロッパの動乱の問題の根底に、ワールドキャピタリズムから必然的に生じる<帝国>化の包摂に巻き込まれまいと抵抗していくグローバル・デモクラシーの問題があることはこれまで指摘して参りました。



コミュニケーションのための風刺画の利用も、あまりもステレオタイプに描かれると、情報の客体の側におかれてしまい、話ができなくなることはありますね。(日本の女性は国内で日常的にこういう目に合っているのだときがつくのですけど)。ルモンド紙の風刺画はなにか思考の自由があるというか、私は好きだった時期があったのですけど、(イギリスのはもっぱらグロテスク!)フランスの現在は風刺画もさまざまあるとおもいますが、もともと言論の自由と結びついていたという歴史があるので、重要な問題でしょう。たしか、啓蒙のヴォルテールがローマの文化の優位性を映像の多義性をみとめる点に求めていました。ロンドンのユダヤ人の友人が冷ややかに「おまえはなんというあほな本を読んでいるんだ」と注意されましたが(汗)

ゴダール映画への関心からフランス語の必要性を感じ勉強を始めたのでしたが、結局独学ですから大したことはないのですが、数年前かれの生まれ故郷(現在住んでいる)スイスのロール駅を通過したときに駅員のアナウンスのゴダールのような訛りをきいたとき、感無量でした (笑)。後に、恵比寿時代に引っ越した時、たまたま、細々と小作品のドキュメント映画をつくっていた隣人のフランス人のもとで、トリフォーの「野生の少年」の脚本を利用して教わったことがありましたが、思いかえすと、この時代のフランス語が一番幸せだったでしょうか。ダブリンに滞在していた時代に、そのかれから人手不足のパリのスタジオに呼ばれたときでしたが、そこにジャン・クロード・カリーエルが友情出演でナレーションをするために来たのはまさかと驚きました。かれの化け物というか重厚な雰囲気に圧倒されてしまい、あまりにも緊張してしまい、(何年間も英語圏にいたのでフランス語が消滅してしまったかのように口から出てこないこともあって)、「わたしのママンがブニエルとあなたの「白日夢」が超大好きで、子供の時でしたけれど、その母につき合わされて何度もドキドキしながらテレビでそれを見ました」、と、フランス語で本人に伝えられなかったのがほんとうに残念で一生の後悔です (爆)。

アイルランド人の圧倒的多数は1970年代のEU加盟まで自らをヨーロッパ人とは考えていなかったといわれますし、'ケルトの虎'と呼ばれた経済成長のスローガンをきくまでは殆どの人はケルト人という言葉も聞いたことがなかったでしょう。現在多くの人々はツーリズムの言葉 ('ケルト人')を迷惑に思うし、知識人は危険な文化論的な人種概念を批判的に読みってきました。ヨーロッパ人とも思っていなかったし、ケルト人なんかは知ったことじゃない!ところが、('豊か'となった現在はもはやタブーの記憶に属するのですが、) なんと、1950年代のアイルランドは、自らを最貧困の韓国ともっとも同一化していたというメディア研究の報告もあります。東京にいますと、会話の中で、ヨーロッパは植民地主義の客体とはならなかったという根強い思い込みに遭遇しますが、そんなことはありませんよ。二十世紀のアイルランドが決定的な例外です。アイルランドのことをかんがえると、ヨーロッパはヨーロッパ自身を植民地化していった歴史がみえてくるのです。'植民地主義は自らを植民地化していく'、のですね。大変興味深いのは、というか、アイルランドにおいて圧倒されてしまうのは、獲得できないときもまだ失うことができるとするほどの喪失感は、どんな国のどん底の人々への驚異的な共感となっていったことです。現在では稀ですが、これを貫く知的ボヘミアンたちは存在しています。人間の想像力が生み出す根拠のない奇妙な同一化の毒がわからなければ、やはり文学は楽しめないのじゃないだろうかとおもうのですね。ジョイス「ユリシーズ」は、古代イスラエルとイギリス植民都市との、またギリシャ神話との、奇妙な同一化という側面をもっています。(ただ入門的な解説本がいうようには同一化することは無理がありますがね。平行線はもっと屈折しています。) 話が長くなりましたが、「ユリシーズ」の冒頭、テレマコス挿話は、二百年前のナポレオン海軍を迎え撃つために建てられた要塞、マーテル塔を舞台にして始まります。が、なぜここを舞台にする必然性があったのか?18挿話のうちどの挿話が最初にきてもよかったのだと指摘する人もいます。そうかもしれません。本当の理由はわかりませんが、とりあえず、1920年代のパリのカフェに集まっていたボヘミアンの文学者や前衛アーチストや自由精神の知識人を真似た、アイルランドのカフェ、みたいな流行を追った場所をとったとかんがえてみたらいかがでしょうか、はい

人間は、ある時は田畑の実りを喰らいつつ光り輝いているが、ある時には木の葉のごとくはかなく滅び去る。……ホメロス『イリアス』XXI 464(遠矢を射るアポロンの言葉。)

οἳ [βροτοί] φύλλοισιν ἐοικότες ἄλλοτε μέν τε ζαφλεγέες τελέθουσιν ἀρούρης καρπὸν ἔδοντες, ἄλλοτε δὲ φθινύθουσιν ἀκήριοι. Hom. Ilias XXI 464.

【1月6日】

 日銀の追加金融緩和など、一連のアベノミクス効果で進んだとされる円安ですが、東京外国為替市場で初めて1j=200円を切ったのは1981年1月のこの日です。

 ニューヨーク、ロンドン外為市場では円が急騰、1j200円台を割り込み、198円となりました。ちなみに73年2月に固定相場制から変動相場制へ移行した当時の対ドル円相場は1j=約300円でした。


昨年末の選挙の結果がモノをいうこの危機的な年に、改めてもういちど自分のことをを考えるために、小田の言葉をここに書いていこうと考えています。これにかんして、2012年7月に行われらた小田実生誕80年没後5年記念シンポジウムでスピーカーだった子安氏が小田実の「小さな人間の位置から」から幾つかの文章を引いていました。ご言及なさっていた「自由からの逃走」のフロムとの共通点があるかもしれませんね。
1、デモス(demos)とクラトス(kratos)という言葉で、デモスは民衆、人々、いわば小さな人間なのです。それからクラトスは力です。「民衆の力」というのがデモクラシーなのです。(子安;民主主義は民衆あるいは小さな人間が力を発揮することだということをよく覚えておきたい)
2、民主主義というのは、しゃべることによって成立する。言っておくけど、これはローマにはありません。ローマとギリシャを混同しないでください。ローマには民主主義はありませんからね。ただ選挙をしているだけ。日本と同じです。(子安;われわれは選挙を民主主義だと思っているけど、小田はそれはローマと同じだというのである。)
3、日本は天皇制近代国家であって、民主国家じゃなかった。特異な国なんですよ。普通、近代国家には民主主義がついているのだけれど、これを省いて天皇制近代国家をつくった。これを忘れてはいけないです。だからローマが好きなんだよ。いまだに大好きじゃない。(子安;近代天皇制国家の理念的な枠組みは漢学者が作った。小田的に言えば、「日本人は古代中国が好きなんだよ」)
4、われわれはすぐ、国家、国家と優先するけれども、市民を殺す国家なんて捨てていい、向こうへ寝返ってかまへんとアルキビアデスはいうわけです。私はそうやって国家と市民は平等だと思って生きているけど、皆さんも、そうやって生きてくださいよ。(子安;孔子も「道行われず、筏に乗りて海に浮かばん」といっている。悪政の邦に仕えることは君子ではない。海に浮かんで東方の邦にでも行こうよ、といっているのである。)
4、(べ平連の運動は虫瞰図の運動だ。) 虫は、はじめから地を這ってる。地を這いながら、われわれは否応なしに現実にいるわけ。同時に、目は上を見ている。目は無限の自由じゃないですか。はるかに自由な運動です。虫の視点でジーッと見る。認識というものが、非常に冷然と現実を見極める。これは非常に大事なのです。(子安;これは小田以外のだれにもいえない言葉である。小田が言う通り「これは非常に大事なのです」)

ひとりでも(君が代が鳴ったら立つということを)やめるということが大切。ひとりでやめたらいいのよ。何も組織しなくても。「べ平連とは、脱走兵救助活動とは何だったのか」1998

常備軍(miles perpetuus)は、時とともに全廃されなければならない。(カント) Stehende Heere (miles perpetuus) sollen mit der Zeit ganz aufhören.

" Je crois que c'est ça que je reproche aux livres, en général, c'est qu'ils ne sont pas libres. On le voit à travers l'écriture : ils sont fabriqués, ils sont organisés, réglementés, conformes on dirait. Une fonction de révision que l'écrivain a très souvent envers lui-même. L'écrivain, alors il devient son propre flic. J'entends par là la recherche de la bonne forme, c'est-à-dire de la forme la plus courante, la plus claire et la plus inoffensive. Il y a encore des générations mortes qui font des livres pudibonds. Même des jeunes : des livres "charmants", sans prolongement aucun, sans nuit. Sans silence. Autrement dit : sans véritable auteur. Des livres de jour, de passe-temps, de voyage. Mais pas des livres qui s'incrustent dans la pensée et qui disent le deuil noir de toute vie, le lieu commun de toute pensée. "
Marguerite Duras , Écrire ,1993

「全体主義国家」と「ファシズム」を区別できていますか?

(東西ドイツの壁の崩壊、ソビエト終焉の後のネオリベのグローバリズムが全面的に展開してくるのが90年代からですが、ここではドゥルーズ&ガタリが80年代に行った分析を紹介いたします。1920年代から説明しているのは大変参考になります。「資本主義の公理が定理的命題でもイデオロギー的公式でもないのは明らかである。資本主義の公理はむしろ操作を行う言表であり、「資本」の記号論的形態を作り、生産、流通、消費というアレンジメントの中に構成部分として入っていく」と書き始めてこう語っています)
「第一次世界大戦後、世界恐慌とロシア革命の影響を統合し、資本主義は、労働者階級、雇用、組合組織、社会制度、国家の役割、国外市場と国内市場に関して、公理を多様化し新しく発明することを余儀なくされた。ケインズ経済学、ニューディール政策は、公理の実験の場だった。第二次世界大戦後に創造された新しい公理の例。マーシャル・プラン、援助や借款の形態、通貨システムの変形。公理が増加するのは発展期や復興期だけではない。諸国家との関係において公理系に変化をもたらすのは、国外市場と国内市場の区別と両者の関係である。特に公理が増設されるのは、国外市場からの要請と平行して統一国内市場が組織されるときである。若者、老人、女性などに対する公理。きわめて概括的に「社会民主主義」国家と言われる極は、投資の領域や利益の源泉に関する公理の創設、添加の傾向によって定義されよう。問題は、自由か制限かでも、中央集権か地方分権かでもなく、流れを制御する仕方である。社会民主主義国家の極において流れは、指導的公理の増加により制限される。資本主義においては、これに劣らず反対の傾向も観察される。公理を除去し、引き算する傾向である。支配的な流れを調整するきわめて少数の公理だけに制限し、その他の流れは、結果から派生したものと位置づける(それは公理から生まれる「定理」により決定される)。あるいは、野生状態に放置されるが、放置されるとはいえ、いつ逆に国家権力の凶暴な介入をこうむるかもしれない。これは「全体主義国家」の極であり、公理の数を制限する傾向を体現し、国外資本への呼びかけ、原料や食料の輸出に向かう産業の飛躍、国内市場の崩壊など、外的部門
だけを重視することによって成立する。全体主義国家とは、国家としての最大値ではなく、むしろヴィリリオの公式通り、無政府ー資本主義の最小国家(チリの例)なのである。極端な場合、保存される公理は外的部門の均衡、備蓄の水準、インフレ率だけとなり、「人口はもはや与件ではなく、結果となってしまう」。野生状態の展開は、とりわけ農村人口の流出やと都市のスラム化などの現象に見られる雇用の変化として現われる。ーファシズム(「国家社会主義」)の場合は、全体主義と区別される。国内市場を押し潰すことと公理の縮小においては全体主義と同じでも、外的部門の重視は、国外資本への呼びかけや輸出産業によってではなく、戦争経済によって行われ、この経済が全体主義には見られない国外侵略や資本の自立的形成へと導くのである。この場合国内市場は、補充物資の特殊な生産によって形成される。こうしてファシズムは公理を繁殖させることのあり、しばしばその経済はケインズ経済学に近いものと見なされたりした。ただしこの場合の公理の繁殖は、虚構のもの、あるいは同義反復だり、引き算による倍化であり、これによってファシズムは非常に特殊な一例となる。」(宇野邦一その他共訳)

最後にこのように結んでいます。「「決定不可能といわれる命題に直面したり、もはや制御できず、必然的に自分を上回る力能と対決することが、公理論の特徴なのである」「だからわれわれが「決定不能命題」と呼ぶものは、どんなシステムにも必ず存在する。結果の不確実性ではない。反対にシステムによって接合されるものと、それ自体連結可能なさまざまな逃走線にしたがってシステムから逃れていくものが、同時に存在すること、分離不可能であることをいうのである。決定不可能なものはこうして、何よりも革命的決定因の萌芽であり、場なのである。世界規模の隷属システムとしてハイテクが思い浮かべられるかもしれない。しかしこんな機械状隷属にさえ、あるいはここにこそ、決定不可能な命題や運動が溢れているのである。このような命題や運動は、技術に誓いを立てた専門家の知に委ねられているのではなく、「ラジオになること」「エレクトロニクスになること」「分子的なものになること」といった万人の生成変化に武器を提供するものなのだ。これらすべての決定不可能な命題を通過しない闘争は存在しない。すべての闘争は、公理系による接合に対して、革命的な連結を構築するのである。」


もはや先生にとっては「日本の思想」は決着がついてしまった本で論じるに値しないので、現在、再び丸山的に考えはじめたほかの思想家を取り上げようとしているようにおもいます。たとえば、柄谷は「日本を精神分析する」というようなことを語ってきましたし、そういうタイトルの本もあります。私の理解で恐縮ですが、深層を指示することによって日本を実体化してしまうような文化論的言説は、子安先生の<方法としての日本>と対立するとおもわれます

「日本の思想」は大変強力な本で少なくとも二回か三回は読んだはずですが、あの怒り方からすると子安先生の方も相当熱心に読んだ、あるいは読まされてしまったにちがいないといまさら気がつきました。一応「日本の思想」のモダニズムと戦後民主主義の方向をみとめてしまっては、江戸という近世と大正という近代に立ち返ってこれらを読めなくなくなるという学問的なことがあるでしょう。先生の場合、本を読むときに、その書き手の視点とは別の視点を持てなくなるような<この路しかない>の如き体制を激しく警戒します。(居酒屋の話で時々きいた話では)、当時かの丸山は覆すことのできないほどの絶対的権威だったらしくて、どうしても言葉で覆すことができないとしたら、そういう権威に暴力を行使することがゆるされるのだとおっしゃっていました。これは、渡辺一民先生と共有しておられる、戦争に行く軍国主義を体験された知識人の恐怖心からくる切実なものではないだろうか、と最近かんがえています。子安先生も石井先生も大事な本を書いていらっしゃるのに、と、本当に悔しい思いにかられるときがあります。その点でも、売れる売れないというお話は、例の「青土社」の売ることを第一義的に重視した方針に転換したことを新たに発見し新たに怒るという正月の挨拶のようなものかも?肝心な点は、買われることから独立している<悪>の思想史(!)を粘り強く続けていく、引退はしないぞという意志を表明したご抱負と頼もしく理解いたしました。(ヨーロッパから「悪」とみなされてきた、所謂イスラム過激派の動乱 ーワールドキャピタリズムと帝国化に穴をあけていく嵐的存在としてのーにたいするクライ'大菩薩峠的な'共感がちょっぴりあるんじゃないかなどとこちらで勝手に深読みしている次第であります。どうせ精神分析的に分析するなら、禁じられしたがって忘却されていったアナーキズムを欲望する世の中の無意識とか?)

「政治を封印し、政治を隠した超〈政治的〉な選挙による安倍自公政権の大勝によって、政治への市民の意欲を失わせるような〈非政治的〉〈反民主的)な状況がもたらされた。これこそ全体主義者安倍の狙っていた日本の社会状況かもしれない。
この〈非政治化〉された日本の社会状況を精神分析家は、「何となく肯定、変わらない日本」といったりする。精神科医の斉藤環は先の選挙結果について、「別に安倍さんが尊敬されてるわけでもないし、憲法改正とか安全保障政策に共鳴しているわけでもない。現状維持がなんとなく支持されたにすぎません」といい、その上でこの何となく現状を維持しようとする日本社会について、「日本社会を近代市民社会に変えることは、とてつもない難事業と言わざるを得ません。この社会の異様なまでの柔構造ゆえです。表面だけ追随しても深層は一切、変えないための柔軟さを日本人は持っているのです」といっている(朝日、1.10.)。
このしたり顔の日本社会の精神構造論的分析が問題なのは、安倍が〈政治的〉にもたらした日本社会の〈非政治的〉〈反民主的〉な現状の危機を、日本社会の構造論的な問題の中に解消してしまうからである。これはいつでも戦後の日本知識人が運動の反動期にしてきた知的退行の言説である。丸山真男の『日本の思想』はこれを代表する。日本の無思想性、歴史の無構造性を構造論的に説いた『日本の思想』がこの種の構造論の代表であるのは、斉藤の上のような議論が丸山の反復でしかないことによって知れる。
日本の無思想性をいう『日本の思想』といった人をバカにした本をなぜ売りまくるのかと20年前、これを刊行する岩波の編集者にいったことがある。それに対して彼は、「売れる本がいい本なのだ」と答えた。彼は異端的編集者であったが、事態の真相をちゃんと知っていたようだ。数日前、早稲田通りのこれも〈したり顔〉の新刊本の本屋で、〈絶対的名著〉という広告を付して丸山の『日本の思想』を棚に飾っているのを見た。これを見て私は呆れかえった。日本の出版社も本屋も一生懸命に〈日本の無思想性〉を日本人に信じ込ませようとしているようだ。これは安倍が政治的にしていることを、日本人の宿命的精神構造として受容させることではないのか。その丸山が売れ続ける日本の知識世界とは、まったくおかしなところだ。
ついでにいえば、あの〈したり顔〉の早稲田の新本屋には私の著書など一冊も置いていない。「売れない本は悪い本」だからだろう。」子安氏

予定(一月十日)

クレー

「全体主義国家」と「ファシズム」を区別できていますか?
・英語
・フランス語
「ダダ」と「シュールレアリズム」を区別できていますか?
・日本語
・英語
・フランス語

ジョイス「テレマコス章」

注釈;フーコ「言葉と物」

「帝国」と21世紀の資本

エピクテトス

・スープ劇場見学
・思想史教室、幸徳秋水

23, Feb

ドゥルーズ、付録と結論
デリダ、参考文
フーコ(序)

・朗読劇
・研究生公演
・論語x2、思想史(大杉栄?)

三月
・旅
・書評; 伊藤仁斎

2015年

グローバルデモクラシーの思想史
注釈;ジョイス1、2、3
注釈;フーコ;序、7、8、9、10
(大正論10+X、伊藤仁斎+論語塾)
(劇評、音楽・オペラ評)
ゴダール文と映像の研究
油絵 x4
ポスター
旅x2

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1 月 2015年 言葉と表現と射影のブログ/BIGLOBEウェブリブログ
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