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zoom RSS 2015 一月 (2)

<<   作成日時 : 2015/01/14 23:45   >>

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「二十一世紀の資本」に書いてある話は当たり前とおもうのですけど、世界資本をコントロールできる単一の超国家的連帯が困難だと予言している一文を読むときに、ここで私をとらえるのはつぎの問いです。つまり単一の超国家的連帯が不可能ならば、それにかわるものは何だろうかという問い。その答えは、現在進行中の、地球市場の文化帝国主義的「帝国」の分割、にあります。この方向に沿った<一的>多様化は後戻りしないようです。この聞きなれぬ<帝国>という言葉は、柄谷行人が昨年から言い出した言葉ですが、かつての貴族を中心とした帝国 (例、神聖ローマ帝国とかハプスブルク帝国とか)、また国家を中心とした帝国主義 (例、大日本帝国)の「帝国」のことではありません。柄谷の「帝国」は文化帝国主義の「帝国」に近い意味です。さてどういう文化がどの帝国に振り分けられるのか?('芸術としての政治'のナチスが文化的に対抗しようとした)「ハリウッド映画」、(欧米に対抗する)「新儒教」、ポスト・コミュニズムの「皇帝」、(自らの排他的他者を野蛮に指定し自らを文明として定義する)「表現の自由」は各々、米国、中国、ロシア、ヨーロッパの帝国に振り分けられているようです。一方アラブ諸国は全然連帯できないままですー風刺画に描かれた統一のステレオタイプのようには。(お好み焼き的にこれらの諸文化のゴタ混ぜを構成していきそうな亜周辺のニッポン列島のほうは、TPPと集団的自衛権のプレゼントを抱えて、そのままアメリカ帝国のブラックホールのなかへポイか?)。各々の帝国は互いに競い合う資本主義を基底にもっていますから、各々の文化は互いに他に対して敵対的に対立の関係に。二一世紀の動乱は例外なく、帝国の内部で、世界資本主義の不均衡から起きてくるグローバル・デモクラシー (アラブの春からオキュパイ運動、台湾と香港の運動) に構造的に関係した運動であるとかんがえています。そしてこの運動は「でもくらてぃあ」(小田実)と呼んではならぬ理由は無いでしょう。
社会主義を国家の中心に包摂しないという意味で、'脱領土化'した思想と思想の出会い、つまり、幸徳秋水のアナーキズムの思想と小田実の市民の思想の関係こそは、リゾーム的。子安氏がいうように、思想史的脈略(樹木)は問題ではない。それがいかにワールドキャピタリズムに対する抵抗の言説を構成するかが大切なのだから




なにか、特定の読者を超えた範囲の、あまりにもみんなが望んでいる絵を描かされているような感じがしてしまうのですが。映像の量が少なく言葉が多すぎるようにおもうのですがね。その結果、メッセージ性がストレートで、映像(風刺)に、思弁的理性に付け加えるものがない。わたしだったら、ボードをもっている預言者のほかに、これを見ている本人自身がいて、さらにまわりでいろいろな立場の多くの人々ー政治家たちーが見ているという絵にしますが、これだと複雑すぎて商売の絵としてまったく受けないでしょうけど(笑)。


もし3・11に、あの小田実が生きていたら一体何を言っただろうかと常に考えますが、かれは阪神大震災を契機にラディカルに国家批判を展開していきました。2015年の現在、ここから、子安氏が、幸徳秋水の直接行動の思想性を読みかえしたことは非常に意義深いと思います。小田の言葉は幸徳の言葉として構成しているようにおもわれます。二月はアナーキズムの大杉栄の講義が予定されています。 3・11のときは、(マスコミが3か月間無視した) 反原発の数百人から始まったデモを撮ったビデオと一緒に、関東大震災のときに殺害された大杉栄について書いた自前の小説をtwitterで憤りをもって流しました。私の中では、なにもかも国の災いは民の責任にあるとばかりのマスコミの徹底した無視が、二十年代の国家による大杉の殺害と重なり合ったからです。(このとき、ネット上で子安氏が劉暁波について発言していることを知りました)、あらためて思想史の大杉の可能性を考えてみようとおもいます。(早稲田大学の市民講座の参加は自由。レジュメのコピー代要)


「直接行動論」とは民衆・労働者の〈パンの要求〉という〈直接性〉に立った社会主義的運動を意味するとすれば、「直接行動」とはこの社会主義運動の戦略性を規定する思想だということになる。フランス革命もパリ・コンミューンも民衆の〈パンの要求〉の直接性に立った蜂起であり、占拠であったであろう。だが蜂起を扇動し、指導する人間の作る権力機構・組織はこの〈パンの要求〉を占取し、間接化し、そして裏切ってしまうのである。クロポトキンはいっている。
「仏国に現出せし平民の三大運動は、多くの点に於いて互いに相異なっているのだが、而も彼等は一個共通の現象を有している。・・・多少誠実な人々が寄合って一個の政府が出来上がった、而して団結統一を試みたー一七九三年には共和国を、一八四八年には労働者
を、一八七一年には自由コンミュンを。然るに此の政府も、ジャコバン党人の思想に浸染かぶれて万事を差し措き専ら政治問題のみに打ち掛っていた。即ち政治機関の改造、行政の刷新、政教の分離、公民の自由権というが如きである。成程当時労働者の倶楽部が新政府の諸員を監視し、其の意見をもて督励していたのは事実である。而も此等の倶楽部に於いてすらも、其の首領が中等階級に属せると、労働階級の出たるとを問わずして、其の勢力を占むるの思想は、常に中等階級のそれであった。彼等は長々しく種々の政治問題を討議した。而も麺麭パンの問題を討議するのを忘れていた。」(幸徳訳『麺麭の略取』)


なぜ美術館は存在するのか?

フランスの美術館の絵の数に圧倒されます。ルーブル美術館での空港並みのチェックのとき、「なぜ美術館は存在しているか?かつては帝国が自らの力を示すため、現在は(その帝国を打ち倒した)近代国家が自らの力を示すため」と苦々しく悟ります。21世紀は「帝国」が自らの力を示すために、ということになっていくのでしょうか?(ちなみに、柄谷の「帝国」は、帝国主義の「帝国」を言おうとしているのではなく、イデオロギー的な文化帝国主義のこと。例えば、「表現の自由」がヨーロッパのイデオロギーとして人権とは別の新たな意味を持ちはじめてくるのか、アジアの「新儒教」のように?) さて芸術の歴史感覚をもったフランスの充実ぶりと比べると、ロンドンの美術館の数はみすぼらしいものと感じます。が、驚くほど出入りに関しては自由なのです。(2005年のテロのときは検査を敷きましたが厳重なものではありませんでした。) 多分ナショナル・ギャラリーもルーブルと同じ目的で存在していますが、街道を歩く感覚で内部化された長い廊下に沿って絵をみるのは、無責任な旅での散歩の、視線が観念に先行する如きゆるふわ感。絵の解説も工夫されており独立した価値をもつとおもわれるほどです。(いまでこそカラバッチョはレンブラントやフェルメールなどのバロック絵画の巨匠とされていますが、ロンドンにいる間、実はかれの評価は戦後からだったということを知って吃驚しました。評価が分かれていたカラバッチョの絵の意義を見出し積極的に買っていたのは、ナショナル・ギャラリーでした。) そうして散歩しながら、映像から言葉へ行きます。思考に常に映像が介入してくる散歩は、イメージの注釈学を歩くと喩えましょうか。絵が映像の無次元空間を解き放つ悦びですね!スピノザは肉体が滅んだあとも魂(心)は完全には消滅しないといっていました。物をみる精神として残るものは残ると。絵を見る批判精神は常につくられていくー美術館はなぜ存在するのかという問いのように


スイス・ショック

21世紀は、政治的な動乱だけでなく、金融の大変化も、ワールドキャピタリズムの動きから起きてくるのだろうとおもいます。小国スイスの自国通貨を防衛する決定はそれほど不合理なものではなかったとみる意見もあり、同意見です。さてスイス・ショックの影響を注目していますが、(スイスとは反対の方向で)、一国だけで自国通貨を維持できるのだろうかとFTが本気で心配している小国が、イギリスですね。そういうことをかんがえると、世界金融体制のイギリスとフランスの決定権が彼らの実力からすると大きすぎるので、たとえばIMFの本部がアジア、中国に置かれていくことは時間の問題といえるでしょうか。


魂(心)の不死 ー カントはいかに考えたか?

パリでのあの巨大な追悼デモは、「敵」(ヨーロッパの排他的他者イスラム)をペンで殺した魂の不死を祀る靖国的なものを感じました。遠い国での出来事のようにはおもえません。国旗をみて正直嫌な気持ちになりました。が、いくらあれほどの大人数で祀っても、結局は、死者の魂(心)は散逸して消滅してしまうものでしょう。ところで憲法を住処した魂(心)も存在します。しかしこちらの魂(心)が不死とならなければならない理由とは一体何でしょうか?一考の価値あり。この点にかんして、憲法は自己の道徳法則としての完成を、過去の魂(心)に委ねるだけでなく、現在・未来の魂(心)にも委ねていますね。国家がつくる排他的他者との戦争。愚かにもこれをくりかえさないような平和の理念がなければわれわれはやっていけません。だから、憲法の平和原則こそは、永遠に時間がかかっても実現する価値ある理想にちがいありません。これが、現実(例、戦争)と理想(例、平和)のギャップを無限に埋める責任を果たすために、魂(心)が不死とならなければならない根拠です。私の理解では、多分カントはこういう風に考えました。ここでパリの話題を利用して魂(心)の不死について書いたのは、自民党案がこのことに関係した憲法第97条の削除を求めている現実を知って欲しいからです。安倍自民党はアベノミックスだけじゃありませんよ。日本人は戦争の道しかないとばかり靖国の魂(心)を呼び集めるつもりでいるのです。諸君は死んでも靖国に祀るから安心して行け!などと約束して徴兵制を立法化し、もし集団的自衛権が「地球の裏側」まで行くとしたら、これは悪夢にほかなりません。(第97条は「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである」)


英米の同化政策は絶滅モデルといわれる所以は、アメリカのインデイアンの歴史をみれば説明する必要がないでしょうが、フランスの同化政策は中央集権的モデルで、私はフランス人といえば、教育を与えてやるというものです。渡辺氏に確認したところ、近代日本の天皇制はフランス型です。

絶望しきっていたら外部から働きかけてくるものもなくなりすべてが止まるとおもっていたのに、内部から働くものがのこっているようで厄介ですな。魂が絶望しきっているときに、このように消滅しきっているのに、かくも怒りが終わらないのはなぜか?虚無のすぐ隣で、冬の蠅が窓をたたくぶんぶんと叩くように、非在の逸れた原子が他の原子に衝突をおこしているから


「シャルリー・エブド」誌の問題はこれを「表現の自由」の問題に還元することは、'俺の人権をどうしてくれる'という小泉と安倍が首相の立場で靖国に行く問題をかれらの「信教の自由」の問題として容認してしまうようなゴタ混ぜではないでしょうか。かれらの独善的行動からなにが起きてくるのでしょうか?前者はヨーロッパの排他的他者イスラムに対する、後者は日本の排他的他者アジアに対する戦争の権威主義体制を推し進めることに


なぜ暴力が起きるのか?

「シャルリー・エブド」誌は、イスラム教の宗教的権威を揶揄しているのではなく、他のどの宗教的権威も揶揄しているという点を力説する意見に、「だからそれがどうしたの?」と聞きたくなりますね。ヨーロッパが自らの独善的揶揄を、ヨーロッパの排他的他者イスラムに投射したら、それこそドミノ倒しみたいに、戦争が拡大していくばかりだということを心配しているのに。
さて、揶揄された側が暴力で抗議することなく対等に対抗する策としては、言葉の交換があると思います。しかし交換が禁止されるほどの絶対的権威としたら、怒りをもって、そういう権威に暴力を行使することが起きてくることは避けられないでしょう。このような怒りは、人間の自然ではないでしょうか。フランスで起きたこの事件の教訓は何でしょうか?たとえば、揶揄される側が抗議するために対抗するメディアを持たなかったり、抗議する場所を持たなかったりする場合、揶揄する表現に法規制の可能性も検討されることも現実的な解決策と思います。が、表現の自由に抵触するかもしれないこのような法規制を、日本のように極右翼が大きな影響力をもつ立法者に委ねることに大変不安を感じます。また法規制が先行しても、人々が、揶揄された側の怒りを「知る」こと、つまり法を「知る」努力と意志を伴わないと、やはりこの問題は解決されていかないのではないかとかんがえます。



WE ARE NOT ALWAYS CHARLIE

Any caricature subject to discrimination is not caricature. It is no more than self-righteous ridicule. The pen hurts human's feeling easier than the sword. If the sort of cartoon is projected to the Europe's own exclusive others Islam,what happen next ? I say; Mars the god of war will smile with extreme-right-wing organization and merchant of death.

NOUS NE SOMMES PAS CHARLIE

Toute caricature asservie à la discrimination n'est pas la caricature. C'est pas plus que le ridicule arbitaire. Le stylo blesse l'esprit d'humain plus facile que l'épée. Si le ridicule est projetée sur Islam, l'autres exclusive de Europe soi-même, qu'est-ce qui se passent ensuite? Mars Dieu de guerre sourira avec de l'organisation de droite extrême et marchand de canons. je ne suis pas en guerre


Par example, pour la machine désirante capitaliste, la recontre entre la capital et la force de travail, le capital comme richesse déterritorialisée et la force d travail comme travailleur déterritorialisé, duex séries indépendantes ou formes simples dont la rencontre aléatoire ne cesse d'etre reproduite dans le capitalism. Comment l'absence de lien peut-elle être positive ?
Et machine désirante n'est pas autre chose;une multiplicité d'éléments distinct ou de forms simples, et qui sont liés sur le corps plein d'une société, précisément en tant qu'ils sont <sur> ce corps ou en tant qu'ils sont réellement distinct. La machine désirante comme passage à la limite; inference du corps plein, dégagement des forms simples, assignation des absence de lien; la méthode du Capital de Marx va dans cette direction, mais les presupposes dialectiques l'empechent d'atteindre au désir comme faisant partie de l'infra-structure. (...)
...si la sexualité comme énergie de l'inconscient est l'investissement du champ social par les machines désirantes, il apparaît que l'attitude vis-à-vis des machines
en general n'exprime nullement une simple idéologie, mais la position du désir dans l'infrastructure elle-même, les mutations du desire en function des coupures et des flux qui traversent ce champ.C'est pourquoi le theme de la machine a un contenu si fortement, si ouvertement sexuel.
Autour de la première guerre mondiale se sont affrontées les quarte attitudes autour de la machine ; la grande exaltation molaire du futurism italien, qui compte sur la machine pour developer les forces productives nationales et produire un homme nouveau national, sans metre en cause les rapports de production; celle du futurism et du constructivism russes, quiu pensent la machine en function de nouveaux rapports de production définis par son appropriation collective ( la machine-tour de Tatlin, ou celle de Moholy= Nagy, exprimant la fameuse organisation de parti comme centralisme dèraralique avec sommet, courroie
democratique, modèle spiralique avec sommet, courroie de transmission, base; les rapports de production continuent à la machine qui fonctionne comme <indice>)
; la machinerie molèculaire dadaïste, qui opère pour son compte un renversement comme revolution de désir, parce qu'elle soumet les rapports de production à l'épreuve des pieces de la machine désirante, et degage de celle-ci un joyeux movement de déterritorialisation par delà toutes les territorialités d nation et de parti; enfin un anti-machinisme humaniste, qui veut sauver le désir imaginaire ou symbolique, le retourner contre la machine, quitte à le rabattre sur un appareil œdipien ( le surréalisme contre le dadaïsme, ou bien Chaplin contre le dadaïste Buster Keaton)
Et précisément parce qu'il ne s'agit pas d'idéologie, mais d'une machination qui met en jeu tout un inconscient de période et de groupe, le lien de ces attitudes avec le champ social et politique est complexe, quoiqu'il ne soit indéterminé. Le futurism italien énonce bien les conditions et les forms d'organisation d'une machine désirante fasciste, avec toutes les équivoques d'une < gauche> nationaliste et guerrière. Les futurists russe tentent de glisser leurs éléments anarchistes dans une machine de parti qui les écrase. La politique n'est pas le fort des dadaïstes. L'humanisme opére un désinvestissement des machines désirantes, qui n'en continuent pas moins à fonctionner en lui. Mais autour de ces attitudes a été pose le problème du désir lui-même, d la position de désir, c'est-à-dire du rapport d'immanence respective entre les machines désirantes et les machines sociales techniques, entre ces deux poles extremes où l desire investit des formations paranoïaques fascists, ou au contraire des flux révolutionnaires schizoïds. La paradoxe du desir est qu'il faille toujours une si longue analyse, toute une analyse de l'inconscient, pour démêler les poles et degager les épreuvers révolutionnaires de groupe pour machine désirantes.


例えば資本主義的欲望機械の場合は、資本と労働力が遭遇し、すなわち脱領土化した富としての資本と、脱領土化した労働者としての労働力とが遭遇するのだが、この二つは相互に無関係な二つの系列であり、または二つの単純な形態であるが、これらの偶然的な遭遇が資本主義においては、たえず再生産される。それなら、いかにして絆の不在は肯定的になりうるのか。(・・・) 欲望機械は、区別される諸要素あるいは単純な諸形態からなる、ひとつの多様体であり、これらの要素、形態は、一社会の充実身体の上で結びつけられている。まさにこの身体「の上に」存在し、現実的に区別されるものとして。極限への移行としての欲望機械、すなわち充実身体の推論、単純な諸形態の理由、絆の不在の指定。マルクスの「資本論」の方法は、この方向に進んでいるが、弁証法的な諸前提によって、下部構造の部分をなすものとしての欲望に到達することは妨げられている(・・・)
無意識のエネルギーとしての性欲というものは、欲望する諸機械を介して社会野を備給する働きであるとすれば、機械一般にかかわる態度は、なんら単純なイデオロギーを表現するものではなく、下部構造そのものの中における欲望の立場を、社会野を貫く切断や流れに応じる欲望の突然変異を表現しているということが明らかになる。したがって、機械という主題は、じつに強烈に、また明白な内容をもっている。第一次世界大戦をめぐって、機械に関する四つの目立った態度が対立していた。まずイタリア未来派の、力強いモル的な賛嘆があげられる。これは機械を頼りにして、国民の生産力を発展させ、新しい国民的人間を生み出そうとするが、生産関係を問題としない態度である。次には、ロシア派の未来派や構成主義の態度があり、これは集団的所有によって定義される新しい生産関係に応じて、機械を考える立場である(タトリンやモホーリ・ナギの司令塔機械は、かの有名な党組織を民主的中央集権として、つまり頂点と伝道ベルトと底辺とを具えた螺旋型モデルとして表現している。生産関係は、「指標」として機能する機械の外部に存在し続ける)。次にダダイズムの分子的機械仕掛けがあり、こんどは欲望の革命として逆転をなしとげる。なぜならそれは、生産関係を、欲望機械の部品の試練にさらし、欲望機械から喜ばしい脱領土化運動を引き出すからである。国民や党といったあらゆる領土性の彼方に。最後に、ヒューマニズムの反機械主義があり、これは想像的あるいは象徴的な欲望を救いあげ、この欲望を再び機械に対立させようとし、このためには欲望をオイデプス的装置に折り重ねることをも辞さないのだ。(ダダイズムに対抗するシュルレアリスム、あるいはダダイスト、バスター・キートンに対抗するチャップリン) ここではまさに、イデオロギーでゃなく、機械化が問題なのである。つまり、ある時代と集団の無意識のすべてを作動させる機械化の働きが問題であり、これらの態度と社会的政治的領野との関係は、不確定ではないとしても、やはり複雑である。イタリアの未来主義は、まさにファシスト的な欲望機械を組織する条件と形態を表明しているが、国家主義的で戦闘的な「左翼」のあらゆる曖昧さを具えている。ロシアの未来派は、自分たちのアナキスト的諸要素を党機械の中にすべりこませようとしているが、そのような要素は粉砕される。政治は、ダダイストたちの得意な領域ではない。ヒューマニズムは、欲望機械の脱備給を実行するが、欲望機械はヒューマニズムの中でやはり作動し続けている。しかし、これらの態度をめぐって、まさに欲望そのものの問題、また欲望の立場という問題、つまり欲望機械と技術的社会的機械の間の、あの極限的二極の間の相互的内在の関係という問題が提出されていたのだ。一方の極で欲望はファシズム的なパラノイア的組織体を備給し、他の極では逆に分裂気質の革命的な流れを備給する。欲望のパラドックスとは、この両極を識別し、欲望機械にとっての集団的革命的試練をあらわにするためには、無意識のこんなにも長い分析が、あらゆる分析が常に必要であるということだ。

Deleuze&Guattari (宇野邦一訳)



Proposition 14; Axiomatics and the presentday situation
For in science an axiomatic is not at all a transcendent, autonomous, and decision-making power opposed to experimentation and intuition. On the one hand, it has its own groupings in the dark, experimentations , modes of intuition. Axioms being independent of each other, can they be added, and up to what point (a saturated system) ? Can they be withdrawn ( a 'weak-ended sysytem)? On the other hand, it is of the nature of axiomatics to come up against so-called undecidiable propositions, to confront necessarily higher powers that it cannot master.(...)
1, Addition, subtraction
The axioms of capitalism are obviously not theoretical propositions, or ideological formulas, but operative statements that constitute the semiological form of Capital and that enter as component parts into assemblages of production, circulation, and consumption. The axioms are primary statements, which do not derive from or depend upon another statement. In this sence, a flow can be the object of one or several axioms ( with the set of all axioms constituting the conjugation of the flows); but it can also lack any axioms of its own, its treatment being only a consequence of other axioms; finally, it can remain out of bounds, evolve without limits, be left in the state of an 'untamed' variation in the system.There is a tendency within capitalism continually to add more axioms.
After the end of World War I, the joint influence of the world depression and the Russian Revolution forced capitalism to multiply its axioms, to invent new ones dealing with the working class, employment, union organization, social institutions, the role of the State, the foreign and domestic markets. Keynesian economics and the New Deal were axiom laboratories. Examples of the creation of new axioms after the Second World War; the Marshall Plan, forms of assistance and lending, transformations in the monetary system.It is not only in periods of expression or recovery that axioms multply. What makes the axiomatic vary, in relation to the State, is the distinction and relation between the foreign and domestic markets.There is a multiplication of axioms most notably when an integrated domestic markets is being organized to meet the requirements of the foreign market.Axioms for the young, for the old, for women, etc. A very general pole of the State, 'social democracy', can be defined by this tendency to add, invent axioms in relation to spheres of investment and sources of profit; the question is not that of freedom and constraint, not of centralism and decentralization, but of the manner in which one master the flows. In this case, they are mastered by multiplication of directing axioms. The opposite tendency is no less a part of capitalism; the tendency to withdraw, subtract axioms. One falls back on a very small number of axioms regulatingf the dominant flows, while the others are given a derivative, consequential status ( definrd by "theorems" ensuing from the axioms), or are left in an untamed state that does not preclude the brutal intervention of State Power, quite contrary. The 'totalitarianism' pole of the State incarnates this tendency to restrict the number of axioms, and operates by the exclusive promotion of the foreign sector; the appeal to foreign sources of capital, the rise of industries aimed at the exportation of foodstuffs or raw materials, the collapse of the domestic market.The totalitarian State is not a maximum State but rather, following Virilio's formulation, the minimum State of anarcho-capitalism (cf. Chilie). At the limit, the only axioms that are retained concern the equilibrium of the foreign sector, reserve levels and the inflation rate; ' the population is no longer a given, it has become a consequence.' as for untamed evolutions, they appear among other places in the variations in the employment level, in the phenomena of exodus from the countryside, shantytown-urbanization, etc.
The case of fascism ('national fascism') is distinct from totalitarianism. It coincides with the traditional pole in the collapse of the domestic market and the reduction in the number of axioms. however, the promotion of the foreign sector does not at all take place through an appeal to foreign sources of capital and through export industries, but through a war economy, which entails an expansionism foreign to totalitarianism and an autonomous fabrication of capital. As for the domestic market, it is effectuated in a specific production of the Ersatz. This means that fascism, too, brings a proliferation of axioms. Fascism, however, is a tautological or fictious proliferation, a multiplication by subtraction; this makes it a very special case. - Deleuze&Guattari


「全体主義国家」と「ファシズム」を区別できていますか?

(東西ドイツの壁の崩壊、ソビエト終焉の後のネオリベのグローバリズムが全面的に展開してくるのが90年代からですが、ここではドゥルーズ&ガタリが80年代に行った分析を紹介いたします。1920年代から説明しているのは大変参考になります。「資本主義の公理が定理的命題でもイデオロギー的公式でもないのは明らかである。資本主義の公理はむしろ操作を行う言表であり、「資本」の記号論的形態を作り、生産、流通、消費というアレンジメントの中に構成部分として入っていく」と書き始めてこう語っています)
「第一次世界大戦後、世界恐慌とロシア革命の影響を統合し、資本主義は、労働者階級、雇用、組合組織、社会制度、国家の役割、国外市場と国内市場に関して、公理を多様化し新しく発明することを余儀なくされた。ケインズ経済学、ニューディール政策は、公理の実験の場だった。第二次世界大戦後に創造された新しい公理の例。マーシャル・プラン、援助や借款の形態、通貨システムの変形。公理が増加するのは発展期や復興期だけではない。諸国家との関係において公理系に変化をもたらすのは、国外市場と国内市場の区別と両者の関係である。特に公理が増設されるのは、国外市場からの要請と平行して統一国内市場が組織されるときである。若者、老人、女性などに対する公理。きわめて概括的に「社会民主主義」国家と言われる極は、投資の領域や利益の源泉に関する公理の創設、添加の傾向によって定義されよう。問題は、自由か制限かでも、中央集権か地方分権かでもなく、流れを制御する仕方である。社会民主主義国家の極において流れは、指導的公理の増加により制限される。資本主義においては、これに劣らず反対の傾向も観察される。公理を除去し、引き算する傾向である。支配的な流れを調整するきわめて少数の公理だけに制限し、その他の流れは、結果から派生したものと位置づける(それは公理から生まれる「定理」により決定される)。あるいは、野生状態に放置されるが、放置されるとはいえ、いつ逆に国家権力の凶暴な介入をこうむるかもしれない。これは「全体主義国家」の極であり、公理の数を制限する傾向を体現し、国外資本への呼びかけ、原料や食料の輸出に向かう産業の飛躍、国内市場の崩壊など、外的部門だけを重視することによって成立する。全体主義国家とは、国家としての最大値ではなく、むしろヴィリリオの公式通り、無政府ー資本主義の最小国家(チリの例)なのである。極端な場合、保存される公理は外的部門の均衡、備蓄の水準、インフレ率だけとなり、「人口はもはや与件ではなく、結果となってしまう」。野生状態の展開は、とりわけ農村人口の流出やと都市のスラム化などの現象に見られる雇用の変化として現われる。ーファシズム(「国家社会主義」)の場合は、全体主義と区別される。国内市場を押し潰すことと公理の縮小においては全体主義と同じでも、外的部門の重視は、国外資本への呼びかけや輸出産業によってではなく、戦争経済によって行われ、この経済が全体主義には見られない国外侵略や資本の自立的形成へと導くのである。この場合国内市場は、補充物資の特殊な生産によって形成される。こうしてファシズムは公理を繁殖させることのあり、しばしばその経済はケインズ経済学に近いものと見なされたりした。ただしこの場合の公理の繁殖は、虚構のもの、あるいは同義反復だり、引き算による倍化であり、これによってファシズムは非常に特殊な一例となる。」(宇野邦一その他共訳)

最後にこのように結んでいます。「「決定不可能といわれる命題に直面したり、もはや制御できず、必然的に自分を上回る力能と対決することが、公理論の特徴なのである」「だからわれわれが「決定不能命題」と呼ぶものは、どんなシステムにも必ず存在する。結果の不確実性ではない。反対にシステムによって接合されるものと、それ自体連結可能なさまざまな逃走線にしたがってシステムから逃れていくものが、同時に存在すること、分離不可能であることをいうのである。決定不可能なものはこうして、何よりも革命的決定因の萌芽であり、場なのである。世界規模の隷属システムとしてハイテクが思い浮かべられるかもしれない。しかしこんな機械状隷属にさえ、あるいはここにこそ、決定不可能な命題や運動が溢れているのである。このような命題や運動は、技術に誓いを立てた専門家の知に委ねられているのではなく、「ラジオになること」「エレクトロニクスになること」「分子的なものになること」といった万人の生成変化に武器を提供するものなのだ。これらすべての決定不可能な命題を通過しない闘争は存在しない。すべての闘争は、公理系による接合に対して、革命的な連結を構築するのである。」






北一輝bot
権威なき個人の礎石をもって築かれたる社会は奴隷の集合にして社会民主主義にあらざるごとく、社会主義の世界連邦論は連合すべき国家の倫理的独立を単位としてのことなり。(国体論及び純正社会主義)

北一輝BOT ‏
社会民主主義は社会の利益を終局目的とするとともに個人の権威を強烈に主張す。個人というのは社会の一分子にして社会とはその分子そのことなるをもって個人すなわち社会なり。(『国体論及び純正社会主義』)



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