言葉と表現と射影のブログ

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zoom RSS 2015 年 一月 (3)

<<   作成日時 : 2015/01/20 11:33   >>

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表象批判 ー 「言葉と物」のフーコは本当にそれほど非マルクス主義的だったのか? -

渡辺一民氏が「苦労してうまく訳した序文」と言っていたが、この序文のなかで分析されているベラスケスの「侍女」ほど、画家と<背後>の複雑な関係を表現した絵はない。ポスト構造主義の批判精神は自身の言説の依る<背後>も問いの括弧にいれたとき、この絵画に触発された。鑑賞者は三点について問う。まず知の自己抑制と、超越的な知の可知性に関して問う。画家の<背後>に何かあろうとと無かろうと画家は知るべきではないのではないか?画家は自らの<背後>を知るに至らないが、(画家が描く)王ならばその<背後>を知ることが可能ではないか?三番目の問いの切り口はこうだ。なぜ画家が、王女を照らす同じ光で「侍女」を平等に照らし出したのか?画家は、<背後>でないもの、即ち画家の眼の前に現れているもの(例、侍女)によってだけ、<背後>をうつすことができるだろうと。またそうしてみるべきなのである。(画家の前には鏡しかないという冗談を別にすれば) 画家の眼の前にあるのはこのわれわれだけだ。(室外からはいってきた偶然の光で)奥の鏡にぼんやりと映る王の姿は消えかかっているが、(近代のわれわれ鑑賞者が位置している)ブルジョア市民社会の姿によって、超越者の存在していた特権的な場所とその王の姿をうつすことができるのだろうか?これが、フーコ「言葉と物」の問題提起であった。これは非マルクス主義的な分析である。逆の方向で、常に王の姿によって侍女の姿が盗まれる危険性を、表象の盗みという権力関係を考慮していないのは、今日の非政治的な貨幣論を喚起する。だが、同時に、マルクス主義的な問いかけといえる。自ら自分の声を代表することができない人々はいかに代表するかという問題を表しているからだ。だが、同時に、マルクス主義的な問いかけといえる。自ら自分の声を代表することができない人々はいかに代表するかという問題を表しているからだ。ここで、王の姿が消失しきっていたとしたら、画家が企てる表象行為は無意味に帰す。(われわれの姿によってはじめて王の姿が現れるはずだったのに)。無意味でないとしたら、画家は中世的世界観を超えていく近代精神の知の姿を描写しているのだ。そこで根拠なき近代の人間の姿として発明されている。


Awful

' There has been some speculation in Japan that the government’s inaction leading up to the release of the hostage video was an attempt to deepen the country’s involvement in the fight against ISIS and justify its remilitarization. Since last year, Abe and his Cabinet have been pushing for a reinterpretation of Japan’s pacifist constitution under the guise of “collective self-defense” that would allow Japan to go to war with its allies. They also have announced intentions to abolish Article 9, the Japanese constitutional clause that forsakes warfare. These moves have met with widespread opposition among the Japanese but have been downplayed in Japan’s increasingly compliant media.' - THE DAILY BEAST


In Paris and throughout France, millions took to the street last Sunday in support of freedom of expression.


子曰、知之者、不如好之者。不如楽之者。

子の曰く、これを知る者は、これを好む者に如(し)かず。これを好む者は、これを楽しむ者に如かず。(孔子がこういわれた。道を知るものは、道を好むものに及ばない。道を好むものは、道を楽しむものに及ばない)

伊藤仁斎は「これ」を「道」と解しました。子安宣邦氏は「これ」を事柄一般といいます。つまり、もっと広い、人間一般の生き方の上で理解しようとするものは、「これ」をわれわれが学び、習熟していこうとする事柄一般として解してよいと評釈しています。うむ、なるほどなあ。と、ウイーンのウィットゲンシュタイン「論理哲学論考」(1918) の冒頭文を思い出した。「世界は成立している事柄の総体である」Die Welt ist alles, was der Fall ist


交渉 pourparlers

まだ平和なのか、或いは、戦争となっているのか?このようなはっきりとしない状況のなかで冷静に交渉していくことの粘り強さが求められていることだけはたしかだー地域紛争の形態である人質問題の解決だけではない。絶望的に、パラドックスと笑いのあいだに揺れはじめたぎりぎり自分自身との対話も。ほかならない、裏切りを受けて袋小路にはいった 21世紀の思想的問題との厄介な取り組みも


エピクテトス的に大杉栄は、この道(監獄)の内部の他(脱出する自身の思想)を問うた。大杉が大逆事件の無関心を非難しても、河上筆は国の弾圧が無かったかの如く教育勅語の国へ行く、貧乏から解き放たれた魂を物語る。監獄の国家が社会主義を包摂する物語。「資本論」の特権性も魂の声が刻印していく

河上筆

わたしははすなわち言う。人間としての理想的生活とは、これを分析して言わばわれわれが自分の肉体的生活、知能的生活メンタルライフ及び道徳的生活モーラルライフの向上発展を計り――換言すれば、われわれ自身がその肉体、その知能マインド及びその霊魂スピリットの健康を維持しその発育を助長し――進んでは自分以外の他の人々の肉体的生活、知能的生活及び道徳的生活の向上発展を計るがための生活がすなわちそれである。さらにこれをば教育勅語中にあることばを拝借して申さば、われわれがこの肉体の健康を維持し、「知能ちのうを啓発し、徳器を成就し」、進んでは「公益を弘ひろめ、世務を開く」ための生活、それがすなわちわれわれの理想的生活というものである。否、私は誤解を避くるためにかりに問題を分析して肉体と知能と霊魂とを列挙したけれども、本来より言わば、肉は霊のために存し、知もまたひっきょうは徳のために存するに過ぎざるがゆえに、人間生活上におけるいっさいの経営は、窮極その道徳的生活の向上をおいて他に目的はない。すなわちこれを儒教的に言わば、われわれがその本具の明徳を明らかにして民を親しみ至善にとどまるということ、これを禅宗的に言わば見性成仏けんしょうじょうぶつということ、これを真宗的に言わば、おのれを仏に任せ切るということ、これをキリスト教的に言わば、神とともに生くということ、これをおいて他に人生の目的はあるまい。しかしてこの目的に向かって努力精進するの生活、それがすなわちわれわれの理想的生活であって、またその目的のために役立ついっさいの消費はすなわち必要費であり、その目的のために直接にもまた間接にもなんら役立たざる消費はことごとくぜいたくである。
 私のいうところの必要及びぜいたくはかくのごとき意味のものであって、毫ごうも個人の財産または所得のいかんを顧みざるものである。思うに今の世の中には、かくのごとき意味の必要費を支弁するに足るだけの財産なり所得なりのないものはたくさんにある。たとえば非常な俊才で今少し学問させたならば、他日立派に国家有用の材となりうるという青年でも、もし不幸にして貧乏人の子に生まれて来たならば、到底充分に学問するだけの資力はあるまい。それをしいて学問するというのは従来の考えからいうと、それは過分のぜいたくだというのである。しかし私はそれを必要だと見るものである。その代わり百万長者が一夜の歓楽に千金を投ずるがごときは、たといその人の経済からいえば、蚤のみが刺したくらいのことで、ほんのはした金がねを使ったというだけのことであっても、もしかくのごとくにして一夜の歓楽をむさぼるということが、ただにその人の健康に益なきのみならず、かえってその人の徳性を害するというだけの事であれば、私はそれを真にぜいたくだというのである。

aux yeux nuls pareils au miroir, de l’hôte, dénué de toute signification que de présence.

Mallarmé

鏡の如く虚ろな目をして、そこに現前するという以外の如何なる意味をも失った顔である。



幕藩体制の構造から、ヨーロッパ社会史では「所有権」と意味されるはずのものが、二つのモメントに分裂しているのが実感できました。公的なモメントの統治権と、私的モメントの所有権へと。江戸幕府のこの統治権による支配は、鎌倉幕府のそれと比べて、地域的普遍性があるのですね。統治権と所有権の間に成り立っていった交通も大変大切で、たとえば、自然哲学の三浦梅園や教育学の広瀬淡窓などという現在の大分県に辺境にいた儒学者は、豊後水道によって、大阪に、懐徳堂に、繋がっていたらしいのですね。学問的交流があった。いつかこの二人の本拠地を訪ねていこうとおもいます。

思想の空間からとらえると、京都では、(武士が排除していく)天皇・貴族・寺院が独占していた学問を、仁斎のような町人出身の儒者が広めていくことになりますが、貴族が町人出身の学者に学ぶというようなことはヨーロッパではあり得ないか、非常に例外的だろうからこれは大変興味深くおもいます。ヨーロッパの貴族は僧侶から学ぶのですが、僧侶も貴族の次男・三男だから(日本の僧侶のように)、結局貴族は貴族から学ぶということでした。これは近代の話ですが、イギリスの貴族の子弟に負けなかった、オスカー・ワイルドの称えられたあれほどの古典語の教養は、ダブリン時代の子供のときカトリックの教会での勉強で養ったのであろうと指摘されるようになりました。いや、とんでもなく話が広がり彷徨いはじめました(笑!)

ハンナ・アーレント
言論を伴わない活動は、いわば、その主語を失う。(『人間の条件』24)

葉山嘉樹 「ちょっと見せたまえ、ヘヘー、マルクス全集、第一巻※(ローマ数字2、1-13-22)か、資本論か、それや君、社会主義の本じゃないかい」

 藤原は、自分もその本を非常に読みたく思っていたが、あまり高価なので今まで買うことができなかった。(海に生くる人々)大逆事件の審判中、閣僚、大臣は一人も傍聴に来なかった。最初は捕らえた者二十四人に死刑判決を下して国民を脅し、その後半数の十二名に恩赦を与えて機嫌を取って、残りの十二名は反論も聞かず死刑。否、死刑ではない。暗殺である。せめて死骸になったら一滴の涙位はあっても良いではないか。
そしてこの大逆事件の顛末である。何という醜態であるか。政府ばかりでない、議会をはじめ誰も彼も皆が大逆の名に恐れをなして、一人として陛下に御進言出来なかった。寛大な陛下なら、親殺しの非望を企てた鬼子にさえ、慈悲の心を持ってお触れになったはず。法律の眼から逆賊と見ても、天の眼からは彼らは乱臣でも逆賊でもない、志士である。その企ては失敗して、彼らは捕らえられ、裁かれ、十二名は絞首台の露と消えた。十二人の中には、三人の僧侶もいた。出家僧侶宗教家などには、一人位は彼らの命乞いをする者があって良いではないか。
彼らは元は社会主義者であった。富の分配の不平等に社会の欠陥を見て生産手段の共有を主張した社会主義の何が恐い?こんな思想は今や世界の何処にでもある。ところが狭量にして神経質な政府は、社会主義者が日露戦争に非戦論を唱えると突然圧迫を強くし、政府と社会主義者は犬猿の間となった。
十月革命における民衆みずからの獲得物を、民衆自身にすなわち労働者や農民との団体の手に返すことを要求した。これがボルシェヴィキ政府に対する無政府主義者の唯一の罪悪であったのだ。(1923年「無政府主義将軍」2-17/17)
そしてこれらの労働者や農民と一緒に、無産階級が革命によって得た、そして共産党の新権力がそれを詐欺しとったいっさいのものを無産階級に返すことを要求した。自由ソヴィエトへの復帰、革命的諸思想のための自由の復帰を要求した。(16/17)


インチキな「自己責任」論の正体

国がもたらした災害は、民は国を非難するな、自分が犯した災害として耐え忍べとするいわゆる前近代的な国家主義が、「自己責任」論であり、同時に、「国家無責任」論(国家は間違いをおかさないのだから無罪)」です。公害裁判では絶対に国は謝罪しませんでしたから、その必然として、原発災害が起きたのです。ぜひとも若い人たちは知っておいてください!原発に対する抗議は、なによりも、災害が起きる前にはっきりと抗議しなかった自分自身に対する怒り、自分自身にたいする抗議なのです。

小田 智敏さんの投稿
言い出せばきりのない話ですが、これは太平洋戦争中の東京大空襲などの空襲被害の「受忍論」(戦争だったんだから仕方がない、我慢しろ)にまでさかのぼるものだと思います。原爆被害者は、一定程度の保障(生きているんなら、死なない程度の生活は保障してあげますよ)は行われてますが、補償は(つまり国家が責任を認めて賠償することは)行われていません。
広島に育った者として、原爆被害者に一定の保障が与えられて、その他の戦災者と分断されたままに終わっていることは、非常に悔しいですし、分断政策はいまだに効力を発揮して、「自己責任」論や生活保護叩きの背景になってしまっていると認識しています。



何が先で、何が後か?国家が成立する前にファシズムは出現することはなかった。国家と過剰なナショナリズムは無関係であるとはいえない。近代主義者の口から、ファシズムの形態の如く語る過剰なナショナリズムを抑止できるのがただ国家だけだときくとき、これは国家が自らを正当化する言説だと気がつく

ファシズムというのは、近代のほかのところからは現れてこない体制なのだ。この認識に立って、(もはや社会民主主義によっては防げないファシズムを避けるために)、' 近代を乗り越えていく'ことが思想的課題として自覚されたのが、例えば、戦前の近代の超克であり、戦後のポストモダニズムであった

いかにファシズムに抗していくことができるしょうか?正直わかりません。恐怖と貧困のほかはなにも残らなくなるというのに、なぜかくも人々はファシズムのほうに惹かれていってしまうのでしょうか?ただ、ファシズムに抵抗していくためには、このことを明らかにすることが肝心。なぜなら、「知る」というまさにこのことによって、人々はファシズムを相対化していくのではないでしょうか?だから、ファシズムはなにかを明らかにしようとする演劇や思想は無駄ではありません。
演劇のほうは、三月の東京演劇アンサンブルの公演(ブレヒト「第三帝国の恐怖と貧困」)をご覧いただくとして、ここでは、参考のために、思想家のドゥルーズの興味深い一文を示しておこうとおもいます。


ジーバーベルクはヴァルター・ベンヤミンの指摘を徹底させ、裁かれるべきは映画作家ヒトラーだと述べています。あなたもこんな指摘をしておられる(ここではドゥルーズがセルジュにむかって問う形で書いている)。「大がかりな政治的演出、活人画となった国家的プロパガンダ、はじめて実現した人間の集団的大量移送」によって、いたるところに恐怖が浸透し、映像の背後には強制収容所しか見えず、身体を連鎖させるものとしては拷問しかないという条件のもとで、映画の夢が実現したのだ、とね。そしてポール・ヴィリリオが、ファシズムはあくまでハリウッドと張り合う形で生きられたのだということを明らかにしています。世界のエンサイクロぺディア、自然の美化、そしてベンヤミンが「芸術としての政治」と呼んだものは、純然たる恐怖になりさがった。有機的全体はもはや全体主義にすぎなくなったし、独断的権力が世に送り出すのはもはや一個の作家や監督ではなく、カリガリやマブセが生身の人間に受肉したような怪物なのです。(「従来型の監督業は決して無垢なものではありえなくなった」とあなたも指摘しておられる。) そして戦後になって映画が復活をとげるとしたら、その場合は当然ながら新しい基盤に頼るしかないし、映像の新たな機能に、新しい「政治学」に、そして芸術の新たな合目的性にしたがうしかなかったのです。この点からすると、もっとも重要で、もっとも暗示的なのはアラン・レネの作品だということになるでしょう。死者の世界から映画を呼びもどすところにレネの本領があるからです。初期作品から最近の「死ぬほどの愛」にいたるまで、レネにはひとつしか主題がない。つまりレネがとりあげる映画的身体や映画的俳優は、死者の世界から帰還する人間だということ。だからこそ、あなたは今回の本でレネとブランショを結びつけ、そこに「堕=星のエクリチュール」を見ておられるのです。(Deleuze, 1990 宮林訳)

Or vous marquiez que cinéma n'est pas mort tout seul, mais que la guerre l'a assassin ( le cabinet d'Eisenstein à Moscou est biem devenu un lieu mort, déshérité, désaffecté). Syberberg avait poussé très loin certaines remarques de Walter Benjamin; il faut juger Hitler comme cineaste...Vous remarquez vous-même que < les grandes mises en scène politiques, les propagandes d'Etat devenues tableaux vivants, les première manutentions humaines de masse > ont realiser le rêve cinématographique, dans des conditions où l'horreur pénétrait le tour, où <derrière> l'image il n'y avait plus rien à voir que les camps, et où les corps n'avaient plus d'autre enchaînement que les supplices. Paul Virilio montrera à son-tour que le fascism, jusqu'au bout, s'est vécu en concurrence avec Hollywood. L'encyclopédie du monde, l'embellissement de la Nature, la politique comme <art> , suivant l'expression de Benjamin, étaient devenus l'horreur pure. Le tout organique n'etait plus que totalitarisme, et le pouvoir d'autorité ne révélait un auteur ou metteur en scène, mais la réalization de Caligari et de Mabuse ( <le vieux metier de metteur en scène, disiez-vous, ne serait plus jamais innocent>).Et si le cinema devait ressusciter après la guerre, ce serait nécessairement sur de nouvelles base, sur une nouvelle function de l'image, sur une nouvelle < politique>, sur une nouvelle finalité de l'art. Peut-être l'œuvre de Resnais est-elle la plus grande, la plus symptomatique à cet égard; c'est lui qui fait revenir des morts le cinema. Du début au recent L'amour à mort, Resnais n'a qu'un sujet, corps ou acteur cinématographiques, l'homme qui revient des morts. aussi rapprochez-vous ici même Resnais de Blanchot, < l'écriture du dèsastre>. - Deleuze, pourparlers, 1990

二人の下宿人

近代主義の「家」(国家)には二人の下宿人、「健全」ナショナリズムと「不良」ナショナリズムがいる。前者は大家(近代主義者)と仲良く食事をするが、後者は、15分の約束なのに一時間もシャワーを浴びている。いつまでも部屋からでてこない。窓から禁じられた煙草を投げ捨てる。俺の部屋だから立ち入るな!という('靖国参拝は俺のココロの問題だ')。ところでこのポイ投げ捨てはそもそも「家」がなければできなかった行為である。当たり前だ。すなわち、近代主義者がいうようには、家(国家)と「不良」ナショナリズムは無関係であるとはいえないのだ。国家が成立する前に、ファシズムのヒトラーも昭和天皇もでてくることはなかったのである。<第三帝国>のまえに、また<大東亜共栄圏>のまえに、まず国家があったのである。逆ではない。そもそも「健全」と「不良」の区別も怪しい。(「健全」な奴が一番危険だ!) 果たしてどういうファシズムが現れてくるのかは予言できないが、それが近代からしか起きてこないことだけはたしかだ。そして全体主義国家は、戦争と戦争経済に依存しはじめたらファシズムへと移行する必然性があったのだ。(私は現在の安倍自民党の国家'美しい日本'について考えながら語っている。ワールドキャピタリズムに対抗した全体主義国家は、21世紀にそのまま同じではあり得ない。柄谷がいう文化帝国主義的<帝国の構造>の地球分割が資本主義の問題を解決していくと信じろというのか?否、それはムリ無理)


英国が身代金を払わない理由?笑止。敵に拘禁された王子のためにはいくらでも払うでしょうよ。米国が身代金を払わない理由を考える前に、現実にこの連中が何をやっているかは知りようがないのです。戦後最も成功したプロパガンダは、<米軍は拷問はしない>だったが、うそ嘘。アメリカの身代金を払わないと称えられた正義も、かれらにとって都合がいいプロパガンダの類と思っていた方がいいとおもいますよ。


正直私は外交政策に無知ですが、長期的にこれからのことも考えなければなりません。今回安倍は自らの演説を失敗と思うかという問題提起から考えたいと思います。間違いを恐れずにいうと、安倍の絶対平和主義からいえば、この彼は失敗とは考えないのかも。それどころか、選挙の圧勝と高い支持率を根拠に、自分の演説の内容が国民から支持されていると開き直ることだってあり得ます。横柄に集団的自衛権すら自分のものと考え始めたこの安倍に、かれの絶対平和主義が、憲法に違反していると相手に指摘するだけでは恐らく聞く耳もたずでしょう。安倍自民党にたいして、憲法の平和原則を利用した外交政策が<どういうものである>のか、<どういうものであってはならない>のかを積極的に議論していくことが必要になってきただろうとかんがえます。そのうえで、かれの身内が決めていく独善的な絶対平和主義がいかに、憲法の平和原則に反しているのかを明らかにしていかなければなりません。例えば、政府がいくら'正しい'お金を与える外交政策と思い込んでいても、地域紛争の軍事的介入の結果、少なくとも何万から何十万の規模となる難民を一人残らず引き受ける義務があることを計画してないような「人道支援」は平和原則に反していると私はみます。カント的にいえば、平和原則はわれわれの<意志>、「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意」であり、この<意志>を規定していく<理性>を確立することが課題です。<理性>は、ほかならない、語る民主主義です。今回のような選ばれ方をしているヤバイ国会で、憲法を利用した平和原則に関するこれほど大切な議論が適切なやり方で可能なのだろうかと非常に大きな危機感をもっている次第です




大衆の暴力の構造 ーフランスでも日本でも

国家の敵対的他者を標的にした<表現の自由>で何が意味されるのかについてはこれ以上深読みしても仕方ありません。三色旗の有難い意味が判らない者は<表現の自由>の意味も判らないのかと教えてくる文明の当惑のジェスチャーも大げさ。重要なのは、<表現の自由>という言説が、<表現の自由>を語る主体に触発する意味です。その自由の主張とは全く正反対な意味を機械的に反復してやまない主体の意味は何であろうか?と問いたいのですー「フランスを知らない者はだまれ」という主体にむかって。(それなのに、このわたしの言論の自由を考慮してくれないのか?)。「揶揄の自由」「商売の自由」に過ぎないものを、「表現の自由」と勘違いしている主体たちに向かって。ここに、大衆に向かって訴える、独善的な、靖国公式参拝の小泉や安倍の、国家の敵対的他者を標的にした<信教の自由>('おれのココロの問題だ')と同じ暴力の構造の問題があるといっても言い過ぎではないでしょう。

他者の問題ー 人質問題をどう読むか?

絶望的に、安倍がイスラエルの旗を背後に会見を開いたことの絶対的鈍さに本当にあきれました。この男は、隣国の痛みが判らないような、日本の内部の中にしか通用しない時代遅れで、(ただの孤立なのに勘違いした) 独善的ヒーロニズムに酔っていなかったでしょうか? 戦争神社である靖国公式参拝の安倍が東アジアの信頼を裏切ってきたように、今度は中近東で怒る他者の存在を無視し他者がどのように自らの態度を読んでいくのかを配慮しなかったからこそ、、(相手からみて)「十字軍」を言う安倍から発した暴力は、必然として、対抗的な他の暴力を呼ぶことになったのではないでしょうか。
New Islamic State video 'issues threat' against two Japanese hostages. - BBC


ファシズムは多種多様です。イタリア、ドイツ、日本、イギリス、フランス、ソビエト、文革の中国、マッカーシズムのアメリカと比較すると、家族的類似性とよぶことができるような相互に交差しあった領域がみえてきます。戦前の日本は天皇ファシズムでした。例えば、天皇は憲法を与える制憲的な主権者であり、と同時に、憲法に制約されず(統帥権の行使等)、場合には、政治神学的な意味で憲法を超える存在でした (靖国神社を通して、闘う国家、祀る国家を主宰する天皇) 。しかし今日、戦後憲法の(戦前の大日本帝国憲法と連続性が断ち切れた)象徴天皇制のもとに、安倍自民党はファシズムであると非難するのは何を根拠にした認識でしょうか?ファシズムと非難するとき、そのまえに、「全体主義国家」totalitarianismと「ファシズム」fascism ('national fascism')を区別できているのでしょうか?ネオリベのワールドキャピタリズムの時代、二十一世紀のファシズムを再定義していくためにも、どこからどこまでが「全体主義国家」で、それを超えたときとなにが「ファシズム」なのかを知ることが大切です。この点について、第一次世界大戦に遡って整理しておく必要があり、(戦後民主主義が称える'大正デモクラシー'とは異なる視点で)「大正」を見直す意義もここにあるといえるでしょうか。


1. Adjonction, soustraction
Les axioms du capitalism ne sont évidement pas des proposition théoritiques, ni des formules idéologiques, mais des énoncés operatoires qui constituent la forme sémiologique du Capital, et qui entrent comme parties composantes dans les agencements de production, de circulation et de consummation. Les axioms sont des énoncés premiers, qui ne dérivent pas d'un autre ou ne dependent pas d'un autre. En ce sens, un flux peut faire l'objet d'un ou plusires axioms (l'ensemble des axioms constituent la conjugaison des flux); mais il peut aussi ne pas avoir d'axiomes propres, et son traitement n'être q'une consequence ds autres axioms; il peut enfin rester hors camp,évoluer sans limites, être laissé à l'êtat de variation <sauvage > dans le systèm.Il y a dans le capitalisme une tendance à ajouter prepétuellement des axiomes. A l'issue de la guerre de 14-18, l'influence conjuguée de la crise mondiale et de la révolution russe forcèrent le capitalism à multiplier les axioms, à en inventer de nouveau, concernant la classe ouvrière, l'emploi. l'organization syndicale, les institutions sociales, le rôle de l'Etat, le marché extérieur et marché extérieur et le marché intérieur. L'économie de Keynse, le New Deal, furent des laboratoires à axiomes. Exmples de nouvelles creation d'axiomes après la seconde guerre mondiale; le plan Marshall, les forms d'aides et de prêts, les transformations du système monétaire. Ce n'est pas seulement en period d'expansion ou de reliance que les axiomes se multiplient. Ce qui fait varier l'axiomatique, en rapport avec les Etats, c'est la distinction et le rapport entre marché extérieur et marché intérieur. Il y a notamment multiplication d'axiomes quand on organise un marché intérieur intégré qui concourt avec les exigencies du marché extérieur. Des axiomes pour les jeunes, pour les vieux, pour les femme, etc. On pourrait dèfinir un pole d'Etat très general, <social démocratie>, par cette tendance à l'adjonction, à l'invention d'axiomes, en rapport avec des domaines d'investissement et des sources de profit; la question n'est pas celle de la liberté ou de la contrainte, ni du centralisme ou de la decentralisation, mais de la manière don't on maîtrise les flux. Ici, on les maîtrise par multiplication des axiomes directeurs. La tendance inverse n'est pas moindre dans le capitalisme; tedance à retirer, à sousutraite des axioms. On se rabat sur une très petit nombre d'axiomes qui règlent les flux dominants, les autre flux recevant un statut dèrivè de consequence ( fixé par les < théorèmes> wui découlent des axioms),ou laissés dans un état sauvage qui n'exclut pas l'intervention brutale du pouvoir d'Etat, au contraire. C'est le pôle d'Etat <totalitarisme> wui incarne cette tendance à restreindre le nombre d'axiomes, et qui opère par promotion exclusive du secteur externe, appel aux capitaux étrangers, essor d'une alimentaires, effondrement du marché intérieur. L'Etat totalitaire n'est pas un maximum d'Etat, mais bien plutôt, suivant la formule de Virilio, l'Etat minimum de l'anarcho-capitalisme (cf. Chili). A limite, les seuls axiomes retenus sont l'équilibre du secteur externe, le niveau des réserves et le taux d'inflation; < la population n'est plus une donnée, elle est devenue une conséquence>; quant aux évolutions savage, elle apparaissent entre autres dans les variations de l'emploi, les phénomènes d'exode rural, d'urbanisation-bidonvilles, etc. - Le cas du fascism ( < national-socialism>) se distinguee du totalitarism. Car il coincide avec le pole totalitaire par l'écrasement du marché intérieur et la reduction des axioms. Cependant, la promotion du secteur externe ne se fait pas du tout par appel aux capitaux extérieurs et industrie d'exportation, mais par économie de guerre, qui entraîne un expansionnisme étranger au totalitarisme et une fabrication autonome de capital. Quant au marché intérieur, il est effectué par une production spécifique d'Ersatz.Si bien que le fascism comporte aussi une proliferation d'axiomes, qui fait qu'on l'a souvent rapproché d'une économie keynésienne. Seulment, c'est une proliferation fictive ou tautologie, une multiplicateur par soustraction, qui fait du fascism un cas très special. - Deleuze&Guaatari

卑近な観察例ですが、「反xx」でぐるぐるしている、所謂スケープゴートの論理に依存するひとって、一年ぐらいよーく話をきいていると、トートロジーばかりで、きちんと対象を追っていないような知識の築き方をするようなんですよね。全然それを気にかけないというか。むつかしいところです。左翼が書いた中国論は本当にないですし、またあっても読まれることがないようですね。韓国論の本のことは存じ上げないのですが、ネットで繋がることのできた在日の方や韓国の方のお話を読むことができるのは本当に有難く、こちらの思い込みが正され、そうして視野が広がるとおもっています。


向こうの中流って、スゴイというか、ヴァージニア・ウルフなんかも大屋敷に育っているのですが、どうかんがえても上流だろうとおもっちゃうのですが、中流の家庭として育ったということになっています。層が厚いのでしょうね。ジョイスが書いた文体がエドワード朝時代の英語だと認識できること、ーイギリスの植民都市ダブリンのものですがーは、わたしのちょっぴりの誇り<ー帰国後日常にまみれてずっと忘れていました(笑)。非常に豊かな中流が上流を模倣するスノビズムの時代、ビクトリア女王へのノスタルジーが極まる時代、まだ19世紀である時代。武者小路実篤と共に、ムッソーリニのイタリアに旅行しにいった、大森(品川)の大地主の家に生まれた元教授のところに、学生時代の時挨拶にいかなくてはならず、さぞ窮屈だろうと思っていたら、素晴らしい洋館なんですね。感動しました。30年代のケンブリッジに留学した方で、お父さんは銀行を持っていたと言っていました(30年代の金融恐慌のために破産)。80年代は、中流出身の教授ばかりとなりましたが、かれらを軽蔑していました。学問は、紳士の教養であり、それ以上でもそれ以下でもないという意識なんですよね。ケンブリッジでなにを勉強していたのですかときくと、'チャタレイ夫人'のローレンスの存在を身近にかんじていた自分のことしか語らない。文学になんとか同一化しようとした人生だったようですが、とにかく、作家になっていくのはこういう<没落した中流>なんですよね。前も話し合ったことがあるのを覚えていますが、女中のことは関心があります。「言葉と物」のフーコが最初にべラスケスの絵、「侍女たち」をもってくるわけですが、なぜ女中から語り始めたか、(実際は画家の視線からですが)、最近かんがえはじめました

昔は、大森駅から20分歩いても自分の家の領地と自慢していました。目が悪くなり、本も読めず、コーヒーを極めようとして、吉行淳之介と交流していたようでしたが。「本多君、'いまから目を使わなくてもいい趣味をつくっておきなさい」といわれました。20歳のときにいわれても。


結局アイルランドは貴族の不在地主がもっていた国といえます。本国の何千家族ぐらいでしょうかね。暗殺リストとして残っているのですが(笑)。ちなみに、1%が過半数の国富を持っているとかの話題に関心があつまってきたのですが、イギリスでは2000家族ぐらいで殆どを所有しているといわれます。


流れてくる勝海舟botを読むと、昔見た大河ドラマ「勝海舟」を思い出すな。裏世界の淫靡な?クチナシのハナ的<勝海舟>像は、風のように軽やかだった。オランダ語辞書を苦労して書き写す内職の姿が全然似合わず、道場で木刀を持つとなにか振る舞いがヤクザの喧嘩にしかみえなかったけれども、それでも彼の妻役(<大原麗子>)をみて、勝海舟になりたいと思わない視聴者はいなかったのである。実物の勝海舟は新政府の役職を得ながらも、仕事には興味がなく、出勤して椅子に座りただ黙っているだけの日々だった。そもそも上司の徳川慶喜とも幕末の混乱期には何度も意見が対立しくらいだから、座談を好み、薩長の新政府を批判し続けたという。散歩して十分ぐらいの近所に、洗足池に、晩年の彼の家があった。最期の言葉は「コレデオシマイ」。その勝がNHKに登場するよりも早く、民放では<平賀源内>が河原乞食の宴会を抜け出しホワイトホール通路を辿り幕府家老に助言を与えていた。「解体新書」、「朱子学」、「国学」、これらの学問は、学問以上の「X」だった。現在愚かにも我々が棄て始めて恥じようとしない言論活動の形だった。最後に、どんな思想でも外国人嫌いの思想ならば、顔と顔の出会いがないセンター入試が好む塗り絵的暴力と同じだね。申し訳ないけど、本当のことだから仕方がない。権威的に、いつまでも、ホンモノ保守のXXを探す<正解>オンリーでは、伊藤仁斎、荻生徂徠、本居宣長の間を炸裂した、現在ならば言論活動という語で形容すべきそれ自体矛盾を孕んで揺れ動くダイナミックな知的創造空間と出会えないだろうよ。ここで一句。センターか、知を分け合わない、全体か



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2015 年 一月 (3) 言葉と表現と射影のブログ/BIGLOBEウェブリブログ
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