言葉と表現と射影のブログ

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zoom RSS 20015年一月(4)

<<   作成日時 : 2015/01/25 15:05   >>

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大杉栄

けれども俺ひとり俺の鎖を解こうとしても、どうしても解けない鎖がたくさんある。俺の鎖とみんなの鎖とは、巧みにもつれ合いつなぎ合っている。どうにも仕方がない。それに少しでも怠けていると、せっかく苦心して解いた鎖が、自然とまた俺のからだに巻きついている。(「鎖工場」4/24)

俺はもう俺の鎖を鋳ることをやめねばならぬ。俺みずから俺を縛ることをやめねばならぬ。俺を縛っている鎖を解き破らなければならぬ。そして俺は、新しい自己を築き上げて、新しい現実、新しい道理、新しい因果を創造しなければならぬ。 (1913年「鎖工場」1/24)

これは出獄の時の唯一のお土産と思って、紙に包んで大切にしまってある。そしてその包紙に、下のごとくいたずら書きをした。---- 社会において吾人平民の膏血を吸取するものは、すなわちかの紳士閥なり。監獄において吾人平民の膏血を吸取するものは、すなわちこの南京虫なり。(「書簡」2/3)

獄中で一番いやなのは冬だ。綿入一枚と襦袢一枚。シャツもなければ足袋もない。火の気は更にない。日さえ碌には当らない。これで油っ気なしの食物でいるのだから、とても堪るものではない。(1919年「収賄教誨師」1/21)

ヘーゲル派の左党から出たあらゆる著書の中で、1848年前のプロシャ国家に対する、その窒息さすような強圧的規律に対する、これほどの猛烈な反抗は見出され得ない。そしてまた、当時のいわゆる自由主義の徒が、力によって権利を獲得することを知らない臆病をこれほどまでに




普通の囚人には、毎週一回、教誨堂とかいう阿弥陀様を飾った広間に集めて、この坊さんが御説教を聴かせるのだそうだが、僕等には坊さんの方から時おり僕等の室へ訪ねて来る。大がいの坊さんは別に御説法はしない。(「収賄教誨師」3/21)
現実主義者の奇獣苑から出るものは、実用人、brauchbareburger 有用なる市民、すなわち奴隷である。学校教育の結実は、実にPhilistinismus -----俗物根性である。 ー 大杉栄、1915年「意志の教育」
ニーチェ、バタイユ、ブランショにおける経験は、主体を主体自身から引き剥がす機能を持っている。主体が自分自身で無くなってしまうか、自分の無化ないし解消へと向かうようにする機能を持っているのである。それは脱−主体化の企てなのだ。−M・フーコーとの対話−

芸術至上主義

左翼的演劇がリアリズムの方へ行き芸術至上主義から遠ざかったのは、マルクス主義の芸術に対する無視に由来するからでしょうか?たしかに芸術の孤独な力では資本主義を打ち倒せないのは誰の目からみても明らかでしょう。しかしです!西欧合理主義の住み処である、最強の政党と労働組合とマスコミを恐れることがなかったあのナチスが、スターリンの軍隊にでも無敵の連合軍にでもなく、無力な芸術至上主義の孤独な交際にたいしてあれほどの畏れを抱いていたのは一体どういうわけなのでしょうか?これを問うたのは、ただ「全体主義」を書いたハンナ・アーレントHannah Arendt だけだと思います。結局まだだれもナチスを分析できていないのです。



悪口を言い合って争っている場合じゃない!
下の世代と上の世代の連帯が必要!!

アベノミクスに期待する下の世代は、(上の世代ほどには)資本主義の体系を認識しこれを批判することがないのですが、そのかわりに、(社会民主主義の危機に無関心な上の世代が無頓着な)ファシズム的管理と監視に敏感であります。(なんといっても生まれてきたときからビデオで撮影され続けてきた生まれたときからの囚人ですから、理屈抜きの身体感覚でなにが自由でなにが不自由なのか感じる力があります。) ファシズムに抵抗するために、下と上の両者の連帯の可能性があるとすれば、それは、つぎのこの二点の認識をどれだけ共有できるかにかかっているとおもいます。つまり問題のファシズムは、(1) 市場を中心とした資本主義を条件とすること、いいかえれば資本主義の内部からしか生まれてこないこと、且つ、(2) 国際的協調性を欠いた日本の貿易黒字と米国の貿易赤字のように他国と競争する<一国>社会民主主義から連続的に現れてくるということ。とくにこの<一国>社会民主主義のもとにマイノリティーに対する同化的圧力が起きます。(1)と(2)を整理すると、ファシズムは、大きな国家である社会民主主義国家から、権威的な全体主義国家を経て、外国貿易と戦争と戦争経済に過度に依存する小さな国家への移行の過程に現れるということです。トッドの意見とは異なり、国の教育が高くともファシズムの同一化の暴力を抑えられなくなるというのが私の見解です。ファシズムで生存がゆるされなくなるのは、排除されていくマイノリティーだけではありません。誰もが排除される、排除のために排除するシステムですから。スケープゴートの政治に行く大衆も、他との接触によって豊かに育つ文化が拒まれ、他と競争するだけの動物的な次元でしか生存できなくなるということも



変なもの、思考としての折衷の意義。
たとえば、禁じられた偶像、 (顔を隠した)ユダヤ化した
本居宣長という折衷なんてありか?あまりにポストモダン的な...

<折衷>とは、いくつかの異なった考え方のよいところをとり合わせて、一つにまとめあげること。<折衷>というと、なにか響きが悪いです。思い返すと、自分の学生時代も先生達の現実に妥協した<折衷>説の羅列を軽蔑したものです。しかし国学の本居宣長の儒学からのダイナミックな連続性と切断を一文でも読むと、<折衷>というものの思考の力を知ることができます。「聖人の知」をいう荻生徂徠の古文辞学と、常に民衆の側から世の中が悪いという仁斎の古義学の<間>に、宣長が存在したというふうにかんがえてみたいのです。この宣長は、徳川封建体制の権力をもつ特権者(武士)の身分には属していませんでした。そういう点で、(仁斎の思想を攻撃したが)、同様に武士の身分ではなかった仁斎の民衆的立場に共感をもったようにおもいます。(興味深い類似点で、今日のネットの書き込みのように、民衆が正しい!お上が悪いのだ!!という主張の仕方をしました。) また丸山的近代主義者の誤解があります。確かにこの宣長は中国文明からの断ち切ることで国家の自立を考えてみた思想家ですが、ただしかれが生きた近世の時代に国家というものがありませんでした。単純にいえば、宣長は今日における近代日本の国家を知りませんでしたから、あたかも、その知らないものを語っていたかのようにスーパーナショナリズムの宣長像を構成するのは無理な深読みではないでしょうか。子安宣邦氏は、宣長の深読みしない思考の力を説きます。それは、丸山や小林の深読みと異なる、江戸思想の注釈学的読みの精神に依拠するものです。この精神の対極にある深読みは、読み手の権力性を帯びます。例えば、その権力性は、大逆事件を読むマルクス主義系作家たちが、国家権力(検察の司法権力)の書いた言葉から、彼らが暗殺した幸徳たちのアナキストの声を物語的に再構成してしまうような権力性のことです。最近では「資本論」を深読みする柄谷行人



近所のパン屋で隣のテーブルにいた男の子がこちらを指さして興奮している。「あ、お母さん、ほら、また東ヨーロッパのおじさんだよー」。お母さんの子供を黙らせようとする目くばせが、なんだかな。このとき、昔パリの映画館でフラファテイ監督のサイレント映画「ナヌーク(極北の怪人)」を見終わったあとのことを思いだした。廊下で私の姿を見た男の子が驚愕。「ラ(あそこに)、(レ) エスキモ、ラ!」とパニックにおちいった。と、お父さんは「ノン、ジャポネ!」、と、必死に子供を落ち着かせようとした。なんでフランス人のお父さんにわかって、日本人のお母さんにわからないわけよ、え?


I am a painter with letters. I want to restore everything, mix everything up and say everything.




久野収と鶴見俊輔「現代日本の思想」(1956年)に、「大逆事件」が現代日本の思想に与えたインパクトを書いています。80年代に読んだ記憶がありますが、現在再び読み始めてみると、やはりかれらが「大逆事件」をどう理解しているのか、そもそも幸徳秋水の思想をいかに読んでいるのかがみえてきませんね。「現代日本の思想」は大杉栄の思想を書いていません。かれの名は一回出てきますが、思想についての分析は一度も行われません。これは私の変な印象なのですが、久野と鶴見の説得力のある語りは、大杉を無いものとしてしか成り立たないような・・・

Vサインのチャーチルがですね、この国の人々の間に尊敬されているようなんですけどね、しかしヘイトスピーチの元祖はチャーチルではなかったでしょうか?かれは平然と演説で言っていました。「ユダヤ人には二通りしかいない。よいユダヤ人とわるいユダヤ人だ」。現在国民戦線党の嘘つきルペンが言っている内容も都合よくユダヤ人をアラブ人に置き換えているだけだと思います。こちら側の話ですが、「日本人も二通りしかない。美しい日本に役立つよい国民と、日の丸を崇めず君が代すら歌わない悪い非国民だ」と安倍首相が言い出すことはないでしょうか?と、この記事を書いているときに、そういえば、'日本のヘイトスピーカーも「良い朝鮮人、悪い朝鮮人」と言ってる’ というご指摘をいただきました。ここに書き留めておこうと思います。


白川静
殷代の文化は東アジア的な沿海文化であり、わが国が文身の俗をもち、子安貝を宝とし、汎神論的な世界観をもち、霊魂の不滅を信じ、媚毒をおそれ、呪的な世界観をもつことにおいて、両者の古俗には極めて親近性に富むものがある。

リゾーム的「ー性」「ー的」

「国会を私物化した自己宣伝は許されない☹という言葉が通じる相手かしら」という見事なわが皮肉の言葉を英訳しようとして、「国会」の語のまえに定冠詞theを添えるかで考え込んでしまいました。theをつけるかつけないか、それが問題だ(笑)。theを添えると<建物の場所、千代田区何丁目にある')を表し、添えないと<'国会という討論する公の場'>を表すのですね。大きな違いです。theをつけるかつけないかこの英語の組み立ては、対象(例、国会)についてなにを相手に伝えたいのかに依って決まりますが、経験的に、相手との会話の中で決まってくるものですから、あまり自由がないのです。話を絞り込みますと、不定冠詞 a の場合は、不定冠詞そのものの抽象性を読まなければなりません。母国語の中に、西欧語の不定冠詞ほどの厄介な抽象性が無いかといえば、然(さ)にあらず、「ー性」「ー的」という漢語的使用で表現できますね。これは西欧語の翻訳の歴史のなかで工夫してできあがった表現の形式で、中国語の本来の使い方「ーの」とは必ずしも同じではないと指摘されています。例えば、哲学の本のなかでいわれる、「外国人」と「外国人性」の間には差異があります。ここで、「外国人性」でいわれる意味をかんがえるとき、 「性」についてはあれやこれやと先験的に考えることが必要です。これについて、たとえば、<外国人になること> To be a foreigner、というドゥルーズの言葉を読むときは、<外国人性に成ること>、というふうに考えるのが正しいとおもいます。それにしても、見たことも聞いたこともない、この外国人性ってなに?といういかにも言語の違和感のなかで色々と考えることになりそう。 (思考の自由がいっぱい。そのときあなたはすでに「外国人性」!物質的に数えきれないほど増殖していくN個の<これ>を、同時に反対の方向に、1の<これ>に向かって観念的に依拠させていく運動性、<これ性>をかんがえてみませんか?)




エピクロス Epikouros

永遠につづくような恐ろしいものはなく、また、長いあいだつづく恐ろしいものもない、ということについて、我々に安心を与える認識と同じ認識によって、われわれは、この有限な存在においては、友情によつ損なわれることのない安全こそが最も完成されたものであることを、知る。

ブランキ
宇宙の記述の中で、彗星の存在は完全に無視されている。それらは何でもない存在であり、何もしないし、ただ一つの役割、すなわち謎の役割を果たすだけである。

本屋の棚に本が少ないことでわかるのですが、関東大震災の話題を除けば、大正という時代は、明治と昭和とくらべて人気がありません。自由を謳歌する種々雑多のものが湧いて出てくるがかえってつかみどころがない漠然とした時代、一方で大正天皇の在位期間が短かく日本人が好きな天皇の存在感がないような物足りない時代。しかし大正天皇に力がなかったという通説に疑いをもちます。明治の元勲が支配する藩閥政治が終わる時代ゆえに、彼らが創作した天皇の首輪が一気に外され、国家権力を一点に体現していく方向で天皇の剥き出しの力が全面的にあらわれた、したがって人々に対する比類なき抑圧の鎖が覆うことになった時代だったのではないかとかんがえています。白樺派が称えたような自由の謳歌とは正反対に、自由が抑圧された人間の屈辱の時代。例えば、それが幸徳秋水や大杉栄の虐殺にあらわれたのではないかと。天皇というと、'偉大な' 明治天王と昭和天皇ばかりに関心が行きますが、実は(病弱な)大正天皇のもとでこそ独裁的な強権的な体制が敷かれることになったのではないかというふうに疑ってみようとおもっています。

ギリシャの選挙

わたしはパリでの追悼デモにため息をついたのは、言論の自由、表現の自由の主張に対してではありません。追悼デモのなかに、国家(フランス)の敵対的他者にたいして揶揄するイスラム嫌いの愛国者ーネットに触発された意志表示の形でーが国旗を降って存在していた一定の数の人々をネットの映像上で目撃したから溜息をついたのでした。追悼デモのリアクション(反応)はまだ起きていないですから、判断を下すのは早急ですが、面白いとおもったネグリの指摘では、しかし今回この排他的な者たちも、(現在フランスの)権威的な政府にたいしては、自分たちの意志もまた通らず、このことによって自分たちの力の限界を知ることになったはずなのです。宗教的な儀式とは全然ちがうようにみえる、この追悼デモの抗議が、将来的に、反権威的に展開するポテンシャルの存在も否定できないのであります。はたして、ヨーロッパを覆う極右翼にたいするカウンターになるのかどうかは、危ういものですが、コントロールできないデモの事件性というか、革新と反動の間に揺れ動いて止まらないマルチチュードのエネルギーにかかっています。確かに、さすが経験豊かなネグリはデモの大切なポイントをついているとおもいます。前置きが長くなりましたが、この意味で、反貧困に行く、ギリシャの選挙の結果に大変注目しているところです。余談ですが、こちらの国の話で、なんとかしなければという善意でボードをもった自分の姿をメッセージで流そうときめた思いに敬服しますが、そうではなくて、ただ、流行を追うようにフランスの真似をして他人の名前と同一化している自分の姿を誇示している者たちの映像をみるたびに、超党派の「和装コスプレ」の類で、自己宣伝のほかになにか作用とか反作用があるのかとちょっとだけ疑問に。ネットだけで世の中に訴えたつもりでいる大きな力を自分がもったと過信することは禁物、実は、自分自身への戒めとしてもここに書いておこうとおもいました。



生きて帰れ
わたしたちは、もうすでに、
ひとりのいのちが
奪われてしまった。
ひとりというのは、
われわれのなかの隣人である同情心のこと
生きて帰れ、
現場から語るジャーナリズム精神

健二さん、どうかご無事で。成田空港でマスコミの前で頭をさげて反省する必要は一秒もありません。もし職業人のご判断で必要とお考えになれば、そのときは、ジャーナリストの精神で再び中近東へ行けることを願っております。現場から、戦争犯罪人の孫の安倍に翻弄されている無知な私達に、米国の止まらない空爆に随伴する日本外交の危険性を伝えてください!



折衷というと響きが悪い。自分の学生時代も先生達の現実に妥協した折衷説を軽蔑した。しかし国学の本居宣長の儒学からのダイナミックな連続性と切断を一文でも読むと、折衷というものの思考の真の力を知る。聖人の知をいう徂徠と、常に民衆の側から世の中が悪いという仁斎の<間>に宣長が存在したのだ

本居宣長
‏いともめでたき大御國の道をおきながら、他國(ヒトグニ)のさかしく言痛き意行(ココロシワザ)を、よきことゝして、ならひまねべるから、直くCかりし心も行ひも、みな穢惡(キタナ)くまがりゆきて、後つひには、かの他國のきびしき道ならずては、治まりがたきが如くなれるぞかし(古事記傳)

子安宣邦氏は本居宣長の深読みしない思考の力を説く。それは丸山と加藤と小林の深読みと異なる注釈学的読みだ。柄谷の「資本論」の読みは彼らの深読みと同じ権力性に負う。大逆事件を読むマルクス主義系作家が、国家権力の書いた言葉からアナキストの声を物語的に構成する(失ったから奪い返す)権力性


ジョイスとゴダールは各々、歴史の感覚(文学史、映画史)を文学と映画を通して編集した。書いた。文学史、映画史の言説がそれらを言う主体に触発する意味はなにか?物質的に数えきれないほど増殖していくNの文学と映画を、同時に反対の方向に、1に向かって観念的に依拠させていく運動性が意味される

n次元をそなえた平たい多数多様体は非意味的作用的かつ非主体的である。それらは不定冠詞、いやむしろ部分冠詞によって指し示される。これは"いくらかの"まむぎ du chiendent である、
"いくらかの"リゾーム du rhizome であるといったふうに・・・。



現在の「ユダヤ人」のように、「xx人」とか「oo人」でいわれる人種概念は、ここ数百年の間に近代国家のナショナリズムがねつ造したものです。たとえば、「日本人」は、近世の本居宣長の国学とか、近代の柳田国男の (一つの国、一つの民を強調する帝国主義イデオロギーの)日本民俗学とかの学問が実体化しただけのものなのだから、二千年前に、「わたしは日本人だ」とボードをみせる人はひとりもいなかったのだし、仮にそんなボードをもつ人がどこかにいたとしても現在からは一体それが何を意味したのかわかりようがありません。(今日の基準から勝手に都合よく解釈することができるだけです)。遡って、古代日本語も、古代コリアの百済の文法と殆ど同じだったことから(有力説)、固有の所謂'やまと言葉'があったとかんがえるよりは、大和と呼ばれていた地域が百済の一部だったと考えてみる方が自然でしょう。つまり古代日本語は、孤立した日本列島の言葉として存在したのではなく、百済の内部のなかの人々が喋る訛りだったということですね。韓中日の共同作業であった「日本書紀」は、変態漢文体、すなわち正規の漢文体ではない訛った漢文体にほかなりません。説明するまでもなく、日本の学者といっても、中国からの渡来者と韓の学者たちが育てたのでした。韓の主導の下に、韓中日が共同して原初的な書記言語を書いたのです。素晴らしいことじゃありませんか!





WHO IS JAMES JOYCE ?
from penguin modern classics; Ulysses

James Joyce was born in Dublin on 2 February 1882. He was the oldest of ten children in a family which, after brief prosperity, collaspsed into poverty. He was none the less educated at the best Jesuit schools and then at University College, Dublin, where he gave proof of his extraordinary talent.In 1902, following his graduation, he went to Paris, thinking he might attend medical school there. But he soon gave up attending lectures and devoted himself to writing poems and prose sketches and formulating an ' aesthetic system'. Recalled to Dublin in April 1903 because of the fatal ilness of his mother, he circled slowly towards his literary career. During the summer of 1904 he met a young woman from Galway, Nora Barnacle, and persuaded her to go with him to the Continent, where he planned to teach English. The young couple spent a few months in Pola ( now in Croatia), then in 1905 moved to Trieste, where, except for seven months in Rome and three trips to Dublin, they lived until June 1915.They had two children, a son and a daughter. Joyce's first book, the poems of Chamber music, was published in London in 1907
and Dubliners, a book of stories, in 1914. Italy's entrance into the First World War obliged Joyce to move to Zurich, where he remained until 1919.During this period he published A Portrait of the Artist as a Young Man (1916) and Exiles, a play (1918). After a brief return to Trieste following the armistice, Joyce determined to move to Paris so as to arrange more easily for the publication of Ulysses, a book on his birtday in Paris in 1922 and brought him international fame. The same year he began work on Finnegans Wake, and though much harassed by eye troubles and deeply affected by his daugter's mental illness, he completed and published that book in 1939. After the outbreak of the Second World War, he went to live in unoccupied France, then managed to secure permission, in December 1940, to return to Zurich, where he died on 13 January 1941. He was burried in the Fluntern Cemetery.


なぜ、いま大正を読み直すのか?
日本がつくった戦争をかんがえるためです

今日の日本人のなかに、自分自身をふくめて、日本帝国主義と天皇ファシズムがもたらした戦争と植民地主義にたいして、自分がほんとうにそれほど一方的な被害者の立場と一体だったことをきっぱりと主張できるものが一人でもいるのかと問わざるをえません。この点にかんしては、無批判に、大正デモクラシーがユートピア的に称えられてきたように、「本来的に日本は正常な民主主義の道を歩んでいたが、それが成熟する前に、残念ながら、戦争によって中断されてしまった」というような、自分たちの過去にたいする思い上がった過大評価があるのではないかと私は疑います。この大正デモクラシーは、「日比谷焼き討ち事件」から始まり「満州事変」に終わるとみるならば、それは治安維持法を中心とした統治体制を推進し、日本帝国主義を完成、(戦争に中断されたどころか)、戦争の方向を必然化した体制といえます。このような戦後民主主義の大正デモクラシーの連続性を楽観的に主張してきた勘違いと、(今日自分が一方的な被害者の相続者であると言うものが)日本帝国主義と天皇ファシズムがもたらした戦争と植民地主義を忘却する態度は、パラレルにおもえてしかたありません。なぜ、いま大正を読み直すのか?それは、日本がつくった戦争をかんがえるため、しっかりと歴史を相対化することによって戦争をふたたび繰り返さないためだとやっと気がついてきました。(早稲田大学小教室でおこなっている、「昭和思想史研究会」の市民大学講座で<大正>の読み直しを行っているところであります。誰でも参加自由)


Hatsue Kobayashi さんの投稿
志位は、日本共産党の歴史を韓国であるいはここ日本で研究している韓国・北朝鮮国籍の研究者がいらっしゃることも知らないのでしょうね。私の周りの韓国人で日共を「前衛党」だと認める方はいらっしゃいません。みなさん、よくご存知です。戦前・戦中・戦後を通して一貫していたのは転向の党だということです。それは、ご指摘のように天皇制への屈服、戦後革命期の在日の差別的利用主義で判断されている方が多いです。たとえば、ここ広島では、戦後、GHQ占領によるレッド・パージ下での革命的決起だった福屋デパートから「朝鮮戦争反対」のビラがまかれる闘い(峠三吉も詩にしています。)も、最前線の実行部隊は在日の方々が担われました。祖国を再び戦火に見舞わせたくない、核兵器を使わせたくないという、民族的悲憤をそういう形で利用したのが日共です。読み直しのまとめやご意見をぜひ、お聞かせください。

私達は番犬でも時によっては泥棒にむかってむやみに吠えるのは無責任となることがあるからお行儀よくしなさいと叱られたら、こういいかえしなさい。泥棒は泥棒、おれは犬だから好きに吠える自由をみとめてほしいんだと

私たちは番犬でも時によっては泥棒にむかってむやみに吠えるのは無責任となることがあるから控えなさいと叱られたら、泥棒は泥棒、おれは犬だから好きに吠える自由をみとめてほしいんだといいかえしてやればよろしい。


18世紀のネットワーク ー 商業の大阪、政治の江戸、学問の京都

私は専門家ではないので間違ったことをいうかもしれませんが、幕藩体制の構造から、ヨーロッパ社会史では「所有権」と意味されるはずのものが、二つのモメントに分裂していきました。いわば公的なモメントの統治権と、私的モメントの所有権へと。前者に関しては、江戸幕府のこの統治権による支配は、鎌倉幕府のそれと比べて、地域的普遍性がありました。後者については、統治権と所有権の間に成り立っていった交通が大変重要な意義をもちました。つまりモノとともに知識も流通したからです。興味深い話ですが、自然哲学の三浦梅園や教育学の広瀬淡窓という、現在大分県にある、当時は辺境だった場所にいた儒学者は、豊後水道によって、商業の中心にあった大阪に、懐徳堂(大阪大学の前身)に、交通的に繋がっていました(子安氏)。梅園は外に出ませんでしたが、知識を媒介とした学問的交流があったことが確認されています。さて政治の中心は江戸でしたが、思想と文化の中心にあったのは京都です。(武士が排除していく)天皇・貴族・寺院が独占していた学問を、京都の伊藤仁斎のような町人出身の儒者が広めていくことになりました。例えば古義堂に貴族・商人が学びに来ました。仁斎はこの古義堂の前を歩いていた農民を中に招き入れて教えたというエピソードも。今の大学のようなマス的な教授ではなく、一対一で教える方法をとりました。なんといっても、思想界の東の横綱・伊藤仁斎と、西の横綱・カントは、18世紀に生きた同時代の思想家であります。ところでこれについては、貴族が町人出身の学者に学ぶというようなことはヨーロッパではあり得ないか、非常に例外的なのではないでしょうか。これはわたしの勝手な説ですけど、もし武士があつまった堀川にあった山崎闇斎の塾が尊王攘夷の源流を形成したとしたら、仁斎の古義堂こそは小田実の「でもくらていあ」の原点だったといえないかな?



なんといっても、思想界の東の横綱・伊藤仁斎と、西の横綱・カントは、18世紀に生きた同時代の思想家であります。子安宣邦氏の、徳川日本の儒学のオリジナルティを発見した、カント的仁斎の構成、(または仁斎的カントの構成)。近世の東アジアの文化の多様性をかんがえる大切な分析例を研究中。重要な参考文を、A 仁斎、B カントの順で示します。

A, 伊藤仁斎における天道観の展開を考える上での参考として「語孟字義」より。
陳北溪がいっている。「誠字はもともと天道についていうものである。天道の流行は、古より今に至るまで、いささかの妄(みだれ)もない。暑さが来れば寒さが来、日が沈めば月が昇る。生い育った春が過ぎると夏が盛んとなり、秋に草木が枯れると貯える冬が来る。天道の流行は永遠にこのようである。これを真実無妄というのである」と。
「然れども春当に温かなるべくして反りて寒く、夏当に熱すべくして反りて冷やかに、冬当に寒かるべくして反えりて暖かに、夏霜冬雷、冬桃李華さき、五星逆行し、日月度を失うの類い、固(まこと)に少なからずと為す。これを天誠ならずと謂いて可ならんや。蘇子が曰く、「人至らず所無し、ただ天偽りを容れず」と。この言これを得たり。」(しかしながら春は当然温暖であるはずなのに反って寒く、夏は当然熱いはずなのに反って冷たく、冬は当然寒いはずなのに反って暖かで、夏に霜、冬に雷、冬に桃李に花が咲き、五星が逆行し、日月が度をはずれるという類は、少ないことではない。これらによって天は誠にあらずといってよいだろうか。蘇東ばが言っている。「人知の作業は至らざるところはない。ただ天はいささかの偽詐も許さない。」
<子安氏の評釈> 朱子(陳北溪)は天道流行の万古にわたって真実であるあり方(真実無妄)によって天道の誠をいった。いま仁斎は、天地自然の時に示す異常・変異をもって、天道を誠といっていいだろうかと、疑問を投げかける。しかしそう問いながら、蘇東ばの言葉を引き、一転して、「天は偽りを容れず」という意味で誠だというのである。天とは真実無妄の意味で誠であるのではない。真実無偽の意味で誠だというのである。さきに仁斎は真実無偽という誠字解を消極的にいっていた。だがここでは天道観n差異を前提にして真実無偽がいわれているのである。「天は偽りを容れず」という主宰的な天道観を前提にして仁斎は天の誠(真実無偽)をいおうとするのである。ここから朱子学における宇宙論的・存在論的な諸概念を仁斎は容認しないということはいえるだろう。


ここで、「天道」の仁斎にとっては、すでに天は規範的なものではありません。それは「道は猶路のごとし。人の往来通行する所以なり」でいわれる、人道を基礎とした天道です。そうして仁斎は天をこのような天道(天地の間は一元気のみ。たえざる運動状態)で読み通し言い切ることによって天理を否定しました。それを徹底した結果、天命という超越者としての天命的天が分離してきたと子安氏はみます。この分離から、孔子の、絶望的にうちすてられたことでかえって宇宙と一体となるような実存的天が再発見されてくるのです。これはカントの第一批判から第二批判へと論じるときの思考に対応していますね。

「しかしこの世界において行為する理性的存在者は、なんとしても同時に世界および自然そのもの原因ではない。それだから道徳的法則のうちには、道徳性と幸福のあいだに、ー換言すれば、この世界の一部分として属し、したがってまたこの世界に依存しているような理性的存在者に彼の道徳性に比例して与えられるほどの幸福とのあいだに、必然的連関を成立せしめる根拠はまったく含まれていないのである。(・・・)そこでまたこの連関の根拠、すなわち幸福と道徳性とを厳密に一致せしめる根拠を含むような原因ー換言すれば、全自然の原因であってしかも自然とは異なるような原因(神)の現実的存在が要請されるのである。」ー波多野精一共訳、カント「実践理性批判」第一部五より

...das handelnd vernünftige Wesen in der Welt aber ist doch nicht zugleich Ursache der Welt und der Natur selbst.
Also ist in dem moralischen Gesetze nicht der mindeste Grund zu einem notwendigen Zusammenhang zwischen Sittlichkeit und der ihr proportionierten Glückseligkeit eines zur Welt als Teil gehörerigen, und daher von ihr abhängigen, Wesens, welches eben darum durch seinen Willen nicht Ursache dieser Natur sein, ...Also wird zuch des Dasein einer von der Nature unterschiedenen Ursache der gesamten Natur, welche den Grund dieses Zusammenhanges, nämilich der genauen Übereinstimmung der Glückseligkeit mit der Sittlichkeit, enthalte, postuliert.
- Immanuel Kant , Kritik der praktischen Vernunft


空爆で殺される人々(死者の殆どは子供か病人でしょう)の立場からすれば、だれが犠牲になってもかまわないと空爆する国もそれを資金面で支援する大ハッスルの国も違いはないだろうとおもいます。マスコミはこんな安倍の外交政策が憲法に違反しないかと世論に問うなかで安倍の人質問題の対応を問うべきなのに。それをおこなわないメディアの世論調査は、ただの<合意ねつ造マシーン>じゃないかな?

「人質事件の対応評価60% 世論調査、内閣支持率横ばい」(共同通信社)


河上筆「貧乏物語」を読む

エピクテトス的に、大杉栄は、この道(監獄)の内部の他(脱出する自身の思想)を問うた思想家でした。大杉はこう言いました。「大逆事件の審判中、閣僚、大臣は一人も傍聴に来なかった。最初は捕らえた者二十四人に死刑判決を下して国民を脅し、その後半数の十二名に恩赦を与えて機嫌を取って、残りの十二名は反論も聞かず死刑。否、死刑ではない。暗殺である。せめて死骸になったら一滴の涙位はあっても良いではないか。」さて この大杉がいくら大逆事件の無関心を非難しても、「貧乏物語」の河上筆は国の弾圧が全く無かったかの如く「教育勅語」の国へ行く、「貧乏」から解き放たれた「魂」を物語りました。河上は「教育勅語の言葉」を借りてこういうのです。「本来より言わば、肉は霊のために存し、知もまたひっきょうは徳のために存するに過ぎざるがゆえに、人間生活上におけるいっさいの経営は、窮極その道徳的生活の向上をおいて他に目的はない。」こうして、「貧乏物語」は、監獄の国家が社会主義を包摂する物語、第二インターナショナルへ直進していく物語だったといってはきめつけかもしれませんが、ただ彼が言う、魂の声のようなものが「資本論」の特権性を刻印していったことは見逃せない点なのであります。実際にプロレタリア文学は、当時河上が翻訳するために手に入れた「資本論」をどのようにみていたのでしょうか?


「ちょっと見せたまえ、ヘヘー、マルクス全集、第一巻※(ローマ数字2、1-13-22)か、資本論か、それや君、社会主義の本じゃないかい」藤原は、自分もその本を非常に読みたく思っていたが、あまり高価なので今まで買うことができなかった。(海に生くる人々)

大正時代の出版社の宣伝は、「知を上流階級から取り戻せ」でしたが、まさか世界文学全集を読んだくらいでは知を取り返すことは幻想だと渡辺一民氏が指摘していたことです。いかにも幻想が直ぐに剥げてしまいそうな大衆時代の到来を告げる言葉ですが、しかしある一冊だけが例外でした。今日河上柄谷行人と佐藤優の、かくも特権性をもって、あのようなギリギリ危うい帝国と民族主義の言説を平然と展開するのも、彼らの「資本論」を読んだというこだわり、日本知識人に顕著なある種の特権性に依るといえるかもしれません。問題は、どういう衣装がそのこだわりと特権性を表現できるのかです。柄谷と佐藤優の場合、それはほかならない、上流階級に憧れるスノビズムな衣装なのではないでしょうか。

資料;「わたしははすなわち言う。人間としての理想的生活とは、これを分析して言わばわれわれが自分の肉体的生活、知能的生活メンタルライフ及び道徳的生活モーラルライフの向上発展を計り――換言すれば、われわれ自身がその肉体、その知能マインド及びその霊魂スピリットの健康を維持しその発育を助長し――進んでは自分以外の他の人々の肉体的生活、知能的生活及び道徳的生活の向上発展を計るがための生活がすなわちそれである。さらにこれをば教育勅語中にあることばを拝借して申さば、われわれがこの肉体の健康を維持し、「知能ちのうを啓発し、徳器を成就し」、進んでは「公益を弘ひろめ、世務を開く」ための生活、それがすなわちわれわれの理想的生活というものである。否、私は誤解を避くるためにかりに問題を分析して肉体と知能と霊魂とを列挙したけれども、本来より言わば、肉は霊のために存し、知もまたひっきょうは徳のために存するに過ぎざるがゆえに、人間生活上におけるいっさいの経営は、窮極その道徳的生活の向上をおいて他に目的はない。すなわちこれを儒教的に言わば、われわれがその本具の明徳を明らかにして民を親しみ至善にとどまるということ、これを禅宗的に言わば見性成仏けんしょうじょうぶつということ、これを真宗的に言わば、おのれを仏に任せ切るということ、これをキリスト教的に言わば、神とともに生くということ、これをおいて他に人生の目的はあるまい。しかしてこの目的に向かって努力精進するの生活、それがすなわちわれわれの理想的生活であって、またその目的のために役立ついっさいの消費はすなわち必要費であり、その目的のために直接にもまた間接にもなんら役立たざる消費はことごとくぜいたくである。」(河上筆「貧乏物語」)


日本神話にどんな神がいるかの問いも、「映画史」に映画がいくつあるのかという問いも退屈の極みだ。「映画史」が「映画史」を言う主体(ゴダール)に触発する意味が問われるべきだ。見ることの複数性の意義を教えるとき、正反対の方向で、絶望的に見ることの不可能な唯一の映画への拘りを示している!

ゴダールは映画史をどう読んだのか?ゴダールの映画史的編集によってはじめて映画史が成立した。その中でルノワールやヒチコックへの憧憬は映画の道を制作した聖人の知を称えることを意味した。彼らの映像エクリチュールは言葉で語られるようにはできていなかったから、ゴダールが映画の読み方を教えた。ゴダールは、漢学的注釈によってはじめて日本的神話を、やまと言葉を読みだしていくという本居宣長の逆説と同様なものに直面することになった。言葉で語るようにはできていない映像だけに依るといいながら、映像的エクリチュールによって、映画史的神話を、言葉を読みだしていくのははじめからパラドクスであった. (リュミエールの列車をみたカフェでのひそひそ声も消滅してしまった)

パラドックスの映画史

「映画史」にどんな映画がいくつあるのかという問いも本質的なものではないとおもいます。「映画史」が「映画史」を言う主体(ゴダール)に触発する意味が問われるべきだからです。見ることの複数性の意義を教えるとき、正反対の方向で、絶望的に見ることの不可能な唯一の映画への拘りを示している!だからどんな映画があるのかはどうでもいいこと。ただ、ゴダールは映画史をどう読んだのか、が問われるべきだと私はおもいます。ゴダールの映画史的編集によってはじめて映画史が成立したことが重要なのです。その中でルノワールやヒチコックへの憧憬は映画の道を制作した聖人の知を称えることを意味しました。彼らの映像エクリチュールは言葉で語られるようにはできていなかったから、ゴダールが映画の読み方を教えたのですね。ゴダールは、漢学的注釈によってはじめて日本的神話を、やまと言葉を読みだしていくという本居宣長の逆説と同様なものに直面することになったとかんがえてみることは意義深いでしょう。(宣長は古事記を編集することによってはじめて、神話的世界、やまと言葉を読みだしたのです。逆ではありません。)言葉で語るようにはできていない映像だけに依るといいながら、映像的エクリチュールによって、映画史的神話を、言葉を読みだしていくのははじめからパラドクスであったといえるのです (リュミエールの列車をみたカフェでのひそひそ声も消滅してしまった)


内閣府調査によると、死刑容認8割。どこの国だかいわゆるテロリストがなんんだかよくわからん大義で無実の人質を拷問し殺害する野蛮を非難しても、ほかでもない、自分のこのお国が平然と冤罪の人間を処刑してきたかもしれないし、これからも処刑をやめないだろうという残酷についてはかまわんのでしょうか?


ファシズム批判の使命をになって70年代にデビューした批評精神はどこへ

何が<先>で何が<後>なのか?国家が成立する前にファシズムは出現することはありませんでした。国家が<先>でファシズムが<後>です。常の事として、近代主義者の口から、ファシズムの形態の如く語る過剰なナショナリズムを抑止できるのがただ国家だけだときくとき、これでは何が<先>でなにが<後>かを理解できていないと言わざるをえません。ただ国家が国家自らを正当化するような教説です。ファシズムというのは、体系的な近代の内部からしか、国家からしか現れてこない体制なのです。この認識に立って、(もはや社会民主主義によっては防げないファシズムを避けるために)、' 近代を乗り越えていく'ことが思想的課題として70年代に自覚されたのが、ポストモダニズムでした。いまらさらポストモダニズム、されどポストモダニズム。ファシズム批判の使命をになってデビューした批評精神でした。またポスト構造主義からは、ポジティブな批評性が再発見されてくる戦前の<近代の超克>の見直しがありました。(近代の超克は、方法としての日本的近代を想定しここに留まることなくさらにこの日本的近代を乗り越えていくプロセスを問う知の運動であった可能性を指摘する昭和思想史的見直しを、新たな戦後民主主義は本当にそれほど民主主義であったかとする問題提起のなかで行う。)しかしこれらの知の問題提起は、ポストモダニズムが市場と等値され、近代の超克が似非ポストコロニアリズム的な大日本帝国憲法的反近代と等値されていく、90年代以降の新自由主義・新保守主義の反動的知識人達によって、台無しにされてしまいました。今日安倍などの近代主義者達は益々国家の排他的他者を攻撃する愛国者の口調に、他者を同化することだけで解決できると信じた新植民地主義者の顔で。一方ポスト構造主義の批評精神は、マルクス的に<でもくらていあ>的に抗議する市民のグローバルデモクラシーの言説の方へ発展できるかが課題


『孟子』至誠:「誠は天の道なり。誠を思うは、人の道なり。(誠(まごころ)こそ自然の原理、つまり天の道である。誠をこめようと努力することが人間の原理、つまり人の道である。)」(離婁章句上)と、誠を自然と人間界を支配する原理とする、孔子以来の儒教の道徳哲学を孟子は語る。


野口晴哉

今日を十全に生ききることを養生という。
然るに明日の為に、今日の生を伝えることを養生のつもりの人がある。
明日を十全に生きるための用意だとのことであるが、毎日、明日はある。
そして毎日、今日なのである。







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20015年一月(4) 言葉と表現と射影のブログ/BIGLOBEウェブリブログ
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