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zoom RSS 2015年二月

<<   作成日時 : 2015/01/30 23:57   >>

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あまり自信がないのですけど、ヨーロッパの古文はたぶん古英語とか古仏語とか。やはりラテン・ギリシャ語の文法が近代語を規定したという意味ではヨーロッパの漢文に相当するといえるでしょうか。聖書の言葉ですが、しかしヘブライ語が漢文だったというふうにみなされていたのか、なんとも。(大胆にいうと、ヨーロッパの中で一度消滅しきったのでは?) 例のコロニアルなインド=ヨーロッパ語の発見後は、サンスクリット語が決定的に重要となり、大正のアジア研究者たちはみなイギリス (ヨーロッパ) へ行って学びに行くのでしょう。たしか中村元も。 (ちなみに、プロテスタントのアイリッシュによる聖書のゲール語訳は、ラテン語からではなく、ヘブライ語から行われましたが、ただその古ヘブライ語はだれが読めたのかは全くわからないわけで、結構わからないことだらけで)

それは、r (g)の決め方によりますね。あり得ることです。所得分配率の問題の分析、貧富の格差の問題の分析はフランスでは伝統的に行われてきたこともあってこの理由でこの本はフランスでは受けなかったそうですが、英訳されてアメリカで大変な反響があったと紹介する記事を読みました。それでも、分配率といえばいいのに、資本収益率といわなければならない(汗)。例えば、マルクスは自らの体系のなかに、ケインズのようには消費を変数としてみとめなかった、みとめていたとしても定数のようにしかあつかわなかったことが重要で、後のカウツキーやローザの消費消費説などは異端だったというのが大学時代のわれわれの理解でした。われわれは私しかいなかったのですが(笑)。マルクスが依拠したのは、経験に依存しない純粋な体系で経済的変量の関係を内在的に語る方法をとったスピノザ&リカードの言説(もちろんこの三人ともユダヤ系の、しかしユダヤ人からは反ユダヤとして非難されるくらいの無神論的コスモポリタンでした)。この場合この言説の内部のなかでもし分配率が経験に依存するものならばこれを経済学の対象として語らなかっただけのことだと思います。ところが、いつ、分配率の問題をみる観察が最初からユートピアを語る態度として禁じられてくるのか?これは興味があるところです。比較的最近じゃないですか?あーあー、おじさんは久々に、言説のゲームの規則としての経済学を語ったな。資本論の四コマ漫画でもかくか(爆)

林達夫
一九四〇年から四二年にかけて、わが国は世を挙げてあたかも一大癲狂院と化しつつあるの観があった。そこに生起するいっさいは、私の眼には、尊大と愚昧と軽信との烙印を捺された、気負いたった牡牛の、とめどもない仮装行列のようにしか映じなかった。

フランシス・ベーコン FrancisB_bot

死は我々の友である。死を受け入れる用意の出来ていないものは、何かを心得ているとはいえない。Death is a friend of ours; and he that is not ready to entertain him is not at home.



豚に真珠

ピケティの本は 「r>g」という数式に集約できます。「r」は資本収益率。 「g」は経済成長率。 「r」 は常に「g」を上回るとされます。今後「r」は平均4%程度に落ち着き、先進国の「g」は1.5%程度になるといいます。この差がズバリ、格差の原因なのですが、こういったらああいうアベノミックス信者が読むと、r = g まで経済成長率をあげるために、もっと市場に委ねるべきだと大ハッスルしそう(汗)



ファシズムとはなにか?
それはどういう条件で起きてくるのか?

ファシズムが駆られた「健康」の神聖化の根底に社会ダービニズムがありました。但し排除の基準は恣意的だから誰も排除の対象となりました。ナチスが勝手に定義した「ユダヤ人」だけでなく、ヒッピーや同性愛や双子や障碍者が収容所に入れられたことは忘れてはなりません。またファシズム批判の政治犯が拷問されていくことは、天皇制ファシズムの国体的マッチョ主義においても同じでした。ところでファシズムを叩いた戦後の社会民主主義も排除の暴力からそれほど自由だったわけではありませんでした。「労働」の神聖化の彼方に一国スターリズムがあったかのようです。戦後は、生産に不利な子供と老人と女性の排除へ行くのです。さて社会民主主義という<近代>が称えて自ら依るモデルとみなした、大正デモクラシーも、第二インターの社会主義も、戦争の異常さえなければ正常に発展していくはずだったのでしょうか?本当なのだろうか?「大逆事件」の幸徳秋水、「監獄列島」の大杉栄、そして同時代の作家、「失われた時を求めて」のプルーストは別のことを証言していたのではなかったでしょうか。第一次大戦の市民生活を巻き込む総力戦を契機に、社会と監獄を区別する定理は決定的に失われてしまったのではなかったのかということです。この点についてもっと言うと、ハーレントの指摘によれば、ファシストには良識が一切通用しないといいます。その良識とは功利主義的な社会民主主義の良識のことです。ファシストが良識を破壊したのは、ファシストが良識を理解できなかったからはなく、良識を理解したからこそ良識そのものを無意味だとみなしていたからだと説明されます。私がおもうのは、第一大戦後において早い段階で社会が存在しなくなっていたか、消滅しきっていたのではないかー戦後の民主主義が物語るようには。だから三十年代のファシズムは社会について語る良識の生きた意味を死んだ文脈として徹底的に無視してしまうことができたのではなかったとかんがえるのです。本当に怖いことに、この実感は現在の安倍にかんして言えること!わずか二年の間に。今回のテロ非難決議は、テロの意味が十分に問われることもないままに、国会の右から左まで賛成したのです。しかし全面的になにを安倍にたいして承諾をあたえていくのか?という問いにこの国で一体だれが説明してくれるのでしょうか?


なにが起きているのか?

2015年の現在、再び全体主義と軍国主義が一緒の方向に歩みだすのでしょうか。ここでいう全体主義は、一つの国家=一つの言語=一つの民族と独善的に主張する国家が国家の排他的他者をヘイトスピーチすること。靖国公式参拝的な、戦う国家=祀る国家という等式に従わせようとする国体的言説です。また軍国主義は、絶対的平和主義という名の集団的自衛権の行使、秘密保護法の運用のことです。21世紀の<帝国>化が、20世紀の国家を中心とした帝国主義とは異なる点は何でしょうか。ピケット (T.Piketty)が指摘するような極端な格差を再生産していくグローバル資本主義に対抗するために推進される世界市場の分割化が起きています。この分割化が、アメリカの<帝国>化、ヨーロッパの<帝国>化、ポスト社会主義の官僚資本主義のロシアと中国の<帝国>化と考えられるものです。ここで日本は自らを、アメリカ<帝国>の一部になることによって、全体主義と軍国主義を一致させてくるのではないでしょうか。<帝国>の根底に、グローバル化に対抗していく政治的言説があります。例えばそれはアメリカの<帝国>が敵対的他者(イスラム)を排除していく政治的言説(文化論的アイデンティティ)と一体のもです。ここで日本は憎悪ゲームの世界戦争の舞台にデビューすることになるのか?しかし憎悪ゲームに取り囲まれてしまったわれわれは本当に幸せなのでしょうか?安倍は集団的自衛権のプランを作れずに焦っていましたが、ここにきて、戦前の総力戦とは異なる、見えない戦争のつくりかたを掴もうとしています。それにしても反知性主義の報復的人道支援を口にする人々をみると、テレビでいわれるような共通意見になんの疑問をかんじない、ハリウッド映画かチャンバラの悪党ぐらいしか想像できないあまりに的外れだと思いますが、兎に角安倍が行おうとしていることは、平和共存を願う東アジアの日本から、TPPと核体制の日本、つまり格差の再生産だけでなく他への憎悪を再生産してやまない、アメリカ<帝国>の日本へのシフトです



「われわれは毅然とテロと戦う決意が求められている」。しかし憎悪ゲームに取り囲まれてしまったそのわれわれはそれで本当に幸せなのかという問題

イギリスのような国にはファシズムがなかったとおもわれていますが、イギリス軍が地球の裏側まで展開し拡散していたので、全体主義が起きてきた国の中に軍国主義の軍隊がなかったのですね。比べると、戦前日本の場合は、ファシズムが成り立ったのは、国家主義からうまれた、全体主義と軍国主義が同じ方向に歩んだからでした。しかし単純ではありません。たとえば、北一輝の主張が軍国主義だとしても、久野と鶴見共著「現代日本の思想」が「ホームラン性のファール」と形容した北一輝の思想にアンチ全体主義の言説の可能性を期待していたことはたしかです。さて2015年の現在、ふたたび全体主義と軍国主義が一緒の方向に歩みだそうとしています。ここでいう全体主義は、一つの国家=一つの言語=一つの民族 <Une nation, une language, une race>と主張する国家が国家の排他的他者をヘイトスピーチすること、そして靖国公式参拝的な、戦う国家=祀る国家という等式に従わせようとする国体的言説です。またここで軍国主義は、絶対的平和主義という名の集団的自衛権の行使であることは明らかです。この場合、21世紀が20世紀の戦前とは異なる点は何でしょうか?21世紀の日本は自らを、アメリカの<帝国>の構造に組み込む仕方で、全体主義と軍国主義を一致させてきたのではないでしょうか。<帝国>の根底に、グローバル化に対抗していく政治的言説があります。それは帝国の敵対的他者を排除する政治的言説とかんがえられるものです。絶叫されることになった「テロ」の意味をさがしても時間の無駄。「毅然とテロと戦う決意が求められている」というアメリカの帝国の言説が、それを言う共同体(日本)に触発する意味のほうが問われるべきです。(帝国の政治的言説としては、ほかに、官僚資本主義の中国の「新儒教」、ロシアはわからないのですが、中国の御用知識人たちのように再び共産党のリーダーシップに期待する「ポストモダンのモダン」化がおきているようです。ヨーロッパではどうも第四帝国的な「表現する自由」なのか?ギリシャの選挙の影響は反「帝国」的な方向に行くのか?)。しっかりみる必要があるのは、「毅然とテロと戦う決意が求められている」の意味とは正反対に、グローバル資本主義が構成するテロ、極端の格差というテロが推進されていく有様ですね。グローバル資本主義と帝国の権威主義体制にたいして抗議していく市民たちが、過激分子として弾圧されていく危険性が常にあることです。アラブの春やオキュパイ運動にたいして、また昨年の台湾と香港の抗議にたいして実際に弾圧がおきました。ポスト共産主義の帝国は人々の抗議を独立を求めるエゴィステックな民族主義の動乱だとして名指して弾圧しています。またアメリカとヨーロッパの帝国が、ヨーロッパ外の人々の抗議を(あるいはヨーロッパの内の外国人・移民の抗議を)「表現の自由」の脅威としてきめうけて弾圧しているのではないでしょうか。安倍について言っておくと、かれは集団的自衛権のプランを作れずに非常に焦っていたとおもいますが、どさくさに人道支援という名目で自衛隊の新しいあり方を掴みそうです。戦前の総力戦とは異なる、見えない戦争のつくりかたです。なににであれ、兎に角、一貫してかれが行っていることは、平和共存を願う東アジアの日本から、TPPと核体制の日本、つまりアメリカ<帝国>の日本へのシフトですね。恥ずべきことに、日本は憎悪ゲームの世界戦争の舞台にデビューすることになりそうです。しかし憎悪ゲームに取り囲まれてしまったそのわれわれは本当に幸せなのでしょうか?


フェチの元祖

ナチスの将校といえば、制服好きのイメージがあるように、実際に現実逃避の都会派フェチの集団でした。かれらはだれを真似したかが問題です。ロンドンに来たジジェクの講演の話では、なんと、ナチスは、かれらが「敵」として排除していくことになるユダヤ人を真似していくというのです。たしかに、ナチスは、ユダヤ人のように煙草を吹かしユダヤ人のようにおされな服を着てユダヤ人のようにデガダンスな現実逃避を自分たちに演出していました。かれらの文化アイデンティティーは借り物だったというわけですね。それにたいして、「サウンド・オブ・ミュージック」のなかで描かれているような'ユダヤ人'たちはいかにも、元々あったナチスの起源を思い起こさせます。ジジェクが読み解くには、映画のなかで'ユダヤ人'たちはナチスのように農民の恰好をしナチスのように山登りしナチスのようにキャンプファイヤーの合唱をしているのだと。だからあのハリウッド映画が爆発に人気があるのは、観客たちが無意識に、山越えしていく農民の恰好をしたナチスを想起してナチスたちの活躍と勝利を一生懸命に応援しているからなのだ、と、快活なかれ一流の皮肉を不気味に放っていました。


安倍の 'テロに屈しない' をかんがえる

イギリスの新聞の意地悪い論客は、オバマと大統領選で争っていたときでしたが、地域紛争の現地の経験と歴史を学ばない白人系クリントンを指さして、17世紀の絶対王政と闘っているつもりかと当惑しました。現実に、彼女のテロ対策は、ブッシュの'悪党は懲らしめよ' (BAD GUY SHOULD BE PUNISHED )に倣った、あたかも専制君主を転覆する革命を起こすかのような方向にありました。ところで、私の知る限りですが、日本の学ぼうとしない外務省官僚や大使は同様に、テロやゲリラといえば、いつまでもハリウッド映画が拵えた戦闘場面かチャンバラの悪党たち程度の幼稚な空想しかもっていませんでした。最悪の、学ぶつもりがない安倍の 'テロに屈しない' に至っては、時代遅れな西部劇の台詞のつもりか?そして風車に突撃するこのドン・キホーテに同調する政治家とマスコミとネットの熱狂的な拍手がこれから起きてくるのか?そこで湧いてくるかもしれない戦争犯罪人の孫の国家的ヘイトスピーチ (東アジアの互いに憎悪し合う緊張は安倍が仕掛けたものです)。間違いを繰り返すな、安倍から発する憎悪の世界戦争にストップを!



カイエ誌のベスト100
(二つ三つ映画館で観てないのがあるが映画館ではもう観れないだろうな)

1. Citizen Kane – Orson Welles
2. The Night of the Hunter – Charles Laughton
3. The Rules of the Game (La Règle du jeu) – Jean Renoir
4. Sunrise – Friedrich Wilhelm Murnau
5. L’Atalante – Jean Vigo
6. M – Fritz Lang
7. Singin’ in the Rain – Stanley Donen & Gene Kelly
8. Vertigo – Alfred Hitchcock
9. Children of Paradise (Les Enfants du Paradis) – Marcel Carné
10. The Searchers – John Ford
11. Greed – Erich von Stroheim
12. Rio Bravo – Howard Hawkes
13. To Be or Not to Be – Ernst Lubitsch
14. Tokyo Story – Yasujiro Ozu
15. Contempt (Le Mépris) – Jean-Luc Godard
16. Tales of Ugetsu (Ugetsu monogatari) – Kenji Mizoguchi
17. City Lights – Charlie Chaplin
18. The General – Buster Keaton
19. Nosferatu the Vampire (above) – Friedrich Wilhelm Murnau
20. The Music Room – Satyajit Ray
21. Freaks – Tod Browning
22. Johnny Guitar – Nicholas Ray
23. The Mother and the Whore (La Maman et la Putain) – Jean Eustache
24. The Great Dictator – Charlie Chaplin
25. The Leopard (Le Guépard) – Luchino Visconti
26. Hiroshima, My Love – Alain Resnais
27. The Box of Pandora (Loulou) – Georg Wilhelm Pabst
28. North by Northwest – Alfred Hitchcock
29. Pickpocket – Robert Bresson
30. Golden Helmet (Casque d’or) – Jacques Becker
31. The Barefoot Contessa – Joseph Mankiewitz
32. Moonfleet – Fritz Lang
33. Diamond Earrings (Madame de…) – Max Ophüls
34. Pleasure – Max Ophüls
35. The Deer Hunter – Michael Cimino
36. L’Avventura– Michelangelo Antonioni
37. Battleship Potemkin – Sergei M. Eisenstein
38. Notorious – Alfred Hitchcock
39. Ivan the Terrible – Sergei M. Eisenstein
40. The Godfather – Francis Ford Coppola
41. Touch of Evil – Orson Welles
42. The Wind – Victor Sjöström
43. 2001: A Space Odyssey – Stanley Kubrick
44. Fanny and Alexander – Ingmar Bergman
45. The Crowd – King Vidor
46. 8 1/2 – Federico Fellini
47. La Jetée – Chris Marker
48. Pierrot le Fou – Jean-Luc Godard
49. Confessions of a Cheat (Le Roman d’un tricheur) – Sacha Guitry
50. Amarcord – Federico Fellini
51. Beauty and the Beast (La Belle et la Bête) – Jean Cocteau
52. Some Like It Hot – Billy Wilder
53. Some Came Running – Vincente Minnelli
54. Gertrud – Carl Theodor Dreyer
55. King Kong – Ernst Shoedsack & Merian J. Cooper
56. Laura – Otto Preminger
57. The Seven Samurai – Akira Kurosawa
58. The 400 Blows – François Truffaut
59. La Dolce Vita – Federico Fellini
60. The Dead – John Huston
61. Trouble in Paradise – Ernst Lubitsch
62. It’s a Wonderful Life – Frank Capra
63. Monsieur Verdoux – Charlie Chaplin
64. The Passion of Joan of Arc – Carl Theodor Dreyer
65. À bout de souffle – Jean-Luc Godard
66. Apocalypse Now – Francis Ford Coppola
67. Barry Lyndon – Stanley Kubrick
68. La Grande Illusion – Jean Renoir
69. Intolerance – David Wark Griffith
70. A Day in the Country (Partie de campagne) – Jean Renoir
71. Playtime – Jacques Tati
72. Rome, Open City – Roberto Rossellini
73. Livia (Senso) – Luchino Visconti
74. Modern Times – Charlie Chaplin
75. Van Gogh – Maurice Pialat
76. An Affair to Remember – Leo McCarey
77. Andrei Rublev – Andrei Tarkovsky
78. The Scarlet Empress – Joseph von Sternberg
79. Sansho the Bailiff – Kenji Mizoguchi
80. Talk to Her – Pedro Almodóvar
81. The Party – Blake Edwards
82. Tabu – Friedrich Wilhelm Murnau
83. The Bandwagon – Vincente Minnelli
84. A Star Is Born – George Cukor
85. Mr. Hulot’s Holiday – Jacques Tati
86. America, America – Elia Kazan
87. El – Luis Buñuel
88. Kiss Me Deadly – Robert Aldrich
89. Once Upon a Time in America – Sergio Leone
90. Daybreak (Le Jour se lève) – Marcel Carné
91. Letter from an Unknown Woman – Max Ophüls
92. Lola – Jacques Demy
93. Manhattan – Woody Allen
94. Mulholland Dr. – David Lynch
95. My Night at Maud’s (Ma nuit chez Maud) – Eric Rohmer
96. Night and Fog (Nuit et Brouillard) – Alain Resnais
97. The Gold Rush – Charlie Chaplin
98. Scarface – Howard Hawks
99. Bicycle Thieves – Vittorio de Sica
100. Napoléon – Abel Gance


Jean-Luc Godard


I am a painter with letters. I want to restore everything, mix everything up and say everything.
Jean-Luc Godard

I am a painter with letters '文字でかく画家'

さかのぼると、ゴダールの映画のキャリアは、批評活動からはじまる。<思考手段としての映画>、という画期的なアイデアと等価の観念がはやくもこの時代に発見されている。映画制作に入った六十年代のゴダールは、映像における言葉(シナリオ)への依拠を超越性への依拠とみなした。そしてこの依拠を脱構築的に批判していったのである。この<ヌーヴェルバーグ>の創造の時代につづくのが、ジャーナリズム精神の時代。七十年代にはいると、ヨーロッパの外部、パレスチナに、内部に囚われた権力性を告発する位置を獲得することになった。が、その外部性が消失した七十年代以降は、<編集>が中心的テーマとなる。<映像と音>の実験の時代の幕開け。モントリオールで「映画史」の構想が発表される。映画を文学史的に語る研究は既にあったが、映画を映画史的に語る、つまり映画に歴史の感覚を導入したのはゴダールが初めだった。八十年代以降は、ゴダールの問題意識は言葉の力へシフトしていく。記憶が重要なテーマとなる90年代への入口だ。詩の語り口で自らの肖像画を示すために、'文字でかく画家'と自らを称していくことになった。そのためにビデオが活用される。フェミニズム的ゴダールの形成。(ゴダールの簡単なバイオグラフィーをかくためには、あと、映画史の1990年代、故郷であるスイスのテーマ、ワールドキャピタリズム批判、グローバル・デモクラシー、socialismについて発言していく2000年代と2010年代の映画制作を書かなければならない。1976年にアンヌ=マリー・ミエヴィルと共同監督した「ヒア & ゼア こことよそ Ici et ailleurs 」の映画名で意味されるような外部性、すなわちファシズムがここのほかに選択がないと言ってくるとしたら、それにたいして現実に批判的に介入するために'ここの中のよそ'を指し示すそれ自身現実の一部を構成する発言の映画をつくることを課題とした。まだ生きているのに三冊の伝記がでている!


Odium reciproco odio augetur, & Amour contrà deleri potest.
(La Haine est augmentée par la haine réciproque, et L'Amour en retour peut la détruire) -Spinoza

Hate is increased by being returned, but can be destroyed by love.
- Spinoza


「憎しみは憎み返しによって増大され、また反対に愛によって除去されることができる」(スピノザ)

...そして、おきまりの安倍総理のヒロイックな涙。ちょっと待て。騙されませんよ!世論の誘導のなかで安倍の地球の裏までいくと宣言した集団的自衛権の行使がなし崩し的に推し進められようとしているではありませんか。明日自衛隊が中近東で戦争をつくることをやめさせるためには、アメリカの空爆をやめさせることも含めて、なんとか現在できることはなにでしょうか?互いに消滅し合うまで終わることがない、憎悪を交換し合う憎しみの互酬原理に委ねているときではありませんね!


「人質」にたいするこれほど真っ直ぐな共感というものは、内外の暴力で殺伐としたイギリスで暮らしていた時代にはみたことがありませんでした。このような共感は、ほかでもない、憲法9条がつくった顕著な精神ではないかと想像し深く感動もいたします。ただし、本当の意味で、憲法9条が人間的にヒューマニズム的に高まるためには、似非功利主義的な贋自己責任論(同時にこれは日本国家が齎した禍は民が引き受けるのが当たり前だという国家無責任論)を拒否していくことがなければ...


小説にブランショと共通した点があるように、映画はベーコンを思わせます。つまり一方では廃棄であり、もう一方では出現であるわけです (ミシェル・フーコー「外部を聞く盲目の人デュラス」)


Don't share the video. Don't play their game. Share pictures of Kenji doing his job. ‪‪‪これはBBCの記者James Longmanのツイートである。憎悪と怨念の反復と拡散はやめよう。憎悪の反復・拡散とは彼らがやっているゲームなのだから。後藤さんはこの憎悪の反復的戦争ゲームに巻き込まれているシリアの子どもたちのなお生きる姿を伝えようとしたのである。彼がジャーナリストとしてやった、やり続けようとした仕事を見よう。それはこの子どもたちの笑顔を奪う憎悪の反復ゲームを終えさせることを願う仕事であったはずではないか。BBCの記者はそういっているのである。安倍はこの憎悪の反復ゲームへの積極的加担表明をもってこの事件を作り出し、反テロの報復的決意の表明をもって悲惨な事件の結果に応じた。これはISISの予期した通りの反応だろう。これは憎悪の反復ゲームを加速させることであっても、これを終えさせることではない。憎悪と怨念の反復的戦争ゲームはやめよう。だがこの戦争ゲームの根はただ中東にあるのではない。この日本の街頭にあるのだ。あの反人類的なヘイトスピーチは日本人が憎悪の反復という世界戦争のすでに加担者であることをみずから証明している。われわれはしっかりと後藤さんの仕事の姿を見よう。Share pictures of Kenji doing his job.

問題となっている紛争の構造についてそれほど知ろうとするわけではなく、政府の大量の難民を出しても平気だとする外交政策の無理に失望せず、政府とマスコミの情報にたいして疑いが起きるわけでもなく、(同情といえる内容なのかわかりませんが)、「人質」にたいするこれほど真っ直ぐな共感というものは、内外の暴力で殺伐としたイギリスで暮らしていたあいだみたことがありませんでした。このような共感は、ほかでもない、憲法9条がつくった顕著な精神ではないかと想像し深く感動もいたします。ただし、本当の意味で憲法9条が人間的にヒューマニズム的に高まるためには、似非功利主義的な贋自己責任論(同時にこれは日本国家が齎した禍は民が引き受けるのが当たり前だという国家無責任論)を拒否していくことがなければ...。そして、安倍総理のヒロイックな涙。ちょっと待て。世論の誘導のなかで安倍の地球の裏までいくと宣言した集団的自衛権の行使がなし崩し的に推し進められようとしているではありませんか。もはや、憲法を守るといっている相手(安倍)に、もう一度憲法を守れといってもたたかいになりませんから、明日自衛隊が中近東で戦争をつくることをやめさせるためには、アメリカの空爆をやめさせることも含めて、なんとか現在できることといえば、憲法を利用する形で、世界第何位の大きすぎる自衛隊の行動範囲を日本周辺という地域的に限定した平和原則を確立する事からはじめるしかないのではないでしょうか



西欧合理主義の住み処である政党と労働組合とマスコミにも、スターリンの軍隊も連合軍も恐れなかったナチスが、退廃芸術として公的に排除したとて、無力な芸術至上主義の孤独な交際を恐れた理由を考えている時に、なぜか、理性が無限の感性を合目的に根拠づけるとしたカントのプレッシャーについて思う

寸劇
安倍「あなたのように善い人がなぜおやめなければならないのですか?」
百田「ならばこの僕が悪人として辞めたほうが首相はご満足ですか!?」
安倍「ははは、お坊さんとの禅問答みたいですな、ははは」
百田「・・・( 畜生、代弁屋はもう御用済みというわけかい)」


BBCはフォークランド紛争のときは"われらの軍隊"という言い方を、イラク戦争のときは'テロ'という言葉をやめて、できるだけ、政府から独立した中立的で客観的な報道を保とうとしました。これと比べると、日本のマスコミは、政府が自分の正義をアピールするために相手を感情的に非難するときにつかう「テロ」の曖昧な概念にふりまわされていないだろうか、と自身にたいして中立的な客観性について問うことがないのか、禁じられているのか?諦め切っているのでなければ、民主主義の原点に立ち帰ること、言論の自由を重んじないどんな人が来るかわかりませんが、リベラリズムの精神から、まずは他者というものを信頼して、例えば、広く市民に呼びかけて放送局や新聞社内で公開の討論会を行うができるとおもいます。


大杉栄とはだれなのか? ー アナキズムの具体的他者の思想

1、 書店の棚に本が少ないことでわかるのですが、関東大震災の話題を除けば、大正という時代は、明治と昭和とくらべて人気がありません。自由を謳歌する種々雑多のものが湧いて出てくるがかえってつかみどころがない漠然とした大正。大正天皇の在位期間が短かく日本人が好きな天皇の存在感がないような物足りないと感じられる大正。しかしほんとうに大正天皇に力がなかったかのでしょうか?明治の元勲が支配する藩閥政治が終わる時代だからこそ、彼らが創作した天皇をコントロールするものがなくなったともかんがえられます。つまり大正において国家権力を一点に体現していく方向で天皇の剥き出しの力が全面的にあらわれることになった、したがって人々に対する比類なき抑圧の鎖が覆うことになっっていく時代だったのではないか?戦後民主主義が自らの先駆者として称えた大正デモクラシーの伝説とはまったく異なる、人間の自由が抑圧された人間の屈辱の時代だったかどうかは検証していく必要です。天皇というと、'偉大な' 明治天王と昭和天皇ばかりに関心が行きますが、実は(病弱な)大正天皇のもとでこそ独裁的な強権的な体制が敷かれることになったのではないか、その必然として、例えば、幸徳秋水や大杉栄の虐殺が起きたのではないかと。
2、 久野収と鶴見俊輔著「現代日本の思想」(1956年)に、「大逆事件」が現代日本の思想に与えたインパクトを書いています。80年代に読んだ記憶がありますが、現在再び読み始めてみると、やはり久野と鶴見が「大逆事件」をどう理解しているのか、そもそも幸徳秋水の思想をいかに読んでいるのかがみえてきませんね。「現代日本の思想」は大杉栄の思想を書いていません。大杉栄の名は一回出てきますが、思想についての分析は一度も行われません。これは私の変な印象なのですが、久野と鶴見の説得力のある語りは、大杉を無いものとしてしか成り立たないような・・・
3、1961年に高裁裁判長(長谷川成行)は大逆事件の再審請求を棄却したときに、請求人(森近運平の妹栄子)にこう訊いていました。「社会主義というのはその当時(・・・)人にいやがられるような運動だと思ったことはありませんでしたか。」なんという質問でしょうか!?これでは思想裁判の無効性を問う請求人の思想を裁くことに等しいではありませんか。つまり大逆事件は二度裁かれたというわけです。「現代日本の思想」のほうでは大逆事件の幸徳をこのように語っていました。「社会が何を必要としているかを考え、そこからわりだして自己の倫理的義務をわりだすという仕方は、幸徳秋水等の悲惨な最後を同時代人として目撃したせいもあって、白樺運動の出発点において意識的に排除された。」これは、先に引用した長谷川裁判官の言葉ではなく、「現代日本の思想」の著者達の言葉だということに私は憤りをもちます。「社会が何を必要としているかを考え、そこからわりだして自己の倫理的義務をわりだすという仕方」という思想家たちの書き方が、「大逆事件」を物語的にねつ造した国家権力(検察官)の書き方となんらかわらないからです。思想家たちの「白樺運動の出発点において意識的に排除された」の言葉が、長谷川裁判官が「人にいやがられるような運動」と言い放った言葉とおなじだからです。ここに、大逆事件の物語を書いた当時の検察官、戦後再審請求を棄却した裁判官、そして「現代日本の思想」の著者たちが共有している、アナーキズムのステレオタイプ化をみることができるとしたら、なんという絶望でしょうか?

4、大杉栄のような「監獄のプロ」と揶揄された思想家にとって、監獄から考えた大正の社会とはいったい何を意味したのでしょうか?ここに大杉の言葉を引きます。
「けれども俺ひとり俺の鎖を解こうとしても、どうしても解けない鎖がたくさんある。俺の鎖とみんなの鎖とは、巧みにもつれ合いつなぎ合っている。どうにも仕方がない。それに少しでも怠けていると、せっかく苦心して解いた鎖が、自然とまた俺のからだに巻きついている>、<俺はもう俺の鎖を鋳ることをやめねばならぬ。俺みずから俺を縛ることをやめねばならぬ。俺を縛っている鎖を解き破らなければならぬ。そして俺は、新しい自己を築き上げて、新しい現実、新しい道理、新しい因果を創造しなければならぬ。」
「獄中で一番いやなのは冬だ。綿入一枚と襦袢一枚。シャツもなければ足袋もない。火の気は更にない。日さえ碌には当らない。これで油っ気なしの食物でいるのだから、とても堪るものではない」
「これは出獄の時の唯一のお土産と思って、紙に包んで大切にしまってある。そしてその包紙に、下のごとくいたずら書きをした。---- 社会において吾人平民の膏血を吸取するものは、すなわちかの紳士閥なり。監獄において吾人平民の膏血を吸取するものは、すなわちこの南京虫なり」

大杉栄からすれば、「現代日本の思想」の著者たちがいうようには、「社会が何を必要としているかを考える」ような「社会」が大正の日本に存在しなかったのではないでしょうか。つまり、西欧近代文学が描き出すような統一感が感じられるような社会が存在しないのだから、大杉においては、(社会からわりだされてくる) 個人も存在していなかったのではないでしょうか。「現代日本の思想」の著者たちがいうようには、「そこ(社会)からわりだして自己の倫理的義務をわりだすという仕方」のような「自己」が近代日本のような監獄国家には存在しないと大杉は考えたのではないでしょうか。だからこそ大杉はこう言うのです。「俺はもう俺の鎖を鋳ることをやめねばならぬ。俺みずから俺を縛ることをやめねばならぬ。俺を縛っている鎖を解き破らなければならぬ。そして俺は、新しい自己を築き上げて、新しい現実、新しい道理、新しい因果を創造しなければならぬ。」 ここで大杉において言われていることを読めば、かれが社会に対する個人の対決などを語っていないことがわかります。

5、大正の「鎖工場」の国家には、対象として反逆されるような社会も存在しないし、従って、主体として反逆する個人も存在しないのです。大杉の「自我」とは、社会と個人が成立しているような西欧の近代リアリズム文学の<抽象的人格自我>ではなく、あるいは戦後民主主義が自らの語りを正当化すために想定するような<抽象的人格>ではなく、<具体的人格>だったとかんがえられないでしょうか。大杉がいうように「鎖」を解き破った具体的人格は、小田実的にいえば、毎日「アゴラ」へ来てワイワイガヤガヤやっていた、あるいはウロウロウヨウヨ」する、自由に思索し自由に行動する「新しい自己」をいうのではないかと私はかんがえます。そうして大杉の具体的な人格、具体的な他者こそが、「一歩でもいい、ただ生きて行くという生活から超越したい。一刻一刻に現在の自己を超越したい」と訴えるのです。このような収奪によって社会も個人も成立しなくなるような「監獄工場」は、日本帝国主義が創りだす植民地の現場を想起するものだったのではないかと私はかんがえます。でしょう。「現代日本の思想」の著者たちのように、日本の内部から内部に即して大杉栄と幸徳秋水の直接行動の観念性をみることができるかということです。久野と鶴見の説得力のある語りは、大杉を無いものとしてしか成り立たないような印象は、このような内部の語りから生じてくるものだったのではないかと考えているところです

6、なぜ、いま大正を読み直すのか?日本がつくった戦争をかんがえるためです。
今日の日本人のなかに、自分自身をふくめて、日本帝国主義と天皇ファシズムがもたらした戦争と植民地主義にたいして、自分がほんとうにそれほど一方的な被害者の立場と一体だったことをきっぱりと主張できるものが一人でもいるのかと問わざるをえません。この点にかんしては、無批判に、大正デモクラシーがユートピア的に称えられてきたように、「本来的に日本は正常な民主主義の道を歩んでいたが、それが成熟する前に、残念ながら、戦争によって中断されてしまった」というような、自分たちの過去にたいする思い上がった過大評価があるのではないかと私は疑います。この大正デモクラシーは、「日比谷焼き討ち事件」から始まり「満州事変」に終わるとみるならば、それは治安維持法を中心とした統治体制を推進し、日本帝国主義を完成、(戦争に中断されたどころか)、戦争の方向を必然化した体制といえます。このような戦後民主主義の大正デモクラシーの連続性を楽観的に主張してきた勘違いと、(今日自分が一方的な被害者の相続者であると言うものが)日本帝国主義と天皇ファシズムがもたらした戦争と植民地主義を忘却する態度は、パラレルにおもえてしかたありません。なぜ、いま大正を読み直すのか?それは、日本がつくった戦争をかんがえるため、しっかりと歴史を相対化することによって戦争をふたたび繰り返さないためだとやっと気がついてきました。

当時の最高裁のY裁判長は、橋本派の元厚生省官僚出身の元アイルランド大使だったと知りました。介護法の立法化にかかわったときいていますが、二年間の赴任の間、子供が大好きで、当時学校の仕事をしていたわたしたちを大使館に呼んでくれて親しく話もできた方だったのですが、残念ながら、帰国してからのいくつかの判決を新聞で読んで大変失望いたしました。お世話になった感謝の気持ちはあるのですが、ETVの判決にかんしては正直恥ずかしくもあり恐ろしくおもいました。もう覚えていませんが、あのように概念を機械的にもてあそんだ文は?橋本からは千葉県知事にもおされたようですが、不満があったようで、結局、大使から最高裁判事のポストに。気が付かなかったのかもしれませんが、日本にもどったときなんでこんなふうになってしまったのかと悲しくおもいまた絶望的になります。


「観念的なものは切羽詰まってくると捨て去ることができる。それが戦時下の知識人の問題だった。戦時下の知識人の多くは、頭で受け取ったマルクス主義などの外来思想を捨てた。外国は映画のスクリーンの上にあるようなものでした。だから、日常生活をとって、思想を捨ててしまう。そうならないためには、具体的な友人が海外にひとりいればいい。海外によく知っている友人がひとりいること、それが出発点だと思います」。加藤周一


柄谷行人

世界共和国へ―資本=ネーション=国家を超えて (岩波新書) 新書 – 2006/4/20

「人類はいま、緊急に解決せねばならない仮題に直面しています。それは次の3つに集約できます。
1 戦争
2 環境破壊
3 経済的格差
これらは切り離せない問題です。ここに、人間と自然との関係、人間と人間の関係が集約されているからです。そして、これらは国家と資本の問題に帰着します。国家と資本を統御しないならば、われわれはこのまま、破局への道をたどるほかありません。これらは、一国単位では考えることができない問題です。実際、そのために、グローバルな非国家組織やネットワークが数多く作り出されています。しかし、それが有効に機能しないのは、結局は、諸国家の妨害に出会うからです。資本に対抗する各国の運動は、つねに国家によって分断されてしまいます。では、どのように国家に対抗すればよいのでしょうか。その内部から否定していくだけでは、国家を揚棄することはできない。国家は他の国家に対して存在するからです。われわれに可能なのは、各国で軍事的主権を徐々に国際連合に譲渡するように働きかけ、それによって国際連合を強化・再編成するということです。たとえば、日本の憲法第9条における戦争放棄とは、軍事的主権を国際連合に譲渡するものです。各国でこのように主権の放棄がなされる以外に、諸国家を揚棄する方法はありません。各国における「下から」の運動は、諸国家を「上から」封じ込めることによってのみ、分断をまぬかれます。「下から」と「上から」の運動の連係によって、新たな交換様式にもとづくグローバル・コミュニティ(アソシエーション)が徐々に実現される。もちろん、その実現は容易ではないが、けっして絶望的ではありません。少なくとも、道筋だけははっきりしているからです」⭐

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2015年二月  言葉と表現と射影のブログ/BIGLOBEウェブリブログ
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