言葉と表現と射影のブログ

アクセスカウンタ

zoom RSS 二月2015 (3)

<<   作成日時 : 2015/02/13 18:48   >>

トラックバック 0 / コメント 0





"ママたち" ということばへの違和感

「お母さん」と言う子供がいますと、この子供は友達の母親のことをかんがえながら「お母さんたちはさ、そういうけどさ」という風に語ることはあるでしょう。ところが、「ママ」と言う子供が同じような状況で、「ママたちは・・・」と語る場面は中々思い浮かばないんですよね。そうすると、なにか不気味な響きをもつとわたしは感じる、「ママたち」の語を、だれが発するのかという問いがたちます。だれが発しようと、とにかく、この「ママたち」の語の中に、複数形の「たち」とは正反対の意味で、一人ひとりの女性たちの多様な経験と思考をフラットに並べてしまおうとする微妙な圧力を感じてしまいます。そもそも曖昧な「ママ」というカタカナ表音化は、母の構築的な概念を削り落としているという印象もないわけではない。どうもそれを意図している反動的な力が無意識的に働いているのではないかと疑いますが、こればかりは証明ができません。フェイスブックでこの"ママたち"の違和感について問題提起なさった方が仰るには、 「ママ」と言った時、それは「母」という集団のある限られた部分集合しか表していないように思えるのです、と鋭くご指摘なさっています。ママたちか・・・なんかなあ



「人文科学の対象は、それによって彼が取りかこまれている言語 (ランガージュ)の内部から、話しつつ、みずからの言表する語 (・・・) をみずからにたいして表象し、最終的には、言語 (ランガージュ) それ自体の表象をみずからにあたえる、あの人間という存在にほかならない」
(ミッシェル・フーコ「言葉と物」、渡辺一民訳 p.374)

コメント ; 「話しつつ、みずからの言表する語」とは、難しくきこえますが、例えば、「人種ごと居住区を分けたほうが良い」という言葉をかんがえてみてください。ここで曽野綾子はこの言葉をあたかも自分が初めて喋るように語るのですが、「人種ごと居住区を分けたほうが良い」などは、海外見聞した旅行者の間で繰り返し言われてきた (最初にだれが言ったか特定できないような流通性の高い) 匿名的な言葉なのです。「ゲットー」という意味を読んでもそれは過去に言われてしまったことだから、いまさら「居住区」の意味をもう一度明らかにしても仕方がありません。しかしこの作家が、人々の共同体をつくる意志を完全に無視した上で、堂々と「生活習慣の違う人間が一緒に住むことは難しい」とまで予言してしまうとき、さて、その言葉を反復する人々の間に新しくなんの意味が生じてくるかは決定的に重要です。フーコはこの意味を人文科学の対象としなさいというのですね。古い言葉で新しく初めてなにが意味されるのか? 曽野の言葉を言う人々 (「人間」) は、それを言うたびに、自らを自らから切り離していく境界線のような鎖となることが起きてくるのではないでしょうか?つまりこれこそは、新しい21世紀のナルシズム的な収容所のあり方です。このように人文科学は、「人間という存在」が取りかこまれている言語 (ランガージュ) の内部から新しく生まれてくる意味をしっかりと分析しなさいとフーコは主張しました。絶えずファシズム的に発明される意味 (「言説」) を相対化すること。そうして人文科学の私達は「まだ同調しない自由がある」のです


「お母さん」と言う子供がいますと、かれは友達の母親のことをかんがえながら「お母さんたちはさ、そういうけどさ」というふうに語ることはあるでしょう。ところが、「ママ」と言う子供が友達に、あるいは母親に、「ママたちは・・・」と語る場面は中々思い浮かばないですね。そうすると、この不気味な響きをもつ「ママさん」の語を、だれが発するのかという問いがたちます。企業か、それとも?だれが発しようと、この「ママたち」の語の中に、複数形の「たち」とは正反対の意味で、一人ひとりの女性たちの多様な経験と思考をフラットに並べてしまおうとする微妙な圧力を感じます。これとは別に、(家父長制は事実上消滅していますが)、家父長制の下でのなんともいえないマザコン的文化に関係しているのでは?この文化のなかで「ママさん」に対する違和感が生じるのかもしれません。ママは子供にとって他と交換できないこのママですからね。パパはそれほどでもない。うまく説明できませんが(笑)

東大法学部の学説にこだわるこういう人たちは、片山さつきも含めてですか、案外と自分では「理論家」であることに誇りを持っていることをわたしははじめて知りました。憲法学は80年代に、自己体系化していく方向で理論化していく方向を推し進めていくことに成功した時期だったとおもうのです。憲法とは、戦前中に現実にあった拷問などにたいして、経験的に、最低限度これだけはやめてくれという抗議文の列挙だと語る人はもういなくなった。が、常のこととして、理論化というのは反動的になることに警戒します。なぜなら理論化を徹底していくために現実と妥協しなければならないからです。(どんなに憲法に反した現実も、理論化によって、それを憲法に根拠があるとしてしまうという意味で)。たとえば、「拷問するな」を理論化していけば、その否定を理論化することはいとも簡単です (つまり拷問禁止規定そのものを頭の中で削除しまうことができる)。


「あのてのコントラバーシがでると論争の審議を求めるより、人はいいも悪くも気になって観に行きたい消費者と化す」。だからこそ作家ならば、言葉の市場を乗り越えていかないとおもうのですがね。曽野のは、中流が上流しかみなくなるとどういうことを喋り出すかという例ですね。読んだ人から聞かされて迷惑だったのですが、彼女のつくった話を聞いてみると、たとえば、パリに来たアフリカ移民にたいする異国情緒たっぷりのオリエンタリズムで詰まっているようなのです。移民は豊穣をもたらしてくれる、実際に富をもった<まれびと>たちだとばかりに。(しかし全財産もって必死に移動してくる難民をみてかれらが「金持ちだ」と勘違いする程度の皮相な観察なんですが。) そこには、 アパルトヘイトの話なんか出てこない。いま移民を見下す態度とのこの矛盾はなにか?この曽野が他者の過大評価 (書く言葉)と他者の過小評価 (喋る言葉)の間で揺れているのは、自己卑下(書く言葉)と自尊心(喋る言葉)の間で作家していた人の宿命なのではないでしょうか。それが、現在の自分を、心地よく、安全に見失いたいような、特に上流にあこがれる中流の余裕ある読者の大衆的な欲望をとらえてきたかもしれませんが。なにか気持ち悪い奴だとしかおもいませんね、あれは。

ハンナ・アーレント ‏
善は見られ聞かれることから隠れようとする傾向を秘めている。(略)なぜなら、善行は、それが知られ公になった途端、ただ、善のためにのみなされるという善の特殊な性格を失うからである。なるほど、それは連帯の活動そして有益だろう。が、それはもはや善ではない。(『人間の条件』10)



夫婦別姓を認めていない民法の規定と、女性だけに離婚したあと、6か月間、再婚を禁止している民法の規定は、明らかに憲法違反です。もし憲法違反でないと判断できないような最高裁裁判官たちにはやめていただこう。時代遅れの民法の規定だけが問題なのではありません。あなたたちが憲法をあつかえる能力と責任があるかどうかというあなたたち一人ひとりのの時代感覚がまさにテストされていることをしっかりと自覚しなさい!

プライバシーを侵害する不必要な質問ではないでしょうか。他の病院で、患者の男性が、未婚 既婚 婚約中 と問われることはないのですからね。男性に問わないことをあえて女性に問うことは不公平にみえます。診断・治療に必要な情報であれば別ですが、その場合でも個別的にきけば十分なわけで。たとえば、婚約中かどうか聞くメリットがあるのでしょうかね。そういう本人の情報をきちんと保管できるのかという問題もありますがね。


寸劇; 翼賛国会
野党議員「アンチョコの一〇行目の七番目八番目の字の読み方は?」
安倍首相「あん...じん...」
野党議員「やっぱりはずしてるじゃん。点点よけい」
安倍首相「あんしん?」
野党議員「安心しました。議長、わが党の質問は以上であります」(ぱちぱちぱち)

風刺画の問題 ー 宮崎駿の発言を読む

宮崎駿さんはこう語っています。「異質の文明に対して、崇拝しているものをカリカチュア(風刺画)の対象にするのは間違いだ。」しかしここで'文明'という言い方でなにを意味するでしょうか?かれがいう'崇拝するもの'は'文明'を前提としています。(文明の「後」に'崇拝するもの'が現れた。その逆ではない。だから) '文明'を前提とするものによっては、'文明'を明らかにすることはできません。ヴィジュアル的には宮崎の成熟の対極にあるのが、風刺画の(追い詰められた人間が石のかわりに)ヤジを飛ばすグロテスクな単純さ、とおもえます。そのフランスの風刺画で一体なにが起きたのかは正直わかりません。だけれども、なにが起きようとすることだけはわかるのです。つまりそれは、(国家の敵対的他者に対する) 戦争です (戦争の拡大を含めて。) だから風刺画についてはあまり語る言葉はなく、いまもそれが表現の自由なのかそうでないのかもはわかりません。むしろ戦争に対する危機感から語る言葉がたくさんありました。そして実際に、戦争が起きようとしているのです。ただしフランスの戦争ではありません。いまのところそれについてはきいていません。戦争する国は意外にも、日本。まさか、あえてその緊張した時期にイスラエルを訪ねた安倍によって可能性としてだけあった集団的自衛権の輸出、戦争を、国民の無視できない割合の軍国主義的共感を伴って現実化することになったとは、ほんとうに語る言葉がでてきません。世界にむけて、だれがこの陰険さを風刺するのでしょうか!?




You will never know what just happened, or you will always know what is going to hapopen

「たったいま起きたことが何なのか、それが最後までわからない。これから何が起きるか、それだけはいつもわかる.」

On ne saura jamais ce qui vient de se passer, on va toujours savoir ce qui se passera. (Deleuze&Guattari )


これは財界の人物の発言らしいのです。恥ずかしいかぎりですが、ここで、自己の生存のためならどんなことをしてもよく、他者を自分のための道具にしても全然かまわないとする欲望の言葉をきいてみましょう。

「そろそろどこかで戦争でも起きてくれないことには、日本経済も立ちゆかなくなってきますなあ。さすがに日本の国土でどんぱちやられたのではたまらないから、私はインドあたりで戦争が起きてくれれば、我が国としては一番有り難い展開になると思ってますよ。」

しかしこの人物は、預言者でないとすれば、どこかでの戦争で日本経済を救うほど儲かることになるのかは本当のところわかりません。(自分でも確証はないが) 兎に角、 戦争の景気を言うことによって、自らを<もう戦争以外ではやっていけなくなった>と追い込んでいくつもりなのでしょうかね。この発言自体がすでに無意味な戦争的行為。というか、はっきりいうと、財界のアベノミックスに対する深刻な危機感が転じて、安倍を称える無理な翼賛的ファシズムへと転換したとしかおもえません


これから一字一字書いていくしかない白紙の本とは?

グローバル資本主義に巻き込まれる時代に次々に起きてきた、ダブリンの2003年イラク反戦デモとロンドンの2009年G20抗議デモ、東京の2009年反原発デモはまさしく、現場的に言って、「たったいま起きたことが何なのか、それが最後までわからない。これから何が起きるか、それだけはいつもわかる」(Deleuze&Guattari、「千の高原」より) のでした。「第二インター」以来の国家が社会主義を無理に規定し戦争を推進し、他方でノンセクトの自発性の運動を排除してきた無意味な歴史が終わりつつあるのではないか。それだけはわかります。グローバル資本主義を巻き返していくニューヨーク、台湾、香港...。多国籍企業と(柄谷が好む言い方で)世界宗教だけでなく、市民的「でもくらてぃあ」(小田実) の「ワイワイガヤガヤ」「ウロウロウヨウヨ」のアナキズムもまた、国家の「法」とはまったく異なったノモスをもっている、いやまだノモスですらない、これから一字一字書いていくしかない白紙の本だろうとおもいます。つまり、「(国家の)外部と内部は、相互に独立しているのではなく、たえざる相互作用の場において、共存しかつ競合している。この相互作用の場の一方が内部性として国家の内側に確定され、他方では国家の支配から逃れる、あるいは国家に対抗するものとして外部性が描き出されるのである」」(D&G 同書)



フクロウねこ、内閣支持率五割に悪態をつく
ー厄介なのは安倍が戦後民主主義の語彙で語ること
(良い子は絶対に読まないでね)

「米軍先制攻撃でも武力行使否定せず」とする危険な集団的自衛権と特定秘密保護法を推進していく内閣でも、翼賛的に内閣支持率は5割台へ上昇中。いかにも、これは、戦前の超国家主義の陸軍ファシズムが最終的に、戦後の安倍自民党に至って完成されたことを印象づけます。現在は、(大正に遡る) 天皇主権の形だけの議会代表制が、陸軍ファシズムに形骸化されてしまい、結局、戦争神社(靖国)へ行く安倍首相とかれを支持する国民によって決定的に骨抜きになってしまったというおもいです。これに関しては、チョムスキーの批判がいうような、戦後のアメリカ占領軍が潰してしまった戦前の「民主的な要素」など本当に存在していたのかは大いに疑います。たとえば、「戦前の民主的要素」として戦後民主主義によってとらえられていた(教科書にかいてあるような) 大正デモクラシーの普通選挙法などは、治安維持法と一体となった統制の手段に過ぎません。実際に天皇主権の形だけのその議会代表制こそは、翼賛的に陸軍ファシズムと一体となって昭和の戦争体制の拡大を推進していきました。統制派の陸軍ファシズムの原型に、幸徳秋水のあとに大杉栄を殺害していく甘粕の軍国主義があります。この軍国主義に影響されながら、しかし天皇の国体概念と衝突対決した思想家に、北一輝がいますね。私はこの人が苦手なんですが(笑)、現在とは違って、戦前の右翼のなかには国体に抵抗した人もいたのです。 「現代日本の思想」が整理するようには単純に、軍国主義に沿って行動をしたようにはみえません。北の孫文批判は寧ろ中国分断策の日本帝国主義に反対するものであったことは、子安氏の「日本人は中国をいかに語ったか」に論証されています。少なくとも中国に共和制の可能性をみたことは確かですから、久野と鶴見がいうように「民主主義、近代主義、人権の感覚の拒否にたって、社会主義とナショナリズムを結合すれば、結果するのは、超国家主義である」ということはなかったとおもいますが。久野と鶴見が描く超国家主義とは、まるでイギリスのアイルランド批判の類と一言だけ言っておきます。戦後民主主義が自らそう思いたいような戦前の全体像を過去に投射しているだけですね。それにしても、厄介なのは安倍が戦後民主主義の語彙で語ること、積極的平和主義とか。フクロウ猫さん、結局なにがいいたいのですかと問われたらやはりこれか。「安倍に委ねるおまえたちは全員、バカヤローだあああああ!」


格差社会は具体的になにをもたらすのか?

別に移民が字が読めないということではなく、アイルランドでは文盲率は25%といわれています。イギリスも格差を原因としたドロップアウトが社会問題です。勉強不足とか自己責任とかそういう次元の話ではありません。ドロップアウトした人々のためにかれらを助ける最低限度の教育の機会が保証されていないということですね。日常的には本人もそれほど困るわけではなく、会話はできるが、時刻表が読めないとか、そういう場合は中々発見されにくいことが指摘されています。文盲の人々を助けるテレビの教育番組を見たことがあります。過去の助動詞は車のギアをバックに入れるようなものだと創意工夫で説明していました。例によって日本は国のメンツでスキャンダルにしたくないでしょうが、先進国の見栄をすてて、一人ひとりの幸福追求権の保障の見地から公的に支援する体制をつくるべき。経済的な理由でドロップアウトした為に隣に新聞の字を読めない若者がいるかもしれません



「米軍先制攻撃でも武力行使否定せず」の集団的自衛権と特定秘密保護法でも、翼賛的に内閣支持率は5割台へ上昇中です。これは、超国家主義の陸軍ファシズムが安倍自民党に完成されたことを印象づけないでしょうか?大正に成り立った天皇主権の形だけの議会代表制が、現在の安倍とかれを支持する国民によって最終的に骨抜きになるのでしょうか!?どうもチョムスキーのような人からはこの国の貧困と悲惨がはっきりとみえるようですね。


アパルトヘイトの最大の問題は、隔離された人々に存在すること自体に罪悪感を感じさせる抑圧にありました。アパルトヘイトというのは、壁の内側におかれた人々にわたしはXX人だから罪深いとおもわせてしまうのです。なんの根拠もない法と壁は、アフリカの人々を統制する監獄としてあったのです。マンデラが生きていたならばならばわたしたちに問うはずです。きょう一体だれが、人間性を殺戮し尽くそうとした<人種ごと居住区を分けたほうが良い>とした地獄を再びつくるのかと。私は、怒りをもって、曽我綾子と安倍晋三を指さします!


「国家は何よりもまず主権であるが、主権が君臨しうるのは、主権が内部化することができるもの、また局所的に自己の所有となしうるものに対してだけである。あまねく存在する国家などありえないだけでなく・・・」
(D&G、1980)
国家の権力機関に対して切片的社会の諸権力を主張し続ける少数派集団のもつ局所的メカニズムは、多国籍企業と世界宗教と同様、国家に還元しえないある形式を内包していることであり、この外部性形式は必然的に多形的で・・・それは国家の「法」とはまったく異なったノモスなのだ。(国家の)外部と内部は、相互に独立しているのではなく、たえざる相互作用の場において、共存しかつ競合している。
「この相互作用の場の一方が内部性として国家の内側に確定され、他方では国家の支配から逃れる、あるいは国家に対抗するものとして外部性が描き出されるのである」(D&G)

商品が効用をもっておれば、その交換価値は二つの源泉から引き出される。つまり、その希少性からと、その獲得に要する労働量からとである(D・リカードウ)

「現代日本の思想」(1956年, 久野収、鶴見俊輔) を読む

この本は、あえて幸徳と大杉の思想の意味について深く論じないで、むしろアナキズムの思想を言うかれらの主体としての衝撃がどういうものであったかを明らかにする方法をとりました。ここから、(明治のときは言われることがなかった)白樺派、北一輝、吉野作造、日本共産党(福本を中心に)のそれぞれの言説が発明していくそれぞれの否定性を照らし出しました。ポンティーの言うような、(私の理解が間違っていなければ、自己欺瞞的な?「自己誤認」という認識の非連続性と戦争という事件性の影響を十分にとらえながら) 、こうした戦前に「用意された」否定性の連続したところに、50年代の久野と鶴見が同時代的に発見していく、戦後実存主義の位置と機能が存在したと思い至りました。巻末に説かれるのはサークル性の重要な意義です。「実存主義の方法は、専門的な学問とか芸術の領域だけにとどめられるものではない。ヤスパースは、実存的まじわりということを言ったが、日本の戦後派は実存主義者らしくおたがいの運動を尊重し、しかも深い心の交流をもつ交際方法をつくることができるだろうか?これもまた、サークル運動の今後の発展とかかわるものだ。また政治の領域においても、一度日本の国家の外に視点をおいた戦後派実存主義は、村落的情緒に曇らされぬ乾いた眼をもって、今後の日本のイメージを思い浮かべ、それにむかって自分たちを投企する行動を起こすべきである。」たしかにもしサークルというものが否定性の象徴 (の端っこでも)ならば、それなりに期待された思想史的使命があったと言いたいものですが、この託されたサークル性はバブルの時代に形骸化してしまい、実際にこの本を読んだ80年代は二十代が沈黙した異常な時代。ニューヨーク、台湾、香港の現在からすると信じられない光景で、'サークル'という言い方のこだわりも理解できないほどでしたが、まだぎりぎり「非人間性を一度深くくぐってきた人間主義」をいう実存主義も少数派の間では読まれてはいました。マルクス主義と入れ替わりで構造主義の知にとってかわられていましたが。ただ「ノンセクト・ラジカル」の市民運動化といいましょうか、公害裁判支援の運動がありました。当時それほ沈黙しなかった、したくなかった例外者たちが今日ネットをやっているのかしらという希望的観測も。「わらわれようとも、足をとられようとも、まったく自分たちの責任において理想の重みにたえねばならぬ。だが、無意味性から意味ある行為を生むという実存主義固有の方法によって、政治の領域でできることが残っているのではないか」(「現代日本の思想」) ああ、21世紀は、なんらか現場性と結びつく教室性なのかしら、わかりませんが、ああ、(ルカーチが酷く嫌った) 全体性を見失った非現実的ジョイス的居酒屋性にはまだチャンスはないのか?(笑)

2015年のグラグラする保守思想って...

現実の変化を口実にして(フランスの国家的他者を揶揄する言説への迎合)、あまりにヤスヤスと姿勢をかえ(国家の正当防衛権の集団的自衛権への溶解)、発展という美名で現実に身をあわせすぎるから(武力行使を叫ぶ)、生活の場を守っている国民大衆の信頼を得ることができないのではないか、'わが国'のグラグラする保守利屁(保守リベラル)ちゃんたちよ?安倍の路とは別に行く戯曲をお願いしますよ!



「われわれがつい最近のこととしてたどってきた〈弁証法の冒険〉とは、弁証法が――それは原理的に多くの中心と多くの入口をもった思想であり、そのすべてを究めるには時間が必要なのだから――当然経験しなければならぬ自己誤認のことである。マックス・ヴェーバーは、文化という名のもとに、あらゆる歴史の最初の凝集力を再発見していた。ルカーチは一個の現前する現実、すなわちプロレタリアートのうちにあらゆる意味が再発見されるときに、みずからを閉ざすような一つのサイクルのうちに全歴史を閉じこめることができる、と信じていた。だがこうした歴史的事実は、それがまず哲学的意識によって「用意され」ていたからこそ、またそれが否定性の象徴であるからこそ、普遍的歴史を回復するのだ」(本書282頁) 石井先生より


「現代日本の思想」は、あえて幸徳と大杉の思想の意味について深く論じないで、むしろアナキズムの思想を言うかれらの主体としての衝撃がどういうものであったかを明らかにしようとして、ここから、(前の時代の明治のときは言われることがなかった)白樺派、北一輝、吉野作造、共産党のそれぞれの言説が発明していく否定性をわかりやすく照らし出したとおもいます。ご投稿していただいたポンティーの言うような、(私の理解が間違っていなければ、自己欺瞞的な?「自己誤認」という認識の非連続性と戦争という事件性の影響を十分にとらえながら) 戦前に「用意された」否定性の連続したところに、50年代の久野と鶴見が同時代的に発見していく、戦後実存主義の位置と機能があるということに思い至りました。ちなみにサークル性は否定性の象徴として理解できるとしたら、それなりに期待された思想史的位置があったのだなとかんがえるようになりました。いまは教室性なのかしら、わかりませんが、(ルカーチが嫌った)全体性を見失った非現実的ジョイス的居酒屋性にまだチャンスはないのか?(笑)


「現代日本の思想」 (久野収、鶴見俊輔)から選んだ、1956年に書かれた一文。サークル性はバブルの時代に形骸化してしまい、これを読んだ80年代は二十代が沈黙した異常な時代。'サークル'という言い方のこだわりが理解できないほどでしたが、まだぎりぎり「非人間性を一度深くくぐってきた人間主義」をいう実存主義も少数派の間では読まれてはいました。すでに構造主義の知にとってかわられていましたが。当時沈黙しなかった、したくなかった例外者たちが今日ネットをやっているのかしら (笑)
「実存主義の方法は、専門的な学問とか芸術の領域だけにとどめられるものではない。ヤスパースは、実存的まじわりということを言ったが、日本の戦後派は実存主義者らしくおたがいの運動を尊重し、しかも深い心の交流をもつ交際方法をつくることができるだろうか?これもまた、サークル運動の今後の発展とかかわるものだ。また政治の領域においても、一度日本の国家の外に視点をおいた戦後派実存主義は、村落的情緒に曇らされぬ乾いた眼をもって、今後の日本のイメージを思い浮かべ、それにむかって自分たちを投企する行動を起こすべきである。一度、あらゆる日本的しきたりの無意味性を見てとった者にとって始めて可能な、自由な想像力をもって、今後の日本の設計図を思いうかべることができるのではないか。非人間性を一度深くくぐってきた人間主義でなければ、権力政治の法則の支配する世界において、なお、おくめんもなく理想を追求しつづけることはできない。戦後派は白樺派のように世界の客観的意志が自分の理想を助けてくれるとは思えない。わらわれようとも、足をとられようとも、まったく自分たちの責任において理想の重みにたえねばならぬ。だが、無意味性から意味ある行為を生むという実存主義固有の方法によって、政治の領域でできることが残っているのではないか」


ナチスは「ユダヤ人は不潔だからゲットーが不潔となった」と宣伝したが、「衛生状態が極端に悪かったゲットーに入れたから人々が不潔となった」が正解。「人がおらんから虐殺がなかった」という証言に、「虐殺される危険を感じた人々が隠れた為に人がおらんかったようにみえたと」と産経新聞は疑わないの?それとも、産経の記者は「いま待っている地下鉄の駅に電車がみえない」ときは、「ここから見えない他の駅にも電車が全然ない」とでも思うの?バカみたい


南京大虐殺とアウシュビッツ

マニアックになんでも記録したナチスがガス室の中の地獄を撮影しなかったはずがなくその失われた記録フィルムがいつでてくるのかという噂話があります。この戦争の悲惨を繰り返せまいとして噂のフィルムを長年さがしてきた人々がいますが、もっぱら現在の心配は、極右の人々はそれをみてもなにも感じないのではないかということです。同様に、南京虐殺がまったく無かったと言い切る世論によって、将来戦争へ行く集団的自衛権は秘密に、「敵」の捕虜を拷問したり処刑する危険性はないのかということですー無感覚に、かつてのように再び。恐ろしいことに、すでに、死刑という、ヨーロッパでは拷問と処刑とみなされている暴力に大半が反対していません。


失われた定理をさがしもとめて
ー <でもくらてぃあ>の決定する力

戦争の復讐劇、歴史修正主義の首相の靖国公式参拝、オリンピックの熱狂は一時的に、増幅する不安を延期してくれるだけ



選挙に圧勝した安倍自民党のもとで、美しい日本に帰れ!とばかり再び戦前のごとき翼賛的な大合唱が起きていますが、しかしそうして演出される戦争の復讐劇、歴史修正主義の首相の靖国公式参拝、オリンピックの熱狂は一時的に、増幅する不安を延期してくれるだけだとおもいます。どんな故郷 (初め) に帰るとしても、安心して帰るためには、戦後の原発の災いに帰結したジャパンアズNo.1のナショナリズム的繁栄が結局何を意味したのかについてワイワイガヤガヤと議論することがなければ。遡って、1920年代の天皇主権の下で成立した形だけの議会制民主主義が、「大逆事件」と大杉の殺害を契機に、昭和の陸軍ファシズムによって翼賛的代表制として形骸化したこと、戦後の最終的な骨抜きが安倍自民党の圧勝によって起きたことをしっかりとみなければ、この議論は有効に成り立ちません。<でもくらてぃあ>の決定する力は、対話術、問答術を意味するdialektiké technéに規定されています。帰るためには、小田実が言った、反軍国主義・反全体主義のこの<でもくらてぃあ>の力にウロウロウヨウヨと行くときではないでしょうか。




「ユリシーズ」は、現在進行中の、方法としての白紙の本。これは植民地主義がもたらす恐ろしい不毛な空洞を克服する方法。ジョイスの「自分で決めた亡命」とは、白紙の本にワイワイガヤガヤと人生の問題を書くために、アイルランド的にアイルランドのものを連れてウロウロウヨウヨと脱出した亡命だった

「ユリシーズ」、方法としての白紙の本

大杉栄は1920年にこう語りました。「人生は決して定められた、すなわちちゃんと出来上がった一冊の本ではない」と。各人がそこへ一文字一文字書いてゆく、白紙の本だとしたら、ジェイムス・ジョイスは人生を模倣した本を書いたのです。「ユリシーズ」(1922) の高さは越えられないのは、ジョイスの学びながら書いたその注釈学的な書き方に理由があります。どんなに神話と歴史と文体が詰まっていても、「ユリシーズ」は、現在進行中の、方法としての白紙の本という性格をもっています。これは、植民地主義がもたらす恐ろしい不毛な空洞を克服する方法であった、と、アイリッシュの批評家たちは見抜いています。たしかに、ジョイスの「自分で決めた亡命」とは、ほかならない、白紙の本にワイワイガヤガヤと人生の問題を書くために、アイルランド的にアイルランドのものを連れてウロウロウヨウヨと脱出した亡命でした。


白紙の本

「しかし、人生は決して定められた、すなわちちゃんと出来上がった一冊の本ではない。各人がそこへ一文字一文字書いてゆく、白紙の本だ。人間が生きてゆくそのことがすなわち人生なのだ。労働問題とはなんぞや、という問題にしても、やはり同じことだ。労働問題は労働者にとっての人生問題だ。労働者は、労働問題というこの白紙の大きな本の中に、その運動によって、一字一字、一行一行、一枚一枚ずつ書き入れていくのだ」(第一次「労働運動」第6号、1920年6月)。

大杉栄が労働者に語った言葉。ここに主張されているのは、大杉が幸徳秋水とともに語った直接行動論の理念性です。これは大杉の反ボルシェビキ、反第二インターナショナルの考えを凝縮した言葉です。たとえこの二人が知られていなくとも、68年に再発見された大杉と幸徳の理念は、「ノンセクト」の自発的な運動の主体性ーたとえば21世紀の香港、台湾、ニューヨークのウロウロウヨウヨ、ワイワイガヤガヤするの抗議運動ーにおいて現実化しています。21世紀のグローバルデモクラシーは「白紙の本」に一字一字、一行一行、一枚一枚ずつ書いています。そして現在沖縄の人々はなにを決めたか?非暴力抵抗の直接行動の理想でたたかうしかないのだときめたようにみえます。それにたいして、海保が市議視察船の船長の胸ぐらつかんでいます (写真)。自分でもこんな労働をやっている理由がみえない人間が自分の疑問を絞め殺そうとしているかのよう。疑問に思った労働を止めるかサボればいいのに、無意味に頑張りぬく日本人の絶対に降参しないという無理な兵隊メンタリティー。逃げられなくなってきた、文字通り自分の首を絞めている明日の日本人の一人ひとり姿。しかし



注釈学の思考とはなにか?

注釈学の思考は民主的に、書くことの痕跡、つまり原初的テクストと翻訳とそれを解釈した言葉から成り立ちます。書くことの痕跡から、読み手は、過去の書き手がいかに読んだかを知ることができます。ところが解釈を書く国家において生じるように、自らの言葉しか読まない権力は、痕跡を消し去ってしまうのです。痕跡を消去し尽くさないと、起源の物語を捏造・作文できないからだが、そうして自己のために書く国家の場合は、起源にあったと解釈する、自らのために祀る国家の存在を導き出してしまうのです。そうして解釈を書く国家は、大逆事件の幸徳を記し、甘粕事件の大杉を記したのだが、このやり方は、「古事記」の国家の起源を記してきたのとまったく同じものだといえます。

「<大正>を読む」からの問題提起

' 鎌田慧ははたして大杉を読んだのか'。大杉栄の人柄的魅力を語ることを中心にしていて、思想を明らかにしているとはおもえません。「無類の人」に先行して、「無類の思想」が存在します。大杉栄の思想の痕跡から、書き手がいかに大杉を読んだかを民主的に知ることができるのです。ところが鎌田の評伝は、講談的な角田房子と同様に、ただ甘粕事件の中の大杉を深めているだけならば、敢えて言います。つまりそれは、国家が殺害したあとに国家が捏造した物語に沿って大杉を再び殺害しているに等しいと言わざるを得ません。国家が殺害した大杉の思想はなにか?それは労働者に語ったこの言葉に書かれているのではないでしょうか。
「しかし、人生は決して定められた、すなわちちゃんと出来上がった一冊の本ではない。各人がそこへ一文字一文字書いてゆく、白紙の本だ。人間が生きてゆくそのことがすなわち人生なのだ。労働問題とはなんぞや、という問題にしても、やはり同じことだ。労働問題は労働者にとっての人生問題だ。労働者は、労働問題というこの白紙の大きな本の中に、その運動によって、一字一字、一行一行、一枚一枚ずつ書き入れていくのだ」(第一次「労働運動」第6号、1920年6月)。
ここに主張されているのは、子安氏がいう大杉と幸徳の直接行動論の理念性です。そして、たとえこの二人が知られていなくとも、大杉と幸徳の理念は、「ノンセクト」の自発的な運動の主体性ーたとえば21世紀の香港、台湾、ニューヨークの抗議運動ーにおいて現実化しています。21世紀のグローバルデモクラシーは「白紙の本」に一字一字、一行一行、一枚一枚ずつ書いています。


鎌田慧ははたして大杉を読んだのか?無類の人に先行して、無類の思想が存在する。大杉の思想の痕跡から、書き手がいかに大杉を読んだかを民主的に知ることができる。評伝はただ甘粕事件の中の大杉を深めているだけならば、国家が殺害した後に国家が捏造した物語に沿って大杉を再び殺害しているに等しい

注釈学の思考は民主的に、書くことの痕跡、つまり原初的テクストと翻訳とそれを解釈した言葉から成り立つ。書くことの痕跡から、読み手は、過去の書き手がいかに読んだかを知ることができる。ところが解釈を書く国家のように、自らの言葉しか読まない者は痕跡を消し去ってしまう。痕跡を消去し尽くさないと、起源の物語を捏造・作文できないからだが、自己のために書く国家の場合は、起源にあったと解釈する、自らのために祀る国家の存在を導き出してしまう。

ゴダール映画 「さらば、愛の言葉よ」はなにを告げにきたのか?

アナーキズムの法は全体主義国家を非難したとき、結果的に社会保障を否定したファシズムがあらわれることを助けてしまったとしたら、法は、自己の生存を保証してくれるものを否定した抗議者のように、自己自身と対立した苦しみに引き裂かれる。と、これは、保守リベラルの論客からよくきく非難ですが、このよう言葉がゴダールの映画「さらば、愛の言葉よ」のなかで本から引用されていました。ゴダールはこれにたいしてどのように理解したかですが、映画の中のどの言葉を追っても明らかにはなりません。しかしこれにたいする反論として、今回の映画の全体が構成されていったことだけはたしかだとおもいます。問題は法が何もせずとも、グローバル資本主義が国家を終わらせる方向に進んでいること、現実に新自由主義・新保守主義の国家自身がそれを望むように行動していることです。その前に、社会も、(分割された単位の)個人も成り立たなくなるでしょう。21世紀のファシズムというのは、人々がウロウロウヨウヨ、ワイワイガヤガヤすることのほかになにもできないような、社会も個人も成り立たない状況かもしれません。しかしここで何ができるかを話し合うしかないということではないでしょうか。日本は来年、戦争しているとおもいます。いまから、自分よりも人間を思って彷徨う犬 (哲学) に変容した、詩人(精神) の物を観る眼を一人一人がもたなれば、愛の言葉とともに戦争なき森に生きることなどはとても無理でしょう。それを告げに来た映画だったとおもいます



もしここだけを読まなければならないとしたら、「言葉と物」のどの章を読んだらいいのでしょうかとおたずねしたら、迷われて、「そりゃー、翻訳で一番力を入れた一番最初の'侍女たち'だよ」。この一年後に同じ質問をしましたら、しばらく考えて「一番最後の章にきまってるじゃないか」と。はじめとおわり(あるいは、はじめとはじめでないもの、つまり第二章第三章・・・)、この両者が、一民さんのなかでは、常にある多様な関係を保って互いに繋がっていたのだなと納得したものです。「言葉と物」については自分から語ることがなかったのですが、最後の総会のときは、ほんとうに珍しくですね、びっくりしたのですが、自分から本について思いだしていました。「ぼくは当時の大江くんと三島の両方から、つまり左と右からきみはいいものを出したと褒められちゃったものだからね、こんなにうれしいことはなかったよ」と。来年は、日本は戦争しているとおもいますけど、あきらめず「2016年のフーコとはだれか」を書きたいです !

アナーキズムの法は全体主義国家を非難した結果, 社会保障を否定したファシズムがあらわれることを助けてしまったとしたら、法は、自己の生存を保証してくれるものを否定した抗議者のように、自己自身と対立した苦しみに引き裂かれることになる。と、これは、保守リベラルの論客からきく非難でありますが、(だから国家を尊重しろ、と説いてくるのですけれど) しかし法がなにもしなくても(なにもできないようなことも含めて)、 グローバル資本主義が国家を終わらせていきます。新自由主義・新保守主義の国家があたかもそれを望むかのようにみえます。

東アジアとはだれなのか?

グローバル資本主義の1990年代以降は、それに対抗していく世界市場の分割化が現在進行形で模索されつつあります。いわば「上からの」新しい秩序のなかで「帝国」が成り立つというのが、柄谷行人の「世界共和国」以降の言説です。柄谷の「帝国の構造」では、グローバル資本主義に対抗するために、「帝国」の「周辺」にたいして及ぼしはじめた文化的な支配が正当化されています。このような「帝国」の言説的な求心力は、かつての国家を中心とした帝国主義の政治的・経済的な求心力とは異なるものです。たとえば、「帝国」の求心力は、東アジアに席巻している、「天安門事件」後のポスト・コミュニズムの「新儒教」の一的<多様体>の理念にみることができます。、つまり一が多を包摂する文化的イデオロギー、市民の民主的な要求を抑圧する帝国概念です。実際に柄谷はこの新儒教的「天の声」から、(市民たちの信教の自由の要求、政治的独立の要求、新自由主義・新保守主義に対する抗議の形をとる) チベット・ウイグル・香港そして台湾に起きている市民運動にたいして反対の立場を表明していました(「帝国の構造」)。
ところでこの「新儒教」の帝国概念と靖国的国体概念の根底に共通の朱子学的世界観があります。靖国的の国体観念が後期水戸学派の儒教的変容としてあったからです。説明の必要があります。近世ではナショナリズムは異常な主張とみなされていましたが、幕末に現れてくるメインストリームのナショナリズムは、自らのアイデンティティーをラジカルに言うために「敵」のアイデンティティーから借用してくる必要がありました。(当時の言説は日本を中国として排他的に自己主張したほどです。元々は地理的表象であった'支那'という蔑称においてみることができるように、"脱アジア"の国家に先行して、誕生しつつある国家の排他的他者を揶揄するアイデンティティーが先行したのです。
さてここでいいたいことは、東アジアの内部で起きている、歴史修正主義者の安倍を起因とした、憎悪の(互酬的)ゲームが、いかに、それぞれの国の人々を苦しめているかということです。フランスにおいて起きていた、国家の排他的他者を揶揄することの危うさは、東アジアの場において繰り返されてきたこと。ほかならない、その差別の中心を構成するのが、戦争神社、靖国神社に公式参拝してきた小泉と安倍の挑発的行為であります。




いまだに戦争を終わらせられないという現状のことをかんがえると、戦後ドイツの戦争をいかに終わらせるかという真摯な取り組みは、日本が依拠しなければならないあり方であります。これは疑えません。が、他方で、戦後の近代がファシズムをそれほど終わらせることがほんとうにできたのかという問題をかんがえなくともすむということではなさそうです。たとえば、全部をナチスの出現のせいにすることによって、ナチスの出現を例外的な事象とみなす言動があるようです。同じように日本の保守リベラルの知識人のなかには戦前を例外的な出来事のように語る者がいますが、これには違和感をおぼえます。冷戦からの日本をみるとファシズムが復活したというよりは継続していたとみることもできるほどの勢いでした。これにかんしては、軍国主義的敗北は政治的敗北を意味しないとだれかが書いていた通り、たしかに、ナポレオンの帝国や国家が軍事的に負けても共和制の理念がヨーロッパに広まりました。同じことが第二次大戦でも。仮説としてですが、ドイツと日本についていうと軍事的に敗北したが、勝者のアメリカを経由して、ファシズムが世界中に広まることになったと現在疑ってみることも、けっして無駄ではないだろうとおもいますーこのグローバル資本主義の時代に安倍自民党がアメリカの<帝国>の一部になろうとしている方向を批判していくためには。




第一 大日本国体
一、肇国
 大日本帝国は、万世一系の天皇皇祖の神勅を奉じて永遠にこれを統治し給ふ。これ、我が万古不易の国体である。而してこの大義に基づき、一大家族国家として億兆一心聖旨を奉体して、克く忠孝の美徳を発揮する。これ、我が国体の精華とするところである。この国体は、我が国永遠不変の大本であり、国史を貫いて炳として輝いている。而してそれは、国家の発展と共に弥々鞏く、天壌と共に窮るところがない。我等は先づ我が肇国(ちょうこく)の事実の中に、この大本が如何に生き輝いているかを知らねばならぬ。

— 文部省、國體の本義、9頁

天皇機関説への批判

「天皇機関説事件」も参照

(旧字旧仮名版)



天皇は統治權の主體であらせられるのであつて、かの統治權の主體は國家であり、天皇はその機關に過ぎないといふ說の如きは、西洋國家學說の無批判的の蹈襲といふ以外には何らの根據はない。天皇は、外國の所謂元首・君主・主權者・統治權者たるに止まらせられるお方ではなく、現御神(あきつみかみ)として肇國以來の大義に隨つて、この國をしろしめし給ふのであつて、第三條に「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」とあるのは、これを昭示せられたものである。外國に於て見られるこれと類似の規定は、勿論かゝる深い意義に基づくものではなくして、元首の地位を法規によつて確保せんとするものに過ぎない。

— 文部省、國體の本義、132-133頁

(新字新仮名版)



天皇は統治権の主体であらせられるのであって、かの統治権の主体は国家であり、天皇はその機関に過ぎないという説の如きは、西洋国家学説の無批判的の踏襲という以外には何らの根拠はない。天皇は、外国の所謂元首・君主・主権者・統治権者たるに止まらせられるお方ではなく、現御神(あきつみかみ)として肇国以来の大義に随って、この国をしろしめし給うのであって、第三条に「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」とあるのは、これを昭示せられたものである。外国に於て見られるこれと類似の規定は、勿論かかる深い意義に基づくものではなくして、元首の地位を法規によって確保せんとするものに過ぎない。

— 文部省、國體の本義


 明治以來の我が國の傾向を見るに、或は傳統精神を棄てて全く西洋思想に沒入したものがあり、或は歷史的な信念を維持しながら、而も西洋の學術理論に關して十分な批判を加へず、そのまゝこれを蹈襲して二元的な思想に陷り、而もこれを意識せざるものがある。又著しく西洋思想の影響を受けた知識階級と、一般のものとは相當な思想的懸隔を來してゐる。かくて、かゝる情態から種々の困難な問題が發生した。曾て流行した共產主義運動、或は最近に於ける天皇機關說の問題の如きが、徃々にして一部の學者・知識階級の問題であつた如きは、よくこの間の消息を物語つてゐる。

 明治以来の我が国の傾向を見るに、或は伝統精神を棄てて全く西洋思想に没入したものがあり、或は歴史的な信念を維持しながら、而も西洋の学術理論に関して十分な批判を加えず、そのままこれを踏襲して二元的な思想に陥り、而もこれを意識せざるものがある。又著しく西洋思想の影響を受けた知識階級と、一般のものとは相当な思想的懸隔を来している。かくて、かかる状態から種々の困難な問題が発生した。嘗て流行した共産主義運動、或は最近に於ける天皇機関説の問題の如きが、往々にして一部の学者・知識階級の問題であった如きは、よくこの間の消息を物語っている。

民主主義、人権感覚の無視?

北一輝
権力が非常の場合有害なる言論又は投票を無視し得るは論なし。いかなる憲法をも議会をも絶対視するは英米の教権的デモクラシーの直訳なり。これデモクラシーの本面目を覆う保守頑迷のもの。(『国家改造案原理大綱』)

現場にいるわけではないので間違ったことをいうかもしれませんが、抗議の仕方が、極右翼に利する方向で国の右傾化を推進したのでしたら、結果論ですが、自分の言説がどういう影響を与えるかという戦略をかんがえないような、ナイーブに正しすぎた擁護にみえます。ただし、デモの後のリアクションをもうすこし長期的に見る必要があるとはおもっていますが。そう単純ではないでしょう。浅田氏のいうことは、フランスのことをそのまま分析しているわけではなく、日本側の反動的反応にたいする当然の牽制を含んでいて、まさしく正しいことを言っていると思いますよ。

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文
二月2015 (3) 言葉と表現と射影のブログ/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる