言葉と表現と射影のブログ

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zoom RSS 2015年二月 (4)

<<   作成日時 : 2015/02/19 23:59   >>

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…経済学のすべての学派の共通の揺籃は、古典学派の体系のうちに見出される。…。いずれにしても、古典学派は今日なお、他の科学における古典的学派に見られるよりも遥かに強力に、生ける力なのである(J・A・シュンペーター)

1937年にミュンヘンで開催された<退廃美術展>は史上最悪の画像破壊の一つとして、1933年の「焚書」とならんで、ナチの蛮行を象徴する指標的事件として有名である。1937年七月、宣伝省主催の<退廃美術展>が開幕した。ドイツ32の公立美術館からわずか三週間でミュンヘンに集められた約120作家の650余点の絵画、彫刻、版画、写真、書籍を展示し、4か月で約200万人の入場者を動員した。
どのような芸術が非ドイツ的で、ナチス統治下の第三帝国には受け入れられないかを国民に示すのが、同展の開催趣旨だった。モダン・アートへの「嘲笑と誹謗」であり、出品作品は非難・弾圧・迫害の対象として集荷された前代未聞の展覧会だ。


<退廃美術展>はどのような芸術が非ドイツ的で、ナチス統治下の第三帝国には受け入れられないかを国民に示すのが、同展の開催趣旨だった。モダン・アートへの「嘲笑と誹謗」であり、出品作品は非難・弾圧・迫害の対象として集荷された前代未聞の展覧会だ。展覧会案内のテーマはつぎのようになっている。

かたちを歪める
宗教感情を傷つける
階級闘争を呼びかける
戦争の恐怖を描く
倫理の腐敗を描く
アーリア人種の理想を欠いた人物を描く
精神病患者の絵画との類縁
ユダヤ人芸術家の作品
「完璧な狂気」に分類される例

展示の前半部は宗教、風景、農民、女性などとモチーフごとに分類し、後半部はナチが嫌った抽象、超現実主義など、様式や題材をまとめて展示したが、きわめて粗略で美術史的にみれば首尾一貫した方法とはなっていない。異なる特性を備える多数の絵を一括して展示するやり方で、各作品の内容を均一化し、発信されるメッセージの微妙な相違を抹殺し、個別の鑑賞を妨害する。美術を政治に利用するために、観客の心理効果を狙って拒否反応を起こすよう巧みに構成された展示会。
展示品のすぐ下には各美術館が購入した時の価格が記してあり、赤い大きな紙に「働くドイツ民衆の税金から支払われた」と書いて貼り付けてあったが、1923年以前の購入品には第一次大戦後のインフレ下n貨幣価値による法外な数字をことさら換算しないそのままの値段が記入されていたので、観客は高額さに驚き、税金の浪費に反感を抱いたという。

完成したての「ドイツ芸術家の家」の落成式でのヒトラーの演説

「・・・これから、最近のわが国での文化の破壊分子に対して厳しい粛清の戦いを開始する。しかし、もしその中により高い動機に動かされているのだと、なお信じている者がいるなら、それを証すのにあと4年の時を与えよう。4年はわれわれにとっても最終判断を下すのに十分だ。そに後に、互いにかばい合い寄りかかっている嘘つき芸術家、半可通、やかまし屋を選り出し片づけるということをここで約束しよう・・・」


進歩の感覚は、物語る特権を他人に与えます。だから経典に何が書いてあるかの質問に答える特権、「アイーダー」の神官の読むあの巨大な権力は、進歩が過去にあったと指さす。初めて言うことでもあたかも繰り返し同じ身振りとジェスチャーで指さなければならないのです。これと全く正反対の方向で、「資本論」を読む特権は未来を指すことに。特権の近代的形態は、繰り返しいわれていたことでも、あたかも初めて指すことを義務づけるのです。ところが、厄介なことに、いつの時代も、そもそも読むことができないのだ、と、見えてしまう者も稀に存在します。しかしその見える者は、その異常な力ゆえに、共同体に畏怖されて処刑されてしまう危険を負うのです。そうして、書かれた読めない映像が日本知識人の内部で繰り返されてきたはず。書かれた沈黙の映像が日本知識人をとらえて離さなかったのに、しかしヴェーユのように盲目の言葉を語る勇気がなかった?つまり読む特権を犠牲にしたくなかった?



1995年、鎌倉美術館で展示がありました。「近年のモダニズムの無機的画一性への不満からポストモダンへ、さらにポストモダン批判へという逆転・再逆転のプロセスによって世界的規模で再現されているが、30年代のドイツにおいて」はどうだったのかと思想史的に比べることの必要性を思いました。

「1937年にミュンヘンで開催された<退廃美術展>は史上最悪の画像破壊の一つとして、1933年の「焚書」とならんで、ナチの蛮行を象徴する指標的事件として有名である。(・・・)<退廃美術展>と<大ドイツ美術展>についていえば、それはもちろん最悪の画像破壊であって、弁解の余地はない。ただその破壊性はノルデやバルラハすら締め出した強制的一元化の抑圧に由来するものであって、ワイマール時代以来の芸術的価値のアマルガム的共存という事実は残っている。セントラルとマージナルの関係で、ドイツ芸術の世界は19世紀末以来中心にモダニズムが位置し、伝統的風俗画が周辺に追いやられた構図となっていたが、その位置関係はの軸は状況の中で揺れ動き、例えば、建築の分野ではすでに30年代末にはモダニズムのアポリアが露呈して、その行き詰まりが顕在化していた。ナチを含めてすでに新古典主義への回帰は時代の趨勢だった・こうした揺れは近年のモダニズムの無機的画一性への不満からポストモダンへ、さらにポストモダン批判へという逆転・再逆転のプロセスによって世界的規模で再現されているが、30年代のドイツにおいてはそれが、芸術の次元を超えた時代意識の力学によって、「新古典主義」とい美学的価値そのものが歪曲されてしまったのだ。それでもすでに述べたように「ナチ芸術はドイツの現代芸術史における断絶を意味しはしなかった」のである。」 (平井正、1930年代の文化状況、1995年)


おじさんたちの姑息なやり方にうんざりする

日本国家が自ら関与した慰安娼婦の問題を国家の責任問題とともに論じているときに、まさにここから、これと全く関係のない話をはじめるのはなぜなのでしょうか?わからないな。ほからない、この国が直接関与した軍の慰安娼婦について話をしているところから、ほかの国家にあったという慰安娼婦の話をするのは、ただ、議論そのものをこわそうとし、自分に都合よく、日本国家の責任などなにもないとしたいからではありませんか。日本のおじさんたちは全部見抜かれていますよ。この姑息なやり方が一層不信感を生んでいくことがわからないのですか?

ー> 官房長官 “出身国によって意見の全く異なる案件”




千田是也とはだれか?

ベルトルト・ブレヒト「第三帝国の恐怖と貧困」の公演が、え?もう二週間を切ったかと驚いておりますが、東京演劇アンサンブルは、千田是也の訳に依って芝居を行うことになっています。千田是也ってだれ?というと、劇団代表の一人でおられる入江さんに叱られそうでありますが、その入江さんも十代のときに俳優座の面接で、「ぼくを知らないはずはない」と千田是也がいうのにたいして、「知りません」と言ったから、こいつは面白いやつだとかえって評価されて合格したという話をお聞きしたことがあります( 笑)。肝心なことは、まだ知識のない若いぼくに「教育を与えることができない劇団なんか失格だ」と訴えたことが、千田是也の心をうったのかもしれませんね。舞台というのは、劇団員たちが戯曲を読むために取り組んできた研究の成果を示す場。一人一人が主役となる、演じる主体として、この古典の戯曲に新たにどんな意味を付け加えていくことができるのか大変楽しみであります。さて千田是也は、1927年の5月25日にべルリンに到着しました。この約三週間前に、5月1日に、ベルリンでの最初のヒトラー演説が行われています。(クロイツベルクのマウアー・シュトラーセのホール「クルー」) また三か月後には、8月19ー21日にニュルンベルクではじめて第三回ナチ党大会が開催されます(以降、会場はすべてニュルンベルクとなる。) 千田是也は31年まで滞在していますが、ヒトラーが公にベルリンに現れてくる時代にベルリンにいたということになります。創立60周年の東京演劇アンサンブルにとっても、この千田是也が訳した戯曲を演じることには、おそらく大きな意味があるのではないだろうかと考えています。ここでファシズムが台頭する1927年から38年までの<人間の危機>年表を書いていこうかと準備しています




“次に来るのは裁判官たち
彼らに一味徒党はこう言う
法とは、ドイツ国民を益するもののことである
だが、どうしたらそれが分かるか
それを知るには、国民全体を牢に入れるまで裁判を続けねばならぬだろう”
(ブレヒト)

'突撃隊はどこからでもやって来る。
だのに連中は、ベーベルがどうの
レーニンがどうのと、また議論だ。
ナチスの穴倉が、血まみれの手で
マルクスとカウツキーの本を突き付け
団結させてくれるまでは。'
(ブレヒト)


ナチの<退廃美術展>とはなにか?

1937年にミュンヘンで開催された<退廃美術展>は史上最悪の画像破壊の一つとして、1933年の「焚書」とならんで、ナチの蛮行を象徴する指標的事件として有名である。ナチの芸術政策によって生じた変化の大きさを、マックス・ベックマンは1932年になってようやく気がつき始めた。ベックマンが<退廃美術展>の出品者として選ばれたことは、かれのドイツでの活動の終焉を意味した。


もう私は「資本論」について語るのをやめたと言ったときに再び「資本論」について語ってしまっている自己に気がつくというほどの重いこだわりは何か?と、自己省察の批評みたいに書こうとして、<俺は悪くない!全部「資本論」を読む知識人たちが悪いんだ!!>という自己中心的な書き方になりましたが

「資本論」を読むというこだわりは、日本知識人だけに起きるものであるという。日本知識人となにか?その知の構造を明らかにするために、廣松、今村、「現代日本の思想」(久野&鶴見)、柄谷がいかに「資本論」を読むのかをみていく。と、「資本論」を思考可能な空間に思考できない特異点として措定していることがわかる。このような特異点としての措定とは、起源の指定(廣松)、隠蔽の置換(今村)、党派性の根絶(「現代日本の思想」)、同化主義(柄谷)のこととして整理できようか。このような人文科学におけるかくの如き特異点がどんな深遠な限界を思考にもたらすかは、宇宙物理学の数学が解消しようとする特異点の場合と比べることができるかもしれない。彼らの「資本論」の読みの共通の特徴といえば、その読みに思考不可能な優越的な特権を与えることだ。その前に、モラルの特権と経験性の特権は河上と宇野に配分されていた。この特権性の前では、現代経済の岩井が他のテクスト(スミス、ケインズ)と関連づける読みがただ二次的な重要性しかもたないのだ.

さて廣松に対した柄谷にとっては、問題は、経済学ですでに繰り返し言われていたようなことを、「資本論」を読む廣松があたかも初めて言ったとしたかれのこだわりにあった。柄谷が廣松にあれほど怒った理由ははっきりとわからないけれど、かれの怒りは、廣松が自らの思考を「資本論」を起源とする反駁できない中心に向けられていたように思える。

次に、今村の場合、親鸞の清沢の文からレヴィナスの暴力論を読みだしてしまうかれの読みに言えることだが、絶えず書かれていない西欧の知を読みだすくせに、同じようには書かれてない日本の暴力のことは決して読みださないように、彼の「資本論」の読みも、フランス現代思想の構造を読みだすまさにそのときに、歴史修正主義者の安倍の国体論的ファシズムー東アジアと人類の平和共存を壊す靖国公式参拝と原発推進一体構造 (政財官マ司)を決して読みだそうとはしない。日本の構造の暴力をいかに終わらせるかということ、そしてその目的の為に、人文科学の私達はまだ同調しない自由がある。これを言わない !

三番目に、「現代日本の思想」の画家達は、自分達が表象されている絵のなかに見られると同時に、自分達が熱心に何かを表象している絵を見ることができないとでもいうように。もちろんこの画家たちは思想家たち(久野&鶴見)のことである。自分達が表象されている思想の絵とは近代主義・民主主義・人権感覚である。と同時に、自分達が熱心に何かを表象している絵を見ることができないとでもいうような思想の絵は、恐らく社会主義とナショナリズムのことであろう。つまり等式はこういうことだ。全体主義=社会主義+ナショナリズムー(近代主義+民主主義+人権感覚) そうして北一輝が陥る全体主義が演繹される。戦後民主主義が大正デモクラシーから呼び出す近代主義と民主主義と人権感覚は、非転向型実存主義的サークルの読みによって可能となるという。非党派的に読みの中心に「資本論」がある。例えば、ここから「資本論の世界」の内田は死んだ労働と生きた労働の交換に、生活者の声の全体性をきくことができた。

最後に、柄谷が廣松から奪ったのは、「資本論」になにが書いてあるかということに答える特権であった。「トランスクリティーク」「帝国の構造」は、「資本論」の読みを絶対的前提としている。だからかれの「資本論」の読みの無理は、トランスクリティークの無理を、帝国の構造の無理を構成してしまうのである。

「帝国の構造」が描く21世紀の風景は、「帝国」の文化的な同化主義である。「帝国」の中心にある国家は自らの普遍的理念(コミュニズム的平等主義)を捨て去ることによって、国家の敵対的他者の(対抗的な)アイデンティティを消失させてしまう。即ち対抗的な民族主義・ナショナリズムの消失である。

グローバル資本主義の時代に、「資本論」を読むという言説がそれを言う柄谷に触発する意味は何か?その意味は、世界共和国性の解釈から帝国性の解釈への移行の内に読み取れる。が、「帝国」の党派的イデオロギーがグローバルデモクラシーの白紙の本に綴られ始めた一字一字の痕跡を消し去る事はできまい



いつまでも「永遠のゼロ」ではない

大手全国新聞のお上への迎合的同調が起き、生命にかかわる情報へのアクセスが益々遠ざかったようにおもえます。秘密保護法でこれから何が隠蔽されるのかそれすら秘密となりました。政治の風景の視界が極端に狭くなり他の選択が無いかの如くすっかりと囲まれてきました。同調する空気も増幅中。ではありますが、しかし、3・11以前のときと同じようには人々は黙らなくなったことを国はまだ気がついていないのでしょうか。この変化は決定的。人々は過去にさかのぼってなにが問題であったのかについて語る言葉がなければ。いくら「安全な」物質的な基盤が回復したから帰れと一方的に告げられても、それは無理、決して安心できませんから。隠すつもりはなかった?ー> 漁業者「信頼崩れた」=東電、汚染水流出を説明―福島



思想というのは終わらない。
消滅したときに変容しているだけだ。
思想の思想性はわれわれの側に終わらない可能性がある。
2015年のブレヒトの思想は、ローザの消滅する肉体の詩を書いたほどの唯物論の、死を超越した、唯物論的批判精神の故郷に帰ることができるが、
しかし人々は故郷に帰るためには根本を問うことが条件となるだろう。


沖縄から遠く離れて。何を知るべきなのか?わからないまま
「安倍首相にとって沖縄は植民地か。」許せない
「大手メディアは沖縄にもっと関心を寄せるべきだ。」異論なし
ただ、安倍の沖縄、大手メディアの沖縄とはべつに、
辺野古の海で人々が沖縄自身を存在させるために、
非暴力の直接行動しかないときめたようにみえる。
たぶんわたしは一番それを知りたいのだ

ただ自己の名誉心の内部に勝手にこしらえた
「英霊」の声を聞きすぎる一方で、
<戦争を終わらせる>と誓った憲法の理念性を住処としている
死者たちのことを理解しないならば、
ただ一国の都合で書き換えてしまうということが起きる。
このことは何度でも言おう。
人類が戦争の歴史を書いた以上、
一国の都合で書き換えることなどは
倫理的に不可能なことであると言わざるを得ない

歴史修正主義のプロパガンダの世ほど嫌なものはなく、
2015年のいまを慣れてはいけないんだ。
と、自己の起源の解釈について考えさせられる
二月二十三日が一番厄介だ。世界は古典を一行一行読むような、
白紙の本をつくる意志がまだあるか?
芸術がそれを言う主体に触発した意味?
フーコが言う統治性、非対称な諸力の関係を再びかんがえる。
こんなところで、地獄の黙示録の魔法使いのほうきも取りのぞけない、
不均衡性。まずはLDPの'国民'という時代遅れな鏡を割ることから


ブレヒトの唯物論的な批判精神とともに

当時は革新的だった、ブレヒトの演劇で舞台上の話し手が観客に問題を呈示し観察させるというアジる批判性は、今日、テレビの保守的なニュース・キャスターのアジる大衆性にとってかわられてしまった、と、嘆いていた論文を「ニューレフト・レビュー」誌で読んだことがあります。同じことはできないという論証の一つですが、だれよりもブレヒトがこのことを知っていたとおもわれます。そのブレヒトから直接学ぶことがまだあるとしたら、それは、ナチスに虐殺された者の河に捨てられた死体について書いた詩のあの徹底した唯物論的な批判精神ではないでしょうか。ブレヒトはこう語りかけるようです。遺族の如き視点でわれわれのローザを思い出す必要がない。恐ろしいことはなにもない。死体は消滅すべく消滅する。ただそれだけのことだ。しかし思想というのは消滅しない。思想の理念性はわれわれの側に永久に生き続ける可能性がある。人間性の内部で、これをできるだけ大事にしていこうと。2015年の現在、ブレヒトの唯物論的な批判精神はふたたび、ここに立つことができるのではないでしょうか?そのためには語ること...


[フリードマンによって確立されたシカゴ学派の政策上の諸見解の第一として]…彼は…貨幣経済学の研究を復活させた。彼は貨幣数量説を利用し、経済行動の研究のみならず、ケインズ学派の強力な批判に生かすため、貨幣数量説に磨きをかけ拡張した(G・スティグラー)

浩宮さんは歴史修正主義の政治家と文化人たちにたいして、なにを言おうとしているのでしょうか?

日本の政治家と文化人たちのワンパターンに、遺族になったつもりで語るやり方があります。この遺族の語り口は政治家と文化人の語りにある種の特権性を与えます。そうしていつまでも死を強調しすぎるから自ずと右翼的になっていくのです。実際にこれによって恐怖のうちに右翼につけ込まれふりまわされてきたのではないでしょうか。ただ自己の名誉心の内部に勝手にこしらえた「英霊」の声を聞きすぎる一方で、<戦争を終わらせる>と誓った憲法の理念性を住処としている死者たちのことを理解しないならば、ただ一国の都合で書き換えてしまうということが起きるのではないかと思います。このことは何度でも言います。人類が戦争の歴史を書いた以上、一国の都合で書き換えることなどは倫理的に不可能なことであると言わざるを得ません。


子安

労働運動における労働者こそが、あるいは体制変革的運動における民衆こそがその運動の主人公であって、決して使い捨ての道具であってはならない。労働者・民衆が運動の主人公であるとは、その運動における一歩一歩に自分たちの生きる目的を刻みつけていくような自発的運動者であることだ。アナルコ・サンジカリストのいう「直接行動論」的労働運動とは本質的にこのようなことを意味するならば、「直接行動論」とは〈議会主義〉か〈直接行動主義〉かといった労働運動の戦術上の選択肢を構成するような問題ではない。「直接行動論」とはアナーキズムあるいはアナルコ・サンジカリズムという思想の本質的な運動論ではないであろうか。それがアナーキズムだといってもよい行動者の思想だと私には思われる。そしてこの思想は1920年代日本に成立する天皇制的国家の議会制民主主義のもっとも強い批判思想であったし、同時にこれはロシアに成立しつつあるソヴィエット国家権力とそれを構成するボルシェビキに対する極東の労働運動者からのもっとも厳しい批判思想であった。だからこそこの〈思想〉はこの〈人〉とともに殺され、この〈人〉の事件の影に蔽われて見失われねばならなかったのである。


歴史修正主義のプロパガンダの世ほど嫌なものはなく、
2015年のいまを慣れてはいけないんだ。
と、自己の起源の解釈について考えさせられる
二月二十三日が一番厄介だ。世界は古典を一行一行読むような、
白紙の本をつくる意志がまだあるか?
芸術がそれを言う主体に触発した意味?
フーコが言う統治性、非対称な諸力の関係を再びかんがえる。
こんなところで、地獄の黙示録の魔法使いのほうきも取りのぞけない、
不均衡性。まずはLDPの'国民'という時代遅れな鏡を割ることから

Japan’s crown prince has warned of the need to remember the second world war “correctly”, in a rare foray into an ideological debate as nationalist politicians seek to downplay the country’s historic crimes.
Naruhito told reporters: “It was very painful that many precious lives were lost, many people suffered and felt deep sorrow in the world including in Japan.
“It is important that we never forget people who died in the war... (and we must) deepen our appreciation for our past so as not to repeat the horrors of war and to foster a love of peace,” he said.


「盲目の言葉、沈黙する像」のデュラス「インデイアン・ソング」の本質を明らかにするために、フーコの「言葉と物」を分析したドゥルーズは、言葉ー>言表可能性、物ー>可視性、を導き出した。ゴダールの映画においてこそ二つの間には、絶えず非合理的な切断があったが、絶え間なく繋がりは回復される。どちらもそれ自身を他から分かつ自身の限界に、見られることしかできない可視的なもの、語られることしかできない言表可能なものに到達する。

たとえば、原初テクスト(古事記)の見られることしかできない可視的なもの (漢字言語) から、語られることしかできない言表可能なもの(起源)に到達するのは無理だろう。

またほかの例では、「資本論」は原初テクストの次元に高まるのは、柄谷等の日本知識人が他に依拠できないとする程の優越的特権性を洗礼的に与えるときであるが、資本の運動のことしか書かれていない可視的なもの(文字)から、語られることしかできない言表可能なもの(国家と民族)を読みだす無理は、原初テクストの場合と全く違わないのである。

この場合、「盲目の言葉、沈黙する像」は二つの間の関係だが、「トランスクリティーク」の冒頭はいきなり三つの関係から出発したのである。「資本」「国家」「民族」は、それぞれ、国家と民族、資本と民族、資本と国家から自立した抽象的項として指定されている。他に、Xとしての (消滅した社会主義から生まれる)帝国の構造を指定することになるだろう。Xは三つの抽象的項においてどうしても成り立たなければならない理念的な位置と機能をもっている。読者はこのXが世界共和国的なものと当然考えていたのだが、実際は帝国の構造と柄谷が呼ぶものであることが後でわかってきた。問題の「帝国の構造」(2014年)は、「トランスクリティーク」の後に出た。なによりも、「トランスクリティーク」「帝国の構造」は、柄谷においては、「資本論」の読みを絶対的前提としている。だからかれの「資本論」の読みの無理は、トランスクリティークの無理を、帝国の構造の無理を構成してしまうのである。図式的に整理してしまうと、柄谷の「帝国の構造」は、世界資本主義と米国の「帝国」 (おそらくは、「亜周辺」の安倍自民党の日本が包摂的に含まれることになるのだろうか) への対抗として、「周辺」の国々を一的多に同化する中国の「帝国」を物語っていた。しかしこの点にかんしていうと、台・韓・日・中の四つのあいだに「東亜性」の概念を再構成する分析の方がはるかに民主的だったと思い返される。実際に、戦前の反省を踏まえた上で、子安氏が理念的に提唱した台湾 とコリアを中心とする、かれらのイニシアティブによる東アジアの関係をかんがえなければならないといえようか。2014年からの現在は、東アジアの未来は台湾と香港の学生の渦巻のごとく起きた反グローバリズム運動ー非暴力抵抗の直接行動ーに決定的に依ることになったようにみえる。

最後に、N個のあいだは何か?ほかならない、穴キズムとしての脱出する「あいだ」性だ。たとえば、N次元のジョイス文学のヒルベルト空間が一つのあいだのベケット文学と共在するようにおもわれる。文学以上の意味をもつのは、一に還元されない多の空間をわれわれに触発するときだろうか



二十%で多数を占める選挙制度と、長期不況と放射能汚染への不安で安倍のほかに道がないと無条件に思う五十%(内閣支持率) の下で、国際環境が変わらなければ、安倍政権は長期政権の可能性も、何十年とか?いまを慣れてはいけないんだ。自己の解釈について考えさせられる誕生日ほど厄介なものはない

La dissymétrie du rapport des forces, voilà, je crois, ce qu'on peut appeler gouvernement
,ou ce déséquilibre des forces donne lieu au gouvernement
Michel Foucault, L'origine de l'herméneutique de soi.(1980)

プロパガンダの世は嫌なものだ。世界は古典を一行一行読むような、白紙の本をつくるような意志がまだあるか?20世紀の「ユリシーズ」がそれを書く主体に触発した意味は?フーコが統治性と呼ぶ非対称な諸力の関係のことを思う。ネットで書き続けていたあるテーマを二十代の者がそれなりに理解していた



Bēowulf is mīn nama. 「マイ・ネーム・イズ・ベーオウルフ。」 (Beowulf 343)

問題がありましたが、もう事実上選挙というものが終わったとわたしはみています。20%で多数を占めることができる選挙制度と、長期不況と放射能汚染にたいする不安から半分が安倍のほかに道がないとかんがえるのが50%(内閣支持率) のもとで、安倍政権は南米の独裁者のように長期政権になる可能性も。安倍自民党、ジュニア安倍自民党が三十年とか、三百年とか、わかりませんが。こちらはあと二十年生きれるかわかりませんが、この間に、4年に一回はパチパチと戦争を行い、他との交流によって豊かになる文化の可能性を憎悪する反知性主義が席巻するとしたらこれをみるのが嫌でありますな。民主主義は日本の外部で進歩していくとおもいます。いや、民主主義はこういう民主主義なき国だからこそ、他と交換できないほどの価値が出てくるのかもしれません。なににしても江戸時代の身分制的な抑圧体制よりはましですが、江戸思想のような活発な言説が出てくるかは別問題です。悲観的に楽観しております、はい。

本居宣長
漢意とは、漢國のふりを好み、かの國をたふとぶのみをいふにあらず、大かた世の人の、萬の事の善惡是非(ヨサアシサ)を論ひ、物の理リをさだめいふたぐひ、すべてみな漢籍(カラブミ)の趣なるをいふ也(玉勝閨j


礼儀正しくふるまっていればおいしいエサももらえますが、犬だから吠えたいんだあああ、と言う面もあり。迷惑なのは、有名人の言葉のほうで、マス情報社会にあって、ききたくもないのに勝手にこちらの領域にどかどかやってきますから、厄払いとして呼び捨てにする人も結構多いでしょう。そんな迷惑な連中を「さん」づけでうっかり三回以上呼んだらこちらがやっつけられてしまいます(笑)。もし同じ目的ならば、ネットの中では、全部呼び捨てで通すという約束で達せられます。が、本当は一番いいとおもうのは、一切名前を使わずに文をつくるということ。やはり名を前提とした懐疑主義というのは、現実との妥協でしょう。とはいえやはり名前は文脈づけに大変便利で、名を使わずに文をかき通すのは相当な力量がないと。ただし不可能ではありません

奴隷制に支えられた限界はありましたが、語る民主主義はギリシャが発明したもの。他方で、選ぶ民主主義は、帝政ローマのもので、ネロとかの独裁者があらわれてきました。ヒトラーも選ばれてでてきたのですし、ハシゲと安倍も。馬鹿が選んで馬鹿が現れるというよりは、選ぶことによって、選んだ側も選ぶ側も馬鹿になるという面も最近はかんがえたりします。

この国の全国新聞は、文民統制規定がない防衛省設置法は憲法違反の疑いがあり、この法もこれに基づいた組織も全体として無効であるということを知らせようとはしないのか?戦前の軍国主義の悲惨の繰り返しをストップできないとすれば、何の為の平和憲法か?沈黙するならばだれの為のマスコミなのか?

文民統制とはなにか

満州事変以降、日本帝国主義の土台に、2.26事件の皇道派のクーデターが起き、さらにこの事件を天皇の統帥権に基づいて利用した統制派の陸軍から、昭和ファシズムの悲惨が起きてきたと理解しています。(陸軍ファシズムの原型に、大正期に大杉栄を殺害した甘粕ー日本人が大好きな(汗)ーがあります。) 文民統制というのは、軍隊をもつどこの国の大原則なのに、なぜ日本だけ簡単に崩れてしまうものなのか?わかりませんが、たしか、組織の下の人間が'現場の声を抑えられなくなる'という口実で常に上の決定を規定していくと分析した、かつて丸山真男が説いた日本独特の現場主義と関係しているのかもしれませんね。ただし、ここから丸山が日本思想の観念性の欠如、近代主義の未成熟を論証していくのは、やはり行き過ぎた深読みかなと。 むしろ今日問題とすべき現場主義というのは、明治のエスタブリッシュメントがつくった'国民'の声のこと。問題は、日比谷焼き討ち事件から満州事変まで、ほかでもない、'国民'が戦争の拡大を要求してきたことにあります。そして、これが現在、無条件に安倍自民党を支持した、今度は自民党の'国民'によって完成をみると私は心配しています。なんでもかんでも選挙で勝ちさえすればよいとして、「語る民主主義」を打ち消すほど「選ぶ民主主義」に傾いた自民党の'国民'のシステムでは、戦争を終わらせることはできなくなることがはっきりしてきました。このままでは、集団的自衛権の安倍首相と自民党の'国民'、この両者が戦争を輸出していくことにもー危険な原発つきで。他のことをするためには、まずは、自民党の'国民'という時代遅れな鏡を割ることからではないでしょうか。




ナチスはヴァイマール憲法から生じてきたならば、再び新しくヴァイマール憲法的なものがナチスから生じてくるというチャンスはないのか。歴史修正主義者の安倍の国体論的ファシズムを、東アジアと人類の平和共存を壊す靖国公式参拝と原発推進一体構造と共に、いかに終わらせるかということ、そしてその目的のために、人文科学の私達はまだ同調しない自由がある、これである !



「文官統制」規定廃止へ? 本当ならば大変なことだ。天皇の統帥権を背景に、この前の戦争を直接推進したのもこれだった。文民統制そのものの否定だ。識者の間では、安倍首相は'改憲'と口では言っているけれど、実は '改憲'とは全然別の、'反革命'のようなものを着々と進めているのではないかという指摘も。また現在は集団的自衛権の百%の対米追従とおもえば、首相就任前は対米依存脱却と自衛隊を中国に向かわせると息巻いていたことを思うと、一体この男はなにがしたいのか?支離滅裂だが、とはいえ、いつまでも精神分析医みたいに安倍のパーソナリティの異常を分析しても時間の無駄。安倍自民党が戦争をいかにつくろうとしているかを声をあげていかないと
ー>「防衛省が、内部部局(内局)の背広組(文官)が制服組自衛官より優位を保つと解釈される同省設置法の条文は不適切として、改正する方針を固めたことが21日、分かった。」2015/02/21 【共同通信】


<ナチスはヴァイマール憲法から生じてきた> ならば、再び新しく<ヴァイマール憲法的なものがナチスから生じてくる> チャンスがある。つまり安倍自民党のファシズムをいかに終わらせるかという課題のこと。

「さとり世代」という言葉を知っていましたか?彼らはポスト「ゆとり世代」で、国が「道徳」を教え始めた学校に行った世代です。ある「さとり世代」が書き綴った思慮に富んだ証言を読みました。哲学・文学などの人文科学の古典の読みが市民社会の精神の理解を助けてくれます。大切なことは、学校の仕事とは、これらの市民社会の精神を知ろうとする生徒一人ひとりの<読み>を励すことではないかと。もし学校が市民社会の精神から離れて、「道徳」と「倫理」への高過ぎる無理な<こだわり>を、あたかも国が民を罰するような仕方で教えるとしたら、「道徳」と「倫理」の根底にある「知る」という人間性すなわち究極的には人間の愛を抑圧することになるだけだと心配します。個人が主役である「道徳」は民法に、共同体が主役となる「倫理」は憲法に事実上書かれています。過去にヴァイマール憲法がそういうものとしてありました。しかしこれらの他との共存を不可欠とした市民社会の精神から離れて、ただ国を愛すために国を愛せというに至る民族の同一的反復の<こだわり>を教え続けたら、国家の排他的他者を憎む兵隊としての国民を繁殖させることに成功するかもしれません。実際にそのようにして<ナチスはヴァイマール憲法から生じてきた> のです。他方で、われわれの人間性の内側でいつかはそんな無意味な<こだわり>ではやっていけなくなるという感情が起きてくることはないのでしょうか。ファシズムはこの道しかないと脅迫的にいうけれど、この貧困と悲惨の道ではやっていけないのだと。こうして、再び新しく<ヴァイマール憲法的なものがナチスから生じてくる> チャンスがあると考えます。つまり安倍自民党のファシズムをいかに終わらせるかという課題のこと。これこそが真に「道徳」「倫理」と呼ぶに値するものではないでしょうか!


柄谷がいう意味は、私の想像では、まだ議会制民主主義のファシズム抑止機能のようなものに希望を抱いている人々を思い描いています。が、もはやすっかり形骸化したと考える人からするとそれは甘い認識だという捨て台詞ということでしょうか。柄谷のこの点は、石井先生の方が適切によくおわかりかと。ただしここで柄谷は「終わり」のことは言っていません。わたしの考えから、「いかに終わらせるか」の言葉を書き足しました。すこし唐突に書いたのですが、実はここで書いたことは、一般的に、ブレヒトのナチスを扱った芝居を構成するときに、昔の失敗を繰り返すな!というありがちな教訓劇の心理主義的構成に陥らないためには、なんとか、「終わらせる」ために現在なにをすべきなのかという客観的な問題意識を是非芝居のなかに取り込んでほしいという私の願いです。


安倍自民党のファシズムはいつ、始まったのか?

それは大正時代からと考えることはできないでしょうか。大正時代というのは、日比谷公園焼き討ち事件から既に始まり、治安維持法と(暴徒化したマルチチュードの統制のための)普選法を経て、事実上昭和の満州事変で終わるのです。前後の時代的な脈略を失うことを恐れつつあえて、「(ファシズムを) 終わらせる」という主体の視点からいうと、大逆事件と大杉殺害のあとに大正デモクラシー>戦争ー>戦後民主主義ー>安倍自民党の全体主義国家という連続的流れの全体をファシズムとして措定できます。「大逆事件」と大杉栄殺害の後に天皇主権下の形だけの議会制民主主義が成り立ったが、陸軍ファシズムで形骸化してしまい、それは最終的に安倍自民党に至って完全に骨抜きになったという指摘もなされています。つまり、明治末から今日まで途切れることなく国体的権威主義が存在してきたのであり、大正デモクラシーといっても戦後民主主義といっても、安倍自民党に完成をみる国体的権威主義の様態でしかなかったと考えてみたら、現在のこの安倍政権も歴史的な視点でとらえる必要があるでしょう。株価みたいに無意味な数字の呈示に陥る内閣支持率の評価に、この歴史的な視点を介入させることは意味があります。安倍政権は憲法で禁止した首相の靖国公式参拝で、東アジアの平和共存の願いを犠牲にして、戦前の天皇ファシズムの連続性を回復しようとしていて、これをジャーナリズムと文化人とアカデミズムの一部が翼賛的に支持していますね。「翼賛的に」という意味は「体系的に」という意味。「体系的」という意味は、どこの方向に逃げても取り囲まれしまったということ。日本の左翼は「ファシズムが来るぞ、始まるぞ」と心配して呼びかけるのが常ですが、始まりに関しては柄谷行人が言う通り安心していい。なぜなら日本はもうすでにファシズムだから。ずっと。たしかに、寧ろ現在考えなけれなればならないことは、いかにファシズムを終わらせるか。これだけです!


これはわかりやすい!
気になる団体、政党、政府がどれくらいファシズムなのかを3分で点検。
(ファシズムがいかに存在したのかを知りたい人のために役立ちます。ファシズムの定義をバッチリつかめます。ただしとりあえずの一応の目安ね)

その団体、政党、政府の攻撃目標が


1、労働組合ですか? はい / いいえ

2、左翼 ですか? はい / いいえ

3、議会制民主主義ですか? はい / いいえ

4、中産階級に支えられていますか? はい / いいえ

5、幻滅した労働者に支持されていますか? はい / いいえ

6、若者に訴えていますか? はい / いいえ

7、軍隊と警察の支持基盤がありますか? はい / いいえ

8、人種差別主義者ですか? はい / いいえ

9、 極端な国家主義ですか? はい / いいえ

10、(労使) 協調主義的ですか? はい / いいえ

11、 経済界と大地主から援助されていますか? はい / いいえ

12、 女性の地位を低めようとしていますか? はい / いいえ

13、 同性愛を敵視していますか ? はい / いいえ

14、 中絶に反対していますか? はい / いいえ

15、 神秘主義的歴史観を押しつけていますか? はい / いいえ

16、 意見の対立者にテロリズムを行使していますか? はい / いいえ

17、 権威と共謀していますか ? はい / いいえ

18、 偉大なリーダーを称えていますか? はい / いいえ


だれが公共放送とはなにかと問うのか?

NHKの問題は放送の内容だけに関心がいくものでしたが、これからは一層、放送の形式について批判的に考えることが大切な課題となってきました。民主党議員の原発推進の主張にみられる無責任な右翼的立場はまったく信頼をおけませんが、しかし放送にかんする議論になると、かれらのNHKの公共性をまもろうとする義憤だけは信頼してもよさそうです。「放送はXXである」とする言説がそれを言う主体に触発する大きな力に、遅きながら、やっと気がつきはじめました。このときは民主党のタカ派の議員とはおもえませんね。ここでいいたいことは、議員でなくとも、つまりわれわれのことですが、「放送はXXである」を問う言語の中で、言語の内部から言語に沿って人間がなにを語ろうとたたかうのかということです。まだぎりぎり立憲主義的の複数政党制の痕跡を読むことができるのか?また、もはや自分は被害者であるとする潔癖な無党派性の立場から、安倍自民党が捕獲した「公共性」を論じ続けていくことが果たして可能なのか?内閣支持率のことを考えても非常に絶望しきってはいますけれど、最後までこの人間の存在をかけた言語行為の展開を注意深くみたいというおもいです。(戦前の体験から明らかなように、戦争体制になったらもう言語活動そのものがなくなりますから、戦争体制がここで書いた「最後」です) ちなみに、首相の「日教組」をヤジとみるのは、pointlessかもしれませんね。安倍が言う「日教組」の意味は巷の大衆週刊紙が分析すればいいこと。われわれは、「だまれ!」と命じる権力の様態に注目します。放送のなかでこの権力がなにを意味するかが明らかにされるべきと私はおもいます。つまり、放送を意識した、ほかならない、戦争体制の号令のはじまりではなかったでしょうか。


Sur le déchirement d'un tambour et d'une trompette longue,
étrange,
les six hommes
qui étaient couchés,
roulés à ras de terre,
jaillissent successivement comme des tournesols,
non pas soleils mais sols tournants,
des lotus d'eau,


太陽と長いラッパが破裂する、
奇妙な音だ
地面に横たわって、
〈転がっていた〉
六人の男たちは
あいついで向日葵のように躍りでる
太陽のようではなく
回転する地面のように、


睡蓮のように、
ーアルトー「神の裁きと訣別するため」


人文科学は、「構造」を批判していく構造分析である。人文科学の対象は、人間という存在である。

1867年の年は、マルクス自らの手によって世に問われた「資本論」が資本主義社会の経済構造をはじめて体系的に論述した年である。それは以降の社会主義運動の勝利を規定していく近代の決定的記述であった。しかしだからこそ国家と民族をもたないような社会主義運動の読みはそれ自身ゼロとされた。グローバル資本主義の経済とはなにか?この本の他は無意味という柄谷の「資本論」に依拠する解釈は、「資本論」の不在のテクスト、国家と民族を読みだすとき、「資本論」を前提するものから「資本論」の本質を描く無理を隠蔽してくれるのはただ帝国の「構造」だけだ。こうして理論の純化は現実と妥協していく。21世紀の「帝国」は、19・20世紀的な帝国主義とは異なる。それは主として文化による支配の構造だという。だが、台湾と香港の反グローバリズムの声が無意味と非難されるのは、それが文化論的にいって新儒教の「天の声」の構造に反するからだろうか?否。それがゼロなのは、国家と民族をもたない社会主義の運動ーアナーキズムだからである


立憲主義は大学の講義できいたことがない、それはどこの学説かと言う自民党議員は、神父が「神なんか信じていない。それはどこの学説か」と打ち明けるくらいラジカルな反権威的な理性なのか?反対に、立憲主義の理性にヤジを飛ばしの大ハッスルの反動的な権威主義の無知蒙昧か?答えはわかっているさ

L'objet des sciences humaines, ce n'est donc pas le language ( parlé pourtant par les seuls homes), c'est cet être qui, de l'intérieur du language par lequel il est entouré, se représente, en parlant le sens des mots ou des propositions qu'il énonce, et se donne finalement la representation du language lui-même.
Foucault

「人文科学の対象は、それによって彼が取りかこまれている言語 (ランガージュ) の内部から、話しつつ、みずからの言表する語、もしくは命題の意味をみずからにたいして表象し、 最終的には、言語 (ランガージュ) それ自体の表象をみずからにあたえる、あの人間という存在にほかならない」
(ミッシェル・フーコ「言葉と物」、渡辺一民訳 p.374)

本多訳; 人文科学の対象は、言語 (ランガージュ)の内部から内部に沿って、話しつつ、みずからの言表する語、もしくは命題の意味をみずからにたいして表象し、 最終的には、言語 (ランガージュ) それ自体の表象をみずからにあたえる、あの人間という存在にほかならない」

The object of human sciences is not language (though it is spoken by men alone); it is that being which, from the interior of the language by which he is surrounded, represents to hiself, by speaking, the sense of the words or propositions he utters, and finally provides himself with a representation of language itself. Foucault

フーコー
統治性は自己の自己への関係を含意する。即ち、この統治性という概念を通して私は、人が戦略を構成し、規定し、組織し、道具とするための実践の総体を目指している。この戦略は、諸個人がその自由において互いに対して向けうるようなものである。−自由の実践としての自己への配慮−



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2015年二月 (4) 言葉と表現と射影のブログ/BIGLOBEウェブリブログ
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