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zoom RSS 3月 2015年

<<   作成日時 : 2015/02/28 09:39   >>

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「賃労働と資本」をいかに読むのか
ー 消えた哲学的・政治的の問題意識は再びどこに現れるのか?

「資本は賃労働を前提とし、賃労働は資本を前提とする。両者は互いに制約し合い、両者は互いに生み出し合う」Capital presupposes wage labour; wage labour presupposes capital.They reciprocally condition the existence of each other ; they reciprocallyt bring forth each other (マルクス「賃労働と資本」, Marx , Labour and Capital) この一文をよんだときは、別々の三つの考え方を言及しているとかんがえました。つまり、「資本は賃労働を前提とし、賃労働は資本を前提とする」というときは哲学的に、「両者は互いに制約し合い」というときは政治的に、「両者は互いに生み出し合う」は経済的に考えているのではないかと。が、この「賃労働と資本」の冒頭では、1848年の革命以降は専ら経済的な事柄で考えていくんだといっています。(Now, after our readers have seen the class struggle develop in colossal political forms in 1848, the time has come to deal more closely with the economic relations themselves on which the existence of the bourgeoisie and its class rule, as well as the slavery of the workers, are founded.) このようにいうとき、哲学的・政治的・経済的な修辞が、経済的な主題に還元されているとしたら、21世紀の現在この方法論をどのように扱っていくべきなのか?たとえば、これに関しては、1980年代にソビエトが崩壊しまた中国が社会主義をうち捨てていくグローバル資本主義の時代にあって、柄谷行人が、(リベラル的コミュニズムが敗北する)1848年の「共産党宣言」に遡ることによって、「ルイ・ボナパルトのブリューメル18日」と「資本論」の読みから「帝国の構造」の哲学を露骨に政治的に読みだしていった方向にたいして、「賃労働と資本」は柄谷とは異なる他の読み方を呈示する拠り所にならないだろうか?21世紀の問題は、たとえナショナリズム、民族紛争あるいは宗教対立の形態をとったとしても、すべて経済に規定された事柄としてあるのではないかと、この考え方を推し進めようとした現在最も価値あるテクストではないだろうかと考えているところです。ただし経済的な主題に還元されている方法としての経済のアプローチをとったときに、さて消えた哲学的・政治的の問題意識は再びどこに現れるのかという問題があります。まだわかりませんが、だんだんとテクストに強調される「機械machinery」の語がそれほど透明で中立的な内容を持っているかです。The more productive capital grows, the more the division of labour and the application of machinery expands. このような「機械machinery」の言説がそれを言うマルクスに触発した意味は、経済中立的な意味とは全く正反対に、政治的・哲学的な意味をもちはじめたのではないでしょうか?経済学の安定した枠を逸脱するほどに。それこそ、カントを導入した柄谷が言う意味とは違う形で、真にカント的に、したがってナショナリズム・民族主義・宗教の言説に絡みとられない方向で、(賃労働と資本の経済学だけからみえてくる)グローバル資本主義の問題を巻き返していくことではないでしょうか。これにたいしては、「賃労働と資本」は、「資本論」に至るための補助的な仕事に過ぎないという反論もあるとおもいますが、それはヨーロッパのマルクスの読みにもとづく反論です。ヨーロッパのマルクスを日本から読むことはどういうことなのかが大事におもっています。(最近は、わたしは、以前のようには、東アジアからの読みも無視することができなくなりました。) また21世紀に生きるわたしにとっては、たぶん、19世紀のマルクスの意図はそれほど気にならないのです。もちろん、思考からマルクスを消去しつくしてはそもそも全部がゼロになってしまうということはほんとうではないでしょうか。そういう点でも現在のヨーロッパのマルクスの読みは常に意義をもつことはたしかなのです。(アイルランドの読みはヨーロッパの読みに属すのかアジアの読みに属するのかいまだにわからないままですが) たとえば、ややきな臭いのですが、バイオグラフィーを書いたアタリのような人によって、21世紀的問題はマルクスが生きた19世紀的問題に類似してきたと指摘されますけれども、この見方を承認したり逆に反対する場合でも、やはりマルクスが分析した19世紀の社会と人間の関係を知ることによってはじめて可能となるのだとかんがえています。


寸劇; 国民道徳の恐怖と貧困

国民道徳「若い男女が共に「踊る」のは禁止!学校階段の「踊り場」も怪しげで享楽的すぎるから廃止だ!ついでに「じとじと」という踊り言葉も全部黒塗りにする!たんまりと肉を与えているのに、禁じられた踊り言葉を使うとは一体なにが不満なんだ?」

犬「い、いぬだから自由に吠えたいんだよ、ワンワン!!」


言説と戦略

安倍自民党への無条件ともいえるほどの大衆的共感はどのようにかんがえてみるべきでしょうか?敵を敵と見做すことができない「過ぎた性善説」のような慣性の如き観念形態の背後に、言説の問題をみないわけにはいきません。民主主義の危機と戦争の危険性をいうことは間違ってはいませんし、好ましいことですが、しかしあえてこのことをいいますと、新たな戦略もなく、民主主義の危機と戦争の危険性に気づくことをいう言説を繰り返しても、現実に人々が一向に危機感を持たないことは明らかです。このような言説の問題は、安倍自民党に民主主義の<起源>を与えてしまう点にあります。安倍自民党がどんなに危険にみえても一応戦後民主主義の<起源>から生まれてきた以上、これを民主主義の敵だとは中々かんがえられない。それどころか安倍政権を安心して支持してしまう方向に(内閣支持率)。だからこそいまは、別の言説も重要になってきたように思います。その言説はこういうものです。大正時代に遡る、大逆事件と大杉の影響で、統制手段として治安維持法の一部としてなんとか天皇主権の形だけの大正デモクラシーが成り立ったが、それすら満州事変で形骸化されてしまったこと、この形骸化された民主主義が昭和ファシズムと戦争を経て、最終的に安倍自民党において完全に骨抜きになったことをかんがえてみることです。この認識にたった言説のほうが、現在の人々の立ち位置を歴史的に伝えるのではないでしょうか。つまり民主主義の敵は、満州事変を始めた陸軍統制派ファシストたちの精神 (至誠) を担って登場してきた安倍自民党だという認識です。つまりここで言っているのは、百年間つづいてきた民主主義を終わらせたこの民主主義の敵を終わらさなければ、民主主義などはけっしてはじまらないという言説を展開する戦略の重要性のことです。

映画の痕跡は、代数と貨幣の間ぐらいにある

「」数と金銭とは、本質的に水平化しようとするものである。前者は、知的に、後者は実際的に。」Simone Weil ‏


ホ〜映画というものは、代数と貨幣の間ぐらいにあったのかニャ。映画について考えるときは、代数とか貨幣の成り立ちのことをかんがえていたことが多かったニャリ。映画は即ち(スクリーンへの)投射。私は自身を世界に投射するというときの世界は、やはり水平の世界をいっているのよね。


われわれは「同調しない自由がまだある」と心の中でかんがえるとき、たとえば、おしつけられる国民道徳に「同調しない自由がまだある」のです。これにたいして戦争をつくる国民道徳がいう「この道しかない」でいわれる意味は、「「同調しない自由」はない」」というもの。この戦争の国民道徳に対して、「「「同調しない自由」はない」」は同調しない」」」」と反論するときに、今度は行動において抗議する主体として「戦争をつくるな!」をいかに実現していくのか?一人ひとりの問題であり、このわたしの問題。まず<それを言うわたし>の問題として一歩一歩始まるのではないでしょうか




われわれは「同調しない自由がまだある」と言うことができます。たとえば、国民道徳に「同調しない自由がまだある」のです。が、安倍政権がいう「この道しかない」でいわれる意味は、
「「同調しない自由」はない」」なのです。
この安倍政権にたいしては、つぎは
「「「同調しない自由」はない」」は同調しない」」」」と、行動において抗議する主体として現れることでなければもうやっていけなくなりました。いかに、「同調しない自由」を実現するのか?ここが問題です。



白紙の本 (3)

翻訳する一文一文がどの国のどの言葉か定かにならないほど左翼的アナーキーか?それとも反動的な、右翼の骨董品的迷宮なのか?しかし「フィネガンズ・ウエイク」は「ユリシーズ」の近代性を失ったのではない。転向にみえても、神話のイェーツのアイルランド的近代があり、そこに留まらず、絶えずリアリズムで超克していく過程を書いたのだ。
ジョイスの「自分で決めた亡命 self-imposed exile」は、本当に変な言葉だ。アイルランドを脱出したという意味のほかに、アイルランドを国外へ連れ出したと指摘する意見もきく。たしかに外部の位置から初めて書けるアイルランドの全体像があるだろう。イタリアのトリエステで、ダブリンを舞台にした「ユリシーズ」を書いた。(自分で決めた) 亡命先でかれは一人でアイルランドを取り囲んでしまったということなのか(女房のノラとともに。) それならば、同様に、対象を取り囲む程の占拠が重要で、とにかく人々が囲んでしまえば、閉じられた全体との関係から連続性の破れが生じるとき、脈絡なき思想史の傍で思想が自立するのではないだろうか?
徂徠は漢文読みは日本語で読むだけにどう読んでもいいと言った。外国語一般についてそうだ。だから外国と一体となって外国語をなんの媒介なく読むべきか?しかし外国人として外国語のテクストを読むことは何を意味するのか?テクストへの入口は、啓蒙主義が唯一ではなく多数あるように、多数存在する!




In so far as a scientific statement speaks about reality, it must be falsifiable; and in so far as it is not falsifiable, it does not speak about reality.
-Karl Popper, The Logic of Scientific Discovery



- Three quarks for Muster Mark !
Sure he hasn't got so much of a bark
And sure any he has it's all besides the mark.
But O, Wreneagle Almighty, wouldn't un be a sky of a lark
To see that old buzzard whooping about uns shirt in the dark
And he hunting round for uns speckled trousers around by Plamerstown Park?
Hohohoho, moulty Mark!
You're the rummest old rooster ever flopped out of a Noa's ark
And you think you're cock of the wark.
Fowls, up! Tristy's the spry young spark
That'll tread her and wed her and bed her and red her
Without ever winking the tail of a feather
And tha's how that chap's going to make his money and mark!

(訳)マーク王のもとに召喚された、三つのクォーク!/王の号令は届かぬ。号令が届いたとしても、徴(mark)とは違う所に集まる/雲雀だった奴は王たる鷲として君臨する/コワ(quoi)コワ(quoi)と鳴く老いたマーク王 / 暗闇でシャツを探して飛び回り、パーマーズタウン公園で狩り、、斑ズボンを探す姿/ホーホーホー、抜け毛マーク王/奴は酔いどれ阿呆船/ノアの箱舟から飛び立った使徒の鳩のくせに、女の尻を追い回すお山の大将/愚者達よ、トリエステ魂を炸裂させよ!/瞼が羽ばたきする間もないほどの速さで/これが、あの物書きが名声と銭を稼ぐやり方さ
 

(注釈)「マーク王にクォーク三唱!」で始まりました。「クォーク」は、鴎の鳴き声を表します。ゲル=マンは、ジョイスのこの造語を転用してハドロンの構成粒子である物質の名称にしました。コワ(quoi)コワ(quoi)とも聞こえますね(無理か・笑)なに?なに?文学とはなにか?

ところで、トリエステといえば、十九世紀東西貿易中継地として、ユダヤ人が発展させた街です。「ユリシーズ」はこの地で書かれました。当時オーストリア=ハンガリー帝国の領土。独立運動によって、イタリアに帰属すべきか、社会主義か、中世の様な自治都市への道かと問いました。「三つのクォーク」と謎めいた言葉はこの事と関係するかも知れません

・何故、ジョイスは、詩から書き始めたのでしょうか?詩というのは、救いに関係した仮構作用と思います。詩は人間の双子かもしれません。権力者が線引きする様には、人間は、自身を、「あちら」と「こちら」に分割できないーこの真理を一番良く知っているのは、他ならぬ詩です。絶えず隠蔽を無化することによって共に歩む、詩と人間の共同戦線が存在します

詩人=鳥は、聖なる本のこちら側を祖国として表象し、あちら側を外国として表象せんと瞑想しているのではないでしょうか。見つめる本は、詩人の視線を映し出す鏡。詩人=鳥は、自らに属するこの他者を深く愛しまた。詩人=鳥とともに、酒神は問うたかもしれません。本と読む人はわたしの内側に分かち難く連帯していたはずなのに、何故汝はそれらを国境線に分割したのか?と


They were big four, the four maaster waves of Erin, all listening, four. There was old Matt Gregory and then besides old Matt there was old Marcus Lyons,the four waves,and oftentimes they used to be saying grace together,right enough,bausnabeatha,in Miracle Squeer, here now we are the four of us;old Matt Gregory and old Marcus and Luke Tarpey; the four of us and sure,thank God, there are no more of us ,and, sure now, you wouldn't go and forget and leave out the other fellow and old Johnny MacDougall;the four of us and no more of us and so now pass the fish for Christ sake, Amen


(訳)彼等は偉大な四人、アイルランドの四つの大波、四人とも耳を澄ませ、四人とも。労マット・グレゴリーがいて、労マットの他に労マーカス・ライアンズがいて、四つの波、この人たちは奇跡のメリオン広場で生死も忘れ、一緒に神に感謝を捧げていたものだ。ここに我等四人あり。老マット・グレゴリー、老マーカス、老ルーク・ターピー。われら四人。ありがたやありがたや、いるのは間抜け野郎四人だけ。おっと、忘れちゃーいけませんね、老ジョニー・ドゥーガル、いるのは、この尻穴四人組だけ。だから、さ、キリストのためにお魚を回しておくれよ、アーメン


(注釈)四老人はそれぞれ四人の福音書記者と結びつく。鷲を表象するヨハネ=ジョニー。マーカス・ライアンズはマルコの表象であるライオンを、ルーク・ターピーは福音書家ルカ(ルーク)の名を持つ。マットと結びつくマタイの表象は人間である。四つの大波は、ジョイスが書いた四冊(FWを含めた)の本かもしれない。

・ジョイス「ダブリナーズ」は現象学的リアリズムの範疇である。次作「ある若い芸術家の肖像画」からは、現象学を相対化する実存的な語り口が木霊する。「ユリシーズ」のナレーションは構造主義的な配置と思考がある。「フィネガンズウェイク」はポストコロニアリズム世界の動乱と民衆の生き様を証言する


he was kiddling and cuddling and bunnyhugging scrumptious his collen bawn and dinkum belle,an oscar sister , on the fifteen inch loveseat ,behind the chieftaness stewardnesses cubin, the hero, of Gaelic champion, the onliest one of her choice, her bleaueyedeal of a girl's friend, neither bigugly nor smallnice,meaning pretty much everything to her then, with his sinister dexterity, light and rufthandling, vicemversem・・・
her ragbabs et assaucyetiams, fore and aft, on and offsides, the brueburnt sexfutter, handson and hunstem、that was palpably wrong and bulbubly improper, and cuddling her and kissing her, tootyfay charmaunt , in her ensemble of maidennablue, with an overdress of net, tickled with goldies, Isolamisola,and whisping and lisping her about Trisolanisans


(訳)踊る神は巡礼中、白百合の処女達を罠にはめてハグするチュー。そそり立てたそれで、いざ妖精の所へ、と、オスカーシスターズを15インチのラブチェアに跨らせたのでしたーなんと、ゲールの首長、パーネルの部屋の背後でね。このヒーローこそは、乙女の友にとって青い目の唯一正しき理想をもつ、醜い大男でもなければ華奢な子男でもない、彼女にとってかえがたい存在だ。この禍をもたらす器用さの持ち主は、自分の淫乱ボロボロのラグビー玉袋を、左へ右へと自在に扱い、前に後ろに、奥の方にと転がした。あっと、オフサイドじゃないか。マラ焼けの色男、シコシコ手淫男子の遊牧的乞食のあいつときたら、パルパルに意図に反してブルブルと淫らに、網模様のドレスに偽金をちりばめたマドンナ・ブルーのアンサンブル姿の、ミソラことイゾラを、ハグしてチュー、うっとりと恍惚中、と、この彼女のために、三つの太陽の島人であるトリスタンとイゾルデの話を、どもりながらささやき聞かせるのであった


(解説)テクストのなかで作者自身が翻訳を行う迷宮ぶりといったら!FWは少なくとも五十以上の言語から成り立っています。日本語の翻訳者は、FWの坩堝に、51番目の言語を放り込んでいるだけという皮肉をききます。翻訳は不可能としたら、注釈によってテクストと関わるしかないありません。記号から意味を剥ぎ取るが如く、注釈から翻訳を切断すること

「フィネガンズ・ウェイク」は何語で書かれているのか?見た事がない様な英語で書かれていても、未知のドイツ語で書いたテクストかもしれない、とフリッツは皮肉に語りました。とすれば、次の問題提起が、ユダヤ的アイロニーです。作者のジョイス自身はFWを英語に翻訳していたと(オリジナルの言葉はなに?)

FWになにが書かれているのか本当はよく分らない。(現在誰も読めなくなった「論語」と同様)。だから「書き方」を問う事ができるだけだFWの言語はどの言語にも還元できないから、一見超越的なのです。しかし、世界中の若者はそこに自分の母国語を見つける事ができる以上、それは、内在的な言語といえます。


FWは注釈学的視線を内部化したテクストである。何が書かれているか?これは書き方から解釈する他ありません。超越的でも、内在的でもない様な、そういう領域が存在する事。つまり、神や民族の領域でも、原子的個体の領域でもない様な、人間的な領域があること。FWの書き方はその領域と共有する形式をもつのです

Anything and everything could go into the Wake. Many of its local "meanings" are randomly generated. Anything found is ben trovato, well-founded, and, for many readers, is on that account also well-founded.

Seamus Deane on Joyce's "Finnegans Wake"

「転向論と建築」八束はじめ
未完の帝国ーナチス・ドイツの建築と都市、1991) より

日本の「転向」論ではひさしく前から、焦点をもっと内的な要因へと移行させている。論点によって力点、着眼点に差こそあれ、それらは基本的に、日本人の伝統的メンタリティーとそれが近代化、欧化によって被った変質との間で知識人が遭遇せざるを得なかったアポリア、という形で問題を立てようとしている。この辺りのアプローチの細かさ(?)は、対象がというだけでなく考察を立てる側においても、かなり日本独自の地勢学があるようにもおもえる。とりわけ殆どの転向論が文学という、明らかに思想と強い関連をもつが、同時に、一方では大衆普及現象を背景としながら、も、個人化もしやすい(つまり大衆vs.知識人という図式)、ジャンルを主たる考察の対象としていることも独特の語り口を与えているものではないだろうか?そこで問題となっているのは個人の転向であり、個人にとっての近代化なのである。それは、転向論の立て方を含めて、つまり記述する方、される方の共々に、私小説というような独自のジャンルを生んだ日本の文学界の特質を示すもののようにおもえる。我々の「ナチス・ドイツの建築」という対象では、やはりアプローチの切り口は、類似点は少ないとしても、同じものではあり得ない。それはこれも単純化して言えば、一つには日本の近代化に介在する、伝統/近代という二項対立に日本(東洋) /西洋という異文化間の軋轢が重ねあわされているモメントが、当然ながらドイツの場合は、あったとしても、ナショナリティ(ゲルマン)とインターナショナリティ(ユダヤ)という全く意味の違うーそこでは知識人の微妙な転向への糸口など見つからないー形でしか存在していないということであり、もうひとつは文学と建築(及び都市計画)というジャンル(というかディシプリンというべきだろうが)の違いがやはり少なくはない。読まなければ、つまり関心をもって介在してくる読者がなければ、存在しないと同じである文学と違って、建築は日常的に市民の生活に直接的に介在してくる。それは文学が入り込んでくる生活感情とか信条といった抽象的なものではなく、生活様式という具体的かつそれ故に最も保守的になりがちな部分に関わるのである。更に、建築をつくり上げるのは文学の場合よりも遥かに多く社会的な生産体制であって、これも文学が社会的生産物だというようなレベルとは違って、具体的な生産者、例えば手工業者の死活問題につながっている。日本文学の転向論が読者大衆を視座に入れたとしても、それは殆どが知識人にとっての大衆という原イメージの如きものであって、大衆の側からの転向の問題へのアプローチは、読者的関心というそれ自体知識人的な平面ですくいとられたものを除けば、無いも同然だったのではないか?少なくともバウハウスに向けられた手工業者たちの敵意のようなものはそこには介在してこない。建築は、モダニストたちの好んだ表現では「時代精神」の、ナチス・イデオローグたちの好んだ表現では「世界観」の、各々現れとして考えられていたように、集団表現的なものであっただけでなく、現実の職能や社会階層の利害と価値観に直結するという点で、文学よりも遥かに多く社会的生産物だり、したがって政治的でもある。実際、ナチス・ドイツにおけるモダニズムへの反動は、バウハウスの初期から、ブルジョアジーのみならず、手工業者などのプチ・ブル保守階層が示していたようなものの継続でもあった。つまり突発的な反動というよりも一貫して存在していた政治、社会対立の最終的帰結という様相を色濃くもっていたが、同時に、それが単純な全面的反動であり懐旧ばかりだったわけでもないことは注目されるべきだろう。それはナチズム自体が抱える伝統回帰と近代志向、ひいてはそれなりの「革命性」のアマルガム的な性格とにつながっている問題でもある。


<転向論から、吉本の親鸞を読んでみると...
吉本は転向論の二項対立を超えていく>
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「歎異抄」は近代の知識人を惹きつけたように、野間宏と吉本隆明を惹きつけたのだろうか?
野間宏「わが塔はそこに立つ」の場合は、近代国家という壺の中にはめ込まれたものをただ「民衆」と呼んでいた。マルクス主義的な歴史観の内部に見出した「民衆」が文学の語りの内部に再発見した父的'親鸞'の固有名において重ねられていくのは、和解できない<過去>を大地に埋めていくようなカタルシスというほかないのである。
それにたいして、「最後の親鸞」の吉本隆明は、自らの思想を自己移入的に「信」と「民衆」(野間)の内部に根拠づけることはしなかった。知識人の「俗」(「大衆」)に寄り添いながらも「俗」(「大衆」)でない、「信」と「不信」の間への脱出を考えていたからである。そうして外部の愚者と成った吉本の蠅は、<往相>と<還相>を行き来するだけである。


「吉本が親鸞についていう<衆生>は、服部や野間がその親鸞論でいう<民衆>の対極にあるというべきだろう」(子安)
「戦後思想としての吉本の発言をほかならぬ吉本のものとしたものが<大衆の原像>であったとすれば、吉本の親鸞を吉本の親鸞論にするものは<衆生の原像>であるだろう。'親鸞にできたのは、ただ還相に下降する眼をもって<衆生>のあいだに入り込んでゆくことであった'という言葉には、吉本にしかできない親鸞の読み方がある。(子安)
「<非知>とは親鸞において<非僧>;である。<非僧>とは寺院的知識の体系を負った僧における自己否定の運動である。知識人が己の知識の自己否定を続ける知識人の運動を<非知>と見れば、最後にうたる親鸞をこの<非知>の運動を貫き通したものとみなされなくもない。」(子安)

近代知識人が語る「歎異抄」の言説しかないのである。思想の問題とは、言説の交通の中に囚われた人間が、これに巻き込まれても永遠に巻き込まれないようにと、いかに批判的な外部性に存在するかにかかっている。その外部性は、自己自身の声からは見ることが不可能なほど外部にあるに相違ない。吉本のレトリックがいうようには、思想が自己称賛の思想詩と思想劇の声に依存するのは無理だ。思想を読むこととは、外部から自己自身を規定してくる読むことができないエクリチュール性を見ることであるー他者の眼差しのうちに、壺から脱出した蠅の眼差しのうちに(外から窓をたたいている)

方法としての「歎異抄」- 子安宣邦「歎異抄の近代」の感想文 (本多敬) より


転向論から、吉本の親鸞を読んでみると...
吉本は転向論の二項対立を超えていく

白紙の本 (2)

白紙の本のなかで詩人のときは、
哲学者と画家が終わらせたものをはじめようとする。
詩においては、哲学の呼吸のうちに終わった愛の囁きが再び始まり、
光の筆遣いが塗りつぶした闇も再び始まる。
白紙の本が哲学者のときは、
詩人と画家で始めたものが終わる。哲学の思考の形式に、
詩の盲目の言葉が終わり、沈黙するイマージュの息吹が終わるだろう
厄介なことに、問題提起が始まる時間
白紙の本の画家であるときは、
哲学者の姿をとった文字で描く画家をやめ、
また詩人の姿において現れた画家であることもやめよう。
画家であるとは、他に依らず、
ただ自身の権威だけに依る創造それ自身なのだから。
そうして、詩人<と>哲学者<と>画家において、
白紙の本は、一字一字をかいていく、帰るために
絶えず近くへ遠ざかる自らの旅の痕跡を

poètes <et> peintres <et> philosophes 詩人<と>哲学者<と>画家


Les philosophes sont en quelque sorte des peintres et des poètes, les poètes sont des peintres et des philosophes, les peintres sont des philosophes et des poètes. Par conséquent, les vrais poètes, les vrais peintres et les vrais philosophes préfèrent les uns avec les autres et s'admirent mutuellement.
Giordano Bruno



大地の生産物――つまり労働と機械と資本とを結合して使用することによって、地表から取り出されるすべての物は、社会の三階級の間で、すなわち土地の所有者と、その耕作に必要な資材つまり資本の所有者と、その勤労によって土地を耕作する労働者との間で分けられる(D・リカードウ)

ジョイスの「自分で決めた亡命 self-imposed exile」は、本当に変な言葉だ。アイルランドを脱出したという意味のほかに、アイルランドを国外へ連れ出したと指摘する意見もきく。なるほど、たしかに、外部の位置から初めて書けるアイルランドの全体像があるのだろうか。ジョイスはイタリアのトリエステで、ダブリンを舞台にした「ユリシーズ」を書いた。(自分で決めた) 亡命先でかれは一人でアイルランドを取り囲んでしまったのである。(女房のノラとともに。)それならば、同様に、対象を取り囲む程のデモが重要で、とにかく人々が囲んでしまえば、閉じられた全体との関係から連続性の破れが生じるとき、脈絡なき思想史の傍で思想が自立するのではないだろうか?たとえば、台湾では中国共産党が事実上平等の共産主義をうち捨てたときに対抗イデオロギーとしてのアイデンティティーを失う危機に陥るとき、立法院を取り囲むデモがなければ、東アジアの白紙の思想史に、台湾思想は成りたつかという問いは決して書かれることはなかったのではないか?3月後半に台湾へ行くー台湾の人々のなかで台湾思想は可能かを考えるために、また外側から行き詰まりの安倍自民党のこの国をみるためにも



国民道徳の恐怖と貧困 (2)

Q. この国で一番ヤバイ言葉はなんですか?
A. ヤバイというのはどういう意味ですか?
Q. 日本人が心の中から洗脳された言葉です
A. ああ、それならば、吉田松陰の「至誠」です。
Q. 吉田松陰ならば、現在国営放送の大河ドラマであつかわれていますね。かれの言葉でいつ洗脳されたのですか?
A. 昭和15年から20年までこの「至誠」ということばは通用していました。戦争中につくられていくのです。しかし昭和20年以降は通じなくなりました。
Q.どうしてその言葉が戦争中につくられていくのですか?
A. 吉田松陰の「至誠」は、すべてをあからさまにしていけば人を動かせるというかれの思い込みです。むざむざ言う必要がないとされました。つまりこれが日本人の心情的一体感を一方向に規定していくイデオロギーとして国民の戦争動員に役立ちました。
Q.「至誠」は日本人のなかに浸透する力をもつのですね
A. 安倍自民党というのはズバリ、「至誠党」のこと、ヤバイ、ヤバイ


国民道徳の恐怖と貧困 (3)

Q. 「至誠」は、古代に遡る日本人の心情的一体感ではないのですか?
A. 誰か見てきた人がいるのですか?(笑) そんな日本のメンタリティーはつくられただけで、近代以前にはなかったのです。正確にいえば・・・
Q. あるとも、ないともいえないものですね。
A. はい。「至誠」と類似した概念に、和辻哲郎がいう「清明」があります。万葉集から読み解いたこの「清明」は共同体との一致を意味し、反対に、「汚い心」は共同体から離れている状態です。しかし「清明」というのは、(解釈学の)ディルタイの和辻にしてはじめてできるような日本人の理念史の構成でしかないことを子安宣邦氏は強調しています。
Q. 和辻は、東京大学の東洋倫理学史の講座をつくった学者ですね。
A. 和辻の位置をつかむために、すこし大学の制度の由来について説明しますと、そもそも東京大学文学部の<倫理学>は、エシックス(西洋学)ー市民としていかにあるべきかを考える市民倫理学ーからはじまります。これが、明治末から大正・昭和にかけて師範学校(教育大学の前身)の教育指導者(校長等)によって義務教育で「公民」として教えられていきますね。<倫理学>は市民倫理学であったから国民道徳ではありませんでした。しかし義務教育ではあえて「市民」とは呼ばずに「公民」と言いました。これに関しては、子安氏が注目している「大逆事件」が起きたことの危機感が国家の側に起きたことを考えてみることができます。多分「大逆事件」の影響で、国家倫理としての国民道徳が説かれてきます。その中心に井上哲次郎がいました。しかし子安氏がみるところでは、この<国民道徳>は、東京大学に来た和辻の和辻流モダンな<日本倫理思想史>にスムーズに置き換えられいきます。が、ある意味で、和辻は、井上の国民道徳よりも強力なものを学問的につくってしまったといえるかもしれません。それが人倫国家の心情一体の共同性の理念です。その和辻がいた、(東大右翼ボスと自民党ボスの巣穴。儒学史の漢文を読む宇野精一等の) <東洋倫理学史>も、(東京大学の最右翼の)<支那哲学>によって無くなってしまうのは、溝口雄三の中国語で読む方法が大きな影響力をもちはじめたからです。ここで戦前・戦後の京都学派とは異なるアプローチで中国をとらえる日本的国策的ポストコロニアリズム的研究が展開しているようです。
Q. 国民道徳の方は消滅してしまったのですか?
A.いいえ、子安氏によると、戦後の東京大学倫理学は、1・5講座から成り立っていて、そのうち1が倫理学で、0.5が国民道徳だったそうです。「文学部のあり方は戦後変わったようで変わらなかった。68年以降に、80年代から変わり始めた」と証言しています。 現在さらに国民道徳は、安倍自民党の文部省によって義務教育のなかにおしつけられようとしています。子供・生徒たちが洗脳されていく国民道徳の恐怖と貧困、という大変危険な状況であります。

Q.ついでに、転向論ですが、いわゆる転向論は、転向を '国体' の側に、非転向を(対抗的な) '反国体'の側に配置したうえで、やや図式的・機械的に、後者から前者を非難してきたのですけれど、現在は、戦後憲法のもとで、(国体的な問題は起きてきますが) 戦前とまったく同じ国体の権力構造は存在していません。現在なお、転向論にこだわることはどれくらい重要でしょうか?
A.「君が代」や「日の丸」にしたがわない現場にとっては、戦前の昭和ファシズムはなにを意味したかを考えるためにやはり転向論の意義はなくならないとおもいます。ただ、これからなにが起きるのかを考えようとするならば、戦争に直結した問題として、首相の靖国公式参拝の問題があります。戦前の天皇ファシズムは憲法をつくり、軍を統帥し、そして死者を祀る権力を拠り所にしていたが、戦後の平和憲法はこの三つを断ち切りましたね。ところが首相の公式参拝によって、戦前との連続性、戦う国家=祀る国家が回復していく危険性があります。現実に、靖国神社へ行く安倍の民族差別的発言からはじまった、東アジア諸国の互いに憎悪し合う緊張した関係は、領土問題を契機に、危機的にエスカレートしてきました。歴史修正主義者の安倍に連鎖的に巻き込まれていく東アジアの政治家たちは、領土問題は戦争によってしか解決しないという過去の失敗を完全に忘却した?グローバル資本主義の時代に、戦争をつくっていく国民道徳の恐怖と貧困こそが、現在緊急に解決すべき最重要な問題としてあり、これをはなれて、昭和ファシズムの時代に知識人が転向したかしなかったかだけを論じ続ければ十分でしょうか。
Q.転向論は日本だけでおこなわれている類の議論なのですか?
A.海外では知識人のファシズム協力の問題はありますが、転向論というのはないのではないでしょうか。殆どの転向論が文学という切り口なのですが、私が知る限り、このような転向論は外国に存在しません。「至誠」であれ「清明」であれ、日本人の伝統的メンタリティーとそれが近代化・西欧化によって被った変質との間で知識人が遭遇せざるを得なかった難問、という形の問いはあまりに日本だけの問いかけです。それでも、思想問題として検討する価値がある稀なものとしては、吉本隆明があります。ポストモダン建築の分野からこの問題へのアプローチがありますから、二つの文を別のところで紹介したいとおもいます。


形式とはなにか

「形態」ではなく「形式」と言うことで、記号論理学の「表現定理」的観念を「価値形式論」に接続すること。ここから、柄谷は、主体の「資本論」の読みの意味を形式化した。それは、読む人の、(天の如き)知に還元不可能な「X」に対するこだわりを構成していくのであった。柄谷のこの「X」に「世界共和国」や「帝国」が占めるが、読む自分へのこだわりだから何がはいってもいいー奇妙にも、読む人の内部では決して矛盾することはない



ハンナ・アーレント
労働する動物は、自分の肉体の私事の中に閉じ込められ、だれとも共有できないし、誰にも完全に伝達できない欲求を実現しようともがいている。そうである以上、彼は世界から逃亡しているのではなく、世界から追放されているのである。(『人間の条件』16)


一般的等価形式はいかに実現していくか?
靖国的に最大化された敬虔さと最小化されたシニカルさの差
労働する動物は、自分の肉体の私事の中に閉じ込められ、だれとも共有できないし、誰にも完全に伝達できない欲求を実現しようともがいている。そうである以上、彼は世界から逃亡しているのではなく、世界から追放されているのである。アーレント

貨幣が介入してくる一般的等価形式はいかに実現していくか?靖国的に最大化された敬虔さと最小化されたシニカルさの差として?つまり、労働する動物は、自分の肉体の私事の中に閉じ込められ、だれとも共有できないし、誰にも完全に伝達できない欲求を実現しようともがいている。世界から追放されている


バロック・オペラの横浜へ
メゾ・ソプラノのヴィヴィカ・ジュノーVivica Genaux はよかった


ナチス・ドイツの建築と都市

「これまでは建築はゲッベルスの帝国文化院の組織化にみられるように、ナチス・ドイツの文化政策のあるひとつの領域として捉えられてきた。しかしこうした研究(返還記録文章以降の研究)が明らかにしたのは、逆にいかに建築がナチス・ドイツの中心にあったかということであり、いかに建築がナチス・ドイツを動かしていたかということであった。」(「未完の帝国」小山明)


「未完の帝国」(共著 八束・小山、1991年)

「・・・ただ最初になされた問いかけは、実に二重のプロブレマティックを背負っていて、つまりそれは「ナチス・ドイツ」なるものを一意的に語ることは可能かという問いに不可避的につながるのである。もちろん一般的に「ナチズム」もしくは「ファシズム」といえば、一枚岩的に統制(グライヒシャルトゥング)された過酷なシステムのイメージが浮かぶ。しかし実際のナチズムは、一方においての強力極まりない暴力的な支配ー統制システムをもちながら、他方においては、時系列的にも、また局面毎においても、一貫性とはほど遠い混乱した「ミクロ・ポリティーク」をも現出している。この全体主義体制を指導者個人へと帰着させるとしても、それは総統ヒトラーのみに極限するわけにはいかない。ゲーリング、ゲッペルス、ヒムラー、ライ、ダレ、ローゼンベルグ、シュトラッサー兄弟等、各々の思想も行動も、ディテールに及べば及ぶほど拡散していくのであり、単純に括ってしまうわけにはいかなくなる。(・・・) 反近代主義のミクロ・ポリティークは、ナチス・ドイツにおいてもポスト・モダンの現代においても様々な形で働いているのだというべきだろうし、その清算など決して済んではいないのだともいうべきだろう。」(本文より)


徂徠は漢文読みは日本語で読むだけにどう読んでもいいと言った。外国語一般についてそうだ。だから外国と一体となって外国語をなんの媒介なく読むべきか?しかし外国人として外国語のテクストを読むことは何を意味するのか?テクストへの入口は、啓蒙主義が唯一ではなく多数あるように、多数存在する!

ピケティには、かれの語るべき対象が閉じられた体系によってはとらえることができない。グローバル資本主義は経済学だけで説明することが無理だから、(アタリのようには饒舌でなくとも)、文学や社会学に言及せざるを得ない。

価値形式論に表現定理を適用してみせること。

推敲中>>「資本論」が言ったことはこれだけだ。AはBを表す(表さない)。AとBは「ー読む」という判断である、AはBを表す(表さない)ことが、ある体系において保証されている。この体系は「資本論」である。ところで顕著な例として、Aに「資本論」を代入すると、「資本論」は、Bを表す(表さない)。例えば、Bには、資本主義の言説、あるいは国家と民族の言説、である。こういう文ができる。「資本論」を読むときに、国家と民族の言説を読むことは、「資本論」においては保証されている。ところが、「資本論」は資本主義のことしか書いていないので、結局、こうい文を構成しなければならない。、「資本論」からは資本主義の他のことを読むことができないときに、「資本論」を読むときに、国家と民族の言説を読むことは、「資本論」においては保証されているとはいえない。


ファシズムと戦争の区別ができていますか?

1995年に鎌倉近代美術館でナチの<退廃美術展>を見学し当時の記録写真をみたとき、呈示された歴史に、矛盾の感覚にとらわれたことを覚えています。どのような芸術が非ドイツ的で、ナチス統治下の第三帝国には受け入れられないかを国民に示すのが、同展の開催趣旨でした。たしかに、<非ドイツ的>芸術を指示する展示の仕方は、差異を消去する類の暴力でありました。他方で、戦争の破壊衝動とは全然異なる、奇妙にも、整然と、公の美術展の形をとっていました。1995年当時は、このような退廃美術の言説が、それを言うナチスに触発した意味を読むことはできませんでした。現在もわかったとは言えません。が、安倍自民党の、歴史を無意味化していく体制のもとで、なにも言わずに済むというような日常的状況ではなくなってきました。<退廃美術展>のナチは、<ドイツ的>芸術の指示すら意味が成り立たないほどのアナーキーに巻き込まれていったのではないか、と現在考えているところです。ここから、戦争経済を自立化させる経済体制において、戦争プロパガンダのなかで、どれどれの良識を無意味とするのではなく、良識そのものを無意味としてしまう知識人たちが生産されてきた可能性も。<退廃美術展>は芸術の危機、知識人の危機、究極的には人間の危機になっていくとき、この人間の危機からファシズムが産声が聞こえてきたのではなかったでしょうか。ところでファシズムの恐怖を語るときに、戦争の恐怖を語っていることが常です。しかしファシズムは戦争に先行します。だから、戦争によって、戦争を規定したもの(=ファシズム)を明らかにすることはできません。ファシズム->戦争の道筋を繰り返さないためには、ファシズムが何であるかを知ること。ファシズムを知るためには、ファシズムを戦争から差異化する知的作業がどうしても一度必要となってくると考えます。そのためにも、<退廃美術展>について考えることは決して無駄ではないだろうとおもいます。

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3月 2015年 言葉と表現と射影のブログ/BIGLOBEウェブリブログ
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