言葉と表現と射影のブログ

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zoom RSS 2015年3月(2)

<<   作成日時 : 2015/03/07 00:29   >>

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フランシス・ベーコン FrancisB
すべて優れた美には、その釣り合いの中にいくらか奇異なものが含まれているものである。There is no excellent beauty that hath not some strangeness in the proportion.


父に怒る息子

アイルランドの反抗者の言葉をどう読むかですが、ドイツの反抗者は、計画的で秩序をもった父たる国家にたいして計画的に秩序を以て反抗するといわれますが、アイルランドの反抗者の場合は、計画も秩序もないアイルランドに計画なく秩序のない反抗を行う「父なき息子の怒り」といわます。そのアイリッシュはイギリス人や日本人と比べて、未来に対して希望があることに気がつきます。植民地化されても、植民地化した過去がないので、たしかに貧しいことは貧しいし、その貧しさゆえの絶望感があるのですが、精神的には「大英帝国」や「八紘一宇」のような罪悪感がないからだと説明されます。「ユリシーズ」のスティーブンの苛立つキャラクターもこうした希望と共存していますが、丸谷才一訳は希望の部分がみえず非常に単調な感じがしますね。 (翻訳ではマリガンはマッチョな体育会系なのはピンときません。「マーテル塔」の三人はパリのカフェの如くダブリンのカフェを想定していたので、多少田舎でも(笑)、彼らなりに超スノッブだったはずなんですよ。(ジョイスは若い時はパリにいましたしね。FW時代にはパリへ。) 親しい同級生の渡辺一民氏と議論することもあったという丸谷も、軍国主義の時代を体験していて、この水戸学的な身体を鍛える国体論言説を、体育を奨励したゲール文化復興運動に読んでいたのでしょうか、わかりませんが)
“When the Irishman is found outside of Ireland in another environment, he very often becomes a respected man. The economic and intellectual conditions that prevail in his own country do not permit the development of individuality. No one who has any self-respect stays in Ireland, but flees afar as though from a country that has undergone the visitation of an angered Jove.” — James Joyce


中村哲「民族戦争と強力政治」『改造』p. 66 昭和17年2月号 八紘為宇の精神が世界史の現段階において、いかに四隣に光被さるべきかの軌道を示し、東洋諸民族をして各々その所を得しむる偉大な国家的悲願の具体的発顕である

平野義太郎(マルクス主義法学者)『民族政治学理論』p. 259 日本評論社 昭和18年9月 八紘一宇の東亜政治の理想をその内在的な理念とする戦争論が樹立されねばならない



'八紘一宇'発言を考える

どうも大衆的リアクションで終わる気配ですが、それにしても、安倍をはじめ、侵略も無かったとまで公に言おうとする歴史修正主義者の発言を原因として、こんなに東アジア諸国が緊張しているいま、これ以上の最悪な言葉があるだろうかという思いですね。腹が立ちます。'全世界を一つの家に'と響きはいいが、騙されてはなりませんよ。'八紘一宇'がヤバイのは、悪霊だからでなく、これからの日本の軍事的目標となる地理的表象を存在論的に指示しているからです。(ここで'存在論的'と書いたのは、最初から意味を拒むような開き直りをゆるす言葉に属しているから) '八紘一宇'という国家から行う死をかけた生命の有機的全体の集中を指示する言説にたいして、つまりはTPPの小さな政府の戦争経済を自立化させようとする集団的自衛権のイデオロギーに対して、別の言説で抵抗できないものでしょうか。思考が足りない自分に苛立ちます...。ただこのままの形では使えないかもしれませんが、例えば、参照できるものとして、'器官なき身体'といわれる、非有機体の原子論的な分散を指示するポスト構造主義の言説があったのです。思想史的なこのことを言及することも無駄ではないとおもうのです。実はすでに'太平洋戦争'という言い方が、日本が問題を起こしたアジアとの戦争を隠ぺいしています。アメリカにたいしてだけに責任をとればいいとおもっているような、八紘一宇の自民党政治家たちのもとでは、いつまでも戦争は終わらせることができません。こういう公の発言によって、‘全世界を一つの家'にするどころか、平和共存を望む東アジアと世界のなかで孤立していくのではないでしょうか。ああ、間に合うのか、なんとか、思考は、東アジアの市民のグローバルデモクラシーの言説へと行く


J. W. von Goethe ‏

学問の歴史の四つの時期。
一、幼児的な時期――詩的で迷信的。
二、経験的な時期――研究欲と好奇心にみちている。
三、独断的な時期――教示的で衒学的。
四、理念的な時期――方法論的で神秘的。
(『箴言と省察』1158)



ラテン語名文集
Aurōra mūsīs amīca est. あけぼのはミューズたちに親しい(=早朝は学問に適している)。(エラスムス「学源」)


すでに'太平洋戦争'という言い方が、日本が問題を起こしたアジアとの戦争を隠ぺいしています。アメリカにたいしてだけに責任をとればいいとおもっているような八拡一字の自民党政治家たちのもとでは、いつまでも戦争は終わらせることができません。こういう公の発言によって、‘全世界を一つの家'にするどころか、平和共存を望む東アジアと世界のなかで孤立していくのではないでしょうか。


映画の感想文

日曜日に渋谷で、「ブリキの太鼓」のシュレンドルフ監督がつくった「ディプロマティック」を観ました。なるほどあのように、パリのレジスタント運動の反撃が連合軍に先行したからこそ、戦後のフランスは米国に従属しない立場を保てたことがわかります。映画のタイトルの'ディプロマティック'は、'外交'を意味する言葉。ヨーロッパの危機に生きる現在の観客に、中立国の外交官とナチスの将軍の間の交渉を見せる前に、まず、映画の導入部の冒頭は絶対にフルトフェングラーのベートベン交響曲 (当時のラジオ放送のもの)でなければならなかったのでしょう。おそらく他の音楽では不可能だったにちがいありません。


ファシズムの問題は考えなくてよいのでしょうか?

1930年代のファシズムは、貧困の拡散と単一的価値観の集中から生じました。21世紀においてファシズムの再来は心配しなくていいのは、戦後のいわゆる高い教育水準でそれなりに価値観が多様となったからなのでしょうか? しかし再び貧困の拡散が起きている現在、その解決が貧困問題の解決だと考えさせないような単一的価値観の押しつけが上から起きているではありませんか!?これでは、貧困問題の根底にある格差問題と、それを規定しているかもしれないグローバル資本主義の問題にたいし効果的に取り組むことがほんとうにできるのでしょうか。

われわれが本を読んでいるときに、まさしくこのときに、
本がわれわれを読んでいるのはなぜなのか?

もし小泉の息子がフリードマン「資本主義と自由」を読んだら?しかし、その前に、都合よく読まれている市場の本がその自民党政治家を読んでいます。これとは一見正反対の方向で、やはり都合よく読まれている「資本論」が最近の柄谷+佐藤優コンビを読みはじめたように。市場をたたえる似非<実証主義>の言説は前者を監視し、帝国をたたえる似非<民族主義>の言説は後者を監視するという違いだけで、両者の言説こそは求め合う敵同士で、なんとみえない地下で、現状維持を好むという方向で互いに補完し合っているとしたら?最悪と言わざるを得ません。こんなんじゃあね、折角、ピケティがわれわれに、貧困問題の解決は格差問題の解決にあるといくら警告してくれてもね、豚に真珠とはこのこと。われわれが本を読んでいるときに、まさしくこのときに、 本がわれわれを読んでいるのはなぜか?という例ではないでしょか。答えは、だれもが自分に都合よく解釈しているときだから。んw?読む人の心(観念)をうつす鏡の本?


「言論を伴わない活動は、いわば、その主語を失う」(アーレント)

科学者Xと科学者Yのもとにパリから手紙が届く。ブレヒト「第三帝国の恐怖と貧困」の中の「物理学者」で描かれているふたりの物理学者に、アーレントが言うような知識人の沈黙したグロテスクな姿を観察することができよう。力 (テンソル)の政治学と呼ぶべきものが知識人たちをとらえてしまったら、いかにそれを巻き返すことが不可能となるのかをブレヒトは示そうとしたのである。21世紀のグローバル資本主義時代のファシズムとは何だろうか?東京演劇アンサンブルの芝居を三十年近く見続けてきた渡辺一民氏(フーコ「言葉と物」の訳者)が生きていたら、ブレヒト「第三帝国の恐怖と貧困」をどのように見ただろうか、何を言うだろうのか。われわれはファシズムについてかんがえているときに、実は、ファシズムそのものをかんがえているのではない。このことを理解するためには、例えば、画家がモデルを描くときのことを思い浮かべてみよう。画家は、モデルがモデルである条件、すなわちモデルとともに画家が存在している状態を決して描くことはない。(つまり自分の姿を絵に示さない。前衛的な?ヴェラスケスの「侍女の間」のようには。)しかし鑑賞者が見ているモデルというのは、ほかならない、画家がみているモデルのことだ。問題にかえると、われわれはファシズムをかんがえているときに、ただファシズムをかんがえているのは、近代がファシズムを語っているという語り方を隠蔽していることによるだけなのだ。ファシズムは近代からしか起きてこないが、近代は、ファシズムを近代とは無関係な、偶然起きた間違いの如く説明する。が、果たしてそうか? 近代は自らを正当化するために、近代自身の問題を、全部ファシズムの側に押しつけてしまうことだってできたのかも?それに対してポストモダニズムが暴きだした近代の姿は、ヨーロッパ中心主義の姿である (’先生のお望みは本当の物理学ではなくアーリア的な風貌をそなえた認可ずみのドイツ的物理学'。ブレヒトの「物理学者」より)。またポストコロニアリズムが暴きだした近代は、資本主義的蓄積としての同化主義的植民地主義 である('この連中のお望みは、国民が、偉大にして畏怖される、敬虔にして従順この上もなき国民になることだ” 。ブレヒトの「国民共同体」より)。ちなみにファシズムの体制は戦争経済を自立化させるが、それは必ずしも戦争とイコールのものではない。では、ファシズムがファシズムとなるのはいかなることを指していうのであろうか? “君たちが駆り立てられて行く戦争は君たちのものではない。「いやだ」というものはいないのか” とブレヒトが警戒したのは、言説の文化権力にたいしてであった。つまり、君たちは、敵を一人でも殺して来て死んだら神として祀られるのだから戦場でも安心だという、戦争は君たちのためのもの、君たちが君たちの場所へ帰るためのものと教える言説のことだった。そうして総統が言う'科学'の言説とは、理性そのものの限界をいう言説であった。民族はどこからきたのか、どこへ行くのかを教えた 'アーリア的科学' の教説にたいしてであった。この言説の内側に絡みとられたら、理性とは正反対の方向に、理性的であるか理性的でないかその両方が成り立たないような、理性そのものを無意味にあつかうほどの破壊の衝動に一体化する道しかなくなるだろう。ファシズムとはなにか?とりあえずの答えとしてはこれだけは言っておきたいとおもう。ファシズムが依存する'理性そのものの限界'は、ファシズムが<ドイツ人は、日本人は、どこからきたのか、どこへ行くのか>ということを(理性的に) 証明できないことを主張している事実によるだけである。やはりそれは、最悪の、国家の塊としての力の自己自身に対する関係、自分自身に影響する能力、自身による自身の情動のあり方なのであるが。何にしても、ファシズムの再定義が必要なことはたしかだ。

外国語を知らないものは、自国語についても何も知らない。(ゲーテ) Wer fremde Sprachen nicht kennt, weiss nichts von seiner eigenen.


比較級のつくりかたの練習
課題;ペンギンと電子レンジはなにが共通していますか?違いはなにですか?
例、'ペンギンは電子レンジほどには四角形ではない'

アイルランドに行ってみなければわからなかったのですけど、例えば離婚禁止(いまは可)・中絶禁止の超カトリック・ウルトラ右翼の部分を資金面で支えているのは、反知性主義のアメリカからのお金なのだそうです。個人の寄付金の総額で、正確なことは明らかではないのですが、中には国の予算を超えることもあるという指摘もありますが、とにかく外部からのこの巨大な圧力のもとに、500万人の無力なアイリッシュは翻弄されているという・・・

行ってみなければわからなかったのですけど、例えば、離婚禁止(いまは可)・中絶禁止のアイルランドの超カトリック・ウルトラ右翼なんかの部分を資金面で支えているのは、反知性主義のアメリカからのお金ですからね(個人の寄付金)。外部からのこの巨大な圧力のもとに(国の予算を超えるという指摘もありますが)、500万人のアイリッシュは翻弄されているという・・・

ホ〜、この文学者のカマトト的言い方にむかつくものもなくはないが、考え方はそれほど間違っていないと思うよ。なにもかも原発のためにということではやっていけなくなったときに、そしてそのときがいまなのだが、人間は究極的に何に依るのか?大江はたまたまそれを文学と呼んだが、要は未来の人々との関係。未来の人々と繋がるには、特攻隊の永遠のセロの死よりも、原発をゼロにしてから死ぬのがこの国の大人の責任。一考に値するニャリ


中沢に網野がいたように、浅田に山口がいたのだけれど、別々にこの二人が形成した天皇制構造論の言説は、まったく無傷、だれも批判していないままだと子安氏は先々週嘆いておりました。(厄介なことに、わかりませんが、近い将来にですね、靖国言説がこの種の構造論によって高度な次元でパワーアップされるとしたら、知識人たちへの絶大な影響も?怖いことですわ。対抗的に、浅田氏には頑張って欲しいが、彼は25歳ぐらい先に行っていたので、現在は80歳くらいの大御所か。いや、大江氏や子安氏のように、まだまだ反時代的にやれますわ(笑)

日本のネオファシズムNeo-Fascism in Japan

冷戦以降に台頭するネオ・ファシズムが起きてくる条件をあげてみますと、長期的不況 (Industrially advanced economies hard hit by the recessionary slump)、左翼政党への不信感 (A discredited Left alternative)、語る民主主義の終焉 (An end of consensus politics)、議会の機能不全と腐敗に対する不満(Dissatisfaction with an inefficient or corrupt parliamentary system)、外国人労働者が'仕事を奪う'と扇動する差別主義 (Racism provoked by 'job stealing' immigrants, refugees and political asylum-seekers)、偉大な右翼への尊敬(A respectable Right)、強い国家へのノスタルジア(Nostalgia for a strong state)、などがあります。とくに日本のネオファシズムの場合は、強い国家に対するこだわりが働いています。例えば、安倍の'強くて美しい日本'の原型ですが、高度経済成長が終わった後にいわれる'ジャパン・アズ・ナンバーワン'がそういうものだったでしょうか。石油危機以降このこだわりのもとで安全神話と一体となった原発建設の推進が行われてきたことは指摘されているところです。強い国家への心理的な思い入れはほかにも色々な現象と関わっていますね。siege mentality 被包囲心理(自分が常に攻撃にさらされていると感じる精神状態)です。アイデンティティーや過去の国家の栄光 (大東共栄圏の帝国日本)の喪失から、ごろつき的に暴力にものをいわせる愛国心に代償を求めること。高い失業率を解決できないときに、政府に、貧富の格差をかえって拡大させる市場の<大きな>信頼へ向かわせること。多民族・多人種の社会と文化をみとめることができないこと(<ひとつ>の日本、<ひとつ>の日本語しかないと威張ること。) 強い国家への過大な思いから、他国からやって来る人々を排他的に一律に締め出そうとすること (世界銀行、IMFの自由貿易または多国籍企業の資本主義に限度なく収奪されている貧しい国々の人々が直面している深刻な砂漠化と飢餓の現実を知らずに、なぜ移民や難民が入ってくるのか理解できない人々がどこの先進国においても存在する。自分の経験からいって)


白紙の本 (7)

百年後の人々は2015年のわれわれをどのように語るのか?
原発再稼働したわれわれをどのように語るのか?
絶望する。...
ただ左右から中立の立場にあると思い込むだけで
何の感性の成長があったのかと自己に問うとき
中立の「ネオナチ層」の保守反動を形成するようなことだけは。
エスカレートする同調圧力の内部でも、
例外者たちは、白紙の本と同様に、
常に外部からあらわれてくるのだろう。
絶望的な状況で、なんとか
内部はトポロジー的に外部と繋がっている
と、楽観的であること。本の端に隠れている虫たちのように
こちらのほうを、百年後の人々ははっきり見えるのだろうけれど
果たして、見るに値するわれわれなのかという問題かもしれない


「原発がない世界を実現するほかない。声を発し続けることが、自分にやれるかもしれない最後の仕事だ」
(原発の再稼働を推し進める日本政府の姿勢を)「大事故への反省、再出発という意識がない」
(アジア諸国との関係悪化などにも触れて)「戦後最大の危機を迎えている」
「絶望的な状況で、楽観的であること」
「窮地にあるが、新しい動きを始めないといけない」
ー 大江健三郎


白紙の本 (4)

20世紀の芸術史を回顧すると、
芸術理論は脱構築の思想の影響の下に
盲目の言葉の様相を呈するほど饒舌の方向にいくとき、
反対に、作品は益々沈黙していったのである。
理論と作品が出会うのは、詩のほかにおいてない。
と、思想家の芸術理論を失った反発にたいし
詩人は耳を塞ぐどんな特権もないことに気がつくのだった。
なによりも、詩人は、思考から思考できないもの、
白紙の本を受け取ってしまったのである


白紙の本 (5)

68年以降のノンセクトラジカルによって
マルクス主義の特異点が消去され、
思想が分散を余儀なくされたとき、
多文化主義国家の民主主義が成立したとすれば、
ポストモダンのモダン化に向かって思想が集中しつつあるいま、
民主主義は分散させられる。白紙の本は開く、
帝国のデモクラシーと、市民のグローバル・デモクラシーへと



百年後の人々は2015年のわれわれをどのように語るのか?

原発再稼働したわれわれをどのように語るのでしょうか?絶望します。またこの百年後の人々から、八十年代に「新人類」と呼ばれて得意にしていたマジョリティは学生時代に中曽根元首相に抗議しなかった異常な世代といわれても仕方ありませんね。それにしても、左右から中立の立場にあると思い込むだけで何の感性の成長があったのかと自己に問うのですが。義憤なき世代と共に、安倍自民党にひそかに共感をもつ日本の「ネオナチ層」の保守反動を形成するようなことだけは、恥ずかしいのでおことわりです。(ありゃ、選挙ポスターの口調に!?) エスカレートする同調圧力の内部でも、無論、貴重な例外者たちは存在します。思想と同様に、常に外部からあらわれてくるのだろうとかんがえています。希望をもつこと。内部はトポロジー的に外部と繋がっていることははたしかで。現在はみえなくとも、みえにくくとも、百年後の人々はこちらをはっきり見えるのでしょうけど。果たして、見るに値するわれわれなのかという問題という気もする。何を言うのか、何を行うのか。「新人類」のなかだけで適用していた中立的でさえあれば何か特権をえたつもりの無感覚な思考欠如は世の中に広まってしまったのでは


ファシズムの問題とは近代の問題である


白紙の本 (6)

われわれはファシズムについてかんがえているときに、実は、ファシズムそのものをかんがえているのではありません。このことを理解するためには、例えば、画家がモデルを描くときのことを思い浮かべてみます。画家は、モデルがモデルである条件、すなわちモデルとともに画家が存在している状態を決して描くことはありません。(つまり自分の姿を絵に示しません。前衛的な?ヴェラスケスの「侍女の間」のようには。)しかし鑑賞者が見ているモデルというのは、ほかならない、画家がみているモデルのことです。問題にかえりますと、われわれはファシズムをかんがえているときに、ただファシズムをかんがえているのは、近代がファシズムを語っているという語り方を隠蔽していることによるだけなのです。ファシズムは近代からしか起きてきませんが、近代は、ファシズムを近代とは無関係な、偶然起きた間違いの如く説明します。が、果たしてそうでしょうか? 近代は自らを正当化するために、近代自身の問題を、全部ファシズムの側に押しつけてしまうことだってできたのかも?それに対してポストモダニズムが暴きだした近代の姿は、ヨーロッパ中心主義の姿です。またポストコロニアリズムが暴きだした近代は、資本主義的蓄積としての植民地主義。ちなみにファシズムの体制は戦争経済を自立化させますが、それは必ずしも戦争とイコールのものではない。では思想史が暴き出すファシズムとはどういうものか?人間はどこからきたのか、どこへ行くのかということを教える言説の文化権力と関係があるとかんがえています。“君たちが駆り立てられて行く戦争は君たちのものではない。「いやだ」というものはいないのか” と、ブレヒトが警戒したのも、ここではなかったか。戦争は君たちのためだと教える言説のことです。君たちは、敵を一人でも殺して来て死んだら神として祀られるのだから戦場でも安心だ、神々として(所有されない)大地を闊歩し、西洋列強から奪えかえせ、と

近代に起きてくるナチスのファシズムと天皇ファシズム

近代の西欧世界の奴隷制度とは、資本主義の本源的蓄積のために行った収奪のシステムです。ポストコロニアリズム系の研究のなかには、ナチスのホロコーストは米国の黒人奴隷貿易の植民地主義といかに似ていることをいう指摘もあります。<ファシズム>の根底に、<近代>の植民地主義的抑圧をみるのですね。私は8年間、大英帝国(イギリス)の植民地だったアイルランドにいましたから、まるごと全部ではないですが(どんな言説も政治的に語られることも真実ですからその部分に無垢であることは許されません)、この見解に、あるリアルティーを感じます。さて近代日本をみると、西欧世界に対等であることが決定的な'勝利'を意味し、それだからこそ、植民地をもたない近代化はゼロに等しいという過大な国家意識に囚われていたことはたしかなのです。具体的には、この国家意識は日比谷公園焼き討ち事件から満州事変へと膨張していったナショナリズムのことです。そしてこの明治末から大正を経て展開した日本帝国主義の方向は、昭和ファシズムの言論の自由を抹殺していく翼賛的な方向、"戦う国ために死ぬ'という国民道徳の方向、日本人を心の中から洗脳していく'至誠'の方向、そして敵を殺して死んだら靖国に神として祀るから安心して戦場へ行けという国家祭祀の方向と、一致することになったのです。2015年の現在、危機感をもった平成天皇が大東共栄圏の戦争を満州事変に遡らせて語っていることにはそれなりの根拠があるといえます。海外の日本に対する高まる危機感のなかで、外部の眼、ヨーロッパの眼からみると、日本は戦争を終わらせようとはしていないとみえるのです。だからこそ西ドイツからきたメルケルは東アジアの平和的解決をいう相手がまず日本であることの意味をかんがえることが非常に大切であろうとおもっています。



イラクとシリアとトルコの区別がついていたら。アラブ諸国は、イスラムという宗教概念などでは説明しきれない地域的多様性があるのですね、いやしかし自衛隊派遣に反対していくためには、ヨーロッパの反戦デモなみに、<シリアを爆撃するな>とか、<イラクを爆撃するな>という言い方が必要となっていくと今日かんがえていたのです。これを言っていくことは大切ですが、リアリティーからいって、<憲法を守れ>では全然足りない。ただ、<9条は日本人を守ってきた>としかいわなかったら、爆撃される中近東の人々は「おまえだけのことか!」怒るかもしれません・・・


ヨーロッパの眼
ー東アジアの緊張緩和促す、独首相来日「平和的解決を」(朝日新聞)

日本は憲法9条を利用して一方的に軍縮すれば(過剰な富を破壊すれば)、互酬性の原理が働き、負い目を感じて恥ずかしくなった他国も必ず軍縮に向かうはずだと柄谷行人においていわれたが、現実はこれとは全く反対の方向に、東アジアは安倍を原因とする憎悪の互酬的連鎖に囚われている。そこで、平和戦略の柄谷は世界共和国の互酬的実現を諦めたのかどうかははっきりしないが、その代わりとして、一昨年ぐらいから、今度は非常に危うい帝国の構造を語りはじめたことだけは明白だ。かくも彼の周辺で民族主義の危うい言説を展開する売れる日本知識人(一部)の発言をフォーカスする出版社達が場をつくっている。平和を願うと口ではいいながら、商売のためだ、しかたがないとばかり言い訳的に自分をごまかして、国家の敵対的他者を揶揄する無責任極まる文化資本は、結局は、戦争をつくる東アジアの緊張に加担していないのだろうか?呆れたことに、全国書店のなかには露骨な民族対立を煽るものもある。安倍自民党の政府とこれに協力する国民は、新教育勅語の国民道徳、戦争をつくる首相靖国参拝などで、東アジアの平和共存を望む人々の信頼を裏切っていくことにならないのだろうか?自己への戒めを込めて。(あれは右翼なのに、「平和的解決を」をいうメルケルの言葉は突き刺さった)





Strangely, that the truth of analysis of global capitalism can be inferred from Marx's 'Das Capital' is simply due to the fact that the reading "Das Capital' exclusively asserts its own provability. This is the case in Kojin Karatani.
His "Transcritique" may say that they are bad readers of Marx's ' Das Capital' that think there is no state and nation, when they can see nothing but capital. But for that reason, it is also a recognition of capitalism of itself is nothing without state and nation. Then Kojin Karatani in " The structure of Empire' (2014) will substitutes empire for state and nation, where the global democracy should be shut up. This discours is really disgusting ! (takashihonda)


昔書いたものー> 柄谷行人「トランスクリティーク」(英語版)を読む

「内在性の中の超越性」(フッサール)というテーマほど、マルクスにとって重要な問題意識はない。柄谷的には、哲学と経済学、この両者は、「内在性の中の超越性」において互いに出会う。哲学と経済学は、文学と同様に、或いはそれ以上に、独我論を排しつつ、窓のない個(モナド)の外に出る試みだった。
ライプニッツは、窓なきモナドの予定調和を語った。が、柄谷氏は、モナドの窓が無い故の不可能性を説く。モナドの内側(他者を手段とする資本主義)は、モナドの外側(他者を目的とする共産主義)によって、規定される。そのためには「窓」が必要である。即ち、窓とは、資本主義・国家・民族の、牽制し合う構造的配置のことである。
ジジェク的には、マルチチュードの抵抗とて、資本主義の内部の運動だけに、再び資本主義に回路づけられる運命でしかない。そうならば、柄谷氏は、マルチチュードとしての貧困の力よりも、寧ろ国家に能動的な役割を与えるかもしれない。が、国家はそれほど本当に、資本主義の外部として働く得るのだろうか?この疑問がある。

「世界史の構造」は、「トランスクリティーク」のあとに出版された。柄谷氏の「世界史」を呼んでも、疑問は解けなかった。柄谷氏は、国家の能動的な役割を強調するあまり、市民社会の意義を欠落させてはいないだろうか?言い換えれば、「革命」を待ち望むように、「国が解決するときがくる」という「待ち」の姿勢は、私達を消極的な態度と生き方にするのではないか。
ところで、米国に亡命したアドルノは大変な苦労話がある。但し彼が語らなかった大切な真理もあるはずとサィードは言う。亡命者というのは、周縁的な存在だけに、日常的な事柄を異化的に捉える能力があるー外国人が撮る写真の新鮮さを考えよ。語りの特権を持つ快楽すら持つ。亡命者は知識人的に存在できるのだと。

顕著な個人主義者であった二十年代前衛芸術家は、亡命といっても、自分で決めた亡命を行った。サィードが注目する亡命とは、寧ろポストコロニアル世界の狭間に生きる民衆の匿名的な亡命だ。mobility, flexibility, precarity、即ち、亡命のマルチチュード的形式である。
この点に関して言うと、ネグリ的には、資本主義に対する知識人的抵抗は、mobility, flexibility, precarity 即ち、貧困の力から起きる。だから、浅田彰の「構造と力」は、「構造と貧困」としてもよかったのである。恐らく、「人類」「逃走」の代わりに、「マルチチュード」「亡命」と言うこともできた。一考に値する仮説。
浅田氏は消費の次元でのスキゾ的主体性の回復を説くも、柄谷氏ほどには、語りの特権性を、亡命者的知識人を擬制した文学者の語りを実現できなかった。ただ、柄谷氏のは、遥か俯瞰的な高さからの語りだけに、資本の運動の不可能性が見えても、現実の亡命者や少数民族が強いられる困難性が見えるかどうかだ。
繰り返すが、柄谷氏の「世界史」には、国家は能動的な役割を与えすぎているために、市民社会の意義を欠落させてはいないだろうか。ここに私の疑問が集約される。市民社会の構築の意義。原発問題を決定的に終えるために市民的介入が必要とされている現在ゆえに、この思いは一層強いのである。(本多)



増殖する「歩」の反乱

They are ill discoverers that think there is no land, when they can see nothing but sea. (Francis Bacon)
海のほか何も見えないときに、陸地がないと考えるのは、けっしてすぐれた探検家ではない。(フランシス・ベーコン)

ホ〜、二歩は、戦艦ポチョムキンみたいな「歩」の反乱みたいなものだから、すすんで自分から王将を取り除いて何事もなかったかのようにゲームをつづければよろしいでしょう。「王手」とせめられている危機のとき、王将のほかになにもみえないときに、王将なき共和国がないと考えるのは、真の共和主義者ではないニャ


ゴダールが編集したのは、過去の人々に見られた映画の歴史
民衆の中に天皇の痕跡を探し出すように、国家の内側の大衆に、
過去に遡る理念的な共同体の欲望の徴を読むのは間違いだ
生者ゴダールが饒舌に語るのは、死に切った過去としての、暗黒の
宇宙に充満しているのに、沈黙する光粒子達の運動


マルクス「賃労働と資本」は、まさしくDeleuze

[機械という主題は、じつに強烈に、また明白な内容をもっている。第一次世界大戦をめぐって、機械に関する四つの目立った態度が対立していた。まずイタリア未来派の、力強いモル的な賛嘆があげられる。これは機械を頼りにして、国民の生産力を発展させ、新しい国民的人間を生み出そうとするが、生産関係を問題としない態度である。次には、ロシア派の未来派や構成主義の態度があり、これは集団的所有によって定義される新しい生産関係に応じて、機械を考える立場である(タトリンやモホーリ・ナギの司令塔機械は、かの有名な党組織を民主的中央集権として、つまり頂点と伝道ベルトと底辺とを具えた螺旋型モデルとして表現している。生産関係は、「指標」として機能する機械の外部に存在し続ける)。次にダダイズムの分子的機械仕掛けがあり、こんどは欲望の革命として逆転をなしとげる。なぜならそれは、生産関係を、欲望機械の部品の試練にさらし、欲望機械から喜ばしい脱領土化運動を引き出すからである。国民や党といったあらゆる領土性の彼方に。最後に、ヒューマニズムの反機械主義があり、これは想像的あるいは象徴的な欲望を救いあげ、この欲望を再び機械に対立させようとし、このためには欲望をオイデプス的装置に折り重ねることをも辞さないのだ。(ダダイズムに対抗するシュルレアリスム、あるいはダダイスト、バスター・キートンに対抗するチャップリン) ]


「三木は「過去」あるいは「伝統」が死にきったものとして、死とともに人間にとって絶対的であることをいう。死は絶対的であり、経験的な人間の生を超越する。死にきった「過去」とは、絶対的な、超越的な「過去」である。病み衰えながら、あるいは姿を変えて現在に生きている過去とは、過去ではないし、過去が今に生きているわけではない。ここには病み衰えた、変質した今があるだけである。では現在に絶対的な意味をもつ「過去」「伝統」とは何か。それは人間における「死」とともに絶対的で超越的な「過去」であり、「伝統」である。もしそれを「釈迦その人とその時代」といい、あるいは「大無量寿経の教法」というならば、『人生論』の人生論的「死の思想」は遺稿「親鸞」の末法論的「死の思想」に直ちに結びついてくるだろう。私は昭和13年(1938)の「死と伝統」という文章は、三木における親鸞的思考の深化の中で書かれたものだと思っている。」(子安氏)




子安宣邦のブログ -思想史の仕事場からのメッセージ- : 遺稿「親鸞」から三木清を読む http://blog.livedoor.jp/nobukuni_koyasu/archives/24240935.html

『大学』成立:朱子(1130-1200)が『礼記』の一部を『大学』として独立の書とした。『礼記』収録前の経過は明確ではないが、武帝の大学設置(前136)頃に儒学的な国家有為の人材の育成を目標に作られ、宣帝(前74-前50在位)の時に戴聖という礼学者が編纂したと推測される。
南宋の儒学者朱子(朱熹)は『礼記(らいき)』の「大学」、「中庸」の2篇を独立させ、『論語』、『孟子』とあわせて四書とし、儒教の代表的な経典としました。また、朱子は『大学』、『論語』、『孟子』、『中庸』の順に読むのがよいとしています。
『大学』概要:儒教は「己れ自身を修める」道徳説と「人を治める」民衆統治の政治説とを兼ねた教説(修己治人(しゅうこちじん))と言われる。己れ一身の修養を基盤として天下国家の統治を目ざすという「修己」と「治人」との組織的連繋統一が、大学教育の理想・目標として書かれている。

『大学』冒頭:「大学の道は、明徳を明らかにするに在り、民を親しましむるに在り、至善に止(とど)まるに在り。(大学で学ぶべきは、自身の修養努力により立派な道徳の発揚を目ざす、万民を互いに親しみ和合させ平和な暮らしをさせる、前二者を一連のものとし最高善の境地にとどまることである。)」

『大学』冒頭:「大学の道は、明徳を明らかにするに在り、民を親しましむるに在り、至善に止(とど)まるに在り。(大学で学ぶべきは、自身の修養努力により立派な道徳の発揚を目ざす、万民を互いに親しみ和合させ平和な暮らしをさせる、前二者を一連のものとし最高善の境地にとどまることである。)」

『大学』冒頭:「大学の道は、明徳を明らかにするに在り、民を親しましむるに在り、至善に止(とど)まるに在り。(大学で学ぶべきは、自身の修養努力により立派な道徳の発揚を目ざす、万民を互いに親しみ和合させ平和な暮らしをさせる、前二者を一連のものとし最高善の境地にとどまることである。)」

『中庸』成立:孔子の孫である子思(前483?-前402?)作と伝承があり、『礼記』に編入されて古くから読まれてきた。現在では、記述内容の時代関係、中庸と誠の2つの内容の存在から、子思から伝承された内容と『荀子』や老荘思想の影響を受けた内容をもとに編集したものと推測される。

『孟子』性善説:「孺子(じゅし)の将に井(せい)に入らんとするを見れば、皆怵愓(じゅつてき)・惻隠の心あり。(略)惻隠の心無きは、人に非ざるなり(幼児が井戸に落ちかけているのを見たら誰でもいたたまれず助けに行く。惻隠の情を持たない者は人ではない)」(公孫丑章句上)と孟子は話す。


『孟子』易姓革命1:先帝を討伐して天下をとった臣下について尋ねた斉の宣王への、孟子の応え。「仁を賊(そこ)なう者これを賊(ぞく)と謂い、義を賊なう者これを残と謂う。残賊の人は、これを一夫と謂う。一夫紂を誅(ちゅう)するを聞けるも、いまだ君を弑せるを聞かざるなり」(梁恵王章句下)
『孟子』易姓革命2:1の訳(仁、正義を破壊する者をそれぞれ賊、残と言い、一夫(一人の民)と呼ぶ。武王が一夫の紂を殺したと聞くが、君主の紂を殺したとは聞かない。)仁義に反した紂王は君主ではないから、殺しても君主に背いたことにならない、と孟子は言い、君子(の姓)を変える革命を認める。

『孟子』概要:中国古来の「天」の思想を根本原理とし、易姓革命(君主に徳がなくなれば別の姓の君主になる)、王道主義(善政により人民の生活を安定させ、人が集まり国力が増強し、自然と天下を統一する)、性善説(人の性は本来は善で、それを自然に伸ばせば道徳的になる)、誠(まごころ)を説く。

『孟子』冒頭:梁の惠王への拝謁時に国に利益となる政策を求められると、「王も、亦仁義を曰わんのみ。何ぞ必ずしも利を曰わん。(王は仁義だけを気にかけられたらよろしい。なぜ利益のことなぞ仰ることがありましょうか。)」(梁恵王章句上)と仁義を元にした道徳主義の儒教政治の理想を孟子は説く。


きょうはなんの日?

・1904年3月8日にアメリカ合衆国のニューヨークで、女性労働者が婦人参政権を要求してデモを起こした。これを受けドイツの社会主義者・クララ・ツェトキンが、1910年にコペンハーゲンで行なわれた国際社会主義者会議で「女性の政治的自由と平等のためにたたかう」記念の日とするよう提唱したことから始まった。
・国際女性デーにちなむ最大の事件は、1917年にロシアで起こった二月革命であろう。国際女性デー(当時ロシアで使われていたユリウス暦では2月23日にあたる)に首都ペトログラードで行われた女性労働者を中心としたデモは、男性労働者、更には兵士を巻き込んだ大規模な蜂起となり、最終的には帝政を崩壊に追い込んだ。
・日本では1923年3月8日、社会主義フェミニスト団体赤瀾会が初の集会を開催。国連は1975年(国際婦人年)の3月8日以来この日を「国際婦人デー」と定め、現在は国連事務総長が女性の十全かつ平等な社会参加の環境を整備するよう、加盟国に対し呼びかける日となっている。2000年には、国連人権高等弁務官のメアリー・ロビンソン(Mary Robinson、アイルランド初の女性大統領)が21世紀に向けて「女性が権利の獲得に向けたこれまでの歩みを祝うと同時に、女性被害者は、いまだに跡を絶たないことを想起する日」であると言明する文書を発表した。(Wiki)


言語は歴史が前提とするものである。だから歴史が前提するものを歴史によって明らかにすることができない。同様に、言語は民族が前提とするならば、民族が前提するものを民族によって明らかにできない。日本語は何かと問うとき、それは日本人の集合からも、その補集合からも明らかにできるのだろうか。ただ日本語とそれを使用する人々との関係がいわれるだけではないだろうか。たとえば、母国語で異邦人として語ること。

だれが市民か

ヨーロッパは理念型と共に<市民>と<国民>をつくった。ロシアは人民という名のメタ<民族>を、米国はハリウッド映画の<大衆>を、いや、<アメリカ人>をつくった?わたしの学校時代は市民を意味するはずの<公民>という科目があったが、<市民>とは絶対に言われなかった。中国では公民は市民の概念らしいが、兎角台湾で勉強してこよう。ちなみに、ジョイスのDublinersは、フランス語訳の表題のように「ダブリンの人々」という程度の意味で、「ダブリン市民」ではない。マルクス的には、独立商品所有者を意味した「市民」は、アイルランドにおいては、ジョイスの観察からはネガティヴにとらえられた(第二インターの流れをもつ) 権威的民族主義の独立派共和主義者。ただし1990年代以降の反グローバリズムの機運の中、市民概念が変容してきた。ダブリン市民の<市民>という言葉は主権概念に制約されない新しくポジティヴな意味をもってきた。<でもくらてぃあ>の小田実は、単純に、ワイワイガヤガヤと、大きな人間をただす、ウロウロウヨウヨした小さな人間たちを市民といっているようだ。

アイルランドに8年間もいたのに、今回のことに関して、アイルランドからの視点で書いていない自分自身に苛立ちがありましたから、アイリッシュの言葉がストーレートに自分に突き刺さりました。中近東のイラクに軍事介入するアメリカによってアイルランドの中立が事実上崩されてしまった憤りと危機感のなかで、このアイリッシュも自身にこのように言うことによって自己が依るアイルランド人性を絶えず発明していくという意志があるのだとおもいます。それにしても、われわれがかれのこの言葉を聞くと、なにか綺麗ごとの楽観的な感じがするのですけれど、これに関しては、われわれ日本人が他国を植民地化した過去をもつ罪悪感が、アイリッシュの言葉をよむときにそこから違和感を覚えるのかもしれません。アイルランドの経済はEUの1%。しかし貧しくともアイリッシュは植民地化した歴史がないので他のヨーロッパの国々にくらべて未来に希望を感じている、とデクラン・カイバードは指摘しています。ちなみに、この希望は、苛立つスティーブンのキャラクターに描かれている可能性があるのですが、必ずしも丸谷才一がこれを汲み取って「ユリシーズ」を訳しているとはおもえません。ほかならない、この違和感に、アイルランドを舞台にしたヨーロッパのテクストを日本から読むときにどうしようもなくあらわれてくる距離があります。つまり他者の痕跡である、消し去ってはならない距離のことです。ヨーロッパの文学を日本から読むことはなにを意味するのか? またこの距離の問いが、アジアからみるとどうなるのか大変気になるところであります。


「考えてみてください。そもそもなぜ、日本人がイスラム国に殺されなければならなかったのでしょう。私はアイルランド人ですが、アイルランド人は一人も殺害されていません。なぜなら、アイルランドは中東諸国のどこかの国や勢力に肩入れすることをせず、戦争にも参加していない。軍隊も送らず、シリアも攻撃していないからです」(イギリスのメディアが紹介したアイリッシュの証言)



国民道徳とは、ふたたびあらわれる教育勅語のこと

「年間20ミリシーベルト以下の被曝は我慢しろ」「賠償打ち切り」は、国のためになぜ死ねないのかをいう国民道徳の形じゃありませんか?また、戦争する国のために喜んで死ねと、愚かにも、もし教室でこのようにふたたびび押しつけられるとしたら、この様な教育勅語に対しては、子供たちは、しかしそんなんで本当に自分は幸せなのか?という問いかけを自分で学ぶしかありません。アーレントがいうみたいに、差異性を奪われ尽くしたら最後の抵抗は、自己の中の差異と対話していくことです。その意味で小学生こそは、自己の命をまもるために、ヨーロッパの学校の子供のように、哲学を勉強することがほんとうに大切になってきたのかもしれません。残念ながら、この国は子供が読める哲学の絵本って、ほんとうに少ないようにおもいます。フランスには哲学の絵本があるのは、やはりエミールのルソーの伝統かな。(自分の思想的自立を励ます絵本をいつかかいてみたいですが)

共通のものはなんだ?Aヨーロッパの文化権力の(ベラスケスの「言葉と物」が相対化したい) ルネッサンス。Bアメリカの(ナチスが対抗した)ハリウッド映画。C中国の新儒教。Dロシアの(反ルネッサンス・反ビクトリア・反ハリウッドの対抗的)スターリズム的リアリズムのイコン画 (答え;帝国)

ヨーロッパは理念型と共に<市民>と<国民>をつくった。ロシアは人民という名のメタ<民族>を、米国はハリウッド映画の<大衆>をつくった?学校時代は市民を意味するはずの<公民>という科目があったが、<市民>とは絶対に言われなかった。中国では市民の概念らしいが、兎角台湾で勉強してこよう

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2015年3月(2) 言葉と表現と射影のブログ/BIGLOBEウェブリブログ
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