言葉と表現と射影のブログ

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zoom RSS 4月 2015 (1)

<<   作成日時 : 2015/03/19 08:28   >>

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白紙の本 (7)

白状すると、絵を描くときはどうも手が勝手に動くのであります。

目で記憶したものが手に直に伝わるような、


この速度とリズムのなかで、

勇気があればたとえ文法を間違えても、

その場で思い浮かんだ言葉たちを隙間に書き添えてしまうのが

一番よいのです。ですが、厄介なことに、

白紙の本のなかにある、完成させたいという

小さな論理の臆病がそれを許さなくなります。



軍国主義の現在、偶像破壊の愛のコリーダが思想史が必要

アイルランドで学んだこと、考えたことはたた、このひとつです。記憶というのは、絶えず発明することが必要で、発明をやめてしまうと化石となってしまうということ。さて子供時代を回想する大島渚の自慢話に、戦時中のとき軍部の没収と母親による処分の危険を避けて、父の蔵書・ロシア版資本論を壷に隠して地中に埋めたというが、この大島の記憶も、「愛のコリーダ―」のなかで「サダ」が切断した愛人のペニスを膣の中に埋め込むという場面に昇華・発明されていたのかもしれません。大島映画では血は野蛮の象徴ではなく、誕生の象徴です。このことをかんがえると、「サダ」の男性の身体に文字を一字一字書く行為は、なにか思想にかかわる決定的なことを伝えているのかもしれません。異常という言葉でかたらえれてきた映画の圧倒的なエモーショナルなイメージを前に、はっきりしたことはわからないままですが、大島映画は、思想史の連続性を切断する身振り・ジェスチャーであったことは一考える価値があります。現在しっかりと考えておく必要があることは、この点です。日本の知識人がいかに、「資本論」の読みのこだわりに自らの思考 ー透明な実定性(宇野のなにもかも流通に還元する読み)と一国モラル(河上の貧困問題の克服を教育勅語の魂に還元していく読み)ーに特権的に深く根づかせようという、ほかの世界の知識人にはないという、顕著な態度についてです。オィデプス的に、「帝国の構造」も、「世界史の構造」のほかに、父たる「資本論」の読みのこだわりをいう「トランスクリティーク」に負うています。(「言葉と物」の翻訳者・渡辺一民の課題も結局は、このような内部に絡みとられていく全体主義的な言語の監獄から逃れていくことでした。)思想史に偶像破壊の愛のコリーダが必要。それならば、軍国主義に向かって行進しはじめたこの世の中で、これからだれが「定」の役割ー全体主義の言説を切断するーを引き受けるのでしょうか?

We have to invent our memory without cease. Because once we stopped it then we would become fossilized.
Nagisa Oshima always invents his memory to the
cinematic fantasy. He boasts his own experience; he was a boy 8 years old in wartime. Nagisa Oshima remembers that he buried in the underground his father 's collection, the Karl Marx's Das Kapital translated in Russian because he avoided the confiscation of the military authorities and the disposal by his mother.
Nagisa Oshima saved the book. Later this memory would be transformed in the image of love. In his film, "Sada" cut off her lover's penis and buries it in her own vagina...

I think this image the regeneration after the great Kanto Earthquake of 1923
Certainly we need an image of regeneration after the collapse 3.11

愛のコリーダ;記憶というのは、絶えず発明することが必要だ。やめてしまうと化石となる。大島の戦時中の自慢話。軍部の没収と母親による処分を避けて、少年の大島は父の蔵書・ロシア版資本論を壷に隠して地中に埋めたという。この記憶は愛のイマージュに変容する。映画のなかで、サダは切断した吉のペニスを膣の中に埋め込む...

Nagisa Oshima boasted his own experience in wartime while he was a boy. Nagisa Oshima covered in the pot his father's collection, the russian version of Marx's "Das Capital", and buried it in the underground because he avoided the confiscation of the military authorities and the disposal by his mother. Later this memory would transform in an image of love in his film. "Sada" cut off a penis of her lover "kichi" , and that buries it in her vagina.
We have to invent our memory without cease. Because once we stopped it then we would becme fossilized.

I think this image the regeneration after the great Kanto Earthquake of 1923. Certainly we need an image of regeneration after the collapse 3.11

ブレッソン「やさしい女」の感想

今日は新宿で映画「やさしい女」を観ました。映画を見終わったあと、私の気のせいでしょうか、六十年代後半のパリのあの言い難い雰囲気は永遠に変わらないようなのですが?ただ、モノの価値を測るという目的がはっきりしている質屋、有無をいわせない圧倒的客観性の自然史博物館。はたしてこのような没文学的の道具的世界を象徴する場で、文学のどんな会話が可能なのか映画を見る前は全く想像もつかなかったのでありますが、見事に、人間の存在だけを真っ直ぐにみつめた、ドストフェスキー&ブレッソンの独白の世界が知的に展開していました。



一刀斎_森毅

道化の気分というのは、人間としてかなり高級なことに属するから、うろうろと人に交わるというのは相当にややこしいことだ。しかし、人間はややこしさを避けていると、どんどん縮こまっていく。してみると、小さな仲間にオジャマして迷惑をかけるというのは、ややこしさを注入してあげることでもある。



当時は学生時代に新聞で毒にも薬にもならない記事を読まされたと覚えていますが、西洋思想の中村雄二郎は、子安先生によると、(子安先生は日本思想史で) 岩波書店の全体の編集の方向を話し合う会議で一緒に働いたことがあったそうです。この大事な会議の場で、当時は日本でそれほど普及していなかった、ポストモダン、ポスト構造主義の言説の重要な意義を説得したということでした。残念ながら肝心の「知の考古学」訳の評判が良いとはいえませんが、兎角投稿した文の出所であるフーコ日本講演の訳をわたしは時々読みます。詳細は説明できませんが、ここでいわれる「時間の諸瞬間の継起」「多くの考える主体の多様性」は各々、起源に関する民族主義的言説、一国家の複数政党制に関する言説のこと。そのことを踏まえた上で、民族主義言説を展開する安倍自民党の政権のもとで議会制民主主義が決定的に形骸化した現在、これから何が起きてくるのかを読むために示唆に富んだ分析とおもいます。グローバル資本主義時代の東アジアの問題を考えるためにも。相変わらず日本人の間にしか存在しない'フランス思想'のヨーロッパ人になったつもりでヨーロッパの思想を語るだけという同時代性の神話(知の鎖国?)が揺らぐことがないままですが、東アジアにおいては考えるということは、ヨーロッパ<ー日本、日本<ーアジア、アジア<ーヨーロッパという環の構造の認識が不可欠ではないか、そういう意味で今回台湾訪問はアジアから(自分が属している)日本の言説の限界を考えてみるという大切な機会となりました。フーコを日本で読むことの意味はなにかという問いがあらわれてきたということ。その日本は、外部の台湾から、常に相対化されること。これが大切ではないかと

Si les événements discursifs doivent être traités selon des series homogènes, mais discontinues les unes par rapport aux autres, quell statut faut-il donner à ce discontinu? Il ne s'agit, bien entendu, ni de la succession des instants du temps, ni de la pluralité des divers sujets pensants; il s'agit de césures qui brisent l'instant et dispersant le sujet en pliuralité de positions et de fonctions possibles. Une telle discontinuité frappe et invalide les plus petites unites traditionnellement reconnues ou les moins facilement contestées; l'instant et le sujet. Et , au-dessous d'aux, indépendemment d'eux, il faut concevoir entre ces series discontinues des relations qui ne sont pas de l'ordre de la succession ( ou de la simultanéité) dans ine (ou plusieurs) conscience;il faut élaborer - en dehors des philosophies du sujet et du temps - une théorie des systématicités discontinues. 'Michel Foucault' L'ordre du discours.'

「もしも言説=出来事が、等質的な、しかし互いに非連続的な系にしたがって扱われるべきであるなら、この非連続性に対していかなる規約を与えねばならないでありましょうか。ここで問題なのは、もちろん、時間の諸瞬間の継起でもなければ、多くの考える主体の多様性でもなくて、瞬間を破り、主体を場所と潜在的な機能の多様性のうちに分散させる区切り(セジュール)であります。このような非連続性は、伝統的に認められた最小の統一をも、あるいは、この上なく異論をとなえがたい統一をも、つまり瞬間と主体とを、うちのめし、無効なものにする。そして、それらの底に、それらとは別個に、こうした非連続的な系の間に、一つの(あるいは複数の)意識における継起(あるいは同時性)の秩序に属さない諸関係をみとめるべきである。主体と時間の哲学のほかに、非連続的な体系性の理論を念入りにつくり上げるべきであります。(フーコ「言説の秩序」より、中村雄二郎訳)



The sense of the world must lie outside the world. In the world everything is as it is and happens as it does happen. In it there is no value- and if there were, it would be of no value, it must lie outside all happening and being-so. For all happening and being-so is accidental. What makes it non-accidental cannot lie in the world, for otherwise this would again be accidental. It must lie outside the world. - Wittgenstein, Tractatus Logico-philosophicus


The sense of the world must lie outside the world...世界の意味はその外にある。世界のうちではすべてあるようにあり、なるようになる。うちにはどんな価値もない、もしあるならば価値ではなかったのだ。もし価値があるなら、それが価値をもつなら、すべてのこうあるとそうなるの外にある。すべてのこうあるとそうなるは偶然であるから。それを非偶然にするものは世界のうちにはない、あればまた偶然に落ち込むだろう。それは世界の外にある。(ウィットゲンシュタイン「論理哲学論考」木村洋平訳)
Der sinn der Welt muß außerhalb ihrer liegen. In der Welt ist alles wie es ist und geschieht alles wie es geschieht; es gibt in ihr keinen Wert - und wenn es ihn gäbe, so hätte er keinen Wert. Wenn es einen Wert gibt, der Wert hat, so muß er außerhalb alles Geschehens und So-Seins ligen. Denn alles Geschehen und So-Sein ist zufällig. Was es nicht-zufällig macht, kann nicht in der Welt liegen, denn sonst wäre dies wieder zufällig. Es muß außerhalb der Welt liegen.


本居宣長

歌の本體、政治をたすくるためにもあらず、身をおさむる爲にもあらず、ただ心に思ふ事をいふより外なし、其内に政のたすけとなる歌もあるべし、身のいましめとなる歌もあるべし、又國家の害ともなるべし、身のわざはひ共なるべし、みな其人の心により出來る歌によるべし(排蘆小船)




元祖寸劇

安倍晋三「賃上げの花が舞い散る春の風...」
外人記者「桜はもう七分散りましたが、賃上げは?」
安倍「六分残っている!」
官房長官(ヒソヒソ)「桜の話のご質問ではないんで」
安倍「こう直します。賃上げした花が舞い散る春の風を。まだなにか?」
官房長官(ヒソヒソ)「字余りです」


天皇ファシズム批判の丸山真男の「心の中のxx」でいわれる意味は、彼が想定した日本文化の基底に一致するとき、<靖国は古代日本にあった>の右翼的言説を補強してしまう。その証拠に、小泉や安倍は誰にも干渉できない心の中の靖国神社を言う。それを認めたら祀る国家=戦う国家を永久に取り除けない

La seule certitude que j'ai aujourd'hui, grâce à mon âge impossible, est que l'espèce humaine est un mystère absolu. Alors, vous comprenez pourquoi il m'est très difficile d'expliquer précisément comment je procède pour faire mes films. ーManoel de Oliveira
Nicht wie die Welt ist, ist das Mystiche, sondern dass sie ist.( Not how the world is, is the mystical, but that it is.)ーWittgenstein
The first step in cinematographic thought seems to me be the utilisation of existing objects and forms which can be made to mean everything, because nature is profoundly, infinitely versatile. ― Artaud


確かなことはこれだけです、人間の空間が一つの絶対的な神秘ということ。
ーオリヴェイラ
世界のありかたではなく、あることが神秘だ。ーウィットゲンシュタイン
映画の思考は、既存の対象と形の使用から始まるように思われる。それらには何でも語らせることができる。なぜなら自然の配置は奥深く本当に無限だからだ。ー アルトー



大野一雄・稽古の言葉

延々と極限にまで、永久にずうっと花を咲かせる。



司法当局の秘語

原発と安全神話を推進した政財官マの原発事故は、ほかならない、司法当局の原発事故でもあったのです。ところが、「原発事故の前に今回の規模の津波が発生し原発の主要機器が浸水する危険性を認識すべき状況にあったとは認めがたい」と言うようでは、外部を欠いた、彼らの仲間うちだけにしか通じない秘語、内輪の言葉だと言わざるをえません。 国は絶対に間違うことはない、間違ったようにみえても国の禍は全部民の責任なのだから黙っていろと事実上言っているのと同じです。このように、事故の前に繰り返された同じことを、事故の起きた後も何事もなかったように繰り返すことは倫理的にゆるされませんよ!


白紙の本 (6)

奇妙な観念に囚われるー
テレビで中継された戦争の勝利で湧くこの国で、
詩というものが悉く消滅しつくし、
映画が投射されていたことを思い出すことが禁じられる近未来のこと。
歴史修正主義。映画は最初からテレビで見られていたと洗脳される。
ヨーロッパでいわれるコスモポリタンのヒューマニズム精神は何か?
アメリカの戦争にくっついて行くヨーロッパにあって、
本当にそういうものがあるとして、まだそれが意味をもつのかと疑うとき、
オリヴェイラ監督の作品をみて考えたものだ。映画の、
説明不在の、光に浴たす、壮麗な記号たちの飽和。
問われるべきことは、消滅した投射、スクリーンは、
ふたたびどこに現れるのかということである。
白紙の本でなければ



ポルトガル映画のオリヴェイラ
夕ご飯を食べながら、奇妙な観念に囚われつづけました。この国で詩というものが消滅しつくし、映画が投射されていたことを思い出すことが禁じられるという近未来のことです。 映画はずっとテレビで見られていたと思いこむようにさせられるのです。と、帰宅したら、オリヴェイラ監督の悲しい知らせを知りました。ヨーロッパでいわれるコスモポリタンのヒューマニズム精神は何か?米国の戦争にくっついて行くヨーロッパにあって、本当にそういうものがあるとしてまだそれが意味をもつのだろうかと疑うとき、このオリヴェイラ監督の作品をみました。幸い、かれの作品は日本でも上映される機会が多くあり、こちらで十数本はみましたか。無力でも、映画を通してかれが語ったものについて自分なりに書くということが私に委ねられた投射だと (勝手に) 思っています。オリヴェイラの沈黙する映像に終わりは必要ありません。

白紙の本 (5)

白紙の本は、散歩へ行くー
一国語で書かれた文の意味を眠らせるために
問題は何を消すのか?そこに何を何で書くのか?
平仮名を消したとき、つまり流れを切断したとき
別の流れに加わる、粒子の飛翔のような漢字たちの沸騰。
まだ市民を語る言葉としては、五百年間喋り続けた
ヨーロッパのアルファベットと比べるとそれほど饒舌ではないが、
代数学の記号ほどには無口でも透明でもない。
なににしても、知の宇宙の机から、思想の直線を書くとき、
ただひとつの啓蒙の中心へ向かってひくのではなく、
多数の啓蒙の領域を横断すること。白紙の本のために、
知られざる民主主義を、東アジアの運動する粒子たちを沸騰させるために


ヒトラーの時は政治家が俳優の真似をしましたが、レーガン以降俳優が政治家の真似をし、その結果テレビの画面のなかでは政治家と俳優の区別がなくなりました。危険なことです。ハロルド・ピンタがノーベル賞受賞講演で言っていたのは、演劇をはじめ文学・芸術は虚構とかかわることによって、必然として、(人々が安住している)真実と非真実との関係を揺さぶるのだが、しかし同じようには、政治家が虚構に依ることは民主主義においてはゆるされないということ。例えば、存在しない大量殺りく兵器があると嘘をついて国民に戦争を煽ったら、それは人々の信頼を裏切るうそであり、非難されるべき事柄だと。政治家は民主主義にたいして責任をとらなければならない。かれはブレアーのことを言っているのですが、安倍の場合も同じです。どうも読んだかぎりでは、ここでの寺山さんは政治家のことを言及していないようでありますが、(ただし念頭に入れていると思います。あんな連中は言及するに値しないという態度かな)、もし現在かれが生きていたら、政治家はうそをついてはいけない、と、ピンタとおなじことをいう必要を感じたでしょう。現実をみると、政治家のウソは人間を何十万という規模で事実上殺戮しつくす危険性があり、その意味で、ウソもまた、勝手に想定した「敵」の側の人間を消滅させたあとででも、存在することだってあるからです。最悪が起きる可能性がある、集団的自衛権の時代にこのことはよく考えなければと思っています。

1980年代における、ウィットゲンシュタインの言語論的転回と比較される、「ヨーロッパ映画」に復帰したゴダールは、シナリオへの依存を否定したつぎの課題が、今度は白紙となった本になにかを書くことでした。ゴダールは自らを文字で描く画家というほどでした。思考できないものを思考するという書くことが新しく中心的主題として展開していきました。このときゴダールは、20年代のアルトーが言ったことを繰り返したのです。「映画の思考は、既存の対象と形の使用から始まるように思われる。それらには何でも語らせることができる。なぜなら自然の配置は奥深く本当に無限だからだ」 (The first step in cinematographic thought seems to me be the utilisation of existing objects and forms which can be made to mean everything, because nature is profoundly, infinitely versatile.) ここでシュールレアリスムの詩人がいう映画とは沈黙する映像のことですが、ゴダールが (アルトーと同様に)それほど単純な芸術至上主義ではないのは、映画はふたたび演劇に戻すな、むしろ演劇の外へ脱出させよという芸術の自立にかかわる主張が、68年以降グローバルな世界市場における経済至上主義への道をとった国家の外へ社会主義を脱出させよという政治の主張とパラレルだったことからわかります。その社会主義とはなにか?わかりませんが、ゴダールたちのヌーベルバーグが街頭から映画をつくったことをかんがえると、互いに互いのことを知らない<ウロウロウヨウヨ>した人々が自発的に<ワイワイガヤガヤ>と喋るいわば白紙の本のような社会主義ではないでしょうか。ここの連続した問題意識を見失うと、ゴダールの現在をまったく読むことができなくなってしまいます。


映画の思考は、既存の対象と形の使用から始まるように思われる。それらには何でも語らせることができる。というのは、自然の配置は奥深く、本当に無限だからだ。Artaud


連載1, <ウロウロウヨウヨ出会う市民、ワイワイガヤガヤ喋る思想史> の問い

思想史はその対象に、思想をもつ学問です。重要な点は、思想史が外部の多様性から、思想の成立を批判的に問う方法性に依ることです。思想史は、 「日本思想史」と「日本思想」、この両者が、20世紀の言説を構成する上で互いに切り離せない密接な関係にあったことを明らかにします。果たして近代が作者のように物語ったこの二つは、意味作用の中心へと絡み取られてしまい (近代にとって都合よく)、その結果日本列島とそこの住民の古代風の姿を実体的に思い描くような起源の物語に後退することが起きなかったのでしょうか?歴史的にこの点が問われるべき問題です。 (本多)



以下、子安宣邦氏の講演より (1 「日本思想史」の成立)
「 私がここで掲げる主題「日本思想史の成立」とは、「日本思想史」という学問的方法的概念の成立をいうのであって、日本思想史の起源的成立を問うことではありません。その意味ではこの主題を「日本思想の成立」と言い換えることもできます。なぜなら「日本思想」という概念が何らかの形で成立してはじめて、その歴史的な展開が「日本思想史」として問われることになるのですから。ですから「日本思想史の成立」の問題とは「日本思想の成立」の問題でもあるのです。「日本思想史の成立」という主題をこのように考える私の理解の前提には、「日本思想史」という概念も、その対象としての「日本思想」という概念も歴史的な言説上の構成物だという見解があります。その時期をはっきりいえば近代20世紀の日本に成立したものです。それらは決して日本列島とそこの住民とともに古代風(アルカイック)の姿をもって自ずから存立したものではありません。」(続く)


資本主義のボストンか、あるいは社会主義のベルリンへ行くのか?と、このことが繰り返しいわれてきた、私が8年間すんでいた、南アイルランドというのは常に、この米国とEUという、将来二つの帝国として現れるのではないかと予測されるその原初形態の諸基底に綱渡り的に規定されつづけてきたといえます。さて「オリエンタリズム」か「文化帝国主義」の最後に、'フィールドデイ'という地域紛争の演劇の自発的介入の例をひいた、サィードが、グローバル資本主義時代の知識人に託したのは、一体何だったでしょうか?おそらく一方的に帝国の側に行かず、また、再び民族主義にも戻らないような、自立へ行く世界普遍の思想の再構成ではなかったでしょうか。この「文化帝国主義」は、四年間のイギリス滞在時代に読んだのを覚えていますが、その真価がよくわかりませんでした。が、今回台湾に行くことで、いったい何がグローバル資本主義の問題を構成しているのかこうしたことがはっきりとわかってきました。迎え入れてくれた台湾の人々と子安先生に改めて感謝いたします!



台湾で学んだこと、考えたこと

グローバル資本主義が現れたとき、資本主義は同じではなくなりました。このとき、市民に起きたことかが何かはわからないが、ただこれから起きることだけははっきりとわかります。つまり、市民が分散を余儀なくされたとき、一国構造<民族と国家>が成立したとすれば、市民が集合しつつあるいま、一国構造は分散させられるのではないでしょうか。さて、柄谷行人は一国構造の問題を多様体に関する一般的考察のひとつの場合とみなしたのにたいして、子安氏は一国構造の問題を分離することによって、多様体の問題を、<一>に還元されない<多>の問題として呈示することができました。つまり、柄谷行人は東アジアの多様体のあり方を帝国的に再包摂することが問題だったところに、子安氏は東アジアの市民性の問題を出現させたのです。思想史については、それは一国構造のもとで所謂一国思想史の様相を帯びていましたが、この一国構造がぐらついている現在、思想史を再び一国構造に戻しても仕方ありません。白紙の本というべき非暴力型抵抗に委ねるしかなくなったときめた、アジア・デモクラシーの台湾・香港・沖縄の市民たちが一字一字、一行一行、自分たちの思想の自立を自発的に書きはじめたのではないでしょうか。


思想はいかに自立するのか?
- - これからだれが'自発性'を語るのかーー

秘密保護法でなにが言われているのかさっぱりわかりませんが、これから起きることははっきりとわかります。「構造と力」の著者は最近は、繋がりすぎてもヤバイというようなことを言っているようですが、これは、何のためにかわからない集団的自衛権の戦争と徴兵の時代にあって無理矢理に一億の繋がりを求めてくる新国民道徳にたいして批判的にどう抵抗するかをいう実践的な言葉かもしれません。ところでこの浅田彰は80年代になにを言ったかというと、一言で言うと、山口 昌男「文化と両義性」に書いてあるような祭祀的な構造主義ではもうやっていけないということでした。例えば、山口は他の文化人類学者と同様に演劇に関心があったようですが、(宣長を喚起する?) かれの祭祀的な構造主義的な哲学の舞台で、どちらが中心の項でどちらが周縁の項であっても、平和主義とその否定(軍国主義)を衝突させても、認識方法としてのこの種の(周縁が中心を活性化させるという)異化効果は、思考の活性化と呼ぶにはあまりに両義的な曖昧性しか生じてきません。繋がりすぎていてあたかもいつまでも灰色に灰色を重ねていくような、思考の最低限の水準がシニカルにサバイバルするだけ。さて思想の自立を問う問題をかんがえるときも、祭祀的な構造主義弁証法の内部に絡みとられては無意味です。なぜなら思想とその否定(無思想)を互いに否定させる弁証法からは、都合よく全部が出てくるしまた同時に都合よくなにも出てこないからです。たしかに運動においてはトータルな認識の発展のために理念と理念の対立は欠かせないでしょう。ですが、未来に繋がる痕跡を消滅させてしまうまで暴力で互いを徹底的に否定しあってはついに消滅しまっては意味がありません。そうして、日本の'68年'の異議申し立てが画期的だったにもかかわらず、現在に痕跡を残していないことがいわれています。そのことを考えたうえで、むしろ大切なのは、思想の自立でいわれる意味を<中心と周縁の間の弁証法>的に問うことではなく、思想の自立をいう言説がそれを言う主体を触発する意味を問うこと。現在に繋がりすぎないこと。未来にも繋がること。どんなに困難な内容でも、困難なコミュニケーションの痕跡を残していくために。
問題というのは、問題提起したときに、既に解決されているのだ、と、哲学者のウィットゲンシュタインがいいました。たとえば、<思想はいかに自立するか>も、自身に答えをもっています。そうだとしたら、それはいったい何か?思想の自立の言説がそれを言う人に触発する意味は、彼の新しい思想が何に依拠するのかに依ります。他の思想では一度も存在しなかった、言う人の自発性がみえてくるのではないでしょうか。さて今日報じられている世界的動乱で、グローバル資本主義と無関係なものは一つもありませんが、「疎外感」の語で括ることはあまりに無意味にみえます。ところで思想の自立を問うのは、だれなのか?それは、19世紀の第二インター以降の国家の内部に社会主義を捉える20世紀のスターリズムではなく、それに対抗的な二十世紀半ばのノンセクト・ラディカルの西側民主主義でもなく、ほかならない、21世紀から現れた、(つまりその前は似たようなものはあったが存在することがなかった)、非暴力の抵抗の自発性だと段々おもうようになってきました。安倍の「この道しかない」が極端までに自発性を押し殺していく方向だとしたら、この正反対の方向に、もはや議会制的組織だけに頼れなくなった、非暴力の抵抗から一人一人の自発性を推し進めていくしかなくなった、白紙の本のごとくあらわれてくる市民の'でもくらてぃあ'が存在しはじめたのではないでしょうか。

問題というのは、問題提起したときに、既に解決されているのだ、と、ウィットゲンシュタインがいいました。<思想はいかに自立するか>も、自身に答えをもつのです。そうだとしたら、それは何か?思想の自立の言説がそれを言う人に触発する意味は、彼の新しい思想が何に依拠するのかに依ります。他の思想では一度も存在しなかった、言う人の自発性がみえてくるのではないでしょうか



なぜ人間性を否定するヘイトスピーチがはじまったのか?

今回現地で大変お世話になった台湾の学生たちに、日本の一部全国新聞や全国書店が助長するヘイトスピーチのことを告げると驚いていました。台湾では少なくとも新聞と書店が公に少数民族を差別する言説を展開することはあり得ないと。それにたいして、なぜこの国では新聞と書店によるヘイトスピーチの恥ずべき関与が公然と起きるのでしょうか?一体いつ、あのような人間性を根本から否定するヘイトスピーチははじまったのか?それは、90年代にはじまる最近のことだと思います。これについてはひとつの考えかたとして、柄谷がいう<帝国>の構造から説明してみると、安倍の「この道しかない」とばかり、<帝国>のアメリカの側に必死につきたいとする安倍自民党の日本が、米国が敵対する他者、すなわち別の<帝国>、中国を文化論的な言語で必死に罵倒しまくるという言説の構造がみえてくるのではないでしょうか。帝国の文化帝国主義の根底に経済がある以上、競争する他者を語る言説はどうしても敵対的になることが避けられません。わたしが帝国を正当化する言説に疑いをもちまた警戒しているのは、まさに、こういう理由からなのです。





何を言うのか?舞台が終わったあとに始まる

1935年、フランクフルト。ある医者のユダヤ生まれの妻が出国を決意します。列車の中でのように板上の俳優が舞台の道に沿って移動していくのを観ながら、観客は通話中のこの妻がユダヤ人の公職追放が始まる中、いかに夫の仕事に影響が出ることを心配しているか心の不安を読み取ることになります。しかし彼女がいる領域はそれほど心の中の領域、プライベートな領域であるとはかぎりません。舞台の電話というのは、常にマイク、ピープル拡声器なのです。自発的に、俳優 (洪美玉さん)は誰に呼びかけるのでしょうか?共同体と人間の崩壊の危機を公の観客に呼びかけているのに、観客の方は街頭の過行く人々の如く抗議の言葉を電話での個人の独言にしかみようとしないなら、これをいかに説明したらいい現象か?このギャップこそが、現在日本というポスト第三帝国の恐怖と貧困を構成するものではないでしょうか。


「盲目の言葉と沈黙する映像」は、ゴダールとデュラス。そして「音楽に従属しない舞踏」といえば、ケージとカニングハムである。「ロラトリオ」John Cage: Roaratorio (1979) は、ケージがアイルランドの至る場所で偶然に録音した音を再構成した音楽サーカスだが、私のダブリン滞在中、ベルファーストの紛争解決の交渉が託された地で、この「ロラトリオ」に触発されたカニングハムの舞踏「オーシャン」Oceanという作品が発表された。この数年後に、東京演劇アンサンブルがベルファーストに来たとき、舞台撮影を行うためにロンドンから再びこの会場を訪れた。このときには、監視ヘリコプターが一日中飛んでいることはなくなり一見平和な街となっていたのだが、休日のとき大鷲さんが建物のドアに (恐らく最近のものであったろうか) 銃弾の跡をしっかりみつけていたことを思い出す。ベルファーストでこの劇団は坂口安吾の芝居を観に来た観客たちにユニークな舞踏を披露したが、今回上演したブレヒトの芝居でも、(ダンスに素人の私の勝手な思いだが、ポストカニングハムを喚起する、身体の表現性に依拠するピナバウシュウの象徴性を喚起するような)新しい舞踏を目撃できたのは大変勉強になった。舞台美術のシンボリックな舞台上を動く俳優の振付(菊池尚子氏)と音楽(菊池大成氏)が互いに影響を受ける形で同時にできていったというから面白い。紛争地では人々は母国の地でも外国人のように歩かなければならないが、これは「第三帝国」の中の出会えなくなった人々の状況と同じであろう。しかしそうしてバラバラに拡散した人々はいつ、集中するかである。どのように恐怖と貧困を乗り越えるのか。リズムをもって煙る大地を横切る、布を運ぶ俳優たちの運動を見ながらこのことを考えたのである。


近代の知に囚われたときでも知の巨人はいつも本当にそれほど巨人なのか?

ハーケンクロイツの旗のもとでフルトフェングラーがベートベンを指揮したことは否定できない事実です。他方でこれについては、かれは他の音楽家達とユダヤ人のアメリカへの亡命を手伝うために敢えてドイツに残ったというワルターの証言も無視できません。戦争中のときは知識人はプロパガンダの道具として利用されるほど囚われの身になることがありますが、まだ戦前的な猶予ともいえるような段階で、自分が持つ芸術の力で旗の意味を変えてしまうという言説のたたかいに出る、(日本の場合は後の時代から'転向者'と非難されるが、) 真の意味で反骨の文化人もいたはずです。国威発揚する旗の民族性の意味とは正反対の方向に、音楽の力によって戦争を拒む人間性を再び喚起するために。真相は?高校生の時に読んだ新聞コラムでは、加藤周一が旗の下のフルトフェングラーを戦争協力者だと断罪していました。やはりそうなのか?ただ、ファシズムは近代の国家からしか起きてこないにもかかわらず、宣長問題を論じた加藤が、ハイデガーと、まだ国家が成り立っていなかった時代に生きた宣長を直に比較した一文は、知の巨人と呼ばれていたこの加藤の分析力の確かさを疑わせます。近世の宣長の中華思想に反発した語りは、嫌になるほどネトウヨ的口調に類似していますが(笑)、思想の依存を明らかにした上で思想の自立とはなにかを問う大変に知的構成でした。宣長のそのあまりに漢心的な思考に同時代の国学者が呆れるほどでしたが、これは、宣長が儒学の徂徠から最も影響を受けていることから説明できるとおもいます。(ただし宣長は仁斎と同じ身分だったので、徂徠のようには武士の特権階級ではありませんでしたから、そういうこともあってか、常に世の統治者を非難していたと考えられます。幕府を批判することをゆるさない事実上厳しい検閲があった時代ですから、お上の幕府を批判するときはそれを支えた儒教なり中国を批判するという方法をとったかもしれませんね。東ヨーロッパの作家も検閲の目をかわすために曖昧な書き方をしました。) なににしても加藤が言うようには近世のこの思想家は、近代的な意味でロマン主義だったとして前提することは単純に間違い。徳川日本の思想史は、伊藤仁斎と荻生徂徠といった注釈学のラディカリズムを中心とした儒学の内部解体から国学が誕生してくる過程をとらえますが、丸山真男が明らかにしたこの図式に依って加藤は、国学の宣長は実証主義と(ファシズムへの道を歩む)超ナショナリズムの二つの極に分裂していたと断言することになりました。が、このような分析は、分析者が依存していると自覚しなくなった近代国家の知のあり方における'優れた'統一'(フーコ的にいうと批判哲学=実証主義=客体の形而上学) から、'劣った'不統一のもの'を語るという自らの優越性を称えていただけではなかったでしょうか?知の巨人はマスコミの言葉でしょうけど、近代の知に囚われたときでも知の巨人はいつも本当にそれほど巨人なのでしょうか?やはり考えなければならない事柄ですね。

思想の自立とはなにか? ー 台湾

「マリリンモンローと毛沢東の結婚」(ルモンド紙)とまで揶揄されたような妙な、ポストモダンのモダニズム化に囚われはじめた東アジアにあって、台湾の思想はどのように、「帝国」(柄谷)の「中華思想」から自立することが可能か?根本からいうと、思想というものは、どういう歴史的な条件によって、他の思想から自立するのだろうか。


思想というものは、どういう歴史的な条件によって、他から自立するのか?台湾の思想はどのように帝国の中華思想から自立するのか?台湾思想は可能なのでしょうか?


フーコのゴダールをいかに読むか?

ゴダールが「映画とはなにか」という問いを何百年前から反復してきたように問うのは、映画の思想は他(文学・演劇・絵画・写真等々)から自立できるかを問うためでした。「映画は思考手段だ」という以上、映画史は思想史の様相を帯びるに至ったのです。われわれが圧倒されるのは、スイスのゴダールがこの盲目の言葉を飽きることなく発し続けていることです。「注釈は、身をずらしながらも、しかし逃げられないパラッドックスに従って、既にいわれていた事を初めていわねばならないし、決していわれなかった事を飽きることなく繰り返さねばならない」(フーコ)



「映画とは・・・」と何百年前から繰り返されたことばのように語るのが最近のゴダールの凄いところなんだな (爆)

INNOCENT PIG !!!!

A popular lawmaker in the ruling party has raised eyebrows with her call for Japan to promote the concept of “hakko ichiu,” a wartime slogan used to justify Japan's expansionism.Junko Mihara, a former actress who is with the Liberal Democratic Party, was addressing an Upper House Budget Committee meeting on March 16 about the need to create a mutually supportive economic system."I'd like to introduce 'hakko ichiu,' the ideology Japan has cherished since its foundation," said the director of the party's Women's Affairs Division.The term, which literally means "to bring the world under one roof," was a political slogan which was widely used to justify Japan's invasion of neighboring nations during World War II. - THE ASAHI SHINBUN


? -> ア・プリオリなカテゴリーは生得観念ではない。正常な――健康な――子供が両親から遺伝するのは、カテゴリーでも観念でも概念でもなく、学習し観念を抱く能力、それをもつ者を人間として行動させる能力、すなわち行為する能力をもつ人間精神である(L・ミーゼス)

Exploited Women: women that are conditioned by the mass media to hate their bodies in order to cajole them into buying a new image.

コスモポリタンのオリヴェイラ監督の「神曲」は、ゴダール映画(​八十年代以降)の本質を体現した作品だ。故郷喪失者の故郷への帰​還という主題は、左翼からの批判の対象だろう。フェミニズムの立​場は、右翼が反発・攻撃するだろう。ゴダールの中での理知主義と​ロマン主義の和解は、ヒューマニズム的...
ゴダールとオリヴェイラは、八十年代から、ヨーロッパを舞台とし​た、(左翼と右翼から独立した)思想的自立性の方向と、ヒューマ​ニズム的和解の方向へ歩み出したのである。このヨーロッパは、内​部的には、理知主義とロマン主義の和解であり、外部的には、人類​解放のユートピアとしての理念的場所である

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4月 2015 (1) 言葉と表現と射影のブログ/BIGLOBEウェブリブログ
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