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zoom RSS 4月 2015 (3)

<<   作成日時 : 2015/04/20 18:54   >>

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――二〇一二年三月には、梁振英が香港特別行政区長官に選ばれましたね。運動への影響はありましたか?

 ええ。選挙は、香港の非民主主的な体制を、大げさに演出したものと言えました。有力候補の二人はどちらも百万長者で、二人の間にはわずか一二〇〇票差しかありませんでした。梁は最後の票を北京から得たのです。それに、二人のうちでも悪い候補だ――ずる賢くて無慈悲だ――と広く見なされていました。それにまた、中国共産党それ自身の秘密のメンバーだとも考えられていました。彼の当選は、疑いもなく多くの不安と怒りを呼び起こしました。それはオフィスでの彼の実績を確認しただけだったのです。民衆の雰囲気は、おかげでラディカルなものとなりました。

 ―雨傘革命に対して賃借対照表を作成するのなら、どのようなものを作りますか?


 それは、より多くの人々が参加するにつれて、香港社会の政治的覚醒を高めるものとなりました。市はこれ以前に、大規模な市民的不服従を経験したことがありませんでした。二〇一二年の反国民教育キャンペーン――それには私も反対していたのですが――の時には、市民的不服従の要素はありませんでした。雨傘革命は、変革のための道具として、より幅広く受け入れられるものとなりました。
私の意見では、二〇年間もの徒労に終わった決まり切ったアジテーションの後で、政治体制を変えることのできる唯一の道として受け入れられたのです。もちろん、政治的な改革としては、私たちは何かを得たわけではありません。政府は譲歩することを拒み、運動は結果として、何も目的を達成することなくして、終わりを迎えました。ですが、私たちは闘いに負けたわけではありません。なぜなら、私たちは、これよりもさらに力強い次のラウンドを始めることができるからです。



<ふつうの国>をいう論者はアメリカの大学で国旗掲揚と国歌合唱の例をあげて<ふつうの国>だと得意げに指摘しますが、かれらのご主人様?のアメリカはそれでいいのかもしれませんが、日本においてそうしてなにもかも<ふつうの国>にしていったら戦争を終わらせる、繰り返すなと誓った敗戦後の原点を忘れていく危険性が大いにあります。<ふつうの国>の論者、ー日本的ポストモダニズムの、<ふつう>が一番危ないことすら知らぬ素朴な論客も加わってきたようですがーは、かれらが尊重する文化の多様性を、イコール固有主義、したがって国の民族主義と同一視して学校や大学での君が代・日の丸の義務化をいうのですが、もしほんとうに固有主義へのこだわりを示すのならば、ではいったいなぜ、敗戦後の<ふつうの国でない>アイデンティティーを引き受けた固有の経験を忘れてしまおうとするのでしょうか?この点については、わたしは、この<ふつうの国でない>原点が、竹内好が「再び主人にならない永久のドレイとして生きていく」というようなことを言い切った日本のアイデンティティーと深い関係があるとかんがえています。戦争する国に不可避的に絡み取られていく、<近代>を乗り越えていくための、真の意味での近代の超克の理念性を構成するものは、なにかとかんがえるとき、<ふつうの国>という響きのいい説得はそれほど信頼できるものとは思いません

70字のふつうでない国

日本は幾つの国と戦争をしたか知っているだろうか?現在ふつうの国でないと嘲笑う政治家は、敗戦後、再び決して45ヵ国と戦争しないふつうでない国として出発した誓いを忘却している

70字の吉田松陰

昭和ファシズムのパーソナリティー。「至誠」、心を出し尽くせば自ずと人を動かせるは、日本人を心の中から洗脳した言葉。丸山真男称賛者もこの種の軍国主義に陶酔するほどだ


70字の国民道徳

西欧の道徳は市民倫理学etics。大逆事件で自由思想を恐れた政府が対抗的に国家道徳を普及させる。貧しいのはモラルが低いからと貧困問題を隠蔽する教説


憲法記念日に小田実ならばなにを言ったか?

「われわれはすぐ、国家、国家と優先するけど、市民を殺す国家なんて捨てていい、向こうへ寝返ってかまへんとアルキビアデスはいうわけです。私はそうやって国家と市民は平等だと思って生きているけど、皆さんも、そうやって生きてくださいよ」(小田実)
アルキビアデスの名は、フーコの「主体の解釈学」(L'herméneutique du sujet)でぼんやりと知っていました。彼の言葉を真剣に考えることになったのは、3・11以降の小田を偲ぶ講演会においてであります。さて古代ギリシャのアルキビアデス自身の亡命の経験から語っていますが、ここで言われている事柄は、自身のことを配慮する共同体の自立性ですね。これに関して、憲法のことを考えると、憲法前文から読みすすめて9条を経て25条に至るとき、憲法は自らを、共同体の存立の条件への破壊的侵入を防ぐ免疫システムのような働きとして規定していることが読み取れますが、こうした'戦争したがる国家'、'貧困問題は無いふりをする国家' は、常に一体となって、この免疫システムを壊そうとするのですね。アルキビアデスはこうしたことを見抜いていたのではないでしょうか。これからこの問題を考えていかなければなりません。現在、アメリカ<帝国>の内部で、'戦争したがる国家'、'貧困問題は存在しないふりをする国家'に自らを委ねることができない人々が地球規模の市民の共同体をいかにつくるか?そこでわれわれはいかに安心して人間的尊厳を生きることができるか?まずは近傍の東アジア諸国の人々とともに。このことがリアルに問われているとおもいます。



70字の憲法の定義

憲法とは、 地球共同体が人間的尊厳をもって生きるために、戦争をしたがる国、貧困問題がないふりをする国に壊されるなと警告する言葉でつくられた免疫システム

#憲法


「反貧困党」か、「貧困問題再発見党」。現在は、サルコジ以降のフランスのように国会の中での左翼そのものの意味がなくなってきた方向と、安倍自民党の貧困問題を論じることを無意味にしようという方向が一致しているとおもいます。グローバル資本主義の時代に、はっきりいってこの国に貧困問題は存在しません、貧困は存在するのにそれを発見できないままです。かつての安全神話のように、財界の貧困物語なら溢れているのですが。戦争したがる国家と、貧困問題を認識できない国は、コインの表裏

アルキメデス曰く、数学的真実は観念的(永遠)だが、存在するためにこの世界に現れる必然性がある、と。例えば、素数は、1と自己自身以外に約数がない正の整数。未知の数が無限にあるが、かならず現れる。同様に、民主主義の素数は存在する。それはただ存在するにとどまらず、考えられた以上この世界に現れるということである。1%のための自民党選挙万能主義とは別の、いままで知られることがなかったあたらしい哲学的真実ー語る民主主義の99%とは何か?




「主体の解釈学」(1982年) のフーコの中心的テーマは、<自身への配慮>といっても過言ではありません。そこで共同体の自己自身への配慮が問われることになりました。共同体がいかに人間的尊厳を以て生きることが可能なのかを問うたフーコの言説が、2015年のわれわれに触発する意味はなにでしょうか?例えば、憲法前文から憲法9条を経て憲法25条まで読むとき、憲法は、自らを、共同体の存立の条件への破壊的侵入を防ぐ免疫システムのような働きとして規定していることが読み取れます。戦争したがる国家、貧困問題は存在しないと宣言する国家は、この免疫システムを壊そうとします。共同体は自らを、戦争したがる国家、貧困問題は存在しないと宣言する国家に委ねることができないのです。憲法は共同体にこのことを知らせようとしてきたのではないでしょうか?

「エピクテトス曰く、人間は自分自身に専心しなければならない。神ゼウスが〈理性〉を与えることによって、人間を自分自身の手に委ねたからだ。この理性によって人間は他の全ての能力の使用を決定できる。従って我々は神によって自分自身に委ねられ、自分自身に専心しなければならない」


「自己の自己への関係においてしか、政治的権力に対する抵抗点、第一にして窮極の抵抗点は存在しないとすれば、自己の倫理を構成することはおそらく緊急かつ根本的な課題であり、政治的にも不可欠な課題である。」

Nous devons réfléchir. Et alors que Zeus réfléchit sur son gouvernement à lui, nous devons, nous maintenant, réfléchir sur le gouvernement divin, c'est-à-dire sur ce meme gouvernement, mais vu en quelque sorte de l'extérieur, et comme étant un gouvernement qui s'impose au monde tout entier et à nous.Nous devons réfléchir sur nos rapports avec le reste du monde comment nous devons nous conduire et nous gouverner par rapport aux autres)
- M.Foucault. L'herméneutique du sujet, Cours du 24 mars 1982


エピクテトス曰く、人間は自分自身に専心しなければならない。神ゼウスが〈理性〉を与えることによって、人間を自分自身の手に委ねたからだ。この理性によって人間は他の全ての能力の使用を決定できる。従って我々は神によって自分自身に委ねられ、自分自身に専心しなければならない。−主体の解釈学−

自己の自己への関係においてしか、政治的権力に対する抵抗点、第一にして窮極の抵抗点は存在しないとすれば、自己の倫理を構成することはおそらく緊急かつ根本的な課題であり、政治的にも不可欠な課題である。−主体の解釈学−

Nous devons réfléchir. Et alors que Zeus réfléchit sur son gouvernement à lui, nous devons, nous maintenant, réfléchir sur le gouvernement divin, c'est-à-dire sur ce meme gouvernement, mais vu en quelque sorte de l'extérieur, et comme étant un gouvernement qui s'impose au monde tout entier et à nous.Nous devons réfléchir sur nos rapports avec le reste du monde comment nous devons nous conduire et nous gouverner par rapport aux autres)
- M.Foucault. L'herméneutique du sujet, Cours du 24 mars 1982


私は真実を語る。君に語る。私が君に真実を語っていることを確証してくれるのは、実際に私が、私の振る舞いの主体として、言表行為の主体と絶対的に、完全に全面的に同一であるという事実である。−主体の解釈学−


A PRIME NUMBER IS THE ESSENCE OF NUMBER AND ITS CALCULABLE TEXTURE, WHICH THE MOST CONTEMPORARY OF ARITHMETICAL OF ALGEBRAIC STATEMENTS ENVELOP AND UNFOLD IN NOVEL CONCEPTUAL AND LINGUISTIC CONTEXTS - NEW WORLDS - WITHOUT EVER 'OVERCOMING' OR ABOLISHING IT.

- ALLAIN BADIOU

ALTHOUGH THESE MATHEMATICAL TRUTHS ARE ETERNAL, THEY MUST APPEAR IN ORDER TO EXIST, TO BE EFFECTIVE IN THE WORLD

- ALLAIN BADIOU

Japan; a land where the sea-monkey is more quickly mobilized to choke the islanders than rescue them from a sinking.

写真をみています。日頃は電車で私達の隣に座っているような内気の優しい、ボランティアもやっているようなお兄さん、カラオケ大好きなお父さん、生のぼくたちをみてくださいのノリノリの息子だったりなのかなと想像しますけれど。本来ならば船の沈没の危険を防止するために動く海保に、逆に、沈没させた後に非暴力の島民たちの喉を絞める迅速に動く海猿になれと平気で命じているのは誰かといえば、やはり日本の国家のほかに思い浮かびません。全部はアメリカのために、アメリカの'敵'に対抗するために、アメリカに日本の底なしの忠誠を示すために、ですか。しかしそれで本当に幸せなのだろうか?安倍自民党を無条件に支持する世論の意味ってなに?書いているこの言葉に無力を感じながらおもうことはこれです


破れ傘 (4)

ああ、'心地よい安全'な恋人紹介はネットの青空を駆け巡るが、
愛が存在しなくなったのはいつからかしら?
かつて愛とは予測不可能な事件だったという。
現在は人間と世界への愛が全然足りない。
リスクをともわない愛ならばネットの画面に溢れているけれど。
安倍自民党の側からグローバルになればなるほど、
知が、'心地よい安全'に閉ざされていくという現在は、
目の前にあることだけを絶対化してたたえることをやめない
オカルト劇場国家。でもね、たとえそこからでも
嘗て知られていないような新しい参照系がつくられ、そこから新しい思想が出てこないと、もうやっていけなくなってそれこそ消滅した恐竜の化石。
と、いつのまにか、自分が傷つくことがないように、
他人が傷つけば済むとおもう観客しかいなくなった。
なんて凄い言葉だろうか。
「労働者が苦労すればするほど、彼が自分の向こう側に作り出す外的な対象世界の力が大きくなり、逆に、彼自身の内面世界は貧しくなり彼自身の所有物は減少する」とは。
生産様式、社会関係を語った言葉について
これ以上のこともこれ以下のことも解釈する必要がない。
愚鈍に単純に、見よ。
マルクスがいう99%の向こう側に、ピケティがいう1%がいる。この1%に、
愛のない構造の知が属しているー 世界史の構造であれ帝国の構造であれ



怖いこと。人を分けることがどんなにエスカレートしていくか。そして簡単に一度分け始めたら、もどることがどんなに困難になってしまうのかということです



労働党のロンドン時代のときに、不慮の死を遂げたゲイのパートナーが(遺書が残されていなかったために)まったくの無権利者とならないように家族に準じた相続権の法制化が検討されていました。ダブリンはヨーロッパの他の都市と比べてゲイが最も多いにも関わらず権利が最も保証されていないと人権派から指摘されていましたが、今月の国民投票で結婚の登録がみとめられる可能性が高くなってきたといいます。多様性の方向を支持したいと思います


LOVE

LOVE, THE ESSENCE OF WHICH IS FIDELTY IN THE MEANING I GIVE TO THIS WORD, DEMONSTRATES HOW ETERNITY CAN EXIST WITHIN THE TIME SPAN OF LIFE ITSELF. HAPPINESS, IN A WORD ! YES, HAPPINESS IN LOVE IS THE PROOF THAT TIME CAN ACCOMODATE ETERNITY. AND YOU CAN ALSO FIND PROOF IN THE POLITICAL ENTHUSIASM YOU FEEL WHEN PARTICIPATING IN A REVOLUTIONARY ACT, IN THE PLEASURE GIVEN BY WORKS OF ART AND THE ALMOSOT SUPERNATURAL JOY YOU EXPERIENCE WHEN YOU AT LAST GRASP IN DEPTH THE MEANING OF A SCIENTIFIC THEORY. - ALAIN BADIOU


凄い言葉です!生産様式、社会関係を語った言葉についてこれ以上のこともこれ以下のことも解釈する必要がないでしょう。愚鈍に単純に、見よ。マルクスがいう99%の向こう側に、ピケティがいう1%がいます。この1%に構造の知が属しているのですー 世界史の構造であれ帝国の構造であれ。

「労働者が苦労すればするほど、彼が自分の向こう側に作り出す外的な対象世界の力が大きくなり、逆に、彼自身の内面世界は貧しくなり彼自身の所有物は減少する」(マルクス)



「労働者が苦労すればするほど、彼が自分の向こう側に作り出す外的な対象世界の力が大きくなり、逆に、彼自身の内面世界は貧しくなり彼自身の所有物は減少する」(マルクス)


ツーリズム(観光)は別ですが、アジアのことと比べれば、本当に薄れてきたとはいえ、ヨーロッパのことはまだまだ関心があるとおもうのですが(ヨーロッパの人々の日本への無関心と比べれば)。ただ問題は、ヨーロッパは地理的な意味で「外」でしかなくなってきたこと、相関的に、加藤さんや浅田さんの方法としてのヨーロッパ、それが日本を相対化する外だとは中々考えられなくなってきたことではないでしょうか

グローバルになればなるほど、知が現状肯定的に閉ざされていくという現在は、目の前にあることを絶対化していくオカルト的な感じがしますね。それでも、いままで知られていないような新しい参照系がつくられ、そこから新しい思想が出てこないともうやっていけなくなって、恐竜の化石となってしまうでしょう。福沢諭吉は果敢に一人で、儒学のナショナル化の方向を警戒ヘーゲル左派と呼んでいいほどの祭祀国家にたいする批判を展開しましたが、子安先生によると、柄谷はヘーゲルですから、日本の場合ヘーゲル左派がヘーゲルより先にあらわれてしまいました(笑)。一応、「伊藤仁斎」は近々ペリカン社から出版されることになっており、その仁斎とカントは同時代的な思想家ということになっています。(二十世紀ヘーゲルマルクスの呪縛から解放された)マルクスが四十代以下の人々から、しかも一斉に出てくるのではないですか、きっと人間と世界への愛が全然足りないんだとおもいます、リスクをともわない愛ならばネット上にたくさんあるんですが。

思い出症候群は、商社マンだけのものではありません。官僚だった父も過去の海外時代を思い出すとき、これにたいして、未亡人が(仲悪かった) 生前の夫を美化する話の如き軽蔑すべき違和感を感じたものでした。昨日神田で観た成瀬監督「浮雲」(林扶美子原作)に答えがありました。軍国主義の、しかし敗戦後再び植民地を獲得できないとする、国家を剥ぎ取られた、小市民的心情なのだ、と、理解できました。おそらくメロドラマの監督と脚本家のせいで弱められてしまいましたが、林扶美子の観察はなかなかのものです。



寸劇こだわり

職人「いらっしゃいませ、今日は?」
お客「こだわり二貫」
職人「すいやせん、こだわりが切れてて。日本人に人気の、こだわりのこだわりならたくさんありますが」
お客「わかりやすくいうと?」
職人「こだわりのこどわりとこだわりは共通のものがない。空集合だけで」
お客「空集合ダブル。ワサビ抜きで」



破れ傘 (3)

「画家は絵から心もちさがったところにいる。モデルに一瞥を与えているところだ。あるいは、仕上げの筆を加えようとしているのかもしれない。だがもしかすると、最初のひと筆がまだおろされていないのかもしれない。(・・・) 彼はいまわれわれの眼の前にあらわれたところだ。しかし彼が一歩でも右に踏み出せば、ただちにわれわれの視線から消えて、彼は描きかけの画面とちょうど向き合うこととなろう。そうやって彼は、ひとときなおざりにされていた絵が、彼にとって影も省略もなく再び目に見えるものとなる、そのような領域にはいりこんでいくのであろう。あたかも画家は、自分が表象されている絵のなかに見られると同時に、自分が熱心に何かを表象している絵を見ることはできないとでもいうように。彼は、両立しがたいこの二つの可視性の領域に君臨している。」((フーコ「侍女たち」渡辺一民訳)。「言葉と物」のこの冒頭文はなんと奇妙だろうか。注意を要するのは、フーコが画家のことをいうときにそこで意味されているのは、思想という画家をいっていることだ。想像してほしい、この思想という奇妙な画家を。この画家は、再び表 (タブロー)に書いた近代の体系に依ることができないようである。しかし実はその画家とは、ほかならない、21世紀のわれわれのことなのだとしたら、生きようとして白紙の本を書くという必要に直面したかのように。白紙の本を書くわれわれはふたたび、20世紀の近代、ヘーゲルとマルクスの呪縛にもどることは不可能なのではあるまいか?西欧の問題だけではない。アジアの問題でもある。中世神学的思弁の体系に対応するのが、朱子の思弁体系である。中世神学的思弁の体系を壊したカントの構図と仁斎の構図は似ていることは、子安氏が指摘している。たとえば、朱子は思弁的体系をつくっているが、この思弁的体系を崩すと、あおく天がみえてくる、と同時に、思弁的体系に含まれた「知」のあり方がみえてくることになった。仁斎の「天」は、朱子のイデーとしての「天」とはちがう。人を通して、「天」は「信」に対応するとされるのだから。つまり、「人を通して」が大切である。そこで、知ることが必要だ、私の知を超えていくために、という。そうして仁斎の古学は「論語」の孔子というその人を絶対化したのである。これは、近代の学問体系の構築性にたいする解体の運動を証言するものである。さてヘーゲルが為したことは、カントが壊した中世的思弁の体系を哲学的につくりなおす、語りなおす再構成であったといえよう。つまり「精神」を中心とした新たな思弁体系として語ることであった。「精神」とヘーゲルが語ったものを、マルクスは唯物論的につくった。つまり「労働」である。(日本でこの作業をおこなっていたのは西田幾多郎。)20世紀の人間はマルクスに縛られヘーゲルに縛られる。20世紀の人間、近代は、ヘーゲルとマルクスの呪縛にあるのだ。(たとえば子安氏が見抜くように、柄谷行人の「世界史の構造」はただのヘーゲルの再語りではないか!) いかに終わらせるのか?、いかに始めるのか?



「歴史問題に終わりはない。92年の民主化から、人々が歴史認識をはじめて求めはじめたのです。」
「戦後日韓関係の変容と市民連帯のあり方」と題する、李泳菜(イヨンチェ)さんの講演で学ぶことができたのは、軍事独裁政権の政治家は歴史認識を要求してきたが、本当の意味で韓国の人々による歴史認識の要求は、1992年、民主化からしかはじまらなかったというポイントです。その上で、実質的な平等な日韓関係の構築のために、李泳菜さんは三つを指摘しました。
1、相互に認め合うこと
2、真の市民連帯と支援が必要な時代の自覚
3、部門別ネットワークと若者ネットワークの構築
新しい段階の日韓関係のために、日韓市民社会の真の連帯と東アジア市民社会の新しいあり方の実現を願っている「セヴォル号」と「3・11」の犠牲者が重要な役割をになう可能性があると、李泳菜さんはそれについてのご自分の活動を紹介しながら指摘なさっていました。


歴史問題に終わりはない。92年の民主化から、人々が歴史認識をはじめて求めはじめたのです。

ー李泳菜(イヨンチェ)さんの講演より、2015年4月25日


日本の歴史を知っていますか?

日本はいくつの国と戦争をしたか知っていますか?45ヵ国と戦争しました。
52ヵ国がサンフランシスコ講和会議に出席したとき、韓国は参加を再三要求したのに会議への参加を拒まれました。日本と交戦していなかったという理由です。そうして日本の政治家たちは日本は一度も朝鮮半島が戦場だったと認識しないまま、今日に至っているのです。
ー 李泳菜(イヨンチェ)さんの講演より、2015年4月25日


A polemic for the possibility of sense and world, it takes place in this difference, which, we have seen, cannot reside in the world but only in language, in the transcendental disquietude of language. Indeed, far from only living in language, this war is also the origin and residence of language. Language preserves difference that preserves language.
Jacques Derrida; Speech and Phenomena

ひとつの真理しかない、したがって、ただひとつなのだから分けることができないような真理しかないという思い込みは案外、根強いものがありますが、それにたいして、別に考えることはできないでしょうか?たとえば、真理はどこを住処にしているのでしょうか?真理は言葉を住処としていることをデリダは強調しています。つまりそうならば、言葉を分けるという状態は、自ずから真理を分けることを意味します。この場合、だれが分けたかなど考える必要がありません。現実に、たくさんの言葉、たくさんの真理が存在していることをみれば十分ではありませんか。もっと抽象的にこのことを示すために、ゴダールのようなラジカルな思想家は、モンタージュというフィルムを切断し繋げる身体的ジェスチャーを発明しました。(切断された)たくさんのフィルム、(そこから多方向に繋げられていく)たくさんの真理、を示したのです。さて、なぜこんな話をしているのかというと、靖国問題を考えるためです。実は中国は日本にそれほど強硬な?要求はしていません。寧ろ妥協していて、靖国神社を廃止することも公式参拝に目をつぶろう、ただA級戦犯を含めた合祀さえやめなさいと言うのです。ところが、これにたいして、日本側は、<魂は分けることができない>などと反論しています。が、このような主張は、上に述べたように、ひとつの真理(=魂の声)しかない、ただひとつなのだから分けることができないような真理しかないという勝手な解釈でしかありません。


差違は世界に住みつくことができず、その超越論的な不安のうちに、ただ言語にだけ住みつくことができるものなのだ。実をいえば、差違は、言語に住みつくだけではなくて、それどころか、それは言語の根源、言語の住まいなのである。言語を守る差違を言語は守っているのだ。(『声と現象』)


ギリシャの危機と日本の危機、アンチゴーヌという名の精神の反乱

東京演劇アンサンブルの研究生公演、「アンチゴーヌ」(ジャン・アヌイ作、志賀澤子演出) を観劇しました。ジャン・アヌイのフランス語で書いた台本は、ドイツ語のヘルダーリンのブレヒト台本とは別の台本ですが、この両者は、消滅しきった遠い過去にあるギリシャの危機を描いたというよりは、古典を利用して、近代・現代のフランスの危機、あるいはドイツの危機を明らかにしたのではないでしょうか。ソフォクレスのギリシャ悲劇の共同体の問題を物語る言説が、東京演劇アンサンブルの研究生たちと観客に触発していく意味とはなにか、と、このことを考えることになりました。今日共同体が正面せねばならないのは、社会分裂の危機です。だがナショナリズムと国家がみんなこの危機を隠蔽してしまうことは、古代ギリシャのときとちっともかわらないのですね。確かにアンチゴーヌという名の、人間的尊厳を求めた精神の反乱が、テーベのみせかけの平和と秩序に抗議していきました。と、同時に、幽閉された部屋で彼女が「愛しい方へ」と衛兵に綴らせたことが大変重要です。手紙の名宛人は、ほかならない、国民国家の時代に王を追放していくほどの権力をもつこの衛兵自身、つまり彼女にとっては、現在舞台をみる民衆だったかもしれないのですから。その中で、それほど遠い未来にはいない、その手紙を受け取るはずの相手が、日本の危機に直面するいまのわれわれ自身ではなかったか、です。アンチゴーヌは代筆する衛兵に全面的な消去を命じました。その結果いまのわれわれのために、大きな余白を残すことになりました。現在白紙の手紙になにを書くのか?そこでなにを生きるのか?「今という時点で私たちは「アンチゴーヌ」をどのように読み、どのように生きることができるか。沖縄と日本、辺野古に基地をつくることに反対して抵抗する人たちと、絶対の権力で基地をつくることを決めている日本国家と首相の状況が、ストレートに見えてしまう。」(志賀澤子氏)


The universal must remain open, its differances must remain so; otherwise we are forever trapped in the present, in the future...


' THE MIRROR & THE MASK'と題した本に紹介されている絵画を掲示板に投稿していますが、PORTRAITURE IN THE AGE OF PICASO という副題がついている理由はなにでしょうか?例えば、私が「美しい」と感じる未開社会の仮面を、「醜い」と感じる人に説得できるとは思いません。趣味判断は多様、そこに万人が議論を経て承認していく普遍性など存在しないように思われます。ただ、対象の根底に対象を包摂する文化的なものが存在するかの如く方法的に語るだけでしょう。そうしてピカソの20世紀の芸術家たちは、アフリカの仮面を利用して肖像画の制作を行ったことの理由が想像されます。「判断力批判」のカントはこうした事柄を理論化しました。柄谷行人が、21世紀の問題の解決を考えたときに、このカントの文化論的な読みに規定されていたと考えています。ただし文化的なものが先行するという包摂の言説を展開していくことになりました。いくらかれが構成原理を批判しても、「帝国」論のような包摂の統整原理を構成的に使用し始めたことは明らかです。だからグローバル資本主義に抵抗する人々が、市民という理念を、既に確立した観念とは無関係に、「議論できる」新しい思考の呈示として再構成していくときに、柄谷の「帝国」論はこれとは正反対の方向に向いています。分割したグローバル資本主義の諸関係が(連続的な)「世界史の構造」を住処としていると物語ること、そしてそれぞれの「帝国」を予定調和的な文化的なものを平和的に映す実体ときめつけています。そこで「帝国」は文化的であるゆえに、趣味判断と同様に、「議論できない」実体となります。しかしこれがいかに政治的に危険な言説であるかは、言説の構成的使用の危険性を警告してきた柄谷自身が知っているはず。現在、それに対して言いたいことはこれです。普遍的に開かれていること、と同時に、差異が開かれていること。これは、包摂されまいとする市民の思想として「議論できる」と思います。


'憲法記念日'は憲法の記念日ならば、そうであればこそ、忘れられていることですが、フランス革命を契機に新たに問われることになった自然権・社会契約論の記念日でもあるのです。そうして、憲法が憲法であるのはただ、憲法の語りがこうした自然権・社会契約論に依ることによって。が、自然権・社会契約論を語っているときにいつも、実定法の秩序と規律を語っているのはなぜでしょうか?つまり、国家に対する根本的批判の問いが、お決まりのように?、参政権のお話に置き換えられてしまうことが繰り返されてきました。これについては、戦前の思想史についてしらべると、自然法=実定法という等値は、拡大していく天皇ファシズムの権威主義体制に妥協する形で、自らの言説、民本主義の内容を現状肯定的に縮小していくことになった吉野作造からはじまること、そういう可能性があります。ここで集団的自衛権の問題について一言。勝手に国家が世界第何位の戦力を与えた自衛隊とともに地球の裏側にいくことは、いくら国家の側に必要だと繰り返しいわれても、(将来、'国際人道主義'というアメリカのナショナリズムで行くことになるかもしれません)、市民にとっては意味があるのか?意味がないというふうに批判できるのはただ、社会契約論的な抵抗権を内容とする自然権から。 どうしても、自然権的に、市民という理念を想定することがなければ、たとえば安倍自民党の'この道しかない' でいわれる内部的な実定性だけではやっていけなくなるのではないか?その場合、市民という理念は、既に確立した観念とは無関係に、身体が介入する事件を契機に毎回新しい思考の呈示としてあらわれてくること、そうでなければ理念は腐敗・消滅してしまうこと。だから文学・詩・絵画・演劇・映画などの芸術的言語の発明をともなってあらわれてくる必要があること。Badiouがいうように、哲学がいかに芸術と愛、数学と物理学、政治とかかわってつくられていくのか?現在はこの予測できないことを目撃できる時代なのかもしれません


芸術、愛、数学物理学、政治。これらに共通しているものはなにか?わからないが、なにも無いときでも、空集合があるよと言うのが人間の面白いところ。自発性が生まれるのは、空集合からかもしれないしね。官僚の父親が一番嫌だったのは、家庭でも各省の予算計画を中立的に調べていたような態度。自発性が萎えた


何度でも言います....

靖国神社は、明治政府が戦争を行うために設計した、顕彰施設としてありました。戦争が終わっていなければならないのに、そこで現在A級戦犯が祀られているとは、いったいどういうことでしょうか?もし弔ふだけならば、国がつくった千鳥ヶ淵の戦没者記念碑へ行って弔ふことができます。しかし戦争神社である靖国神社へ行くのです。これは何を意味するのか?「戦争立法の議員たち、戦争神社へ行く」と報じなければならないまでのところにきたのではないですか 、大げさでしょうか ?

問題は、近代において、祭祀国家がいかに、戦争をつくってしまうのかということです。戦前の天皇が主権者であり、天皇が軍隊を統帥したこと、それだけではありません、戦争の死者を支配したということです。が、戦後は同じことはできません。妥協案として、A級戦犯を祀ることをやめれば、廃止せずとも、靖国神社が普通の神社としてやっていくことも可能でしょうが、アジアの人々が決める事柄です。戦犯のご遺族は戦没者記念碑へ行くことができますし、地元の神社で弔ふことも自由なのです。安倍は静かに地元の吉田神社に行ったらいいです






破れ傘 (2)

EPRの問いとは何か?わからない。ただ破れ傘的にいうと、こうである。
生存と死はいかに、人間的尊厳をもって、同時に存在できるかという問い。
つまり「ユリシーズ」のモリーの独白に書きこまれたように、
身体に表象された共同体が、
これ以上排除してくる外部的侵略者から損傷を蒙らず、
無理せずにもっぱら自らを配慮できること。
と同時に、追放された、99%のコラージュが、安心して、
いかに複合的なものを保存できるのかということ。語ること


昔、「ニューレフト・レビュー」での寄稿文に、アメリカというお客様に絶対服従の日本の不思議というような分析を読んだことがあり、そのときはアメリカの左翼知識人からそう思われているんだなあと思いました。ここに投稿してくださった日本側のこの話を読んで対応がつきました。これはこれで知らなければならない真実とおもう半面、まったく的外れな見解かもしれませんが、こういう言葉があるのか知りませんが、エリート層の嫌米という、嫌韓・嫌中の根底にあるとおなじナショナリズムになっていくことはないのだろうかとなどとおもいました。公約数的に、勝手に、日本人が自らを排他的に規定していくアイデンティティーというか

敬 親米ナショナリズムの謎とは、非常に興味深いテーマですね。ぜひお読みしたいです。よくアメリカへ行ってかえってきたひとが、日本をかんがえはじめたみたいな話があり、自分は絶対にそういうことにならないんだとおもって二十代のときいってくると、やられてしまって(笑)、子安先生の「本居宣長」なんかを一生懸命読みふけっていました。(そのまえに「事件としての徂徠学」をよんでいましたが。) 理由はわからないのですが、なにかアメリカというのは、行くとそういうことになることが避けられない国なのだと(汗)。ネットでも、英語で書けば、アメリカ人はさがしてきますからね。エリートにとっては大文字の他者かもしれませんが、(昔は遣隋使・遣唐使の中国だったのでしょう?) 、そこまででなくとも、われわれを規定してくる他者でしょうか。アジアをかんがえるときに、アジアでないものをかんがえてしまうのはなぜなのか。(台湾に行ってきてわかったのですが、アジアをいうかれらはアメリカの大学で勉強してきた過去をもっているのですね。)

No general ethics, no universal rights

レジスタント運動のサルトルのジレンマは、かりにファシズムをやっつけてもそのかわりに資本主義が勝利したらいったい意味があるのだろうかというものでした。このサルトルのジレンマとは逆に、反グローバル資本主義の意思表示であった、2009年ロンドンでのG20開催とサッチャーリズムの労働党に反対した中央銀行前広場の占拠のときは、この占拠によって、労働党の信頼が決定的に失墜し、しかしそのかわりもっと悪いファシズム的な保守党が政権をとるとしたら、意味があるのだろうかなどと共に考えたものですが、今年の選挙でその保守党が敗北することになりそうです。さて、3年前の投稿をみると、きょうはサイードを読んでいたようです。この三年間のあいだ、「選ぶ」民主主義の「合意」生産・流通の物質主義にたいする不信感はますますつのる一方でありますが、現在の知的な関心は、歴史を重んじるポストコロニアリズム研究と文化相対主義から、形式を重んじる普遍 (=無限)を擁護していく存在論的倫理学へと大きく移ってきました。普遍的に、東アジアの倫理学と権利について考えるようになりました。東アジアにおいてもっとヨーロッパの自由と権利が確立していく可能性がないかとおもっています

「どいつもこいつも、なんで、'生のぼくたちをみてください'という表現の仕方をしたがるのかしら?」と、昨日新宿の某デパートのクレープ屋さんで男性といっしょにいた、i-phoneをみていた隣席の女性が呆れて怒っていました。と、そのとき、フォークとナイフをおいて、「もしもし、お怒りはごもっともです。その表現はですね、吉田松陰の'心を出し尽くす'的ファシズムの様態なんですよ。その'生のぼくたち'というのは結局、普通のみんなと同じというナショナリズムを内容とする意味。心がせまいですね。もし私ならば、むしろ、同性愛や国際結婚の人々など多様なものにつながっているわたしをみてください、とアピールするんですけどね」、と、声をかけてあげたかったな...

めがさめた
だれがよぶのか
かわそこで
発情期の
カモがなく

そうでしたか。よくわかりました。たしか、今年一月のときに、写真のポスターというご希望を伺っていましたので、過去に撮った写真を色々とさがしてみたのですが、戯曲のためのこれといった一枚をさがすことができず、結局、写真を利用したコラージュをつくりました。「どん底」の第一幕のㇳ書きに、「ほら穴のような地下室、天井は、漆喰のはげおちた、煤けた、重苦しげな石づくりの丸天井。高い角窓・・・」とありますので、コラージュは、監獄をおもわせるこのト書きに沿って、なんとか構成してみようとおもいました。説明していきますと、今回つかった二枚の写真の一つは、アイルランド時代に撮ったもので、極貧のうちに立ち退きされた農民たちが収容されていた監獄です(棺桶のような狭いところに押し込まれていたのはびっくりです)。もうひとつは、アムステルダムで撮った写真を使いました。記念館となっているアンネ・フランクの家の隠れていた彼女の部屋に近くにあった水道管ですね。(当時のものかどうかわかりませんが、ぞこに同じような水道管があったとおもわれます。イメージ的には、生命と生存をあらわすシンボルです。) 描いた絵のうちいくつかの窓が御覧いただけるとおもいますが、これらはダブリンで窓税(植民地税)を払えなかった貧しい家の窓に石が積まれている様子を表しています。(強制執行としてこうして窓全部がふさがれました。) 人物たちのイメージですが、オマージュとして、1950年代のモスクワ芸術座の公演の様子を利用しました。真ん中にゴーリキを表すといわれる、ルカのイメージ。この作品は、昨年台湾・香港で起きた、反グローバル資本主義の蜂起した人々に捧げるために最近描いた絵につづいてつくったもので、生命と生存をテーマとしています。わたしが書いた、'破れ傘'という詩に、今回の作品のコンセプトが表現されていますので、ご理解にお役にたつことをねがって、これを送信させていただきました。稚拙な作品ですが、どうぞよろしくおねがいします。用事を済ませることができれば、明日研究生公演に行きたいと存じます。

生存と死はいかに、人間的尊厳をもって、同時に存在できるかという問い。
つまり「ユリシーズ」のモリーの独白に書きこまれたように、
身体に表象された共同体が、
これ以上排除してくる外部的侵略者から損傷を蒙らず、
無理せずにもっぱら自らを配慮できること。
と同時に、追放された、99%のコラージュが、安心して、
いかに複合的なものを保存できるのかということ。語ること


Hooray ! The fliers has reached me. It's my drawing. I thank TEE so much for their great design. Botho Strauß;Der kuss des Vergessens -Vivarium rot

さっと暗闇に光が筆を揮(ふる)う、流星よりもみごとな離れ業、には届かぬとて、せめて、眼が覚めたとき夢の中で拾い上げた花を持っていた驚きぐらいは描きたい。絵は難しくないが、やはり無駄なものを削るのはものすごく難しい。不一致から絶え間なくつくりだす一致の努力の徴こそ、わが手。と完成後に気がつき大いに驚く

来年三月に上演する芝居「忘却のキスー赤色のガラスケース」(東京演劇アンサンブル)のちらしが送られてきました。ちらしの絵はわたしが描いたものです。

作曲は難しくない。しかし無駄な音符を削るのはものすごく難しい。(ブラームス)。絵も同じで、無駄なイメージを削ることが難しい。ステンドガラスの領域、青い四角形の領域、曲線の領域は各々、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教を暗示。「手」は和解を、即ち不一致(死神?)から絶え間なくつくりだす一致(キス?)の努力を表現する。と完成後に気がつき大いに驚いた


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4月 2015 (3) 言葉と表現と射影のブログ/BIGLOBEウェブリブログ
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