言葉と表現と射影のブログ

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zoom RSS 2015年5月(1)

<<   作成日時 : 2015/05/06 12:59   >>

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<原爆投下のあとにポツダム宣言>?<満州はドイツから権益を継承>?安倍はなにも知りません、知ろうとしません。かくもアジアへのシンパシーがない人間が出てきてしまったことに慄然。こんな調子で、集団的自衛権行使のときは<アメリカの戦争に巻き込まれてはいない>のと言い続けるのではないでしょうか

BLOOMというのは、四端の心だね。病院を舞台とした「太陽神の牛」は、'人の為に死ぬな'を言うとき、BLOOMの <惻隠の情> を通して物語る。海岸の 「ナウシカ」は、<羞悪> (都市の刹那的消費を非難)。赤線地帯の「キルケ」は、多分ジョイスにとって滅茶苦茶苦手な<謙譲> (理性あるソフトなマゾヒズム?)。アイリッシュパブを舞台にした「キュクロプス」は、<是非> (民族にとらわれない普遍主義的な友情のあり方を言う)。どんな人間も平等に四端の心をもっているから、目標の仁義礼智に向かって一歩一歩実現できるんだ。ただしそこはジョイスだから、一直線じゃないんだけどね、アイルランドのロードムービーみたいにぐるぐると彷徨っては元の出発点に戻ってきちゃったりする。これだけはいっておくよ(笑)

ヌーヴェルバーグの批評家が発見した映画の作家達(ヒチコックとかルノアールとかブレッソンとか)は、儒学の言葉で'鬼神'(つまり 死者)として、映画の歴史といかに関わるのだろうか?という異様なテーマを考えていたら、グラグラと地震で揺れはじめました。嗚呼ヤバイなとおもいつつ考えをおしすすめました。ゴダールは映画史が(彼方の)非合理な存在を含むとした上で、知(=フレーム)を此方の合理的なものに限定しています。例えばエイゼンシュタインの死やタルコフスキーの死は特別に過剰な意味をもちません。しかしそうでないときは、ゴダールは非合理的な存在を前提とした映画史を捉えています。そのときは、映画の道を制作した聖人が囁いてくるような、祭祀的なものが映画史において不可欠となりますね


わかっているだけでも50か国語以上の言語を利用して書かれているジョイス「フィネガンズ・ウエイク」(FW) の和訳は、現在に至るまで7種類ぐらいあるそうです。トリエステの国際シンポジウムの場で、一番最新の日本語訳のことを告げたら、ハンガリー人研究者が苦笑いで、「翻訳としても何語からの翻訳訳なのか?」と呆れました。この言葉はこのFWの読むことができない本質をついたものです。もはや19世紀にゲール語の消滅が事実上起き、誰もケルトの古文書を読めなくなった後に、二十世紀にどこの国の言葉にも翻訳不可能な文学が現れてくることは何を意味するのか?米国の知識人達の間でジョイスの作品が毎年上位を占めるのはなぜなのか?これをグローバル資本主義の時代の<帝国>の包摂してくるイデオロギー的教説に即してかんがえると、<帝国>ヨーロッパを規定する神話とリアリズム、<帝国>ロシアの一国社会主義的ツアーリズム・スターリズム、<帝国>中国の新儒教がありますが、これらとは異なる、<帝国>アメリカの、どの国家の固有性に根ざさない包摂のあり方を、彼らが同一化しようとするジョイスのテクストの読みからもしかしたら読み解くことができるかもしれませんね。一考の価値があるとおもいます


アイルランドの政治 ー dissidence

フランス革命後の論争は、アナキズムへ行くのか国家主義へ行くのかを問いました。1870年のパリコミューンの社会主義はアナキズムへ、1917年のロシア革命の社会主義は国家主義、したがって一党独裁一国社会主義ツァーリズムへ向かうことになりました。が、パリコミューンとロシア革命のあいだに起きた、20世紀初頭の植民都市ダブリンでの大衆運動、イースター蜂起はなにであったか?「シンフェイン」の父は共和主義者と第二インター系のフェニアン、母はゲール復興運動といわれるかぎり、アイルランドの社会主義は国家と民族主義へ行ったと整理することができる。だが、他方、シンフェインは、南アイルランドにおいて、「銃の政治」であるIRAへの反発と、隠された彼らへの共感の間から現れました。ダブリンに進出したとき、政治的に、バブル時代の借金をドイツ銀行に返す必要なしと訴えることになりました。反イラク戦争を訴えて街頭に出た大規模デモのひとびと、既成政党に失望していた無党派層の気持ちを汲みとったのか、このときは私の生活はロンドンへ移っていたのでこの辺の空気の変化は知らないのです。OWSについて報じた本の証言にあるように、グローバル資本主義の時代のアイルランドのあり方がNYのアナキズム的占拠に無視できないインスピレーションの一つとなったとする事実の指摘を日本で読んで驚いています。アイルランドの政治は、たしかに dissidence


文学というのは、一番抑圧されたものを、主人公として設定してきました。これは、ジョイスが「ユリシーズ」で、アイルランドで生まれたユダヤ系の人物を主人公にした最大の理由であります。現在ジョイスが書いたら主人公は間違いなくパレスチナ人だと新聞で看破したのは、このひと、デビッド・ノリスDavid Norrisでした。今回の同性婚の合法化の立役者の一人です。ダブリンは他のどの都市に比してゲイが多いにもかかわらず最もゲイの権利が無いといわれてきました。まだアイルランドには19世紀の大英帝国時代の死文化したとはいえ、オスカーワイルドを監獄に行かせた刑法の条項が残っていたとき、ノリスがEUの最高裁に提訴しこれを取り除く判決を得たのでした。これほど差別が厳しい国でそんなに頑張れるのはなぜなのですか?という聴衆の質問に、ノリスが、「だからこそアイルランドでの人権の運動が比類なく尊いのですよ」と答えました。この言葉に大きな感銘を受けました。上院議員であり、元々はトリ二ティーカレッジの大変有名なジョイス研究者で、一般向けの下の入門書は彼による執筆です。もしジョイスの本が分からなくなったら声をあげて読めと彼は勧めています。これは、本を読むとは黙読することと等値しているテクスト派?の日本人は戸惑うアドバイスかもしれません。が、<ふつうの人々>のダブリン・アクセントでならばスラスラ読めることの意味を考えなさい、と彼は言いたいのです。実際にそうして読める本なのかわかりませんけれど、なにであれ、アイリッシュのアーチストほど、排除されてきた<ふつうの人々>への大きな共感を持とうとする者たちはいません。ここからこそ、文学も人権も多様性へ開かれているべきだとするノリスの信念に動かされる人々は本当に多いのです


アイルランドで同性婚合法化、国民投票では世界初。平等と多様性へ向けた大事な勝利!市民運動がたえざる社会政策の見直しとリンクしているというのに、
吉田松陰・国民道徳・A級戦犯合祀の靖国公式参拝からはなにか人間的な希望と意味が出てくるのでしょうか!?

フランス革命後の論争は国家主義かアナキズムか?シンフェインの父は共和主義者と第二インター系のフェニアン、母はゲール復興運動。南アイルランドに進出したときバブル時代の借金をドイツ銀行に返す必要なしと訴えた。反戦の無党派層の気持ちを汲む?NYのアナキズム的占拠にインスピレーションを?

誰もケルトの古文書を読めずゲール語の消滅が起きた後に、どこの国の言葉にも翻訳不可能な文学が現れてくると、米国の知識人達の間でジョイスの作品が毎年上位を占めることになった。ヨーロッパの神話とリアリズム、スターリズム、新儒教とは異なる、アメリカの固有性に根ざさない包摂のあり方を物語る

一考の価値がありますね。FWの和訳は同時代的に出ていて現在に至るまで7種類あります。一番最新の日本語訳のことを告げたらハンガリー人研究者が「翻訳としても何語から訳したのか」と呆れたのは、FWの多言語的謎の本質をついたものでした(笑)

ヌーヴェルバーグの批評家が発見した映画の作家達は鬼神として、映画の歴史といかに関わるのか?ゴダールは映画史が彼方の非合理な存在を含むとした上で、知(=フレーム)を此方の合理的なものに限定する。他方で、非合理的な存在を前提とした映画史を捉えるときは祭祀的なものが映画史に不可欠となる

喫茶店の若いカップルの会話

男性の妹が留学中のアイルランドについて、「どこの国?」と、女性が携帯で検索し始めた。アイルランド語が公用語なの?数%しか喋ってないなら意味ないじゃん(笑)。'ディア・グッチ' (こんにちは) だって」、と。現地で私が何年間もかけてやっと知った内容のことを、僅か3分の時間で知る、無駄をしない若者たち、なんともスマートなm全知全能の神様たち。


人のために死ねという国家道徳 vs. 人のために死ぬなという市民道徳

特攻隊で英雄的に死んだり、人のために死ぬのは、まちがった、むだな死に方であり、それは民主的ではありません。まちがった、むだな死に方を称えるのは、現在学校で押しつけている教えようとしている国家道徳。そんな国家道徳とは違って、徹底した平和主義の憲法に書かれている市民道徳は、本当は、ラジカルな批判精神をもっていて、徹底的に道徳的であれ、もし、まちがった、むだな死に方をしなければ鞭を打ってくるような国家ならば、そんな道徳性のない国家をきっぱり捨てて逃げてしまいなさい!と (日本国民にだけでなく) 世界中の人々にたいして要求しています。こういう憲法の理想に反発して、教育勅語の復活をもとめる安倍などの改憲論者は、「憲法が押しつけられる」前に、すでに、生活する人々のあいだに読まれてきた「論語」に、「子之所慎、斎・戦・疾」 (子の慎むところは、斎・戦・疾)とあるような、つまり人のために死ぬなという言葉があることを全然知らないのです。



今日の居酒屋トークは、

ポツダム宣言を知らない安倍が益々、自己の(戦う)「こころ」に向かって内部的に孤立していく、吉田松陰化のバカ丸出しだという話題でした。もうひとつの話題は、一か月前のAIIBのヨーロッパ主要国加盟でアジアがみえなくなってきたこと。(安倍の歴史修正主義を発端として)、国内の支持を引き出すために、これまで互いに罵りあって求め合った「敵」同士のあいだの、ゲームの規則は変わるのか?加盟を促す中国側のタフな政治的な抱き込みで、安倍の反アジア的'至誠'的戦略が徐々に崩されていくのか、「こころ」(国家道徳)の安倍の憎悪ゲームの敗北まで。ここからはguess-workのシナリオですが、日本は人様にそれを言う資格があるの?と謂いたくなりますが、兎に角加盟の条件として日本は(偉そうに)中国側に人権と民主化改革の難題を要求、その場合現在の中国側は単純には反発せずに、政治的にある程度それに対応していく可能性も。ここで大変ややっこしいのですが、整理しておくと、中国の少数派改革的"右派"が左翼。ネオリベ路線をとる中国共産党エリートを中心とした多数派保守的'左派'が右翼。前者がいかに後者を動かすのか、あるいは挫折してしまうのか。習近平は、両者の駆け引きをみて、'新儒教'という中国版'教育勅語'(ただし日本のような家族国家観ではない)で国民に厳しい統制をかけ、他方で内部改革を行うという指摘も。もし加盟のとき今度は、中国は日本側に何を要求するのか?靖国の合同祭祀の取りやめとか?問題は、日中戦争70周年に向けて想定されるデモが東アジアにとって政治的にどんな意味をもってくるのか。AIIBを契機に、中国も日本も同じままであるとは考えにくいことです。この大事な一年にわれわれはなにをすべきなのか?残念なのは、事なかれ主義の政治家の顔色を窺うばかりで、共にかんがえてくれるようなたよりになる新聞は日本から消滅したことー 新聞の他国を罵るヘイトスピーチはいくらでもやるというのに



もはやドゥルーズは古典です。左翼的に、右翼的にも解釈できるという意味で。「アンチ・オィデプス」も「ミルプラトー」も左翼の独占物ではありません。そこで、素朴な右翼の言説とおもわれたくなかったら、ドゥルーズの言葉からひいてきた千葉氏の<偏在するコレ性>は、日本の暴力の問題に即して考えることが大切で、とりあえず<集中するコレ性>は私の造語ですが、もし現在安倍がやろうとしていることが様態的にA級戦犯の英霊を<偏在するコレ性>から<集中するコレ性>へと生産しようとしていることならば、それにたいして、思想は、例えば憲法の理念性において、抑圧してくる<偏在するコレ性>と<集中するコレ性>を共に消滅させていくことが可能なのか、その場合どんな理論構成があるのかを積極的に問うときではないでしょうか。私に関しては無力であり、絶望もしていますが、ただ、抑圧してくる権力を相対化するためにも、一体なにが日本の暴力、権力を構成するのかをできるだけ明らかにしていくような言語化の抵抗のことはつねにかんがえています。



<偏在するコレ性>とは、嗚呼なるほど、そういう表現が可能だったかと彼の言葉のセンスに大いに感心いたします。これがいつ、<集中するコレ性>(と、私が呼んでみた権力性)になるのか、あるいは、逆の方向で、<集中するコレ性>がいつ、<偏在するコレ性>になるのかという問題があり、彼らならば理論的に精緻に完璧に説明してみせるでしょうが、ただすでに80年代に浅田さんが用意周到に全部整理してしまった、限界にぶち当たったという意味で清算済みの説明の再語りようにもおもいます。(深めていくアカデミックな意義はあるとはおもいますが。) 90年代以降顕著となってきた、まったく見失われている日本の暴力の問題に即してかんがえると、もし国体的な安倍などがやろうとしていることがまさに様態的にA級戦犯の英霊を<偏在するコレ性>として生産しようとしているならば、問題はいかに、権力側の<偏在するコレ性>を消滅させていくのか、それらを憲法のようなところに言葉を住処として理念化していくことができるのか (たとえば、憲法は再び天皇に死者の魂を主宰する権利を禁止しているなど)、もうすでに憲法がやられてしまったならば、文学機械において可能なのか?ドゥルーズがウルフのラジカリズムにみとめていたほどの抽象的な文学機械はこれからどこからあらわれ得るのだろうか?というような愚鈍な理論構成を行うことが21世紀において必要となっているのに、絶望的に、自らへの反省を含めてですが、思考の決定的な欠如にたいして非常な危機感をもっています。無力でありますが、ただ、権力を相対化するためにも、一体なにが日本の暴力、権力を構成するのかを明らかにしていくような抵抗のことはつねにかんがえています。中島さんの言う<相対化をこえた相対化>はヒントになるとおもいました

ポツダム宣言が<先>、原爆投下は<後>。国体維持の無理の中で降伏しなかったのは、無意味な遅れをもたらしました。ところが原爆投下の後にポツダム宣言があったと安倍が本の中で喋るのも、かれの歴史修正主義の類なのかもしれません。そして安倍はポツダム宣言を読まずにいるのは、自らを陸軍ファシズムに同一化してはじめたからなのでしょうか?いま考えておかなければならないのは、そうであれば、ふたたび、自分たちが何をしているのかわからないという悲惨が集団的自衛権行使において繰り返されるだけだということです。


文学は一番抑圧されたものを主人公として設定してきた。これはジョイスが「ユリシーズ」でアイルランドで生まれたユダヤ系の人物を主人公にした理由。現在ジョイスが書いたら主人公は間違いなくパレスチナ人だと明言したのは、デビッド・ノリスであった。ジョイスの漫画本に異化効果を期待していた。肖像画はあえてこれを漫画として捉えようー意味された内容を称えることをやめるために。近代主義者が描いた<ある若い芸術家の肖像>は、近代主義者が描いた<ある若い民族主義者の肖像>でもあり得たが、ここからどんな肖像画も<近代主義者の肖像>の反復でしかないというアイロニーの感覚をもて!小説の根底に「反オィデプス」があるのは、それが、抑圧してくる<父>に対するたたかいと無関係にはあり得ないからだが、「反オィデプス」が<父ー息子>の二項対立の内部に絡みとられないように、この'反'の接辞後に'非'も含まれてくることは、近代主義者が描く肖像画が本来的に空白であることとパラレルだね


国語の授業は覚えていませんが、退屈な学校生活から救い出してくれる教科書にあったサルトルとかフランス文学系批評とかはよりどころでした。国語は精神的成長にかかわるなんともいえないものでしたが、大江は馬鹿じゃないのかと疑ったり、昔は安倍公房はよくわからなかったので、現在安倍の芝居に取り組む若い人に脱帽です。戯曲とか映画台本とかあったほうがいいですし、江戸時代の思想問題にに取り組んだ活発な批評とかも。「日本語」という方向で、言語学はもちろん大事。私的には、レヴィストロースとかの人類学の仕事を読みたかったですが。毎年同じことを言っているのですが、男性の書き手に偏らないように、女性の書き手とかゲイの書き手とのバランスですね。少人数だとなんでもできるので、富岡多恵子とかウルフなんかを読ませたことがあるのですが、(ダブリンにきた留学生の)教え子が結構うらやましいとおもったほどです(笑)。いまの時代は、ネットでいかに書くかという勉強も大事でしょうね。

Proclamation Defining Terms for Japanese Surrender
Issued, at Potsdam, July 26, 1945
1.We-the President of the United States, the President of the National Government of the Republic of China, and the Prime Minister of Great Britain, representing the hundreds of millions of our countrymen, have conferred and agree that Japan shall be given an opportunity to end this war.
日本の降伏のための定義および規約
1945年7月26日、ポツダムにおける宣言
1.我々(合衆国大統領、中華民国政府主席、及び英国総理大臣)は、我々の数億の国民を代表し協議の上、日本国に対し戦争を終結する機会を与えることで一致した
6.There must be eliminated for all time the authority and influence of those who have deceived and misled the people of Japan into embarking on world conquest, for we insist that a new order of peace, security and justice will be impossible until irresponsible militarism is driven from the world
6.日本国民を欺いて世界征服に乗り出す過ちを犯させた勢力を除去する。無責任な軍国主義が世界から駆逐されるまでは、平和と安全と正義の新秩序も現れ得ないからである


笑止。定義上矛盾している<奴隷の意思>

岡田氏「米国の戦争に巻き込まれることは絶対ないと言うが、本当か」
安倍首相「日本の意思に反して日本が戦闘行為に巻き込まれていくというのは、当然ない」


近代の労働は近代国家が創出した。疎外の問題を解決するためには再び、疎外を推進してきた構造<国家ー労働ー資本>に委ねることが不可能である、と、「賃労働と資本」のマルクスはかんがえたとき、かれはどこの国においても外部と連帯する自発的政治的運動の可能性を考えたに違いない。これに反して、労働の唯物史観の言説はナショナリズムに行くのは、労働の内部に見えないものを読み取ろうとするときである。その読み出しは、民衆史的に、今日においてはポストコロニアリズム的に、行われる。近代の失敗したユートピアを代償するために、別の近代をやり直す使命を担って、自らの労働に、神話的な宇宙論的生命の徴、古代的起源の連続性を、語りだす共同体が国家の対抗としてあらわれてくるのだ。

ポツダム宣言受諾が知っておかなければならない常識かどうかのまえに、そもそも常識そのものに意味がないと嘲笑っているとしたら、こういう権力者はいかに破壊的な衝動をもつのかということをかんがえておかないと。平和をいう憲法9条だけでなく人間の生存権をいう憲法25条などを理由もなくことごとく破壊しつくすでしょう。



Le libre-échange et l'abaissement des barrières douanières ont causé une chute du taux de croissance de l'économie mondiale.
Emmanuel Todd


増殖のシステム

なんでもかんでも集計した数で決めればいいとする自民党が長年作りあげた選挙万能主義の政治にたいして異議を言うべきところに、池田は、反対票を投じた「老人」へのラベル張り的な差別を口にし始めています。この男の罵る言葉がすでに橋下的です。このような知識層の政治屋をまねたスケープゴートの言葉からは、増殖していく、選別と排除しか生まれないことにまだ気がつかないのでしょうか?

ー> 池田信夫; 大阪で見えた「老人の老人による老人のための政治」


Poverty issue

However Thomas Piketty says : “ we don’t need 19th century-style inequality
to generate growth in the 21st century ”, there is no individual poverty problem in Marxism. The poverty issue is too superficial for Japanese leftist intellectual to consider it the anti-Establishment thought. The poverty issue is no more the materialistic conception of history than the inequality issue. That proverty issue can be generally inferred from the materialistic conception of history is simply due to the fact that Das Kapital asserts its authenticity as the materialistic conception of history. Righteously,they argue on one thing; Marx's Das Capital is possible to confer authenticity on Piketty's "Capital" or not. Is this enough ? I don't think so.This is the reason why the inequlity in Japan cannot be resoved. Even the povery line never exists.





Thomas Piketty: “We don’t need 19th century-style inequality to generate growth in the 21st century” http://

きょうのネトウヨ妄言
「日本の植民地政策は欧米人より人道的?」

コメント; 植民地主義自体が問題なのだから、これについて考えようとするときまったく最初から、植民地主義にメイド・イン・ヨーロッパ、メイド・イン・ジャパンというふうに国ごとの銘柄に沿って語りだすことに意味はない。意味があるというのなら、よろしい、しかし日本の植民地政策の話をしているときに、欧米のそれを語っているのはなぜでしょうか?そのやり方で、あたかも日本に植民地主義がなかったことにしてしまうつもりでしょうか?


橋本ぐるぐるコースの定理

どこかからちょっと盗んできたものをどこかに与えて得させる詐術のこと。盗まれた側に、またどこかからちょっと盗んできたものを与えて調整する。そうしてグローバル資本主義時代に貴族のようにふるまう権力者たちは、全員の人気をまるまる盗み出すが、今回はこの何も生み出さぬネオリベ悪徳商法に対する危機感の反対票が一定の効果をあげたようだ


現実には映画は生産されているし、また自分も次々に新作を発表しているとしても、ゴダールにとっては、映画というものはもう終わってしまったもの、消滅しきったものである。よみがえることはない。だから「映画史」では、かつて存在したとする映画の名が廃墟の地にある墓たちの名のように呈示されている。映画のひとつひとつの名がなにをあらわしていたかはそれほどはっきりとわからなくなっている。映画の栄光を語ってみせるシナリオほど空しいものはなく、人間はそんなことをしても、過去の時間と現在の時間との間に連続性を回復できないのだ。人間に反発した、外部からやってきた詩人だけが、嘗て時間を横断した映画の足跡を見つけ出しそれらを辿ることができる。連続性に依ることなく、彷徨う映像の魂のひとつひとつに正しい名を与えることになるだろう。(絵;本多)


グローバル資本主義はどこも中心でない多中心構造の空間。ここで国家は境界を定めるための2点間の距離。帝国は2点間の(拡大する)文化的距離。グローバルデモクラシーの課題は寧ろ、二点間の間を深かめる為に、いかに無限に向かって線をひくか?即ちグローバル時代の社会主義思想の再建を考えること


東京演劇アンサンブルの「未必の故意」(安倍公房原作、尾崎太郎演出)

事件として起きたおぞましい経験の意味を共同体の誰もが知っていたはずだが、現在のわれわれはそれを知ることができません。ただ検事(模擬裁判)の信頼できない作文を通して探るだけです。きょう尾崎氏がなぜこの芝居にこだわったのかを考えながらじっくりとみました。演劇をとおして、人間性の条件についてだけでなく、そして差別問題という社会的問題についてかんがえることの大切さをアフタートークのときに強調なさっていました。
他方、安倍公房の抽象性としりとりの遊びをいれた演出を念頭におきながら、この私の中に、異空間の舞台が喚起する、あまりに文学的過ぎるといわれるかもしれない、イメージが流れました。こういうものでした。ー 島民とはそもそも誰なのかという話がある。島民にとっては、自分たちがどこの島に属するのか全然わからない。はじめから墓標のように島の名しかない。島民にとっても逃げ出す前にそもそも島は消滅してしまっているとしたら?島民の全員が亡霊かもしれない。亡霊たちは過去のシナリオ(事件の報告書、被害届、模擬裁判の質疑応答)をつくるが、しかしどんなことをしても消滅して終わってしまった空間と現在の時間との間に連続性をけっして回復できないだろう。そのとき、生の側から、つまり、外部からやってきた詩人だけが、嘗て通り過ぎた島人の足跡をまるでしりとりの如く辿ることができる。宇宙の私語の淵を彷徨う女、「クミ子」だけが、消滅した魂にひとつひとつ名を与えることができる...(ちょっとヘルダーリン的かな?)


レトリック・ナンバーワンの国

戦争立法と言おうが、平和安全法制と言おうが、 「敵」が消滅しきったあとも爆撃しつづけて終わることがない近未来に大きな違いはない


子安氏より

〈貧乏〉も〈貧困〉も英語でいえば同じ“Poverty”である。だが市の境界のスラム街を構成する人びとの姿として、あるいは市中で物乞いをする姿として見えていた“Poverty”が、市の日常を構成する生活者たちのただ中に目には見えないが、しかし厳然としてある“Poverty”として、すなわち都市生活者のその中にある“Poverty”として再発見されたのである。これが再発見されることによって“Poverty”は意味を変えたのである。〈人びとの貧しさ〉から〈社会的貧困〉へと。われわれの漢語はこの再発見された“Poverty”を「貧困」の語をもっていうのである。
河上が「貧乏」の語の三つの意味をいい、経済学上に構成される〈貧乏〉概念、すなわち数値を以て統計的に可視化される〈貧乏〉の物語として語り出したのは、〈社会的貧困〉へと意味を変えた“Poverty”の物語であったのである。19世紀から20世紀へと、まさしく20世紀現代へと転換しようとする時期、イギリスの注意深い調査手段をもった社会の観察者たちは、無視することを許さない数値をもって新たな“Poverty”を再発見したのである。それは今迎えようとする20世紀的世界における人間の社会的生活条件とは何かを教えるような意味をもつ再発見であった。
〈貧困〉は常に再発見されねばならないとは、現在の〈貧困問題〉の論者たちのいうところである。ラウントリーはあの〈貧乏線〉を引くことによって、〈貧乏〉を工業社会のワーキングプアの〈貧困問題〉として再発見したのである。それゆえあの〈貧乏線〉は〈現代貧困〉の発見にかかわる〈貧困線〉でなければならない。だが河上の『貧乏物語』はこの〈貧乏線〉をいいながら、どのような〈貧乏〉を語ったのか。


知識人は、マルクスが憧れたバルザックの文学みたいに、生活の隅々まで介入してくるような体系を自らの視野にもっているとおもうのですが、そういう意味で柄谷以降知識人が出てこないとおもっていたところでしたが、テレビの箱の中に現れましたか!

柄谷は一貫してプラトニズムを批判してきました。たしかに最初はソクラテス的だったわけですが、私の間違いでなければ、自分が勧める古典を自身が読んで、だんだんプラトン的になってきたんだとおもいます(爆)

裁判員制度は、色々な経験を知恵をもった市民たちが介入する、冤罪を防ぐための陪審制度とは発想が全然違うのではないでしょうか。国民参加という正当性が問題なのですね。極端にいえば、とにかくそうして罰していく正当性だけを問題とする国体的発想に近いものとおもえてしまうのです、京都学派の佐藤の憲法は

70字の70字

140字の半分では説得するスペースがない。限られたところに新しいことを言う概念を呈示できないかと試行錯誤。2011年頃から始めたツイッターを整理する機会


オーストリアの映画

フリッツ・ラング、ビリー・ワイルダー、ジョージ・キューカスなどは、ドイツの映画監督だと思っている人が多いとおもうのですが、(私もそうでした)、オーストリアの監督たちなんですね。ただそうはいっても、最近のへネケのオーストリアを撮った最近の映画はオーストリアの映画とわかるのですが、しかし最初に挙げた3人の映画はどこの国にも属しているがどこの国の一部でないようなコスモポリタン性があります。これは何を意味するのか?ハリウッド映画の時代にあらわれた、かれらのコスモポリタン性は、オーストリア帝国が終わったあとに構成されることになった(と、「カフカ」のドゥルーズが言うような脱領土的な) 文化帝国と関係しているのだろうかとかんがえているところです。(カフカの文学、シェーンベルグの音楽、フロイトの精神分析、アインシュタインの物理学、プラハの言語学等々)



英語は英語を母国語としない話者と会話できるメリットはありますね。本を読んだり、(3割ぐらいの理解ですかね)、知り合った人たちとあとでネットで連絡をとるときに便利。ただし、そもそも日本人が英語とおもっているのは、数多くある英語の一つでしかないアメリカ語なんですけどね。(せめてこのことに気が付いただけでもアイルランド英語とイギリス語に取り込んだ収穫か?)。外国人の頭で喋っているときは通じますが、なぜ日本人の自分がそのことを喋ろうとして喋れないのかという距離のことは通じませんね。実はこの一番大切なところが通じない

集団的自衛権

憲法論を深める前に、これから起き得る個別的な戦争に反対すること。自民党の安倍に対してなんの目的で自衛隊を地球の裏まで派遣するのかを徹底的に説明させること。そのあとに憲法論が来る

『芸術作品の根源』

真理を作品の-内へと-据えることは、不気味で途方もないものを衝撃的に打ち開き、同時に安心できるものと、人々が安心できると見なすものとを、衝撃的に打ち倒す。



70字の隙間

近代国家統一の歴史が浅い国では人々の間に不均衡な隙間がみえる。隙間こそが他国へのシンパシーを保つ。近隣諸国へ共感を一切持たぬ人間を支持し始めた人々は自ら隙間を塞いでいる


社会党の不在がもっている意味は大きい。市民からの貧困の定義が市民運動に連関しまた社会政策の見直しに連関していない。市民運動と連動した社会政策の絶えざる見直しはヨーロッパでうまくできている。

それほどイタリア人同士で固まらないようにみえる。それはなにか、近代国家統一の歴史が浅いことと関係しているのかも。国家に囲まれない人々のそんな隙間感っていいなあ

白いなとおもうのは、イタリア人はイタリア人同士でかたまらないことなのですね。そういう隙間感っていいなあと思ってしまいます。イタリアとドイツは近代国家統一の歴史が浅い国だからこそそんな隙間がたくさんあるのかもしれず、ドイツのそういうところもみておきたいとおもうのですが、食べ物が不味いに決まっているとおもうと行く気がしないんです(笑)。

なぜ貧困状態にある人は、連帯保証人を探すのに苦労するのか。この問いは「貧困」を単に経済的な「貧乏」と同一視している限り、答えられない。 湯浅誠「反貧困」


70字の貧困問題

憲法25条違反は貧困を認めたがらない政府だけにあらず。完全雇用しかみえないネオリベ経済学と個別的貧困問題が無いマルクス主義唯物史観の間にそれ程違いがあるのか?



ヨーロッパに行ったことで、こういうことがはっきりとみえてきました。それなりにひとつの経験といえるものと思いますが、しかし日本に戻ったときその経験を直に語れるかというと、そうではありません。戻ってきた内部で、みえなくなってきたということが起きます。焦ったり諦めたり。ダマシダマシ自分を励ましたりのなかで言語化していく作業が必要。問題は、東アジアの漢字文化圏をいかに語るか?

東アジアの漢字文化圏

構造的な諸理由から、純粋に表音的な文字(平仮名)が不可能であり、またそれが非=表音的なもの(漢字)と手を切ったことは決してありません。そして歴史概念は文字の表音化の一定の時期に現れたのであり、それを前提としているのです。例えば、'漢字伝来以前に固有なやまと言葉が古代日本に存在した"の如き政治的論争は歴史概念

What is the kanji cultural sphere in East Asia ?

For structural or essential reasons, a purly phonetic writing is impossible and has never finished reducing the nonphonetic. The phoneticization has a history, no script is absolutely exempt from it, and the enigma of this evolution does not allow itself to be dominated by the concept of history. The latter (the concept of history) appears at a determinated moment in the phoneticization of script and it presupposes phoneticization in an essential way. For example, the political issue in the concept of history; 'there existed words of purely Japanese origin before the introduction of Chinese character to ancient Japan'


古代日本に純粋な音だけの日本語があったという説がある。他方、非表音の文字(漢字)から離れては純粋な表音の声(やまとことば)があるのではないのだから、古代の純粋な日本語が存在するという考え方を否定する説がある。後者の説をとりたい。大まかに考え方を示しておくと、古代日本語の文法と古代朝鮮語の文法とが非常に類似していたという事実から何を考えるかである。興味深いことに、この事実は、論理を徹底すると、古代日本語が古代朝鮮語の方言でしかなかった、つまり古代日本は古代朝鮮の一地方であった可能性を否定するものではない。それを仮定すると、「日本書紀」「古事記」でいわれる日本の自立をいう歴史概念がどんな条件で成立したかが明らかになる。ここで二千五百年の「論語」のセルフバイオグラフィーに沿って語ろう。朝鮮半島の知識人は中国の知識人から読み学んだが、恐らくこれと同じやり方で、朝鮮の一地方であった日本列島の知識人は、朝鮮半島から来た知識人から読み学んだと考えられる。大切なポイントは、デリダと子安氏がいうように、歴史概念は、漢字の表音化から生じたということだ。「論語」の漢字を読んだ古代朝鮮語がどこに消えたか?という最初の問いは、当時の(今日風にいえば)コスモポリタンの知識人からみると、非常に奇妙な問いであったかもしれない。それを問うたナショナルな知識人は古代朝鮮語しかもっていなかったとしたら。しかしこの奇妙さが奇妙でなくなるのはただ、古代朝鮮語の消失を言う知識人が日本の自立の観念に依拠するかぎりにおいてである。原初的テクストが次第に読めてくると、言い換えると声の内部で内面化されてくると、今度はその内面世界から、「失われた」古代日本に純粋な音だけの日本語があったという異常な歴史概念が発明されてくる。この古代が発明した歴史概念は、それを必要とした日本列島の知識人に合理的に受容されていった。これは憶測だが、大陸において拡大していく戦争に巻き込まれない方法だったかもしれない。軍隊の派遣を周辺事態に限ったとかね?


Hate speech is, outside the law, speech that attacks a person or group on the basis of attributes such as gender, ethnic origin, religion, race, disability, or sexual orientation.


呼び捨てで御免(爆)。政府の安倍は何百万人の署名を受け取らない、何万人の集会でも、3・11以降市民の自発的な蜂起を恐れ始めたかのような全国新聞はこれを一面に伝えようとはしないなかで、署名をどれだけあつめたか、(抗議の広告を含めて)新聞にどれだけアピールできるか?といった従来の戦術のままではたしてやっていけるのかという現実を考えないわけにはいかず、現実の中の自分の力の限界をかんじたとき、ここから本当の意味で、憲法の理念をどう現実化していくのかという問題意識が出てくるのだろうとおもうのです。(実現を問題とする演劇と共有する点かもしれませんが。)さて歴史を証言した憲法前文の名宛人は全人類なのに、この発言者のように、日本人に限ってしまうような態度は、最初から排他的。憲法前文は日本人力士だけでなく外国人力士も共有する理想ですからね。それにもかかわらず、この理想を賭け事の対象のように勝ち負けに還元してしまうのは、歴史なんて、過去に起こってしまったことなんか忘れるだけさ、考えるのはもうやーめた、というようなウルトラ楽観主義と言わざるをえません。無感覚に、安倍の「お友達」と同様に、安倍を代弁しているだけです。それにしても、安倍は、居酒屋ならともかく、公の場でこんなことをいったのかと恥ずかしい。曖昧な英語で意を尽くせないのですが、安倍曰く、History is harsh, what is done cannot be undone (直訳は「歴史は厳しい、起こってしまったことは元に戻せません」) これほど、戦争を繰り返さないと誓った憲法前文を嘲笑ったシニカルな言葉はほかにないでしょう。しかし、改憲派は、なんのために、憲法前文を消去しようとするのか、その目的はなにか?説明をもとめます


中沢新一への疑問

そもそも「資本論」のマルクスが行った19世紀後半の資本の分析をもって、21世紀の資本をそれほど的確に分析できるのかという疑問が起きますが、ただし「賃労働と資本」ではマルクスは現象学的に、現在のピケティが行ったように、「資本」を非常に皮相的にとらえた視点が大切だったのではないかとおもいます。そうして分析の対象としてとらえた「資本」から直接に、「労働」のあり方がみえてきたのであり、ほかならないこの「労働」はもっぱら資本家のために富を、そして自らのために貧困を生産していくことがみえてきた、このことをマルクスは言わなければならなかったのだと思います。さて中沢によると、「内部情報」のピケティに欠けているのは「唯物史観」ですが、これにたいしては、マルクスはほんとうにそれほど唯物論+世界史だったのかと問い返したいです。例えば、「資本論」のマルクスとエンゲルスは、相対的剰余価値概念を検証するためにアイルランドの地代について研究していました。そこで当時ダブリン城にあった英国総統府の資料をフルにつかって論証している実証性は、やはり「内部情報の処理」というものでした。ピケティの場合は唯物史観の外部で分析が行われているとしても、長期的傾向としての利子率ゼロの仮説に反駁するときの批判的姿勢は、マルクスのものと全然別物と考える必要があるのか?肝心なのは、行き詰ったようにみえるどんな思想と認識哲学すら容赦なく批判していく弁証法という批判精神のあり方だったのではないでしょうか。ここで中沢のマルクスに欠いているのは、21世紀の貧困問題と、自身の天皇制構造論が1%に属しているのではないかと疑う弁証法の批評精神。しかし (多分ピケテイを読んではいない)中沢にとっては、本当はこういう方法論の事柄はどうでもよい感じがします。ただかれの関心の根底は、ピケテイの本が「資本論」によって正当化されているのかということ。それだけが問題にされているのではないかとおもいましたが、よそで柄谷行人と佐藤優がやっているのと同じ、そこがヤバイのです。中沢ほどの思考の柔軟性をもった知識人も例外ではないということなのですが、批判されることがなかった無傷のままの山口と網野の仕事に負う天皇制構造論が、絶望的にここにきたのかと。つまり日本文化の固有性でいわれる固有性と同じ意味で、「資本論」を読む自己のこだわり、言い換えれば特異点へのこだわりにはまる日本知識人がもとめる固有性のこと。緑の民衆史の思想家にみえてくる、顕著な日本知識人の「資本論」への内面化は、中心と周縁の論理を展開した「帝国の構造」の土着化かもしれませんがね。


「「19世紀の資本」であるマルクスの本と「21世紀の資本」であるピケティの本の一番大きい違いはどこかというと、マルクスには「唯物史観」というものがあることです。マルクスは我々が生きている資本主義の世界は歴史的に形成された一過性のものであるという認識にたって、それはどうやって形成され、どういう必然性をもって変わっていくかというのを描いた。それが「唯物史観」です。だけどピケティの本はマルクスの「唯物史観」にあたるものがない。だから、新古典派経済学と同じように市場経済を出発点にしていく。しかし、それはマルクスからみると市場経済は歴史的形成物だから、いつまでも生き延びるはずはないし、必ず死を迎えていくという認識がある。吉本隆明も同じで、彼は「資本」の問題も情報の問題も「自然史過程」という考えでとらえようとしていました。いま、僕らが欠いているのは、グローバル資本がどのように形成され、世界を支配し、解体していくかというのを考える知性です。「自然史過程」としてのグローバル資本という問題をとらえる努力を怠っていて、ピケティのように資本主義の内部情報の処理だけでやっていく、近代主義的とも言える知性形態がもてはやされる」(中沢新一)



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2015年5月(1) 言葉と表現と射影のブログ/BIGLOBEウェブリブログ
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