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<<   作成日時 : 2015/08/01 02:03   >>

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「大噴火が起きても原発は安全」

火山問題も放置し、避難計画も不十分なまま、三十年を超えた老朽の川内原発1号機を再稼働させるようでは、福島の経験が生かされているとはいえません。ふたたび、<国家が齎す災難は民が責任を負え>ということでは、この今日から二度目の原発災害の日付がもう始まっていると言わざるを得ません


子安氏のツィート

「かつて冷戦時の70年代にベルリンにも、ドレスデンにも、ライプツィヒにも私は行ったことがある。その時代、東への来訪者は「友好国」と「資本主義国」とに区別された。交通機関の窓口をはじめを公的窓口はこの二つの区別された窓口をもっていた。「資本主義国」国民は東にとって期待されない訪問者であった。「友好国」国民が内部的連帯者だとすれば、東ベルリン、東ドイツにとって外部からの来訪者とはもともと敵対的な、期待されない「資本主義国」からの来訪者であった。
 ベルリンの壁の構築が始まったのは1961年8月13日であった。それ以来西からの来訪者を東は根本的に拒絶してきたのである。私は1971年、恐怖感に戦きながらチェックポイント・チャーリーを通過して東ベルリンに数時間の滞在を許されて入った経験がある。1989年11月9日の壁の崩壊にいたるまで30年間、東ベルリンは外部的来訪を遮断し、訪問者を拒絶してきたのである。
ベルリンは統合された。それから四半世紀が経過する今、30度をこす異常な高温の夏日が続くベルリンのウンター・デン・リンデン通りは観光客で埋まっている。だが彼らはここの「歓待される来訪者」であるのだろうか。デリダは「寛容」による他者の歓待を「条件つきの歓待」として、それは「私たちのルール、私たちの生活様式、さらには私たちの言語、私たちの文化、私たちの政治システム等々に他者が従うという条件においてのみ」提供される歓待にすぎないといっている(『テロルの時代と哲学の使命』)。たしかにドイツのこの統合とは、西側による、西の社会・文化システムを前提にした「寛容的包容」あるいは「条件つき歓待」というべき統合であった。
ドイツは一つになったといわれる。だがこの統一とは寛容する側と寛容される側との、歓待する側と歓待される側との統一である。これは観容者と被観容者との、歓待者と被歓待者との容易くは同一化されない統一である。経済的にいえばグローバル資本主義の格差的構造における統合である。EU国家間の格差的構造をドイツは自分の中にもっているのである。
私はベルリンの旧東側の復興した街々を歩きながら、われわれはここでは歓待されていないと感じざるをえなかった。それはそうだろう。西側の「条件付きの歓待」という統合を受け入れた者が易々として私のような西からの来訪者を歓待するわけはない。ウイーンやミュンヘンのカフェーにおけるような歓待をここ東ベルリンで期待するのは、西の来訪者の傲慢だというべきだろう。」


昨日は東劇のオペラ中継映画で、
ドニゼッティDonizetti の「愛の妙薬」(1832) を観た


「社会を意識しない/社会と繋がらない芸術は自閉的だ」でいわれる社会性が意味をもつのは、ただこの言説が芸術に依拠しているかぎりだけの場合ですね。「独りよがりな作品は閉塞的だ」をいう人にたいしては、どこからどこまで社会性の対象なのかどこからどこまで芸術の対象なのかどうやって指示できるつもりになっているのだろうかといつも疑問におもってしまいます。

「ベルリンの壁の構築が始まったのは1961年8月13日であった。それ以来西からの来訪者を東は根本的に拒絶してきたのである。私は1971年、恐怖感に戦きながらチェックポイント・チャーリーを通過して東ベルリンに数時間の滞在を許されて入った経験がある。1989年11月9日の壁の崩壊にいたるまで30年間、東ベルリンは外部的来訪を遮断し、訪問者を拒絶してきたのである。
ベルリンは統合された。それから四半世紀が経過する今、30度をこす異常な高温の夏日が続くベルリンのウンター・デン・リンデン通りは観光客で埋まっている。だが彼らはここの「歓待される来訪者」であるのだろうか。デリダは「寛容」による他者の歓待を「条件つきの歓待」として、それは「私たちのルール、私たちの生活様式、さらには私たちの言語、私たちの文化、私たちの政治システム等々に他者が従うという条件においてのみ」提供される歓待にすぎないといっている(『テロルの時代と哲学の使命』)。たしかにドイツのこの統合とは、西側による、西の社会・文化システムを前提にした「寛容的包容」あるいは「条件つき歓待」というべき統合であった。」(子安氏)


孔子、夏の二ラレバ炒めへ行く

ホホ〜、好物だった二ラレバ炒め定食を猫さんと二十年ぶりに。昔とちがって店内に飾ってある眼の前に広がる「論語」の壁紙をシカトできず、レバ肉を一つ箸ではさんでは「この文字は「学」、その意味は...」といい、もう一つので「あれは「聖」、その意味は」とぶつぶつ、食べすすめたニャリよー


「安保法案反対デモ参加者は採用しない」という権威主義

戦争法案に反対する人々の意見に反対するのは自由、しかしその反対の表明を人権を踏みにじるやり方で行うことがゆるされないのは当然ではないですか。だから、憲法は私人間の関係にも適用され得るという考え方からすると、堀江貴文が得意顔で、「安保法案反対デモ参加者を採用しない」と公に言うのは、憲法の言論の自由を侵害しているという可能性があります。すくなくとも、堀江は言論の権利をみとめる社会に対して異常なことをやっているのだということ、この点についてこの男はどんな反論があるでしょうか?この種の脅迫の効果で具体的に学生が不採用になったというような事件が起きてくるのかもしれませんが、それにしても、語る民主主義に背を向けるそんな野蛮な「会社」たちに一体だれが行こうとおもいますか?またこれからだれがこの権威主義に投資しようと考えるのでありましょうか。


「安保法案反対デモ参加者は採用しない」

戦争法案に反対する人々の意見に反対するのは結構、しかしその反対の表明を人権を踏みにじるやり方で行うことがゆるされないのは当然ではないですか。だから、憲法は私人間の関係にも適用され得るという考え方からすると、たとえば堀江貴文が得意になって、「安保法案反対デモ参加者の不採用を明言」と公に言うのは、憲法の言論の自由を侵害しているという可能性があります。すくなくとも、最大限に言論の権利をみとめる社会に対して異常なことをやっているのだということ、この点について堀江はよく考える必要があるでしょう。この種の脅迫の効果で具体的に学生が不採用になったというような事件が起きてくるのかもしれませんが、それにしても、語る民主主義に背を向けるそんな野蛮な「会社」たちにいったいだれが行こうとおもうのか?またこれからだれが投資しようと考えるのでありましょうか。


La psychoanalyse, c'est comme la revolution russe, on ne sait pas quand ça commence à mal touner. Il faut toujors remonter plus haut. - D&G

精神分析はロシア革命のようなものである。私たちは、いつそれが悪化し始めたかわからない。そこで、たえず、先へ先へと遡るしかない。



パブリックでもなくプライベートでもないような、覆う屋根のないところで三か月間、座り込んだときは公害企業にたいする抗議活動ではありましたが、「第三領域」のことをかんがえない日はなかったと思い出しています。撮影するときはどうしてそんなにローアングルなんですか?とよくきかれるのですが、あのときの「第三領域」の場になんとか繋がりたいという隠れた欲望があります(笑) 。ホ−ムレスというのは、アイルランドの批評では積極的な意味をもった大切なコンセプト。たとえば、意味の脱構築というべきところを、かれらは意味のホームレスという言い方をするのですね


アジアへの共感

全体主義を批判したカール・ポッパー Karl Popperの本というと、亡命してきたユダヤ知識人の影響力が残っている、ニューヨークの大学近くの本屋のcriticismの本棚の真ん中に置かれているような本。彼は英国へ行ったと記憶している。ロンドンで読むときは「こんなのあたりまえじゃないか」という感じで飽きてどこかに放りやる本だったが、東京で読むと目から鱗みたいに一行一行に重みが感じ取られのは、やはりそういうことなんだと今更気がつくのである。とはいえ、このポッパーの論を引いてマルクス主義批判を展開する人には苦手と反発を感じてしまうそんな日本人は少なくなかったと思う。その理由に、たとえば竹内好の文から読み取れるような、アジアへの共感があるからだろう。それは、西欧(日本帝国主義を含む)からの収奪に抵抗したと物語られてきた中国共産党への共感でもある。文革の犠牲者の実態が報じられても中共党の悪口をいうことはなかったのであるー天安門前広場の民主化運動の学生に対する弾圧が起きるまで。それと比べると、自分などはアジアへの共感がそれほどあるかと考えてみるが、このことの判断は他者が私をどこに帰属するかとみなすかによることで、東ヨーロッパのスラブ系とかイスラエルから来たユダヤ人たちは自然に私の存在に意識が行くのは、ほかならない、私がアジア的存在だったからだろう。(あまりに言われなくなったことだが、イスラエルの人々は半分がヨーロッパで半分がアジアなのだ。) さて歴史修正主義者の安倍晋三などはアジアへの共感を全く持たない人という感じがする。彼らは徹底して国家主義者なのだ。とうとうそんな人が出てきてしまった事実に何とも形容できぬ隔たりを感じるし、そういう人物に対する共感が広まっていた事実に絶望していたというのがこの一年間であった。この先世の中がどうなっていくのかが全く読めなくなった。思想、出来事、人々の存在。一日一日の政治的な意味が非常に大事になってきたことだけはたしかだ。


' We ourselves and our ordinary language are, on the whole, emotional rather than rational ; but we can try to become a little more rational, and we can train ourselves to use our language as an instrument not of self-expression (as our romatic educations would say ) but of rational communication. History itself - I mean the history of power politics...has no end nor meaning, but we can decide to give it both. We can make it our fight for the open society and against its enemy ( who, when in a corner, always protest their humanitarian sentiments, in accordance with Pareto's advice)'


Inter arma silent Mūsae.

武器の狭間にてはミューズは歌わず
(=芸術には戦時には無力)


<広島原爆の日>は、同時に、<韓国・朝鮮原爆の日>でもある。韓国は世界で2番目の原爆被害国だ。各種研究によると、1945年8月に広島と長崎で朝鮮人7万人余りが被爆し、4万人余りが命を失ったと推定される。


もしデリダが生きていたらギリシャ問題についてどう語ったか。デリダはG20にたいする抗議活動にかかわっていたので彼の立場は明らかだろう。ところで昔読んだガーデイアン紙のローティRortyの回想記事によれば、ローティはデリダの考えを受け入れていたアメリカの思想家と紹介されていた。が、デリダほどの多様性としての差異をみとめていたかどうか?私の読み間違えでなければ、ローティはcommon groundという基底から考えているようにみえるところがどうもね。最近のインタビュー記事を読んだ。ハーバーマスはギリシャに同情的だが、それよりもドイツの非合理な国家主義のエゴを非難している。だがEUという国家を超える通約的な合理主義の枠組みとそこでの共通通貨の意義は疑われない。ローティはこのハーバーマスに近いという印象がある。他方、デリダにとっては、信頼できる開かれたテクストは、帝国化していくEUの方向に存在しない。それは、白紙の本に一行一行と民主主義を書く(=生きる)運動の方向から現れてくるのであろう。新たに起きてきたギリシャ問題 (と同時に、ドイツ問題) を契機に、デリダとハーバーマスとの差異について考えるようになった。


...this difference, which, we have seen, cannot reside in the world but only in language, in the transcendental disquietude of language. Indeed, far from only living in language, this war is also the origin and residence of language. Language preserves the difference that preserves language.
- Jacques Derrida ' Speech and phenomena'


...this difference, which, we have seen, cannot reside in the world but only in language, in the transcendental disquietude of language. Indeed, far from only living in language, this war is also the origin and residence of language. Language preserves the difference that preserves language.

- Jacques Derrida ' Speech and phenomena'

' Incommensurability entails irreducibility but not incompatibility, so the failure to 'reduce' these various vocabularies (e.g., all those vocabularies within which we attribute beliefs and desires, virtues and beauty) to that of 'bottom-level' atoms-and-the-void science casts no doubt upon their cognitive status or upon the metaphysical status of their objects. (This goes as much for the aesthetic worth of poems as for the beliefs of persons, as much for virtues as for volitions.) '




二人のユダヤ人というtitleのレンブラントの絵。レンブラントはいまでいうドキュメント映像作家のように当時のユダヤ人の生活の中に入っていったのですね。暫く見ているとなにかデリダの言葉も理解できてくるような・・・

「差違は世界に住みつくことができず、その超越論的な不安のうちに、ただ言語にだけ住みつくことができるものなのだ。実をいえば、差違は、言語に住みつくだけではなくて、それどころか、それは言語の根源、言語の住まいなのである。言語を守る差違を言語は守っているのだ。」(デリダ『声と現象』)

ちなみに、「差違」を「時間」、「言語」を「映画」とおきかえてみると、ゴダールの映画のナレーションみたいになるよ**************


嗚呼、姑息にも、安倍がこの男に代弁させているんだろうけどね、どうしてもどーしても、かくも危険な原発再稼働を行うという理由が結局、ここに来るの?やはり国内で行う核兵器開発のため?こういう発言をきくと、やはりそうだったかと疑われても当然じゃないかな。いかにも全体主義的な、『この道しかない』『するしかない』という思考停止がホント嫌だ。
ー> 武藤貴也(衆議院議員) 『わが国は核武装するしかない』

「国民をなめんなよ」

自衛隊しか職がなくなるグローバル資本主義にたいして抵抗する主体はだれなのか?抵抗する主体は安倍の資本主義をコントロールする民主主義だ、と、われわれは言っている。だが、ギリシャの国民投票を無にしてしまうほどの債権者たちの資本主義の圧倒的な力をみるとき、はたして民主主義によって救われるのかと疑っている。この疑いはどんどん大きくなる。他方で二十代・三十代に、「失われた10年を取り返す」という安倍内閣にたいする支持率がほかの世代と比べて顕著に高いのは、まだ安倍に対する希望があるからだろう。彼らは自分たちが支持しているアベノミックスの経済政策と反対している戦争体制とが一体的に連続していることを考える余裕がない。ほんとうに始まるのは、「国民をなめんなよ」という「国民」などがとっくに消滅しまった、絶望しきっているときだろうー絶対的に民主主義に委ねるしかもうやっていけなくなったのだというまさにどん底のどん底から



LE RHIZOME. Un des caractéres essentiels du rêve de multiplicité est que chaque élément ne cesse pas de varier et de modifier sa distance par rapport aux autres.

...c'est un je sens. Je sens que je deviens loup, loup parmi les loups, en bordure des loups, et le cri d'angoisse, le seul que Freud entende; aidez-moi à ne pas devenir loup ( ou au contraire à ne pas échouer dans ce devenir), Il ne s'agit pas de representation; pas du tout croire qu'on est un loup, se représenter comme loup. Le loup, les loups, ce sont des intensités, des vitesse, des temperatures, des distances variables indécomposables. C'est un fourmillement, un lupullement.

Lignes de fuite ou d déterritorialisation, devenir-loup, devenir-inhumain des intensités déterritorialisées, c'est cela, la multiplicité. Devenir loup, devenir trou, c'est se déterritorialiser, d'aprés des lignes distinctes enchévêtrées. Un trou n'est pas plus négatif qu'un loup. La castration, le manqué, le substitute, quelle histoire racontée par un idiot trop conscient, et qui ne comprend rien multiplicités comme formations de l'inconscient.
- Mille Plateaux


EVERY NUMBER IS A CORRECT PROGRAM, THOUGH PERHAPS FOR THE WRONG TASK

NORMA H. COHEN

AND IT IS FAIR TO THANK NOT ONLY THOSE WHOSE BELIEFS WE SHARE, BUT ALSO THOSE WHOSE BELIEFS WERE MORE SUPERFICIAL; FOR THEY TOO CONTRIBUTED SOMETHING - FOR THEY PREPARED THINGS FOR US.
- ARISTOTLE


寸劇; 安倍は誰だ?

野党議員「中学2年生女子が、「安倍総理は、話を聞かないクラスの男子と同じレベルだ!」と言っています。議長、総理の猛省を促したいと思いますが、この言葉を聞いて、いかがですか、総理?お答えください」(院内失笑)
参院議院議長「安倍君・・・」
安倍「そういわれましてもわたくしは7歳の男の子ですから」(院内騒然)


Pour moi, j'y vis plutôt une sorte de douceur quasi physique, de détachement des réalités de la vie, si frappants chez ceux que la mort a déjà fait entrer dans son ombre. - Proust ; Le Temps Retrouvé


Le point sur l'i de Gilberte était monté au-dessus faire point de suspension. Quant à son G, il vait l'air d'un A gothique.

ー Albertine disparue, Proust 'À la recherche du temps perdu '

プルーストは小説の中で、愛人アルバティーンAlbertineの綴り字を利用して遊んだ。いわゆる言葉遊び。ここでは、iとG、文字について思いをめぐらせている。ところで中世職人が活躍したゴシックの時代では、肉体とか魂の永遠とは別に、死すべきもの(人間)の手による不死のもの(神の如き永遠に朽ち果てない芸術)が制作された。(彼が宿泊したホテルがあるカブールに行くとゴシックの建物を見物できる。) 感化された、プルーストによるゴシック芸術の再構成とは、位相的に、自己自身に還っていく曲線に表現される、包摂から逃れていく自己差異化の遊びである。しかし‘アルバティーンの消失'という言葉から読者に示唆されるように、プルーストにとって、死すべきものは不死のものを制作することは不可能である。近代においては芸術のどんな記号も消費の回路の中に使用されしまう結果、朽ち果てる運命を避けることができないから。作家は反ロマン主義的。iとGをまえに、フロイトの筆跡を分析するように唯物論的でさえある・・・

言わなくてもいいのだがやはり言わなくてはならないとおもうような厄介な話を書いておくと、ナウシカ挿話のロケーションとなっている、(現存している)「海の星教会」の前にたつと、入り江がU字と似ていることがわかる。このUの文字は、Ulyseesの「U」を意味していたとしたら、(入江の) U字型の底辺に位置していたブルームは何であったか?U字が子宮の形をしているのでブルームが精子だったとする説がある。ポストコロニアル的な語り口は、それは豊穣の徴である。だがオール・アイルランドを敵となったジョイスならば、これ限りの話であるはずがない。<汚れ無きもの>(聖歌隊の少女たち)が<汚れたもの>(ユダヤ系アイリッシュのブルーム)によって汚れていくというような、アイルランドのナショナリズムが依る神話の構造とパターンを嘲笑ったのであろう。抑圧された<汚れなきもの>、民族の悲哀の運命という観念はそもそも、イギリス上流階級の価値観(反ブルジョア的)の根底にあったものだったからである。ナショナリズムが、自身の「敵」の言説からいかに依存しているかという、いかにも痛烈なアイロニーが「ユリシーズ」に容赦なく記されている。真実を言う危険な作家は亡命せざるを得ない



寸劇; 安倍は誰だ?

野党議員「中学2年生女子が、「安倍総理は、話を聞かないクラスの男子と同じレベルだ!」と言っています。議長、総理の猛省を促したいと思いますが、この言葉を聞いて、いかがですか、総理?お答えください」(院内失笑)
参院議院議長「安倍君・・・」
安倍「そういわれましてもわたくしは7歳の男の子ですから」(院内騒然)


すごいことを言ってるんだけどな。この全体主義的状況を終わらせるかどうかはHANNAH ARENDTを再読する余裕があるかにかかっているとおもう

Thought and cognition are not the same. Thought , the source of art works, is manifest without transformation or transfiguration in all great philosophy, whereas the chief manifestation of the the cognitive processes, by which we acquire and store up knowledge, is the science.Cognition always pursues a difinitive aim, which can be set by pracical considrations as well as by 'idle curiosity'; but once this aim is reached, the cognitive process has come to an end. Thought, on the contrary, has neither an end nor an aim outside itself, and it does not even produce results; not only the utilitarian of philisoph of homo faber but also the men of action and the lovers of results in the sciences have never tired of pointing out how entirely " useless' thought is - as useless, indeed, as the works of art it inspires.
HANNAH ARENDT, THE HUMAN CONDITION (1958)



思考過程は、人間存在の全体に密着して浸透しているので、その始まりと終わりは、人間の生命そのものの始まりと終わりに一致する。(『人間の条件』23)

What are the reserves on which Russian nationalism today can draw? If Orthodox religion is little more than a badge of respectability, an object of fashion rather than fervour, while the high culture honoured in Soviet times has been sidelined by a mass culture of globalized commercial stamp, and the ‘imitation democracy’ of the regime itself is scarcely food for patriotic pride, what remains? Essentially a paradox. Now that it is gone, the empire that once overcast and stunted the nation has become the bedrock of its contemporary identification: the greatness of the past, independent of its origins or its outcomes, offers the readiest common denominator of a collective subjectivity of the present. The memories are selective, as in any nostalgia. But they are not without objective correlates that keep them alive. For if Russia no longer forms the architrave of an empire, nor is it a conventional nation-state, or about to become one. Even amputated, it remains the largest country on earth. Its population is out of scale with that size, dwarfed by the powers with which it compares itself, but still a magnitude more numerous than that of any state in Europe. Colonial conquests continue to be embedded within the country; the culture of one out of every six of its citizens is Muslim; of those whose first language is Russian, one out of six live beyond its borders. In per capita income, it is the richest of the brics; in weaponry, its nuclear arsenal is second only to the United States. Too small to qualify as a Great Power on a level footing with America or China, or in a foreseeable future with India; too big to fit into Europe, or find its place among other denizens of the ‘international community’. To its misfortune, Russia is geopolitically between sizes.



「私を信じてください」

逆に、日本から他国の核施設へのミサイル先制攻撃のとんでもない計画すら検討中かもしれないなどとこの私などはひとりで疑ってしまいます。 常に国家をいう右翼との大きな違いで、他国であれ自国であれ、極右の安倍はそもそも国家が無いので国家がどうなるかについて全く心配がないのかもしれません。その安部は山本太郎の原発の二度目の爆発を心配が全然理解できないのです。差別と殺戮の欲望を満たしてくれる死の本能、タナトスが「私を信じてください」と言うのだから、そのように望んでいる 'みんな' が彼に共感をもち高支持率を与えてきたのでありますけれど。解釈改憲の敗北を繰り返してきた既成の抗議スローガンでは足りないと感じられたところに、新たに「安倍政治を許さない」と語る言葉は、精神分析でいわれる(超自我の) 検閲の禁止が社会的にはたらきはじめたことをかんがえさせる言葉であります。



「かつては」なんていうけどね、鎌倉武士の存在を知らないわけではないでしょうが。鎌倉武士は君主との間に自由な契約を結び、報酬が少ないと別の君主をさがしました。鎌倉の武士たちにとって、命をささげるということほど、武士らしからぬことはなかったのです。自民党の政治家でいわれるステレオタイプの武士道は、絶対服従の主君関係の江戸からです。武士道の究極がいわゆる「殉死」。ただしよく知る必要があります。太平の世の中である元禄時代以降に「殉死」が流行し、幕府が「殉死」を禁止したほどでした。禁止によって「殉死」は、亡君を永遠におもう心みたいな形になりました。実際は死ぬことが許されなかった。幕府の命令に背くことでしたから。こういうのは、「葉隠」に記されています。ちなみに子安氏の指導教官は、和辻が編集した「葉隠」を研究した教授でした(岩波文庫にありますね)。この人物を「最悪」とずっと罵り糾弾してきたわけなんですが(笑)、ヤバいのはこういう東大倫理学の武士道の国民道徳の研究者たちが自民党の大ボスの太鼓持ちをやってきたということですね。ついでに、武藤はこちらの方を言いたいのでしょうが、幕末の「国士」についても言っておくと、国士というのは、ある危機の時代に自分から国を背負っちゃうんです。重過ぎる荷物でしょうね。ただし、「自分から」、とはいっても、本当は吉田松陰みたいのが脅して背負うことになるのですけどね(汗)。ご存知のように、この国士たちは、明治のときは近代的官僚に裏切られ、自由民権運動に行き、そこでさらに裏切られ、結局は大陸の浪人となる目的を失った志士たち。大陸では植民地主義を請け負うゴロツキとなって、朝鮮王族の女性を集団暴行し殺害したりしています(閔妃暗殺)。きょうその成れの果てが安倍。かれの帝国主義の武士道。武藤が知っているのは、昭和十年代の戦争プロパガンダのなかで捏造されたこの国士の武士道だけです。しかし説明する必要もありませんが、近世の武士は民衆とともに近代国家を知りませんから、(後期水戸学派の)ナショナリズムの思想を異常なものと考えていました。たとえば、武士が「誠」についてどう理解していたかは、それが何を意味していたかは、NHK大河ドラマがべったりと依存している昭和十年の帝国主義の国家の尺度からは知りようがありませんね。

«Dans la perspective freudienne, l'homme, c'est le sujet pris et torturé par le langage.»
Jacques Lacan, Le Séminaire (1973), III

明日でも日本のどこかにミサイルが撃ち込まれるという安倍さんの想定にもとづく、安倍さんの言うことが正しいとすると、不安に思うその本人が当然に答える義務のある事柄について敢えて山本さんが問いただしただけなのにね。小学生高学年ならば無理なく追えるほどの自然な質問の流れを、百田さん、いい年したあなたがね、いつまでも理解できないのはどうかしら?



The Obama administration's Trans-Pacific Partnership trade deal is an "assault," on working people intended to further corporate "domination," according to author and activist Noam Chomsky.

“It’s designed to carry forward the neoliberal project to maximize profit and domination, and to set the working people in the world in competition with one another so as to lower wages to increase insecurity,” Chomsky said during an interview with HuffPost Live.


Out of this tension came an astonishing high culture, the creation of the first intelligentsia in history to be aware of itself as such. Russian writers and thinkers, painters and musicians, wrought a national achievement that became the admiration of Europe. But the splendour of that culture could play no integrating role in a society where 80 per cent of the population was still illiterate at the turn of the twentieth century. The nation-state and its citizenship, with common rights and general schooling, were missing, along with the interconnexions of a modern division of labour. In their absence, ideas of Russia acquired an overpitched intensity, as if they could substitute for the normal institutional building-blocks of nationhood. [42] The result was to give a messianic twist to definitions of the nation, drawing on monkish doctrines of the Third Rome, folk memories of Holy Rus and tropes of the Slav soul to proclaim Russia the bearer of a universal mission to redeem a fallen, materialist world with a higher spirit of truth and justice that was in its gift alone. Conceptions of this kind—Dostoevsky a famous exemplar of them—were never common coin in the intelligentsia. But they formed the most distinctive supply in its stock of national values, an ideological hypomania compensating for political frustration under the weight of an autocracy perceived as all too alien. The size of the country entitled it to such dreams.

私が中学生の時、お父さんが家事をしている絵本が初めて出ました。おとーもご飯をつくるというのがあたりまえとおもうのですがね。お母さんだけがつくるのというのは企業の価値観。3年前に、ダンテ新曲の演出家が(防護服をまとって)自ら舞台上で、本物の犬たちに噛みつかれるところを見せて(人間を超えていくということか?)「死」を表現していたのを衝撃をもってみたことがあるのですが、そういう意味で、会社に隷属し深夜に電車で帰ってきて匂い(スメール)を放つハラスメントの<スメハラ>親父は、犬に食われたらいいとおもいます。国会議事堂前に十万匹の犬を放ったらいいでしょう。議事堂の内と外にいるうんこたちとともに私も犬に食われますから、そのあとは国会議事堂を廃止し、不戦を誓った<スメハラ>神社をつくりましょう

弱腰となったかと痛い批判を受けているとはいえ、まだ世界中の左翼知識人が読むといわれる、1970年以来反権威・反権力の言説の前線をになってきた「ニューレフト・レビュー」誌に、浅田彰の自民党政治を批判した切れ味のよい投稿文をロンドンで読んだ。ジジェクが書いた柄谷行人の本の超難解な書評文もこの雑誌で読んだ。また中共党のイデオログである汪輝氏の饒舌な英語で書いた論文も初めて読んだときは、毛沢東の中国の成り立ちというものを宋の時代まで遡って語る、(彼の言葉ではないが)、現在の<帝国>中国の独自な「近代」を正当化していく、彼一流のネオリベ的ポストコロニアリズムのかくも体制現状的立ち位置(天安門事件前の民主化運動を非難している)に、大きな違和感を覚えた。(但し中共党は民衆から毛沢東が復活することを一番怖れているから話は単純ではない。) ポストコロニアリズム論客のアイルランド・エスタブリッシュメントの政治を擁護する復古主義的言説を読むときに覚えるような同じ違和感。しかし厄介なことに、反発しようとすると、物理的に体が痛くなってくる。呪縛?反論をゆるさないほどの体系性をもった知の配置とは常に、こんな風に身体を縛る力をもつのか、わからないが。(中断してしまったが)、これから紹介したい子安氏の論考は汪輝批判をテーマとしたもの。(これを読むと、どちらがどちらを利用しているのか定かではないが、一応汪輝の認識に依る?柄谷が展開する<帝国の構造>の問題の全体がよくみえてくる。) その前に、グローバル資本主義の時代に、<帝国>中国と同様にポストコミュニズムの<帝国>的構成として、プーチンの皇帝的(ツーリズム)一国社会主義として現れてきた、<帝国>ロシアの問題をみておこう。第四帝国という声もでてきたEU<帝国>がギリシャの民主主義に介入する前に既に、それがウクライナの民主主義に介入していたのだ。<帝国>をいかに読むか?これはいかに近代の行き詰った後期資本主義を読むという課題をもっているのだろうか?

5年前の記事
ひとつの真理しかない、したがって、ただひとつなのだから分けることができないような真理しかないという思い込みは案外、根強いものがありますが、それにたいして、別に考えることはできないでしょうか?たとえば、真理はどこを住処にしているのでしょうか?真理は言葉を住処としていることをデリダは強調しています。つまりそうならば、言葉を分けるという状態は、自ずから真理を分けることを意味します。この場合、だれが分けたかなど考える必要がありません。現実に、たくさんの言葉、たくさんの真理が存在していることをみれば十分ではありませんか。もっと抽象的にこのことを示すために、ゴダールのようなラジカルな思想家は、モンタージュというフィルムを切断し繋げる身体的ジェスチャーを発明しました。(切断された)たくさんのフィルム、(そこから多方向に繋げられていく)たくさんの真理、を示したのです。さて、なぜこんな話をしているのかというと、靖国問題を考えるためです。実は中国は日本にそれほど強硬な?要求はしていません。寧ろ妥協していて、靖国神社を廃止することも公式参拝に目をつぶろう、ただA級戦犯を含めた合祀さえやめなさいと言うのです。ところが、これにたいして、日本側は、<魂は分けることができない>などと反論しています。が、このような主張は、上に述べたように、ひとつの真理(=魂の声)しかない、ただひとつなのだから分けることができないような真理しかないという勝手な解釈でしかありません。



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