言葉と表現と射影のブログ

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zoom RSS 8月2015年 (2)

<<   作成日時 : 2015/08/12 03:17   >>

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ホー、みんな、お久しぶりニャ。
残暑お見舞い申し上げます。

それにしてもニャ、絶対平和主義の英語はproactive contribution to peaceニャンだけど、 contributionに力点があるんではないでしょうか。このcontributionは、読み方によっては、とにかく平和に達するためなら、その手段として、相手を圧倒する抑止力に依存するという意。ところが絶対平和(positive peace)の方は、peaceという、つまり平和の語が主役ニャリ。平和を生かす、というニュアンスを読み取れるようにおもいますし、ヨハン・ガルトゥング博士もアメリカの力に依存しては平和を生かすことはできないといっています。それにしてもニャ、なぜNHKは混同してしまうのでしょうか?


「もしよく布施を学するときは、受身捨身、ともにこれ布施なり。治生産業、もとより布施にあらざることなし。はなを風にまかせ、鳥をときにまかするも、布施の功業なるべし。」道元

お布施=贈与


私「包摂の'ネトネトウヨウヨ'ではなく、これからは小田実がいった多様性の' ワイワイウロウロ'の時代ではないでしょうか!」

中島さん「 そう思いますし、そうなっていく最中だと思ってますが、同時にどこにでも同族愛や民族愛を楯にして、排外主義に嵌まる人々はいますね。」

私「そうですね、深くはまる人がいますね。そこまで行かなくてもですね、だれでも経済関係にかかわっている以上、経済って競争し合いますからやはり憎しみ合うポテンシャリティをかかえているんだとおもいます。だからこそ和解するためには政治が意味をもつのだとおもうのです。ちなみに私の父は七〇年代の日中国交回復のときの官僚でしたが、中国にいったとき、とにかくお互いに政治のことは一切タッチせずに、もっぱら両国の間の経済関係を確立することが方針でした。しかし当時の官僚たちは50年たったら全部やり直す必要がでてくるという予測をもっていたようです。つまりいまのことです。まあ官僚なんか全然信用できないことは父をみれば明らかなことですが(爆)、必ずしも経済関係に全部を委ねていれば平和であるとはいえないというポイントだけは一考に値するとおもいます。平和のために政治家同士がきちんと話し合ってくれなければ、それは、普通の人々が国を超えて直に話し合おうというチャンスがきたんだとおもいます。非常に難しいことではありますが、もうそれをやってみるしかないでしょう。」

中島さん「そもそも「単位」で考えたり括ったりすることの不自然さはずっと感じています。やれ誰それが在日だとか、やれなになにはやはり中国人だとか、そんなことをいうのは日本人として恥だ、とか。そういう「単位」でしか考えない人々は、結局個というものを信じていないのですね。ここに宗教性があります。ある宗教団体の人とこんな会話をしたことがありました。「あなたの個としての見解を話してください」「われわれの教えは個では推し量れない智慧なのです」「でもあなたは数多の宗教のなかでコレは真智だと判断して選んだのですよね?」「………」。
そして経済のことは僕はほんとうにわからないのですけど、例えば軍拡が抑止力になるなら、抑止力になるものは戦争を後押しできるとも考えられます。経済が抑止力になるなら経済は戦争を後押しできる、と。なのでおそらく「抑止力」という考え方自体が両刃の剣、間違った前提なのではないかと考えなおす必要がでてくると思うのです。「抑止力」にかわる考え方、そこには先の「単位」をまず外して考えることも必要になってくるでしょうし、威嚇や圧力や制裁となり得るものとしての武力や経済ではない交渉について考えていく必要もでてくるのでしょう。それがなにかは難しいのですが、時々僕は夢想することがあります。それこそ本多さんがおっしゃるような個人レベルの話なのですが、例えばさまざまな国に親戚やら伴侶やらがいたらどうだろう、と。政治家だけでもよいですし、養子に出す関係でもいいのです。安倍晋三の子供たちが一人ずつ、韓国や中国に里親をもっていたら、ずいぶん「単位」もゆるむのではないかしらむ、と。」

私「 たしかに、「抑止力」という信念は相当に曲者ですね。「単位」をゆるませるものとして、興味深い具体例をあげておっしゃていただいたように、武力や経済ではない交渉のあり方の一部としての家族の多様な成り立ちが可能だとおもいます。大学時代に私は台湾人の家庭教師をしたことがあるのですが、名づけの親との関係もすごく重要だと知りました。アイルランドは、最近は違うのですが、1970年代を回想する演劇をみると、失業していようといまいと協同体の誰の子も自分の子として育てるという意識があったようです。この意識は市民権運動のデモの連帯に役立ったのですね。 デリダは国際結婚のことを言っていたと記憶してますが、国際結婚がこの国で一割になったら現在と違ってくるでしょうね。(一割でなくとも、相当な数があるとおもいます) 日本においてどれくらい国際結婚があるのか、実はこれは国が発表することをもっとも恐れる情報かもしれません。緊急に、平和のアジアへの大きなシンパシーをもっていただくために、ぜひ、明日でも、安倍晋三に養子になっていただきましょう(笑)」



Put simply, deconstructivist archtecture disassembled and then recnstructed the elements of architecture such as columns, walls, roofs, stairs, windows and doors, so that new architectural techiques and structural freedoms could be developed. The "Deconstructivist Architecture' exhibition held at the Museum of Modern Art in 1988 helped crystallise its idea. The exhibition highlighted the link between decnstructivism and the work of the French philosopher Jacques Deririda by presenting the projects and concepts of American and European architects such as Frank O Gehry, Rem Koolhaas, Peter Eisenman, Zaha Hadid, Bernard Tschumi and Daniel Libeskind.

- from 'future city, experiment and utopian in architecture 1956-2006 ',


「生意気な女性議員」

安倍がヤジを飛ばすのは、'生意気な'女性議員?しかしこの"生意気'という言い方が既に安倍の視点からの評価ではないでしょうか。(そもそも、質問する「生意気な男性議員」という言い方があるのでしょうか、不公平じゃないですか?) ここで書きたいことは、このような "生意気'という言い方では、蓮舫さんと辻本清美さんが明らかにしたことが隠蔽されてしまう危険性はないのかという点です。安倍の答弁する言葉が意味をもつのはそれが国会の立法性に依る限りなのにしかし終始この男は立法性を無視しています。安倍自身はこのことを自覚できないほど、強引に急いで一束にして通そうとしている。その結果、十本の安保法案を十分に理解していないという点を、蓮舫さんは明らかにしたのです。このことは、辻本清美さんが明らかにしたことと直接の関係があります。辻本さんは、「早く質問しろ」と三権分立を理解していない解釈改憲の首相の問題を明らかにしていました。


夏休みの作文

夏休みは明後日で終わりというから、この三日間は親は大変でしょうに。まあ、算数の宿題ならば、子供同士で、父親がやった出来・不出来を料理の品評会のように比較し合うという気楽さがあります。「XX君のお父さんは理系だから頭がいいよな。文系のうちのパパとちがってさ」とか。それと比べて、作文は悲壮感があります。提出してきた宿題の感想文を読みあげさせると、とびとびでしか読まない子供がかならずいます。全部を読まないのは、どうもお母さんが介入した部分を読もうとしないのですね。とくにラストのまとめの部分を強情に黙秘する。(「お母さんの言うことをきくことをぼくの目標にしよう」とか唐突にそういう不自然なことがかいてある。) 他の道が無いとばかり自分たちの存在を規定してくる声を遠ざけるというギリギリの抵抗を行うのですけれど、この覆いかぶさるものを無理に読ませると拷問みたいになります。フレッシュな新学期なのに、作文のために、読むほうもこれを聞く方も、何百万人のママさんもみんな、グッタリしていることでしょう



「人文知は、趣味として生き残ればよい」

東浩紀さんは、実学か教養かという国家の二分法をいかに脱構築していくのかをいうのかとおもったらそうではありません。かれは実学と教養の間の中間を占める無限の系列についてなにかをいうわけでもありません。学問の批判精神の独立性は時代遅れなの?それについて語ることはタブーとでもおもっているのかしら?東さんは「趣味」をいうのは結構、だれも文句はいわないし、「趣味として生き残れ」という健全な小市民の内面化にはまりこんでくれたら、文部省は大歓迎でしょうけど。東さんはどこから来た思想家なのでしょうか?まさか、はじめから大日本帝国憲法から来たのではありませんね。ジョイスのデリダは差違と多様性に「Hello!」と言いました。東さんもこのデリダの差違と多様性の哲学から出発したはずなのに、このデリダのようには、差違と多様性に「Hello!」と言うことはありません。それどころか、「仕方がない」と、まずは文部省の大前提、差違と多様性を消し去る「狡知」を無条件に受け入れる。公に向かって公的な議論として差違と多様性を保てとはいわない。具体的には国立大学の人文系にも色々あるとは発言しない。国のやり方に行き過ぎがあっても結局は自分の知のビジネスモデルでカバーできるようなことを楽観的に自己宣伝。しかし国立大学だけの問題ではなく私立大学を含めた大学全部に及んでくるだろう国の市場原理の適用に対しては何もいわないことはどうなのでしょうか?自発的に学問した江戸時代のことをいうのだったら、中国にはない、またヨーロッパにはない、第三項的な「学者」(「儒者」)という言葉の意味について言及すべきでしたがね。東さんの「人文知は趣味として生き残ればいい」は、思想が含まれていない、言論なき包摂へかえっていく「狡知」人の言葉でしかありません。こういうネオリベの知識人(「狡知」人)が、勝手に解釈し都合よく歪曲した江戸時代の似非‘レッセフェール'を言い出し始めたことに警戒しております



魂は消滅するか、あるいは英久に存続していくか、それとも永久に存続できなくともいかに消滅していくかというのは、どの宗教が取り組む問題ですが、しかしおそらくはこの魂とこの魂とは分離できないなどとは靖国が教義の外で勝手に決めつけたことだとおもわれます。分祀できないとは彼らが中共党の要求にたいして反撥してかってにいっていることでしょう。かんがえなければならないのは、この場合、かれらは戦前の靖国言説を棄てたのではなく、ただ隠して公に主張しないと疑われても仕方ないことです。普通の神社としてスタートするならば、「分祀」は最低限度のことでしょう。しかしそうしないのは、やはり将来この国の全体主義的戦争化に沿って、「信教の自由」とはまったく別のことを行う準備があるのでしょうか。だいたい、国の戦争のために死んだ人間の魂だけを祀っていて国の戦争で殺された民間人の魂を祀らないのですから、靖国はすでに「分祀」の状態をつくっているじゃないですか


テレビとは、<メビウスの輪>

テレビを見ている'こちら側'の幸せに生きているふりをしている人々が、テレビが伝える'あちら側'の幸せに生きているふりをしている人々に同一化していくとき、距離が取り払われて全体と部分とが無理に一致するような<メビウスの輪>的な配置が起きてきます。こうした配置のもとに、「例えば人々はテレビに服従している。言表の主体を言表行為の主体と取り違えるという特殊な状況の中でテレビを使用したり消費しているからである(「視聴者のみなさん、番組を作るのはあなたです」) 。「あなた」と指示される「私たち (視聴者)」(「言表の主体」) が、それを言うテレビ (「言表行為の主体」)の間の区別がなくなり、「私たち(視聴者)」はテレビの内部からテレビに沿ってみる結果、自らが自らにたいして隠蔽をつくることに。そうして私たち (視聴者)=テレビは、テレビが政財官体構造と共につくりだす全体主義的戦争の進行をみることもなく、また危険な原発の再稼働とアベノミックの自衛隊にしか職がなくなるという未来も考えることがなくなったのではないでしょうか。


CARAVAGGIO

色々な理由でこの超大作の絵はダブリンにあります。イタリアに同じものが。絵画を舞台とした光と闇とが対立するオペラのようですね。画家は、聖書の物語を利用しながら、指示することの暴力性を表現していました。近代の全体主義が全体主義である所以もおそらくここに。不確定な他者を確定的に指示し囲い込み、そのことによって、対抗的に、純粋に自己同一的に自己の側を物語っていく言説に (たとえば、ナチスや天皇主義による優越した民族の純潔性。) こういう自己同一的な言説は超越的なので、なんでもかんでも説明できてしまう結果、光の下に、(闇のなかにいる)他者を包摂していく全体性を限りなく帯びていく。バロック的に無限に自己差異化していく、盲目の言葉と沈黙する映像の平行関係は崩され、そのかわりに、自己差異化をやめた近代の実定性の地平において可視性と言表可能性とが一致していく。ああ、毎日のように8年間もこの絵の実物を見ていたのになにもわかっておらず、最後に見てからさらに十年経た現在、インターネットのなかでこういうことに気がつきました。ホー、フクロウ猫さんは気がつくのがおそすぎニャー、しかし演劇を見続けなければこういうことはわからなかったですよー。画家のCARAVAGGIOの姿はどこに?おそらく指で指そうとする人に描かれています。しかし指す人はなにを指す?



このまま大人にまかせていたら大変だ、と、街頭に出ざるを得なくなった高校生の行動。その自発性は意義深いと私は思います。それにしてもこのような民主主義にかかわる非常に大切なデモならばその参加人数は、海外の新聞では一面に伝えられます。共同通信はデモの人数を数え間違えた理由をきちんと説明しないと、警察の情報を垂れ流したのかと疑わるだけでなく(現場で直に見れば少なくとも300人程度ではあり得ないことだけはわかるはず)、人権の状況を厳しく監視している外国人ジャーナリスト達から、日本マスコミは官僚マシーンの一部と非難されても仕方ないですね。
ー> 共同通信が「8/2渋谷高校生デモ」参加者5000人を300人と報道していたことが判明!後に主催高校生から連絡を受け訂正


La nostalgie du Paradis, c'est le désir de l'homme de ne pas être homme.
Milan Kundera - L'insoutenable légèreté de l'être

It's not where you take things from — it's where you take them to.
― Jean-Luc Godard


商業デザインのことは関心がありませんが、ただ、日の丸というナショナルなシンボルだからデザインに独自性があるという主張がでてきたようです。平和にどんな国も排除されないという参加のあり方ー同じ程度に個人参加の意味も大きい!ーを理念的に表す普遍精神のオリンピックの旗に、(梅干しのシンボルだというならまあ許してもいいですが)、アジアの人々の記憶の中では全体主義戦争と結びついた日の丸というナショナルなシンボルが公然と使用されるのでしょうか?しかしどうもオリンピックの旗に限った話ではありませんね。これは安倍談話についていえます。なぜ、開かれた多様性の普遍性を、普遍性を包摂する閉じた特殊性にふたたびもどしてしまうのですか?


「わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を死亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に過ち無からしめんとする故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします。また、この歴史がもたらした内外すべての犠牲者に深い哀悼の念を捧げます」

Japan's emperor strikes more apologetic tone than Abe over second world war. -

South Korea’s president, Park Geun-hye, said Abe’s speech left much to be desired and contained “regrettable elements”, adding that she hoped Japan would quickly address the issue of women’s “honour and dignity”.
On Friday, Abe made an oblique reference to “women behind the battlefields whose honour and dignity were severely injured”, but he omitted any mention of Korean sex slaves, known in Japan as “comfort women”.

In a commentary, China’s state-run news agency Xinhua accused Abe of performing “linguistic tricks” in his attempts to avoid further damaging Japan’s relationship with Beijing while appeasing his conservative support base.
“By adding that it is unnecessary for Japan’s future generations to keep apologising, Abe seemed to say that his once-for-all apology can close the page of history,” it said.
“Instead of offering an unambiguous apology, Abe’s statement is rife with rhetorical twists like ‘maintain our position of apology’ – dead giveaways of his deep-rooted historical revisionism, which has haunted Japan’s neighbourhood relations.”
The Chinese foreign ministry said Japan “should make a clear explanation and a sincere apology to the people of the countries who suffered from that era of military aggression” and “take concrete actions to gain the trust of its Asian neighbours and the global community”.
The condemnation from China and Seoul was less forthright than some had expected – a possible sign that in stating Japanese administrations would continue to uphold – though not repeat – previous official apologies, Abe had gone some way towards meeting their demands. - The Guardian


安倍「アジア・アフリカの人々を勇気づけた」
アジア・アフリカの人々「西からの植民地主義に苦しんだ民衆のいったい誰が、新たに台頭してきた東からの植民地主義を歓迎したというのか」
安倍「我々の子孫は永遠に謝罪する必要があるのだろうか?」
我々の子孫「それを心配して謝罪を拒むのではなく、まず謝罪して何をするかが大切。戦争を終わらせよ」



村山元首相の謝罪をひいているが、安倍首相自身の謝罪がなかった

Japanese PM Shinzo Abe stops short of new apology in war anniversary speech

There was no immediate response from officials in Beijing and Seoul. South Korea’s Yonhap news agency noted, though, that Abe’s statement did not include a fresh apology or make specific reference to Japan’s 1910-1945 colonial rule over the Korean peninsula. ー The Guardian

Japan PM expresses 'utmost grief' over war but no fresh apology

Marking the 70th anniversary of the end of World War Two, Abe also said he upheld past official apologies including a landmark 1995 statement by then-premier Tomiichi Murayama, but the conservative leader offered no new apology of his own. - REUTER

変だよ、あんた。嘘の謝罪でも謝罪している自分に畜生と言ってるの?なにが言いたいのよ?

ー> 安倍晋三「あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」



シドニー湾のオペラハウスはまだ建設中だった...

日本人が商社の家族を中心に五百人ぐらいしか住んでいなかった、白豪主義の時代に子供時代をすごした。4年間のアルバムをひらくと、あらためて、通っていたパブリックスクールが白人だらけだったことに驚く。アルバムをめくっていくと、戦争の記憶で反日感情の強い人々から友人の誕生パーティーから追い出される大事件が繰り返しあっても、<他者は自己の鏡>という言葉があるように、自然に?自分をかれらの側に位置づけていたことが思い出される。しかし時々帰り道に警官たちに立ち止まれと命じられることがあった。非常に怖い思いをした。当時は警官がオーストリア現住民の子供たちをその場で捕まえてそのまま絶滅施設に送ってしまったのである。(そういうミッシング・チャイルドは10万人いた。アメリカもインディアンの子供に同じことをしたことをこのビデオで言っている。) 記憶の中で友人のお母さんが警官に事情を必死に説明している(この子の親は外交の仕事できた日本人だとかなんとか説明したのだとおもうが。) 「帰国」という言葉を使わないからここでは'シドニーから東京へ行くとき'と書くのだけれど、オーストラリアを離れる年は、当時の友人たちのなかにはベトナムに行って兵隊になるというものが現れてとなんとも陰険な嫌な雰囲気になっていた。かれらの視線。北爆のニュースが日常を覆う。いまおもえば、敵であるアジアへの視線の類だったのか?お別れの最後の日に教室で、帰る国がどこにあるのかを示せといわれて黒板で描いたのは中国だった。慌てた担任のミセス・ウェブにすぐに正されたが、それまでは交通渋滞の国、日本という国が中国の真ん中ぐらいにあるのだろうぐらいの関心しかなかった。教室でテレビ中継された、アポロ11号の人類が到達した月から見れば、それが地球のどこにあろうが全く大した問題ではなかったしね。それよりも、思い出のプレゼントとして、お隣さんの労働党の大工さんの子供から貰った、砂漠の原住民の写真集が衝撃的だった。この映像たちにとらわれた。計画化された都市のまわりを見渡してもかれらは存在しないのだ。自分たち白人(!)はなんと罪深い排除を行っているのだ!とおもったものだ。記憶のなかでは、よく面倒をみてくれたユダヤ人の金持ちだが孤立していた大家の女性の涙が止まらないのが不思議におもっている少年の姿がある。おもいだしてくれるようにと、道路にワニの絵を描き残した。年齢的にバイリンガルにならなかった。英語が消滅し日本語が現れる空白の二年間。この二年間は、言葉がない二年間なので思い出せない言葉にならない厄介な二年間なのだ。こちらの先生が黒板に英語の綴り字で自分の名前を書いたときどうしてわたしがそれを読めないのか不審がったものだ。(くずした筆記体などは現地の学校では習わないから普通は読めないんだけどね)。アルファベットのなかにしか自分の名前がなかったのに、まさにこのアルファベットのなかで自分の名前を喪失したという屈辱の思いがあった。歴史的に言ってただ白人との関係で成り立った、こういう屈折した体験はこの国で理解されることはない。この国は明治以来の大学のカリキュラムがそうだけれどもヨーロッパ中心主義なのだ。とくにヨーロッパ中心主義のインテリたちはアジアのヨーロッパ、オーストラリアに関心がない。ヨーロッパ人の頭でいかにマルクスを読むのかという無理な課題にしか関心がない。しかしアイルランド人ならば理解できる。'黒い白人'と蔑まされてきた、ヨーロッパの内部でありながらアフリカの国にように植民地化されたアイルランドの人々は、イギリスの絶滅型同化政策のもとでサバイブしてきたのだからね。最後に、柄谷行人「世界史の構造」が嫌いなのは、ポストコロニアリズムのテクストならば必ず参照されるような、アイルランドの記述がないことなんだね、たぶんそうだ。(しまった、色々なことを書きすぎて手の内がばれてしまうなあ)


公共放送とはなにか?公共放送の思想を問う。

公共放送はたんなる伝達ではなく、 伝達以上のなにかです。公共放送は理性を模倣して知が自己に問うように語るのですから。それは、社会の諸々の欲求を、翻訳者の特殊性を隠蔽する仕方で、普遍的理念に翻訳する啓蒙主義の伝統に属していいます。これはもの凄い技術です。ここから極右翼を再定義できるかも。極右とは、知の自己対話ー普遍主義ーへの衝動的攻撃であるというふうに。たとえば、公共放送ならば極右(侵略を美化する歴史修正主義者の安倍)の発する言葉の内部からその言葉に沿って語ることが許されないはずだとする怒りは、知の自己対話の挫折をみる理性から湧き起こってくる当然の怒りではないでしょうか。市民にとっては、愛国的民族主義の特殊性と公共放送の普遍性が互いに両立し合うことはありえない。だから市民のなかでとくに危機感をもった人々が公共放送施設の前に抗議するために集まってくるのだとおもいます


ホホ〜もうこうなったらナポリしかニャいか...

Le monde des fantasmes est celui que nous n'avons pas achevé de conquérir. C'est un monde du passé, non pas de l'avenir. Aller de l'avant en se cramponnant au passé, c'est traîner avec soi les boulets du forçat > (Henry Miller) Le vivant voyant, c'est Spinoza sous l'habt du révolutionnaire napolitain. - Deleuze&Guattari

「幻想の世界とは、われわれが征服しえなかった世界である。それは過去の世界であり、未来の世界ではない。過去にしがみついたまま前進すること、それは囚人の足枷を引きずって歩くことである。」いきた見者、それはナポリの革命家の衣装を着たスピノザである。


なぜどん底にかかわるのか?

現在テレビ、インターネットに現れる極右翼の政治家の楽観的な高笑いに、現在なお安倍政治に屈辱感をあなたが感じないとしたら、あなたは極右翼の言うとおりに他者を否定し排除・殺戮していったらもうなにもかもやっていけなくなるというほどの孤立の痛さに打ちひしがれていないからです。まだあなたは、貪欲に戦争で領土をもとめながら、差別することの言葉で言い表せないナルシステイックな衝動にゆだねる欲望の空間にシニカルに戯れたいのです。これは象徴的貧困symbolic miseryとスティグレールBernard Stieglerが呼んだ崩壊と喪失の感覚と関係しているとおもいます。現在貧困の問題は、生産や経済生活とは異なるコンテクストでアプローチすることも大事になってきました。象徴的貧困からいかに脱出するのか?言い換えれば、なぜどん底にかかわっていくのか?解決すべき問題として、広がる貧富の格差の経済問題のほかに、この問題があります。「象徴的貧困」のスティグレールはドウルーズGilles Deleuzeから影響されていますが、ドウルーズが映画を思考の方法としたように、演劇を思考の方法として開いていくことが大切になってきたようにおもいます。私の理解ではありますけれども、その場合、再構成されていく演劇とは、芸術と政治の重なり合う領域を発見しこれを連続的に再構成していくプロセスであること。このプロセスにかかわることによって、全体性に包摂されないような、単独性と複数性を同時に生産していくこと。時間を占拠すること。このこの演劇の<つくる>本質は、ほかならない、共同体のひとりひとりの<自発性>に依ること。なによりもファシズムの国が怖れるのは、こうした人間たちの自発性によって、(他者を一律的にしたがわせる) 私たちのルール、私たちの生活様式、さらには私たちの言語、私たちの文化、私たちの政治システムに多数の穴があけられていく開かれたプロセスではないでしょうか。



ああ、アルトーを読み間違えていたかもしれない・・・愚かな!

あまり知られていない歴史だが、1930年代に、アルトーArtaudは、アイルランドに聖パトリックの杖を返しにやって来た。なんともこの胡散臭い杖ではあるが、どうもアムステルダムの骨董品屋で手に入れたらしい。ただかれはみかえりなしで杖を返そうとは考えなかっただろう。(ここが長年私の読み間違えだった。) 彼の到来の事実はアイルランドでは完全に無視されているかタブーだ。現在ダブリンに手がかりとなるものはなく、ただ彼の言う通りにしたがってかれのこの奇妙な互酬的行為の意味を理解するしかないわけだ。詩のよく統御された文体と曖昧な意味。ゾンターグによれば、解読されることも期待していない意味の不在の言葉が飛び散る。このなかで、「器官なき身体」と綴ったかれのことばほど、芸術におけるトポロジーの意義を先駆的に表現したことばはなかったが、このアルトーが本気で望んだのは、(現在日本のテレビ、インターネットに現れる)極右翼の政治家の高笑いのように、戦争で領土をもとめながら差別することの言葉で言い表せないナルシステイックな衝動にゆだねる欲望の空間に変身(写像)することであったのではなかったか。そこから繰り返される自己写像の果てに、自ら定位するこの欲望の連続性を爆発(消滅)できると本気でかんがえたのだ。(現在なお安倍政治に屈辱感を感じないとしたら、それはかれの言うとおりに他者を殺戮していったらもうやっていけなくなるというほどの孤立の痛さに打ちひしがれていないからだろう。)アルトーの身体における連続性の破れの痕跡が肛門に。知のファシズムに穴を本気に開けていくこの穴にこそ、屁 (=脱出)である詩の言葉が祀られるように書かれていた


とりあえず仕方なく水をかけ続けていて温度が保たれているだけでこれから何が起きるのか予測がつかないのに、東電の人間が勝手に他の原発再稼働のために都合よく'冷温停止'と名づけちゃっているのが、いかにも、自分たちがなにをしているのかわからなくなっている状況で無意味な戦争を拡大していったという戦前のパターンと似てきたのではないかと深い溜息をつきました。信じてもいないことを信じているふりをしている自身のことを無気力に嘲笑っている態度がちらちらね。しかし、いつ、この’冷温停止'という言葉による無理な隠蔽をやめるのでしょうか?原発批判の言葉は監視されまたは自己検閲の方へどんどん収縮しているのに、これに反比例して、原発推進の言葉はどんどん拡大していると感じているのは私だけでしょうか?



Symbolic Misery
Description

In this important new book, the leading cultural theorist and philosopher Bernard Stiegler re-examines the relationship between politics and aesthetics in our contemporary hyperindustrial age.

Stiegler argues that our epoch is characterized by the seizure of the symbolic by industrial technology, where aesthetics has become both theatre and weapon in an economic war. This has resulted in a ‘symbolic misery’ where conditioning substitutes for experience. In today’s control societies, aesthetic weapons play an essential role: audiovisual and digital technologies have become a means of controlling the conscious and unconscious rhythms of bodies and souls, of modulating the rhythms of consciousness and life. The notion of an aesthetic engagement, capable of founding a new communal sensibility and a genuine aesthetic community, has largely collapsed today. This is because the overwhelming majority of the population is now totally subjected to the aesthetic conditioning of marketing and therefore estranged from any experience of aesthetic inquiry. That part of the population that continues to experiment aesthetically has turned its back on those who live in the misery of this conditioning.

Stiegler appeals to the art world to develop a political understanding of its role. In this volume he pays particular attention to cinema which occupies a unique position in the temporal war that is the cause of symbolic misery: at once industrial technology and art, cinema is the aesthetic experience that can combat conditioning on its own territory.

This highly original work - the first in Stiegler’s Symbolic Misery series - will be of particular interest to students in film studies, media and cultural studies, literature and philosophy and will consolidate Stiegler’s reputation as one of the most original cultural theorists of our time.

In this important new book, leading cultural theorist and philosopher Bernard Stiegler re-examines the relationship between politics and art in the contemporary world. Our hyper-industrial epoch represents what Stiegler terms a 'katastroph of the sensible'. This katastroph is not an apocalypse or the end of everything, but the denouement of a drama; it is the final act in the process of psychic and collective individuation known as the 'West'. Hyper-industrialization has brought about the loss of symbolic participation and the destruction of primordial narcissism, the very condition for individuation. It is in this context that artists have a unique role to play. When not subsumed in the capitalist economy, they are able to resist its synchronizing tendency, offering the possibility of reimagining the contemporary model of aesthetic participation. This highly original work - the second in Stiegler's Symbolic Misery series - will be of particular interest to students in philosophy, media and cultural studies, contemporary art and sociology, and will consolidate Stiegler's reputation as one of the most original cultural theorists of our time.

貨幣とは鋳造された自由である。(ドストエフスキー)
Geld ist geprägte Freiheit

帝国化していくEUのユーロマネーに囲い込まれ、囲い込まれる中で
失業対策をゆるさぬ緊縮財政を強いられる貧しい国々にとってはなあ...



「東京オリンピック・エンブレムはもう無理筋」

法律問題を構成するために、ただ組み合わせの問題が論じられているだけでしょうか。明らかに法律問題を超えています。日本人の心が無理に統合されているために、外部を迎えるための隙間たちがなくなってしまい、その結果、どんなシンボルも国家意識の陰としてしか感じられないのです。エンブレムを契機に、安倍の国体イデオロギーに対する嫌悪と反発が起きているのではないでしょうか?



柄谷行人氏の読者は、彼の「世界史の構造」(岩波書店)の書評を書いているニューレフトレビューの投稿者Rob Lucasを含めて、柄谷氏がいう「社会主義」が「統整的理念」だという説明をずっと受けてきました。そこでわれわれは統整的理念をその通りに民主主義の意味に理解してきました。ところが、まさか、その「統整的理念」が「帝国」だったとは知らなかったわけです。'統整的理念としての社会主義とはなにか?'というのが書評の題名ですが、「帝国の構造」(青土社)の柄谷が出してくることになる答えとは、民主主義を否定する権威主義に沿って、かれが擁護する、'帝国としての社会主義' なのです。これについて、子安宣邦氏の「帝国か民主か」(社会評論社)は帝国の反民主的な存立とそれを擁護する言説の政治性について問題提起しても、党派的にふるまうとも噂される柄谷氏が書評委員会のトップとして朝日新聞の書評を構成的に(!) 牛耳っているかぎりは、本が書評欄にあらわれることは絶対にありえません。言論的にいってフェアーであるとは到底言い難い息苦しい残念な状況ですね ( フェースブックに書くに留めますが、東京新聞や日経新聞が良いのは新聞記者が直に選んだ本が書評欄にあらわれるときいています) 私が望むのは、「帝国」擁護もかれなりの思想の発展かもしれない柄谷の仕事も、民主運動の側を擁護する子安氏の仕事も、この両方が、新聞の公的な場を通して知られていくことです。そこから議論が生まれるからです。


I really think that there are certain things that one mustn't accept. And for me, for example, Beethoven is, to a certain extent, about that. That is to say, there is resistence. In other words, I don't think everything can be resolved. (E.W.Said)

デリダは「寛容」による他者の歓待を「条件つきの歓待」として、それは「私たちのルール、私たちの生活様式、さらには私たちの言語、私たちの文化、私たちの政治システム等々に他者が従うという条件においてのみ」提供される歓待にすぎないといっている。この条件に対する倫理的な抵抗 resistence が存在すること。これは、なんでもかんでも全部を交換から説明しつくす柄谷の構造論を批判する視点を与えるものではないだろうか。この点について説明しておくと、柄谷が行ったことといえば、なんでもかんでもすべてを説明しつくす理論の根底に、(精神主義のヘーゲルと唯物論的なマルクスが)「労働」と「生産」のかわりに、「交換」を置いただけである。しかし、「労働」「生産」であれ「交換」であれ、そうしてなにもかも説明できる、あるいは、なんでもかんでもすべてを包摂できる理論とは、カール・ポッパーが見抜いたように、なにも説明することはない。A theory which explains everything explains nothing. なにもかも生活の隅々までに介入してくるバルザック的な「資本論」の知のあり方とパラレルかもしれないが、大変ショッキングなことではあるけれども、かくも「資本論」の読みにこだわってきた日本知識人たちの背後に、なんでもかんでもすべてを包摂できる理論が存在するというどうしようもなく絡みとられた全体主義的信念が存在していることをみておかなければならないのかもしれない。21世紀のファシズムにやっつけられないために

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8月2015年 (2) 言葉と表現と射影のブログ/BIGLOBEウェブリブログ
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