言葉と表現と射影のブログ

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Poetry is a sort of inspired mathematics, which gives us equations, not for abstract figures, triangles, squares, and the like, but for the human emotions. -Ezra Pound


千のプラトー:資本主義と分裂症
アリストテレス風に言えば、戦争は戦争機械の条件でも目標でもないが、戦争機械に必然的にともなうあるいは戦争機械を補完する、と言えようか。デリダ風に言えば、戦争は戦争機械の「代補」であることになろう。(…)最初に戦争を行うのは、国家ではない。――(下)p139-140



【キッチュKitsch】ドイツ語の「verkitschen(低俗化する)」が語源。低俗なもの、悪質なものといった意味。批評家C・グリンバーグの論文「アヴァンギャルドとキッチュ」(1939)において「キッチュ」を「アヴァンギャルド(前衛)」に対する「後衛」と位置付けた。



労働とは、人間の肉体の生物学的過程に対応する活動力である。人間の肉体が自然に成長し、新陳代謝を行ない、そして最後には朽ちてしまうこの過程は、労働によって生命過程の中で生みだされ消費される生活の必要物に拘束されている。そこで、労働の人間的条件は生命それ自体である(H・アーレント)



アンチ・オイディプス: 資本主義と分裂症 ‏@AntiOedipus_bot · 3 時間3 時間前
プロセスとしての分裂症こそ、唯一の普遍性なのである。分裂症とは壁であり、壁の突破口であり、同時にこの突破口の挫折でもある。――(上)p261


見よ!ひとびとから孤立してしまい、重武装の警官・機動隊に守られなければ強制採決できなくなった国会を!!


読む人間の宿命

近代人は文字を介しての信仰しかない、と子安氏は津田について語ったときにそういった。たとえば小林秀雄は宣長を通じてしか(古代の)神を信じることができなかったという。ところで私が思うに、文字を介しての信仰は、文字なき信仰を実体化するという無理が起きるのではなかろうか。しかし敢えてその無理を通すときに、そこから、なにがあらわれてくるのだろうか?純粋な共同体という幻想が生まれるのではないだろうかールソーとゲーテが語りはじめ、一国家・民族に一言語が宿るというマルクス主義的構造主義が依存することになった純粋性、ジョイスのテクストが包摂されまいとしてそこから自分で決めた亡命をおこなったあの厄介な純粋な起源性


中近東はアメリカがぶっ壊して金儲けし、日本が復興して金儲けすると陰口をいわれてきたのですが、難民は金儲けにならないということですか。なにもかも国家と金儲けが尺度。期待するだけむなしいですが、それでもちょっとぐらい国家を超えた普遍主義のことをいう知識人はいないのですかね


radical architecture in italy;
superstudio and archizoom

According to art critic Germano Celant, Florence in the late 1960's was the cradle of radical Italian architecture. This movement was inaugurated by the exhibition " Superarchitecture'', held in Modena in 1966, and came to an end with the exhibition, "Italy; The New Domestic Landscape held at New York's MoMA in 1972. As successor to Pop Art, Italy's ' radical school' shared with arte povera the use of installations and appropriaitions from every day life. Superstudio's Histograms of Architecture and Archizoom's No-Stop City (1969) were derived from the Modernist concept of the uniform grid. But it extended into an idea of total global urbanisation through an infinitely spreading urban sysytem. Through this threatening idea, architecture was seen as a socially critical act. Its identity was debated and it became regarded as an attempt to transform reality. Inspired by Guy Debord's Situationism, Superstudio were critical of the ubiquitous nature of global capitalism, a very current concern.



テートモダンの詩と想像のテーマ

いかに、国家と民族の知の内部にとらわれた人類学を国家と民族の知から解放するか、
いかに精神分析に囚われた無意識の生産性を精神分析から解放するか、
いかにに階級のマクロ的な言説に囚われたマルクス主義を階級のマクロ的な言説から解放するか?多様性へ。

シュールレアリスムが夢想する地球の裏側に生息する未知の生き物。フーコによれば、そのまえに読む人間があらわれていなければならないという。


読む人間の宿命

近代人は文字を介しての信仰しかない。文字を介しての信仰は、文字なき信仰を実体化するという無理が起きる。しかし敢えてその無理を通すときに、そこから、なにがあらわれてくるのだろうか?純粋な共同体という幻想が生まれるのではないだろうかールソーとゲーテが語りはじめ、一国家・民族に一言語が宿るというマルクス主義的構造主義が依拠しようとする純粋性、ジョイスのテクストが包摂されまいとしてそこから自分で決めた亡命をおこなったあの純粋な起源性



読む人間の宿命とは何か?

子安氏によれば、知識人は文字を介しての信仰しかない。たとえば小林秀雄は宣長を通じてしか(古代の)神を信じなかったのである。古代の体験とは結局、文字世界としての古代の体験のこと。「古事記」の解読から、その内部的な領域に、宣長は天皇的日本をのこし、津田は平民的日本をのこしていったのである。


’L'écriture alphabétique est la plus muette qui soit, puisqu'elle ne dit immédiatement aucune language. Maid étrangère à la voix, elle lu est plus fidèle, elle la représente miex.’ (Deridda) 「アルファベット文字は、直接的にはいかなる言語も語らぬがゆえに、すべての文字(エクリチュール)のうちで最も無言である。しかし、声とは無関係でありながらそれは声にいっそう忠実であり、声をよりよく代理(表現)するのである。」

D
E
C
O
NSTRUCTION




映画はアートか?

アイルランドの西部に行くと、探求Uのウィットゲンシュタインが数か月間いたという、地図にも正確に記されていないような荒涼とした場所がありました。ここに、ニューヨークから自主映画製作時代に8ミリを持ち込んでみたが、何日間も露出をどう決めていいのかまたどの対象から撮り始めていいのかわからなったという自身の経験を語ったコンセプチュアルアートの人がいました。たしかに何を指示していいのかわからないことを考えさせてくる場所でした。しかしこのこと自体、大変に貴重な経験なのだと気がつきました。そもそも、思考するアートとは、このように、何を指示したらいいのかわからないときに、まさにここから、指示することについて考えてみることになるということと深い関係がありますから。これにたいして、ジョン・フォードのような人ならば物語を作れました。ハリウッド映画というのは、フォードの場合のように、あらかじめ用意されたシナリオに沿って指示され取り囲まれた風景があります。それが、指示することについての思考を包摂していくのです。たとえば、「アメリカから、ワイルドな男が暴風の如くやってきた。人々の猜疑心と怯えた眼差し。共同体の静かな生活を壊すこの危険な異邦人の目的とは?」。と、このように流れていって止まることがないイメージの運動を体験していく観客には、思考する時間が与えられることはありません。映画の商品的形式から自立した、物語に先行する、スクリーンについての投射の抽象的形式について積極的に思考することがないのです。禁じられているわけではありませんが、運動イメージに属さない時間とかかわることが非常に難しく感じられていくのですね。こんな風にして、現代アートは映画をアートとみとめることに大きな躊躇があったと言わざるを得ません。

小鳥たちのために

「フィネガンズ・ウエイク」(FW) のジョイスは、意味体系における文字からその意味体系を漂白し、ただ表記記号化したことから生じる意味の空白を、表層的にただ指示していたーなにを? べケットは本は意味の空白を含むとした上で、その空白を反転させて自己を主張することはないーだれが? ジョン・ケージは本から計画性を取り除いて偶然性を指示するだろうーどこに?


子安宣邦さん

「ヴィヴィアン・マイヤーを探して」を京橋の試写室で見た。2007年、シカゴのアマチュア歴史家の青年が、ネガ・フィルムの詰まった箱をオークションで350ドルで競り落としたことから話は始まる。200枚の写真をブログにアップしたところ、大きな反響を呼び起こした。そこからこの撮影者探しが始まる。やがてこの撮影者はヴィヴィアン・マイヤーという女性であることが、かつて乳母としての彼女に面倒を見られたという人の口から明らかにされる。乳母として子どもの世話をしながらカメラを首からさげて彼女は街頭で出会う人びとの一瞬の姿をカメラに納めていったのである。それを現像し、発表することもなく、ひたすら撮り続けていったのである。私ははじめ未知の写真家の正体探しかと居眠りしながら見ていたが、やがて真剣に彼女の姿を見つめだした。彼女はナースをしながらひたすら撮り続けたのである。人に見せるためでもない。それらはネガ・フィルムのまま残されたのである。残されたのはフィルムだけではない、衣類、新聞、そしてレシートにいたる彼女の日常を構成するすべてが幾箱にも詰められて残されたのである。彼女は公園のベンチで倒れ、救急車で運ばれて死んだ。83際であった。最後はゴミをあさって食べたりしていたという。彼女の写真は街頭の人びとの一瞬にその人生を写しとるようであった。専門家は、「彼女は被写体の人生や風景を完璧に切り取っている」といっている。しかしなぜ彼女は人に見せることもなく、ただひたすら写真を撮り続けたのか。なぜなのか。この大きな問いを観客に投げかけてこのドキュメンタリー映画は終わる。この問いを突きつけられて私はしばらく座席を離れることができなかった。この答えを求めてもう一度この映画を上映館で見なければならないとも思った。
 彼女が撮り続けたのは、それが生きがいであったからだとは直ぐ出てくる答えであるだろう、だがほとんどホームレス同然の死に方をした彼女の人生は「生きがい」をいうようなものであったのか。彼女は人に見せることもなく、ひたすら撮り続けたのであって、その結果が人にもたらす感動や人が返す称賛を期待したりすることはまったくない。そこにあるのはただ撮る行為だけである。彼女がひたすら撮り続けたように、私もひたすら書き続けている。だがお前の書く行為は全く違う、それは人の読むことを前提にしたものだと、人は直ちに反論するだろう。しかし書けばそれが直ちに活字になり、やがて本にもなった時代は、私にとっては過去のものである。今ではいつ活字になるかもしれぬ原稿が私の周辺にたまりだしている。それでもなお私は書き続けている。なぜなのか。この自分への問いは、ヴィヴィアン・マイヤーへの問いと本質的に同じではないのか。
 私は帰宅の途上その問いを考え続けてきた。そしていま一つの答えに思いついている。人間とは「記録する存在」なのではないか。それはだれに頼まれたものでもない、また人に見せるためでもない。人はその生とその周辺とその時代とをひたすら記録する存在なのではないか。私の思想史も『記録」という人間の存在論的課題に答える私なりの作業であるような気がしてきている。

Et puis il y a un troisième aspect du voyage, alors tu me dis « nomade », oui. J’ai toujours été fasciné par les nomades, mais c’est précisément parce que les nomades, c’est des gens qui voyagent pas. Ceux qui voyagent, c’est les émigrants, il peut y avoir des gens extrêmement respectables qui sont forcés de voyager. Les exilés, les immigrants, ça ça c’est un genre de voyage, alors, dont il est pas question de se moquer parce que c’est des voyages sacrés. C’est des voyages forcés, c’est des voyages… bon, ça très bien… Mais les nomades, ils ne voyagent pas, eux. Les nomades, au contraire, à la lettre, ils restent immobiles, c’est-à-dire, tous les spécialistes des nomades le disent, c’est parce qu’ils ne veulent pas quitter. C’est parce qu’ils s’accrochent à la terre, c’est parce qu’ils s’accrochent à leur terre. Leur terre devient déserte, et ils s’y accrochent. Ils peuvent que nomadiser dans leur terre. C’est à force de vouloir rester sur leur terre qu’ils nomadisent. Donc, dans un sens on peut dire : « Rien n’est plus immobile qu’un nomade. Rien ne voyage moins qu’un nomade. » C’est parce qu’ils ne veulent pas partir qu’ils sont nomades. Et c’est pour ça qu’ils sont tout à fait persécutés.


Pour Popper,le marxisme et la psychanalyse constituent des examples de ces pseudosciences qui, comme l'astrologie, ont explication pour tout

すなわち、中世のビザンツとサラセンの植物唐草文様は直接的な発展過程において古典-古代の植物唐草文様に由来していること、そのため連結項はディアドコイ時代とローマ帝政期の芸術にあるということである。(A.リーグル『末期ローマの美術工芸』)

酒の席で、戯れに、日本ジョイス学会の会長に注釈書を何冊読んだら「ユリシーズ」を一応理解したといえるかとたずねたら「6冊」という数字をいってきた。6冊とは、6通りの批評、解釈の仕方があるということだろう。たしかに、文学について語るとき、モダニズム、ポストモダニズム、構造主義、ポスト構造主義、カルチャー・スタディーズ、ポストコロニアリズムを同時に見渡すことがなければ。またある演劇研究家の方が「向こうの知識人の話を理解するためには、7通りの視点を知っていればなんと理解できる」と言っていた。広い意味で映画のモンタージュとはこういうものだ。演劇も、可能性として6通りの解釈を同時に進行させる必要があるとはおもう。が、なぜ舞台がこのように量子力学化していく必要があるのかを納得してもらうためには、ロシア革命、ナチス(全体主義)、ヒューマニズム、ダダについてそれぞれがいかに成り立ったかを説明しなければならないだろう


転向を強いた王家を、転向ユダヤ人たち(末裔を含む)がいかに描いたのか大変興味があるところです。ちなみにお見合い写真や(成長の過程を記録した)写真アルバムがなかった時代の王達は、お互いに、結婚の準備として、使者たちにもちはこばせた肖像画をみせ合ったようです。王家は宮廷画家たちに頼っていたということもできます。と、あらためてこの絵を見ますと、(フーコがいうように)、画家は描き終わったのかあるいは描き始めたのかわからないのですが、もう一つ可能性があります。転向を強いられたものが描くのを拒んでいるという可能性です。描いても王夫妻はいまにも消えそうですードアから入ってきた不測の光で鏡に映っている姿だから消えそうだというのは巧妙な隠蔽。(当時のイスラムのアフリカとも繋がっていたコスモポリタンのユダヤ人たちにとっては、転向そのものへの反発よりは、カトリックのスペインの戦争協力に対する反発、そしてヨーロッパに閉じ込められることへの反発があったかもしれません)

序文、またそればかりでなく、前文、序論、前言、前置き、序言、プロローグ、プロレゴメナなどは、つねにそれら自身の消去をめざして書かれてきたように思われる。序(pre)の境界=限界に到達したならば、その旅程は終端においてみずからを無にしなければならない(『散種』)

「美しい国」のための全体主義的軍国主義化

なんということでしょうか、このままでは、「集団的自衛権の行使は憲法上許されない」の政府見解は、集団的自衛権の判断をしていない1959年の砂川判決で覆えることに。こんなことは次々に起きてくる全体主義的軍国主義化のリストの一例なのかもしれません。そもそも最高裁裁判官達は集団的自衛権の危険性について憲法に即して積極的に判断しなければならなかったのに、今日までオカルト的に無感覚に憲法を周縁化してきました。最高裁はこの価格を支払わなければならないでしょう。なんのために自衛隊を海外に送るのか?「美しい国」のために捧げられる戦争なのか。こんな安倍政治のもとで何が起きるかわからない近未来に、戦争協力者として汚名を着せられたくないとばかり元裁判官たちが集団的自衛権の無理を語っていくことになりそうなかんじですが、しかし他人事ではありません。


発展していく舞台、稽古している役者が立つ舞台は、夜の渦巻いている海のようにみえます。天井から吊り下げられている、真っ白な幾何学的構築物(二つの互いに直角に交差した大きな長方形)は、最初は翳りのない木の枝にみえました。あるいは、プロペラ?だんだんと、俳優たちが相対する、鏡の中の奥の到達できない仮面にもみえてきました。天のX軸とY軸の抽象的な交差、交わった点の真下に向かってZ軸の垂直線を引いていくと、舞台中心に位置する曖昧に陥没した一点に?そこで、巻きかえして行く人間が、死に行く者の傍らで語っています。人間が再び天の方をみあげるとき、人間は天に横断していくなにをみるのでしょうか?天と地の間を往復する路の運動、反復なき差異の生成、多様な渦の流れの方向、眠りと休息、そしてこれらのすべてを横断していく小鳥たちの歌声



昨日はありがとうございました。「どん底からんのことば」に書かれていたことを考えながら、発展していく舞台を観察し大変勉強になりました。たしかに、わたしたちは、不可避的に、自分自身が当事者でないことの距離に直面いたします。この距離の意味となにか?ことばが依拠する舞台というのは、自分に都合よく当事者ではないのに当事者になってしまった'代理'ではなく、 むしろ、ことばが依拠する役者の身体を通じて、当事者ではないことの距離を安易に消すことがない '代補' なんだなと。その距離をできるだけ豊かにしていくことにかかわる倫理性と表現の自己内省的な構造、こういうことを、発展していく舞台から学ぶことができました。面白いことに、観客席からみることは、距離の意味を問う、たとえば旅での思考に似ていますね。ーこれに比することができる思想としてプルーストがどこかで書いていたのですが、列車の旅とは出発地でもなく目的地でもない。旅というのは二点間を深めていくことなのだー。 動かずとも絶えず動くこと。コンパクトな空間の役者ひとりひとりが実際に動かずともなにかどこかにむかって常に動いているという印象、そのどこかははっきりとはわからないーデモの現場でもこんな感覚に出会います。とりあえず国会議事堂という説明できる目標がありますがー を観客にもたらしたら、それは充実した思考の時間を構成していく言葉の力なのではないかとおもいました。運動の目的とは運動の他にはないこと、このことを言葉と身体によって考えるというか・・・

【熟練の解体】労働費用節約のため、労働者の持つ熟練技能が、絶えず非熟練労働へと分解されること。マルクスらが提起したが、実際には熟練技能者の努力や企業による再配置・多能工化を進めた事例があげられる。また、非熟練労働は機械やパートなどの周辺労働力に代替されていく。


それを構成する一つ一つの具体的アレンジメントは一個の多様体であり、一個の生成変化、一個の切片、あるいは一個の波動である。そして抽象機械自体は、これらすべての要素を横切る断面なのだ。
千のプラトー:資本主義と分裂症 ‏[(中)p188]



「デモが興奮とボピュリズムを巻き起こすならば、好ましいといえない」

興奮とボピュリズムの脱政治化の安倍政治に仕えるしかない谷垣幹事長がなにを寝ぼけたことをいうのでしょうか?安倍自民党の強行採決とは、人びとが許されているのは「自民党的価値」としての「自由」であり、「民主」だけだということです。戦争法案に限りません。原発再稼働もTPPも、安倍の、戦前の歴史だけでなく戦後史も消そうとする歴史修正主義にたいしても、市民に許されるのは、事実上野党なき限定された候補者についての投票行為だけです。選ぶ民主主義ですらなくなってきた全体主義の始まりというような状況に対する危機感のなかで、だからこそ、政治としての語る民主主義、多様性の諸価値の介入がデモを通じて起きてくるのではないでしょうか

BBCは保守党政府キャメロンの予算削減で非常に苦しいと伝えられてきますが、さすが、というか、当たり前というか、民主主義にかかわるこの大事をデモの現場から映像とレポートをどんどん発信してきます。すでにニュースを知っているわたしたちは、あるいは大手マスコミが報じないならば自分たちでネットで伝えようとしているわれわれは、本当に変な話ですが、テレビのNHKニュースに期待することといえば、ただ、この公共放送が<報道しない報道機関>、<報道できない報道機関>ということの「反証」だけなのです。

<漢字で考える>と<漢字について考えること>

最近、三月に訪ねた台湾のことを思い出します。数日間の短い滞在でしたが、新しく経験したこと、それは、<漢字について考える>ことではなかったかと気がつきます。日本にいれば、漢字の読み書きをします。たったいまこの文を書いているときのように、<漢字で考える>のです。しかし日本で、<漢字について考える>ことはおきません。漢字文化圏ではないヨーロッパに行って生活したときに、<漢字について考える>ことになりました。台湾に行ったときも、ヨーロッパにいたときのように、<漢字について考える>ことになったのです。しかし台湾では、ヨーロッパのときのようには、意識から漢字が消滅し尽くすことはおきません。母国語の外部であり漢字文化圏の内部である、こういう距離の空間への帰属を台湾においてリアルに経験することになりました。


…諸量が次のような結合関係…一つまたは若干の諸量の所与の大きさに、他の諸量の所与の大きさが、しかもただ一つの大きさのみが所属するといった関係にあることを見出だすならば…その体系を一義的に規定されていると呼ぶ。…。われわれはこうした状態を均衡状態と呼ぶ(J・A・シュンペーター)

現代美術の基礎知識

【幾何学】西洋の思想では、幾何学は世界の創造と密接な関係がある。プラトンによれば、コーラと呼ばれる場所での四つの幾何形態=正多面体(プラトン立体)の運動が、事物の生成をもたらす。キリスト教の写本には、建築家としての神が、コンパスを持って世界を創造する様子を描いたものがある。


'安倍政治を許さない'
<もう一つの政治>への願望とその実現への行動の自由と力が、'安倍政治を許さない'のです!

「デモクラシーとは政治的多様性を前提にした、あるいは政治的多様体としての社会を前提にした政治原理であり、社会原理である。複党的政治体制とは<民主的社会>の政治体制である。だから議席の過半数を占めるような政党の成立は<民主的社会>にとっての危機でもあるのだ。選挙の大勝による安倍自民党政権の成立が民主主義的日本にとっての危機であることをわれわれは日々の体験を通じて知っている。だがこの危機は、市民的オールタナティブの結成を急がせるし、そのための行動と発言の自由をわれわれはもっていることをいっそう自覚させる。それとは別の、<もう一つの政治>への願望とその実現への行動の自由と力とをもっていることを、民主的政治の危機はむしろ市民に自覚させるのだ。私は<脱政治化>をめぐっていいながら迂路をたどっているようだが、われわれにおける過半数の議席を占める政党政権の成立や議会的審議の形骸化といった汪輝がいう<脱政治化>の危機とは、むしろ市民的オールタナティヴの結成と行動とを促す市民的<政治化>の好機であることをいいたいためである。それを好機とすることで政治的多様体としての民主主義的社会の原理をわれわれは再確立するのである。汪輝が議会制デモクラシーの<脱政治化>をいいながら、決して見ようとはしないのはこの政治的多様体としての民主主義的社会の原理である。それに対して一党的政治体制とは<もうひとつの政治>、それとは別の政治体制の選択を決して市民に認めない政治体制である。したがってそれは政治的多様体としての社会を前提にしない政治原理、社会原理からなる政治体制である。一切の政治的多様体を認めていない政治原理、社会原理とは<全体主義>である。」(子安宣邦氏より)




子安氏から

3週間のドイツでの休暇から帰ってきて今日から机に向かった。感覚の恢復のためにハンナ・アレントの『革命について』を読み始めた。すぐに頭を目覚めさせ、回転を刺激する言葉にぶつかった。「暴力が絶対的に支配するところでは、法律だけでなく、すべてのもの、すべての人間が沈黙せざるをえない。」「暴力は政治的領域では極限の現象であるというのは、この沈黙のゆえである。というのは人間は、政治的存在であるかぎり、言葉の力を与えられているからである。」「(アリストテレスの)人間は政治的存在であり、同時に、言葉を与えられている存在であるという定義は互いに補いあっている。」「アベルはカインを殺し、ロムルスはレムスを殺した。暴力ははじまりであった。暴力を犯さないでは、はじまりはありえなかった。」聖書や伝説は語っている。「(人間の兄弟関係は兄弟殺しから成長したように)どんな政治組織を人間がつくりあげてきたにせよ、それは犯罪に起源をもっているのである。」「「はじめに言葉ありき」という聖ヨハネの最初の一句が人間を救済するための真実を語っているとすれば、「はじめに犯罪ありき」という言葉は、人間事象の状態ー自然状態ーを示すうえで、幾世紀ものあいだ、この聖ヨハネの言葉と劣らないほど自明の真実を語り続けてきたのである。」私がいまハンナ・アレントの『革命について』を読んでいるのは、人間に沈黙を強制し、人間的言語を抑圧する現代中国の政治的暴力に対するわれわれ人間の言葉を求めてである。
昨夜どうにか読了。原著は63年出版であり、訳書(志水速雄訳、中央公論社)の出版は70年である。今さらなぜ『革命について』なのかと疑うかもしれないが、原著、訳書の出版時に読んでも私は理解しなかったであろうし、そもそも読む気にもならなかった。近代革命とその精神の末路の悲惨、それは一党支配的国家だけではない、多党制的民主的国家の悲惨でもあることを知ってはじめて、この書をいま読む意味があるのである。いや近代革命精神の末路の悲惨は、まさしくここの問題であることを教えてくれたのはこの書であるのだ。


T

ホーホー、アルファベット文字、Tokyo の「T」を利用した五輪エンブレムの問題について毎日盛り上がっていますね、招致のときから問題があった不毛なオリンピックの中止まで頑張るニャ。ところで 私なりに自分の名前 Takashi Hondaのなかの堅く閉じた文字「T」をいかに崩していくかという課題がロンドン時代にずっとありました。あらためて作品を眺めますと、「T」を包摂した円からズレて、右回りの流れ (Tであるもの) と左回りの流れ (Tでないもの) をあらわす円環が描かれていました。これは一体なんなんだ?なにを意味するのか?「T」を成り立たせているシステムの部分(「私」)から、システムについて語る全体(「他者」)を包摂することの無理をあらわしたかったのです。と、こんな風に向こうのロンドンで外国人の頭で構築的に考えたことを、ここ東京で日本人の頭で考えてみようとするとまったくうまくいきません。東京の言語、イメージの帝国の言語にあえて翻訳してみたら、じゃじゃーん、きょうプロフィールに使っているフクロウ猫の姿があらわれてきましたニャリよー


日の丸という単一価値観をあらわすシンボルの下で分断されていることにも気がつかない国民、みずからもその排除の権力の一部となっている国民、外部との接触を通じてつくられる豊かな文化の多様性を拒む国民の全体主義のいまを、無気力に表している大傑作

三角形と円と四角形の三要素でアルファベット26文字を構成するといアイデアは大変わるくないと素人のわたしにはおもうですが、最終案で三角形がなくなっちゃったのはやはり最終案のマッチョな「最終解決」(汗)

サイン・コサイン
デカンショ・デカンショと
と雨が降る

亡き父が時々歌っていた一高寮時代の歌。なんのために、サイン・コサインを勉強するかって?'デカンショ'の理解を確かにするためでしょう。1930年代に十代の学生たちが雨漏りに気がつかないほど熱心に読んだというドイツ語の'デカンショ' (デカルト・カント・ショーペンハゥアー)


 「反知性主義以前の、知に対する無関心」

反知性主義でいわれる主義はなんの主義なのかよくわかりませんけれど、反知性主義が近代的自己に先行する生命や直観を重んじる知をいうのであれば、反知性主義は知に対する関心に規定されています。少なくとも、反知性主義は知に対する無関心とは異なるものだという感じです。では、知に対する無関心とはなにでしょうか?樋口さんのようには西洋における近代のはじまりに遡る必要があるのでしょうか?なぜなら安倍政権の知の無関心は、20世紀の帝国日本の全体主義的軍国主義が生み出した野蛮な暴力だからです。
「長谷部恭男さんたちがああ発言するのは自明のことでした。政権は専門家がどんな議論をしているか、全く無関心だったのでしょう。さかのぼればルネサンスに始まる啓蒙思想、立憲主義といった知の累積に、俺たちは関係ないという態度。反知性主義以前の、知に対する無関心です」 (樋口陽一)


基本中の基本

ー>「運動のなかにある性差別やマイノリティ差別はけっして「些事」ではない。学生運動や労働運動の性差別への批判からリブはうまれた。いま・ここで差別的な運動が、差別的でない将来をもたらす保証など、ない。」(上野)



自己統治のあり方を問う意味

安倍は裸の王様だ!と、街頭に出た若者達は見抜いています。この国の未来を決める力が若者たちにもあります。だからこそ、差別主義者のファシズムに対するときに、もし自らも (見えない他者からみて) 差別に加担しているようでは差別に対するたたかいにならないということは、知らなければならない基本中の基本、自己統治のあり方です。一部の若者に限りません。現場の抗議するひとりひとりは、他者の視線をどこか遠くに置き忘れてしまうことがゆるされません。なぜでしょうか?これを自分のこととして問うとき、わかりませんが、ただ、裸の王様の傍で差別したい自己の欲望に委ねた此処だけしかなくなり、もし他が定位する余所がついになくなってしまえば、そのときこそ、避難所なき、裸の/私/あなた/彼/彼女はもうやっていけなくなってしまうでしょうから


ヨーロッパにおけるマイノリテイーの権利について知りたいと思っていたので、外国時代はフェミニズムの集会があればできるだけ出席しました。私はすこしばかり度胸があります(笑)。女性の出席者3000人のなかで男性が私一人だったときは、「私たち女性の力をまえにして蒼ざめている男が一匹いる!」と壇上から指さされて本当に蒼ざめました(笑)。ダブリンの最後の集会のことを覚えているのですが、フェミニズムの'第四の波'をいうアイリッシュのスピーカーが、これからのフェミニズムは、これまで否定してきた母性を、(新植民地主義に抵抗していく)ナショナリズムのコンテクストのなかで再生させなければならないというようなことをはっきりと言いました。激しく反発した他のヨーロッパとアメリカからきたフェミニストたちと大論争になりました。これは、独立運動のときに、国が搾取される女性として表象されてきたアイルランドでとくに成り立つ主張かもしれませんがね。(女性はこのアイルランド像からも搾取されているので二重の搾取といわれます。) あちらではポストコロニアリズムとフェミニズムと精神分析、これらを束にした視点を勉強させられるのですが、思い返せば、この話は現代思想の編集者にはまったく伝わらなかったですね。もちろん上野さんならばこういうことを知っています。上野さんはこれを知った上で女性原理をきっぱりと否定しています。これを契機に、それはなぜなのかということを、たとえば中沢新一のように女性原理を日本で言うことで起きてくる問題の分析を含めて、いま一度説明し発言していただきたいですね。上野さんの意見と合理的な反論の両方を読むその機会が確保されることを望みます



「みなさんのNHKです」

池上線雪ヶ谷駅前のそば屋にはいる。冷麦を待ちながらNHKのニュースをきく。「維新」のどうでもいいハレンチな内輪話、元自衛隊員の出世話、日銀総裁の空ろな独白的景気話がつづく。戦争法案の審議はどうなっているのかと気になっているところ、パッと素早く切り替わった別のお昼の番組で指示された拍手拍手。パチパチパチと、これでもかこれでもかと途切れることがない。嗚呼、やはり、NHK前の集会などは存在しないんだな。あまりにも広い範囲の人々の共通の関心の番組を作り出すところにNHKの問題があるが、これはどの国の公共放送でも解決できない難問に違いない。だけど、「みなさんの」をいう言説がそれを言う主体(NHK)に与える意味はなにであるかを問うことにはまだ意味があるとおもう。兎角、「みなさんの」とは正反対の意味の「安倍チャンの」へ到達してしまったことは、大いなる皮肉である。現在公共放送の組織の中心(経営委員会)に極右翼がいることの決定的な問題をどうするのか?それをストップさせるための、市民のNHK前の抗議行動だったのにね。昔は、啓蒙のNHKだった。この国の公共放送は、<安倍チャンネルのみなさんのNHK>のまえに、<みなさんを啓蒙していくみなさんのNHK>としてあったということ。公務員宿舎に帰ってきた官僚たちは小さな白黒テレビをまえに、堅苦しい番組をみて勉強したのである。NHKならではのミニマリズム音楽の使用、江戸時代・鎌倉時代の大河ドラマですら、武満の前衛音楽を使っていた。南総里見八犬伝をみれば、仁智礼儀なんとかなんとかとおせっかいに教えてきたものだ。これはもっと後の時代の放送のことだが、ヨーロッパの国際報道を流した放送に感化されて留学を決めた高校生たちもいたんだがな。と、待っていた冷麦の麺がのびきっていてまずい・・・


On black hole (Hawking)

Humans could escape from black holes, rather than getting stuck in them, according to a new theory proposed by Stephen Hawking.
Unfortunate space travellers won’t be able to return to their own universe, according to Hawking. But they will be able to escape somewhere else, he has proposed at a conference in Stockholm.
Black holes in fact aren’t as “black” as people thought and could be a way of getting through to an alternative universe.
“The existence of alternative histories with black holes suggests this might be possible,” Hawking said, according to a report from Stockholm University. “The hole would need to be large and if it was rotating it might have a passage to another universe. But you couldn’t come back to our universe. So although I’m keen on space flight, I’m not going to try that.
Hawking’s proposal is an attempt to answer a problem that has tormented physicists about what happens to things when they go beyond the event horizon, where even light can’t get back. The information about the object has to be preserved, scientists believe, even if the thing itself is swallowed up — and that paradox has puzzled scientists for decades.
Now Hawking has proposed that the information is stored on the boundary, at the event horizon. That means that it never makes its way into the black hole, and so never needs to make its way out again either.That would also mean that humans might not disappear if they fall into one. They'd either stay as a "hologram" on the edge, or fall out somewhere else.
“If you feel you are in a black hole, don’t give up,” he told the audience at the end of his speech. “There’s a way out.”


近代から近世をみる人は、'合理的な'近代に先行して存在した'非合理な'前近代(近世)をわれわれの存在を規定する不可欠なものとみなす。民主主義が定位する民衆のユートピア的互酬性をいう。しかし近世から近代をみる人は既に民主主義が消滅したことをみてとれる。民主主義無き近代の互酬性に、依拠できるような未来はないだろう

NHK包囲集会
- 公共放送前を占拠することの意味

いまNHK包囲集会から帰ってきました。6時半から始まりましたが、流れてきた朝日新聞の記事をみると約1千人が集会に参加したようです。単純に、抗議する人々の量がモノをいう首相官邸前と国会前とくらべて、NHK前はまだ未開拓のフロンティア。公共放送前の占拠といったら、他の国に例がないのではないでしょうか。労働組合が組合らしいことをしないのなら、それは普通の人々がしゃべるチャンスがきたということ。だからかもしれませんが、1000人の少人数でもその抗議は十分に意味をもっているように感じました。今日だれもが一応NHKに対する危機感をもち不満を漏らしますが、もっとはっきりとした公の形でなにを問題とするのか、これからなにを訴えていくことが本当に大切なのか、現場の人々と一緒にさがしている、まだ答えのない面白さがここに。インターネット時代の若い人たちもどんどん参加してきたら問題提起の質が豊かになるのではないかと期待します。NHK前では'憲法9条にノーベル賞を'の運動をやっている女性の報道についてのスピーチをきくことができました。火炎瓶てつさんの元気なお姿も。公共放送の意味と責任を訴えていました。やはりいらっしゃったのですね、永田浩三さんのスピーチを聞けずに先に帰ってきてしまったのが残念。今晩は、安倍チャンネルに堕落した'みんな'のNHKの最初の葬儀だったかもしれません。この葬儀はいつ終わるのか?終わりから現れてくる、'みんな'を再構成した新しい理念とは一体なにか?こうした問いは国会前で問われるべき問いでもあることに気がつきます。短い映像ですが、もしうまく撮れていれば自分の言葉をいれるなどして編集したものをユーチューブにアップするつもりでいます。


アナキズム

後期資本主義における七〇年・八十年代のアナーキズムは、敢えてマルクスのもとで宇宙論的に物語ることをおこなった。そこで理論的に、ノマド的ウロウロウヨウヨから、互酬性と構造の知を切り離すことに努めたのである。グローバル資本主義の九〇年代のアナキズムがとらわれるのは、ポスト資本主義のユートピアであろう。現在のわれわれに影響を与える形で、ふたたび互酬性 (交換様式D)と構造(世界史の構造)を物語るヘーゲルの思弁的知へ後退してしてしまった。21世紀10年代アナキズムは、近代が定位する互酬性と構造の知に依ることなく、ワイワイガヤガヤと語る東アジアのカント (仁斎)を見出していく。白紙の本から、われわれ一人ひとりはなにを書くのか、いかに生きるのか?20世紀の全部が役に立たない。21世紀の全体主義をまえに、われわれはなにも知らない。他者から学ぶだけであるー


経済学者の岩井克人は、不確定なマクロな経済状況での貨幣価値の期待は、特定の投機のインセンティブを高め社会変化の原因になるとしている。岩井は「『期待』は、経済そのものに大きな影響を与える。貨幣を伴う経済にとって、期待とは本質そのものである」と指摘している

wikiより

人工市場 (じんこうしじょう、artificial market) とは、コンピュータ上に、人工的に作り出された架空の市場である。
人工市場の研究は、複雑系アプローチと呼ばれる研究分野の1つである。複雑系アプローチとは、複雑な現実世界の現象を、強い相互作用を持つ要素の集合としてモデル化し、コンピュータ・シミュレーションにより理論モデルの分析を行うアプローチである。複雑系研究の中心的存在であるサンタフェ研究所でも、複雑系経済学の研究が行われてきた。
人工市場を用いることにより、現実の経済現象の分析や、既存の経済理論の検証などを行うことができる。また、人工市場から得られたシミュレーション結果を、実際の金融市場の現場における意思決定の支援などにも用いることができる。

そうなんだよ、この話をするとびっくりされていたんだけど、やっとマスコミが取り上げることになったのか、遅すぎる。あの当時の乗客は自分と一緒に日本から積まれた武器があることを知らないんだね

ー>「イラク戦争時、民間機が100回以上も武器弾薬を輸送していたことが暴露された」8/26報道ステーション



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8月2015年 (3) 言葉と表現と射影のブログ/BIGLOBEウェブリブログ
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