言葉と表現と射影のブログ

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zoom RSS 2015年 10月 (2)

<<   作成日時 : 2015/10/08 11:56   >>

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坂本龍一の音楽は素晴らしいなあ。なかでも、Rain (I want a divorce) が好きでした。1987年のこの映画について、筑紫哲也はラストエンペラーとは昭和天皇のことだと指摘し、手塚治虫はオリエンタリズムだと苦言を呈します。柄谷行人は外部の問題を考えたというのです。が、どれもピンときませんでした。映画の光の知的構成について内在的に語る言葉を読みたいと思っていましたから。そこで、撮影監督ストラーロに関心をもちました(コッポラ「地獄の黙示録」を撮影しました!) 。ベルトリッチと共に手掛けた「暗殺のオペラ 」(70)、「暗殺の森」 (70)、「ラストタンゴ・イン・パリ」 (72)をみていくことになります。撮影監督という存在への関心から、ヌーヴェルバーグを助けたアルメンドロスの仕事も発見しました。恵比寿にいた時代、たまたま近傍・近所にいたフランス人で、パリのシネマテックに来ていたこの撮影監督を大変慕っていたあるドキュメント監督との交流があり、(シナリオを利用して) 遅きながら勉強したフランス語で映画論を読み始めました。ゴダール映画を撮影監督クタールの観点からとらえなおすという必要性を強く感じたものです。そういう映画として「パッション」(81)があります。(ちなみに英語圏の国にいたのに、東京に戻ったときに初心者にフランス語を教えろといきなりいわれた市民大学公開講座ではこの映画を利用しました。) ゴダールをフーコから読み解くときは、渡辺先生がやったような(フーコに先行する思想も歴史的に見渡した) 20世紀精神史の全体像も欠かせません。ここから、朱子学的教説の如きスターリズム(笑)に抵抗する脱構築としてゴダールをとらえなおすことが可能だからです。ゴダール映画全体では、暗黒からの経験知の介入を、理念が定位する光の領域に浸透していく反復の過程として常に語ってきたのです。「ともかく私は、概して、映画のそこが好きだ。説明不在の光に浴す、壮麗な記号たちの飽和」


本居宣長
たゞにいひては、ことゆきがたきこゝろも、萬の物のうへにたとへていへば、こともなくよく聞ゆること、多くあるわざ也、されば、このたとへといふ事、神代より有て、歌にも見え、今の世の人も、常にものすること也(玉勝

古代史はなにかと誤解が起きますね。年表をよく見ると、僅かな記述がありますが、アメリカ大陸には15世紀以前に先住民がいなかったのかという疑問がおきます。たとえば鎌倉時代にはだれもいなかったのでしょうか?あらためてかんがえてみますと、そもそも、なんの尺度で、なにをはかるかという問題は常にあるものです。この場合も、19世紀・20世紀の国家と民族の尺度ではかられる世界史の無理があるかもしれません。19世紀・20世紀の国家と民族の尺度ではかられる世界史は、1870年以降の世界史に限定された世界史であるべきしょう。私の知る限りですが、古代史・中世史を包括したいわゆる'世界史'は日本の学校だけで教えられている学科だとおもいます。

デリダの批評

「ロゴスが無限であり自己現前的で有り得るのは、ただ声を通してのみ自己触発として生み出されることができる。主体を自己から自己へと赴かせる声というこの<意味するもの>の秩序は、主体が発すると同時に主体を触発しもする<意味するもの>を、その主体以外のものからは借り受けない。これが少なくとも声の経験ーあるいは意識ーであって、つまり「自分が=語るのを=聞く」ということである。この経験は、文字言語(エクリチュール)の排除として、つまる<自己への現前>を中断する「外的」、「感覚的」、「空間的」な<意味するもの>への依拠の排除として、生きられまた語られるのである。」

(一揆の)起らぬやうのかねての防き工夫をなす共末を防くばかりにては止ミがたかるべしとかくその因て起る本を直さずはあるべからずその本を直すといふは非理のはからひをやめて民をいたはる是なりたとひいかほど困窮はしても上のはからひだによろしければ此事は起る物にあらず(祕本玉くしげ)本居宣長 ‏


Japan threatens to halt Unesco funding over Nanjing massacre listing http://gu.com/p/4d8z8/stw

リゾームbot ドゥルーズ=ガタリ ‏
…それゆえに彼のテクスト群は、一個の実体ないし主体の内面性によって形成される古典的ないしロマン派的な本に、あらゆる点において対立する。国家装置としての本に対抗する戦争機械としての本。n次元をそなえた平たい多様体は非意味的であり、非主体的である。


声しかなかった時代は、空間的でない(いきなり始まる)、感覚的でない(ずっと赤色)、外部的でない(他国との連結がない)。そこに、「自分が=語るのを=聞く」という純粋な声の経験を重ねよと「世界史対照年表」はいうのか?無理無理。文字を読む人々の文字なき人々への勝手な思入れ、偽の歴史概念

どんな国も他の国によってみとめられなければ存在しないということが理解されていませんね。ほかの国の公の記録がなければただの自己証明でしかないこと。また7世紀に先行して1000年間の圧倒的な文化が中国にあったことなどを考えると、7世紀以前は、中国から離れていきなり誕生したとは考えにくいこと、おそらくは中国と朝鮮と日本との区別がつかないくらい一体だったか、百済王国の地方だったのではないですか。戦争の敗北の結果、独立する必要に迫られるなかで、「日本書紀」のような、国家のアイデンティティーの記録が編集されることになりました。ただしそれは中国の知識人と朝鮮の知識人、そしてかれらに育てられた日本知識人との共同作業だったことによく注意する必要があります。ちょっと考えれば当たり前なんですけどね。だから戦後憲法についていうと「アメリカ人に押しつけられた」と特別に残念に思う必要などありません。そもそもこの国は最初から他者との共同作業で成り立ったのですから。残念に思わなければならないことがあるとしたら、敗戦後に憲法に誓った徹底的な平和戦略を実現することに向けてそれほど十分に努力したのかということ、努力したとしても自民党政府に敗北させられてきたこと(朝鮮戦争、ベトナム戦争、イラク戦争)。日清・日露戦争を侵略戦争とみとめない歴史修正主義者の発言をゆるしていること。「古事記」ブームが神の国があったという'古代史'を実体化していることなどです (「日本会議」の方向)。


ミシェル・フーコー
古典時代の思考にとって、有限性というものの内容は、ただ無限性の否定だけであった。ところが18世紀末に形成される思考は、有限性というものにポジティヴなものの力を賦与する。その時に出現する人間学的構造は、限界を設ける臨界的役割と、起源をつくる役割とを、同時に果たす。−臨床医学の誕生−

Marguerite Duras; Ton film est très beau.
Jen-Luc Godard;Tu sais dire du ben des choses, toi. Moim je sais mieux du mal.
Marguerite Duras;Mais il ne faut pas en dire systématiquement, si tu ne le panses pas.Ton film est très beau, mais je me demande la raison d'être du text.On ne peut pas faire un film sans paroles?
デュラス「あなたのあの映画(「右側に気をつけろ」)はとても美しい」
ゴダール「あなたはほめる術を心得ている、でもぼくはむしろけなす方を心得ている。」
デュラス「でもそう考えていないのなら、いつもきまってけなしたりすべきじゃない。あなたの映画はとても美しい。でも、どうしてテクストが入っているの。言葉のはいらない映画をつくることだってできるわ」

大胆にも、大島渚は自らがヌーヴェルヴァーグに十年先行できた理由として、フランスと比べて早く日本で共産党の権威の失墜が起きたからだと看破した。このときのゴダールの沈黙はどう解していいかわからない。大島に承諾するかは別として、やはり次のことを考えなければならない。公的なものを語る純粋理性としてのコミュニズムの自己否定はその反対物、極端に純化された私的なものへ行く。それは、文字を持つ者が投射する(どこの世界にも存在しないような)文字なき社会の如く表象されるところがある。( 例えば転向した?網野のアジールとしてのマーケット的世界。) 反論があるかもしれないが、パレスチナから帰還した80年代以降のゴダール映画をみると、ゴダールは純化された私的な感覚への埋没を隠蔽しているとおもう。「ソーシアリスム」以降は単純になったが、この時代は不気味な葛藤と隠蔽がある。ただしそこに、公的なもの (「社会」)と私的なもの(「個人」)との対立というステレオタイプのリアリズムの反復をみることはできない。そこが問題ではない。たしかに映画は多様になった。映画は美しくなった。そこが問題となってきたのである。マグリット・デュラスはゴダールにむかって、「あなたの映画はとても美しい」というとき、美しすぎると言おうとしていたと考えるのは過ぎたる深読みか?だからといって、芸術至上主義とか神秘主義とかをいう反リアリズムの陳腐な反復をみようとしているわけではない。宗教的な映画であれば、ゴダールはロッセリ二のように単純になっただろう。しかし言葉に覆われた美しい映画は複雑なのである。リアリズムからも反リアリズムからも自らを差異化する、美しい映画が反復すること、これが新しく言われはじめた言説である。映画の歴史において、このことの意味が問われなければならない。



「日本の美」をいう安倍と日本会議の歴史修正主義者のために、わたしは/あなたは/かれらは/彼女は/人々は,そのつもりがないのに, 戦前のときのように再び孤立した人類の敵としてみられることになるのかでしょうか。絶対にお断りです。一方的に勝手に押しつけられている「日本の美」が、なにか、救済宗教化のようなものとして受容するかもしれない世論操作の動きと日本会議を支持する文化人たち(NHK経営委員の長谷川三千子その他)に警戒中
「日本、南京大虐殺をめぐりユネスコへの資金提供を止めると脅迫」、「日本の新聞は、団結してユネスコを非難した」(ガーディアン紙)


Lacan
Là-dessus je lâche le morceau de ce que répond le discourse analytyique à l'incongru de la question; que puis-je savoir?
rien qui n'ait la structure du language en tous cas, d'où il résulte que jusqu'où j'irai dans cette limite, est une question de logique. (...car <a-priori> est le language )
Well, after all, I'll spill my gut about the analytic discourse's response to the incongruity of the question; what can I know ? Reply; nothing in any case that doesn't have the structure of language; whence it follows that the distance I can go we within this limit is a matter of logic. (...because <a-priori> is the language)



「論理学と言語」より引用

,[全てのものは地上にすむ]は

  For all x, x lives on the earth.

と同じです.(For all x)の部分を論理学では(∀x)と書きます.従って

  [全てのものは地上にすむ] = (∀x) Live_on_earth(x)

  と書けます.なお∀は全称(ぜんしょう)記号(universal symbol)といい, All の A を逆さにしたものです.また ∀x の部分を全称作用素(universal quantifier)といいます


There exists x such that x lives on the earth.

です.(There exists x) の部分を論理学では(∃x)と書きます.従って

  [あるものは地上にすむ] = (∃x) Live_on_earth(x)

  と書けます.なお∃は存在記号(existential symbol)といい,Exist の E を逆さにしたものです.また∃x の部分を存在作用素(existential quantifier)といいます



タイムラインに流れてきたこの映像とは関係ありませんが、ICAでおこなわれるかれの講演の直前に立ち寄った中のカフェテリアで直ぐ後ろに並んでいたときは、Σ(・ω・ノ)ノ!なんか配管工事のときのような作業服を着ていましたが、しかし注文はカフェ・オレでしたヽ(^o^)丿思い返すとロンドン滞在中に四回は講演に聞きに行きましたか。
ジジエクの思想についてはよく理解しているとはいえませんし、残念ながら人気の映画論の良さもあまりピンとこないままなのですが、ただこの映像では、Zizekは野心的に、黒板にマルクスとフロイトの思考の形式をならべているようです。ラカンが講義のときにやったみたいに論理記号を使用して諸概念を差異化しようということなのですね。見えるかぎりのサインを(勝手に)読み取ると、∃x¬Φx と ¬∃x¬Φx は、それぞれ、否定性からアプローチする多様性(マルクス)と、非排除性からアプローチする多様性(フロイト。ヘーゲル左派的な全体性のアプローチ?)を表しているのじゃないかな。僅か数分でなんかすごい。あえて哲学を思弁的にかんがえた、「精神」のヘーゲル、「労働」のマルクスにたいして、カントは人間について語りました。それがラカン的な意味でラジカルなのです。なぜかというと、Zizek曰く、"The radical Kantian position is that it's only yourself who authorizes yourself this is and again and you can see it's something very radical."


感想文
ーMozart 魔笛Die Zauberflöteを観劇 (ポーランド国立室内歌劇場オペラ)
最後にロンドンで魔笛をみたときに、隣の観客女性が「オーストリアの政治権力を反映した物語」と連れの者に囁いていたのがずっと気になっています。そうなのでしょうか?三人の侍女たちはジオットの絵の天使みたいです。そういうこともあって、今回の舞台はいつもよりも弁者(僧)の存在感を感じました。さて第二幕では古代エジプトの弁者(僧)ザラストロは、タミーノとパパゲーノに試練を与えます。試練を乗り越えればタミーノはパミーナと結ばれ、パパゲーノは恋人を得られるのです。最後の試練は「沈黙」。この沈黙は一体なにを意味するのだろうかと私は考えました。沈黙で意味されるのは、話すことをやめること、代わりに、書くことではなかっただろうか、と、気がつきました。こんな風に考えているのはだれもいないと思いますが(汗)、 そうして再び舞台をみますと、僧が定位する文字の巨大な権力に屈するのは王子タミーノにとってはそれほど困難ではないけれど、外部者パパゲーノには同化の苦痛に等しいはずです。中々沈黙しないパパゲーノのお喋りな様子は、観客の笑いを誘います。が、これは帝国の統治というものがそれほど簡単には行かないことをあらわします。つまり帝国において周辺との政治的関係が絶えず緊張してきたことを教えるのではないでしょうか。ところがパパゲーノを文字なき道化とみなすときこのようなリアルな政治的な関係の隠ぺいが生じるのです。山口の天皇性的構造論のように、構造論的に王制を安定させてしまう物語に置き換えられていく解釈ということですね。




子安氏からの引用

「私は津田の記紀研究を「神代史」の徹底した脱神話化作業として読んだ。そして津田のこの作業の射程は、百年後の21世紀日本における『古事記』再神話化の風潮にまで及ぶものであることを知った。あるいは眼前に見る『古事記』再神話化の風潮が、私に津田の「神代史」批判を再発見させたともいいうるだろう。津田によって脱神話化された『古事記』を昭和日本は国体論的神話として再神話化した。敗戦後の日本は津田を継承する歴史家たちによって『神代史」の批判的研究は展開された。この戦後的記紀研究の展開の中に再神話化の兆しがなかったとはいえない。〈民衆的〉神話の発見として。だが日本「神代史」における〈民衆〉の不在をいったのは津田ではなかったか。津田は戦後にどのように継承されたのかが問われねばならないが、その津田の名がほとんど忘却された平成になって、『古事記』ははっきりと日本人の〈神話〉になった。この『古事記』の再神話化を推進したのは安倍を支える〈日本会議〉の歴史修正主義的日本主義者だけではない。たとえば『現代思想」11年6月の「古事記」特集号に見るように民俗学者・構造主義的社会文化学者・考古学者・国文学者・神道史家らが梅原猛といった名うての文学的挑発者ともによってたかって『古事記』の復活、再神話化を煽り出している。21世紀日本における『古事記』の再神話化とは何を意味するのか。それはグローバル時代における〈日本〉への大衆的救済願望を反映するものだろうか。たしかにこの〈日本〉にかけた大衆的救済願望が全体主義者安倍を根底で支えているのかもしれない。昭和全体主義の中で潰された津田の記紀批判を、平成のいまわれわれは声高く再生しなければならない。」

" The sun shone, having no alternative, on the nothing new '
- Beckett, Murphy


最近はこれを指摘する意見をあまりきかなくなりましたが、国家が無実の者を処刑したらそれは国家犯罪です。ここでお話したい免田事件とは、1948年に起こった初めて死刑判決に対する再審無罪が確定した冤罪事件です。再審ではアリバイを証明する明確な証拠が提示されたことで、1983年7月、発生から34年6か月後、死刑囚に対しては初となる再審無罪判決が言い渡されます。学生だったときに、無罪判決を勝ち取った倉田弁護士から伺いました。倉田氏は免田氏にあえて犯行をみとめたうえで凶器の返還をもとめるという方法を提案したのです。免田氏は殺人など犯していませんから当初はこの法廷戦術を拒みましたが、若い弁護士に委ねることにしました。「殺人につかったナイフは自分の所有であるからこれをかえせ」という民事訴訟を起こしました。これにたいして検察側は呆然としたといいます。検察側はいつまでも「ナイフ」を裁判所に示そうとはしません。当たり前です。最初からナイフなど存在していなかったのですから。一切合切が検察の作り話でしたから。民事訴訟の勝訴から、再審請求が一気に進んだのです。なぜ冤罪が起きるのか?倉田氏が話したポイントだけ書いておきます。第一に、裁判官が証拠を見ようとしないこと。裁判官は検察の作り話を証拠にしているとしかおもえないほど検察を信頼していたこと。第二に、裁判が長引く過程で検察は次々に交代していくのですが、実は新しく引き継いだ検察であるほど無罪であることを知ります。が、責任をとりたくありません。第三に、裁判官の方も無実に気がついても世論を非常に気にしたのです。世論は被害者家族に対する大きな同情があります。誰かが犯人であるこはずだ!あいつがやったに違いないという声が絶えず起きてきます。通り魔的な犯人をさがせないときの遺族補償がしっかりしていないから遺族も非常に苦しい立場に追い込まれるものです。この世論に裁判官が影響を受けました。死刑の問題をかんがえるときこういう構造を知る必要があるとおもいます


「ユリシーズ」を脱神話化していくこと

ブルームが「諸君の神は僕みたいなユダヤ人だった」というと。怒ったアイルランド独立運動の愛国者は貴様を十字架に貼り付けにしてやると爆発。ところで(愛国者がみとめるように) 神が人間らしく生かされたり殺されたりすることが起きるのはなぜか?宇宙的原理である神ならば消滅することがないはずです。神が人間らしく考えられてきたのは、それはこの神がただ人間だからです。ジョイスはそう言い切ります。ジョイスの凄いところです。キルケ挿話でかれはBloomusalemの君主として考えられています。さて八十年代にジョイス「ユリシーズ」の翻訳が非常に充実しました。ホメロス的「ユリシーズ」とはわれわれがどこから来たのかそしてどこへいくのかという起源を物語る叙事詩でしたが、ジョイスがこのホメロス的「ユリシーズ」を脱神話化したとしたら、そこから、ポスト構造主義のデリダは「ユリシーズ」をテキスト的に解体していく必然性がありました。そして九十年代のジョイス「ユリシーズ」のアイルランドからの読みは、'われわれ'をいうエスタブリッシュメントの国策的ポストコロニアリズム vs. (ブルーム的)市民のグローバルデモクラシーの政治的関係を呈示するものとなりました。ブルームの言葉は経験知の介入として読まれたのではないかと考えます。グローバルデモクラシーは人間が一人でも飢えてしまうとしたら民主主義性がないという理念をもたないかぎり、そこではもうわれわれはやっていけなくなることは明らかです。


千のプラトー:資本主義と分裂症

戦争機械とともに、そして遊牧生活において、数は数えられることをやめて<暗号>になる。そして<暗号>として数は「団体精神」を構成し、秘密と秘密をともなうもの(戦略、諜報活動、謀略、待ち伏せ、外交交渉、等々)を発明するのである。――(下)p89

WHAT IS CONTEMPORARY PROCESSE ?

Each building is a microcosm of the world city as a whole, familiar yet strangely alien, gratuitous yet rational. Correspondingly, any pig is ' no longer numbered, but becomes a Ciper (Chiffre), and it is in this capacity that it constitutes the 'esprit de corps' and invents the secret and its outgrowths ( strategy, espinoage, war rules, ambush, diplomacy, etc) (D&G)

What is ' a whole' ?
' The body without organs is produced as a whole, but in its own particular place within the process of production, alongside the parts that in neither unifies nor totalises' (D&G)

CONTEMPORARY PROCESS

MVRDVというグループ( Winy Maas, Jacob van Rijis & Nathalie d Vries)で、 Pig City (2001)というプロジェクトです。
親しみを覚えるけどどこか妙にヨソヨソシイ、荒唐無稽でありながらそれなりにきちんと合理化されている、という、全体としての都市世界a microcosm of the world city as a whole 表出したミクロコスモスかな。パブリックの領域とプライベートの領域とが複雑に絡み合う、'未来社会' future city / pig city は、流通・交換が社会の基底となり(近さと遠さとが、不合理性と合理性とが、不断に互いに転位しあう)、そこではひとつひとつのブタちゃんは「数は数えられることをやめて<暗号>になる。そして<暗号>として数は「団体精神」を構成し、秘密と秘密をともなうもの(戦略、諜報活動、謀略、待ち伏せ、外交交渉、等々)を発明するのである」(ドゥルーズ「資本主義と分裂症」より) a microcosm of the world city as a wholeでいう全体性とは哲学的に言うと、全体化できないような部分の傍らで生産されていく、(特殊な領域に定位する)全体性というか。



ヨーロッパではうまくいくのに、日本ではなぜ自発的な市民運動がかならず挫折を被るのか?
身近な話からしますと、昨年の秘密保護法の強行採決のときは内閣支持率が3割台まで下がったのに、その後5割近い安定した支持率になりましたように、戦争法の強制採決のときは3割支持、ところがもう現在4割台に回復してしまいました。秘密保護法と戦争法にたいして人々は反発していることはたしかですが、しかし、なぜ、総体としての?安倍内閣への白紙委任みたいな信頼感がくりかえし生まれてしまうのだろうか?復興幻想のナショナリズム、(煽られた)中国に対する対抗的ナショナリズムがその背景にあるかもしれませんが、それだけでは説明しきれないようです。ヨーロッパではうまくいくのに、日本ではなぜ自発的な市民運動がかならず挫折を被るのか?それは、国家が市民運動を無視するからです。憲法25条のようなものですら市民の声を聞かずに勝手に解釈改憲してしまうほどです。それにたいしては、根本的なところで、自分たちの生の問題を自分たちの環境(労働・生命・欲求の現実)に沿って観念的に考えていきそこから問題の解決に向かって自発的に行動しようとする人々について、これらの者たちは国にさからう危険分子だというふうに国民は今日まで思いこまされてこなかったでしょうか。そうだととしたら、この決定的な方向が、(ヨーロッパ的な市民道徳に対抗する)国家道徳・国民道徳をいう教育の介入によって日露戦争後に決まったということことをかんがえてみる必要がないでしょうか。明治の終わり、明治の元勲たちが殆ど死んだあとに、大正のはじめに、国家が市民が立ち上げれないように国を設計したというか。日本では市民運動がかならず挫折を被るというジレンマを解決するためには、大正時代(前後)から満州事変までにどのような思想の歴史が展開したかを知ること、考えることが大変重要となってきたとおもいます。


山住正己『日本教育小史』(岩波新書、1987年、78〜82頁)より引用

日露戦後、日本の教育は一つの曲り角を迎える。講和条約に不満を抱く民衆は日比谷焼打事件などを起こし、政府は戒厳令を布いてこれに対処しなければならなかった。しかしそれが鎮静化するとともに、日露戦争の勝利を祝う美酒に酔う人々が多かった。一方、労働問題が起こり、社会主義思想や文学における自然主義などが、人々の心をとらえ始めていた。

 これは政府にとっては焼打事件以上に放置できぬ事態であった。文部省は、当面、これらの思想の影響を受けて活動を始めるおそれのある学生・生徒を取締るため、1906年、文部省訓令により、学生・生徒に対し「風紀振粛」を求めた。訓令では、学生・生徒の本分は「健全なる思想」をもって刻苦精励するところにあり、それは、とくに戦後の国家にとって大事だというように、はっきり戦後を意識していた。

 訓令は、憂慮すべき事態をもたらしたものとして軽薄の風潮、詭激な言論、厭世の思想、陋劣の情態などをあげたが、政府がもっとも恐れていたのは社会主義であった。
……

 この訓令は、社会主義思想を鼓吹する者がいるとのことを「聞く」といい、「もしそのとおりであれば」というように、伝聞・仮定の形式をとりながら、社会主義思想を弾圧しようとの決意を示している。そしてそれの実施にあたっては、またしても天皇の詔勅が利用された。
 
 それは、1908年、戊申の年に出された戊申詔書である。詔書は民心の動揺をしずめ、上下(皇室と国民)心を一つにして勤倹節約につとめ、荒怠を戒め、国運発展に向け、「自彊息(じきょうや)まざるべし」と呼びかけていた。その後、これは国民教化に関し、教育勅語につぐ重要な詔勅とされるようになった。

 ところが、これら詔勅の趣旨に反する記述が国定日本史教科書に掲載されていることが、1911年、帝国議会で問題とされた。それは南北朝正閏問題である。教科書では、鎌倉幕府滅亡直後、南北両朝が並立していたと書かれており、これでは「万世一系」に反するのではないかという疑問が出されたのである。大逆事件に悩まされた政府は、また難題をかかえたのだが、政府の処断は速く、南朝を正統として教科書を修正、教育現場の動揺を抑えこんだ。

 国定歴史教科書の編者は、歴史には三種類あるといっていた。第一は学問研究の成果に立って書かれる歴史であり、第二は一般世間の人が大衆小説・講談・芝居などによって楽しむ歴史、そして第三が文部省の教則にしたがって書かれる歴史である。第三の歴史と第一の歴史とのくいちがいは多かったが、国体の尊厳を知らせ忠君愛国の精神を身につけさせるという歴史教育の目的からいって、そのくいちがいはやむをえないとされた。このような学校向けの歴史に疑問を抱きながら、大学へ進んで研究成果を学ぶ機会のない多くの人たちは、第二の歴史に満足する他なかったのである。

 日露戦後の教育政策の特徴は、このような学校の統制にとどまらず、全国民を支配下に置こうとしたことであり、これは政府による社会教育の強化といえる。ただし、すでに『社会教育』と題する著作(山名次郎著、1892年)はあったが、「社会」の語は社会主義を連想させるとの用心から、「通俗教育」と称することが多かった。

 政府は維新直後に大教宣布運動を起こしたが、国民教化のため学校外の教育に強い関心をもって本格的に取りくみ始めたのは、日露戦後からである。文部省は、戦争終結直後の1905年9月に通俗教育調査会を置き、地方青年団体や通俗講演会などに関する調査・建策にあたらせた。12月には文部省として青年団体に対する最初の通牒を地方長官宛に発し、青年団体は風儀の矯正など通俗教育にとって少なからぬ役割を果すのであるから、それら団体を「誘掖(ゆうえき)指導して一層有効のもの」にすべきだと提言した。

 村々には近世以来、若者組や娘組という青年たちが自発的につくった集団があった。それらは共同体の労働・警備・消防あるいは祭礼などの行事に集団として取りくみ、村で一人前の活動をするうえで必要なことを自主的に共同で学習する場であった。維新後、これらの他に青年会や処女会と称する集団もつくられていたが、政府はこの時期から、それらを解体し、公認の青年団への再編成をすすめたのである。

 文部省では、さらに大逆事件をきっかけとした桂太郎内閣による社会主義弾圧の一環として、通俗教育調査委員会を設け、通俗図書、幻燈・活動写真、通俗講演などを活用しながら敬神崇祖の観念を中心に「我国固有の国民道徳」の普及にのり出した。委員会は1913年に廃止されるが、同時に図書やフィルムなどの認定規程が制定された。

 青年団体に関心をよせ、これに介入しようとしたのは文部省だけではなかった。内務省も戦後、地方青年会の発展に関し最初の通牒を発し、さらに教化事業などにより地方行政の効率をあげようと地方改良事業にのり出していた。それは地域全住民を対象に、青年団・戸主会・婦人会さらには報徳会などの組織を利用して自治民を育成し、公共・共同・自営の精神を育てようとの事業であった。ここでいう「自治民」とは、「自主的に」政府に協力する者に他ならなかった。

 軍部もまた1910年、在郷軍人会を組織して「思想善導」にのり出した。戦後、軍隊帰りの者を予備役として軍事能力をきたえるとともに、彼らが町や村でときに乱暴を働いて世間の非難を浴びるという状態を改めようとしたのである。しかしこの組織はそういう目先きのねらいをこえて、軍隊を国民と結合させる連鎖とし、軍国主義思想を国民に浸透させる役割を果すようになる。この組織を構想したのは田中義一である。彼は後に陸相・首相となるが、この時期から教育とくに青年期教育に関心をよせていたのである。

 このような教育統制がすすむなかで起こった明治天皇の死は、国民に一つの時代の終りという感を抱かせ、つづく乃木稀典(まれすけ)将軍の殉死は衝撃をあたえた。乃木は指揮官として無能であり、日露戦争の旅順攻撃では多くの若者を犠牲にしたし、教育者としても迫力を欠いていた。しかしこの時代錯誤の殉死という行為は、政府により武士道の権化として利用され、言論人の多くもこれを讃美した。それらは学校や出版界に影響をあたえ、大いに利用されることになった(たとえば1936年創刊の「講談社の絵本」第1巻は『乃木大将』であった)。



'68年知識人'解体カッターの跡。分割数十頁を持ち歩く。
表層に雑草のごとく覆いはじめた、絵のアイデアのメモ書き。
斜線。近傍。アルファベット特異点たち。そうして徴は至るところに


断絶は思考の特異点とみなすべき思想史のブラックホールなのだろうか?
ー 近代日本における近世からの断絶の問題 -


近代日本における近世からの断絶の問題

反復をいかに観察するか?同じことは再び起きない。常に異なるものが繰り返されるのです。さて古義堂の仁斎は倫理的な人間的世界を考えた思想家です。武士階級が支配者となる政治体制のもとで再び始まった学問の方向が、武士が反発した (朝廷・貴族・寺社が依存したいわば) 超越性に対する反発にどうしても規定されざるを得なかった事情があるでしょう。武士政権のおかげで朝廷・貴族・寺社の学問の独占がなくなり、江戸時代の町人を通じて近世の学問が立ち起こったことは必然性がありました。しかし決して単純ではありません。支配層の武士の中から被支配者の町人の学問を学び、これを発展させる者たちが出てきたからです。 (例えば「法の世界」のことを考えた徂徠)。ここから今度は町人階級が武士階級の研究から学び学問を発展させていきます(例えば国学を完成させた宣長は医者。文献的な方法として、文字なき美的世界の成り立ちについて考えました。身分的には仁斎と同じだったが、学問的には徂徠の研究に触発されたとかんがえられます。) 見逃すことができない点は、こうした非連続性の連続性の根底に、いいかえると反復しない反復の傍らに、徳川日本の豊かな漢字文化が存在したことです。「論語塾」の子安氏によると、漢字文化が可能にした西洋文献の翻訳の蓄積がなければ、明治の西洋を学問を受け入れた近代化はそれほど成功しなかったにちがいないのです。(徂徠そして宣長・篤胤の研究から一定の影響をうけた後期水戸学のナショナルな教説に規定されながらも)、革命 (明治維新)をになった下級武士達は、しかし明治以降は、自らを、伝統をなす江戸思想の影響圏から断ち切っていくことになりました。ゼロから出発した近代といえるものです。例えば社会契約的な考え方はすでに江戸思想にあったことがわかってきましたが、あらためてそれがかえりみられることもなく、まったく新しく西欧の社会契約論がヨーロッパから輸入されたのです。このような近代における近世からの断絶は、どうして起きたのでしょうか?断絶は思考の特異点とみなすべき思想史のブラックホールなのだろうか?他の国ではどうなのか?多くの議論がありますが、一見すると、イスラムの近代化は近代日本ほどには過去の伝統を断ち切ったようにはみえません。明治日本は日露戦争まで僅か三十年で近代化を達成させてしまいます。西欧のルネッサンスからの500年間をたった30年に縮約した、そんな日本の近代化は、それほど意味と内容をもっていたのかと問うたのは夏目漱石です。最後に、近代化における植民地化の側面を強調すると、極端に急激な近代化はアイルランドで起きた可能性のことが指摘されます。土着アイルランドの貴族たちの英国に対する蜂起が失敗したあと一斉に大艦隊でイタリアに逃げたためにエリザベス朝の植民地化を急激に推進させてしまったとみられています。ブライアン・フリールの戯曲「歴史を書くことMaking History」はこの歴史を題材にした芝居、大河ドラマで、ダブリンで大変興味深く観劇いたしました。

平民とは何であったか?

'平民'という言葉は明治に遡るのですが、'大衆'と同様に、大正からデビューしてくる言説です。蘇峰の平民主義は国家主義に吸収される'平民'です。他方で、国家に吸収されない'平民'を考え、(日本の歴史に欠けていた)民衆の自立性をいかに築くかという問題意識をもったのが中江兆民や津田宗吉の平民主義です。'平民'は子安宣邦氏が大正で発見した言説だといいます。暴動主体という'大衆'の登場に関しては、平民との対応があります。国家権力の収奪を目的とする社会主義の労働者をいう言説は、マルクス主義の教説にしたがって階級闘争へ転化していく力を構成しました。大衆の暴力は日比谷公園焼き討ち事件のような植民地戦争を推進し、またファシズムとしてのスターリニズムを成立させる力でした。他方で幸徳秋水が主張する、国家権力の収奪を考えない、ナショナリズムに行かない'労働者'の言説は重要。が、大杉栄のように20世紀においてはこれは孤立し国家に殺戮されていく言説でした。後期近代・グローバル資本主義の時代では、国家に吸収されない市民のあり方(丸山の市民ではなく寧ろ小田の市民)、国家的枠組みを外したアジア的連帯が注目されます。だが思想的反動が、「古事記」を復活させ古代史を実体化させている読みを通じてあらわれています。近代の「古事記」とは、観念上の構成物(を近代的に都合よく再構成したイデオロギー。国民文学の「古事記」)という批評性を欠いた読みのこと。山口や網野の (天皇性を安定させてしまう)民衆史的な天皇制的構造論、梅原の妄想的な歌舞伎古事記、そして古事記特集「現代思想」の上野千鶴子や三浦の古代史を実体化する仕事に警戒しています。「普通の人」「普通の日本人」という歴史修正主義的なナショナルな言い方が流通してきたことと相関的かもしれません、これらの言葉ほど、「普通の国」であることをやめるとした敗戦後の(平和への)誓いを嘲笑った言葉はありません




昔書いたもの

「18世紀のネットワーク ー 商業の大阪、政治の江戸、学問の京都

私は専門家ではないので間違ったことをいうかもしれませんが、幕藩体制の構造から、ヨーロッパ社会史では「所有権」と意味されるはずのものが、二つのモメントに分裂していきました。いわば公的なモメントの統治権と、私的モメントの所有権へと。前者に関しては、江戸幕府のこの統治権による支配は、鎌倉幕府のそれと比べて、地域的普遍性がありました。後者については、統治権と所有権の間に成り立っていった交通が大変重要な意義をもちました。つまりモノとともに知識も流通したからです。興味深い話ですが、自然哲学の三浦梅園や教育学の広瀬淡窓という、現在大分県にある、当時は辺境だった場所にいた儒学者は、豊後水道によって、商業の中心にあった大阪に、懐徳堂(大阪大学の前身)に、交通的に繋がっていました(子安氏)。梅園は外に出ませんでしたが、知識を媒介とした学問的交流があったことが確認されています。さて政治の中心は江戸でしたが、思想と文化の中心にあったのは、京都です。(武士が排除していく)天皇・貴族・寺院が独占していた学問を、京都の伊藤仁斎のような町人出身の儒者が広めていくことになりました。古義堂に貴族・商人が学びに来ました。仁斎はこの古義堂の前を歩いていた農民を中に招き入れて教えたというエピソードも。今の大学のようなマス的な教授ではなく、一対一で教える方法をとりました。なんといっても、思想界の東の横綱・伊藤仁斎と、西の横綱・カントは、18世紀に生きた同時代の思想家であります。ところでこれについては、貴族が町人出身の学者に学ぶというようなことはヨーロッパではあり得ないか、非常に例外的なのではないでしょうか。これはわたしの勝手な説ですけど、もし武士があつまった堀川にあった山崎闇斎の塾が尊王攘夷の源流を形成したとしたら、仁斎の古義堂こそは小田実の「でもくらていあ」の原点だったといえないででしょうか?

子安宣邦「論語塾」のたたかいとはなにか?なぜ仁斎とともに読むのか?

柄谷独自のコンパクトな多義性の尺度では、宋はそれほど帝国的だったか?この時代に朱子は、アジア的社会構成体の互酬制から国家への移行を証言した「論語」を読んでいました。そして朱子の読みは、江戸時代の仁斎が京都の古義堂において、商業資本 G-G'の台頭の中で批判的に読んだのです。2014年現在、子安氏におけるこの仁斎の読みは、他でもないグローバル資本主義の危機がまさに促すものではないでしょうか?鍵となるのは、文献学と注釈学と、市民社会のマルクス主義的ポスト構造主義です。 このように原初的テクストの読みにおいては大きな歴史が互いに繋がり合っています。
伊藤仁斎が瞑想中心の知のあり方に限界を知るのは三十歳半ば。仁斎が部屋から廊下を横切って庭に出たとき、それは朱子の宇宙的精神主義の連続性を立ち切る流れ、言い換えれば、孔子の十余年間魯を去って諸国を歴遊した流れに再び繋がる流れを構成しました。17世紀の東アジアの知識革命はこの家から起きるのです。つまり、武士が台頭してくる近世に、朝廷・貴族・寺社が独占していた学問(儒学)に、商人をはじめとする民衆がはじめて接近することが可能となったということです。

今日書店に並ぶ現代語訳「論語」のハウツー的入門書や解説書はむしろ、"もう何も失うものがないからこそ、何かを獲得することができる"と期待する人々の為のものです。読者は、再び彼らが依った言説から内部の世界に何かを読み出すために、そうした身体の礼儀作法を教える功利的な言説を必要とするのであろうか。
呪縛してくる言説のあり方を問う意志というのは、"もう何も獲得できないときにも、なにかを失うことはできる' と、絶望しきった絶望感からしか到来しないのです。だから仁斎は「天道」を再び言ったのです。「論語」は専ら知的論争の方向に沿ってラディカル化しハイブリッド性を極大化していきました。一方礼の言説は極小化されていきました。

小林「本居宣長」も山口「文化と両義性」も、マルクス主義の貧しい単一的リアリズムを批判した問題意識から書き始めたにもかかわらず、再び単一視点に絡みとられた文学的読解・人類学的読解によって、二十世紀の「古事記」を祀る国家=戦う国家のために作り出していったのではないでしょうか。九十年代に「遅れてきた」子安宣邦の思想史転回は、七十年代・八十年代のそれらの知的へゲモ二ーの外部から現れて来たのであったー今日「論語塾」においてたたかいは継続中です。単一視点に絡みとられた文学的読解・人類学的読解にたいして、仁斎とともに読む「論語」の読みが織りなす、定義を避ける問題提起的な、文献学的視線を含んだ注釈学的思考が導入されてくることになります。このような注釈学的思考は、同じ重要な問いのもとに執拗に繰り返し帰っていく多孔性の抵抗の思考。「論語」のダイアローグの力はこの多孔性にかかっていたといっても言い過ぎではないが、この注釈学的思考は柄谷行人において決定的に見失われるものであろう。現在柄谷が行なっていることは、グローバル資本主義から起因する動乱を民族問題として整理し「帝国」の中心的役割をいう言説を蘇生させることに言い尽くされるが、このように彼が市民的抵抗を見ない態度は、古代のアジア的社会構成体の移行をみるとき、いかに、すでに注釈学的思考のノマド的問題提起の力が「国家」を植えないために戦争という形の多孔性をもたらしていたのか、そしてこれを時間的な発展の必然性に沿ってとらえなえなければならない観察を消去してしまったことにあわらていたのです」


言説の場でのたたかい

おお、あの「ひまわり学生運動」はたしかな結果をもったのですね!「選挙結果は,台湾の民主的価値と進歩を求める台北市民の決意を示した」(台北市長)。運動が先行しましたから、つぎは、言説の場での闘い、エスタブリッシュメントの為の国策的ポストコロニアリズムvs.市民のグローバルデモクラシー、が展開されてくることになるでしょう。そもそも、九十年代のジョイス「ユリシーズ」のアイルランドからの読みは、エスタブリッシュメントの国策的ポストコロニアリズム vs. (ブルーム的)市民のグローバルデモクラシー、を呈示してきたものです。アイルランドの新聞アイリッシュタイムズの記事を正しく読むためには、この言説の闘いをよく知ることが大切です。アカデミズムはポストコロニアリズムに、ジャーナリズムはデモクラシーに共感がありますが、多くの場合はいわば混合形で、それほど明確に分けることができません。私自身もどちらにも傾聴すべきものがあり迷いつづけてきました。(その翻訳を利用して書いた私のエッセーを添付しますから、ご興味のある方はご一読を。「統一か? 多様性か?−ジョイス、都市の肖像を書く http://owlcato.hatenablog.com/entry/2014/12/01/012254)。日本に輸入されてくると、ポストコロニアリズムの言説が反近代(あるいは脱近代の、あるいは民衆史の) 研究者達に、ヒューマニズムの言説が近代の研究者達に党派的に分配されるというのがお決まり。(ブルーム的)市民のグローバルデモクラシーについて言及する者が殆どいないのをみると、どちらの読みであれ、結局日本人研究者は、文学者?は、'遅れた国'に対する暗黙の帝国主義的優越感を隠しているようにおもえて仕方ないのですが、ただし色々な研究者がいることはいます。総じて、現代アイルランド演劇の研究者の方がデモクラシーに敏感のような気がしますね

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2015年 10月 (2) 言葉と表現と射影のブログ/BIGLOBEウェブリブログ
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