言葉と表現と射影のブログ

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zoom RSS 10月 (3) 2015

<<   作成日時 : 2015/10/17 11:44   >>

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昔、「バクダット・カフェ」という映画を興味深くみた。(原題:Out of Rosenheim、英題:Bagdad Café), 1987年制作の西ドイツ映画) 最近、ロケ地がアリゾナだったことをいまさら知り驚いている。アリゾナとはなにか?

以下Wikiより。州名の由来は諸説あり、有力なものとしては、アメリカ・インディアンのパパゴ族のalĭ ṣonak(小さな泉の意)とする説、スペイン語の"árida zona"(乾燥地帯の意)とする説、バスク語でaritz ona(良いオークの意)[6][7]。アステカの"arizuma"(銀の支柱の意)とする説などがある。スペイン統治時代は「Arizonac」と呼ばれたが、これはメキシコのソノラ州プランチャス・デ・プラタ銀鉱山キャンプ近くの地域のみを指すものだった。このことはその地域が現在でもオーダム語でalĭ ṣonakと呼ばれていることから裏付けられる。アパッチ族、ココパー族、ハルチドホマ族、ハリクワマイ族、ハヴァスパイ族、ホピ族、コフアナ族、マリコパ族、モハーベ族、ナバホ族、パイユート族、パパゴ族、ピマ族、クアハチカ族、ソバイプリ族、トント族、ワラパイ族、ヤヴァパイ族、ユマ族などのインディアン部族が先住している。このうち大部分の部族が同じ言語を持つため、実際は別部族であるが白人は見分けがつかず、これらをまとめて「アパッチ族」としていた。保留地政策などで農耕自立の道を断たれた部族が多く、インディアン・カジノは彼らにとって経済的に最後の切り札であるという。
アリゾナ州内の宗教人口構成比率は次のようになっている
キリスト教 – 74% プロテスタント – 40% バプテスト – 9%
メソジスト – 5%
ルーテル教会 – 4%
他のプロテスタント/一般的なプロテスタント – 25%
ローマ・カトリック – 31%
他のキリスト教 – 1%
モルモン教 – 4%
他の宗教 – 2%
無宗教 – 22%


「歎異抄」とはなにか?わからない。そもそも本当に親鸞が書いたのか?だれがオリジナルを書いたかはどうでもいいことである。ただ、方法としての読みしかないのだから、「歎異抄」と呼ばれるテクストが存在したということだけが保証されればそれでいいのである。さて「歎異抄」は読むことが不可能なテクストだから、清沢満之の解釈を通じて読む。ここで、'明治の清沢満之の解釈を通じて読む'というべきであろう。そうすると私に厄介なのは、清沢が語り働き生活した明治という時代がどんな時代だったのか定まっていないことである。明治とは何か?対象(明治)を明らかにするためには、対象(明治)の中からその内部に沿って語ることはできない。'明治的なもの'ー言説の集合体として理念的に再構成した近代の部分ーならば、江戸時代と大正時代からみえてくるかもしれない。明治に先行して江戸と大正がある、とはそういう意味だ。つまり、明治という時代を知るためには、江戸という時代とはなにか?大正という時代とはなにか?という問いを解決しておかなければならない。(その点で「論語塾」と「大正を読む」の二つの講座は私に大変役立つ。) しかし私は清沢を読めないということを一番最初に書いておかなければならなかったのかもしれない。だから昭和・平成に生きる子安先生の解釈を通じて、「歎異抄」を読んだ清沢を読むしかなかったと。ふたたび新しく、思想史的に昭和と平成の時代が問題となってくるが、この場合でも、先行する大正という時代の解釈が重要な意義をもつようにおもわれる。そうして全体として、読む主体(「私」) の外から、学びの非連続性と連続性が反復される。文字の奴隷といわれようが、かまわない。テクストの外に出ることは決してできないものなのだから。恐らくは、「教行信証」を書いた学問僧であった親鸞も書いたはじめからこの学びの反復に依拠したのではなかったか?(本多)


・ダンテの墓はイタリアのラヴェンナRavennaにあります。この地で死んだダンテの遺骨を、当時フィレンツェのメディチ家が要求していました。教皇がこの移送を許可したときに、ラヴェンナの修道士たちが不審に思い、この共和主義者の遺骨を隠したのです。ダンテの遺骨はその約百年後にここに埋葬されることになりました。ダンテは死しても、権威との闘いがつづいたのですね。さて「神曲」が書き記している煉獄は、中世の民衆が発明したといわれます。衆生が祈ると、煉獄にある死者の償いの時が短くなるのですね。いわば第三項としての煉獄は、天国か地獄かという二項対立の脱構築であったと考えられています。一考の価値があるでしょう。ここでダンテのことをかんがえると、真理(ウェルギリウス)と衆生の間の往復運動に生きていた知識人の<信>の構造のことに思いが行きますね。

・ヒチコック映画「レベッカ」に、ビクトリアン朝ロマン主義の美意識をみとめることができます。なるほど、ダンテ「神曲」の挿絵のロマン主義的再構成もなかなかわるくはないようにおもえます。

Romeo Castellucciが演出したダンテDante「神曲」に大きな感銘を受けました。だけれど何年も感想の言葉を中々書けなかったのはなぜだったのでしょうか?Romeo Castellucci の運動イメージの演出については、演劇を語る言葉よりも、寧ろ映画か、現代舞踏をみた言葉で書くべきだったのかもしれません。そこにやっときがつきました。「踊るときには、魂が先行する。人間が歩くときには、足のことを考えますか。誰も考える人はいない」(大野一雄) 。舞台のうえでは、身体の消滅は、地面に倒れることを通じて表現されました。(Romeo Castellucci自身の)身体の終わりもその死体が犬に食われるという場面であらわされました。ここから、(身体から)分離した魂のリズムが多様化していきます。I can be anywhere in it. And still not be of it (どこにもいた...けれども、わたしの土地はみつからなかった。) 魂は動きの息の中で長く持続するのですが、やがて詩を語る息のなかで魂も消滅してしまいます。権力の網に絡みとられるまえに。ここで魂は(人間と動物と植物と鉱物に共有される)言葉を住処として定位することになるということを表現していたと思います。これは中世的世界観の再構成だと考えることも自由です。二一世紀に甦った「神曲」において、世界の中心に外部を置くという、天と地との間の往復運動の哲学に触れたように思いました。(絵・詩、本多敬)

アイルランドとスイス

アイルランドへいったときは、集団自衛権的NATOに入らない非武装中立の国がどういう国なのかと知りたいとおもいました。またこの4年間毎年スイスを訪ねていますがこの国の平和戦略のことに関心があります。アイルランドで再発見したのは、文学者ジョイスの、反戦というよりは嫌戦の独白的語りのこと。内戦と今日の地域紛争のことを考えるとき、それらが作家の歴史的背景の痕跡であることに気がつきます。また戦後の(スイスとフランスの二重国籍者の立場をいう)ゴダールにおいてもジョイスの反戦・嫌戦に通じる立場が貫かれていることは、ゴダール伝記を書いたコリンマッケーヴが言う通りです。(彼はアイリッシュ系英国人のジョイス研究家です。) ヨーロッパの小さな国でみた安全保障の戦略のことを、安倍自民党の集団的自衛権の側に巻き込まれていく危機日本を相対化するために敢えて再構成して考えてみたいと思います。自分に思考の欠如を痛感しますが書き留めたいと思います。独立アイルランドは最初にどんな国も核兵器をもつ権利がないとする国際条約の必要性を提唱しました (最終的に米国に修正されましたが)。開かれたダイアローグの知を重んじてきたスイスは初めて、教育から宗教の介入を排しました。さて日本の非核三原則ー「核兵器をもたず、つくらず、もちこませず」ーは、集団的自衛権は非核三原則と両立しますか?また「普通の国」になれと言う歴史修正主義者が教育に介入しています。しかしA級戦犯を祀った靖国神社に公式参拝する、歴史修正主義者が言う「普通の国」になったら、「戦う国家=祀る国家」の戦前と繋がってしまわないのですか?「普通の国」は、戦前の国家祭祀のあり方を禁じたうえで戦争を終わらせようとする、アジアの人々に誓った平和主義の理念を台無しにする危険が。いま、1960年日米安全保障条約の国会強行採決に抗議して都立大文学部教授を辞職した竹内好のことを考えていますが、この竹内と共に岡倉天心、幸徳秋水、大杉栄、小田実の仕事を再検討すべきときです


「歴史の終焉」の後

フランシス・フクヤマによると、「大きな政府」に根本的な疑問を投げかけこれを徹底的に解体してきたはずのアメリカなのに、なぜ自分たちがイラクで大きな政府をつくれると思いこんでいるのだろうかという。ヘーゲル右派、ブルジョアの自由の擁護者と考えていたが、「歴史の終焉」という考えを修正しているともいわれた十年前に、BBCのラジオ番組のインタビューでフクヤマが何を言うのかと興味をもった。が、インタビューでは政治を語るときの重い雰囲気はなく、寧ろ機知とユーモアのなかで、フレンチ・レストランに関する意外な話で盛り上がった。現在グローバル時代は、フランス革命の普遍主義は、お金さえ払えば人種に関係なくどんな人も客として平等に!迎えてくれるフレンチ・レストランにおいてこそもっとも体現され継承されているというのだ。常の事として、あまりに説得力をもつわかりやすい話は警戒しなければならないが、普遍主義としてのフレンチ・レストランはフクヤマの考えの核となる部分をあらわしているのかもしれない。今回そのフクヤマが政治的自由なき体制のあり方に一定の共感(全面的ではないが)を示しているのを読んだ。いかに、アメリカ<帝国>のネオリベ的知識人が自己のイメージを通じて、中国<帝国>の中心にいる中国共産党主流派(左派)を読んでいるかがある程度わかる。もはや国と国の個別的関係は重要な意義をもたなくなったと繰り返し強調される。(おそらくはTPPのような)包括的な次元での多国間協議が先行する。帝国と帝国の二項関係のなかに東アジアはどこに位置づけるのかということが勝手に語られはじめた。第三項としての東アジアの可能性が再包摂されはじめた、と、読んだのは果たして私だけだろうか?インタビュー記事の一部を以下引用

フランシス・フクヤマ; 西欧社会と中国の一部では、中国が本当に根本的な革新が可能なのかについて論議をしています。私は、甚だしい変化をもたらすことができる中国の能力を過小評価してはならないと言う人々の範疇におそらく入るでしょう。中国では文化大革命以降、どこの誰もが想像しえなかったほどの多くの変化が起こってきましたし、また制度的変化の長い歴史を持っている国です。最近の中国の経済発展や知的水準の発展の大部分が模倣によるものであったとしても、です。中国は賢明な人が多い広大な国家です。私は、中国が政治的自由が欠如していると言う理由で、技術や制度構築の革新が起こせるような驚くべき発展は達成できないだろうという想定はもっていません。

パストリッチ;同時に、自由に関する問題は複雑です。例えば上海の特定地域では、フェイスブックやグーグルへのアクセスが可能であり、事実上、政府の干渉がありませんーーもしあなたが「国際的コミュニティ」に属しているのなら。アメリカ人居住者の多くは、このような中国の環境をより自由と感じることになるでしょう。

フクヤマ;その通りです。最近は、中国内でもかなり開放されている所が明確に存在します。グローバリゼーションは様々な形で複雑な状況を生み出しているのです。

パストリッチ; ヨーロッパはどうでしょうか。アジアの浮上は、フランスやドイツ、イタリア、そして、他のヨーロッパの大国にどのような影響を及ぼしていますか。

フクヤマ; 私は、ヨーロッパがどうしてこのように中国に対して気を使っていないのかに驚いています。私は、アメリカがアジアを重要視して、受け入れてくれたなら、と思っていた人間ですが、ヨーロッパと比べると、アメリカでは随分とアジアが重要視されてきたように思います。ヨーロッパでは未だに、アメリカからの挑戦や、アメリカのビジネスモデルに関してばかり議論をしています。また、ヨーロッパ内の中国や日本、韓国の研究も、アメリカにははるかに及びません。中国語を話せる人もアメリカほど多くいませんし、アジアの言語で本を読んだり、会話したりする人に至ってはほとんどいないのです。

パストリッチ; このインタビューではこれまで、中国について特に注目してお聞きしてきました。しかし実際には、韓国や日本も未だに重要な存在です。アメリカが中国に関する課題にだけ集中してしまうと、本来重要なそれ以外のアジア諸国家の発展状況を把握できなくなるリスクがあります。そうなると結局、中国より高度な洗練性を持つ韓国や日本が、東南アジアやアフリカで重要な役割を担うことになるでしょう。

フクヤマ;アジアは多中心的、そして、持続的に進化しています。アジア内には地政学的・文化的な側面で均一性がなく、各国それぞれはそれ自体で独立的な世界です。隣接する国家やアメリカの存在など、他の国家との貿易領域で重複する部分があったとしても、です。このような地域と足並みをそろえていかなければならないことが、アメリカの立場からは挑戦といえます。国ごとに条件は本当に異なります。もう少し長期的な観点から捉えてみると、アジアの全ての国家は、意図しない結果である、人口統計学的な落とし穴(人口減少と高齢化)に引っかかることになります。日本はそのような変化を最初に経験しました。一時、西欧メディアでも高齢化の街についての記事を目にしました。しかし、今後、このような現象は台湾、韓国、そして、シンガポールで一層、深刻になります。これらの国家は人口高齢化の危機や、多文化社会の成長に対する解決策を見出すのに奮闘しています。



先月(10月)の思想史講座では津田左右吉による記紀「神代史」の脱神話化作業を追跡しました。津田は記紀における「神世の物語(神話)」に民族性・民衆性・国民性を読みとることを批判し、否定しました。これはあらためて確認することの必要な重要な問題提起です。11月の講座ではこの津田の問題提起をもう一度考えて見たいと思います。それは昭和における『古事記』の民族的神話化、民族文学化を批判的に〈大正〉から読み直す、「方法としての〈大正〉」というべき思想史作業です。(子安氏)


私はNATOに入らない非武装中立の国がどういう国なのかと知りたくてアイルランドに8年近くいました。この4年間スイスに毎年行ってこの国の平和戦略のことを考えます。こういうときまさに見たこと、知ったことを、日本に即して考えてみなけれならないはずですが、自分に思考の欠如を痛感しています。言い訳かもしれませんが、ただ、安倍自民党の集団的自衛権の内容と目的の説明がないままなのでよく判断できないということがあります。もし狂気の民衆でないとすれば、合理的に?この国民は安倍を頼りにしていること、また鶏頭か風見鶏だという証拠でしょうが、違憲と考えていたから違憲と言っていたが、現在はギリギリ合憲じゃないかと思いはじめた可能性がありますね。

イタリアに行く前に本番前の通しの稽古をみせてもらったのですが、素晴らしかったです!見た印象から想像するのですが、流れゆく舞台の、なんというか...運動の流れゆくプロセスを通じて身体(手)が自らつくったサイン(窓?)にたいして動きがどんなふうにかかわっていくのか変化していくのかを見たというか...彷徨する魂の宇宙の一番端っこからみえた風景(かな)

アメリカの外交政策から書いた記事の内容と質は別として、どのページも報道写真が沢山あることに驚いたニューズウイーク(日本版)で、89年の天安門事件のときはこれを買って現地の映像をみたはずで、このときだけはイデオロギーとは距離をとったジャーナリズム精神の報告とはこういうものかとおもったのですが・・・


・現代ヨーロッパ語の言葉(英語・フランス語・ドイツ語の話し言葉)はギリシャ・ラテン語の文法性に規定されているとおそらく同じ意味で、近・現代日本語は漢字と漢文に規定されているといえよう。だから、ー読まれるとヤバイが(汗)ー、「他者の不可避性」でいわれる「不可避性」においては、もし他者(漢字)を回避したらなにがおきるか?が問われている。回避したら思考それ自身が破たんするよというような示唆が含まれている思う。例えば、漢字を回避して大和国家の大和言葉を実体化するとき、そもそも、それを考えている現代日本語についての思考が成り立たなくなってしまうのだ。ここで注意したいのは、繰り返し誤解されるが、本居宣長はただ古事記の漢字を想定される大和言葉で方法論的に読んでみようとしただけで、かれは大和国家の大和言葉の実体的存在を証明したわけではない。またここで注意したいのは、私が使っている'規定'の意味である。日本語が漢字・漢文に規定されているという場合、現在の大地(日本語)を掘り起こせば必ず過去が現れるということは起きない。例えば和辻は「倫理」の語を過去の漢字・漢文リストの中に存在していたという。しかしそういう連続性はない。和辻が考えたような意味で、「倫理」という漢字は存在していないのである。寧ろ和辻が行ったことは倫理学アカデミーを近代化しようとして「倫理」(の語)を発明したことだった。一般的にいうと近代の知というのは、いつもこうして、自らの対象の欠如ー穴ーを埋めていく欲望なのかもしれない。こうしたエクリチュールをめぐる議論は近代の意味を考えるときに大変役に立つ視点を与えてくれることに気がつく。ここではもう詳しくは書けないが、例えば、行き詰まった近・現代をどうするかと考えるときに、回避してはならない、不可避の他者とはいったいなにか?を問うことが倫理的な問題を構成するからだ。結論。エクリチュールの問題は思想性・論理性のフレーム(枠づけ)を与えるのである。


本居宣長
第一に漢意儒意を、Cく濯(スス)ぎ去て、やまと魂(タマシヒ)をかたくする事を、要とすべし、さてかの二典の内につきても、<チ>道をしらんためには、殊に古事記をさきとすべし(うひ山ぶみ)
歌はおもふまゝにたゞにいひ出る物にあらずかならず言にあやをなしてとゝのへいふ道にして、神代よりさる事にてそのよく出來てめでたきに人も神も感じ給ふわざなるがゆゑに既に萬葉にのれるころの歌とても、多くはよき歌をよまむと求めかざりてよめる物にして實情のまゝのみにはあらず(うひ山ぶみ)

本居宣長 ‏
歌の本體、政治をたすくるためにもあらず、身をおさむる爲にもあらず、ただ心に思ふ事をいふより外なし、其内に政のたすけとなる歌もあるべし、身のいましめとなる歌もあるべし、又國家の害ともなるべし、身のわざはひ共なるべし、みな其人の心により出來る歌によるべし(排蘆小船)




I am a painter with letters. I want to restore everything, mix everything up and say everything.

Jean-Luc Godard


映画フィルムの割礼としての意味 ?

Et le film, l'experience du film, c'est ça, ça n'est pas à moi, non seulement ce n'est pas moi, mais ça n'est pas à moi et je ne peux pas posséder ça, je ne le veux pas et je ne le dois pas. Et je crois que cela a un rapport avec ce qui est dit de la coupure, de la circoncision, du sublime, etc., c'est que le plus proper ne laisse pas réapproprier. C'est ce que j'appelle quelque part l'<exappropriation>, c'est que l'appropriation est une expropriation. (Derrida)

映画フィルムの割礼としての意味 ?それを'痕跡'として考えてみるとき、'痕跡'と'起源'についてデリダにおいて言われてきたの関係のことが生々しくわかってくるような...。どうも門外の映画論を通じて、歴史的なアルジェリアのユダヤ人としての微妙で複雑な立場のことを仄めかしている。従来の精緻なテクスト論的哲学論の枠のなかで語れなかったような仕方で、所有ー非所有にかんして考えるとき、マルクス主義的な実体的な視点を働かせようとしているみたいだ。実体論的・本質論的議論に絡みとられることを警戒しまた実存主義を否定しているが、ギリギリ、起源としての「私」の措定に沿って語っている、2002年のダイアローグと発言を興味深く読む。


フクロウ猫はかく語りき
ホ〜、二十一世紀はどんな時代だろうか?分子の小さな人間達が活躍する時代になるニャ。「大きな人間」のままだと「一億総活躍」としか繋がることができないよ(おー嫌だ)。寧ろ70億と繋がりたい。折角生まれてきたこの惑星の色々な住人と結びつきたい。と、この多様性の70億と繋がる条件を考えるとき、人間的環境のもとで分子の小さな人間である方が有利。いま書いている、インターネットはもっと人間的な環境に進化していくはずだ (インターネットから街頭に出た人々は、<人間が一人でも飢えたら民主主義とはいえない>という究極の理想を持ち始めた。) 二十一世紀的人間の思考とは何か?政治を批判するときに自ずと芸術のあり方を批判するという思考方法が、分子の小さな人間達たに広く共有されるようになるのではないか。既に、行き詰まりの政治に対する代表制批判とアートの表象批判、この両者の互いに切り離せない関係に気がついている。だがその前に、ポストモダンのモダン化という妙な現象が現在席巻している。再び19世紀的20世紀的なナショナルな文化論の方向に、益々非政治的になってきた。アートの方もこうした非政治性の特異点に絡み取られている。ポストモダンのモダン化とは何か?それは左か右かわからないという非政治性の特異点からの脱出、と定義しておこう。(左か右かわからないのは'スターリン'が発明した魔法使いの杖。) 現在の非政治性の克服を説くマスコミ文化人達が今更'レーニン'を召喚するの?(本当はそこに'毛沢東'を読んでいる?毛沢東なりすましレーニン!?) ポストモダンのモダン化の言説自身が左か右かわならないほど右翼的といえる。 ポストモダンのモダン化からは、'レーニン'であれ'毛沢東'であれ、二十一世紀的人間の思考はあらわれない。ただ行き詰まりの後期資本主義にとって都合がいいような、再び大きな人間にたいする消費としてのノスタルジーを深めるだけだ、とフクロウ猫は語ったのであった




本居宣長 ‏
天地はたゞ天地、男女(メヲ)はたゞ男女、水火はたゞ水火にておの/\その性質情狀(アルカタチ)はあれども、そはみな神の御所爲(ミシワザ)にして、然るゆゑのことわりは、いとも/\奇靈(クスシ)く微妙(タヘ)ある物にしあれば、さらに人のよく測知べきことにあらず(古事記傳)



Quā fāta trahunt, retrahuntque, sequāmur. 我らを運命がどこへ率い、どこへ引き戻そうと、あとに従おう(=人事を尽くして天命を待つ)。(ウェルギリウス「アエネーイス」)


社会主義という概念は、単に社会的正義とかより多くの平等や生活の安定といった、つまりは社会主義の究極の目標である「理想」をのみ意味するものとされたり、あるいはその理想を説明する言葉として用いられたりする(F・A・ハイエク)

Arnold Schönberg、Opera " Moses and Aron " ( and Tarkovskii's image)

ポストモダン批評家やサイードはヴェルディを再発見し色々と論じました。今回はヴェルディではなく、新オペラ座のシェーンベルク「モーゼとアロン」をみにきました。オペラのテーマに関心があります。数年前の東京で「神曲」の舞台を非常に興味深くみたのですが、そのイタリア人の演出家が手がけるのでこれは是非観ておきたい、と。

「神曲」のRomeo Castellucciが演出し照明と衣装を手がけてたシェーンベルグ「モーゼとアロン」の解釈空間は、変容を本質とする滑らかな空間であった。パンフレットに示された資料を見てタルコフスキー「ストーカー」はその先駆だったことにやっと気がつく。スクリーンに最初に投射される「兄弟」の意味はおそらくは、メタモルフォーゼである。モーゼに成るアロンに、アロンに成るモーゼ、一の純粋理性に成る多の純粋感覚、多の純粋感覚に成る一の純粋理性、目に見えない沈黙に成る目に見える沈黙、目にみえる沈黙に成る目に見えない沈黙、法の言葉に成る盲目の言葉、盲目の言葉に成る法の言葉。だが、このようにポスト構造主義が解釈できる滑らかな空間はそれほど対称性を保っていたのか。このことが、グローバル資本主義の動乱の時代に問われるはじめたのである。つまり対称性を破る経験のことも考える必要が出てきた。「モーゼとアロン」がイスラム性に成るヨーロッパ性、ヨーロッパ性に成るイスラ...ム性を呈示するとき、オペラは消費されるだけの閉じた文化論的な読みを倫理的に許さないようなギリギリの政治性を帯びることになるのではないか。まだ批評はでていないようだが、この演出は危険なものを孕んでいる。国家の敵対的他者を揶揄することは言論の自由か、と、昨年デモとナショナリズムに巻き込まれたパリで、このシェーンベルグの「モーゼとアロンアロン」の意味はなにか?論争があるだろう。無ければヤバイのである。このようなヨーロッパのラジカルな脱神話化の方向の努力の比べて、われわれはなにをやっているのだろうか。この国には三文オペラ「日本会議」しかないのか?だれがナショナリズムを相対化していくような、オペラ「日本書記」を書くのか?中国知識人と朝鮮知識人、彼らに育てられた日本知識人の共同作業と編集で書かれた「日本書記」の歴史を忘却して、現在の視点から「大和国家 」、単一の純化された古代日本をナショナルに実体化していく愚かな政治家と文化人の思考のナルシズム的破綻、国民道徳、他をみとめないヘイトスピーチの野獣性を嘲笑うオペラが絶対に必要だ。



Une symbiosis de plus en plus initime enter l'homme
(Le Monde diplomatique : Les deux humanismes )

久々にウデイアレンの新作「irrational man」をみて映画館を出たとき、新聞の「二つのヒューマニズムについて」と題する記事を思い出した。(Une symbiosis de plus en plus initime enter l'homme 、Le Monde diplomatique : Les deux humanismes ) 進歩的な人類的思想のモンテニューとモンテスキュー、そして普遍主義的思想のカントと彼から影響をうけたヘーゲルー不合理なものに制約されない理性の意義を強調したーが論じられるが、この二つのヒューマニズムから六〇年代の運動のときに人間化された環境が求められていくことになったという。それに反するのが危険な原発の安全神話とかグローバル資本主義のマネーゲームなのだが、これは映画についても言えることだ。ハリウッド映画と比べると、ウディ・アレンのニューヨークの映画はずっと人間的な視点で作られていることは確かだ。デリダそっくりさんの哲学教授が、ドストエフスキーの小説のなかに生きる。かれは定言命法に従って身知らずの女性を救おうとして裁判官を毒殺することに成功した。が、後日間違いであることが判明。裁判官は全く無実の人だった。が、教授は証人を殺そうと犯行を重ねる。というのは、アメリカのイラク戦争ー人類を救えという定言命法に従う?ーを喚起するストーリーになっていることは容易にわかる。アメリカは大量殺戮兵器が無いことがわかったときに戦争をやめるべきだった。そしてブッシュを国際裁判にかけるべきだった。だが現実にはどちらのことも実現しなかった。だからウデイアレンは小さな人間としての市民として映画を通じてこの問題を問おうとしたのであろうー未来に再び大きな人間と国家の過ちを繰り返さないために。アレンは三番めのヒューマニズムの流れとしてたたえようとわたしはおもっている


アムステルダムのスピノザ

ラテン語の完璧な知識を持っていたから、自分のオランダ語を正してくれと頼んだ1665年の手紙で「生まれたときから慣れ親しんだ言語で書いていればもっとよく思想を表現できたはずなのだが」で言われているのは、ラテン語のことだと言われてきたが、最近の研究ではポルトガル語だと理解されている。祖父の時代からポルトガル語を喋るユダヤ人コミュニティーに育った彼の背景を現在に投射して想像してみると、難民や移民、又は亡命者の母国語の外で生きなければならない苦労がみえてこないだろうか。スピノザは常に言語の問題を考えていたに違いない。17世紀のヘブライ語ができても、原初的テクスト(聖書)の言葉を読むことはできない。スピノザにおいて文献学的方法は欠かせないものである。読むことができないこと、ここから彼の思想性と倫理性がはじめて可能になって来た必然性をなんとか理解するには、不勉強ながら四年越しの「論語塾」での貴重な経験がなければとても独学では ...。子安先生のもとで読むことができないことの意味を方法論的に考えることになったのだ。

イギリスの変化

今回ヒースロー空港が非常に整備されていることに気がついた。訪英の事は全然知らなかったが、30billionをもってきた習近平と同じ日にロンドンに着いたようだ。新聞を読んで勉強する。金融危機の2009年以来、イギリス経済は中国からの投資で支えられている。例えば公共サービスであるヒースロー空港、テムズ川の水は中国の金で支えられているという。そして今度は原発も。バッキンガム宮殿での祝賀パーティーが予定されているが、パレードのとき人権グループの抗議がある。現地の新聞では香港返還のとき英国に亡命を余儀なくされたリベラル知識人の抗議の投稿文を読んだ。ノーベル賞の劉暁波は獄中の中、ウイグルの人々の弾圧、抗議文学者にたいする拷問、法の支配の無視である250人の人権弁護士の拘禁逮捕が起きているこの最悪の年に、バッキンガム宮殿で「独裁者」が最大の祝福を受けること、その欺瞞、その世界的報道がいかに中国の人権活動をおこなっている人々を孤立させてしまうかと心配し警告しているのだ。数百人の抗議でもBBCと新聞ガーデイア紙はきちんと伝えていることは流石だなと思う。女王が花束贈呈のときに労働党の新党首が人権の問題の解決を言うか言わないかが注目されている。安全保障の面でもアメリカとの関係に影響はないと保守党政府は説明している。が、真相はどうも、AIIBの加盟によってゲームの規則が大きく変わったようなのだ。落ちめのアメリカに助けてもらえないのなら 、と、こういうときはなにか自民党と全く同じで、永久不変の我が国というような心の問題を道徳的に訴える一方で、これとは逆の方向から、保守党的なものが寒々と無節操に傾くリアリズムにはちょっとね、呆れてしまう。こう言っている記事を読んだ。" China is rising as the U.S. falls.Britain can't ignore this reality."

無神論者としては、興味のない建物セントポールですが、大昔のダイアナ妃結婚式の迷惑な実況放送を覚えている。ここでエリザベス女王をしてCharles is hopless と言わせた不人気のチャールズ皇太子を擁護する王室研究家の意見を紹介すると、王室の離婚は王室とイギリス国教会、キリスト教との特別な繋がりを弱めるだろうが、そのことによって、かえってイスラム教などの非キリスト教の人々との新しい関係が開かれる可能性が出てきたということ。王室の脱超越化は、多文化主義の時代に有利な生き残りの戦略に有利だということ。既に宗教界も他に対してそれほど排他的ではなく寧ろシリアからの難民をもっと積極的に受け入れるようにとキャメロン首相に請願を出している。ところでロンドン時代に一度だけこの中に入ったことが。写真のこちら側のテートモダンの特別展に連携してカンデンスキー作品の一部展示があり、ここで彼が好んだ、たしかシェーンベルク「浄夜」の弦楽四重奏の演奏が行われた。サッチャーリズムの労働党の時代、なんでもかんでも金がものをいうネオリベの世の中にあって何か惨めに思わされたときは、うっかり癒されてしまった。あれから、現在はサッチャーリズムの保守党政府となっているわけで、ネオリベ国家たちが推進する原発を中心とした核開発の「黄金時代」の到来?なんだかなあ ...日本の経験が全然伝わっていないようだ



MAKING TRACES

Since the political of the Cold War, one of the challenges facing artists has been to establish a sense of the individual's position in the world. The act of making work that conveys a physical presence is fraught with urgency. This tension may be embodied in a coiled energy, or emerge from a careful process of accumulation. The immersive power of Mark Rothk's Seagram Murals, at the heart of this wing, was achieved by the artist's sustained laying of veils of paint in complex combination. Such traces mark the artist's position in space and time. (- from TATE MODERN)


ケルト特別展、大英博物館に来た

展示されたケルトの首飾りを見ると、ジョンケージが緩やかに描いてみせた水に流れるような輪の連なりを連想した。ケルト人はおしゃれだった。だから彼らはできるだけ着飾るために遠くと交易をした。そうしてこの集団は自らを他から差異化するために装飾を工夫していったのだ。このことは、ケルト人が自らを侵入者のローマ人やアングロ・サクソン人から差異化する方法だったと考えられている。注目すべき最新の研究によると、ケルトと呼ばれていた集団が複数の民族であったこと、また彼らの間で互いに類似しあった文化を共有していた可能性のことが指摘されはじめた。文献的にはケルトの意味ははっきりしない。古代ギリシャ人は自分の周辺の人々だけでなく今日のトルコに棲む人々もケルトと呼んでいた。ギリシャはイギリスとアイルランドにケルトの記述はない。ここでケルトを一つの民族、一つのアイデンティテイーとするのは近代の18-19世紀的国家の読みにすぎないことに注意しよう。レヴィ-ストロースがヨーロッパの基底にケルトが存在したと言うようには... 。文化論的隠蔽が常に起...きる。近代のゲーテは、ルソーがインデイアンを発明したように、ケルト人を発明することになった。さて展示全体を眺めてみると、ローマ、アングロ・サクソン、ビザンチン、イスラムなどの交通を通じてケルトの装飾が発展していく様子がわかるので、比喩的にいうと、具象的に精緻な装飾を成り立たせる与件としての抽象フレームが変化していったことを考えてみた。メビウスの輪、動物が互いに向き合う交差、十字架、本のアルファベット文字、円と長方形の幾何学的配置。デザインの専門的知識はないが絵描きとしての直観からいうと、ケルト的な迷宮はそれほど予定調和的に共存しているようにはみえない。しかし私の関心を占めるのは、ルネッサンスのときには消滅し切った装飾ではなく、二〇世紀のジェイムスジョイスの文学「フィネガンズウエイク」である。30年代に完成した文学作品は僧侶による古代ケルトの写本を利用して書かれた。この意味はなにか?FW は、多様性を一つのアイデンテイテイーに還元してしまった、イエーツの近代に対抗する仕事であったことは間違いない。ゲール文芸復興が企てるようには、絶対的に死に切った過去を蘇えさせることは無理なのだ。ただできることといえば、読むことができないテクストとの絶対の距離と向き合うこと。(「ジェイムス・ジョイスの神話的リアリズム」のデクラン・カイバードは、現代アイルランド演劇のブライアン・フリール「トランスレーションズ」の意義を強調している。フリール演劇は、まさに、「フィネガンズ・ウエイク」がどこの国の言葉に翻訳できない言葉としてあることの意味を考えさせる、という。)ほにゃくなかで「、死に切った過去との絶対の距離の意味を考えること。夢の多言語的言語は、文字の可視的な領域の限界に絡み取られながらも外部に出ようとする宇宙の劇場と形容されるほどの宇宙開闢のエネルギーの痕跡をつくりだしたかは、ジョイスにとってもわからないだろう。ただ、われわれがどこから来たのかという起源の言説をおしつけてくるファシズムと戦争の恐怖から、自分の空間と時間の外部的位置を確立するしかやっていけなくなったのではないだろうか


NO FOUR SYLLABLES SHAKE THE ONE PERCENT MORE TO ITS CORE...THAN SOCIALISM.

Un « stalker » emmène les voyageurs à travers une zone dangereuse à la recherche d'un endroit magique.
Andreï Tarkovski, URSS / 1979


テクスト論はまだなにができるのか?搾取に抵抗する人々を非政治化してしまう文化論に対する批判として、また人々が語る自由を奪うナショナリズムを相対化する視点として、形式の問題を問うテクスト論の意義が重要でありつづけている

「オリエンタリズム」のサィードによると、オリエンタリズムは実体ではありません。オリエンタリズムは言語にすむ、ヨーロッパのオリエンタル的観念の構成物なのです。同様に、国家はどこに存在するのか?「想像の共同体」のアンダーソンがいうには、国家は実体ではない。あるのは、われわれ近代人が国家をどう読んだのかというところに国家が存在する。国家はやはり言語のなかにすむ、近代的国家観念の構成物なのです。日本国家はどこに存在するのか?かれによると、例えば、7時になってテレビのまえに座ってNHKの7時のニュースをみるところに日本国家があるのですね。もしNHKが安倍の戦争する国家の方向にたいする問いを発しなければ、外国メディア報道を利用してツイッターとかFBとかのネットが対抗的に問うしかないわけで。たとえ、(将来的展望からいって全然ないわけではないと楽観的に信じたいのですけれど) 、テレビ・新聞ほどの公的な言論性をいまだもっていないとしても。たしかに、これも、われわれ近代人が国家をどう読んだのかというところに国家が存在する問題としてあるのではないでしょうか。現在厄介なことに、国民文学・民族文学のラベルをはったような「古事記」が流行とききますが、原初的テクストは読めないことを知らない近代人・現代人が、(どう翻訳を決定したかを説明した注釈なしの) 現代語訳で捏造された(古代) 国家をどう読んだのかというところに(現代)国家が存在するのです。そういう想像上の国家は、歴史修正主義者安倍と日本会議にとってまことに都合がいいナショナリズムを養う危険はないのか?この場合も、相対化する視点として、言語批判とテクスト批判がなす役割の意義が大きいといわざるをえません。二十一世紀にはいって、抵抗する主体の問題、搾取される国家、搾取される人々という問題が実体的に論じられるようになりました。が、搾取に抵抗する人々を非政治化してしまう文化論に対する批判として、また人々が語る自由を奪うナショナリズムを相対化する視点として、形式の問題を問うテクスト論の意義が重要でありつづけているとかんがえます。また言論界に席巻しているポストモダンのモダニズムとか共産主義的アジア主義とかに絡みとられないように。


Mozart 魔笛Die Zauberflöteを観劇 (ポーランド国立室内歌劇場オペラ)

最後にロンドンで魔笛をみたときに、隣の観客女性が「オーストリアの政治権力を反映した物語」と連れの者に囁いていたのがずっと気になっています。そうなのでしょうか?三人の侍女たちはジオットの絵の天使みたいです。そういうこともあって、今回の舞台はいつもよりも弁者(僧)の存在感を感じました。さて第二幕では古代エジプトの弁者(僧)ザラストロは、タミーノとパパゲーノに試練を与えます。試練を乗り越えればタミーノはパミーナと結ばれ、パパゲーノは恋人を得られるのです。最後の試練は「沈黙」。この沈黙は一体なにを意味するのだろうかと私は考えました。沈黙で意味されるのは、話すことをやめること、代わりに、書くことではなかっただろうか、と、気がつきました。こんな風に考えているのはだれもいないと思いますが(汗)、 そうして再び舞台をみますと、僧が定位する文字の巨大な権力に屈するのは王子タミーノにとってはそれほど困難ではないけれど、外部者パパゲーノには同化の苦痛に等しいはずです。中々沈黙しないパパゲーノのお喋りな様子は、観客の笑いを誘います。が、これは帝国の統治というものがそれほど簡単には行かないことをあらわします。つまり帝国において周辺との政治的関係が絶えず緊張してきたことを教えるのではないでしょうか。ところがパパゲーノを文字なき道化とみなすときこのようなリアルな政治的な関係の隠ぺいが生じるのです。山口の天皇性的構造論のように、構造論的に王制を安定させてしまう物語に置き換えられていく解釈ということですね。

フィガロの結婚Le Mariage de Figaro1784は、コメデイフランセーズで初演、大革命を目前にした時期に旧制度批判と第三身分擁護という政治的意味をもっていたといいます。モーツァルトのオペラは、ボーマルシュ原作の風刺と反抗の精神をイタリア式恋愛抒情に置き換えてたとする解説を読むと、丸山眞男の本を読んだ後のときの感じで何も言えなくなる息苦しいさです。どんなところにも現れてどの組織の部分になることがないケルヴィーナに惹かれます。かれの子供でないし大人でもない、また男性でも女性でもないアンビバレントな多様性は、事実上追放を意味した軍隊入りによって、消滅してしまうことの悲しさ。おそらくはケルヴィーナは領主とフィガロより長く生存することがないでしょう。国家のために活躍した軍隊の死者だけが祀られるとしたら(「一億総活躍」の目指すところとおなじ)、伯爵夫人を慕って軍隊を拒もうとするケルヴィーナの魂は祀らない魂として徘徊するのか。と、ここまで書いたら、海の交通の多様なものと繋がっていた琉球のこと、全体の部分ではなかっ琉球をただの日本国家の沖縄にしていく、近代における従属のことを思いました。イタリア式恋愛抒情のことはわからぬが、バロックオペラ的散歩の自由と自立の痕跡ならば感じる所が大いにあったことは書きとめておきたいとおもいます

羽田空港
たまたま生まれたこの国に都合上戻っただけだし、それだけのこと。着陸のときに「お帰りなさい」は一回で結構。飛行機の外国人も大勢いるのだから。儀式みたいに、「お帰りなさい」、と、これでもかこれでもと感情をこめていわれると、自動的に負い目もかんじてくる(笑)。そして国家の玄関の入国審査の手前で、「外国人の方は左へ、日本人は右へとお進み下さい」と指示されると、やはり「右」しかないのかと顔がこわばるのであった(爆)

Tokyo can't be tragic form of proximity without sociability

Here comes everybody _collideorscape _collide and escape_ the organizing without organization_ Facebook+Twitter_ Occupy movement goes global

Here comes everybody _"do-it yourself-with-others" spirit _ strong-tie offline activism _ on line weak-tie association _ collideorscape _

working class - to sell your labour in order to live - to look at yourself in the mirror and think" - Now what have I got that I can sell?

Here comes everybody - working class - the multitude - the general intellect - lumpen concept - the people,GO ON! GO ON! GO ON! GO ON!

"Occupy, Resist, Produce". A politics of the encounter utters no right, voices no claims.Protesters-Tunis, Cairo, Athens, Madrid,Manhattan, and Tokyo
















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10月 (3) 2015 言葉と表現と射影のブログ/BIGLOBEウェブリブログ
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