言葉と表現と射影のブログ

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zoom RSS 12月2005 (3)

<<   作成日時 : 2015/12/20 01:05   >>

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イスラムをジハド(jihad、大義・理想のための'聖戦')の一点に還元しない理解のためには、脱ジハド的な読みというか、コーランを学際的に研究する重要性がいわれている。'学際'とは何を意味するのか?専門的に文献学的に調べる能力がない。だがアマチュアだからこそ外部的に、他の聖典(ユダヤ教、キリスト教)と比べる読みが可能かもしれない。例えば魂の消滅をどう考えているのかとか▼何が<前>で何が<後>かと考えてみると、思想に関してはどうもイスラム思想が<先>でユダヤ哲学が<後>。宗教の成立はイスラム教が<後>でユダヤ教が<先>である。7世紀イスラムは、ラバ(ユダヤ教聖職者)の教説とあり方に反発して成立したそうだ。▼反発の内容は非常に気になる所だ。と、ロンドンで本の出版講演を行ったゴールドベルグという、パウンドを尊敬したいかにもヨーロッパ・リベラルの知識人のラビの発言を思い出す。彼は凄いことを喋った。専制君主のアジア(オリエント)で誕生したユダヤ教の歴史を考えて人権を拡充する努力を放棄するな。アラブ世界の中でユダヤ人が生かさせてもらうためには、軍国主義では無理だが、ユダヤ人共同体が一番大事にしてきた教育の分野に貢献すれば必ず存続できる等々。アジアにおける現代日本の生き残り選択をズバリ云った言葉でもあるように思った私は感心したが、聴衆の半分のイスラエル系の人々が一斉に反発した。▼特に国家イスラエルの成立をアラブ人全員の承認に委ねよとする意見に質問が集まった。他には、お前が言う通りだと、生かさせてもらううちに同化してしまい、畢竟ユダヤ共同体の民族が台無しになる危険もあるぞというヘイト調の質問も飛び出た。▼近代を背景としているこの議論を、七世紀イスラムのユダヤ教からの自立の背景に遡らせて適用することは絶対に無理だ。ただこの時はそこで、国家を喪失した知識人と国家を取り返す知識人と国家を超えようとする知識人の間に起きたかもしれない議論の形をどうしても想像した次第である




和辻が想定した日本語をもった文化の共同的主体

昭和十年代の全体主義の舞台に立つことになったのは、ほかでもない、和辻が想定した日本語をもった文化の共同的主体でした。この悪夢がふたたび安倍自民党の救済神学(日本会議)のもとでくりかえされることはないなどとは誰も断言できないでしょう。本当に楽観できません。そのとき彼らが推進する全体主義に抗して、(日本民族の古代を思い出す)作者の死を言う抵抗をだれが行うのかです。書くことは絶対の孤独。匿名的多数に還元されない絶対の孤独、(ハンナ・アーレントが指摘したような)表現主義のような芸術至上主義の反時代的主張が、孤立に追い込まれることなく、巻き返していくほどの意味をもつ可能性がすこしでもあるのだろうかとかんがえています。それとももっと他の方法があるでしょうか?あるいはどうしようもなくもうすでに手遅れとなってしまった?その場合でもできることはなんでしょうか?
「神話・民話として語り伝えられたこの「先代旧辞」をもしすぐれた一つの作品というならば、その本当の作者とは一つの言語(日本語)をもった神話・民話の想像力豊かな語りの匿名的多数の主体であるだろう。日本語をもった文化の共同的主体とは日本民族にほかならない。『古事記』の「先代旧辞」を和辻が一つの芸術的作品と認めたとき、彼は作者としての日本民族をその作品の背後に見出していたのである。」(子安氏)



「 われわれが話している言葉は僕のものである以前にあの男のものだ。家庭(ホーム)、キリスト(クライスト)、酒(エール)、主人(マスター)という言葉は、かれが口にするときと僕が口にするとき、僕はきまって不安を覚える。たいそう親しくしかも異質な彼の国語は、僕にとってはいつまでも習い覚えたてた言葉に終わるだろう。僕はその単語を作ったこともなければ、受け入れたこともない。僕の声はそれらの単語を追いつめる。僕の魂は彼の国語の陰で井ら立つ。」(Joyce, Portrait of the Artist as a Young Man) ▼1983年サイード ('The world, the Text and the Critic')はジョイス文学から引く。ひとつのアイデンティティーだけを選択すると他のアイデンティティの全部が踏みつけられる(one identity tramples all the other's )。排他的本質を構成するひとつのアイデンティティーに、文化多元主義が穴を開けれるか?▼文化多元主義の意義は自明だが、政治多元主義を伴った抵抗でなければならない。現在厄介なことに、権威体制が知識人を利用して文化多元主義を包摂してきた (例、日本知識人の帝国の言説)。政治多元主義の声 (東アジアの民主化運動・反グローバル資本主義)が抑圧される可能性も出てきたのだ。▼問題提起として、文化多元主義よりも政治多元主義から経験知を引き出すことが求められているのでは?先駆的に、帝国主義の歴史を抑圧されたマイノリティーが敢えて書いたジョイスはそこで市民的権利の理念性も書いたのだった▼最後に、ジジェクのOWS前の認識について。権威体制の側で文化多元主義の夢を発明できなければ政治多元主義を求める危機に陥るという見方ーカントとフロイトを折衷したーをもっていたように思われる。


The language in which we are speaking is his before it is mine. How different are words home,Christ,ale,master,, on his lips and on my mine! I cannot speak or write these words without unrest of spirit.His language,so familiar and so foreign,will always be for me an acquired speech. I have not made or accepted its words.My voice holds them at bay. My soul frets the shadow of his language.
(James Joyce, Portrait of the Artist as a Young Man)



ロンドンのとき読んでいたあんちょこのおかげで、ユダヤ哲学といわれるものがイスラム思想から生まれてきたかという歴史がひそかにわかったような気がしたけれど(笑)、ユダヤ哲学が何であるとかイスラム思想が何であるかはどうでもいいのです。どうせ自分には分らないと諦めています。▼もっと自分の関心は、受容の仕方というか、この思想に他の思想がいかに射影されてくるその仕方にあるのです。なぜ射影というかというと、思想というのは、なにかとの関係でしかみえてこないからです。そのとき、この思想(ユダヤ哲学)に他の思想(イスラム思想)が射影されるとき、他の思想の「本質」というか「奥行き」が消失しています(そうみえるのです)。▼そしてこの思想(ユダヤ哲学)が他の思想(ヨーロッパ人文主義、私が知っているのはスピノザぐらいのことだけれども)へ行く場合も、この思想の「本質」が消滅する、あるいは他において理念化されることになる。これが面白いのです。▼イスラム思想が中国哲学(朱子)にどんな影響を与えたかはあまりよくわかっていないとのこと。(もしそういう受容が起きたという前提で話すと、しかも井筒が言う「分節化されない世界」'がそういうものだと想定しますと)、この場合も、朱子哲学においてイスラム思想の「本質」が消失しているようです。だが痕跡はかならず残ります。どこに?▼このとき、奥深いところに隠れているものをさがすという態度ではなく、書いてある表層に答えが全部あると考えてみるのは、一つの思想転換です。だからわれわれが気がつかないか、というか、気づこうとしないだけのことなのかもしれません。▼朱子哲学の思想スクリーンには、「分節化されない世界」の根底に本質(「性」)があるのですけれど、逆に、ここから、「分節化されない世界」の根底に本質をみとめないイスラム思想という光源が辿れるかもしれませんね。ほんとうのところはわかりませんが、方法的には正当化される、こうした射影としての思考が私の最大の関心事なのです。



多分文学とか思想にかぎりませんね、一見饒舌になんでもかんでもしゃべり始めたようにみえる書くプロセスというのは、全体化されることを拒む領域から自ずから生まれてくることではないでしょうか。多様性というほどではないが、排他的な全体化を受け入れることがない民間治療といわれる身体を対象とする探求の沈黙領域に危うくなんでもかんでも語りはじめるときがくる必然性について考えた時期が二十代にありました。▼身体のことしか語っていないつもりだったのに、人間の自発性というか自由を語るときでも身体から語っていなかったのに、国体批判とみななれて、戦争中に言論の厳しい弾圧を受けた感じたほどに、(対象から自立した)思考の自立性について考えることになったのかもしれません。が、そういう問題意識は常のこととして組織をいかに保っていくかという現実的関心のなかに忘れられていったようにみえます。だが消滅しきってしまうことなく痕跡が残ります。▼現在は野口氏の本の四冊は一般の書店で出るようになりましたが、当時は間違った読み方を避ける為に広く読まれるべきではないという暗黙の了解がありましたが、八十年代に内弟子の一人であった最高技術者柳田氏の呼びかけで親しかった7-8人ぐらいでしたか、'健康'という実践的関心にとらわれず、(野口氏の死後多分内部の方々も段々どう読んでいいのかわからなくなってきた饒舌に語る)「体癖」をテクストとして自由に読むという試みが九段下道でおきました。外部の私も参加しました。当時は身体と治癒・治療の教説をいったん離れてどう読んだらいいのか、言葉にすることができませんでした。が、今から思うとじぶんの関心を占めた中心的テーマは、なんというか、文字を読む人が身体(非知)をいかに考えるか?というところからはじまって、全体の部分に組み込まれることを拒むような、思考の形式を徹底していくと、全体と隣接しながら、語る対象から自立していくような書くプロセスに出るというかそういう運動を考えるにいったというか・・





▼今回の少女像撤去の問題から明らかになったことは、国家日本が過去に生きた人々一人一人の人間性をいかに踏みにじってきた事実が隠蔽されるという問題だけではありません。少女像撤去の問題は、少女像という痕跡を通じて歴史を知ろうとする未来の人々の人間性も踏みにじられるという問題を含むことです。▼しかしいくら人間性が踏みにじられても、痕跡というものはかならず残りますー隠ぺいによって。たとえ隠ぺいされるものは見えなくなっても、隠蔽のシステムが完全ではありえないのは、どうしょうもなく隠蔽それ自身が目の前に現れることになるから。▼実際に現在、覆い隠し隠ぺいしようとする一国家であれ国家同士の間であれ、その隠蔽から、(排除されてきた)他者が生存した痕跡が過去の記憶からというよりは表層それ自身から直にまざまざとあらわれることになりました. 安倍首相が「最終的かつ不可逆的に」というようには...
ー>慰安婦問題:少女像の移転反対66% 韓国世論調査 ( 毎日新聞)


「最終的かつ不可逆的に」?

なんでもかんでもカネが「最終的かつ不可逆的に」モノをいうとかんがえるようになった国にはなんの感性の進歩もない
ー>十億円「少女像移転が前提」、安倍首相が少女像の問題にこだわったのは、自らの支持層の保守派への配慮から。「これができないと自分も厳しい。支持者がもたない」(朝日新聞)


完全であることが不可能であるという判断は言葉が構成することになったのだから、完全であることが不可能であることを隠ぺいするときに再び言葉に拠ることは可能なのだろうか。否である。リアリズムと神話の問題


書かれた言葉の豊穣さと語られた言葉の貧困さ、この不均衡なギャップが心理小説の心理小説であるゆえんというか・・・
ー> 戸外には風もなかった。静かな空気が足早に歩く二人の頬に冷たく触れた。星の高く輝く空から、眼に見えない透明な露がしとしと降りているらしくも思われた。津田は自分で外套の肩を撫でた。その外部の裏側に浸みこんでくるひんやりとした感じを、はっきり指先で味わってみた彼は小林を顧みた。
「日中は暖かだが、夜になると矢張り寒いね」
「うん、何と云ってももう秋だからな。実際外套が欲しい位だ」


二人は大きな坂の上に出た。広い谷を隔てて向うに見える小高い岡が、怪獣の背のように長く横たわっていた。秋の夜の燈火が所々に点々と少量の暖かみを滴らした。
「おい、帰りに何処かで一杯やろうじゃないか」
津田は返事をする前に、まず小林の様子を窺った。彼らの右手には高い土手があって、その土手の上にはこんもりとした竹やぶが一面に生いかぶさっていた。風がないので竹は鳴らなかったけれども、眠ったように見えるその笹の葉の梢は、季節相応な蕭索(しょうさく)の感じを津田にあたえるに十分であった。
(夏目漱石「明暗」1916年「朝日新聞」に連載)


東京演劇アンサンブル納会のとき大鷲さんと話し合ったことが、反動的に安倍自民党は明治に帰るつもりなのかという問題についてでした。むしろ帰るところは帝国主義日本の大正ではないかといったとき、そのときはきちんと根拠を示せなかったが、やはり3・11以降に起きてきた復興幻想の現在を、関東大震災のときに展開された(明治からの切断が起きる)'復興幻想'の言説と比べてみなければならないとおもったから。ヨーロッパの前衛芸術運動は、総力戦の国家が個人の隅々まで監視する体制からの解放感から生まれたことを「20世紀精神」の渡辺一民氏は指摘するとき、第一次大戦争と同じ意義をもったとする同一化から、関東大震災以降にはじめて芸術モダニズムが立ち起こってきたと考えました。だが、それだけではありませんでした。関東大震災の崩壊の中心から、復興精神的なナショナリズムの幻想に絡み取られていくことになったのです。このことは3・11以降を生きる私にとって非常なリアリティーをもつようにおもわれます。関東大震災の7年後は昭和十年代のファシズムに入っていった。2011年の3・11の十年後、なにが起こるのでしょうか?だれが大川周明を再びあたらしく演じるのでしょうか?
「精神復興は、震災このかた随所に唱へらるゝ題目である。而も予の見る処を以てすれば、其の提唱せらるゝ復興策は、多く第二義に堕して究極の一事に触れない。修身教科書にある如き教訓を、電車の中に今更らしく張出しても、恐らく無害なれども無益である。真個に精神を復興せんとすれば、常に復興せらるべき精神其者を徹底明瞭に理解し把持せねばならぬ。予は予の自証する処によつて信ずる、精神復興とは、日本精神の復興であり、而して日本精神の復興の為には、先づ日本精神の本質を、堅確に把持せねばならぬと。かくて今日の予にとりて、何者にも優りて神聖なる一事は、日本精神の長養である。又は其の外に発する処に就て云へば、日本国家の成満である。」(大川周明 日本精神研究 明治書房 昭和14年)



問題提起です。思想史が思想史として成り立つためには、思想史はどういう状態を満たさなければならないのでしょうか?講義「二十世紀精神史」の渡辺一民氏がよく口にしていた言葉が、'コンパクト'でした。「コンパクトかね?」「周密かね、そうだろう?」と確かめてきたもの。辞書で'コンパクト'の意味を調べると、(物質が) 緻密な、目の詰んだという状態をいうようです。英英辞書でも調べると、全部必要とされている構成要素が小さな空間にある状態のこと。compact; closely and neatly packed together; dense ( having all the necessary components or features neatly fitted into a small space) 数学の位相空間の説明にちかいですかね。子安宣邦氏の「思想史教室」の場合も、文章にしたら数行で言われていたことをできるだけ理解するためには、(たとえば「思想史家としては」という言い方)、わずかな言葉が占めるこの小さな空間に、(三十冊ぐらい執筆なさったとのこと,) 二十冊分の本の言葉たちをコンパクトに束ねることがなければと思います。私は知識も思考も絶対的に足りませんが、まあそれでも、この四年間を通じて、思想史といわれるものが思考として成り立つためにどんな状態を満たさなければならないのかということだけは、まだまだでありますが、以前と比べてより明確に掴んできたように思います。思想というのは、なにかとの関係でしかみえてこないこと、この場合のなにかとは思想史という全体のことなのだが。どの思想家の場合も思想それ自身の言葉の中から内部に沿ってなにかが解釈上明らかになっても、そのなにかが思想とその思想の外部との関係になにか新しく付け加えることはできません。一義的に明確に定義されること、これは思想史のゲームには役に立たないというか





地上の動物、あるいは双翼で飛ぶ鳥も

一つとしてなんじらと同じ衆生でないものはない。
(聖クルアーン第六章三八節)


Adorno refuse que l'individu soit soumis à une Raison qui unifie tout. C'est pourquoi il dirige son analyse vers l'art. Sa théorie esthétique montre que si l'activité artistique, individuelle et particulière, est le témoin des cicatrises opérées par le progress, elle reste détachée de toute pratique de domination.


こういう話は映画館でよく会ったアイリッシュの宗教画家からききました。顔というのは、画家にとっては、そこに信者が自らの個人的物語を投射しかねない禁じられた偶像です。だから、(過去に存在したが現在は)喪失してしまった全体的なものをもし復活させたいならば、顔を隠蔽しなければなりませんということなのでしょう。しかしここから私の問いがじはじまりました。ほかならない、この隠蔽こそが、全体的なものを不可能にするほどの違和感を無言に指示することになる痕跡になるではないだろうかと。意味ある統一性を回復するときにそこにどうしてもそれとは矛盾した痕跡が必然のごとく残るのは、果たして一体なぜなのでしょうか?アドルノAdornoであれ本居宣長であれ、この問いを問うていたようにおもわれます。そして書く行為もおなじだとおもいます。




眼鏡のような本でないと見えないのだが
宇宙の氷河の淵に衝突した
塵たちの
ブラウン管のなかで「クールなんとかなんとか」という
クール語をしゃべる足跡たちをみて、
重商主義国家が喋っているのかとおもってしまった
わたしなら、
なにもかもダメになったからといって
彼ら彼女らのように、氷河の形をさがすという同一化の冒険よりも、
そうやって氷河の形を一生懸命求めたからなにもかも歪になったんじゃない
とかんがえてみる弱腰の差異へ行く




「私が映画の世界のなかでひとりぼっちな感じがするのは、書くために、つまり鉛筆を手に取るために、写真を必要とするような人を一人も見つけることができなかったからです」(Godard)

あるユダヤ系アイリッシュの皮肉の言葉を思い出す。リムリックで最大の幸福に感じるときは車サイドミラーに映る「リムリック」の標識文字が無限小になるときだという。同じように、たしかに私もアイルランドから英国に入ったときは嫌な思いを毎日したが、ロンドンを去ってからロンドンを素晴らしいと思えるようになった。アイルランドとイギリスが苦しいのはなぜか?それはそこに文化 cultureがあるからだ。文化とは、習俗に根ざした仲間意識、集団の感情、自発的に起きる、思考に根差さない非合理性の集合だ。外部の者は、言語とアイデンティティと宗教から成る文化に疎外感を感じる。文化とはゴダールがいう文字が定位する物語のシステムである。ではなぜ楽しむことができるのか?それは文化が文明civilisationに依るからだ。文明とは、文化と正反対に、合理的で物質的な安心感、個人の自立性、自己自身を探求するアイロ...ニーの集合である。文明はゴダールがいう映像と音の力である。文明あるところに文化があるように、映像と音があるところに文字がある。両者は多様性をもって共存してきたのだ。ゴダールがサイレント映画を称えるとき、かれは映画の映像をエクリチュールの運動として捉えようとする考えをもっている。さてゴダールの問題は、排他的に自己の(委託された)固有性を主張する文化 (文字)が、文明(映像と音)を抹殺するほどカオスになってきたことだ。例えばそういうカオスとして、ゴダールはハリウッド映画のシナリオのシステムを指さす。物語のシナリオは聖書と同じ起源をもっているという。そしてこのときゴダールはデリダのように聖書のあり方を解釈している。ここでとりあえず聖書のこの二つの文を読みとき、「文字」の侵入に怯える「息」の魂の姿がみえるようだ。Il souffla un souffle de vie (命の息を吹き入れられた)。La lettre tue, mais l'esprit vivifie (文字は殺しますが霊は生かします)。だが原初テクストで言われることの意味内容を言うことは無理であり、ただ近代的な解釈からのみ、「息」「霊」でいわれる本来的なものを「声」と読めることに注意しよう。ここからデリダが問題にしたルソーがいう声の共同体の構造ー文字を劣った二次的なものとしかみなさない近代の言説ーがみえてくる。声の共同体は'文字は殺す'と語るとき、整理し分類し秩序づけて排除する文字を告発している。このとき奇妙にも、声の共同体の文化には自らが文字の文明に先行するという自負があるようだ。(声の共同体の擁護者が前提するように)文字が歴史の観念(何が「先」で何が「後」かという観念)をつくったとみとめているのに、この歴史の観念に依拠する「声」が、「文字」のほかにどこから現れたと主張するつもりなのか。合理的に考えれば結局、書記行為の文明が存在するところに声の文化が生まれたのである。だから声の文化の言説が「この道しかない」('声しかなかった')と主張するとき、カオスがあらわれる。そこで文字は歪に代理性という(声の対抗物として)枠づけられるし、(他の道をさがす)テクストが外部と絶えず繋がるという思考の外部性が消されてしまう。これはハリウッド映画の目的論的に解釈されるシナリオのシステム、文化論的な同一反復に巻き込まれる言説のカオス、破壊的野蛮なのだ。文字を読む知識人はいかに、このカオスに陥らずに脱出していくか?文明の連続性を形成するか?文字が推進した問題を解決するためには、再び文字が定位するシナリオのシステムに依拠することができない。ゴダールが新しく言ったことは、これを倫理的な問題としてはじめて発見したことではなかっただろうか?「私が映画の世界のなかでひとりぼっちな感じがするのは、書くために、つまり鉛筆を手に取るために、写真を必要とするような人を一人も見つけることができなかったからです」。ゴダール以前には、書くために映像と音の力に依拠することを倫理的な問題としてとらえる言説は存在しなかったのである。ここでゴダールは映像と音の関係もかんがえた、それはいかにこちらとあちらを関係づけるかという問題意識にあらわれることになった。(北)アイルランドとイギリスだけではない。パレスチナとイスラエルの和平のための映画をいかに書くかということである。あまりにも曖昧だとしてゴダールの捉え方には批判も多いのだけれど、パレスチナ問題をいうときあえてそれを映画の問題として構成してみようとするのである(ドキュメントとフィクションの問題)。なぜだろうか?恐らくは、映画から離れては、問題を開くことができない、(したがって政治家と専門家だけが語る問題のままである)と考えているからではないか。ゴダールは哲学者ではないけれど、日本の哲学者と比べたら遥かに哲学的な方法論的自覚をもっている知識人だとおもう。ゴダールは映画を依拠できる思考として措定してきたのだから映画から接近するのだ。もちろん限界にぶつかる。その限界から知識人の語りが始まることになる。問題解決のために文化多元主義にまだ可能性があるのか?理念としての政治多元主義としての可能性を書く必要が大きくなってきたのではないかなど。

聖書のこの二つの文を読みとき、「文字」の侵入に怯える「息」の魂の姿がみえるようだ。Il souffla un souffle de vie (命の息を吹き入れられた)。La lettre tue, mais l'esprit vivifie (文字は殺しますが霊は生かします)。だが原初テクストで言われることの意味内容を言うことは不可能だ。ところで近代的な解釈からのみ、「息」「霊」でいわれる本来的なものを「声」と読める。と、ここからデリダが問題にしたルソーがいう声の共同体の構造ー文字を劣った二次的なものとしかみなさない近代の言説ーがみえてくる。声の共同体は'文字は殺す'と語るとき、整理し分類し秩序づけて排除する文字を告発している。このとき奇妙にも、声の共同体の文化には自らが文字の文明に先行するという自負があるようだ。(声の共同体の擁護者が前提するように)文字が歴史の観念(何が「先」で何が「後」かという観念)をつくったとみとめているのに、この歴史の観念に依拠する「声」が、「文字」のほかにどこから現れたと主張するつもりなのか。合理的に考えれば結局、書記行為の文明が存在するところに声の文化が生まれたのである。だから声の文化の言説が「この道しかない」('声しかなかった')と主張するとき、野蛮な言説になる。そこで文字は歪に代理性という(声の対抗物として)枠づけられるし、(他の道をさがす)テクストが外部と絶えず繋がるという思考の外部性が消されてしまう。これは安倍自民党のこの道しかないを繰り返す同一反復の教説の根底にある同じ野蛮さだ。さてポスト構造主義の哲学は福島と沖縄の問題を考えることが不可能なのか?絶えず他の道をさがすポスト構造主義の哲学のあり方を利用できないだろうか。その場合<なにもかもダメになったときどんな国の形があるか>と問うては再び未来を原発稼働と軍事基地化にもどす同一性だ。それぐらいならば、<国の形を求めるからなにもかもダメになったのだ>と差異を考えたほうがいい

The real sense in which culture since Williams's death has become more ordinary has little to do with Dante or Mozart. One of William's key moves was to insost that culture meant not just eminent works of art, but a whole way of life in commonn; and culture in this sence - language, inheritance, identity, religion - has become important enough to kill for. Dante and Mozar may be elitist, but they have never blown the limbs off small children.

These days the conflict between civilization and barbarism has taken an ominous turn. We face a conflict between civilization and culture, which used to be on the same side. Civilisation means rational reflection, material wellbeing, individual autonomy, and ironic self-doubt ; culture means a form life that is customary, collective, passionate, spontaneous, unbreflective and ariational. It is no surprise, then, to find that we have civilisation whereas they have culture. Culture is the new barbarism. The contrast between west and east is being mapped on a new axis.

- Terry Eagleton, "Culture conundrum', 21 may 2008, The guardians'


文明と文化

あるユダヤ系アイリッシュの皮肉の言葉を思い出す。リムリックで最大の幸福に感じるときは車サイドミラーに映る「リムリック」の標識文字が無限小になるときだという。同じように、大阪を楽しむようになったのは大阪から遠く離れたときからだったとある方からきいた。たしかに私もアイルランドから英国に入ったときは嫌な思いを毎日したが、ロンドンを去ってからロンドンを素晴らしいと思えるようになった。リムリック、大阪、ロンドンがなぜ、苦しいのか?それはそこに文化 cultureがあるからだ。文化とは、習俗に根ざした仲間意識、集団の感情、自発的に起きる、思考に根差さない非合理性の集合だ。外部の者は、言語とアイデンティティと宗教から成る文化に疎外感を感じる。ではなぜ楽しめるのか?それは文化が文明civilisationに依るからだ。文明とは、文化と正反対に、合理的で物質的な安心感、個人の自立性、自己自身を探求するアイロニーの集合である。テリー・イーグルトンによれば、無矛盾に!文明あるところに文化がある。両者は共存してきたのだ。問題は、グローバル資本主義の今日、排他的に自己の起源を主張する文化が、多様性の主張を超えて、文明を抹殺するほど野蛮になってきたことにある。そういう野蛮として、古事記(安倍自民党の側の読み)と孔子(中国共産党の側の読み)を国家祭祀的な解釈に沿った読むがある。原初的テクストの恣意的な読み方に、互いに<他>を憎む国家が現れ、同時に自由に喋る権利が無い国が現れる。東アジアの平和的共存は嘗て全体主義日本の軍国主義が破壊したが、今日それを破壊するのは、歴史修正主義者である東アジアのリーダー達、国家プロジェクトの文化多元主義なのだ。文化という新しい野蛮の形態が、東アジアだけではなく全世界に起きてきた。戦争法の自衛隊が明日行く、西と東の対立を記した地図が地球を覆うようになった。だが文明はどこに消滅したのか?文明は、新たに政治多元主義の理念に定位することになるのではあるまいか


On Godard's "Film Socialism"
Voyage(s) en utopie, "A la recherche d'un théorème perdu.JLG 1945-2005"

This is the title of exhibition for celebrating Godard's work. What Pompidou' Centre discovered in Godard exhibition is a whole as a surrealist (Picaso) - a continuous function which is nowhere differentiable.

Godard is produced as a whole, but in its own particular place within the process of production, alongside the parts that it neither unifies nor totalize.(see Deleuze's "the body without organs").To Godard, although language bestows identity on being, being is in excess of language.This is quite clearly a materialist thesis as befits Godard's Marxist heritage.

Godard's thinking form, reminiscent of Badiou's "axiom of separation ", states that an undefined existence must always be assumed in any definition of multiple in image.

The Godard's "Film Socialism is the axiom addressed to Europe " homeless"(!?)
But what is it calling ? The axiom must tell that Europe, as being, has to resist the global capitalism !

ユートピアの旅ー失われた公理を求めて。ポンピドゥーのゴダール展が発見したのは、シュールレアリストとしての全体像ー但し、至る所微分不可能な全体像だ。彼は常に、言葉に還元不可能な、存在の過剰さを表現してきた。映画「ソーシアリズム」の公理は?ホームレスとなったヨーロッパに反抗させよ!



六倍は酷い話だが、ほんとうにそのほかの追加はないのか?

嗚呼ロンドンの経験から当初予算の五倍高くなると言っていたのだが、六倍超は本当に酷い話だ。招致のとき「世界一コンパクトな大会」を宣伝したときから予定していた価格で、隠していただけだ。東京五輪開催決定に拍手喝采せずに、これを支払う国民は冷静に見抜かなければならなかった。これだけで済まされないだろう、この安倍自民党は狡猾だからね。ほんとうにそのほかの追加はないのか?そこでいまから警戒する必要があるのは、民間の警備会社に頼んでこれ以上金を使ってはなりませんから、この際自衛隊にお願いして警備していただき一生懸命節約しますというようなことを公然と言い出す可能性だね。実際にイギリス保守党のロンドン五輪開催のときがそうだった。もし本当にそんなことになったら、石原慎太郎の高笑いがきこえる



・Pour Pythagore, le corps (sôma) est un tombeau (sêma), à la fois prison et « signe » ou « protection » de l'âme : cela est bien une thèse pythagoricienne, pas orphique Philolaos : « Les anciens théologiens et devins témoignent eux aussi que c'est en punition de certaines fautes que l'âme a été attelée au corps et ensevelie en lui comme un tombeau. »
・L'âme est un nombre, en ce sens qu'elle est harmonie, bonne proportion, combinaison des propriétés composant le corps (c'est la théorie du pythagoricien Simmias dans le Phédon, 86 d, de Platon). Elle est vie, car mouvement.
・Pythagore pensait « que l'âme est immortelle ; ensuite, qu'elle passe dans d'autres espèces animales ; en outre, qu'à des périodes déterminées ce qui a été renaît, que rien n'est absolument nouveau, qu'il faut reconnaître la même espèce à tous les êtres qui reçoivent la vie. […] À beaucoup de ceux qui l'abordaient il rappelait la vie antérieure que leur âme avait jadis vécue avant d'être enchaînée à leur corps actuel. Et lui-même, par des preuves irrécusables, démontrait qu'il réincarnait Euphorbe, fils de Panthoos. » L'intervalle entre incarnations serait 216 ans (6 au cube). Et l'explication vient de la nature de l'âme : il y a transmigration de l'âme parce que, par nature, elle est immortelle et mouvante, Pythagore ne fait pas intervenir la justice divine, une rétribution de l'âme, puisque n'importe quelle âme peut entrer dans n'importe quel corps



I learn Wiki

Le mot « âme », en grec ψυχή, est de loin celui qui revient le plus fréquemment dans les dialogues de Platon, en particulier dans Phèdre, La République et Phédon. Dans les rares dialogues où il n'est pas employé, on trouve toujours un ou plusieurs discours y faisant allusion. Malgré l'omniprésence de ce terme, Platon n'en a jamais donné de définition complète. En revanche, il en donne des descriptions nombreuses et variées, qui privilégient chacune telle ou telle qualité ou propriété. Ainsi, à défaut de pouvoir fournir une définition précise de l'âme chez Platon, il est possible d'établir une classification de ces descriptions. Néanmoins, certaines propriétés semblent plus essentielles que d'autres : c'est le cas de la conception de l'âme comme principe du mouvement, et de la penséep.
Pour Platon, l'âme est un être apparenté aux Idées, au divin, qui a un mouvement propre. Elle est immortelle et se compose de trois puissances :
L’épithumia (en grec ancien ἐπιθυμία) l'« appétit », élément concupiscible, désirant, le siège du désir (faim, sexualité), des passions ;
Le thumos (en grec ancien θυμός) la « colère », élément irascible, agressif ; ce pourrait être traduit par « cœur » ; il est cette partie de l'âme susceptible d'emportement, de colère, de courage ;
Le logistikon (en grec ancien λογιστικόν le « raisonnable ») ou esprit, élément rationnel, immortel, divin ; c'est un « démon » (daimon).
Platon croyait l'âme immortelle, et chercha, sans prétendre pouvoir y parvenir, à le prouver dans le Phédon, qui raconte le dernier jour de Socrate. Cette immortalité se lie à la thèse de la migration des âmes et de leur purification après la mort, qu'il décrit dans trois mythes, à la fin du Gorgias, de La République et du Phédon. Platon admet cinq formes d'âmes : celles des dieux, des démons, des héros, des habitants de l'Enfer, des humains


最近眼差しが似てきた母親が生活しているに似てきた茅ヶ崎に帰ってみたら、嗚呼、またまた、なんなんだ、なんなんだ、なんなんだ、何の根拠であの本が捨てられ、この本が残されたのかまったく理由がわからないのである。この野蛮行為に呆然と蒼ざめたとき、と、世の中なにが正しいことでなにが正しくないことかは子供は親から教えてもらうことになっているが、孤児院で育ったこの自分は、なにが正しくなにが正しくないかは全部本で読んで知ることになったというあるアイリッシュの人の言葉を思い出す。

<分節化されない世界>といえば、デュラスの「海、かたちのない、単純に比類なき海」 (Le mer, sans forme, simplement incomarable.)とか、スピノザの「絶対に無限な実体は分割されない」(エチカ)などの言葉が指示するものをおもうのであるが、だが、それらは近代の観念でとらえられた、したがって人間の意味をあたえられた、あくまでも内部的な<分節化されない世界>をいうのだろう。後期近代の現在、<分節化された世界>と考えられるものは、グローバル資本主義の分割である帝国(アメリカ、EU、ロシア、中国)の配置である。他方、<分節化されない世界>は、このグローバル資本主義の収奪に抵抗してやまない、OWSの市民運動から、近代への同一化を拒んだ'遅れ'を保って存立しているイスラム世界の動乱まで、横断している運動である。


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12月2005 (3) 言葉と表現と射影のブログ/BIGLOBEウェブリブログ
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