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<<   作成日時 : 2016/01/20 12:06   >>

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When I look abroad, I forsee on every side, disputem contradiction, anger, calumny and detraction. When I turn my eye inward, I find nothing but doubt and ignorance. All the world conspires to oopose and contradict me...
(David Hume)

抽象的な絵画を再構成するとき、たとえばベケットから感化されて描いた絵を「大逆事件」の絵として再構成できるか?などと考えはじめてしまうときは、物語り説明しようとするイメージを沈黙させるために盲目的にかんがえる。数えられる無限 countably infiniteと数えられない無限 uncountable infinite の間は他の無限がなく、連続しているのか?他の無限が存在するなら連続しているとはいえない、だが存在するとはいえないし存在しないともいえない、としたら、思考を偶然的に委ねることになる。思考は偶然でしかないか?と諦めるとなんとか作ることができる・・・


「哲学の起源」の柄谷行人は言います。「キュ二コス派(犬儒派)の抵抗が有効だったのは、まだポリスが栄えた時代の名残があった時期だった。帝国の支配の下でポリスがいっそう無力化すると、プラトン派もキュニコス派も共に無力となった。その後、キュニコス派を受け継ぐ形で、エピクロスやストア派のゼノンがあらわれた。かれらはもはやキュニコス派のように挑戦的ではなかった。彼らは、ギリシャのポリスが帝国の中の行政単位と化したのちの社会で、「無感動」によって生きることを目指す個人主義的な哲学をもたらしたのである。」。たしかに社会的背景は柄谷の指摘する通りだとしても、ほんとうにポスト・キュ二コス派のエピクロスやストア派が本当にそれほど「挑戦的ではなかった」のか?今日のわれわれが気がつかないだけではないのですか?エピクロスがはじめて庭で学校を作ったこと(それまでは建物の中に学校があった)、そこで女性たちや奴隷たちも哲学の権利を持っているとして受け入れたことはすごいこととは思いませんか?ここでラカンの言葉が思い出されます。
「今日、精神主義(プシシズム)しか意味しないであろうこの看板によって、豚の名で侮辱されていたからには、エピキュリアンたちは、守らなければならないなにかとても大切なもの、ストア学派の人たちよりも秘密なものをもっていたに違いありません。(ラカン)
Il fallait qu'ils eussent quelque chose de bien précieux à an abriter, de plus secret même que les stoïciens, pour de cette enseigne qui ne voudrait dire maintenant que psychisme, se faire injurier du nom pourceaux (Lacan)


ソクラテス、アルキビアデス、ディオゲネス

読み方によっては、真面目なプラトンが語り伝えた真面目なソクラテスほど退屈な人物はいないのですが、弟子たちに面白いのがいます。小田実はアルキビアデスについてこう語っていました。「われわれはすぐ、国家、国家と優先するけど、市民を殺す国家なんて捨てていい、向こうへ寝返ってかまへんとアルキビアデスはいうわけです。私はそうやって国家と市民は平等だと思って生きているけど、皆さんも、そうやって生きてくださいよ」。▼それからソクラテスの弟子の弟子にディオゲネスがいました。かれは、どこの市民かと問われて、「世界市民(コスモポリタンの市民)だ」と答えたといわれます。(ジョイスのブルームみたいですな)。かれが属していたキュ二コス派(犬儒派)は、ギリシャの全ポリスがアレクサンドロスの帝国の下に従属しはじめた時期に人気を博しました。アレクサンドロス大王がこのディオゲネスの前に立って、何なりと望むものを申してみよ、といったとき、かれは、どうか私の前に立って日差しを遮らないで欲しいといったといわれます。▼こういう弟子たちからソクラテスがどういう考えをもっていたのかを教えてくれるのが「哲学の起源」の柄谷行人。「ソクラテスは、民会や法廷で活躍し権力を得るということを、価値とはみなさなかった。彼が教えるのは、公人として活動するための技術ではなく、むしろ、それを断念させてしまうような考えである。「青年を堕落させる」とは、むしろそのことである。」「ソクラテスがもたらしたのは、公人であることと私人であることの価値転倒である。それは先ず、私人であることを公的=政治的なものに優越させることである。キュニコス派と呼ばれたソクラテスの弟子たちは、このようんさ価値転換を遂行した」。▼なるほど論理的にかんがえぬかれていますが、しかしですね、公人であることを諦めている知識人たちにとっては私の領域しかありません。公的=政治的なものを批判していく、私の領域に依拠するこそが宇宙の中心にあると考えることが本当の意味の価値転換なのですよ。これを論じているところでは、柄谷は最初から現代の視点から語っているようですが、かれがいう「公人であることと私人であることの価値転倒」が、帝国のもとでの同化主義のことを語ってしまっていることにきがつかないようです。(


「個」であること、いやあ、たしかに難しい課題ですね、三瓶さん。どうして難しいかというと、多分個であることの強力な理念が必要なのでしょうね。理念がないと成り立たない。だが理念だからたちまち難しくなる。たとえば左翼がいうように天皇をやめたら、個人のあり方が最大化するかといえば、やはりそのときに共和主義の強力な理念をともなわないと、へたすると天皇制大好きなこの国民から戦前よりもめちゃくちゃな天皇ファシズム要求の声がでてくる危険性がありますでしょう。私は天皇制廃止論ですからね、引退してもらってかれには京都の天皇博物館の館長にでもついていただくと (笑)。ご指摘の通り、「辺野古のことも含めて、原発のこと、憲法のこと、問われているのは「個」の在り方'だとおもいます。個の在り方がどういうものかは私にはわかりませんが、運動なり抗議からもっと個を中心とした<共同体と個>の新しい関係が生まれてくるのだろうとおもいます。このとき、哲学者が哲学的にどう考えるのかとか、あるいは演劇人と文学者が文学的にどう考えるのかという形で理念のことを言うのは決して無駄ではないとおもうのです。現在の問題は選挙のこと、そしてもっぱら心理的なことだけをいえばすむというのが問題だではないだろうかという感じですね。しかしそれは丸山真男に遡ることでした。私が拘わっている思想史からいえることは、われわれはもういちど「大逆事件」から考えはじめることが大事だということです。

大正の再発見ーなぜいま大正を読むのか (子安宣邦氏、藤原書店「機」より)

1、大正という年号によって人は何を考えるだろうか。戦後民主主義の世代はすぐに「大正デモクラシー」というだろう。戦前の教養派世代は「大正教養主義」と答えるだろう。だがその答え以上に大正を考えることを人びとはしない。もし大正にかかわって「米騒動」をいい、「第一次世界大戦」や「ヴェルサイユ体制」をいい、「関東大震災」をいうならば、それは大正を歴史的関心のうちにすでにもった少数の人にかぎられるだろう。多くの人はびとはあえて大正を問うこともなく、その時代を明治と大正との間に陥没しさせたままにしているだろう。私はいま他人事のように大正の忘却をいっているが、昭和に思想史的問いを向け続けてきた私自身が、それに先立つ大正にまでその問いを遡らせることはなかったのである。▼私が大正に眼を向けだしたのは、2011年3月11日の東日本大震災に際して関東大震災が、大正の国家社会にもった意味を考えたりすることを通してであった。大正を問い始めた私は、やがて大正が創り出した、全体主義的昭和という時代の中に自分は生み落とされたのではないかと考えるようになった。私は昭和8年の生まれである。

2、私は「大逆事件」を問い直すことから大正への私の探索を始めた。私は大正への問いを年号の始まりからしようとはしなかった。「大逆事件」から、すなち明治44年(1911)1月18日大審院法廷が幸徳秋水から24名に死刑の判決を下したあの事件から、私は大正を問い始めたのである。「大逆事件」とは、やがて来るべき新しい時代と社会に向けてなされた明治国家権力の先制攻撃であった。大正という二十世紀的日本社会は、「大逆事件」という重い軛を負いながら、あるいは負わされて始まったのである。戦後日本の最高裁は、昭和42年(1967)「大逆事件」再審請求の特別抗告を棄却した。明治44年の大審院判決は、戦後日本の最高裁によって追認されたのである。百年前の「大逆事件」は、なお「大逆事件」であり続けているのである。ということは戦後日本の民主主義的国家・社会とは「大逆事件」がなお「大逆事件」としてあり続けることを許している国家・社会であるということになる。だから大正を「大逆事件」から読み始めるということは、大正だけではない、戦前の昭和をも、さらに戦後の昭和を読み見直すことをわれわれに求めることになるのである。

明治44年に国家に扼殺された幸徳をあらためて読むこととは、「大逆事件」の名を負わされた革命劇を語り直すためではない。「大逆事件」は、社会的正義と自由への民衆の本源的な要求に立った社会主義思想を、その芽生えにうちに扼殺したのである。国家権力は、幸徳らの「直接行動論」を反国体的テロリズムとして射殺した。それ以来、社会的正義と自由を求める労働者大衆自身の自立的運動をいう「直接行動論」は封印されてしまった。それを封印したのは国家権力だけではない。日本の社会運動もまたこれを封印していったのである。幸徳を読み直すとは「大逆事件」を通じてわれわれが国家権力とともに封印し、われわれの運動からも喪失させてしまった大事な何かを幸徳に再発見することである。その再発見とは、昭和の戦前・戦後史の読み直しの中で再びなされることでもある。私はそのようにして大杉栄を世見直し、彼とともに殺された「アナーキズム」を再発見した。また河上筆を、津田左右吉を読み直し、「貧乏物語」と「神代史の研究」が現在にもつ意味を、再び発見していった。大正は、二十世紀世界の問い直しが迫られているいま、再び発見され、読み直されねばならない。
(藤原書店発行・月刊「機」より引用)







▼(上の段は左から幸徳秋水、大杉栄。下の段は左から大川周明、和辻哲郎、津田左右吉、河上筆 ) '明治と大正の間 'painted by takashihonda


石川台のコーヒー豆を買う店が甘酒を出すというし、昨年は平田篤胤の寅吉的異界がすこし気になっていたので、大晦日に初めて近所の神社へ行ってみた。道案内の掲示板を無視して裏から入る。高田馬場の子供時代は祭りの薄気味悪く暗い場所をウロウロウヨウヨと魂の如く彷徨うと、目前に同級生の顔がいきなり現れて吃驚し楽しかったが。現在神社にきた大勢の若い人を見ると、国会前のときの如く行儀よく長い行列をつくって黙っていたなあ...



月に一回の「論語塾」で「童子問」を読むとき、これが本当に300年前に書かれた思想なのかと感嘆を禁じ得ない。思想史の視野からみると、朱子学という世界思想に挑む伊藤仁斎の、かくも深く考え抜いた日本思想は、18世紀でピークを迎え、それ以降は量の拡大はあるが質は衰退の一途ではなかっただろうか。漢字を受容して1000年を要したということかー思考するために。それにたいして西欧語翻訳言語の受容からまだ百年二百年しかたっていないので、前の時代の昔の人と比べてよく考えているつもりで実は考えることすら始まっていないかもしれないかもしれない。中々疑われない。近代化の百年の圧縮の中で、ヨーロッパではルネサンス以降五百年かかって、(書記言語の古典語の文法性に規定された)話し言葉で考えた民主主義の意味が、時には正反対の全体主義の意味になったり、時には逆のこと、全体主義を民主主義といったりすることが起きるから本当に厄介なのだ。このことは、日本近代に限らず、東アジア近代が直面している問題だろうとかんがえられる。
▼さて、ヨーロッパとの同時代性を意識するほどになった大正時代に、し...かし東洋と西欧の間の非連続性を知りながら、この壁をスマートに超える役割をになったのが、ほかならない、和辻哲郎である。だが、「倫理という言葉はシナ人が作って我々に伝えたものであり、そうしてその言葉としての活力は我々の間に依然として生き残っているのである」(「人間の学としての倫理学」)と、和辻が物語るようには、漢語「倫理」は昭和の時代に至るまでずっと活力をもって生き続けてきた言葉かは本当は疑わしいのである。
▼和辻の「倫理学」とは「倫理とは何であるか」というメタ的問いを含んでいると指摘した子安宣邦氏は解説する。
「明治後期から大正にかけて、和辻における学問の形成過程に存在していたのは「倫理(エシックス)」であり「倫理(りんり)」であるという両義的な漢語「倫理」であったのである。ちなみにこの「倫理」の語がもつ両義性は現在でも変わっていない。では和辻がした「倫理」という言葉をめぐる解釈学とは何であったのか。「倫」とは「仲間」であり、したがって「倫理」とは人間という共同存在(人倫)をあらしめる理法であるという和辻の理解は、語義の解釈学であっても、ディルタイのいう歴史解釈学ではない。だが和辻は「倫理」という言葉の歴史解釈学をあえて装う。それは「倫理(エシックス)」に対する「倫理(りんり)」概念の再構成を、東洋の歴史的な人間の生の地盤からなそうとしたからである。「倫理」概念の再構成とは「倫理学」の再構成である。かれが「倫理(エシックス)」に対して再構成しようとする「倫理学」とは「倫理とは何であるか」を本質的な問いとする学であるのだ」(日本倫理学の方法論的序章より)」
▼アリストテレスからマルクスにいたる西洋哲学の人間観と方法を十分に咀嚼した上で、人倫の体系としての倫理学という独自の筋道を提示、日本倫理学に革新をもたらしたといわれる昭和(1934年)の和辻を、ここであえて大正から捉えたらどうなるか?和辻「日本精神史研究」(1926)は、津田左右吉「神代史の研究」(1924)の2年後に、また関東大震災後に起きた大杉栄が殺戮された年の3年後に、出版されている。和辻は、津田の文献学的方法の脱神話の方向に対抗するが如く、あたかも国民が古代日本文化の作者となるような偶像の再興をいうようだ。はっきり断定できないが、だが和辻は国民のリアリズムに対する神話的想像力を昭和に入ってからも訴えつづけることになかったようにみえる。和辻は「場所」についてこう語る。「「我々は前に人間という言葉の本来の意義が「よのなか」「世間」であるということを指摘した。その「世」とは何であり、「中」「間」とは何であるか。」「世間と訳された原語lokaは、本来「還流」の意味よりも「場所」の意味を持ったものである。まず初次的には「見ゆる世界」としての世界を意味し、次いで一般に天地万物の場所・領域の意となり、時には宇宙の意にも用いられる。かかる世界や物質は、ただ物質的なるのみならず、非物質的なるものの世界や場所でもあり得るゆえに、「客体的なる物がおいてある場所」として限定された「空間」という意味は、lokaの意と相覆うものではない」
ここで和辻は「人間の学としての倫理学」をいわば「場所としての倫理学」としてかんがえているが、和辻はここに<外部としての倫理学>を提示しようとしてはいなかっただろうか。
▼和辻が人間に外部の場所を読みだすと、場所を新しく時間の側から内部的に対抗的に再構成する必要が哲学的に出てきた。内部としての場所、それが西田幾多郎の思弁的な仕事ではなかったか。はっきりしないが、西田の言うことをそのまま読むしかない。西田は、我々が物事を考えるとき「之を映すがごとき場所」あるいは「意識の野においての自己」があるという。意識の根底には「一般的なもの」があり判断であれ意志であれ一般的なものであり、孤立したものではない。意識は時間発展化していく、そうした時間・場所もまた固定した「有」ではないという意味で「無の場所」である。西田は、和辻の外部の場所に対抗して、40人以上の宗教家をよびだして、外部との関係を抜きにした内部の思考はあり得ないというような、場所の意味が哲学的に新しく言われることになった。だが考えてみると非常に危うく難しい再構成とおもわれる。昭和に論じられた皇室「絶対無」論 (1938年「日本文化の問題」)のなかで「皇室はどこまでも無の有であり、矛盾的自己同一であった」という。ここには、和辻がかれのライバルであった津田左右吉にたいする思想的緊張がない。太平洋戦争末期に書かれた「場所的論理と宗教的世界観」では「絶対矛盾的自己同一の世界」がいわれることになったが、そこに、「自己自身のなかに真の世界性を含まない民族主義は侵略であり、帝国主義だ」というかれの抗議のメッセージを読み取ることは容易にできそうにもない。

「残念ながらわが国にはヒットラーがいなかった」と丸山真男がいうように本当にそれほど日本の戦争は誰が始めたのか不明なのか?

「超国家主義の論理と心情」(「世界」1946年)では天皇制を分析する。天皇制は、自由な意識主体を前提とした独裁とは異なるという。天皇を中心にした同心円の中心から離れるに従って、「上からの圧迫感」は下位のもので移譲され、抑圧の移譲によって「精神的均衡が保持」される。ウルトラ国家主義として軍国日本を捉え、その統治と実態を「無責任の体系」と評した。しかし「残念ながらわが国にはヒットラーがいなかった」と丸山真男がいうように本当にそれほど日本の戦争はだれが始めたのかわからないのか?だれが日本ファシズムと戦争に導いたラジカルな国体論を推進したのかは明らかではないか。スケープゴートとして北一輝とか大川周明にあまりにも全部を押し付けてしまったのではなかったか?たとえば天皇機関説を反故にした憲法学者かと国家神道を推進した官僚たちの責任を見逃してしまったのである。▼日露開戦を煽った七博士・東京帝国大学教授にさかのぼるが、穂積 八束は美濃部達吉らが主張した天皇機関説に対し天皇主権説を唱えた。上杉慎吉は、「天皇即国家」「神とすべきは唯一天皇」「天皇は絶対無限」「現人神」とする立場から同じく天皇機関説を批判、上杉の教え子の中には、内務省の特別高等警察に務める者も少なくなく、1930年代から敗戦に至るまで、治安維持法に基づく国民の弾圧・粛清を行った。また『国体の本義』1937年(昭和12年)に、「日本とはどのような国か」を明らかにしようとするために、当時の文部省が学者たちを結集して編纂した書物である。神勅や万世一系が冒頭で強調されており、国体明徴運動の理論的な意味づけとなった。▼こうした日本ファシズムを遂行した連中がいたのに、丸山真男の超国家主義の言説のせいで、見逃したかもしれない。だから安倍みたいな歴史修正主義者が現在でてくるのを許してしまっているのではないか!?いまからこれだけはいっておくよ。神道を非宗教化する、憲法21条改定のせいで、天皇と総理大臣の靖国公式参拝をみとめること、そしてこの祀る国家のもとで自ずと祀る国民になることは、事実上国家神道の復活をもたらし、戦う国家への道を準備することなるが、この推進者たちが安倍自民党と日本会議の連中であることをはっきり覚えておこう。「日本の思考様式」とやらで、このひとたちが犯すことになる戦争責任を、安倍の戦争に反対するわれわれの責任に広げないでほしい!(この問題は子安宣邦「大正を読む」で扱う予定でいます、関心のある方はどなたでもおいでください)


靖国神社で憲法改定の署名活動をしていることに警戒しましょう、日本会議か?▼神道を非宗教化する、憲法21条改定に反対します。▼ほとんどのマスコミは気がついていませんが、天皇と総理大臣の靖国公式参拝をみとめること、そしてこの祀る国家のもとで自ずと祀る国民になることは、事実上国家神道の復活をもたらし、戦う国家への道を準備することなのです。

MEMOー> 「神道政治連盟は神社本庁を母体として1969年に結成された。 現在の会長は安倍晋三。これまで元号制定化、国旗国歌法、昭和の日制定、選択的夫婦別姓制度導入の阻止などの活動を行ってきた。2014年に成立した第3次安倍内閣では、閣僚20人のうち19人が神道政治連盟議員懇談会の会員だと指摘された」

安倍内閣の閣僚19人中15人を日本会議議連で占める。日本会議とはなにか?

▼日本会議の前身の『日本を守る会』は、過去の満州地域侵略を主導した将校らの思想的バックボーンになった宗教右派の流れとしたパートナーで、全旧日本軍関係者等を中心に構成されていた。こんなことは日本だけのことだ!ドイツはネオナチがあらわれたが、あくまれもそれは戦前ファシストを裁いた後に出てきたということだ。ところが日本の場合は戦前ファシストがそのまま政治の世界に登場し、今日安倍の思想を形づくっている。世界に例がない異常なことだ。
▼Wikiよりー> 東京新聞は、この団体を「日本最大の右派組織」である、と報じた。また、2012年に発足した第2次安倍内閣の閣僚19人のうち13人が懇談会のメンバーであり、また、日本会議地方議員連盟所属の議員が全体定員の40%を越える県議会が国に15に及ぶ。朝鮮人強制徴用犠牲者追悼碑撤去請願を採択した群馬県議会もそのうちのひとつ、と報じた。





遠山啓「無限と連続」の第1章'無限を数える'p.41-43を読んで記事を書きました。「すべての部分集合の集合」という抽象的な考えからいかに無限集合をどんどんつくっていくのかを論じたところですね、ミロの絵か(私の大好きな)Duchampの作品を思い浮かべたので書き留めておこうと思いました。Deleuzeの事を考えたので、ミロの絵よりもDuchampの作品を選んで投稿しました(御覧いただけると、断片(系列)の集合だけでなく、断片と断片の関係の自己差異化というか、私にとっては興味深い増殖がみえます!?)。カントの内包量についての言及は、古い市倉訳Deleuze&Guattari 第一章第三節主体と享受、質量(物質)、卵胞。強度内包、「私は感じる」p 31から引用しました。

ところで、なぜ内包量についてなにか書こうと思ったかというと、

動乱の時代の秩序オプティシズム?


フーコとの関係でドゥルーズDeleuzeをみてきた私にとって、立ち寄った本屋さんでドゥルーズの特集とかインタビューのCDとかをみて、こういう風に、ドゥルーズだけを前面に出す(売る?)というのは、なにかヤバイというか、違う感じがしたのは、私だけでしょうか?まあざっというと、フーコは「外部の思考」が大切だったしこれからはもっと大事なんだと言いました。▼そうすると、時代遅れとなった内部の思考を新しく再構成する必要が哲学的に出てきました。それがドゥルーズの思弁的な仕事だと私は理解しています。彼なりに、ライプニッツのバロック的な考え方に沿って、しかし、そこで、外部との関係を抜きにした内部の思考はあり得ないというような、'内包量'の意味が哲学的に新しく言われることになりました。▼だが考えてみるとこれは非常に危うく難しい仕事です。哲学史に位置を占めるような、こういう思弁的な再定義というのは、ドゥルーズの仕事がフーコとの関係で意味をはじめてもつものだということが忘れさせるものです。▼たとえばサイードがフーコの思想には、権力がいかにあるのかということに関心があっても、権力に対していかに抵抗するかについてはあまりそれほど関心がないと痛烈に批判したのですが、じつはこの問題は、フーコを哲学的に再構成していくドゥルーズの仕事の問題にも言えます。▼ドゥルーズは強度をテンソルだとも言っていますから、'内包量'といっても'<一的>多様体といっても同じなのですが、それが反権力的な多様性を意味するのではなく、権力側に行く'一的なもの'を意味するようになってきました。(Deleuzeノマド論に反論し始めた柄谷以降、これがはっきりしてきました。柳田国男論序文を批判した一文のなかで書きました。)▼ '一的なもの'といえば、それは80年代以前は将軍のスターリニズムのことでしたし、21世紀の現在は'帝国'という新しく解釈されたスターリニズム(ツアーリズム的一国社会主義というか)ですね。売れる本が良い本だと露骨に考えるようになったといわれる出版資本の要求もあるのでしょうけれど、ドゥルーズを再び語る若い思想家たちに秩序オプティシズムというか、好ましく中立にみえてしかしギリギリなにかファシズムの空気で考えてはいないだろうかと直観的に憂慮している次第です。▼それにしても、知識を重んじるネオリベの時代のファシズムは、過去の集中型一元主義と違って、一見知的にみえる多元主義に支えられていることを考えさせます。ニッポン'ふらんす思想'に限らず、世界的に、そういうポストモダンのモダニズム化という非常に気持ち悪い言説が着々と広がっていることの問題はなにか?新たに問われるべきは、動乱の時代の秩序オプティシズムとはなにかということ。






高校生のときに読んだ遠山啓。わかりそうでいて全然わからなかったのだが、「小論理学」を読む労働法ゼミのときに(いや、コンパだったかな?)、かれが引いているヘーゲルの言葉に再び出会った。だがやはりわかりそうでいて正直わからなかった。遠山はカントールの着想に言及しながらこういう。「一般的に数学的概念は多様性と単一性の二重性をもちしかもそれを統一しているものだともいえよう。・・・この簡単な事実のなかに数学の発展のバネが隠されているといえないこともない」。そしてヘーゲルの言葉を示す。

「数の概念の規定は集合数と単位であり、数そのものは両者の統一である」(ヘーゲル「小論理学」上巻、松村訳)

ヘーゲルは「内包」「内包量」という概念で同じことを言っている。「小論理学」から引用すると、

「限界そのものは定量そのものの全体と同一である。それは自己のうちに多を含むものとしては外延量であるが、自己のうちで単純なものとしては、内包量、すなわち度である。」
「数は思想ではあるが、しかし全く自己に外的な存在としての思想である。それは、思想であるから、直観には属さないが、しかし直...観に固有な外面性の性格を持っている。ーしたがって定量は、単に無限に増減しうるにとどまらず、むしろ、不断に自己を超え出るということが、定量そのものの概念に含まれているのである」


ドゥルーズによると、

「カントの理論によれば、強度(内包)量は、種々の度合いにおいて、空隙なき質量を満たしてその内容をんすものとされている」Profondément schizoï d est la théorie kantienne d'après laquelle les quantités intensives, remplissent la ,matière sans vide à des degrès divers.

この理論こそは深くスキゾ的思考を捉えたものなのだという。


テートモダンにある、デュシャンDuchampの作品をみると、内包量の概念が表現されていることをおもう。



柳田国男論序文(2013年) ー帝国の思想家・柄谷行人の秩序オプチミズム

1986年に書かれた柳田国男論を読むと、柄谷行人にとっては、「柳田は江戸時代の注釈学者の姿勢と近似するのである」「柳田は儒学者徂徠に近かった」ことが強調される。なぜか?▼それは柄谷が柳田の文学者としてだけでなく政治家としてあった「公」の立場に注目するからである。文学者から柳田をみてしまうと、かれの内面を拒んだ政治を見失ってしまうのだ。▼柄谷はいう。「柳田の民俗学的研究が組織的に拡大した大正期に、彼のもとに参加した折口信夫のような人々は、この意味で柳田と決定的に断絶していたのである。柳田において、「儒教」は「もの」のように生きている。・・・柳田の場合、道=政治であるがゆえに、「固有信仰」はまた政策・制度の問題であって、彼はそれについて一貫して実践的に発言し行動し続けたのである」。▼だがここでいわれる「固有信仰」の意味はなにか?柄谷はつぎのように説明していた。「柳田のいう日本人の「固有信仰」は、いわば'事実'の問題にすぎなかった。基本的に、それは先祖信仰の一種であって、仏教や神道や儒教のような「宗教」と同列におかれるものではない。ただ、柳田は、そのような宗教の背後に日本人のなかで生き続けているものを、固有信仰と呼んだのである。・・・・固有信仰は、個人の内面的な問題ではなく、また原始的心性でもなくて、日本人によって生きられてきた「事実」の問題であった」。▼これを読んでも柄谷が「固有信仰」の概念で何を言おうとしていたのかわからないが、なにか、それは方法としての固有信仰であり、ナショナルなものを相対化していく内面化されない政治としての民俗学、つまり、柳田の方法としての民俗学だからこそがとらえることのできたギリギリ脱民俗学的な概念なのだろう。そうして、明治の近代国家に生きた柳田国男をあえて、近代国家を知らずまた民族主義とは無関係だった江戸の荻生徂徠に重ねてとらえることの意味があるのだ。▼ところが2013年柳田国男論の序文では、「固有信仰」でかたられていたものが一気に実体化されることになる。そこで一つの日本が可能であるかのごとき言説が再び語られている。そこで、80年代に柄谷が柳田にみいだした方法としての民俗学とは正反対の方向から、柄谷は柳田の一国民俗学としてのアンチ遊動的なあり方を擁護することになった。それはなぜか?柄谷によるとこうである。「柳田が「山人」と呼ぶのは、狩猟採集民である。・・・柳田はその後、山人あるいは先住民を無視して、「一国民俗学」をいようになったといわれている。しかし、それは満州事変(1931年)の後であり、日本が多数の民族を含む満州帝国、あるいは、大東亜共栄圏を目指した時期である、この時期の日本では、いわばノマド的であることが奨励された。柳田はそれを拒否して、一国民俗学を唱えたのである。それは柳田が「山人」を拒否したことを意味しない。1930年代の柳田は「山人」を、固有信仰(先祖信仰の祖型)に見出そうとしたのである。」。「1980年代に流行したのが、遊牧民的タイプの遊動論だということである。実際、ドゥルーズ&ガタリがいうノマドロジーは、遊牧民に基づいている。それは脱領土的で闘争的である。それがラディカルに見えるが、資本・国家にとっても好ましいものである。したがって、それは90年代には、新自由主義のイデオロギーに取り込まれた」。▼そうして柳田のことをあらためて考んがえるようになったのは、「世界史の構造」(2010年)を出版した後、そこで十分に書き足りなかったことを再考しはじめたときだという。そうならば柳田国男論の序文(2013年)は「世界史の構造」の続編の一部をなすのであり、その意味で、「帝国の構造」(2015年)のなかに書かれたかもしれなかった文であろう。そこで柄谷が帝国の正当性を公然と言うことになった点を考えると、「世界共和国」(2006)は、「天なる帝国よ、内なる固有信仰よ」へと命がけの飛躍を遂げたことになったということなのか?しかし文化多元主義のためにだけではなく政治多元主義のためにー現在は政治多元主義のほうが大事になってきたー複数の日本、複数の日本語のために努力してきた'穴あけ'の多様化の努力が有効でなくなったといきなり勝手にきめつけて、統整的理念といえるのかわからないが、戦略的に強調される「一国」で意味されるのものが基底的深層としての'一つの日本'だとしたら、それは、ほかならない、政治多元主義を抑圧する秩序オプチミズムというものではなかろうか?


今現在は観念的に絶望しているこの通りの親爺でありますが、かつては絶望的に観念的だった高校時代になぜあんなに肉体というものが遠かったんだろうと思い出しながらみると、でもちゃんとそこにもリズムがあったのだということに気がつきました。他の作品でも感じたことですが、日常が隠してしまってわからないだけで、宇宙のいたるところにリズムがあるのですね、排除されることはないという...


テートモダン常設展('詩的想像力')の最初の部屋にキリコGiorgio de Chiricoの作品が飾られています。なぜこの絵が?と最初思ったがここに通っているうちに段々とみえてきました。▼だがカントの本の表紙をキリコの絵が飾るという必然性が理解できたのは、カントの統整的理念の意味を読めたときでした。キリコの作品こそは統整的理念の意義について考えさせるものでした。▼さて柄谷行人はこの統整的理念を以てイデオロギーについて語ることになったのですが、しかし「天なる帝国よ、内なる固有信仰よ」なのかしら、柄谷さん?もし「世界共和国へ」は実は帝国の構造へという意味だとしたら、「共和国」の民主主義的理念はどこに消失してしまったのでしょうか?▼秩序オプチミズム、天なる帝国の構成的原理こそ、民主主義の声をあげる統整的理念を嘲笑うことになっていませんか?▼そして柳田論も相当にヤバイですね。複数の日本、複数の日本語のために努力してきた'穴あけ'の多様化の努力が有効でなくなったといきなり勝手にきめつけて、あなたが戦略的に?強調なさる「固有信仰」で意味されるのものが基底的深層としての'一つの日本'だとしたら...。

「私が本書で考えたいのは、資本=ネーション=国家を超える道筋、いいかえれば「世界共和国」に至る道筋です。しかし、そのためには、資本、ネーション、国家がいかにして存在するのかを明らかにする必要があります。資本、ネーション、国家はそれぞれ、簡単に否定できないような根拠をもっているのです。それらを掲棄しようとするならば、まずそれらが何であるかを認識しなければならない。たんにそれらを否定するだけでは何にもなりません。結果的に、資本や国家の現実性を承認するほkさなくなり、そのあげくに「理念」を嘲笑するに至るだけです。」(柄谷行人「世界共和国へ ー資本=ネーション=国家を超えて」の序文より)

「そこで私はこう主張する、ー先験的理念は決して構成的には止揚されぬ、それだからこれによって大正の概念は与えられない、もし理念をこのように解するならば、理念はまったく詭弁的(弁証的)にすぎなくなる、と。ところが先験的理念は、統整的にも使用されるのである。この統整的使用は、悟性をある目標に向かわせるに必須の、かつすぐれた使用である。悟性の一切の規則はこの目標を望み見て、方向を指示する線に沿いつつ一点に合する、この点が即ち理念(focus imaginarius 虚焦点<即ち、光がそこから発出するかのように見える鏡面の想像的焦点>)にほかならない。かかる「点」は、まったく可能的経験の限界のそとにあり、従って悟性概念が実際にこの点から発出するのではないが、しかし悟性概念に最大の拡張と最大の統一とを同時に与えるのである。ところがここから錯覚が生じるのである。つまり方向を指示するこれらの線が、あたかも経験的に可能な対象そのものの領域外にある対象から発出したかのような錯覚である(これは対象が鏡像の背後に実在するかのように見えるのと同じ理屈である)。それにも拘わらずこの錯視は(もちろんこれによって生じる欺きを防ぐことはできる)、我々が自前の対象のほかに、それから遠く離れて我々の背後にある対象を同時に見ようとすると、ー換言すれば、この場合のように我々が悟性を、およそ与えられた経験を超えて、従ってまた可能な限り最大でかつ極度の拡張に適応させようとすると、どうしても生じざるを得ないものなのである。」(カント、先験的弁証論・付録、純粋理性の理念の統整的使用について)


Réciproquement l'unité systématique (comme simple idée ) n'est qu'une unité projetée, que l'on ne doit pas considère comme donée, mais seulement comme problème, et qui sert à trouver un principe au divers et à l'usage particulier de l'entendement, et par là à diriger cet usage vers les cas qui ne sont pas donnés...
(Kant, 'de l'usage régulateur des idées de la raison pure, critique de la raison pure')


復興「日本精神の形」は本当にそれほど平坦で紋切り型だったのか...?

▼昭和ファシズムの種は大正時代にありました。1923年の関東大震災が大きな契機となりました。当時の社会を眺めますと、関東大震災から五年後に岩波文庫が創刊されています。当時ヨーロッパの留学生だった三木清たちが岩波書店にリクルートされて岩波文庫をつくります(アメリカの背景を持っていた林辰夫も大事な役割を果たしました)。関東大震災という、未曾有の崩壊からの再生の形の一つとして、世界文学全集と文庫ブームが起きたのですね。ヨーロッパと同時代的な、国際的な前衛文化の二十年代が日本に展開することになりました。「上流階級から文明を取り返せ」という出版社の呼びかけの下に、中産階級は、所詮幻想でしかありませんが、コンパクトで体系的な'知'の消費を爆発させたという時代でした。▼しかし中には外国の思想や文学に危機感を表明する者たちがいました。彼らの声に耳を傾けてみます。「余輩は尊王忠君の名を負へるものが此の反旗を必ず法律の国境内に侵入せざらしめんと努むべきを信ず。注目すべきは全世界の後援によって叛徒の力の測るべからざることなり。彼らはニーチェによりて個人至上主義の弾丸を供給せられ個人主義の火を不満を煽りたり。トルストイの紹介によりて国家の否定、租税の拒絶、徴兵の峻拒は地雷火の如く忠君愛国の地下に埋められた理。虚無党員のゴーリキー、ツルゲーネフの断片的翻訳は大砲の如く空を放つて飛べり。更にクロポトキン、バクーニン等の無政府主義者の爆裂弾は続々と輸入せられんとす。豈恐れざる可けん哉」。これは、なにか非常に観念的な思想家が綴った煩悶の言葉として読めます。何にたいして侵略を受けていると北一輝が感じているのかはっきりと読み取れません。大逆事件を予言したともいわれています。とにかく反権威主義的右翼たちから問題提起された復興「日本精神の形」は、それほど平坦でも紋切り型でもないような、寧ろある詩的な饒舌さを以て語ることになるのではないかということを予感させます。▼だが北一輝とはだれか?法華経を読む魔王である。その男は何ができるのか?わからない。多分無だろう。何を望んだのか?ずべてだ。と、2・26事件の北一輝を描いた映画は彼の神秘性・カリスマ性を強調しました。しかし映画で描かれていたのとは違って、北一輝は現場から考える思想家でした。小田実が震災地の現場から考えたと同じ意味で、現場の思想家でした。上海で辛亥革命の意味を考えたのです。北一輝は元々は、彼なりに理解した民主革命としての明治維新を評価しました。彼は「教育勅語」と「万世一系」の国体論を痛烈に批判し(彼独自の)天皇機関説をとりました。この点については、明治維新以来天皇を道具的に利用していた元老が次々と死んでいった後の大正時代に北一輝の天皇に対する批判が意味を持ち始めたといえるかもしれません。大正天皇は、在位期間が長い明治天皇と昭和天皇と比べて、偉大でない天皇というイメージがありますが、これとは正反対に、(国家主義者の山形有明は1922年まで生きますが)、天皇の干渉されることのない権力は、この大正天皇を契機に、初めて露骨に全面的に現れることになったという可能性も考えられます。昭和の陸軍統制派の全体主義へと発展していく、大正の関東大震災のときに大杉栄を殺戮した甘粕的なあれほどの権威主義は、たしかに大正天皇の時代に起きたのですからね。▼関東大震災の後に語る復興「日本精神の形」は、期待はずれにも、滑稽なほど平坦で紋切り型の単調な思想です。しかしそこから言葉に言い表せない絶望の深さと圧倒的な無力感が伝わるようになりました。北一輝は「朝日平吾の霊前への書簡」(大正14年)を書き、かれのテロリズムを自分の身を殺して大衆を救うという「一殺多性」、すなわち我が身を滅ぼして多くの衆生を救うという思想にしていきましたが、しかし思想として「一殺多性」をとらえると、マッチョ主義の凡庸な民衆論と大正にありがちな大衆論の混合の類でしかありません。▼北一輝は獄中で読んでいた法華経に、息子の大輝にあてた遺言を書いています。この大輝は、孫文や黄興とならび、辛亥革命の中核をになった人物の孫であり、英生であり、かれを養子にしたのです。父親は中国革命のさなかに銃殺され母親は長崎で病で死んでいました。「大輝ヨ、此ノ経典ハ汝ノ知ル如ク、父ノ刑死スル迄読誦セル者ナリ。汝ノ生ルルト符節ヲ合子スル如ク突然トシテ父ハ霊魂ヲ見神仏ヲ見此ノ法華経ヲ誦持スル二至レルナリ・即チ汝ノ生ルルトヨリ父ノ臨終マデ読誦セラレタル至重至尊ノ経典ナリ。父ハ只此ノ法華経ヲノミ汝二残ス。父ノ想ヒ出サルル時、父ノ恋シキ時、汝ノ行路二於テ悲シキ時、迷へル時、恨ミ怒リ悩ム時、又楽シキ嬉シキ時、此ノ経典ヲ前二シテ南無妙法蓮華経ト唱へ念セヨ。然ラバ神霊ノ父、直チ二汝ノ為二諸神諸仏二祈願シテ、汝ノ求ムル所ヲ満足セシムベシ」。もしこれが思想家の思想ならば、芝居じみた遺書の言葉からはなにか新しいことが言われているわけではありません。が、北一輝の自分が生きたままでは衆生を救いことができないという絶望感を読み取れます。まだ言論の自由があるのにこんなに政治の暴走を止められない現在が、安維持法も国家総動員法もあった1930年代ならば、誰も何も喋ることができないでしょうから、北一輝が遺書の形式を通じてなお語った執念ー黙ってたまるかという反抗心ーは本当に驚嘆です。少なくともここに記されている苛まれているアジアの人々に対する深い共感は、愚かにも統制派の役割に意識的な国家主義者・安倍晋三のアジアに対する冷たい無関心とは全く異なる性質のものです。ただし、結局北一輝は思想家としてアジアの問題を思想的に語ることに失敗してしまったのではないでしょうか。と、これがいまのところの私の結論です。

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1月2016年 (2) 言葉と表現と射影のブログ/BIGLOBEウェブリブログ
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