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<<   作成日時 : 2016/02/08 17:56   >>

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アメリカ民主党大統領候補者の一人サンダースは公立大学授業料の無償化を訴えると報じられている。日本は、裕福な家の勉強できる子供と貧困の家の子供とを選別し、学校を階層化するという大帝国時代に確立した植民地主義的選別の社会設計を21世紀になっても終らせることができないのはおかしいね。そもそも学校の段階から格差がある限り格差社会はなくならないよ。


Saigyō Hōshi (西行 法師, 1118 – March 23, 1190) was a famous Japanese poet of the late Heian and early Kamakura period.

▼ねがわくは はなのもと(した)にてはるしなむ そのきさらぎの もちづきのころ (negawaku wa, hana no moto(shita)nite haru shinamu, sono kisaragi no mochizuki no koro.)

▼Let me die in spring under the blossoming trees, let it be around that full moon of Kisaragi month.

▼Kisaragi (如月 or 衣更着) is a traditional name for February in the Japanese calendar.
The meaning of "kisaragi" is not so deep as those of the other names of the months. It is written as "wear more clothes" in kanji; it also means "the rehabilitation of plants." In the lunar calendar, which was used until the Heian Period, February was the second month of winter; January, February, March made up winter, and the three months starting from April were considered spring.


レナウンのCM.映画「パッション」の情景を思わせるイメージ。(光に照らされる女神と中産階級の集団肖像画)の「夜警」のレンブランド、ベートーヴェン弦楽四重奏曲と色々と凝縮されているところで、あらためてゴダールのアイロニーはなんだろうかとしばらく考えましたが、映画「彼女について知っている二、三の事柄」のテーマで、互いに溶け合った 消費とナショナリズムのことが皮肉に呈示されているんだろうなと思いますね

柄谷行人「日本近代文学の起源」を読む

▼柄谷行人の「日本近代文学の起源」をよんだとき、非常に新鮮な息吹を感じました。それまでは、中村光男とか加藤周一のような、なにか中途半端なヨーロッパ中心主義者が書いた日本近代文学しかなかったのです。吉本隆明はいましたが、かれの標的は日本近代文学の歴史ではなかったのです。だが、2012年の渡辺一民の市民大学講座「フランスの誘惑」に出た時、中村光男と加藤周一といっても、ヨーロッパに入った時期のズレがヨーロッパの経験の違いを形づくったことを知りました。講義メモを読みなおしています。最後の講義を要約するとこういうことでした。森鴎外など戦前の仏留学生は皆、本人と直接関係がない外的事件(戦争)による帰国を余儀なくされた。例外なく、彼らは、幻想とはいえ日本回帰に囚われた。こうした戦前の留学生と比べると、遠藤周作・加藤周一・辻邦夫の戦後仏留学生は、帰国が自由にでき、とくに50年代の留学生達は戦後の荒廃のなかで帰るべき日本という幻想が無かった。それ故に、かえって、個人の視点で生き生きと、ヨーロッパ文化と比較した独自の日本文化を築けた、と。渡辺氏は総括しています。する。付け加えて言えば、渡辺氏によると、西洋絶賛の代表者が三木清とすれば、アジア(主義)絶賛の代表者は竹内好ということに。そうした西洋絶賛とアジア(主義)絶賛も、1964年ごろに幕を閉じるという。1920年代に誕生した「フランスの誘惑」も、(渡辺氏が帰国する)1963年で消滅するのだと説明されます。最後に、現在大学の中心を占めるオタク知識人達は、渡辺氏が帰国した1963年頃に生まれた人々で、いわゆる「フランスの誘惑」が消滅した後の人々である。と、わたしはオタク知識人について質問しました。と、渡辺氏は、軍事教練で顔が変形するかと思う程殴打を受けたこすると、学園紛争で学生に取り囲まれたこと、この屈曲した体験の数々が決して自分を頭だけで考えるオタクにさせないと答えました。渡辺氏はオタク知識人には興味はないが、現在の子供達にもっと戦争のことについて語り伝えたいと述べました。
▼その「63年頃に生まれた人々」にはいるこの私としては大変痛い話ではありましたけれども、やはりそれでも、中村光男とか加藤周一のヨーロッパ中心主義が語る中途半端感にたいする失望感が変わることはありませんでした。ハイデガーを宣長と比較することの不毛さが指摘されますが、そのことはわたしは勉強中ですけど、ジョイス文学を徒然草と比較しても仕方がないとはっきりわかりますし、そこで、なんというか、西洋を実体化し、それの対抗概念としての東洋を実体化し、再びその東洋の側から対決すべき西欧を、あたかも超克の対象として運動会的に勝ち負けを相変わらず語っているという時代遅れの印象をもちます。それは語る価値がない文学史です。これにたいして、柄谷が新しかったのは、日本の作家に即して方法としての日本近代文学を語ったことにありました。これは現在まだなにかを考えさせる意見だとおもいますが、柄谷は「言葉と悲劇」で,70年代後半の仕事であった「日本近代文学の起源」についてこう言ってました。「僕は「近代文学」が明治二十年代に、ある「転倒」におうて現れたことを述べたのですが、しかし明治二十年代とは、西暦でいえば、十九世紀末です。つまり日本の近代文学というのは、基本的に20世紀の文学なのです。いいかえれば、われわれは百年にも満たない近代文学の中にいるわけです。政治体制とか経済的な諸関係を別にすると、感性や生の様式といった領域において、19世紀というものは、日本にとってはほぼ江戸時代ですね。しかもそれは、近代化されるべき未発達な遅れた状態というようなものではなくて、ある意味で完全に洗練されて、これ以上には行きようがないまでに完成されてしまった形態でもあったのです。日本近代文学、あるいは近代的な意識が成立してくる土台そのものが、たんに封建社会とか、あるいは遅れた段階だとかいうものではなくて、異様までに、その先がないほどに徹底した何かをもっていた、ということが大事であると思います」。ここから、柄谷は、「風景の発見」「内面の告白」「告白という制度」「病という意味」「児童の発見」「構成力について」という問題が分析されていったのでした。柄谷以前に日本近代文学をかたっていた知識人たちは、ウィットゲンシュタインでいわれる「世界のうち」で考えていただけです。「世界のうちですべてあるようにあり、なるようになる。」とかたっていただけです。それにたいして、柄谷の場合は、日本近代文学に「もし価値があるなら、それが価値をもつなら、すべてのこうあるとそうなるの外にある。」とかんがえていたとおもいます。ただその柄谷も89年の「探求1」を最後に、90年代初頭・半ばにかけて、外の思考をやめてしまいました。
▼ウィットゲンシュタイン「論理哲学論考」(木村洋平訳)より。
「世界の意味はその外にある。世界のうちですべてあるようにあり、なるようになる。うちにはどんな価値もない、もしあるならば価値ではなかったのだ。
もし価値があるなら、それが価値をもつなら、すべてのこうあるとそうなるの外にある。なぜなら、すべてのこうあるとそうなるは偶然であるから。
それを非偶然にするものは世界のうちにはない、あればまた偶然に落ち込むだろう。
それは世界の外にある。」


寸劇; ザ・大和王国の大臣たち

沖縄北方大臣「はぼ、なんだっけ?」
財務大臣「ふしゅう」
梟猫大臣「や・・・やすべ総理」
財務大臣「ふみ・・とー?」


「私は、ヘーゲルの省察の、まさに基底に、狂気と等価なものを据えようというわけです。」(ジョルジュ・バタイユ )
そうなの?えーーと・・・基底の変化といえば、
e₁‚₂ =e₁Γ¹₁₂‚₁+ e₂ Γ²₁₂‚₂ +e₂ Γ³₁₂‚₃ 


神社の改憲運動はなにを目的としているのでしょうか?

▼神道を非宗教として位置づけて規定し、天皇と総理の靖国参拝を憲法上問題ないという方向にしたいといわれています。

▼国家神道の時代には神道は宗教的地位が曖昧にされ(政府は「神道は宗教ではない」(神社非宗教論)として天皇と一体化し国民に敬神の義務を強いた)絶対のものとして扱われたのです。

▼安倍内閣に大きな影響力をもつ、日本会議と神社本庁が改憲運動をこれを推進していると指摘されます。集団的自衛権の時代に、だんだんと祀る国民になっていけば、なにが起きるのか?再び靖国神社が安心して戦争の死者を祀る国家の顕彰施設になってしまうという危険性があります。

▼思想的な問題としては、山口昌男などの天皇制構造論が批判されることなく無傷のままにありますが、これらの言説が国家神道復活の動きに影響を与えていくのか?この関係で、といえるかわかりませんが、靖国神社がなにか周縁的に文化的な事象としてイノセントに自然に語られることになるのかどうか?しかし靖国神社はそもそも祭祀国家として近代化することになった日本における政治的権威主義を国体イデオロギーとともに構成してきた歴史を忘れてはならないと思います。



MEMO

▼神道指令とはなにか?(Wikiより); 1945年(昭和20年)12月15日に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が政府に対して発した覚書「国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件」(SCAPIN-448)の通称である。覚書は信教の自由の確立と軍国主義の排除、国家神道を廃止、神祇院を解体し政教分離を果たすために出されたものである。 当初は政教完全分離を目指し、神道行事を一切排除する内容となっていたが、日本社会の実情にそぐわず混乱を招いたため、1949年(昭和24年)を境に適用条件が大幅に緩和された。


▼国家神道の時代には神道は宗教的地位が曖昧にされ(政府は「神道は宗教ではない」(神社非宗教論)として天皇と一体化し国民に敬神の義務を強いた)絶対のものとして扱われた。
In the era of State Shinto, the religious position of the Shinto religion was made indistinct (the Government united the Shinto religion with the Emperor and obligated the people to respect the god under the theory that 'the Shinto religion was not a religion' (Jinjahishukyoron (theory that the Shinto religion was not a religion), and the Shinto religion was treated as an absolute thing.

▼政府...による「神社崇拝」の国民への強制の度合いは時代によって異なったが、1930年代初頭から太平洋戦争にかけての時期には、国家神道は戦争遂行の精神的支柱として重視された。
The extent to which people were forced by the government to participate in the 'worship of shrines' varied with the times but, from the beginning of the 1930's to the Pacific War, State Shinto was emphasized as an emotional prop for the prosecution of war.


▼また1889年の勅令第12号によって官立・私立の全ての学校での宗教教育が禁止され、「宗教ではない」とされた国家神道は宗教を超越した教育の基礎とされた。
Religious education in all public and private schools was prohibited by Imperial Edict 12 in 1889, and State Shinto, which was said to be 'not a religion,' was used as the basis for education that transcended religion.




「映像の詩学」(1979)は、八十年代の思考の置き換えていく知的豊かさと議論の乏しい知的貧しさを告知するような本である。このなかで蓮見重彦は「大衆」というべきところを「映画」と言っているのかもしれない。「映画」を語るとき、それは大衆に見られた「映画」のことを意味する。この「映画」ほど、ウィットゲンシュタインがいう「不変、確固、存在は一つ」というものから遠いものはないだろう。私は映画の知識がないので、蓮見重彦のような映画の大家を語る資格がないと思っている。ただ思想史的に、蓮見重彦を語るだけである。蓮實は、吉本隆明からは、他者や外部としての「大衆」をもたず、知の頂を登りっぱなしで降りてこられない、言い換えれば、親鸞がいう「還相」の過程がないという意味で、「知の密教主義者」として「知的スターリニスト」と呼ばれることになった。だが吉本がそれほどかれがいうような「大衆」を持っていたのか、吉本はそれほど大衆を救ったのかという疑問がある。これにたいして蓮見は、吉本が連発するようには容易に「大衆」とは言わない。「映画」の領域に投射された全世界を語る、この修道士は「映画」に於いて自分が救われていると確信しているようだ。だが、同時にそのことで、「映画」に定位している「大衆」をまさか救えっているとは思っていない。思考の柔軟性から、蓮見は、吉本のようには「大衆」を持つことを主張することはない。「大衆」について語りたい。だが「大衆」を見ないふりを演じる。あえて「大衆」が見ている「映画」だけを語る。だがそうすると、蓮見は本当に「映画」を見たことがあるのだろうか?「映画」は「大衆」を持っているのに。蓮見はなにを見たつもりになっているのだろうか?ポストモダンのモダニズム化あるいは帝国論であれ、または市民の抵抗理論であれ、再びマルクス主義的権力論が復活してくる2010年代の今日からみると、1980年代は、60年代後半から比較的直ぐにマルクス主義権力論を捨てた代償として獲得した複数性の視点、外部の視点で成り立つ方法としてのテクストから饒舌に初めて語ることになったが、このときなにかを見たのだろうかという問いが成り立つのではあるまいか。

▼「不変、確固、存在は一つである。」(Das Festes, das Bestehende und der Gegenstand sind Eins. Wittgenstein)

▼「演じることは、本来見えてはいない何ものかに幻想的な実在感を付与することであり、しばしばその幻想を実在そのものと錯覚する地点にまで自分を引きずり込む危険をはらんでいるが、その見えていない何ものかになることは、存在の破砕によってしか実現しえないより危険な試みである。つまり、不在なるものの輝きの底に身を埋め、その時ならぬ閃光があおりたてる眩暈への誘惑を全存在をあげてうけいれ、遂にはその沈黙と透明性とを共有することにほかならない。」(蓮見重彦、「勝手にしやがれ」から「気狂いピエロ」へ)




わたしは無神論者でありますが、どんな宗教も宗教として尊重する穏健な立場をとります。もちろん神道と神社も宗教として尊重しています。と同時に、憲法が保障する信教の自由を最大限に尊重します。年末に近所の神社にお参りしたという人から、しかし日の丸を掲げているので、お参りできなくなったという不満をききました。他に行けばいいではないかといわれても、どうもどこもそうみたい。そもそも他の宗教施設で日の丸を掲げることがあるのかという問題がありましょうが、どこでも一斉に日の丸を掲げているとしたらそういう規格化というかなんというか、背後になにか異常な強制力の存在を疑います。そう思っていたらこんなニュースが。なぜなのですか?

ー>「神社の改憲運動、その宗教的根拠はなんだ?Webronza 朝日新聞社」
この正月、参拝客で賑わう神社の多くに、改憲署名を求めるブースが置かれて話題になった。2月11日の建国記念の日に開かれるイベントでも、神道系団体が改憲を求めることだろう。神道にかぎらず、どの宗教法人でも政治的活動には、その宗教の教えに基づいた説明があっていいはずだ。さて、神道と改憲はどう結びつくのか――。





「近代の超克」を読む


日本浪漫派の'浪漫派'の語が気になるが、例えば、座談会「近代の超克」を語るときに常にその不在がなにがしかの意味をもって言及される、保田与重郎が、「この数年間の文学の動きは、合理から合理を追ふてある型を出られぬ「知性」がどんな形で同一の堕落形式を繰り返すかを知る一つの標本適例であった。そんな時に於いて、己の頽廃の形式をまづ予想した文学運動があらねばならぬとすれば、日本浪漫派などはその唯一の例のものであらう。この意識過剰な文学運動は、従って、今日から云っても、旧時代の没落を飾る最後のものとして十分なデガダンスである」といっているのは、Romaticism; the idea of the work's autonomy was derived from Kant's idea of the freeom and 'disinterestedness' of aesthetic judgement and, subsequently, from the Romantic movement in the late 18th and early 19 th centuries. Some aspects of the Romantics'excessive behaviour was self-indulgent and macho, bur it was also linked to a deep sense of fate and tragedy which, like Knant's initial ideas about sublime, emphasized humanity's vulnerability and powerlessness. などと教科書的に理解していたことがわかるが、それはいいとして、日本浪漫派の'日本'でなにが意味されるのか不明である。▼高天原の神々と皇室との連続性をちゃんちゃらおかしいと否定した津田左右吉の文献学的読みからすると、戦場へラクレイス像としてのスサノオみたいなマッチョな解釈を口にする保田はいかにも不注意だが、ただし彼に限ってはそれほど皇国史観的原理主義の重力を感じない。▼さて、前置きが長くなったが、「近代の超克」の論客たちは、何を議論しているのか、議論したいのかよくつかめないのだけれど、西洋を実体化し、それの対抗概念としての東洋を実体化し、再びその東洋の側から対決すべき西欧を、あたかも超克の対象として運動会的に勝ち負けを語っているとしたら、それはもう語るほどの価値がない。▼戦争がはじまったせいでヨーロッパ留学を偶然に断念せざるをえなかった文学者たちは、そこからはじめて国家と文学の問題を考えるようになっただけなのだから、正直そのことでも書けばいいのにとおもうが、あたかも必然としての「一国の文化の成熟」のようなことを書くのはうそっぽい。▼もし活かすことがあれば、日本知識人が自らの問題として、常の事として絡みとられる、理念型として構成される純粋ヨーロッパを超克するためにはどするかというかれらの問いの提出にあるかもしれない。その場合、20世紀植民地主義を反省した経験知方法として、方法としてのヨーロッパ、方法としてのアジア、が思考の対象として再構成されてくることになるだろうか。▼現在につながる言説として、方法としてのアジアをいった竹内好からなにを積極的に読み取っていくかだろうね。西欧大好きのチャンピオンが和田哲郎だったとすれば、アジア大好きのチャンピオンは竹内好であるときいたことがある




田辺元「哲学の根本問題 数理の歴史主義的展開」(1954年執筆)を読む

田辺元は西田が考えた包越としての全体性に対して批判している。それでは、「弁証法的な行為的な立場、すなわちわれわれは内に根源悪をもち、常に神に叛く可能性というものを内にかかえている、しかし叛くということがさらに顚倒的に神によってゆるされ活かされて、神はかえって自己否定的にそういう相対的な、罪のわれわれを媒介にしてはたらくのであるといような、そういうことは、いまいったような全体を無限の袋が包んでおるという閉鎖的な統一というものではそうしても現すことができない。」そこで田辺は言う。「無限な網。締括りも何もない。締括りしてもいくらでも出られるから開放的なのです。しかもみずから内部のものを局所的に被うように動き行くことによて、これを外に出さずに、どこまでも内に摂め取る。そういう網が無即愛の絶対に対する譬喩になるでしょう。」「無限は網なのです。網はどこにでも穴が開いている。だから網はいかに口を締めておいても実はなんにもならない。何でもそれを出たり入ったりすることができる。すなわちその限りにおいては、網は袋が閉鎖的にであるのに対して開放的である。」だが綱は綱。無限と修飾された網は、田辺の「無限網」は本当にそれほど開放的なのか?そもそも、純粋に理念的に構成された、「西洋の神というもの」といういい方から、対抗的に「東洋的な絶対者」が措定されてくるが、そこから「包越としての神」へ行くつもりになっても、ふたたび包摂としての全体性に依存するだけであろう。西田は田辺のように内部的に読むべき思想家ではないのである。外部から読まないと、西田の中から内部に即して、どこまでも内側に絡みとられる解釈しかうまれないとおもわれる。包摂の全体性は、田辺においては、力の体系の成立とともにある。力の体系の成立は、自制的な、いつでも自己の反対を、自己の矛盾対立者を、媒介にして初めて可能になるという。つまり生きることと死することは媒介しあう。だが国家の側から要求する包摂の全体性の奉仕するために、再び死を合理化/正当化するような、力としての媒介の論理の主張が倫理的に許されていいものだろうか?歴史を数学の思考において形式的にとらえてみせた、田辺元のその言説の語りからは学ぶことが多いけれども・・・

▼包越としての神「西洋の神というものは、何か自分の意志をもって世界を造る。特にユデア教の神というものは自分の意志をもって世界を造る。そういうものですから、自らを含んだ全体を造ると言わんよりは、自分はこっちにあって向こうに世界を造ることになる。神はその世界を自分の意志によって、あるいは罰しあるいは救うという超越神であります。高いところにいて世界を支配するもの、世界の支配者という形になる。いわゆる主といわれるわけでしょう。ところが東洋的な絶対者は、この現実におりてきて現実に入り込み、超越がすなわち内在だというような側面が強くなっている。超越が即内在というような、超越という面からいえば、世界を超えておりながら、しかもいわゆるユデア教の超越神論のように、世界と自己とが対立しないで、どこまでも世界の中にみずから内在している。したがってそこでは、世界を超越していながら、世界を包んで世界の中に働くという意味が強く出ているというわけであります。そこから包越ということも言われている。世界を超えていながら同時に世界の外にこれと対立するのでなく、それを包んでおる、あるいは包みながら超えているというのです。単に包むというだけだといわゆる汎神論というものになって、内在の一方が勝ってしまいますから、超越の面を現すため超という字で示したわけでしょう。しかしまた、ただ超越では、内在が消滅して超越一方になりますから、包越という言葉が、何時のころからか、われわれ日本の哲学に行われてきました。これは一見絶対と相対との関係、あるいは宗教の構造、言い換えれば哲学の宗教的側面というものを非常によくとらえているように見える。しかしいままで話してきたような、どこまでも絶対は自己矛盾であり、絶対無であって、その絶対無のいちいちの裂け目において、無即有としてわれわれを活かし、われわれを働かせる、絶対の働きはただわれわれの相対的な働きを通してのみ、媒介されて、働くのであるという関係は、包越では現すことができない。それで私は苦しまぎれに、こういう例をかんがえた。どうせ例ですから完全に適切な、ちっとも不都合がないというわけにはいきませんが、いくらか皆さんがみずからお考えになるのに手がかりになるかと思って、最後に申し上げるのですが、それは包越といますと、あらゆる相対を、最も端的に言えば、われわれ人間というものをすっかり包んでおるような袋である。その絶対者という袋の中に、相対的なわれわれはみな包まれて、さきにいったアリストテレスの実体におけるごとく、われわれはいちいちみずからのおるべき場所をもつ、いわゆる場所的にその中で限定されておる、絶対はそういうようにわれわれを場所的に限定して、自己の中に包みながら、いつでも、それを超えて、その袋を常に動かしてゆくところのものである。その袋は無限に大きいからいくら多くのものを入れてもゆとりがある。無限りは部分が全体をうつすような組織である。だからそういうように動きながら全体をみずからの中に包んでおる。そういうのが包越という例になるだろうとおもいます。したがってそういう場合の全体とか、絶対とかいうのは無限の袋であって、全体を包むのですからその全体を包むという限りにおいては閉鎖的なのです。それの外に何ものかをあらしむるということはない。閉鎖的な無限の袋の中に全体を包んでおるというのが包越という考え方で、それが絶対を考えようとするとき、最も広く行われているところの考え方だと思うのであります。しかしそれによってはいままで話してきたような弁証法的な行為的な立場、すなわちわれわれは内に根源悪をもち、常に神に叛く可能性というものを内にかかえている、しかし叛くということがさらに顚倒的に神によってゆるされ活かされて、神はかえって自己否定的にそういう相対的な、罪のわれわれを媒介にしてはたらくのであるといような、そういうことは、いまいったような全体を無限の袋が包んでおるという閉鎖的な統一というものではそうしても現すことができない。あるいはもっと適切な現し方があるかと思いますが、とにかくいまわたくしのご参考までに提案するのは、次のようなことを考えたらどうかということです。」
▼無限網の譬喩「本来絶対はちゃんとまとまった、閉鎖して締括ることのできるような袋ではない。無限は網なのです。網はどこにでも穴が開いている。だから網はいかに口を締めておいても実はなんにもならない。何でもそれを出たり入ったりすることができる。すなわちその限りにおいては、網は袋が閉鎖的であるのに対して開放的である。網は自由に出たり入ったりすることができるものです。われわれはそういう網の中にいる。袋の中に、いかに無限であるから動く余地があるとしても、相互の位置秩序を定められ自分のあり場所を決められて入っておるというようなおとなしいものではない。われわれはもっと始末に負えない顚倒者なのである。網の中にいるがいつでも網の外に出ようとしている。足を半分出したり、手を半分出したりして網から外にはみだしている。しかし網はやはり外には出さないで内にはいるように仕向けている。網はちゃんときまった形で、この位置はこrて、あの位置はあれ、という秩序立てはしていない。網はそれこそ中へ入っておるものが動くままに、足を出しそうになると足がこっちにはいるように、みずから動いて行き、音を出そうとしておる者がいると、上からそれを被うように動く。網は網自身としてどうでも自由に中のものに応じて動き、その開放性を維持しながらしかもそれから出ようとするものを決して外へ出さないように接取する。みずからの中へ摂(おさ)め取る。そういう働きをしておるのが網である。それは袋の閉鎖的とは違う。網には自分の固有な形とか限界とか、またその内部の位置とか秩序とかいうものはないともいえる。無限な網。締括りも何もない。締括りしてもいくらでも出られるから開放的なのです。しかもみずから内部のものを局所的に被うように動き行くことによて、これを外に出さずに、どこまでも内に摂め取る。そういう網が無即愛の絶対に対する譬喩になるでしょう。そういう網に摂取されておる現実がいわゆる絶対現実である。」

保田與重郎

文章の威厳は、神皇正統記に於て、わが國文として初めてあらはれたといふことは、決して誇張と思はない。貫之の假名序、源氏物語、後世の芭蕉の文、かういふ系譜の上で、私は神皇正統記の文章を考へたい。 (日本の文學史 南朝の文學)

「和泉式部や源氏物語または清少納言がわからない時に、どこに日本の美術史が成立するであらうか。雪舟だけは時代を超越して別だつた。しかし彼にも和泉式部や新古今集はわからなかつた。それは第一義の重大な限界である」(日本の美術史 戰国時代)

「大和の大社大寺には廣大な砂敷きの前庭があつた。祭りの進行に適するように作つただけだが、無上に心のはれるやうな庭が、あちこちにある。室町風の庭園を批判するために云つてゐるのではない。しかし美の心の堕落が、じめじめとにじみ出てゐることは注意したい」(日本の美術史 室町時代)

「枯山水風の庭を、私は人々がいふほどに高く評価してゐない。禅僧のつくつた庭より、儒者が住んだ書斎の方が、自然で、開放的で、天然と生物をその生命でのびのびさせてゐる點がよい」(日本の美術史 室町時代)

「遊ぶは心を無にした状態である。謙虚もつひには無にいたらねばならぬ。よく遊ぶとは、諸々の欲望の放下されて消滅し去つた状態である」 (日本の美術史 鎌倉時代)

「敗れた側につく無力の文人墨客が、執拗に代々を貫き守つた。この系譜の御始め、そして御中枢となるのが「後鳥羽院」である。日本の美の歴史の中ごろに於て最も大なる御名は、「後白河院」と「後鳥羽院」である」

「絵巻の作者らは、すべて純粋な線しか知らなかった。太い細いや、濃淡もない。ましてさういふ方法で、絵師の個性や人間性を示さうといふやうな思惑はなかつた。さういふ思惑は卑しいものだといふことを、まざまざ教へてゐるが如くである」

「本來の神道の祭りには、呪術がない。ただとりどりに美しいだけである。観念の厳粛といふものよりも、ものの豊かさ、遊びの美しさにあつた。かういふ原生活の根柢が後代日本の、歌合、茶、花、庭、俳諧、などの藝事の風儀のもととなるのである」 (日本の美術史 天平時代)

「わが國の建國の神話は、朝廷の禮樂の美しさ―美しさの極致をいふまへに、労働そのものが、美と藝術の極致であるところから始まつた」 (日本の美術史 天平時代)

「「高天原に神留ります」とたたへられた状態が、造形上でもその本質であり境地だつた。神留りますとは、魂が天上に充満してゐる状態である」 (日本の美術史 白鳳時代)

「この日この時の人麻呂の歌は、すべての國民に、國の神話を回想させ、神武肇國の不滅の精神を確信させた。國を救ひ、國を興し、國を持續する究極の原理である。それが萬葉集成立の根本の悲願であり、日本書紀編輯の眼目となる」 (日本の美術史 白鳳時代)

「學藝の論理よりも、文學の歌を旨とした自然な人々は、正しく生成の理に生きて、それを傳へた。その心情と心術は、王朝の女流といふ、この國の歴史を通じての最高の智慧に於て、むしろ極つた。最高の智慧は、つねに無礙のものだつたのである」 (日本の美術史 大倭朝廷時代)

「天壌無窮といひ、萬世一系といふ、わが國の天子さまの負うてをられる重大な意味は、この米作りのくらしの永遠性を示すのである」 (日本の美術史 大倭朝廷時代)

「新感覺派といふ文藝運動は、わが國におけるアメリカニズム的モダニズムの開始となつたものであるにもかゝはらず、横光も川端も、中河も、皆とりどりに極めて日本的な文藝の思想と趣味をいだくやうになつた」
(天の夕顔解説)

保田與重郎「春秋の筆を以て云へば西田哲學と白樺文學こそ國家失墜の因である」 (赤彦斷想)

「人を相手にせず、天を相手にせよ」 (西郷隆盛)

「我々は生れた時と所に於て、絶對の使命奉行を決行すればよいのである。仮定でなく、絶對の生命の根拠である。その事實だけが生命そのものである」 (吉田松陰)

「萬葉集は皇神の道義が言靈の風雅としてあらはれたものである」 (柿本人麻呂)

「我國では、日本武尊も、源義経も、又木村重成も、最もつよくたくましく、またたのもしい英雄は、みな少女の如くであつた」

「日本の歌のはたらきとして、空間に充満する魂を自分にとり入れ、自分の魂が身體から離れてあこがれ出るのを、しづめるといふ考へ方は、神代以來のものだつた」 (天の時雨)

「千年をへた杉の木目は、尾久杉のやうに、天造不思議の美しさだ。今時の抽象畫や抽象書道といふものは、かうした天造を知らない時の厚顔無恥を原因としてゐると思はれる」 (日本の美術史 大倭朝廷時代)

「高砂族の機の音が、そのまますばらしい美しい音樂だといふことは、むかしは労働が、そのまま一切の生命につながり、共同體の生命であり、天地の生命と一體の歓喜を教へてくれた。全くそれは音樂であり、美である」
(日本の美術史 大倭朝廷時代)

「外来の思想のもつ病穢は一掃され、佛の教へや、漢民俗古来のものの考へ方は、その最高と極致に於て、神道に同一することを、太子は早くも判斷せられた」 (日本の美術史 白鳳時代)

「巨石を組み立てることの好きだつた太古の人のこころは、わが國では傳統として、いつも衰へたことがなかつた」 (日本の美術史 大倭朝廷時代)

「今日のアメリカニズムと共産主義による人間の機械奴隷化から、人間性を守るといふ考へ方が、今日の文明世界における保守の立場であり、右翼といはれる立場である」 (天の夕顔解説)

「今日の浪曼的日本の實相は、白人中心の世界文化を回転し、變革するみちにある。この雄大な賭は藝術至上主義的發想が肯定する」 (與謝野鉄幹)

「宣長が「古事記傳」を完成しつゝ、わが古の道によつて、民族更生の原理をたててゐた時代は、フランス革命の最高潮であつた」 (本居宣長)

「明恵が思想文化の上で、保守復古の精神を持し、高山寺の教團を以て、わが國の文化の精神を傳へる學園とし、明恵の下から、所謂鎌倉時代のあの新しい文物が生まれた」 (明恵)

「隠遁詩人の心持の本體は、宮廷の尊貴とその現れとしての文化をしたふ心であり、これは消極と見えるが、大切な心である。今日も大切である。それは道を思ふ心の初めだからである」 (鴨長明)

「(後鳥羽院)しきしまのみちといふ御自信が濃く激しく、殊に神祇歌に於てそれが深くあらはれ、これらが維新和歌の畏くも源流となつたのである」 (藤原宗行)

「連歌俳諧師が、和歌の方とは異なる藝能家としての祭事を行ひ、己らの仲間の始祖神として、後鳥羽院を奉祀してきたことは、宗派佛教者が朝廷の御威光にたよつて己らの宗団の繁栄を策してきたことより、一そう純粋なこゝろもちであつた」 (有心と無心)

「どのやうな勝利さへ、勝利と考へられない。数多の強敵を限りなく倒されつゝ、しかも勝利といふことを知られなかつたのである」
(日本武尊)

「日本の皇軍は戦ひに克つことが、同時に皇風の文化を宣布することであり、つねにこの二つが一つとなつて行はれねばならぬのである」 (倭姫命)

「歌枕の地を訪うて、ありふれた眺めに、古今集に描かれた貫之の美學の根本をなつかしむ心懐は、芭蕉の肝心としたところだが、同時に我國傳統の詩人のいのちの味ひ方だつたのである」 (風雅論の歴史感覺)

「承久のことや、南山の悲史に對しては、「しのぶは何を忍草」といふより他のことばなく、彼にとつてはあまりに深刻であつたのだ。我々はこの眞の國史の深刻に對し、深刻に對決し得なかつたといふ事實を、中世近世の文學史的事實に見る」 (風雅論の歴史感覺)
「芭蕉はさういふ象徴を描くことを念としたのでなく、國史に於ける代々の先人の悲しみと歎きを描くといふ明確な思想をもつてゐた」 (風雅論の歴史感覺)

「隠遁遁世には、もともと閑寂もあつたが、滑稽もあつた」 (有心と無心)

「芭蕉の語録にも、必ずしも隠遁は山野に入ることのみではない、市井にあつても隠遁者は成立すると云ふのがあるが、もつと露骨なものには、遊里に入つた生き方の中にさへ、隠遁詩人と云ひたい系統のものがあつた」 (有心と無心)

「芭蕉の語録にも、必ずしも隠遁は山野に入ることのみではない、市井にあつても隠遁者は成立すると云ふのがあるが、もつと露骨なものには、遊里に入つた生き方の中にさへ、隠遁詩人と云ひたい系統のものがあつた」 (有心と無心)

「日本の知性がある意味で植民地の知性であつた。それは文明開化史を概観せずとも、鷗外や漱石の地位と気概を見ずともわかることである。日本の植民地文學的性質は、大正末期に完成されたのである」 (文明開化の論理の終焉について)

「藤村は透谷の若い心の屍を踏んで現れたのである」 (明治の精神)

「日本人の美観や、藝術生活、ひいて日常生活の浪曼化を規定した大藝術家二人といへば即座に私はかの浄土宗の創成者恵心僧都と、足利将軍の師匠であつたかの禪僧(夢窓疎石)との二人をあげるであらう」 (饗宴の藝術と雜遊の藝術)

「恵心僧都や宗達の支配の形式は、夢想国師や千利休の支配の形式と、インテリジエンスの作用を考へると違ふのである」 (雲中供養佛)

「日本武尊は日本の最も上代の一人の武人の典型であつたから、又日本の詩人の典型であらせられた。詩人であつたから意味がある、といふだけでなく、武人であつたから同時に思つて意義がある」
(戴冠詩人の御一人者)

「現實との距離、そしてかかる距離に妥協しないことこそ、Cらかな詩人の本質である」 (Cらかな詩人)
「ヘルデルリーンは藝術を生活から切り離したり、夢を現實の思惟からきりはなす手品を魂の純粹性から許されてゐなかつた。このCらかな詩人の運命は萬人に通ずるものでも、萬人に強いることの出來る生活態度でもない。ただ私はここにCらかな詩人の運命の悲劇を見てゐるに過ぎない」 (Cらかな詩人)

「我が國の都市は、自主的な政治性を以つて發展したものは少い。獨自な高踏的市民精神は生れてゐないのである」 (都會人の道徳)

「俳諧師仲間はみな無常の旅人であつた。王朝文明を流布するといふ使命観が彼らの生成のよりどころだつた。諸国の風雅の人々は彼らを迎へた。俳諧の益は俗語を正すにあり、といふ芭蕉翁の語録が的確に現してゐる。彼らの旅は、正しい国語を流布するといふ目的をもつてゐた」(日本の美術史 戰国時代)

「しかし枯山水のよろこばれた潜在意識には、測り知れぬ太古にあつた神籬の岩組の記憶があつたかもしれぬ」(日本の美術史 室町時代)

「敗れた側につく無力の文人墨客が、執拗に代々を貫き守つた。この系譜の御始め、そして御中枢となるのが「後鳥羽院」である。日本の美の歴史の中ごろに於て最も大なる御名は、「後白河院」と「後鳥羽院」である」

「承久の乱の挫折があつて、代りに隠遁詩人と民衆の民族造形が日本中を野の花一杯にしてしまう」

「隠遁時代の詩人が、心にみやびの文學をもつことによつて、武家政権の威儀の文化と名利を芥の如く棄て得たのは、みやびの文學に見たものを考へると當然のことである」

「王朝には感傷を悲劇化する精神があつた」 (日本文藝の傳統を愛しむ)

「私は俳諧の本質は一つの詩の精神と思はない、それは、王朝物語と、発想を異にする小説精神である」 (桃山時代の詩人たち)

「院の時は満足のない詩人の宿命である。院の名歌の悲しみは、歴史への決意が阻れた日の、大仰な英雄の悲しみである」
(日本文藝の傳統を愛しむ)

「國民と、天皇の間の中間に何もないといふ自覺が、國民の精神に溌剌と回想されるとき、我が民族は必ず、不可能を可能とし、絶望の極致を希望に転回するのである」
(文化の創建と學徒)

「院政時代の造形は、法然と明恵の二柱で申してもよいと思ふ。天地初發のものをひき出して、國と國びとのこころといのちにかへされたといふ事蹟は、近世の本居翁に似てゐる。この法然の思想を、世界の思想史の中で、最高最深と説かれたのは凌霄院殿であつた」

「院の出現によつて定つた連想の原形は西行の発想に暗示されたことは間違ひないのである。それは俳諧である。院の御生涯の悲劇はすべてをつゝんでみるとき、俳諧の連想形式を結んだ。それらはすべて王朝のもののあはれからの継続である」
(日本文藝の傳統を愛しむ)

「院の時は満足のない詩人の宿命である。院の名歌の悲しみは、歴史への決意が阻れた日の、大仰な英雄の悲しみである」
(日本文藝の傳統を愛しむ)

「探幽は巧みに描かうとしてゐる。永徳は描かうとなどしてゐるさまも見せない」 (誰ヶ袖屏風)
「永徳山楽を發見したのはたゞ一人の秀吉である」 (誰ヶ袖屏風)

内と外と、今世と彼岸との間に中間の世界をかまへるやうな、しかも幽けく美しい雰囲気ばかりの世界をつくるといふやうな考へ方は何もかもが不安で不定の状態をそのままに観念し、たまたま起る自意識の虚無とか、それが一瞬夢幻境の気分になるやうな瞬間を描こうとした。(日本の文學史 新古今和歌集)

「行成の仮名草書出現は、日本の生んだ最も高級な造形だつた。寝殿づくりと匹敵するこの大芸術は、しづかに自然に生まれてゐた。この仮名書と倭繪の結合、後の所謂「絵巻物」のためにも、行成風といふ仮名がきがなくてならぬものだつた」

「日本の神楽は、天の鈿女から出た。それでひよつとこ、おかめ、お多福、福助といつた形は、みな天の鈿女のもつてをられる性格を分析して、造形したもので、それはみな、この女神に内在する性格から生れた」

「「神楽歌」の成立と「梁塵秘抄」の出現は、さういふ九重窈窕の奥の神の遊びを、一瞬にして庶民の日常のある時間へうつす方法を教へた」

「院政期の京人の浄土観が、専ら自然で無だつたのに對し、禅に於てはあくまで人間にしばられてゐた。人間の意志や力の強さへの、あくなき慾望に先行されてゐるだけ、品下る感を禁じ得ない」

「彼は日本の藝術の歴史を説くことによつて、東洋の理想を描いた」 (岡倉天心)

「神詠といふのは、まづ神が歌はれたといふことであり、次に歌は神の心に通づるものであり、從つて神にます大君と臣の心をつなぐものであり、しかもかうした歌は、神のつくられた生物のすべての心のおのづからに發するものである、といふことを云ふ思想である」 (紀貫之)

「貫之の考へたことは、衰へた道をたて直すといふことであつた」 (紀貫之)

「皇神の道義(みち)のあらはれを、あるひは古に仰ぎ、今の世路のかりそめごとの中にきいて、今の心に戀ふのである。この心が永遠につゞくことを貫之は信じ、人も貫之のこの思ひを護り傳へた」 (紀貫之)

「貫之は、古今集をみる後代の人は、これを見れば必ず今の御世をしたひ、今の御世を戀ふだらうと云うたのである」 (風雅論の歴史感覺)

「眼にみる一木一草に歴史の事實を回想できねば、それは風雅でない。芭蕉は、そこから無限な道としての歴史を考へた」 (風雅論の歴史感覺)

「幣物として奉るものに、全生活をあまねくつぶさに具體的に現し掛けることが祭政一致の根本」 (鳥見のひかり)

「現行萬葉観は萬葉集の本質の問題でなく近時の風潮を萬葉の語彙で表現したイデオロギーである」 (古今和歌集の價値)

「宮廷文化の高邁な無力さ」 (西行とデユフィ)

「浪士の経世憂國の志によつて日本の市民文化は指揮されたのである」 (明治の精神)

「承久の乱の挫折があつて、代りに隠遁詩人と民衆の民族造形が日本中を野の花一杯にしてしまう」







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1月2016年(5) 言葉と表現と射影のブログ/BIGLOBEウェブリブログ
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