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<<   作成日時 : 2016/02/10 20:19   >>

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近代としての「国民道徳」の誕生

▼「徳義は一人の心の内にあるものにて、他に示すための働きにあらず。修身といい、慎独といい、皆外物に関係なきものなり。・・・故に徳義とは、一切外物の変化にかかわらず、世間のき誉を顧みることなく、威武も屈すること能わず、貧賤も奪うこと能わず、確乎不抜、内に存するものをいうなり。」
「智恵は即ちこれ異なり。外物に接してその利害損得を考え、此の事を行うて不便利なれば彼の術を施し、我に便利なりと思うも、衆人これを不便利なりといえば、輒(すなわ)ちまたこれを改め、・・・外物に接して臨機応変、以て処置を施すものなれば、その趣全く徳義と相反して、これを外の働といわざるを得ず。」(福沢諭吉「文明論之概略」1875)

▼(徳義とは)「つまり徳の内面性ということです。」
「智恵は現実の状況への働きかけ、外的環境にへの働きかけ方の問題となってくるわけです。外的環境との環境において利害得失を判断するのが智のレベルの問題です。したがって、今までより便利なものが生まれれば、それを用いることで状況も変わってくる。外の状況から問題が投げかけられ、施行錯誤を通じてその問題を解決していくー実践的に言えば、智恵の働きはそういうプロセスになるわけです。」(丸山真男「「文明論之概略」を読む」1986)

▼「私はさきに後期水戸学において構成された天皇制的祭祀国家という「国体」の理念が、日本の近代国家形成の上に重大な意味をもつことを指摘した。そして福沢の「概略」における文明論は、この「国体」理念のラジカルな脱構築的な言説としてあったことを私は前章にのべた。福沢は明らかにこの「国体」の理念が歴史の中で受肉化し、近代日本国家として実現されることに強い恐れをもっていたのである。そしてもう一つ福沢文明論が危惧をもって予知的に対していたものがある。それは家族的情宣関係や儒教的道徳論を培養基にして形成される道徳主義的な国民国家の形成に対してである。「文明論之概略」における「智徳諭」は新たな文明的社会における知性とモラルの形成を、儒教的道徳主義と、伝統の情宣的社会に対する強い批判とともに説いていくのである。「文明論之概略」における「智徳諭」は、このような視点から読み直されねばならないのである。」(子安宣邦「日本ナショナリズムの解読」2007、'道徳主義的国家とその批判')

▼「福沢がいま伝統的な徳論概念の解体的批判をもって対応しているのは、日本社会における道徳主義とよぶべき根強い考え方に対してである。道徳主義とは天下国家はもとより、人事万汎が道徳をこそ第一の眼目にし、根幹にすべしとする立場である。この立場は、平天下や治国もまた一己の修身に基づくとする儒家におけるものであった。この儒教に代表される道徳主義は文明開化の時代とともに消えてしまったわけではない。明治維新とともに始まった国家社会の急激な文明開化既存社会の道徳的核心を動揺させ、道徳的基盤を喪失させていく。世の識者はこの急激な文明開化とともに日本社会に生じた道徳的な空白に強い危機感を抱くのである。危機感をもったのは保守的な漢学者や国体論者ばかりではなかった。福沢の仲間たち、明六社の同人の中にもいたのである。西村茂樹は後の日本弘道会となる修身学社を明治9年(1876)に設立している。「日本道徳論」(1887)を後に著し、国民道徳運動を展開した西村が強い危機意識をもって見ていたのも明治社会におけるこの道徳空白であった。儒家的道徳主義は明治転換期における道徳的な危機意識とともに再生するのである。明治国家におけるこの道徳的な危機意識がやがて「教育勅語」という、天皇の名による国民道徳の宣告と臣民的規範の付与をもたらすことになるのである。福沢文明論がすでに直面していたのは、明治の社会的転換とともに生じた道徳的な空白がその再生を促した道徳主義の主張であった。(・・・)


「もし事物の極度を見て議論を定むべきものとせば、徳行の数も無力なりといわざるを得ず。仮に今、徳教のみを以て文明の大本と為し、世界中の人民をして悉皆耶蘇の聖教を読ましめ、これを読むの外に事業なからしめなば如何ん。禅家不立文字の教を盛んにして、天下の人民、文字を忘るるに至らば如何ん。古事記、五経を暗誦して、忠義修身の道を学び、糊口の方法をも知らざる者あらば、これを文明の人というべきや。五官の情欲を去てかん苦しに堪え、人間世界の何物たるを知らざる者あらば、これ開化の人というべきや。」

福沢の真骨頂ともいえるこの道徳主義への揶揄に満ちた激しい反論は、現今日本における議論の本位とすべきは何かを明らかにするためである。・・・」(子安宣邦「日本ナショナリズムの解読」、'道徳主義的国家とその批判'より)








岡倉天心「東洋の理想」(1903)を読む

近代日本は戦前が二回ありました。第二次世界大戦の戦前と日露戦争の戦前です。だから「東洋の理想」は戦前に書かれた本、もっといえば、戦前において書かれる必要のあった本だったと考えることができるかもしれません。▼「東洋の理想」の範囲を説明した文を読むと、「(岡倉天心)氏は、インドにおける芸術発展の現実に見られる類縁は多く中国的なものである指摘すると同時に、このことの理由には、一つの共通の初期アジア芸術というものが存在したということをおそらく求められるべきものであると述べ、この共通の芸術は、そのもっとも遠い周辺の波跡を、ギリシャの浜辺、アイルランドの極西部、エトルリア、フェニキア、エジプト、インド、および中国に、ひとしく残っているものであるといっています。」(マーガレット・Eノーブルによる解説)とあります。▼共通の初期アジア芸術の痕跡が「アイルランドの極西部」にも。兎に角、理念型として東洋が構成されているということが大事なのですね。▼岡倉の有名な言葉「アジアは一つである」でいわれる連続性とは、なにがホンモノでなに...がニセモノといったことを排他的に選別して整理することになる理念の病とは関係がないと私は読みます。異なる時代ではありますが、あえていうと、今日のアーチストが開かれた世界にむかって語る口調で、平等になんでもかんでもわれわれの精神に繋がっている世界に生きるのだとする自身を代表する言葉とそれほど違わないのだろうとおもうのです。▼「思想史研究会」で岡倉天心の後継者としてかんがえてみようとされる大川周明の意味は何かと考えています。1928年の昭和ファシズムの形としての帝国主義国家としての日本、この日本のファシズム・イデオロギーに転化していくことになりましたが、しかし大川は1921年においてはまだ第一次大戦後に成立したアジアの革新思想の一つだったこともまたみておかないとフェアーではないでしょう。大正期の大川に「右翼」の接頭語は必要ないという意見があります。▼アジア的主体を介して植民地主義のヨーロッパ近代の限界を乗り越えていくことを思想の問題とした大川は、岡倉天心から読んだものは、岡倉のアジアにたいする比類なき共感ではなかったか。岡倉の本をよむとき、今日の日本の決定的な問題が見えてこないでしょうか。それは、小泉元首相から始まりましたけれど、アジア性を完全に喪失した安倍晋三首相、あるいは自民党だけしかアジアのヴィジオンーただし時代遅れの無効なーを持っていないという矛盾である、と、子安氏は「大正を読む」の最終講義で訴えました。▼「美しい日本」をいうこの歴史修正主義者が原因をつくる<外>の民族紛争の恐怖、と同時に、拡大してきた<内>の経済的格差。内外のこの二重の搾取を受けるアジアの人々はどうしたらいいのかという問いかけが、偏狭な一国的ナショナリズムによって、隠蔽されてはいないでしょうか。集団的自衛権の2016年、岡倉天心が生きていたら戦前のわれわれにむかって何を言うだろうかと不安におもいながらきょうは考えていました。


ヴィットゲンシュタイン「論理哲学論考」(1921)を読む

「読者はこの書物を乗り越えなければならない。そのときかれは、世界を正しく見るのだ。語りえぬものについては、沈黙しなければならない」(藤本隆志訳) Il faut qu'il surmonte ces propositions; alors il acquiert une juste vision du mond. Ce dont on ne peut parler, il faut le taire.
▼マルキ・ド・サドやニーチェの研究家として知られている、クロソフスキー(Pierre Klossowski)だけれど、翻訳家としては、サドやベンヤミン、ニーチェ、ウィトゲンシュタインらの著作を手がけました。クロソフスキーの思想には、評論『ニーチェと悪循環』などのように独特の「シミュラクル」の概念があり、この概念はドゥルーズに影響を与えたというから、それは、彼が翻訳に取り組んだウィトゲンシュタイン哲学とどこかで繋がっているのだろうとずっと思っていますけどね。▼ドゥルーズがいうように、ゴダールのカメラというのは、命題関数なのだけれど、そういう一切の命題によっては理念的には「語りえぬ」という不可能性に直面したときでも、ここから再び、命題によって「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」と理念化していくところに、(理念に従うことができなくたっても)理念がなければやっていけなくなるという信の構造がいわれているようにおもうのですね。▼豊かな論理体系といえども、決して完全ではないということ、つまりインプットに正当な返変換を適用しても、アウトプットとして到達しえない真の定理が存在するという、ゲーデルによって初めて指摘された、(理性の限界といわれる)形式化の限界、というか、形式化による新しい数学の可能性は、入門書によれば、ルールの中での多様性の発見と説明されている。ここでたしかに完全主義者に夢見られた予定調和の世界を打ち壊わされたが、正当性という価値を問う意味がなければ考えることができくなるのではないだろうかとおもうのですね。▼「追及すべきなのはどのような最終目標であるかをめぐっての純然たる対立をわれわれのために調停することもできないーわれわれは他の何らかの方法で、これらの問題を解決しなければならない」(サイモン)。ルールの中での多様性を構成する、経済政策にかんする対立し合うどちらの言説が正しいのかははわかりません。ネオリべの経済政策を説明するマネタリズムと合理的期待形成学派とサプライサイド学説がただしいのか?社会民主主義の経済政策を説明するケインズ主義が正しいのか?このとき、「人間は世界全体を見ることはなく、自分たちの住んでいる世界のごく一部しか見ない。そして彼らの世界のその部分についてあらゆる種類の合理化をでっちあげることができるが、ほとんどの場合、それはその部分の重要性を誇張するような方向ででっちあげるのである。」というおもいにかられるのである。だけれど、最終目標として従うことができる理性の理念がなくなっても、もし理念というものがなければ、苦しい現実を正すことできなくなります。存在しないことを知っていても、たえざる理念化の再構成によって理念があるんだと信じるところでしか、オキュパイ運動以降の99%の権利を言う理念、ひとりでも飢えてはならぬという理念・理想をともなうことがなければ、とても、ナショナリズムの勢いを得たアべノミックスにたいする抗議の行動も、抗議の言葉も書くこともできなくなってしまいます。

ハーバート・サイモンの本 (1982年の講演録をまとめたもの)

・人間は世界全体を見ることはなく、自分たちの住んでいる世界のごく一部しか見ない。そして彼らの世界のその部分についてあらゆる種類の合理化をでっちあげることができるが、ほとんどの場合、それはその部分の重要性を誇張するような方向ででっちあげるのである。原子力の例について、もう少し突っ込んだ議論をしてみよう。というのは、それはこのような現象の多くの優れた例証を与えてくれるからである。十年以上も前に、リバーモア研究所の二人の告発者が、原子力発電所付近の放射線が及ぼす健康上の危険が、考えられていたよりも非常に高いことを示すとされるある統計を提示したとき、原子力の関係している人たちがとった最初の反応は、一致団結することであった。ほとんど例外なく、彼らは、「このことをもっと詳しく調査しよう。事実を発見するために、完璧な第一級の調査委員会を設立しよう」とは言わなかった。それどころか、ほとんど全員の反応は、「どうして、そういう無責任な奴らがベラベラしゃべっているのか」ということであった。

・私は当時、大統領科学諮問委員会のメンバーとしてこれらの出来事に比較的近いところにいたが、このような社会全体の関心事の深さに対する「部内者」の無神経さに、素直にいって驚いたのを思い出す。「部内者」の多くは私の友人や知人で、彼らは高潔な品性の持主であり、私はどのような形にせよ彼らの節操のなさを疑ったことはなかった。彼らに事実を公明正大に見ることの必要性を見失わせたものは、核エネルギーの発展にたずさわっていた数年の間に彼らが獲得していた「知識」であった。つまりそれは、この科学技術は人類にとっての恩恵であって、新しい種類の生産力を切り拓き、枯渇しうる化石燃料への依存からわれわれを解放し、そしてかつて予見されたこともなく、とりあつかわれたこともなかった健康上のどのような異常な危険もよもや引き起こしはしない、という確信であった。彼らのかかわり合いの深さが、証拠が彼らの味方をしているか否かを、客観的に考えさせるのを妨げたのである。

・ある問題が大いに議論の的になるときーそれが不確実性と対立する価値とによって彩られているときはー専門的な意見は極めて手に入れにくく、そして専門家を正当化することはもはや容易なことではない。こうした状況では、われわれは賛成者の側の専門家と反対者の側の専門家がいるということを発見する。われわれはこのような問題を特定の専門家集団に委ねることによっては解決することはできない。せいぜいのところ、われわれはその論争を当事者主義の訴訟手続に変え、そこでわれわれ素人は専門家たちの意見に耳を傾けるが、しかし、彼らのうちのどちらが正しいかを判断しなければならない」

・理性は、それだけを取り上げてみれば、器械である。それはわれわれの最終目標を選ぶことはできないし、追及すべきなのはどのような最終目標であるかをめぐっての純然たる対立をわれわれのために調停することもできないーわれわれは他の何らかの方法で、これらの問題を解決しなければならない。理性が行うことのできるすべてのこと、それは合意に達した目標をより能率的に達成しようとするわれわれを助けることである。しかし、この点に関しては、少なくともわれわれはもっとよいものを得ている。ある妥当な程度にまで、人間の理性の力はそれら自身を、とくに同時的な諸関係を処理する能力を発展させてきており、(・・・) われわれは、自らの行為の結果を予測し、新たな選択を立てる能力を発達させたし、引き続き発達させている。これらの発達をもってしても、われわれは依然として、世界の複雑さのすべてを取り扱うことができるにはほど遠い状態にある。しかし、世界はー幸いにも、現代の世界でさえーほとんど空っぽであり、ほとんどの事柄は他の事柄と弱く関係づけられているにすぎず、そして人間の理性がうまく対処しなければならないのは、このような世界とだけである。


清沢満之「精神主義」を読む

精神の平等がないところに物質の平等がないという事実をレーニンは知らぬと言い切った、大正時代のアジア主義革新思想に先行して、幕末の近世日本の政治思想のなかには、石田梅岩、横井小楠、佐藤信淵において主張されていたような、精神にかかわる基本的な平等性を徹底した思想家がいました。▼しかし近代化の本格的開始は、精神の優位性という枠組みでは済まず、むしろ西洋技術の背後にあって、それを支えるフランス革命に規定された社会体制を導入しなければならないという認識に転換せざるを得なかったのです。当初の明治政府の政策も、祭政一致的な王政復古を基本として、神祇官の復興、神仏判然令(廃仏毀釈)などの神道国教化政策、キリスト教の禁止の維持を行いました。明治3、4年を境に、近代化により欧米化の方向にそって統合されていきます。ここに、祭祀国家としての近代日本の成り立ちをみることができます。▼大体ですが、これが、清沢満之が1901年に雑誌「精神界」を発行するに至るまでの時代の全体像です。清沢の精神主義は、日本近代の政治思想でいわれた精神の平等性を喚起する...反時代的精神です。ここで注意したいのは、「民族」という語彙が明治の辞書になかったという事実(「民種」という語はあった)。たしかに精神の平等を社会的に現実化する努力がなかったという限界はありました。そのことをふまえた上でいうことですが、清沢の精神主義は、「自分の精神の内部に従属を求めるものである。だから外物を追い、他人に従うために煩悶憂慮することはない」と主張するとき、この精神主義を担うのは、民族であると読むことは中々できません。▼またそれを担うのは、大正時代の大川に呼び出されたような復興「日本精神」でもないですし、また和辻の実体化された、古代での全体への帰順を生きる「清明心」の如き日本的倫理でもありませんでした。清沢はこういいます。


「我々がこの世で生きていくためには、必ずひとつの完全な立脚地がなくてはならない。もしこれなしにこの世で生活し、何事かを行おうとするなら、それはちょうど浮雲の上で技芸を演じるようなもので、転覆を免れることが出来ないのは言うまでもない。おそらくは絶対無限者にたよる以外にうつべき手はあるまい。 そしてこのような立脚地を得た精神が発達してくる筋道を名づけて精神主義という。精神主義は自分の精神の内部に従属を求めるものである。だから外物を追い、他人に従うために煩悶憂慮することはない。・・・・精神主義に立つものが自分に不足を感じるとした場合、その充足は絶対無限者に求めるべきであって、その充足を相対有限の人や物に求めてはならない。」

ここで、「ひとつの完全な立脚地」で言われるものは何か?それはそのまま救いや安心を意味する言葉ではなく、むしろ人間が依拠できるような儒教的に語られた信の構造というか....。▼この点にかんして、「宗教に救いがなければ意味が無いのにどう思うか」ときかれたとき、信は救済の約束とは無関係だよと友人に答えました。どうしてお前はそんなに怒っているのかときかれました、と、この当惑気味の問いにひどく当惑してしまったが、直ぐには返事できませんでした。帰り道に一人でなぜだろうかと考えました。▼お国のために戦死したら英霊として靖国に行けるから安心せよの「安心」が救済とされた歴史があったから、自分はああ言ったんじゃないかという考えに至りました。友人を驚かせたかもしれません。もし別の歴史ならば別の考え方をしたかもしれないのですけれど、しかし私の生きる歴史からやはりこう答えるほかにないのです。▼21世紀の私の生きる歴史というのは、これを考えるとき、歴史修正主義者たちによっては転覆されないような、清沢がいった精神主義ー自分の精神の内部に従属を求めるものである。だから外物を追い、他人に従うために煩悶憂慮することはないーと深い関係があるのではないだろうかとおもいます。






プルースト「失われたときをもとめて」を読む

あえてバイオグラフィーとしての大正 (1912-26)をかんがえると、その生誕は、「失われたときをもとめて」(1913-27)の刊行と殆ど重なります。ジッドはこの小説についていってます。「ある種の書物ーとくにプルーストのものーのおかげで、読者は、初めのうち知らないふりをしていたもの、知らないほうがよいと考えたものに対して、前ほど怖じ気づくこともなく、冷静にこれを考察できるようになった」。それはなんだろうかと気になります。それについてあれこれ考えてしまうのですが、「失われたときをもとめて」の<前>になにが語られていたのか 、そして「失われたときをもとめて」の<後>になにが語られることのなったのかをみることによって、「失われたときをもとめて」においてはじめて語られることになったことについて考えてみようというわけです。「失われたときをもとめて」の<前>は、反ドルフェス派のシャルル・モーラスと、ドルフェス擁護派シャルル・ペギー、この立場を異にする両者は、金に支配されるブルジョア社会への危機観を表明することで、一致をみる、そういう時代でした(シャルル・モーラス)。なんでもかんでもカネがものを言う世の中への批判を通じて言論の自由といった人権がはっきりと意識されるようになった時代。また第一次世界大戦と社会主義革命の必然性が、この小説が書かれた時代の思考構成の重要な契機としてありました。ヨーロッパの終焉がいわれた時代です(ヴァレリーの言説。そして「失われたときをもとめて」の<後>は、二度目の世界大戦の後のことですね。(シャルル・ペギー、サルトル、カミュ、モーリアック、ボーヴォワール)。さてプルーストの小説は、繰り返し指摘されるように、いきなり誰だかわからない「私」という人物が出てきて、それが眠るでも眠らないでもない、はなはだ曖昧な状態にいることが感じられるといわれます。これは、「失われたときをもとめて」の<前>にあった知識人の覚醒とはかなり違った「私」でありましょう。ただ、(今日同じことを、今日貴族を模倣するプロレタリアート政党のネオリべ政治家(ブレアーなど)が演じることになるのですけれど)、'世界を創造する'といいながらブルジョアの、とくに貴族を模倣する同化主義ー同一性の反復ーにたいして軽蔑する、アナーキズムと芸術の側に沿う<わたし>であるところがポイントです。また他方で、「自分自身が、本に出てきたもの、つまり教会や、四重奏曲や、フランソワ一世とカルル五世の抗争であるような気がしてしまう」というとき、それは、ヨーロッパの外部にいる,アジア主義の過去をもつわれわれからみると、曖昧であることは曖昧だが、やはりヨーロッパ的主体を対抗的に構成する曖昧としかいえないもの。だけれど逃げ去った愛する女の喪失に語られていたような、絶望の手前かもしれない、不確定性を含んだそのヨーロッパ的主体の夢を指示するものは、「失われたときをもとめて」の<後>に出てくる戦後的実存の理念的に構成された主体を指示するものとはまったく違っているとおもわれます。

▼「失われたときをもとめて」の<前>

・「われわれのまわりでおこなわれつつある大きな変化を冷静に考えうるものに幸あれ。・・・この地上にいかなる力が支配しようとしているか、それに無知であるためには、保守主義者は愚鈍となり、民主主義者は無邪気とならねばなるまい。見るために創造された双の眼は、すでに昔ながらの物質の力をしかと認めているのだ。金と血である。・・・金=国家が知性を管理し、それに金をかぶせ飾りたてている。しかしじつは知性に轡をはめ眠らせているのだ。金=国家が欲するなら、知性が政治的真実を知るのを妨げることも、たとえ知性が真実を知ろうと、それを語るのを阻止することも、たとえそれを語ろうと、それを傾聴され理解されぬようにすることさえできるのである。」シャルル・モーラス(「知性の未来」1905年より
・「ヨーロッパは、現実においてそうであるところのものに、すなわちアジア大陸の小さな岬になってしまってしまうのだろうか。それともヨーロッパは依然として、そう見えているところのもの、すなわち地上の世界の貴重な部分、地上の真珠、巨大な身体の頭脳であろうか。」ヴァレリー「精神の危機」1919年

▼「失われたときをもとめて」の<後>

・「諸事件の奇妙な結合、奇妙な動きによって、近代の到来とともに力の権力の大部分、その殆どが凋落してしまった。だが、その凋落は、精神の権力に自由の場を与える事によって精神の権力に利するどころか、まさしくその逆に、他の権力の消滅は、殆ど金という唯一の力の権力に役立っただけなのである。
近代社会は堕落させる。それは都会を堕落させる。男を堕落させる。それは愛情を堕落させる。女を堕落させる。それは民族を堕落させる。子供を堕落させる。それは国家を堕落させる。家族を堕落させる。それはまた、恐らく世界で最も堕落させにくいもの(それこの常にわれわれの限界なのだが)さえ堕落させ、堕落させることに成功した。というのは、そのものは織り目のなかにあるようなおのれのうちにあって、堕落させることが奇妙にも不可能であるかのごとき、特殊な尊厳をもつものだからである。その<死>さえも堕落させられたのだ。」シャルル・ペギー(「一時的栄光の詩事件に直面する近代社会における知識人党の状況について」1907年
・「この動乱のなかで獲得される自由は、ある人たちが夢みることを愉しんでいる安楽な、飼い馴らされた面貌を持っているなどとはだれも考えることはできない。この恐るべき分娩は革命のそれである」(「自由の血」、「コンパ」1944年8月24日、アルベールカミュ)
・「沈黙と夜との共和国のきびしい美徳をば白昼に保つような共和国」(ジャン=ポール・サルトル、「沈黙の共和国」「レ・レットル・フランセーズ」1944年11月9日)
「我々はいま知っている。我々を嘗て分割した全てのものにもかかわrず、我々は同じ精神の息子であり、おなじ<自由>によって培われた兄弟なのだと」(フランソワ・モーリアック「解放の翌日に書く」、1944年8月)
・「 私にとって、若いアメリカ兵の屈託のない様子は、自由そのものを具現していた。私達の自由と、そしてー私達は確信していたー彼等が全世界にあまねくもたらしつつある自由とを。ヒットラーとムッソリーニは打倒され、フランコとサラザールは追放されて、ヨーロッパはファシズムを決定的に葬りさるだろう。CNR綱領によって、フランスは社会主義の道をたどるはずになっていた。フランスの国は土台まで充分にゆさぶられたから、新たな変動を持たなくとも、その社会構造の根本的な改革を実現できる、と私達は考えていた。「コンパ」紙がスローガンとして掲げた「レジスタンスから革命へ」という言葉は、私達の希望ををそのまま表現していた。」(ボーヴォワール「或る戦後」)


日本近世の政治思想 ー 佐藤 信淵(1769ー1850)
(Wikiより) ・江戸を東京と改称するという構想は、江戸時代後期の経世家である佐藤信淵が文政6年(1823年)に著した『混同秘策』にすでに現れていた。佐藤信淵は『混同秘策』において、日本が世界に躍り出るためにはそもそも日本の守りを強固にする必要があるので、そのためには、都は江戸に移し、江戸を「東京」と呼び、大阪を「西京」と呼び、東京・西京・京都の三京にする、という構想を記したのである。大久保利通が佐藤の書に影響を受けて江戸を東京と改称することを建言したという
・江戸時代後期の絶対主義的思想家であり、経世家(経済学者)、農学者、兵学者、農政家でもある。出羽国雄勝郡郡山村(現秋田県雄勝郡羽後町)出身。通称は百祐、字は元海、号は松庵・万松斎・融斎・椿園。幼少から父の佐藤信季と各地を旅行して見聞を広め、のち江戸に出て儒学を井上仲竜、国学を平田篤胤、神道を吉川原十郎にそれぞれ学び、さらに本草学・蘭学を宇田川玄随や大槻玄沢に、天文暦数を木村泰蔵に学んだ。その学問は農政・物産・海防・兵学・天文・国学など広範に及び、主著に『宇内混同秘策』『経済要録』『農政本論』がある。


日本近世の政治思想 ー 横井 小楠(1809-1869)
(Wikiより) 鎖国体制・幕藩体制を批判し、それに代わり得る新しい国家と社会の構想を公共と交易の立場から模索した。小楠は、公共性・公共圏を実現するために、「講習討論」「朋友講学」といった身分階層を超えた討議を政治運営のもっとも重要な営為として重視した。また、交易を重視する立場から、外国との通商貿易をすすめ、産業の振興をも交易として捉えて国内における自律的な経済発展の方策を建議し、そのために幕府・藩を越えた統一国家の必要性を説いた。共和制(大統領制)の事を「尭舜の世(禅譲)」と評した事でも知られる。
・「尭舜孔子の道を明らかにし、西洋器械の術を尽くさば、何ぞ富国に止まらんぞ、何ぞ強兵に止まらん、大義を四海に布(し)かんのみ」

日本近世の政治思想 ー石田梅岩 (1685 ー1744)
江戸時代の代表的な人生哲学,社会教化運動のひとつと目される石門心学の始祖。名は興長,通称は勘平,梅岩は号。丹波国桑田郡東掛村(京都府亀岡市)の農家石田権右衛門,たねの次男。幼くして京都の商家へ奉公に出るが,15歳で帰郷。23歳で再度上京し,商家黒柳氏に20年余にわたり仕えた。そのかたわら,神道,儒教,仏教などを学び,43歳で市井の隠者とされる小栗了雲に邂逅し,「心を知る」の課題を「性は目なし(無我の境地)にこそあれ」と開悟するに至った。45歳のとき,京都車屋町の自宅に講席を開き,聴講無料,紹介者不要の開放的な形式をとって布教に専念した。当初の聴講者はわずかであったが,庶民層に門弟が漸増し,大坂に出講するまでに至った。主著『都鄙問答』(1739)は,門弟の要望を容れて,教説の基本原理を記述したテキストであるが,心学教化運動の原点として後世の教育に深甚な影響を与えた。5年後には梅岩が重んじた倹約について,人間の本性の洞察にまで思惟を深めた『倹約斉家論』が上梓されている。梅岩は,商人の利潤を武士の俸禄に比してその正当性を認め,商人蔑視の社会動向を否定,すすんで万人の心に内在する「性」の深究によって,士農工商は人間としての上下でなく社会における職分と説き,本性の存養こそ人間が真の人間となる要諦とした。<著作>柴田実編『石田梅岩全集』<参考文献>石川謙『石田梅岩と都鄙問答』 (石川松太郎・天野晴子)




三木清「パスカルにおける人間の研究」(1926)を読む

「しかしながら人間の存在が中間的存在であるということはこの存在が平衡を保っている存在であることを意味しない。人間は中間者であることによっていわば物理的力学的支点に立つ存在であるのではない。むしろ中間的存在であることは人間の「不均衡」を表現する。けだし如何なる極端なるものにも我々は等しくない。我々の両極をなす無限と虚無とは固定されたものではなくて、それはパスカルによればあたかも「深淵」であり、「不思議」である。」

▼「我々の両極をなす無限と虚無」と三木清でいわれるものは、二元論ではありえませんね。むしろ二元諭批判をなすものです。ゴダール「アルファビル」のテーマであるわけですけれど、ユートピア( Utopia理想郷 Utopia理想郷)、デイスポーティア( Dystopia暗黒郷)のどちらにも絡みとられることなく、自立性をもってこの関係をいかにいきるかという問題としてわたしはとらえます。 この問題を現在の文脈から考えてみるとどういうことになるのだろうかと自分のために整理しておきたいと思うのです。▼80年代の浅田「構造と力」の構造批判の理論的仕事ですね、むしろこれを読んだ後に、偉大な二元論の仕事、レヴィストロース「野生の思考」、山口「文化と両義性」、網野『無縁・公界・楽――日本中世の自由と平和』(1978)を同時に一生懸命に読みなおしました。また70年代の思想としての人類学的アプローチの意味を考えながら、60年代後半の大江の「個人的体験」も読み直すことにもなりました。ユートピアに規定された思想としての民衆史を根底にもった、こうした二元論の知の冒険が非常に充実していたわけですが、だけれど、21世紀は、ユートピアへのノスタルジーをすてなければやっていけなくなったというおもいです。▼中国・韓国・朝鮮の民族を否定した日本の戦争責任の自覚と真摯な謝罪がないために非常にデリケートな問題に触れることになってしまいますが、だからこれらの問題を取り組むことの重要な意義をみとめたうえで申し上げることですけれど、東アジアの民族主義をいう言説ー今日国策としてのポストコロニアリズムの言説に包摂され始めていますーは、たとえば靖国問題を解決できる知なのだろうかという疑問をもっています。国家日本の侵略を普遍主義的な人類にたいする犯罪の問題として構成しなければ・・・。▼20世紀を統括しますと、大衆にユートピアをみた言説は全体主義に利用されたように、また(さらにその大衆を組織した)階級にユートピアをみた言説はスターリニズムに利用されたように、そして今日再び言われる民衆の存在にユートピアをみる言説は(一国を背景にしたというよりは、90年代から本格的に展開されるグローバルで)歴史修正主義者の民族主義に利用されるデイスポーティアの危険性があるでしょう。現にあちらとこちらとに分断されたところで歴史修正主義者の権威主義の政治への隷属を許すことになっています。私は2001年からの小泉政権のときは海外にいたので靖国参拝の小泉時代を経験していないのですが、十数年ぶりに東京に戻ってくると、東アジアの人々が互いに憎悪し合う悲しい現実に驚きました。領土問題は戦争でしか解決されないという歴史から学ぶことなく、日本ナショナリズムを起点として、なにかそれぞれの国がそれぞれの民族のことを言い始めるという憎しみを交換する互酬原理がはたらいてしまっています。▼21世紀の普遍主義の意味はなにだろうか?ただしここで普遍主義といっても、それをそのままみとめたら、植民地主義にユートピアをみた近代の啓蒙主義(ヨーロッパ中心主義)に陥ってしまいます。それを克服するために、思想は多様性としての普遍主義を探求することの意味があるのですが、このことが後期近代における1968年からの思想的課題ではないかとやっと気がついてきましたー68年が消滅しきったかそうでないわかりませんが



Left-wing post-modernism opposes attempts to supply universal explanatory theories, including Marxism, deriding them as grand narratives. It views culture as a contested space, and via deconstruction seeks to undermine all pretensions to absolute truth. Left-wing critics of post-modernism assert that cultural studies inflates the importance of culture by denying the existence of an independent reality.[

ヨーロッパの学派は、日本の沈滞状況とは対称的に、ネグリ、ハート、アルチュセール、ジジェク、ラクラウ、デリダ、バトラーなど、新保守主義、リベラルとは違う第三極として、ニューレフトを模索する運動が盛んである。これらは、カルチュラル・スタディーズやポストモダンなど政治を離れて文化的、哲学的な論及も行うため、文化左翼といった呼び方もされる。

Wiki
Left-libertarianism (or left-wing libertarianism) names several related but distinct approaches to political and social theory, which stress both individual freedom and social equality. In its oldest usage, left-libertarianism is a synonym for anti-authoritarian varieties of left-wing politics, either anarchism in general or social anarchism in particular. It later became associated with free-market libertarians when Murray Rothbard and Karl Hess reached out to the New Left in the 1960s. This left-wing market anarchism, which includes Pierre-Joseph Proudhon's mutualism and Samuel Edward Konkin III's agorism, appeals to left-wing concerns such as egalitarianism, gender and sexuality, class, immigration, and environmentalism. Most recently, left-libertarianism refers to mostly non-anarchist political positions associated with Hillel Steiner, Philippe Van Parijs, and Peter Vallentyne that combine self-ownership with an egalitarian approach to natural resources.


MEMO
(Wikiより) 天皇を国家元首あるいは象徴に戴く日本の政治体制および皇室というしくみ自体を指して、現在は一般にも学術的にも「天皇制」が広く用いられており、通常「王制」あるいは「君主制」などと同様の性質を持つ用語として扱われる。そのいっぽう、この言葉を最初に使いはじめたのがコミンテルンであるという説から、反共的な政治思想を持つ立場からは使用を忌避されることがある。戦前は国体と称された。



柄谷「歴史と反復」を読む

翻訳された柄谷行人の本が人気があり中国の学生たちの間で読まれているのだそうです。中国からの留学生・研究者が柄谷行人の「歴史と反復」を読んだと言っておられたとき、ただ、直ぐにはこの本だったことを思い出せませんでした。▼I wrote most of the esays contained in this volume in the envioronment that existed around 1989、とあります。「探求」という外に開かれた思考のピークのときに内部化が始まるのが、この1989年。思考の内部化は、建築家の国際シンポジウムに参加する1992年と94年を契機に、「帝国の構造」を書く2015年まで進んで止まりません。▼他方で、失敗していますが、好意的に解釈して、柄谷はかれなりに、山口昌男や網野義彦などの天皇制構造論の批判を持続的に展開してきたとおもわれるところがあります。▼歴史といっても、「構造」批判諭で書いた歴史のことなので、本当は「反復する構造と反復する構造」というような表題にすればよかったのだろうとおもいますが、しかし内容のことよりも、なぜこの本を書いたのかということをここで考えておく必要を感じるのは、やはり神社の憲法改定運動という国家神道復活の動きにたいする現在の心配によることなのかもしれません。▼靖国神社はそもそも祭祀国家として近代化することになった日本における政治的権威主義の中心を国体イデオロギーとともに構成してきた歴史を忘れてはならないと思いますが、思想的な問題として、天皇制構造論の言説が批判されることなく無傷のままにあります。▼柄谷の構造<中心ー周辺ー亜周辺>、天皇制構造論の根底にある二元論<中心と周縁>の発展だという批判がある一方で、第三項の側から、天皇制構造論を差異化する、あるいは内在的に批判していくという意義をもっていると評価することもできるのかもしれません。▼ただ仮に前者の場合としても、しかし天皇制構造論の言説よりも(それを批判する契機をもった)帝国の構造の言説のほうが思考の質が良いとはどうしてもおもえないのです。天皇制構造論であれ帝国の構造であれ、これらの言説は、民主主義をもとめはじめた市民の声と両立できるのかという疑問が絶えず起きますから。





寺子屋での授業の様子を描いた絵ですけど、最初にみたときは、うん?学級崩壊かなと思いましたが、しかしそうではなくて、注意してみると、女性師範代(女性教師)は子供と「一対一」で教えていることを示していた絵だったのですね。他の子どもたちは師範代の教えの順番待ちで、ワイワイガヤガヤしていたのですね。同時代の京都の「古義堂」の講義も「一対一」で行われたといいます。他方で、高校日本史の教科書の資料で見たのですが幕府で行われた儒学講義の様子をみますとすでに、近代の大学とおなじようにに一人の講師の講義に三十人ぐらいの受講者が相対しています。やはり教育の起源は「監獄の誕生」のフーコが分析した修道院ー軍隊モデの配置にあるというか、近代の知の共有のありかたが問われていたことを思い出しました。

アメリカ民主党大統領候補者の一人サンダースは公立大学授業料の無償化を訴えると報じられています。日本は、裕福な家の勉強できる子供と貧困の家の子供とを選別し、学校を階層化するという、大帝国時代に確立した植民地主義的選別の罪深い社会設計を、21世紀になっても終らせることができないのは、本当に時代遅れとおもうのですが、これはネオリべのマーケット主義の時代にはいって現在、エスカレートしているようです。サンダースの主張は、そもそも学校の段階から格差がある限り格差社会はなくならないという認識に支えられています。全面的に賛成した上で、私なりですが、近代の教育のありかたの問題について根本から考えるところがあります。例えば、寺子屋での授業の様子を描いた絵ですけど、最初にみたときは、うん?学級崩壊かなと思いましたが、しかし、女性師範代(女性教師)は子供と「一対一」で教えていることを示していた絵だったのですね。他の子どもたちは師範代の教えの順番待ちで、ワイワイガヤガヤしていたのですね。同時代の京都の「古義堂」の講義も「一対一」で行われたといいます。ところが幕府で行われた儒学講義の様子を絵でみますとすでに、近代の大学のように一人の講師の講義に三十人ぐらいの受講者が相対していますよ。やはり教育の起源はフーコが分析した監獄ー軍隊モデの配置にあるというか。21世紀が19世紀と20世紀と決定的に異なる世紀になるとしたら、なにか知の共有化のあり方から、根本的に変わってこないとダメじゃないだろうかとおもうのですがね。なんといっても、「一対一」というのはラジカルですからね、対角線論法で明らかなようにパラドックスを必然的に導き出します。知から相対的で偶然な逸脱が常に起きますーソクラテスとプラトンの対話みたいに。ゴダールの映画で超面白いと感じるのは、「・・・と、マリーは喫茶店に座っていた哲学者と相席して対話するのだった」といういきなり来るアクシデントですね

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五十年前<故郷>(スイス)離脱者だったゴダール。現在彼が呼びかけているのは、美しい繁栄した故郷(ヨーロッパ)ではなく、(戦争と金で)失われた平和な故郷(ヨーロッパ)を取り戻す為に、これまでのすべてをもう一度問い直す発想の大転換。<帰還>よりもむしろネオリベ資本主義批判に力点がある

過去の投稿
テレビのルポタージュ的クローズアップの発明によって、「ネオリベラリズム」の継承と呼ぶべき未知のジャンル、即ち、ニュース的なドラマが、テレビの小さな四角形の画面に現れた、とグレン・グールドは指摘したことがある。
リアリズム的フィクション(あるいは、位相を異にするが、フィクション的リアリズム)に関して分析した、このグールドの饒舌な文章を読む者は、ゴダールの批評的アイロニーの語り口を思い起こすのである。このことは、偶然ではない。
戦後のカナダのテレビ局は、ヨーロッパの「文化帝国主義」にとって辺境に位置していたとはいえ、精神的には、中心たるパリのゴダールと繋がっていた。象徴的に言うと、テレビ局は、異議申し立ての「梁山泊」だった。
グールドは、ブルジョア的なロマン主義公共劇場に堕したコンサート・ホールから隠遁した後、その旺盛な批評精神を以って、主体としての位置と機能を炸裂させたのは、他ならぬカナダのこのテレビ局においてであった。
Tout va bien(万事順調)か、Tout ne va bien pas(万事窮す)か、題名を忘れてしまったが、ジェーン・フォンダが友情出演した、その映画は、テレビ局のストライキを舞台にしている。時代的な文脈から考えて、テレビの、可能性としての中心を問うことが、ゴダールの課題であったことは明らかである。

ところで、舞台の人々は、演劇とは何か?と常に自己定義の検証を行う。ジャーナリストと同様に、安易に同化しない一定の距離を計量しつつ、民の声、祈り、叫びに密着する。演劇は予言者の如く想像力に訴える故に、時にその影響力はジャーナリズムに劣らぬ程政治的だ。舞台は都市の中の祭壇と化す、つまり集会だ。集会とはなにか?それは社会的ジェスチャー、と答えることができる。ゴダールの映画は、演劇的な映画である、と同時に、映画的な演劇だ。
 ここで簡単に復習してみると、ブレヒトの演劇的異化効果Verfremclungは、現実的な自然さを装うリアリズムを拒否し、感情レベルにおける観客との同一化ではなく、社会的ジェスチャーを要求した。社会的ジェスチャーの概念は、旺盛な批評精神を伴なければ決して成り立たない、象徴的で経済的・社会的機能、交換機能を体現した身振りとアクションの総体である。







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2月2016年 (1) 言葉と表現と射影のブログ/BIGLOBEウェブリブログ
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