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<<   作成日時 : 2016/02/21 16:31   >>

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なぜ大江文学は読めないのか?
ーいま「個人的体験」(1964)を読むことの意味は何か


大江健三郎の代表的仕事のひとつである「個人的体験」の<前>になにが語られていたのか、そして「個人的体験」の<後>になにが語られることのなったのかをみることによって、大江においてはじめて語られることになったことについてなんとか考えてみようと思います。▼大江は文学の方法論について意識的な作家であり、この態度は絶えず小説の構成の戦略と文体の選択に大きな影響をあたえてきました。死体処理のアルバイト医学生の奇妙な自意識を描いた「死者の奢り」や、村でのアフリカ系米兵の捕獲を描いた「飼育」といった初期の作品においては、現実逃避を試みる人間の自意識が、芥川龍之介の再来とも称えられた精緻な描写とアレゴリーによってとらえられたといわれました。▼一方、大正文学が得意とする人間心理の働きを表現技法の巧みさで描いた芥川文学の再来という評価を超えて、戦前の文学がとりこぼした思想性を追求し、世界文学の土俵に真っ向から挑もうとする旺盛な野心が、大江には溢れていたというのですが、かれが思想の方向を間違えると、だんだんとかれの文学を読めなくなってくるのかもしれません。▼「個人的体験」の<前>になにが語られていたのかというと、それは戦後文学が初めて表現することになった罪悪感といってよいとおもいます。たしかに、大正からの夏目漱石を読むと、貧富の格差の拡大とともに昭和の戦争体制へと深まっていく帝国日本に先行して、明治中期あたりのプチブルの小市民的な罪悪感がすでに描かれていたことがわかりますが、「野火」のように人間存在の根源にある罪悪感というものについてかたる言説はやはり戦後文学からです。そこから大江は肉体が消滅したあとに残った魂ががなにを語るのかを積極的に書いたようにみえます。▼「「僕は希望を持っていない」と僕は低く言った。」(「死者の奢り」(1958))といわれているのは、大江においてはじめて語られることになった言説です。これは、国家神道が復活するかもしれない平成ファシズム前夜、<語る>民主主義とは正反対の、もはや<選ぶ>国民ですらない、<戦う>国家に定位する<祀る>国民の誕生に直面する現在の私の関心から読むとき、大きな意味をもちます。否、もっていなければならないとわたしはおもうのです。▼「宗教に救いがなければ意味が無いのにどう思うか」ときかれたとき、信は救済の約束とは無関係だよと答えるのは、お国のために戦死したら英霊として靖国に行けるから安心せよの「安心」が救済とされた歴史があったからです。もし別の歴史ならば別の考え方をしたかもしれないけれど、しかし私の生きる歴史からやはりこう答えるほかにないのです。思想問題としては、魂に希望がないことが大きな意味をもつのです。そうして私は次の文を読むとき、ほかならない、この体験に、ある意味で、「美しい日本の私」といわれる教説に背を向けてきたと語ることになるであろう大江文学の中心的意味があったのだとかんがえるのです。

▼「ねえ、鳥(バード)。こんどのことが、こんな風にあなた個人に限る問題じゃなくて、、わたしにも共通に関わる問題だったとしたら、わたしはもっとうまくあなたを力づけられてあげれたのに」とやがて火見子が鳥(バード)にかれのうなされかたについて話したことを悔んでいる沈んだ調子でいった。
「確かにこれはぼく個人に限った、まったく個人的な体験だ」と鳥は言った。「個人的な体験のうちにも、ひとりでその体験の洞穴をどんどん進んでゆくと、やがては、人間一般にかかわる真実の展望のひらける抜け道に出ることのできる、そういう体験はある筈だろう?その場合、とにかく苦しむ個人には苦しみのあとの果実が与えられるわけだ。暗闇の洞穴で辛い思いはしたが地表に出ることができると同時に金貨の袋もあたえられるわけだ。暗闇の洞穴で辛い思いはしたが地表に出ることができると同時に金貨の袋も手に入れていたトム・ソウヤーみたいに!ところがいまぼくの個人的に体験している苦役ときたら、他のあらゆる人間の世界から孤立している自分ひとりの竪穴を、絶望的に深く掘り進んでいることにすぎない。おなじ暗闇の穴ぼこで苦しい汗を流しても、ぼくの体験からは、人間的な意味のひとかけらも生まれない。不毛で恥ずかしいだけの厭らしい穴掘りだ、ぼくのトム・ソウヤーはやたらに深い竪穴の底で気が狂ってしまうのかもしれないや」
▼「- Bird, si tu ne gardais pas tout cela pour toi, si j'étais advantage mêlée à cette histoir, il me semble que je pourrais mieux t'aider.
- C'est une affaire strictement personnelle, en effet, dit Bird. Mais il est possible qu'en pareil cas quelqu'un d'autre puisse vous aider à trouver la verité... Ce qui m'arrive me donne l'impression que je m'enfonce, seul, dans un tunnel sans fond, en m'éloigant de plus en plus du monde des autres. Comment faire partager à qui que ce soit ce que j'éprouve ?(仏訳より)

▼「個人的体験」の<後>になにが語られることのなるのかという問を「読む人間」(2007年)でいわれていることに即して考えてみます。結論でいわれていることは、希望なき魂のあり方にたいする考え方変更することです。かれこういいます。「だからといって私が苦しい老年から若々しい人生の盛りに立ち戻れるのではないし、死について考えることは、さらにリアルな日々の習慣になっています。しかし私は「後期のスタイル」によって仕事をすることが、希望を失わずにいること、不確かな足場に立ちながら、困難を克服するためにもう一度試みることだ、というサイードのアイデアを、深く強く納得しているように思います。長い目で見れば希望はある、ということに私は賛成です。しかもいいま私は、その長い時はいつまでも続く、その前に自分らは死んでしまう、というように考えることはやめました。自分の死は確かだが、しかも相対的だ。その向こうにむけて「後期のスタイル」によって成し遂げうるものを、できるだけ遠く投げておくことはできる。それをカタストロフィーとも見まがう緊迫したやり方でなしとげた芸術家たちの仕事が、現にいま私らの歴史の最良の部分を支えているではないか?」
▼それなりに思想的な理念として文学的に成り立っていたはずの希望なき魂をこのように捨て去ることの代償とはなにだろうか?彷徨える魂は消滅するが言葉に定位することによって永遠だという。すなわち、読む人間が永遠に生きることの可能性と希望のことを大江は言います。だがここから大江は読めなくなるのです。芸術家のことが言及されているところで語られているのは、読む人間の問いつづける問いかけではなく、教える人間の死後どこへいくのかという教説である。またはどこから来たのかという教説。だがこのような教える人間の側で、魂の語りえない悍ましい他者性が消去される危険性はないのか?「個人的体験」(1964)を読むことの意味は何だったのかをわたしはここでふたたび問う。精神の平等を問うた「火見子」と「鳥(バード)」に向かって私はこの問題を問うてみたい。文学者が決して現さないが、だがただ現実に生きるというだけで称えられるような人間の生きる権力に魂が従属するというというのは、それはシニカルな反知性主義というものではないだろうかとかんがえます。



まるでファシズム前夜というほかない、安倍内閣の高市総務相の電波停止発言ですけれど、徹底的に国際問題化しないといけないと思います。▼この恫喝を日本の問題だけではなく、グローバルにとらえて、東アジア民主主義と人類の知る権利に対する問題だとわたしは考えます。またこれに対して本気で憲法のことを言うなら、自己検閲(自粛)しているマスコミもどうなのか?▼マスコミだって、政府と一緒に開きなおって、<自己検閲は憲法違反にあらず>という'解釈改憲'を言うことは人類に対して倫理的に許されないはずです


レヴィ=ストロース「野生の思考」(1962)を読む

レヴィ=ストロースは、構造主義の中心的人物として人類学の分野をこえ、一般思想界にも影響を与えているが、かれの代表的仕事のひとつである「野生の思考」の<前>になにが語られていたのか(サルトル) 、そして「野生の思考」の<後>になにが語られることのなったのか (フーコ、デリダ、アラン・フィンケルクロート、デュラス)をみることによって、「野生の思考」においてはじめて語られることになったことについて考えてみようというわけです。▼「野生の思考」のレヴィス=トロースは、器用仕事(ブリコラージュ)といわれる概念を定義しこれを展開しています。「神話的思考の特性は、工作面での器用仕事(ブリコラージュ)と同様、構造体をつくるのに他の構造体を直接に用いるのではなく、いろいろな出来事の残片や破片、英語でodds and ends, フランス語で des bribes et des morceaux と呼ぶものを用いることである」。それを語ることの意味を明らかにするために、「野生の思考」の<前>に語られていたサルトルの言説にさかのぼってみますと、(現在再び読み直されているという)「奇妙な戦争日記」にこんな文があります。「人間が作った物を爆弾が破壊する前に、すでに物の人間的な意味は崩壊してしまっている。戦争において、我々は道具世界の中を歩いているが、実際はそこは瓦礫の中である。物から微かな媚態を感じ取るその瞬間に、たちまち、そのような人間的な意味が消失した世界の儚さのなかに佇んでしまう。」。▼ここで、「瓦礫」で意味されるのはヨーロッパの「瓦礫」であり、したがって「物の人間的意味」意味されるのもヨーロッパの「物の人間的意味」だと見抜けば、こうしたサルトルの言説を差異化するために、新たにレヴィ=ストロースがどこから語ることに意味があると考えたかを知ることができるとおもいます。ヨーロッパの外部です。ただしヨーロッパが語るヨーロッパの外部、という限界がありますが、とにかく「野生の思考」がなしたことは、普遍主義の代名詞であったヨーロッパ(と優越した特権的な歴史意識)を相対化してみせたことでした。そこから、「物」という特殊性の意味を、器用仕事(ブリコラージュ)の措定によって、復活させることになりました。
▼では、「野生の思考」の<後>に、フーコ、デリダ、アラン・フィンケルクロート、デュラスにおいて新しく語られたことはなにか?その前に確認しておきたいことは、ポスト構造主義と呼ばれることになるフーコ、デリダがいかに、構造主義のレヴィストロースと共有した思想の連続面を構成していたかという点です。サルトルとの不可避的な連続性も読み取ることができます。

「我々の住む地球の裏側には、延長による秩序づけに完全に捧げられた、しかも、我々にとって名づけ話し思考することが可能となるようないかなる空間にも諸存在のの増殖を配分しない、そのようなひとつの文化があるのにちがいない。」「ともかくひとつのことがたしかなのである。それは、人間が人間の知に提起されたもっとも古い問題でも、もっとも恒常的な問題でもないということだ。・・人間は、我々の思考の考古学によってその日付けの新しさが容易に示されるような発明に過ぎぬ。そして恐らくその終焉は近いのだ。」(フーコ「言葉と物」)

「多次元性への、また脱=直線化的時間への接近は、たんに「神話文字」に後退することではない。逆にそれは、直線的モデルに従属したあらゆる合理性を、神話書法の別の形式、別の時代として現われさせる。<エクリチュール>の省察においてこのように告知されている超=合理性や超=科学性は、それゆえ一つの人間の科学の中に閉じ込められることもできず、また科学の伝統的観念に対応することもできない。それらは唯一の同じ所作によって、人間、科学、直線を乗り越えるのだ。」(デリダ「グラマトロジーについて」)

「彼等は、かくも長い間第三世界の民衆のうえにふるってきた覇権を恥じ、もはや再び同じ過ちを繰り返すまいと誓い、西欧の自由の厳しさを彼等には強制しない事を決意した。・・・そして人権の適用範囲を西洋人に限定し・・各人に各々の文化のうちで生きる権利を保障するまでに至った。」(アラン・フィンケルクロート)

▼「野生の思考」は、前にのべたように、普遍主義の代名詞であったヨーロッパと優越した特権的な歴史意識を相対化してみせましたが、しかしそれはヨーロッパが語るヨーロッパの外部という限界がありました。「野生の思考」の後に語られてくるのは、多様性としての普遍主義のあり方です。ここで多様性は、「世界史の構造」「帝国の構造」に語られていた'分割'のことではないでしょう。多様性としての普遍主義が難しいのは、それを理念的に構成するときに再び、唯一つの普遍主義にもどってしまうのではないかという問題です。思考としての多様性としての普遍主義と、それを書くという行為とが一体になっていなければ・・・

▼最後に書いておこうとおもうのですが、ポスト構造主義が批判されるポストコロニアリズムの80年代に、デュラスの小説の意義が再発見されたことです。このデュラスを小説を読むとき、サルトルとの間の凄いギャップに驚きを禁じえません。作家にとっての「物の人間的意味」も、「器用仕事(ブリコラージュ)の詩」も、ヨーロッパから再び読もうとしていたのなら、デュラスはこう反論するでしょう。「ときにはわたしは、こうだと思う。書くということが、すべてを混ぜあわせ、区別することをなどやめて空なるものへと向かうことではなくなったら、そのときには書くことは何ものでもない、と。書くとはそのたびごとに、すべてを混ぜあわせ、区別することなどやめて本質的に形容不可能なただひとつのものへと溶け込ませることでないとしたら、そのときは書くとは宣伝以外の何ものでもない、と。(デュラス「愛人」清水訳) Quelquefois je sais cela; que de moment que ce n'est pas, toutes choses confondues, aller à la vanité et au vent, écrire ce n'est rien. Que du moment que ce n'est pas, chaque fois, toutes choses confonues en une seul par essence inqualifiable, écrire ce n'est rien que publicité. - Duras (1984) 。「器用仕事(ブリコラージュ)に見出された「物」という特殊性の意味は、デュラスにおいては拒まれています。語りうるものがまだるとしたら、それはデュラスが表現しようとした、本質(唯一つの普遍主義)なき形(特殊性)ではないでしょうか。

<参考>

▼私は、これまで、戦争というものを見たことがない。私は戦争を把握することができない。しかし、戦争世界ならば見てきた。それは、単純な軍事世界のことだ。戦争は事物の意味を変えてしまう。戦中に兵隊を迎える民家では、歓迎という本来の意味が空虚となってしまう。つまり、自己破壊を孕んだ可能性というものは常に不条理になってしまう、ということだ。金欲しさに兵隊を歓迎する民家を目にするとき、ブルジョア的な自由の意味について考える。貨幣の自由のことを。これらの民家は元来、民間人の住宅を軍が徴用したものだ。兵隊の宿泊が保障されているが、その兵隊達には支払う金は無く、好き勝手にできるわけでもない。戦争の世界とは貨幣なき世界であり、また、自由も存在しない世界である。
「軍徴用」という張り紙を読める者ならば、そこに新しい意味が付与されていることに気付くはずだ。「強制と命令に基づく賃貸料の無償化」、という意味である。つまり、民間人の住宅は純粋な道具となったわけである。例えそれが高価な所有物だとしてもである。兵隊の宿泊のために供与すべき厳粛な義務を軍は国民に課している。旅行者の宿泊のために用意した愛らしい部屋もあるが、いったん兵隊によって占拠されると、ただの巣穴の外観を呈するようになる。ベッドは通常家の者によって取り除かれ、仮に部屋に置かれていたとしても、そこに横たわることはできない。兵隊は藁の上に眠らなければならない。人間が作った物を爆弾が破壊する前に、すでに物の人間的な意味は崩壊してしまっている。戦争において、我々は道具世界の中を歩いているが、実際はそこは瓦礫の中である。物から微かな媚態を感じ取るその瞬間に、たちまち、そのような人間的な意味が消失した世界の儚さのなかに佇んでしまう。つまり、途絶えることなき幻想の反復。戦争とは非常に重い道のりに喩えることができる。いかなる場所も、私の可能性の内部のなかに存在しない。これらの空間は現実性を伴なわない。仲間の兵隊達が「きれいな風景」とか「気持ちのいい村」と言い、「平和になったら、ここに戻ってくるぞ」と語るとき、これらの言葉は皮肉にも、私の深い喪失感を見事に翻訳する。(サルトル)

▼「神話の世界は出来上がったと思うとすぐ分解し、その断片からまた新しい世界が出来上がるかのごとくである」。これは深く突っ込んだ見方ではあるが、それでも見落としているところがある。それは、同じ材料を使って行うこのたゆまぬ再構成の作業の中では、前には目的であったものがつねに次々に手段の役にまわされることである。すなわち、所記が能記に、能記が能記にかわるのである。
器用仕事(ブリコラージュ)の定義としても通用しうるこの定式によって、神話的思索にとっては、使用可能な手段が暗黙のうちにもことごとく調べ上げられるか頭に入れられていないと、できあがりが定まらないということがわかる。できあがりはつねに、手段の構造と計画の構造の妥協として成り立つのである。出来上がったとき、計画は当初の意図(もっとも単なる略図)とは不可避的にずれる。これはシュールレアリストたちがいみじくも「客観的偶然」と名付けた効果である。しかしそれだけではない。器用仕事(ブリコラージュ)の詩は、そのほか、またとりわけ、それが単にものを作り上げたり実行することにとどまらないところにある。器用人は、ものと「語る」だけでなく、ものを使って「語る」。限られた可能性の中で選択を行うことによって、作者の性格と人生を語るのである。計画をそのまま達成することは決してないが、器用人(ブリコラージュ)はつねに自分自身のなにがしかを作品の中にのこすのである。(・・・) 神話的思考の特性は、工作面での器用仕事(ブリコラージュ)と同様、構造体をつくるのに他の構造体を直接に用いるのではなく、いろいろな出来事の残片や破片、英語でodds and ends, フランス語で des bribes et des morceaux と呼ぶものを用いることである。
ークロード・レヴィ=ストロース「野生の思考」(1962)
▼いわゆる左翼の人間は、実践の要請と解釈の図式との合致という特権が与えられていた現代史の一時期をいまだにしがみついている。この歴史意識の黄金時代は多分もう終わったのであろう。終わったのかも知れぬと考えることは少なくともできるが、そのこと自体、黄金時代が偶然的状況に過ぎぬことを証明するものである。
ークロード・レヴィ=ストロース「野生の思考」


▼東京・リオ五輪招致で汚職の疑い、仏検察が捜査
▼ガーディアン紙によると、ディアック親子は両都市と国際オリンピック委員会(IOC)の一部メンバーの仲介役を果たしたという。2020年大会の招致でディアック元会長は当初、トルコのイスタンブール(Istanbul)を支持していたが、日本のスポンサーがIAAFと契約を結んだことで考えを変えたとみられている。
▼国際常識的にいえば、アラブ世界のイスタンブールにチャンスを、ということでよいとおもったものでしたが、不自然に東京五輪開催決定に。背後にこういうことが起きていた疑いが。建前と現実のギャップは埋まらないけれど、まだ、参加することの立派な理念的な意義がまだそれなりにあるわけで、それを根こそぎ台無しにするような、なんでもかんでもカネがものをいうとしたい、東京五輪のネオリベラリズム!?



ロンドンで発掘・再建されたグローブ座舞台の天井を思い出したな

育つものすべてを眺めれば
完全性を留めるも、しかしそれも短い間のこと、
この巨大な舞台は芝居の幕を開くだけ、
星々が密かに交わす意見次第で成否が決まる。(15.1)
ーシェイクスピア『ソネット詩集』


Culte de l’évaluation ; le darwinisme social domine et assigne à tous et à chacun les plus strictes prescriptions de performance : faiblir c’est faillir. Nos fondements culturels sont renversés : tout postulat humaniste est disqualifié ou démonétisé car le néolibéralisme a le monopole de la rationalité et du réalisme. Margaret Thatcher l’a indiqué en 1985 : « There is no alternative ». Tout le reste n’est qu’utopie, déraison et régression. Les vertus du débat et de la conflictualité sont discréditées puisque l’histoire est régie par une nécessité.



“Even Pushkin, who could understand everything, did not grasp the real significance of Dead Souls. He thought that the author was grieving for Russia, ignorant, savage, and outdistanced by the other nations. But it is not only in Russia that Gogol discovers "dead souls." All men, great and small, seem to him lunatics, lifeless, automata which obediently and mechanically carry out commandments imposed on them from without. They eat, they drink, they sin, they multiply; with stammering tongue they pronounce meaningless words. No trace of free will, no sparkle of understanding, not the slightest wish to awake from their thousand-year sleep.”
― Lev Shestov, In Job's Balances: On the Sources of the Eternal Truths


日本古典を読む

日本近現代の思想史は学んでみると大変面白いのです。だけれど、個別的に、近現代の思想を読むとき、それは、日本近世の思想と比べて、非常に貧しいという印象をどうしても持ってしまうのですね。なぜでしょうか?わかりませんが、200年ぐらいの歴史の中でヨーロッパ語というまだ他人の言葉で書いた近現代の思想は、ピカソより後の形式の思考を強いてくる現代絵画のように切り刻んだ断片的な現在進行形で進みます。そこでは反復があまりに多く表象があまりに少ない。他方で、漢字の受容から少なくとも1000年の時を経たという、自分の言葉で書くことができた近世の思想の場合は、反復が非常に稀にしか起きずそこでの表象が豊饒だということにだんだんと気がつくことになります、ピカソより前の古典絵画に通じる自立的な想像的多様性、読む人間の尊厳が保たれるというか、そこで未来を思い出すというか...


Quelquefois je sais cela; que de moment que ce n'est pas, toutes choses confondues, aller à la vanité et au vent, écrire ce n'est rien. Que du moment que ce n'est pas, chaque fois, toutes choses confonues en une seul par essence inqualifiable, écrire ce n'est rien que publicité. - Duras (1984)
ときにはわたしは、こうだと思う。書くということが、すべてを混ぜあわせ、区別することをなどやめて空なるものへと向かうことではなくなったら、そのときには書くことは何ものでもない、と。書くとはそのたびごとに、すべてを混ぜあわせ、区別することなどやめて本質的に形容不可能なただひとつのものへと溶け込ませることでないとしたら、そのときは書くとは宣伝以外の何ものでもない、と。(デュラス「愛人」清水訳)


▼天皇と首相が靖国公式参拝できるように、と、憲法改定を求める署名運動。安倍応援団(日本会議と神社本庁)が目指す神道習俗化の方向をそのまま容認してしまうと、戦前と同じように、だんだんと権利のない国になります。
▼政権党の安倍自民党の代わりに任せられる野党が無いという言い方も、国家神道が復活するときはその意味が全然違ってきますよ。<語る>民主主義とは正反対の、もはや<選ぶ>国民ですらない、<戦う>国家に定位する<祀る>国民の誕生



木村敏「時間と自己」(1982)はなぜ読めないのだろうか?

説明の言葉が足りずうまく自分の疑問をいいあらわせないのだが、そういう自分の限界も書いておくことも大事だろう。木村敏「時間と自己」(1982)はなぜ読めないのだろうか?この本の結論のなかで、自分の考えを明確にするためにデリダの考え方と比べている部分を久々に読みかえしてみた。其の前提として、デリダの問題提起を紹介している。「デリダにとって、独り言において「自分が自分の話す聞く」という現象は、「自分が自分自身を意識する」ことの、つまり自己への現前としての自己意識一般のモデルの役を果たしている。この純粋な自己触発の行われる分割不能ないまの瞬間は、「或る非ー現在性」、「或る他性」との「或る純粋な差異」によって根源的に分割されている。この「純粋な差異」のことを、デリダは「差異」と「時間的遅延」の二重の意味をもつ「差延」(différance)という造語で表記する。」という。ここで、文字を読む知識人の「自分が自分の話すのを聞く」とはっきり書いたほうが、(私にとっては)、デリダの問題提起がクリアーになるというものだ。さて木村は、言葉が人間意識に介入しない禅の経験に注目して、これを純粋に理念的に構成していくことになる。「禅は「不立文字」ということを言う。しかし不立文字とは無意識ということではない。文字を立てない意識、自己とは言わない意識において、自己や時間はどのようなあり方を示すのだろうか」。だがここで、禅の意義について強調するならば、中国宋代にさかのぼると、書かれた文字ではなくそのかわりに話し言葉が人間意識に介入する場のことをみとめなければならない。人間意識の問題は、文字を読む知識人がいかに文字なき世界(話しことば)との関係を考えることになるのかという問題なのである。話し言葉しか介入しない禅の経験、祝祭、文字を読む「自己以前の自己」。おそらくは、これらは、(文字によってしか歴史意識が成り立たなかったのに文字に先行したとみなされてしまう)、純粋な声が主催する神話の場所と一致することの可能性がでてくるのである。ここで木村は「自己以前の自己」についてかんがえているが、「自己以前の自己」を自己と言うことはできないだろうという。それは、「自分自身の故郷である死への通路」と形容されている。だがいったい誰が「故郷」というのか?理念が「故郷」を言うのである。そうであるかぎり、(エクリチュール的理念に絡み取られないようにせっかく見いだした)話し言葉の自己や声の自己を再び【共同体的)起源の理念性に戻してしまうことにはならないのだろうか?木村はこういうけれど。「自己が自己自身でありうる可能性の条件を、自己が将来的に自己自身に到来することとしての自己触発に見たハイデガーと、自己を過去把持的に痕跡として保持することとしての自己触発に見たデリダとの、この興味深い対比について論じることは、本書の範囲を超える作業である。(・・・)自己以前の自己を、自己と言うことはできないだろうか「デリダは、自己への根源的な現前の根底には、より根源的な非現前としての痕跡があり、この痕跡のために生じた時間的なずれとしての差延が現在を派生させるのだという構想に執拗に固執する。しかしこの構想は、究極のところ個別的生の有限性という制約を脱しきってはいないのではないだろうか。祝祭の瞬間においては、痕跡にひきずられない現前、差延を絶対的に免れた現在の自己が忽然と出現しうるのではないだろうか。」。文字から解放されることをおもう、文字の奴隷である知識人は、いかに文字に先行した世界と自己との関係を語りうるのだろうか?木村がみずから語っている・・・


朱子「中庸章句」は「論語」を抽象化・哲学化しました。そのなかでこんな文があります。「人・物の性」すなわち「日常事物の道」。なにかすごく普遍的な理念を言っていることを察します。が、この一文は日本語に言語化できないらしいのです。このように無分節の世界を語る朱子には、われわれが言説化できない世界がある、と、子安氏の「論語塾」で学んできた所であります。知識革命をもたらしたほどの伊藤仁斎でも無理?しかし農民出身の石田梅岩がただ一人、言説化できたというのですからね、それはなぜか。神秘主義的な無分節の世界のことは語られますけれどね、一切のヒエラルキーを崩すほどの精神の平等については、ヒエラルキーのなかで最も酷く差別された階層の者でなければ語ることがむつかしかったのではないかということは十分語られてきたでしょうか。こういうことを考えるとき、正直難しいけれど、漢語という言語は思考にとって非常に生産的であると気がつきます。


大変有り難く感謝していることなのですが、対抗的カルチャーの役割を担うフェースブックというこのメディアのおかげで、現代日本美術の批評家の問題や現代日本画家の作品について毎日考えることになりました。現代の日本美術というのは、圧倒的に優位なヨーロッパ芸術に覆われた環境のなかでアーチストが、あえて本質は同じであるとしてヨーロッパとアジアとの間を無分節化したあとに、古典作品を参照しながら、再びアジアのアートを構成していくものではないだろうか。それは、モノへ回帰しているようにみえるが、決してそうではなく、本質なき形を考えさせるコトの側からの問題提起であるようにわたしはおもうのです。

海外にいたときは、村上氏の作品がいくらで取引されたという話しかきいたことがないと友人たちは言っていました。どんな作品かについて語られることが全く無いのよねということだったのですが。東京に来ると、海外で高くみとめられたMURAKAMIという名の、(なんでもかんでもいいから流通するものなら正統化されるのだという程度の)、無差別性を理念化した金箔の偶像を称える美術評論家の、(ちょっぴり自虐的に開き直った)非常に排他的な、同じ調子の話しぶりに正直驚いたものです。多分自分が無知なのだろうとあきらめて黙って聞いておりますけれど、いつのまにかこちらも自虐的になっているという(笑)


憎悪を交換する東アジアの権威主義体制 ?安倍応援団(日本会議と神社本庁)が目論む憲法改定と神道習俗化であれ、逆の方からやってくる、中共党が進める帝国化とマオイズム儒教化であれ、政治が全体主義を文化にする錬金術である点で両者の間に本質的違いはない。互いに憎みあうほど、互いに権威を大きくできるような、復活国家神道とマオイズムの結婚は、権利のない国を作り出していくことに!?


「その時、腹中(ふくちゅう)は大海の静々たるごとく、青天の如し。その雀の啼(な)ける声は、大海の静々たるに、鵜が水を分って入るがごとくに覚えて、それより自性見識の見を離れ給いしとなり。」
「形に由るの心」
―石田梅岩


Books are not made to be believed, but to be subjected to inquiry. When we consider a book, we mustn’t ask ourselves what it says but what it means. - The Name of the Rose


'What is love? There is nothing in the world, neither man nor Devil nor any thing, that I hold as suspect as love, for it penetrates the soul more than any other thing. Nothing exists that so fills and binds the heart as love does. Therefore, unless you have those weapons that subdue it, the soul plunges through love into an immense abyss. '― The Name of the Rose


"How beautiful ugliness is !"

'Among demons, madmen, horrible enemies, and disquieting presences, among horrid abysses and deformities that verge on the sublime, among freaks and the living dead, we discover a vast and often unsuspected iconographie vein. So much so that, on gradually encountering in these pages the ugliness of nature, spiritual ugliness, asymmetry, disharmony, disfigurement, and the succsession of things sordid, weak,vile, banal, random, arbitrary, coarse, repgnant, clumsy, horredous, vacuous, nauseating, unpleasant, grotesquw, abominable, odious, crude, foul, dirty, obscene, frightening, abject, monstrous, hair-raising, ugly, terrible, terrifying, revolting, repulsive, loathsome, fetid, ignorable, awkward, ghastly, and indecent, the first foreign publisher to see this book explained; "How beautiful ugliness is !"'







バレンボイムを称える
鑑賞者の聴く立場からすると、マーラとワーグナーはお互いに非常に遠い感じがするのだけれど、ブルックナーを聴くと、マーラとワーグナーのこの両方が同時に聞こえてくる。と、三者の同じ平面を想像できるからほんとうに不思議。このブルックナーが色々な要素から成り立っていることを書いていたが、そのバレンボイムの演奏のおかげでバッハが響いてきたり(ワグナーとは別の)まるでイタリア・オペラのように楽器が歌うのがわかるような楽しさも。他方でワグナーをきくとワグナーにしかない固有なものがある。マーラも同じ。こういうことは絵画鑑賞にも起きる。新古典主義とロマン主義・崇高は共通点がないようにみえるが、それは純粋に理念的に構成された視点でみるから、互いに連続性がないと思いこんでしまうのであって、実際に美術館に行けばよろしい。新古典主義の部屋からロマン主義の部屋までの中間の部屋たちを通過していけば、いかに一貫性のある共通のものがあらわれたりあるいは消滅したり単独のものがいきなり現れたり再びその前の時代のものが現れたりするかがわかるというもの。芸術において対立はなく、ヴィットゲンシュタイン風にいうと、前の時代のゲームの規則と後の時代のそれとが複雑に重なり合っていることを実感するときがすごく嬉しい。"Neoclassical tastes coincided simultaneously with the presence of the aesthetics of the Sublime, but basically we always had the feeling - on looking at things ;from a distance' - that each century possessed consistent characteristics, or at most a single fundamental inconsistency'. (Eco)


フーコ「監獄の誕生」(1975)を読む

バス車内の広告ポスターに、「美しい国を守る〜未来へと繋ぐ若い力〜 自衛隊幹部候補生募集」と。ヤバイ、今までのと比べて相当ヤバイという感じ。英国では勇気が試される戦争ゲームに君も活躍してみないかというスポーツ感覚のノリノリの宣伝が深夜テレビで流れてきましたが、「美しい英国を守れ」という文化論的な説得による勧誘はありませんでした。なぜこの日本だけ、戦前もどき国体スローガンがそのままの形で出てくるのか?▼安倍首相の言葉を使った選挙ポスター「美しい国を守る」を思い出すと、この自衛隊幹部候補生募集のポスターは国民全員を名宛人にしているのかしらと疑います。この疑いを持つこと自体が大げさだといわれて恥ずかしくおもわされてしまうというプレッシャーが現在ありますね。それは、岐阜大が国歌斉唱しない当然の方針に馳文科相が「恥ずかしい」と浴びせる非難のプレッシャーと同じと思うのです。▼法律や宗教の次元ではなく、国民道徳・国民文化そしてナショナリズムの次元で罰せられるプレッシャーのことを、「至高者」のブランショと「監獄の誕生」のフーコは分析していました。例えば功利主義の言説ー>その道徳化ー>国民道徳化。近代とは、監獄の内と外の間に境界がなくなる体制。そうして排他的で好戦的な近代ナショナリズムが最終的に成り立つのは、国家に敵対する他者を罰するという近代の空間においてです。▼「歴史修正主義者安倍や日本会議の連中が呼び出している「日本」とは、まさしく日本主義的「日本」で、そのときの彼らの日本主義は独善的で、薄っぺらな反知性主義的な情緒的ナショナリズム、一番始末の悪いナショナリズム」(子安)▼彼らの憲法改正のねらいは、神道の非宗教化と国家神道復活。また現在まで批判されるずに無傷のままにある、天皇制的構造論の山口や網野がやった神道を文化論として還元する試みも、憲法改定と同じ危険な効果ー祀る国民・戦う国民を形成するーを齎す危険性のことを言っておこうと思います


子安氏のツイートより

「大川周明と「日本精神」の呼び出し」の前篇というべきものをやっと昨日語り終えた。これからあらためて整理し、ブログに載せるつもりだ。いまここで一言だけいっておきたい・
1920年の大川において「日本」は「復興アジア」とともに呼び出されることである。「アジア」なしに「日本」が呼び出されるのではない。むしろ「アジア」が先にある。その時期、大川はアジア主義的革新者であったと私は考える。
その大川が「アジア」をただ背後においた日本主義的「日本」の呼び出し者になったとき、彼は昭和のファッショ的革新者になるのである。
現在の歴史修正主義者安倍や日本会議の連中が呼び出している「日本」とは、まさしく日本主義的「日本」である。そこには「アジア」はない。安倍らの日本主義的「日本」の主張は「アジア」をもっていない。ただ政治的、経済的関係性において「アジア」はあっても、精神的、思想的な意味において「アジア」は彼らに全くない。そのとき彼らの日本主義は独善的で、薄っぺらな反知性主義的な情緒的ナショナリズムになる。しかしこれが一番始末の悪いナショナリズムである。


わたしにとっては渋沢さんも外国文学の優秀な紹介者というだけの存在ですが、矢川さんがブレヒト「子供十字軍」を見事に訳したのは、渋沢さんの東大で人民戦線を学んだからだろうかということをかんがえます。作家の間のそういう感化の大きな運動って面白い。で、この本を読ませたときのことですが、訳している矢川さんが、わたしの大切な教え子の自殺したおばさんだというので色々聞き出してみると、彼女は平田篤胤の高弟の末裔だとわかりました。ここからはわたしの推測ですけれど、モダニストの作家は自分に先行した二百年ぐらいの文学・思想の歴史を全部捨てたのかもしれず、それはすごいことだとおもっています。




弁護士Izutaro Managiさん(Fb)より

東京新聞(2016年3月4日付)
3月4日付の東京新聞に、コメントが載りました。
結果を回避しなければならなかったという論点について主として話を聞かれ、もっといろいろと話したですが、こんな感じでまとめていただきました。
原発の操業も車の運転も同じで、危険を認識したら、ハンドルをきったりブレーキをかけたりするように、運転を止める以外に危険を回避する方法がないのであれば、運転を止めるのが当然であって、それをしなくてよい理由はない、という話をしました。




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二月2016年 (3) 言葉と表現と射影のブログ/BIGLOBEウェブリブログ
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