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zoom RSS 2016 April (2)

<<   作成日時 : 2016/05/03 01:38   >>

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1981年初版だったか...。多分80年代後半でなく90年代初めに読んだようにおもうが、読んだときは、「アンチ・オィデプスー分裂症と資本主義」も読めるようになるのではないかと期待したものだった。この本はそれ自体として読むに値するとおもう。これを読んだとき、時間の意味を考えた。そして時間の「構造」ー時間そのものの分裂ーを理解して驚いた。単純化を恐れずにいうと、分裂は多元主義である。時間が<われわれ>の拠り所となるのは、われわれの<あいだ>に分裂を生産するからではないか。
「このような未来先取り的、予感的、先走り的な時間制の構造は、さきの「ポスト-フェストム」概念と対置する意味で、ラテン語で「祭の前」を意味する ante festumの語で言い表せるのではないかと思う。もともと、この「アンテ-フェストム」の概念は、ルカーチがブルジョワジーのイデオロギーを「ポスト-フェストム的意識」と規定したのを受けて、j. ガベルがプロレタリアートのイデオロギーを名づけた「アンテ-フェストム的意識」の概念にヒントを得たものである。ポスト-フェストム的時間性を特徴とするメランコリーないし非分裂性妄想病がブルジョワジー的にな意識性に、アンテ-フェストム的時間性を特徴とする分裂病がプロレタリアート的な意識性に、より多くの親近性を示すことは、決して偶然ではないだろう。」(木村)


十六世紀以来、性の「言説の中への配置」は、制約を蒙るどころか、反対に、いよいよ増大する煽動のメカニズムに従属していた。−フーコ「知への意志」−


「こう申せばおまえも分るだろう、悪徳こそわれわれ人間に固有のもの、つねに自然の第一法則なのであって、それに比べればどんな立派な美徳だって利己主義的なものでしかなく、分析してみれば実は美徳そのものが悪徳なのだということが。」
ーサド「悪徳の栄え」ー

「悪徳の栄え」であれ他の本であれ、何が「悪徳」で何が「美徳」は定義されることはないーそもそも「徳」という日本語がはっきりしないー、それはなぜか。結局サドが語っているそれらは、認識の次元に属していない行為だからだ。「悪徳」は人間の行為だということがサドによって発見されたということは、博物学の分類し整理し表にするような認識の対象ではないということを意味していた。だから、「悪徳」が「人間に固有のもの」とされるのは、「悪徳」が「自然」に拠るからだというのは、よくかんがえると辻褄が合わない。「悪徳」は認識不可能だと言われているのだから、この不可能性の問題を解決する為に、再び、認識の不可能性を推し進めた「自然」の認識の体系に拠ることは無理があるだろう。あえて「悪徳」を「自然」の秩序として認識しようとすると、思考され得ないこの表層は、言葉の厚い秩序に深く絡み取られることになる。(サドの小説に顕著な終わりなきお喋りというのは、わたしはわかりませんということを伝えるシグナルである)。フランス革命の前夜、終わりに来た自然を物語る表象の言説と、はじまろうとする欲望しか見えない言説のあいだに、映画の世紀に先行して、サドという特異点が存在していたことに驚きを禁じ得ない。

フーコのサドの読みも、理論的前衛t単独性の対立がある

n次元をそなえた平たい多数多様体は非意味的作用的かつ非主体的である。それらは不定冠詞、いやむしろ部分冠詞によって指し示される。これは"いくらかの"まむぎ du chiendent である、"いくらかの"リゾーム du rhizome であるといったふうに・・・。


政治の原点に、<セックスと芸術と変容>を語る想像がある。欲望の解放について語るこの想像に、<あるべき日本の姿>へのこだわり(プラスこだわる自分)を示したら、どう操作するかという話ばかりとなる. the original political vision; sex,art and transformation

Politics today is largely a question of management and administration. Blake, by contrast, viewed the political as inseparable from art, ethics, sexuality and the imagination. It was about the emancipation of desire, not its manipulation. (Terry Eagleton)



江戸オペラ

光源氏(バス)「今度のラブレターに歌をいれてみたい。手伝ってほしいが、相手になにを言ったらいいのか?」
宣長(テノール)「ただ心に思ふ事をいふよりほかありません」
光源氏(バス)「心に思ふ事、一体なんだそれは?」
宣長(テノール)「歌の本体でございます」
光源氏(バス)「歌の本体。はじめてきいた話だ。ラブレターよりもなんだかそっちの方がおもしろそうだ...」


安倍首相から「私は立法府の長」と告げられた屈辱は、大英帝国から受けたアメリカやアイルランドの人々の屈辱と違わないのである。この屈辱からなにをかんがえるべきなのか?専制の権力に対して、歴史修正主義者が正当化する過去の日本の戦争が人類に対する犯罪だったこと、権利のない国に反対すること、精神の自由のために誰一人も飢えてはならないと訴えたアジア憲法をつくる

道徳性を成り立たせる経験<知>と、美的判断を成り立たせる経験<感覚>。仁斎と宣長

ホ〜ホ〜、お久しぶり!元気?バザンについて語りたいのですけど、ウロウロウヨウヨと迂回していてはじめられないでいますニャ。挨拶だけはちょっとしておこうとおもいました。ところで、バザンさん、あなたたちは、民族主義の全体的幻想から戦争が拡大していったとかんがえて、どの民族語にも依存しないような、しかし映画の普遍言語としての映像言語の意義を、啓蒙的に説いたといわれます。そういう政治の目的から離れたところで、50年代にハリウッド映画の作家達を発見して60年代に経験<感覚>に依る映画を次々につくっていくことになったゴダールたちの「芸術至上主義」をどうおもいますか?と、バザンさん、そちらにいくときは、ワイワイガヤガヤと行きますからね。



本居宣長

すべて天地の閧ノあることはよきも惡しきもみなかみの御心より出づるものなるが萬のわざはひ起りて上も下も安からぬ時も荒ぶる神の御心を(歌もて)慰め奉ればおのづからそのわざはひしづまり直りて穩やかになるは力をも入れずして神をあはれと思はするコなり(石上私淑言)




「映画史」の講義で語っているゴダールを読むと、かれは詩を書いている、と同時に、批評を書いているという印象をもつ。しかし詩を書いたものなら分かることだが、詩と批評を同時に成り立たせることは非常に無理なことであり恐らく不可能なことなのだ。そんな同時性は破綻してしまう。だからこそ同時性というのは、理念的に構成された次元の同時性のことである。ゴダールの場合それは「映像」と彼が呼ぶ働きなのだろう(モンタージュでいわれるのはそういう同時性についての理念)。本居宣長も、詩と批評を同時に書いたようである。今年訪ねた松坂の(骨が無い)墓のお寺に文化サークルの場があったようだが、そこで彼は(決して上手いといわれない)歌を書いていたのである。宣長の歌についての批評の書き出しはこういうものであった。「歌は天下の政道をたすくる道也、いたつらにもてあそび物と思ふべからず、この故に古今の序に、この心みえたり。此義いかが。答曰、非也、歌の本体、政治をたすくるためにもあらず、身をおさむる為にもあらず、ただ心に思ふ事をいふより外なし、其内に政のたすけとなる歌もあるべし、身のいましめとなる歌もあるべし、又国家の害ともなるべし、身のわざわい共なるべし、みな其人の心により出来る歌によるべし」 (本居宣長著『排蘆小船』(アシワケオブネ))。ここで、「ただ心に思ふ事をいふ」といわれていることは、ゴダールが言う「私自身の感化というものを少しづつ獲得しようと努めること」に重なるのである。ゴダールと宣長....遠いものを近づけてみよ



歌の本体、政治をたすくるためにもあらず、身をおさむる為にもあらず、ただ心に思ふことをいふより外なし。
『排蘆小船』

阿波礼(あはれ)といふ言葉は、さまざま言ひ方は変りたれども、その意(こころ)はみな同じことにて、見る物、聞くこと、なすわざにふれて、情(こころ)の深く感ずることをいふなり。俗にはただ悲哀をのみあはれと心得たれども、さにあらず。すべてうれしともをかしとも楽しとも悲しとも恋しとも、情に感ずることはみな阿波礼なり。
『石上私淑言』巻一

さてそのもののあはれを知るといひ、知らぬといふけじめは、たとへばめでたき花を見、さやかなる月に向ひて、あはれと情の感(うご)く、すなはちこれ、もののあはれを知るなり。
『石上私淑言』巻一



日本会議の新右翼にいかに反論していくか、その反啓蒙主義的対抗にたいしてどのような抵抗の言説を形成していくか?安倍の政治に反発する人々のなかに、まさか国家神道の復活など無いよと予言してしまうひとたちが結構多いことに驚きます。たとえば靖国神社の国有化を求めた靖国神社法案は過去に五度も提出されている事実をどうみるかでしょう。戦争している国家の敵対的他者に対する揶揄がいかに危険であるかということ、そして揶揄の自由を守ることについてフランスの伝統的なナショナル・アイデンティティーである表現の自由を持ち出すことがいかにズレてきてしまったことを理解できるならば、あちら側でエスカレートしている問題は、こちら側の問題として置き換えて再構成していくことが大切です。天皇と首相の靖国公式参拝は憲法が禁じる政教分離にあたらないとするような憲法改正がいかに危険であり、その参拝の自由を(神道は古代からの習俗という)捏造されたナショナル・アイデンティティーによって正当化することの深刻な問題がみえてきます。新右翼の反啓蒙主義的対抗はフランスでも日本でも展開していますが、イギリスの新右翼運動の場合は、90年代にイスラムを揶揄したと考えた英国イスラム教徒たちがその本を焼きはらう抗議に反発する形で、展開されることになりました(マルチ・カルチュアリズムの無政府主義から、英国の伝統的ナショナル・アイデンティティーである法の支配と言論の自由を守れ)。ここで四年間のロンドン時代のことを思い出すと、マルチ・カルチュアリズムの精神を尊重したBBCがイスラムに配慮しているように、メディアが揶揄の自由を抑制することが不可能ではありませんでした。ロンドン市長のカーン氏は(前々市長リビングストーン時代の)マルチ・カルチュアリズムへの信をもって現れてきたといわれています。同様に、安倍は東アジアの批判に耳を傾けて靖国公式参拝を我慢できるとおもいます。



【従属理論】周辺地域から中心地域への余剰流出という搾取関係に注目し、支配と従属の点から発展途上国を分析する理論。中心―周辺の二極構造理論という性格をもつ。世界システム論へ発展した。

【世界システム】ウォーラーステインの用語。16世紀にヨーロッパに成立し、複数の国家からなる近代資本主義システムのこと。今日では、全世界がこのシステムに包摂されており、そのなかは中核国−半周辺国−周辺国という三層構造となっている。最も強い影響力をもつ国家はヘゲモニー国家と呼ばれる。

【世界都市】世界システムの結節点となる都市のこと。グローバル金融都市や多国籍企業の管理機能あ置かれた都市をさすことが多い。ニューヨーク、ロンドン、東京などがあげられる。

【公共財】非排除的で競合性が存在せず、共同消費がなされるような財。道路、橋、公衆衛生など。対価を支払わなくても消費でき、フリー・ライダーを防ぐことが出来ないため、国家などの公的部門によって供給されることが多い


【パターン変数】パーソンズの用語。行為者が行為を行うときに選択する5組の二項対立選択肢。@感情性/感情中立性、A自己志向/集合体志向、B個別主義/普遍主義、C属性主義/業績主義、D限定性/無限定性(対象の特定のみの側面に関与するか、多くの側面に関与するか)である。

【主意主義的行為理論】パーソンズの行為理論。実証主義の伝統から行為の条件的要素を、理想主義の伝統から行為の規範的要素を引き継ぎ、それを功利主義に由来する目的―手段図式で統合しようとした。


【予期的社会化】マートンの概念。ある人が未来の状況を予期すること(約束された地位への期待、没落への恐怖など)によって、現在の意識・心理を規定する要因となること。

【〈子ども〉の誕生】アリエスが『アンシャン・レジーム期の子供と家族生活』にて論じた。ヨーロッパ中世では子どもは〈未成熟な大人〉とみなされ、固有の〈子ども〉という概念がみとめられていなかった。〈子ども〉概念が誕生したのは近代家族の生成にともなうものであるという主張である。


【儀礼的(市民的)無関心】ゴフマンの概念。あえて他者から伝わるシンボルを無視すること。都市で見知らぬ人による危険を防ぐという意味合いが強い。


【スティグマ】他者や社会集団によって押し付けられた「好ましくない違い」を示す印のこと。ゴフマンが『スティグマの社会学』で呈示したもので、身体的なもの(障害、性別など)、記録的なもの(前科、離婚歴など)、集団的なもの(エスニシティなど)があり、それによって社会的不利をおう人がいる。


【ベバリッジ報告】戦後イギリスの福祉国家形成の基本骨子を示した報告書。1942年に「社会保険及び関連書サービス」という名で王立委員会より出され、完全雇用や家族手当、国営医療の実施、ナショナルミニマムを基本原則に社会保障による所得保障を提案した。


【市場化】@社会主義国家の経済活動が市場化すること(たとえば中国の社会主義市場経済)。A国家が運営する公共サービスや、家庭内で行われていた家事サービスが商品化され、民間が担うようになること。


【社会的分化論】ジンメルの主張。前近代は個人どうしの相違が少なく、分化の諸形式は相違が大きい。近代ではその逆で、人々の差異が増大するが、分化の諸形式は似てくる(代表的なものとして官僚制がある)。

【道具的理性】与えられた目的に対する手段の適合性だけを問題にし、その目的が合理的かどうかを問わない理性のあり方。ホルクハイマーが近代における理性のあり方の変質について論じる際に用いた。

【部分的/全体的イデオロギー】マンハイムの知識社会学の概念。前者が個人的利害やパーソナリティによる虚偽意識、後者が社会構造や階級的利害と結びついた虚偽意識のこと。いずれも時代遅れで人々に現実を見えなくさせる。

【消費社会】人々が消費に対して強い関心をもち、高い水準の消費が行われ、それに伴う様々な変化が生じる社会。1970年台以降の先進国にみられ、政治的関心の弱化、過剰な消費による環境問題の深刻化、消費が記号的な遊びが中心となるなどの指摘がなされている。

【ネットワーク型組織】自律的な単位による、水平的で柔軟な共同関係をもとに構成される組織のこと。変化の激しい環境に柔軟に対応するために、高度情報化社会に適合的だと言われる。

【ラベリング理論】逸脱について、規則に反した行動をした人に、ほかの人々が〈逸脱者〉というラベルを貼ることで、〈逸脱〉が生み出されるとする考え方。ベッカーによって論じられ、構築主義の一源流となった。

【アサイラム】全制的施設。ゴフマンの用語で、刑務所や精神病棟、孤児院、修道院など、外部から遮断され、類似の境遇にある多くの人々が閉鎖的・形式的・画一的に一括される空間のこと。規格化と自己像の剥奪という境遇に対して、「裏面生活」による被管理に対する抵抗が行われる。

【文化資本】個人や集団が有する文化的有利さの可能性の大小のこと。ブルデューらによれば、当人の階層や家族をはじめとする社会環境の中で伝達される知識や言語能力などのハビトゥスから構成されているとし、文化的再生産のメカニズムを議論する際の鍵概念である。

【形式合理性/実質合理性】ウェーバーの類型論。実質合理性は、ある特定の価値観点を設定し、その達成度合いをさす。形式合理性は、行為や思考の過程が技術的に正確に計算される程度のことである。後者は近代化にみられることで、手続き論への傾斜や社会に対する制御力向上などがあげられる。

【理念型】ウェーバーが、社会科学において構成される概念の特徴を強調するために用いた語。社会科学の概念は現実をありのままに再現したものではなく、研究者の観点から見て「知るに値する」ような要素を現実の中から取り出して再構成したものをさす。


江戸思想(昭和思想史研究会)

中江藤樹とはだれか?

王陽明への称賛は明治における顕著な傾向でした。内村鑑三において王陽明はキリスト教的信仰にもっとも近くまで達した人物として高い評価をえました。「王陽明は、孔子にありし進歩性を展開し、そして彼をその光をもって理解しようとした人々のなかに希望を吹き入れたのである。「近江聖人」は、今や実践的の人間であった」。「近江聖人」とは17世紀の中江藤樹のことです。中江の逸脱した異端の学にならざるをえなかったその思想は、陽明学の言説を多様化しました。かれは、脱藩し逸脱することによって、農村で実行した異常な孝行によって、儒者になることができたのです。彼が生きた知識の世界は閉じた世界ではありません。1640年は明末の終わりですが江戸の始まりです。この時代に長崎から明からの書籍が入ります。このとき中江は1640年は皇帝が与えた中国の「孝経」を再発見しますが、「「江戸思想」を読む・第一回」(子安氏)で検討されたことは、中江はそれを自分の心のテクストにしてしまったことの思想史的意義です。大まかに整理しますと、それまでは、「孝」観念の意味内容は、母子一体性の本源的な記憶(すべてのひとがもつ記憶)という内観法的な回想によって現前化することを求める行法心学との関係において説かれていました。私の理解では、(中江が自分の心のテクストにしてしまった後は)、「孝」は、「だれにも生きることが可能であり、それによって誰もが人間的価値をもつことが初めて可能となる」という心の平等をあらわす<名>となっていった、と考えてみました。この「孝」という<名>から、中江の感化の運動と彼の表現をみてとることができます。「1600年代の東アジア世界の明代儒学・心学思想を介してしか、徳川日本からのアジアにおける普遍的思想を表現できない」というアジアの視点で考えるこの問題提起こそは、アジアを完全に忘却した人間(安倍)が権力の中枢にいる21世紀日本を批判していく大切な方向性を与えると思いました。(本多)


熊沢蕃山とはだれかー1600年において初めて言われる言説は何か?

1600年に、<線>ーそれ以前とそれ以降との間の断絶ーを引くことの思想史的な意味はなにか?1600年に成立する近世という社会とは何か?公開性すなわち学問と読書(書籍)が公開されるようになったが、伊藤仁斎など有名な儒者たちが現れるのは、17世紀初頭である。宋明儒学の体系という漢字文化圏の東アジア思想の普遍的な思想体系(学問と知識の体系)を通じて、東アジア社会が自らを位置づけていく。この宋明儒学の体系を学ぶことによって(受容することによって)、江戸思想を、普遍的な言説にすることができた。そうして武士が知識層となったのは、1800年以降である。17世紀前半の熊沢蕃山のようなオリジナルな武士は、これから武士の教養的地盤を確立すること、武士を知識層にしていくことの意味をとらえていた。それにもかかわらず、かれの言説は自己自身に矛盾していたという問題がある。子安宣邦氏によると、熊沢蕃山について考えることは挫折した議論となってしまうが、なぜかと考えること自体興味があるという。「士の学」という儒学の位相。ある理念型を構成しながら社会を構成していってしまう、(ヨーロッパ思想の丸山真男に顕著な)アナクロ的な<ズレ>の問題が検討された。また中江藤樹との差異についても考えることになった。(本多、昭和思想史研究会)


子安宣邦「帝国か民主か」(2015、社会評論社)を読んで理解したことは、グローバル資本主義の時代の「帝国」の領域はどうしても包摂の靖国的な形態をとるだろうし、「民主」の運動は常に沖縄的であること、したがって多孔性の状態に意味を見いだすことになるのではないかということである。東アジアから起きる新しい経験に、いままで言われなかったような新しいコンセプトを与えることが必要となってきたことだけはたしかだとおもう。
image and text by takashihonda


なぜ代補は危険なのか。(…)代補という外部が開かれるや、その構造に含意されているのは、代補それ自体が「類型」を押されてその分身に取って代わられうるということ、代補の代補が可能であり必然であるということ、これである。(『散種』)


プラトンが夢見るのは、記号なき記憶である。言い換えれば、代補なき記憶である(『散種』)





釈 迢空( 折口信夫)の「東京を侮辱するもの」を読む

詩を解釈するためには折口についてもっと調べる必要があると感じています。この詩にかんして感じたことを素直に書くと、わが魂が祀られる安心な場所がないと、山奥の木ー異界の入り口ーのまえで嘆いて祈っているような、あるいは憤って抗議しているようなそんな孤高な詩人の姿を思い浮かべますね。絵になります。が、昭和10年代の彼の立ち位置から現在のわれわれに向かって「おれの感情」の何々を伝えようとしたいのか、それを知ろうとするとつきはなされてしまうと感じるのは私だけでしょうか。折口がロマンテイックに救いを求める、常に白黒はっきりしない「古典」への依拠もかなり曖昧です。そもそも、その「古典」こそは曲者で、昭和全体主義が解釈しはじめた日本回帰の掌の中にいるままではないのかということをどうしても考えることになります。そのままの古代なんかありません。ただ解釈された古代の言説しか存在しないこと、同時にそれが政治であること、詩人が知らないわけがありません。それならば結局、救いなきところに真の救いがあるというアイロニーのほかに何が言われているのか?謎は残ります。「われわれの委任状」というものに一体何を託したかったのかが明らかになりません。ただはっきりとしていることは、この時代は、日清、日露戦争の問題が棚あげにされたまま、日中戦争に向かって自覚なく総力戦に巻き込まれていくことになるという時代でした。私の理解では、昭和10年代のその方向はまさに、知らないうちに勝手に進行したイラク戦争の協力が批判されることがまったくないままに、新安保体制の日本がアメリカ軍の一部となって「地球の裏側」まで行って戦闘する体制へシフトしてきた現在の方向と重なり合うのです。それを推進する安倍応援団の日本会議はいきなり出てきたのではありません。驚くべきことに、戦前からの直接の繋がりをもったこの政治団体は、イラク戦争で「日本国民も犠牲を払うべきだ」という世論を背景にその存在感を増したと指摘されています。その文化政策は、昭和10代を繰り返しています。(政治を文化論的言説(救済神学)へと還元してしまうこと。例えば「美しい日本」という文化論的言説から、<神道は習俗です>、<天皇と首相の靖国公式参拝は違憲ではなく、もし違憲だというならば問題のある憲法を改定すべきだ>とする声がなんとなくあっちこっち広がってくることになる年かもしれません)

「東京を侮辱するもの」 釈 迢空( 折口信夫)

山に 一本、まじりまじりと おれを見てゐる木がある。

世界の隈に、そんな凝視者を 考へるだけで 赧くなる

われわれの青空は、蜻蛉をばら撒いた飛行機だ。

あの音の ぎやうぎやうしさ。この都会を侮辱してゐる。

この国の古典は、つねに怪奇に 澱んでゐる。

ところが 現実は、軽弾みで、ぷりぷりと跳ねかへる

われわれの委任状は、たしかに軽蔑されてゐる。

雄弁大会の群衆で 渦を捲く 国会議事堂

地下鉄に はためく春の闇―。をや 鶯だ―。

その声―幻想におしつけられた現実

びるぢんぐの深夜へ、ふりかへる おれの感情

おれを 侮辱してけつかる

おせつかい爺め―。日本の沓だ はけとぬかす。

ろくでなしの 空想でこさへた だぶだぶの沓をよ

君に 一本の たばこを捧げてもいいだらうね。

九段の阪の かげろふの春がさせる 気まぐれだよ。

 ―立ちんぼ君

にぎりこぶし。がらす戸を叩きのめす感激。

其瞬間を予期する つまらなさで ひきさがる
 
 
昭和十年四月


あなたの顔が、魂そのものの人格として立っているかどうか。
大野一雄・稽古の言葉


ハイデガーの(中略)われわれの文脈における重要な点は、「公的なものの輝きがあらゆるものの光輝を奪う」という皮肉で邪悪な響きを持つ命題が、まさに問題の核心を突いており、実際にはそれが現状の最も簡潔な要約にほかならないという点にある。(『暗い時代の人々』はじめに)

私的領域と公的領域の相違は完全に消滅し、両者はともに社会的なるものの領域に置かされてしまったことを知っているからである。公的なものは私的なものの一部となり、私的なものが残された唯一の公的関心になった。このため、生活の公的分野と私的分野はともに消え去った(『人間の条件』9)

私的領域と公的領域の相違は完全に消滅し、両者はともに社会的なるものの領域に置かされてしまった。これは近代の問題なのだけれど、俳優たちに会って話を交わすと、この問題が話題にならなくともはこの問題について私よりも遥かに考えているのだといつも気がつく。社会的なるものの領域を身体から考えざるをえないのだろう

人間の条件か。人間が読む条件を問う、あるいは読む人間が考えることができなくなってしまう条件を問う、だね

ろくでなし子裁判の意味を読む
秘語とは仲間うちだけに通用する言葉で、公言がはばかれるような言葉です。ところが、自らの秘語を公にさらす司法官僚あるいは官僚化した裁判官の中には、恥を知らずに合理的に判断しようとはしない者達がいます。公の秘語からは、なにか極端に行くナショナリズムの発想に非常に近いものを思います。「各造形物は一定の芸術性・思想性を有し、それによって性的刺激が緩和されるといえる。」(判決文の重要な一部)という彼らのジャーゴンjargon(仲間内にだけ通じる特殊用語)について、私はそれを明らかにする力も十分な実定法的知識ももっていません。ただこういうケースではそれはいらないとおもいます。深読みを避けながら、私なりの<思想>的読みから、ろくでなし子裁判の意味を読むのです。法の論理が名指すところの、「思想性・芸術性」を、<尊い固有なもの>と翻訳してみましょう。そうすると、司法官僚化した裁判官たちは、<おのずと神聖な本質が現れるように、自ずと尊い固有なものは現れるのだ>という信条にとらわれていることがなんとなくみえてこないでしょうか。だがその<固有なもの>は、個々の人間の抑制しないという怠慢(努力不足)のせいでわいせつな性的刺激で曇らされてしまうと言うのです。そのときは、その表現行為にかかわったその人格的担い手を処刑する使命が国家にある、と、法は自らの(めちゃくちゃな)規範的教説を自らのために展開していくのですね。ここで私は問いたいのです。なんのために?と。共同体をまもるために、ですか?しかし本当にもしこれでは、本来的に共同体の清らかな心が、外部からきた「外国人」の存在によって汚されてしまうと叫んで、これらの「異質な」者を排除せよと訴えてきた街頭のスケープゴートの態度(感情)とそれほどかわりませんよね。やれやれ、固有性の教説に絡みとられていく近代の意味の病 をみるおもいです。排他性を根底にもつ、この国家的教説の自己同一性の論理にたいして私は常に抗議したいのです。



日本文化大革命、恐るべし。70年代からの翻訳によって培われてきた日本フランス思想的なものは、世界同時性という自負は眉唾物で、(ヨーロッパのファシズム批判を展開した)概念を利用して日本の暴力について言及することに積極的でないという限界にぶつかっているようにみえます。が、ここでは日本フランス思想的なものを擁護すると、それは、構成的で良く統御された文章をもって、非常に多義的で不確定なことを語るという、心のが敏感でアイロニーが鋭く働かないと読むことが難しい思考の形式を形作ったと思います。それは、聞き取られない声なき声であるが、小さな人間が大事なことを喋るのだという語りかた、(大きな人間に迎合する「国民」に迎合してしまう)ジャーナリズムとは一線を画した多様性を重んじる語り方。それは、量と効率に還元できないようなわからないものにラベル張りしてしまう軍靴の行進の日本文化大革命に、そして画一的に<売れる本はよい本だ>とする出版社のエスカレートしてきた商売主義に、踏みつぶされてはならないとおもいます。


ホ〜、、「この国の憲法の解釈はひどい」だなんて、なーんか、清純な若い男女が初キスするまえの世の中に憤るセリフみたいにカモトトトぶってるのか、知っているくせに!?このわたしの意見に賛成してくれなくとも構わないのだけど、ただ注意だけははらってほしいことはね、もっぱら官僚を養成するために創立され組織されている東京大学法学部の教授たちが民主主義を教えるはずがなくまたそこで何の疑問もなく学んで官僚になった誰一人も民主主義を考える能力がないということ。戦後の丸山真男は全く例外なんだよ。寧ろこれは、官僚養成大学法学部の解体に委ねられるべき問題ニャリ。現在の政治のターゲットは、朱子学的に憲法の正しさを争い「首相は頭が悪いね」を証明することよりも、恥ずべき抑圧装置を解体すること、つまり自民党を解体することにあるのだとおもうよ




’riverrun’とは何であったのか?ジェイムス・ジョイス「フィネガンズ・ウエイク」のこの書き出しの言葉は、vivre->vivonという風に似非フランス語的に、「夢を見ましょう」(erre-revie)と読めます。「河」の意をとるならば「河は走る」とも読めます。ある訳者は戦争の神のことを喚起させるために「川走」(せんそう)と書き記しました。たしかに、アイルランドの繰り返される戦いの歴史(現代の内戦も含めて)がありますが、過剰な深読みかもしれません。「フィネガンズ・ウエイク」は何語で書かれた本なのだ?という問いが繰り返されます。また聖書とか神話の書記言語でかかれた原初的テクストは読むことができない unreadableということの衝撃ですね、読むことができないその衝撃がなぜ読む人間にとって大切となるのかということを、その衝撃を損なうことなく保ちながら書いたところにジョイスの凄さがあったとおもいます。結局、ゲール文芸復興運動にとっては、(政治的意図からも)、原始的テクストは彼らが依拠しようとした「過去」のことを意味していますから、ジョイスの’unreadable’というその書き方がいかに偶像破壊的・脱神話的だったかということを感慨をもって思いかえします。と、私のことで恐縮ですが、ヨーロッパ人の読むことができないことを知りながらあえて読みすすめていく読みについていけなくなった自分の限界がありました。漢字の書記言語に突き動かされて江戸思想の文献を読んでいる現在から再び考えると、読む人間の思考の持続を可能にしていたのは、英語(で記述されていると思うのですが・笑)という書記言語の存在だったんだなとやっと気がつきました、多くの年月を必要としましたが、本当に遅くてだめですね、英語圏から離れて英語が存在したことぐらいしかわからないようではね、常識人たちから呆れられるでしょう?(日常言語の世界から離れて数学の関数世界にきてみたら固有名が無いことに気がつくようなものです!?)


聖書とか神話の書記言語でかかれた原初的テクストは読むことができない unreadableということの衝撃ですね。読むことができないその衝撃がなぜ読む人間にとって大切となるのかということを、その衝撃を損なうことなく保ちながら書いたところにジョイスの凄さがあったとおもうのですが、一応この翻訳はこのことを留意しているのかもしれませんね。結局、ゲール文芸復興運動にとっては、(政治的意図からも)、原始的テクストは彼らが依拠しようとした「過去」のことを意味していますから、ジョイスの’unreadable’というその書き方がいかに偶像破壊的・脱神話的だったかということを感慨をもって思いかえします。と、私のことで恐縮ですが、ヨーロッパ人の読むことができないことを知りながらあえてこれを読みすすめていく読みについていけなくなった自分の限界がありました。漢字の書記言語に突き動かされて江戸思想の文献を読んでいる現在からおもうと、読む人間の思考の持続を可能にしていたのは、英語(でかかれているとおもうのですが・笑)という書記言語の存在だったんだなとやっと気がつきました、20年を必要としましたが、本当に遅くてだめですね。

ミシェル・フーコー

私が優柔不断なと呼ぶマルクス主義者どもに浴びせる第一の批判は、彼らが真に対決すべき歴史的材料、歴史的現実に示す徹底した不信と、テキストと呼ばれるものへの限りない尊敬の念です。彼らは、その事実によって、テキストの分析・解釈という悪しきアカデミスムの中に取り込まれたままでいるのです。

ミシェル・フーコー ‏

労働者階級があり、然る後に云々の周縁存在がいると言ってはならず、下層民全体の集合の中に労働者階級と労働者化されていない下層民を分け隔てる断絶があると言うべきだ。警察・司法・刑法体系といった諸制度は、資本主義が必要としているこの断絶を絶えず深く刻んでいく為に用いられる手段の一部だ。





One of the mythical figures of the old American South is the pirate Jean Lafitte; his name is associated with his and General Jackson's defence of New Orleans, with the buccaneer romantic, and so Lafitte made friends with Marx and Engels, and even financed the first English translation of the Communist Manifesto. This image of Lafitte and Marx walking together in Soho, a nonsensical entirely different universe, is eminently postmodern.
(Slavoj Zizek,' the metastates of enjoyment' 1994)
引退後のイギリスで、友人のマルクスとエンゲルスのために「共産党宣言」第一版英語訳の資金援助を行ったニュー・オリンズの海賊ジャン・ラフィット。この伝説的人物は繁華街ソーホーでマルクスと共に散歩したというが、両者の間になんの共通点も見出せないその彗星と彗星の徘徊ほど、ポストモダン的世界を生き生きと喚起する映像はないでしょうね、とジジェクは物語ります。それから二百年後の現在、グローバル資本主義にたいする抵抗の象徴としてのようにテムズ川に現れた海賊船、その帆柱は「99%」の希望の軸となっています。2009年、G20ロンドン開催に抗議した4000人の人々は実際に、中央銀行前を占拠するためにこの橋を渡りました。(映像はTariq Aliの本’Pirates of the Caribbeanの表紙を利用しました)

« La machine de guerre est l’invention des nomades (en tant qu’elle est extérieure à l’appareil d’Etat et distincte de l’institution militaire). À ce titre, la machine de guerre nomade a trois aspects, un aspect spatial-géographique, un aspect arithmétique, un aspect affectif. »
Gilles Deleuze et Félix Guattari
Mille Plateaux – Capitalisme et schizophrénie 2、, Paris, 1980



ヨーロッパでなにが貴重だったかといえば、「アイリッシュタイムズ」紙のような小国新聞紙を読む時間があったということ。まさかこれらのマイナーな新聞の記事がここ東京でツィッターで読めるようになるとはおもわなかった。「ザ・ガ―ディアン」紙や「ル・モンド」紙の良質な評論も読める。最近は、最初からネット読者の読みを想定した短い評論が流れてくるようになったね。紙媒体の時代の昔は大嫌いだったが、ネット読者のためのエコノミスト誌の書評は中々面白いのだ。今夜は久々にマルチカルチュアリズムのロンドン市長のKen Livingstoneのスピーチをきいたが、こうした言説家たちの語る言葉を1分以内にまとめたビデオ・ニュースが流れてくる。フェイスブックではFb友人たちのアジアの報道へのコメントを読める。まさに窓ネットからみえてくる言説たち。BBCは、嘗てのようには公共放送に信頼をもてなくなった日本人のために日本語ニュースを流しはじめたのは随分昔のようにおもうが、まだ一年たっていない?「想像の共同体」のアンダーソンは国家は実体としてどこにも存在せず、NHKの7時のニュースとそれをみる国民の「解釈」に存在すると語ったそうだ。現在は公共放送と全国新聞だけが信頼に値する唯一の情報源ではなくなる、グローバル時代のネット空間の広がりから、「解釈」の方向性が全然違ってくるのだろうか。できれば多様性の方向に、新たにどんなユニバーサルな意識が現れてくるのかと期待するが、そのためには西欧と日本への関心だけでなく近傍アジアへの共感的関心が起きてこないとね、正しい理解をともなった形での。海外メディアだから必ず正しいと思い込んでもいけないが、単一の情報源でいつまでも脱アジア論的富国強兵の国取り物語とナショナリズムの排他的教説の側に絡みとられているだけではどんどん時代に取り残されて孤立していく「解釈」しかうまれてこない。一生懸命戻ろうとしても無理なんだから前世紀の戦争に帰結した方向性へのノスタルジーをすてたいよ


感想文;音楽劇「消えた海賊」(広渡常敏=作、公家義徳=構成・演出)

▼2002年のイラク戦争のときに書かれた「消えた海賊」は、徴兵拒否の若者達が集まって「自由の国」のあり方について議論するという場面から始まる。「海賊」とは何か?掘田善衛の原案に依ることから、「海賊」という語で意味されているのは「市民」であろう。入江洋佑氏に伺う。当時脚本を書いた広渡氏の記憶は、市民思想の久野収、戦後文学の武田泰淳等などからの影響と結びついていたという。この音楽劇から、東京演劇アンサンブルの原初的なあり方を読むことができるのだろう。▼さて国家、国家と優先するけれども市民を殺す国家なんて捨てていいとアルビアデスの言葉を引いて説いたのはべ兵連の小田実だった。21世紀ブレヒト小屋はべ兵連的自発性の脱領土化運動に新しい意味の息吹を与えることができるか?▼「オレたちを厚い壁がへだてている。オレたちは厚い壁に取り囲まれてている。その壁をぶち破るんだ」と若者は訴えた。大海原に憧れて大循環のふところに漕ぎ出していくと歌われる。その懐に、国家と市民は平等と思って生きている「海賊船」があった。「海賊船」の帆柱は若者にとっては希望の軸。「マング―ズ号」の海賊=市民は、「命令」を廃止してしまう。「精神の若さ」は人間の自発性を重んじて「主人と奴隷の関係」をやめたのだ。▼また人間の自発性が女性のセクシュアリティの解放と結びつくという真実が明らかにされていく。▼芝居の最後で、「命令形」をつかわない「海賊船」が消されたと告げられる。だが注意しよう。消えたのは、<最初>の「海賊船」だったかもしれないのだから。その後に次々と命令なき海賊船が現れた、「海賊船」の倫理的理念は消えない演劇の力に定位することになったのではあるまいか、と、私の解釈を志賀澤子氏に伝えてみたら、「知識人は海賊なのだから」と語られた。▼知的で非常によく統御された劇の構成ー衣装による真の表象、ダンスによる真の運動、そして林光氏の音楽による真の夢


アンチ・オィデプスの芝居化

主人公の火星人はずっと自分が宇宙船に乗っているつもりだったのに、ある時、お母さんのお腹のなかにいることに気がつくんだね。大変だ、このままでは人間として生まれてしまうことになっちゃう。そこで火星人は、人間として生まれた後でも、自分が火星人だったということを示す痕跡(合図)を作っておこうとするんだね。多分舞台は子宮をおもわせる巨大なクラインの壺がいいんだろうとおもいますがね。部屋が10個ぐらいあって...火星人は自分がきた星の位置をあらわす目印を作ろうとするんだけど、お腹の中だから東西南北がわからなくて愕然としてしまうとか、生まれたあとのこと、お父さんに知られないようにお母さんの身体の内部に残した合図を読み解くには一体どうしたらいいかと思い悩んだりか(オイデプスコンプレックスの問題)、あと、部屋の住人と別の部屋の住人が民族主義の争いをしているところをなんとか仲良くさせるとか...



Why do Joyce and Godard copy the others' words ?
I don't think it is meaningless to copy the others' words. If an original thing supposed (an example, the classic world of the Greece/ Rome ) had a risk of becoming authority as "basis", the intellectual man, a rootless cosmopolitan as a self-imposed exile, would not accept such a "basis". Authenticité is not consistent with multi-culturalism. To learn foreign language means to copy the others' words. More is better. While Japanese intellectuals recede from the non-consistent and indulge themselves in trance like practical meditation of zen (that I really hate) , European intellectual, being not isolated to the inner world, have opened his/her relations outside as a act of social contract. To copy and to multiply. Isn't it really the act of self-abándonment that Baruch de Spinoza praised ? It isn't coincident that Spinoza wrote his "Ethic" in Amsterdam in 17th century. What Joyce and Godard created is to build the universal canal, the confidence in others always coming from the outside.


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2016 April (2)  言葉と表現と射影のブログ/BIGLOBEウェブリブログ
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