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<<   作成日時 : 2016/06/09 22:50   >>

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この世の中は魔女少女の呪いだけではありません。アイルランドの呪いも有名で、ウイスキーとイギリスそしてカトリックのこと。EU加盟とアメリカからの外資導入を決めた70年代以降、北アイルランドの紛争の問題が、南アイルランドを中心に一般のアイルランド人からだんだんと消えていくのですが、しかし両者による爆弾テロの応酬が起きるとき、「どうしたらカトリック系住民とプロテスタント住民が一緒にやっていけるようになるのか」という議論が起きます。アイルランドにおいてはこの問題意識が遍在します。どんなホームドラマも。この映画のことは知らなかったのですが、特筆すべき兄との絆のこと、(聖書ならばあらゆる争いの原型として記される)兄弟の関係のこと、そして「シングルストーリート」というタイトル。オールアイルランドのサッカーを一緒に応援するときのように、音楽を聴くときは争いが起きないでしょう。ああ、オブセッションというかアイルランド的なテーマのことをどうしても考えないわけにはいきません...

近代の所有権(主権概念と結びついてくるというような)を相対化する意味で、なかなか強力な言葉ではないかと考えるときもありましたが、たしかに、ヨーロッパから既存の理念を借りてきて、軽々しくスローガン的に、さらに純粋に、「アートはみんなのもの(公共財)である」と決めつけてしまうとその理念性が、その理念にあてはまらない物を見逃してしまうというような実体化に陥ることもあるとおもいます。この問題についてよく考えなければならないことだとおもいます。(話が飛ぶのですが、ちなみに、近世の思想までは「物」は人の意味も含まれていたことに関心をもっています。物と人の両方を指示していました)



「OO『人』を殺せ」と他者にたいする排除を街頭で意思表示をするような人々は、我慢することなく自分達の欲望にしたがって良く生きることができると確信しているかのように振る舞っていますが、なにか直観的に言ってこれは、(政教分離の憲法に違反する形で公式に)靖国と伊勢神宮に参拝する安倍の怖さに対応しているようにおもえてしかたありません。「殺せ」というエスカレートしていく窮極のところで、彼らがいうところの「すべてのために」の観念が購うことができないほど、身体を壊すことが彼らに起きるかもしれません。ネグリによると、酷い孤立の痛さを知覚する必然のことをスピノザとウィットゲンシュタインは知っていました。適当な言葉がありませんが、本当に良く生きるためには、戦う国家(=祀る国家)に配慮して他者を殺すことになるよりは、もっと自分自身を殺してしまわないように自身に配慮して良く生きましょうよ、わたしもそうしようとおもっていますからと言いたいのですがね



ヒトラーを分析したアーレントの文を読むと、代表されている者と代表している者との差異が溶解したときに独裁的指導者との一体化が起きるというのです。だから代表する者がいてもよいが、国や時代に対等な「俺」をつくれです。これが私が良く生きるための条件ですし、皆さんも国と対等になれと願って訴えるかもしれません。「国ってなんだ? 俺たちだよ!」は、わたしの方法ではないです。


「自分や知人、その他の人の物理的生存や自国が他国民を殺すかもしれないという危惧」を置き去りにして、立憲主義という国のかたちへのこだわり(’憲法愛国主義’と揶揄されているようですが?)に酔う(失礼!)ならば、安倍自民党にたいしてふたたび的外れなたたかいかたで負けるかもしれません、そのことを心配します。問題は、アベノミックスは、格差をつくっていく社会に由るのですから、ここを問題にしたいのですが。

アナクロ的に、国の形にこだわると、結局相手国との憎しみ合いゲームが展開することになりそうです、縄文極右?海人衆の末裔?大地保守?というアイデンティティの政治に巻き込まれていくことに、不安にならないのですかね?



Tiger (怒れ)!. Tiger(怒れ)! Tiger(怒れ)!


古の詩人たちは万象の中に神や守護精霊を感じ
神々を呼ぶにそれぞれの名を以てし
森、河、山、湖、市、国の属性や
詩人の霊妙多感な官能が認め得た性質を以て神々を飾った。

なかんずく彼等は各地の都市や国家の精神に心をひそめ
その市や国を各独特な、心の中の神のもとに置いた。
かくて遂に宗教が組織立てられ、それを利用するものがいて
市や国からこの心の中なる神を引き離し
具象化或は抽象化することによって衆俗を帰依せしめた
ここで僧侶なるものができた
詩的説話から宗教の儀礼を選定しながら。
そして最後に神々がかかる儀礼を命じたと宣言した。
かくて人々はすべての神が人間の心の中に住むことを忘れた。

             ウィリアム・ブレイク
             (訳:土居光知)


1970年代になって、ガタリと共同して著作活動を行い、その成果は「アンチ・オィデプス」、「カフカ」、「ミルプラトー」として刊行されるが、この三冊はなんといっても映画の思考に規定された仕事だとおもう。1969年の「意味の論理学」、「差異と反復」「スピノザと表現の問題」は、1960年代のドゥルーズの思想の頂点をなすといわれるが、この時代はまだ演劇の思考に規定されていた。「アンチ・オィデプス」では’神に背くオィデプス’のことが語られているが、その原型は「意味の論理学」にある。「相互の関係と反作用とによっての存在する」といわれるように、すべてが表層で進行するが、その「物体を平面化する台」は、映画スクリーンではなく、舞台である。よく知られているように、「意味の論理学」はF.ベーコンの作品を分析しているとされるが−フロイトがダビンチを、ハイデガーがゴッホの絵を分析したようにー、ベーコンの絵もあれはあれで舞台が書き込まれているんだね。俳優について書いた面白い文がある。
「俳優は神に似てはいず、神に反する者に似ている。神と俳優は、時間の読み方で対立する。人間が過去もしくは未来として把握するmのを、神はその永遠の現在において生きる。神はクロノスである。神的な現在は円周の全体であるが、過去と未来は残りの部分を捨ててしまう特定の部分に対応する次元である。逆に、俳優の現在は最も狭く、最も限定され、最も瞬間的で、最も点の性質があり、たえず線を分割しそれ自体も可過去と未来に分かれて行く直線状の点である。俳優はアイオーンに属している。最も深いもの、最も充実した現在、油のしみを作り、未来と過去を含む現在に代わって、無限定の過去=未来が現れる。それは板ガラスほどの厚さもない空虚な現在のなかで反映している・・・」


ファシズムとはなにか

ファシズム前夜の現在、ファシズムは知性から生まれたという可能性を考えておくことも必要かもしれません、ファシズムを繰り返さないために。間違ったことを喋っているが、今日のボリスやトランプ、石原や安倍がもっている<説得力>に富んだ知性をもった人物をみると、恐らくヒトラーは映画で描かれるような「狂人」などではなかったという気がします。民主主義的理性にアイデンティティの理性を忍び込ませてはならないという教訓が現在生かされているでしょうか?アイデンティティの理性それ自身を非難しているわけではありません。理念の要請のもとで市民的主体を作り出すとき、また芸術的構想力と結びつくとき、人間はアイデンティティの理性を利用するのではないか、言い換えると、その自己同一性の内部に絡みとられることなくそこを避けることによって他者の領域へ行くのではないか、と、私は考えています。ただ、アイデンティティの理性の問題とは、それが民主主義的理性をとらえてしまうとそこから危険な自己同一的な言説、危険なナショナリズムが生じてくるということです。とくに日本の場合ですが、政教分離の否定を受容することになってしまうような、あたかも宗教を文化的習俗とする祭祀国家的言説の復活のもとで、アイデンティティ理性の民主主義的理性の捕獲が起き、そこで外部に対する拒絶が増殖していくということ。


移民に対する差別発言をメディアの場で堂々と展開した、EU離脱派の中心的人物、ボリスはいわばイギリスの石原だが、この男は首相選出馬を辞退したという。国民投票の結果はボリスとキャメロンの保守党内部での立場を強固にしたことに変わりない。移民に対する差別が起きていると東京新聞は写真入りで報じている。


ミシェル・フーコー

近代の犯罪司法の中にはある不思議な事態が存在している。即ち、この司法が法律外的なかくも多くの構成要素に責任を負うのが、それら要素を法律的に規定し徐々にそれらを厳正な処罰権に統合させるためでなく、その反対にそれらを刑罰操作の内部で非法律的要素として機能させうるからだ。−監視と処罰−




西欧には批判の歴史的な準拠点が三つあった。
@境界の教導権を拒否・忌避・制限し聖書に立ち返るという形式での聖書批判
A法の不正・不法性に対して普遍的で不滅の権利を立てる自然法の問
B権威が真理であることを真理として受け入れない、権威に対立する確実性の問題
−批判とは何か(要約)−

英国なきEUの英語とは一体なにか?
21世紀は、Google、Facebook、Yahoo、Twitteというインターネットの巨大な影響力に包摂されてしまった時代。翻訳によって隠蔽されているが、どうしても最低限度の所でその痕跡をみてしまうことになる英語に規定されたシステムのなかで、どんな国の人々もパソコンをまえに、アメリカ人が諸外国をただの彼らの地方の配置とみるような見方でみることになっていくというような時代?想像してみよう。共通言語は本当にそれほど共通かどうかという疑問は別として、〈帝国〉アメリカは共通言語の英語を使い、〈帝国〉中国は共通言語の中国語を使い、〈帝国〉ロシアは共通言語のロシア語を使うのであるが、それにたいして、〈帝国〉EUの共通言語だけは、地域的にその外部からもたらされた異質な言語を使うのだとしたら。その異質な言語は、ほかならない、英語である。英国なきEUの英語とは一体なにか?EUのあなたたちはランス語かドイツ語に依ることができない。英語をのぞいた、すなわち《EUの公式言語、26マイナス1》のどの言語に依ることも事実上不可能。あなたたちに属していない言葉で自分達自身について語らなければならないとしたらそれでもなおあなたたち自身を表現できるものなのか?You are not yourself ?なにか英語は、外から輸入してきた理念物のようにみえる。既存のものを受け入れてもそれは完全な自立的なものになるのか?理念としての英語はいつまでも完成しないのではあるまいか?そしてあらためて、イギリスがもっていた彼らのヨーロッパ大陸におけるその驚異的な言語的特権を捨ててしまった選択に驚くのだけれどね、呆れるというか



Awful...

'The unspeakable has become not only speakable, but commonplace'
(But over the past few months, the men who are now shaping Britain’s future outside the EU effectively ditched public decency, and decided it was OK to be racist. In the process, as Michael Keith at Oxford University’s migration research centre, Compas, says, “The unspeakable became not only speakable, but commonplace.”)



Between Roman Catholicism and royal supremacy there is, as St Thomas More concluded, no reconciliation". Powell concluded that a Roman Catholic crown would be the destruction of the Church of England because "it would contradict the essential character of that church".

He continued:


When Thomas Hobbes wrote that "the Papacy is no other than the ghost of the deceased Roman Empire sitting crowned upon the grave thereof", he was promulgating an enormously important truth. Authority in the Roman Church is the exertion of that imperium from which England in the 16th century finally and decisively declared its national independence as the alter imperium, the "other empire", of which Henry VIII declared "This realm of England is an empire" ... It would signal the beginning of the end of the British monarchy. It would portend the eventual surrender of everything that has made us, and keeps us still, a nation.

The Scottish Parliament unanimously passed a motion in 1999 calling for the complete removal of any discrimination linked to the monarchy and the repeal of the Act of Settlement.The following year, The Guardian challenged the succession law in court, claiming that it violated the European Convention on Human Rights, which provides,


"The enjoyment of the rights and freedoms set forth in this Convention shall be secured without discrimination on any ground such as sex, race, colour, language, religion, political or other opinion, national or social origin, association with a national minority, property, birth or other status."

As the Convention nowhere lists the right to succeed to the Crown as a human right, the challenge was rejected.


I am not a woman, but the light that falls on this gate, on this ground. I am the seasons, I think sometimes, January, May, November; the mud, the mist, the dawn. ”
— The Waves by Virginia Woolf



ミシェル・フーコー ‏

魂の実在性-指示関連を元に、人々は各種の概念をつくり上げ、分析領域を切り取ってきた。つまり霊魂、主観、人格、意識など。その実在性-指示関連の上に、権力的な諸技術と学問的な言説を打ち立ててきたのであり、それを元に人間中心主義の道徳的権利の要求を浮かび上がらせてきた。−監視と処罰−



L'anglais peut-il rester la langue de l'Europe si les Britanniques ne font plus partie de l'Union européenne ?


ステファヌ・マラルメ
書物こそが最高のものなのだ.新聞はいずれも相変わらず出発点の儘である.一方文学は,望み通り新聞に流入している.


ロンドンのイギリスからの独立?イスラム教徒の市長を首都にした国際都市ロンドン。BBCによれば、多数派は英国のEU残留を望んでいたという。英国のEU離脱の結果を受けて、ロンドン独立の署名運動する者(数千人)があらわれているようだ。ロンドンと、反感をもつEUの他の都市との関係も非常に難しくなりそう。交渉の場で激しい罵りあいがの危険性も


司馬遼太郎とか、加藤周一なんかも、わかったように公式的に、ナショナリズムは経済発展にとってマイナスだというのですけど、そんなふうにナショナリズムと経済とは反比例の関係にあることを知っている自分達はナショナリズムの偏狭性から自由な自由人だなんて妄想しているのは日本人ぐらいですよね。だから、経済を大事にすればするほどナショナリズムになっていくのではないかと考える外国のひとたちと話すと、「なにいってんだおまえは?」という感じで、話がズレちゃうんですよね。少なくとも國分や千葉はそういう妄想のことは分かっているのかもしれません。ナショナリズムも一通りではなくて、基本的には排他的なものですが、フランス革命のときは平等の主張とパラレルにそれなりに機能したわけだし、20世紀のアイルランドのような国々はそこから立ち上げっていくしかなかったのですが、その場合、ナショナリスムという烙印の前に、問題を開く反権威主義的問題提起、というのですかね、そういう発言をした知識人なり思想家の色々なケースを幾つくらい知っているかどうかですね。

本は読んでいませんがね、昔はこういう記事を読んだら、必ずなにか書くというか、書かずには素通りできないというオブセッションがあったのですが、最近は距離をとれるようになりましたか、別になにも書こうとはおもいません。(と、すでに書いているし、書こうとしている・・・)。”奪われた”、と、言ってしまうといかにも対英闘争の国家とエスタブリッシュメントのナショナリズムには都合がいい見方ですよ。この点は私はジョイスにしたがいますから、アイルランドの生活者たちはゲール語をすてただけだとおもっています。だが、捨てただけなのに、「英語という選択」と言ってしまうと中立的実証的にみえて、だが背後に民衆史的な対抗イデオロギーがないだろうかとおもいますよ。これに関連して、ただ死滅した言語とともに、過去の記憶はどんなことをしても回復できないというテ―マがありますね、おそくとも80年代から現代アイルランド演劇が取り組むようになったテーマです。前は、言語の限界のことを考えていましたが、いまは、思いだすこと自体の限界のことをかんがえています。プルーストの影響かもしれませんが、忘れることに、人間の本質があるというか・・・。

酔っ払いの暇人、達磨大師・佐藤優に自己啓発された「日本の未来」に道端で会っちゃったら、厄払いに、ギネスビール三杯おごってやれ

アルトーにあっては、言説(デイスクール)としては拒まれ、、衝の造形的暴力のなかに奪回された言語(ランガージュ)は、叫び、拷問にかけられた身体、思考の物質性、肉体に送り返される。
(フーコ「言葉と物」渡辺一民訳)
chez Artaud, le language récusé comme discours et repris dans la violence plastique du heurt, est renvoyé au cri, au corps torturé. à la matérialité de la pensé, à la chair. (Michel Foucault ' Les mots et les choses')


Que je suis suffoqué;

et je ne sais pas si c’est une action

mais en me pressant ainsi de questions

jusqu’à l’absence

et au néant

de la question

on m’a pressé

jusqu’à la suffocation

en moi

de l’idée de corps

et d’être un corps,




(Artaud)







私は窒息するしかない、

そして私はそれが攻撃なのかどうかわからない

けれどもこうして私を問いでおしつぶし

問いがなくなり

問いが無になるまで

私のなかで

身体の観念が

身体であることが

窒息するまで

人は私をおさえつけた、




(アルトー)






私はベケットを読むように『論語』を読んでいるし、『童子問』を読むようにベケットを読もうとしています。だけれど盲目的に西欧礼讃を批判するような、『論語』を読んでいる人々から、なんでおまえはベケットなんかを読んでいたのかと聞かれたら私は何と答えるかと思い悩んでいます。聞かれたらはっきりとした自己正当化の弁明もないのですが、問題の所在を明らかにしておきましょう。どうして日本近代はコピーでしかないのかという漱石のコンプレックスがあり、と、反対に、どうして近代ヨーロッパはオリジナルでしかないのかという西欧のコンプレックス(ベケットとかウィットゲンシュタインはそういうものとして、過去との断絶というモダニズムの担い手として読み解れた)があるといわれるのですけど、こういう問題は、明治の前にも存在したという風に問題を新しく捉えることができるところが大事なんです。

British people backing a leave vote in the EU referendum are almost twice as likely to believe that climate change does not have a human cause, according to a new poll. - The Guardian


小田実

人びとよ、デモに来たれ。自分でさまざまにデモをつくり出せ。…つまり、ことは具体的にしか始まらないということだ。自分でプラカードをつくり、それをもって歩く。『状況から』1974




「アラブ世界の国にも参加のチャンスを!」という世界の声をきこうともせずに、日本はトルコからその五輪開催のチャンスを奪ってしまった。この意味で、招致の最初から、国際的犯罪といわれても仕方ないような東京五輪。(仏検察によると)三十数億円といわれる巨大な賄賂を成就させるために、「街のシンボルが建て替えられる」というつぎのニュースがはいってきた。


ー>【今夜のNW9】五輪を4年後にひかえた東京で、街のシンボルが建て替えられることに。西洋風デザインで知られるJR原宿駅。五輪で多くの利用者が見込まれるなか老朽化していることが理由。90年以上街を見守ってきた駅舎だけに...




I learn Wiki

Lectures on Philosophy is a compilation of the lectures that Weil composed for her lycée students. Focussing on the materialist philosophical project, she deals with truth not logically or scientifically but psychologically or phenomenologically. Here she discusses the conditions necessary for an experience of truth to emerge for the human subject, or for an object or concept to emerge as real within human experience.[citation needed]

However, she does not advocate a general theory of human "truth-production", justified by empirical observation.[47] As distinguished from the writings of William James, Lectures describe the problem of truth as deeply personal, to be approached through introspection. Weil combines her background with idealist philosophy with an appreciation of the limits of foundationalism and produced writings such as the following:

Any proof of the syllogism would be absurd. The syllogism is, to put it briefly, nothing but a rule of language to avoid contradiction: at bottom the principle of non-contradiction is a principle of grammar.
— Simone Weil, LP, p. 78

and

We are forced to accept the postulates and axioms precisely because we are unable to give an account of them. What one can do is try to explain why they seem obvious to us.
— Simone Weil, LP, p. 113

and

One can never really give a proof of the reality of anything; reality is not something open to proof, it is something established. It is established just because proof is not enough. It is this characteristic of language, at once indispensable and inadequate, which shows the reality of the external world. Most people hardly ever realize this, because it is rare that the very same man thinks and puts his thought into action ...
— Simone Weil, LP, p. 72–3



もし一億人が信者となる日本会議教というものが生まれてとくるとしたら、それは、戦争する安倍自民党の選挙の勝利から生まれてくるのだろう、ほかからは生まれない。


八年間もこの絵をみました。でも、ジオットならばダンテについて考えはじめますが、このカラヴァッジョからはどんな文学・哲学思想も私の中で始まりません。指示されているのは、どんな文学・哲学思想を拒む指示というか...ウィットゲンシュタインが言うようにね、理解なんかできやしない。ダブリン時代にルネッサンス絵画千枚を研究したトリニティ・カレッジの市民大学講座に出たので、それなりに思い入れがあるのですが、昨年ミラノでは、ルネッサンスの絵画何百枚を展示した部屋たちを通過したあと、最後にカラヴァッジョのたった一枚の絵をみたときです、この絵に出会う前に構築されていたルネッサンスの全部が、あっという間に消滅してしまいました。魂が消滅するときもこのようになくなるのでしょう。Fbのウオールに時々あらわれる私の油絵も、「キリストの捕縛」のカラバッジオからの影響なんですけどね

▼わたくしは(心の中で)将来それを<痛み>と呼ぶことを’企てることができる。」−「だが、お前は確かにそうすることを企てたのか。そのためには自分の感じに注意を集中するだけで十分だという確信があるのか。」−奇妙な質問である−。 ウィットゲンシュタイン
▼' But I can (inwardly)undertake to call THIS 'pain' in the future.' - 'But is it certain that you have undertaken it ? Are you sure that it was enough for this purpose to concentrate your attention on your feeling?' - A queer question.
- Wittgenstein
▼<< Mais, je puis (intérieurement) me proposer de nommer ceci << douleur>> à l'avenir ? >> << Mais est-il certain que vous vous le soyez proposé ? Etes-vous sûr qu'il était suffisant pour cela de concentrer votre attention sur votre sentiment ?>> - Question étrange.


カラヴァッジョはモデル以外のいかなる師もみとめなかった。
(Carravaggio) non riconobbe altro maestro che il modello

カラヴァッジョは自分以外の画家たちをみとめようとはせず、自らを唯一の忠実な自然の模倣者と称していたのである。
Il carravaggio non apprezzava altri che se stesso, chiamandos egli fido unico imitatore della natura.

-「芸術家列伝」1672年

▼「いったんその語が何を指示しているかがわかれば、お前はそれを理解したことになり、その全用法を知ったことになる。」(ウィットゲンシュタイン)
▼' Once you know what the word stands for, you understand it, you know its whole use.' - Wittgenstein
▼>>Wenn du einmal weißt, was des Wort bezeichnet, verstehst du es, kennst seine ganze Anwendung<<
▼<< Une fois que vous connaissez ce que désigne le mot, vous le comprenez, vous le connaissez dans toutes ses acceptions !>>


ヘイトスピーチを発見する時代

▼ヘイトスピーチというのは、恐らくは防衛上の理由かなにかで(それまではそれほど区別なく殆ど一体であったかもしれない)中国と朝鮮から境界線(防衛線?)をひくことになった、そうして「日本書記」「古事記」という国家アイデンティティを新しく書き記した時代に遡ることができるという、隣国を罵倒してきた「日本人」のコアを形作っているものかもしれません。21世紀のヘイトスピーチを発見する時代に、ヘイトスピーチがつくった「日本人」とは何かを政治的に問わざるをえません。▼さてグローバル時代のわれわれはなにものかと絶えず問う問いの根底に、多様性の方向性をもった市民概念の普遍があります。マイノリティに対するヘイトスピーチは、この多様性としての普遍性を崩す危険性がないでしょうか。これ以上ヘイトスピーチの放置は許されないでしょう。規制の必要性は明らかです。▼他方で、規制権力に起きる腐敗のことが深刻に心配されています。規制の仕方を間違うと、あらゆる言論行為の細部に対する干渉が起きないとは言い切れません。日本語の場合、呼び捨てはヘイトの意思表示を含みますが、軽蔑し憎んでもいる相手だから「安倍」と呼び捨てしているこの私の所にそれを口実に警察が来るとしたら、来ないとしても常にそれを心配しなければならないとしたら?▼大袈裟でしょうか?しかし警察主宰のデモという風景が当たり前になる怖いこの国。警察の過去のあり方をみると、適切に運用できるのかと疑問を呈する声もやはり無視できません。折衷的に、考え方として、規制法はヘイトスピーチがなくなったら直ちに廃止、問題が起きたら再び新しく規制法をつくればよいのではないですか。▼大変不効率で無駄にみえますが、民主主義とはこういうふうに不効率で無駄なものなのです。民主主義の内容は建前的なその手続き的意味と一体です。ヘイトスピーチに対する抗議とともに、その規制を濫用させないように国家を監視していかなければならないことだけは確かなようですね。


人間諸科学の根源的構造には、生命一般に関する考察よりは、病人に関する考察がある。従って人間諸科学とは「正常と病理」の対立による構造から生まれたものだから、ポジティブなものを規範として提出すると同時に、ネガティブなものからも離れられないという奇妙な性格を有する。
ミシェル・フーコー −臨床医学の誕生−


外国語は異質のことばを自分のものにいくぶんでもすることによって自分の思考、感情をゆたかにするために学ぶ。それゆえに、空間と時間における自由があれば、外国語を勉強したほうがよい。そして、それだけの自由を市民がもつのが自由な市民社会の要諦だ。
小田実「中学校の「週三時間」英語教育」1982



(思案しているのは思想史のほうで、怪しげな素人理解のテンソルについてではありませんよ(笑)。テンソルはさかのぼると、26歳ぐらいのとき、東京の公害企業の上訴に抗議した座り込みに地方から参加してきた高校物理の若い先生からきいて興味をもつことになりました。その先生の関心を貰ったというか。やっぱり数学が美しいというようなことを感動を込めて称えていたかな。重力波の研究者だったといっていました。たしか反原発運動から応援にきた人だったとおもうが、反原発運動の人たちの間では一番心配されていたのが福島原発のことでした。絵のことですが、8年前のもので、関数変数(x、y、z)のかわりとして「ひらがな」をつかってもいいといわれたことがあって、そうならば、「クジラ」とか「掌」、「渦巻き」とか「月」でもOKでしょうか?それにしてもまあ、われながら変なものをロンドンで描いていたよなあ、当時ちょっぴりダブリンへの思いが起きたときに描いたのかもですね

【キッチュKitsch】ドイツ語の「verkitschen(低俗化する)」が語源。低俗なもの、悪質なものといった意味。批評家C・グリンバーグの論文「アヴァンギャルドとキッチュ」(1939)において「キッチュ」を「アヴァンギャルド(前衛)」に対する「後衛」と位置付けた。

... j'écris pour me changer moi-même et ne plus penser la même chose qu'auparavant.
Michel Foucault

▼tensor : a mathematical object analogous to but more general than a vector, represented by an array of components that are functions of coordinates of a space.

▼ベクトルは同時に2つの要素を表現できるが、さらに3つ、4つというように増えていったらどうだろう。実はこれら複数の要素を同時に合理的に扱うことのできる数学的手法が、テンソルなのであると説明される。共変テンソルと反変テンソルを掛けることもできて、その外積は、共変テンソルでも反変テンソルでもない、2階の混合テンソルと呼ばれる。(これはなにかすくわれる気持ちになる!)
▼ドゥル―ズのゴダール論について書いた論文を読んだら、要するにドゥル―ズはゴダールのモンタージュはテンソルンだというふうに読み解いていることを強調していた

批判哲学 and 存在論 and 形而上学 の間の無規定で自由な一致で構わないのは、なぜなんだろうか?


まだ考えがクリアーにまとまらないのでありますが、理念的な批判哲学 or 存在論 or 世俗化された形而上学の影かというふうにどれかただ一つに決めるというのではなく、ただ、批判哲学 and 存在論 and 形而上学 の間の無規定で自由な一致で構わないと思うのですが、その理由は何かと考えています。 例えば、批判哲学的に、理念の要請から、日本の戦争は人類に対する犯罪であったという構成においてアジアはひとつであるとみなすことができる(この理念のもとでアジアの人々は歴史修正主義者が主宰する民族主義の憎悪交換ゲームに絡み取られる必要がないのです)。またここで、多様性としての漢字文化圏という理念的構成から、グローバルデモクラシーを抑圧する帝国的《一的》多様性という自己同一性の教説を批判することだって可能に思えるのです。 存在論的にとらえるほうがいい場合が、一つの祭祀国家としての近代化の日本について語るときです。昭和の天皇ファシズムへの道しかなくなったという戦争体制。敗戦後にその戦前との連続性を立ち切ったこの国家が、日本会議が指示するように、再び戦争神社の靖国に拠ることは倫理的に不可能なはずです。存在論的にいって、グロバールデモクラシーの方向性を考えると、市民たちは沖縄の自立した分節化されない世界に拠ることの意味が大きいと思われます。また日本近代が自らの劣った先行形態として排除した江戸時代に展開されたその思想を発見しそれらの意味を新しく考えること、と同時に、日本回帰に絡み取られた昭和思想の方向性を検証し批判すること、恐らくはここからしか、市民たちは日本の歴史の経験を積極的に複数性をもって生きること、書くことができないように思われるのです。


日本の近代化の中心に中国インド、西欧の理念があったように、アメリカの戦後の中心はヨーロッパの理念(反ナチスのハイエク的自由主義)があったが、既存のものを理念型として受け入れても完全な自立的な思想としていつまでも完成せずに常に裏切られるという問題



【主意主義的行為理論】パーソンズの行為理論。実証主義の伝統から行為の条件的要素を、理想主義の伝統から行為の規範的要素を引き継ぎ、それを功利主義に由来する目的―手段図式で統合しようとした。

パーソンズは1937年に800ページにのぼる大著《社会的行為の構造The Structure of Social Action》によって学界に登場した。彼は,19世紀以来のヨーロッパ思想史における人間行為についての見方を,(1)実証主義的行為理論,(2)功利主義的行為理論,(3)理念主義的行為理論の三つに分け,この3者の収斂(しゆうれん)する地点において一つの新しい総合的な行為理論を構想して,これを〈主意主義的行為理論voluntaristic theory of action〉と名付けた。主意主義的行為理論は,極端な功利主義や極端な理念主義のいずれに偏することも避ける。…

AGIL図式とは、四つの機能分化した下位システム(四つの機能用件に対応)の頭文字をとって命名されたものである。

■適応(adaption;A):

外的・手段的機能用件充足に対応。主として当該システムの活動のための始源を外界(環境)から調達する働きによって成り立ち、同時にシステム全体の外界への広義の適応(該環境の修正、制御、収奪などを含む)を司る。

■目標達成(goal-attainment;G):

外的・充足的機能用件充足に対応。これは調達された資源を動因、管理して、システム全体としての目標を達成するという活動から成り立つとされる。

■統合(integrarion;I):

内的・充足的機能用件充足に対応。これは、システム内の諸部分がよく統制され、勝手な行動を避けて全体として安定した一貫性を維持するように、すなわちシステムを機能障害や唐突な変化から守る働きをする。

■潜在性(latency:L):

内的・手段的機能用件充足に対応。「パターン維持と緊張処理pattern-maintenance and tension-managemenr」を含む。これは、一方では諸部分の活動を適切に動機づけ、システム全体の活動を長期にわたって維持すると同時に、その仮定で蓄積されるシステムないの緊張を放出する働きを司る。




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