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zoom RSS 2016 june (4)

<<   作成日時 : 2016/08/08 03:01   >>

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Wiki より

協力ゲームの例

複数企業A , B , C {\displaystyle A,B,C} A, B, C の共同事業を考えよう。それぞれの企業の利益を、

v ( { A } ) = 3 , v ( { B } ) = 6 , v ( { C } ) = 5 , v ( { A , B } ) = 10 , v ( { A , C } ) = 10 , v ( { B , C } ) = 12 , v ( { A , B , C } ) = 18 {\displaystyle v(\{A\})=3,v(\{B\})=6,v(\{C\})=5,v(\{A,B\})=10,v(\{A,C\})=10,v(\{B,C\})=12,v(\{A,B,C\})=18} v(\{A\}) = 3, v(\{B\}) = 6, v(\{C\}) = 5, v(\{A,B\}) = 10, v(\{A,C\}) = 10, v(\{B,C\}) = 12, v(\{A,B,C\}) = 18

とする。

ここで、例えばv ( { A , B } ) {\displaystyle v(\{A,B\})} v(\{A,B\}) とは企業 A, B が協力したときの利益を示す。この例では、「優加法性」が常に成立しているといえる。例えば、(v ( { A , B , C } ) = 18 ≧ v ( { A , B } ) + v ( { C } ) = 15 {\displaystyle v(\{A,B,C\})=18\geqq v(\{A,B\})+v(\{C\})=15} v(\{A,B,C\}) = 18 \geqq v(\{A,B\}) + v(\{C\}) = 15 である。)優加法的である場合、提携したほうが全体の利得は大きくなる。しかし、個々の企業にとって提携するかどうかは利得の分配によって変わる。

3社が共同したときの企業A , B , C {\displaystyle A,B,C} A, B, C の利得をそれぞれx A , x B , x C {\displaystyle x_{A},x_{B},x_{C}} x_A, x_B, x_Cとする。

例として、利得がx A = 4 , x B = 4 , x C = 10 {\displaystyle x_{A}=4,x_{B}=4,x_{C}=10} x_A = 4, x_B = 4, x_C = 10 の場合を考える。この場合、x A + x B = 8 < v ( { A , B } ) = 10 {\displaystyle x_{A}+x_{B}=8<v(\{A,B\})=10} x_A + x_B = 8 < v(\{A,B\}) = 10 となるので、企業 A, B は2社だけで提携し、利得( x A = 5 , x B = 5 ) {\displaystyle (x_{A}=5,x_{B}=5)} (x_A = 5, x_B = 5) を受け取ったほうが有利である。そのため、この条件では企業 A, B は C を含んだ3社の提携を拒否するであろう。このような状態のことを、提携 ( A B ) {\displaystyle (AB)} (AB) に関して、配分 ( x A = 5 , x B = 5 ) {\displaystyle (x_{A}=5,x_{B}=5)} (x_A = 5, x_B = 5) は配分( x A = 4 , x B = 4 , x C = 10 ) {\displaystyle (x_{A}=4,x_{B}=4,x_{C}=10)} (x_A = 4, x_B = 4, x_C = 10) を支配するという。

他方、配分( x A = 5 , x B = 7 , x C = 6 ) {\displaystyle (x_{A}=5,x_{B}=7,x_{C}=6)} (x_A = 5, x_B = 7, x_C = 6) の場合、いずれの2社の提携によっても、その提携に参加したすべての企業の利得を増加させることができない。このような配分のみがコアに属する。


Wiki より

鈴木光男『競争社会のゲーム理論』、1970年


ゲーム理論は誕生当初には新古典派経済学と対立していたが、1950年代には一般均衡理論の重要な未解決問題であった完全競争市場の存在証明に非協力ゲームの枠組みが応用され、さらに1960年代にはシュービックによりエッジワース交換経済モデルが協力ゲームとして一般化された。これらの研究は両パラダイムが相反するものではなく、ゲーム理論が新古典派モデルの一般化であることを示しており、ゲーム理論のパワーの大きさを十分に示すものであった。鈴木光男は1960年代における両パラダイムの関係を次のように述べている

・経済学において正統的にして最も正統的なる完全競争の理論が、異端の思想であるゲームの理論によって初めて明確にされたことは、異端と正統との対立的展開の一つの象徴的事件である。このことによって、完全競争の神話は初めて理論となり得た。同時にそれが極めて特殊なものであることも明らかにされた。

・ゲーム理論は個人間の自由な関係を前提としているにもかかわらず、「レッセ・フェール(仏: laissez-faire)」と呼ばれる古典的自由主義の楽観的人間像とも異なった社会像を与えている

鈴木光男『競争社会のゲーム理論』、1970年

新古典派経済学の理論モデルは物理量をポテンシャルの最大化原理として記述する理論物理学を模倣し、数理最適化と呼ばれる既存の数学を応用することによって構築された。サミュエルソンによって完成されることとなるこの経済理論がいわば「物理学の借り物」であったのに対して、ゲーム理論は経済学の中から独自に生まれた唯一の数学理論である。ゲーム理論の誕生を機に、経済学が他の科学分野の理論的枠組みを輸入するだけの段階から、他の科学分野に理論的枠組みを提供する段階へと進展した。

不動点アプローチ

数理科学としてのゲーム理論の特徴として、不動点定理の利用が挙げられる。ゲーム理論における人間が「社会」に向ける知見とは「自分自身を含む社会」に対する知見であり、そこには自分自身に対する観察が必然的に入り込むため、この「社会」に対する知見は、観察者主体を含んだ社会に関する彼自身によって認識された事実そのものが彼自身の観察したそのものに対して頑健であり、整合的である必要がある[41]。主体が社会に向けた観察と、その社会における彼自身の行為や選択の整合性こそが社会科学における均衡(英: equilibrium)であり、その数学的対応物が不動点定理(英: fixed point theorem)である。各主体が社会に向けた認識の組と彼らの行為や選択の組が一致するとき、そのような行為の組(戦略ベクトル)はナッシュ均衡(英: Nash equilibrium)と呼ばれ、それは認識と行為の対応関係(最適反応関数)の不動点に他ならない。このような不動点議論に基づいて均衡が実現するというプロセスは決して物理学的プロセスではなく、経済学の哲学的基礎が凝縮されたものである。


協力ゲームでは、それぞれのプレイヤーは独立して戦略を形成する。非協力ゲームの解には2つの意味があり、1つはプレイヤーがいかに行動すべきかという指針を与える「規範的意味」、もう1つはプレイヤーが実際にどのように行動しているかを示す「記述的意味」である

非暴力を貫こうとしている抵抗の人間的意味を理解できない、理解したくない、理解することが禁じられている

ー>「県公安委員会が高江で反対する市民について「犯罪勢力」と表現していたことがわかりました。これは沖縄平和市民連絡会が県公安委員会に情報公開請求を行い明らかになりました。」(沖縄平和市民連絡会)


フーコー

この二十年間を通じての私の仕事の目標は何であったのか。それは権力現象を分析することでも、その分析の基礎を築くことでもなかった。私の目的は、そうではなくて、私たちの文化において人間が主体化[=服従化]されている様々な様式について、一つの歴史を構想することであった。−主体と権力−

私は激しい情熱を燃やしてニーチェを読み、[…]彼を通して私は異邦人になってしまった。私は相変わらず、フランスでの社会的・知的な生活にうまく溶け込んでいません。機会があり次第、私はフランスを離れます。もっと若かったとしたら、アメリカに移住したでしょうね。−真理・権力・自己−

私が古代に興味をもったのは、諸規則の法規に対する従属としての道徳という考え方が、現在消滅しつつあり、既に消滅してしまったからです。そしてこうした道徳の不在に応え、かつ応えるべき探求とは、〈生存の美学〉の探求なのです。−生存の美学−

倫理とは、自由の実践、自由を反省的に照り返しながら実践することでないとしたら、いったい何でしょう。−自由の実践としての自己への配慮−

国際的市民権というものが存在する。それは固有の権利を持ち、義務をもつものであり、また誰によるものであり、誰が犠牲者であろうとも、あらゆる権力の濫用に抗議して立ち上がることを課すものだ。結局、私たちは皆統治される者であり、この資格によって連帯しているのだ。−政府に対しては人権を−

現在への己れの帰属を問うとは、ある教養やある伝統への己れの帰属を問うことではない。ただ単に一般的な人間の共同体への己れの帰属を問うことでもない。ある種の〈我々〉、即ち自らの現在性によって特徴付けられているような文化的な一総体へと関わるような〈我々〉への己れの帰属を問うことなのだ。

残念ながら、私は絶対自由主義者たちと同じではありません。それというのも、人間の根源的欲求に信を置く、ある絶対自由主義的な(リベルタリアン)哲学が存在するせいです。私は権力によって位置をつきとめられたいと思いませんし、とりわけアイデンティティーを特定されるなんて真っ平御免です。

ut pictura poesis

”ウト ピクトゥーラ ポエーシス”「詩は絵のごとく」というホラティウスによる『詩法』の中の一節。視覚芸術である絵画に対する言語芸術としての詩、両者は西洋芸術観において常にある種の関係性を想定されてきている。
(西洋美術・美学BOTより)




アイリッシュの彫刻家から聞いたところによると、掘って形を与えるというよりは、「いつ中から石から出してくれるんだね?」という声を聞くんだそうです、それまではなにもしないでまっている。沈黙に向き合う詩人みたいな、彼らは皆そうですが。芝居にしたらとおもうのですが、どこか?

「言葉と物」のコンパクトな世界 No.5

「『大正』を読み直す」は、日本ファシズムをいかに読むかという課題をもっている。現在の問題を明らかにするために、大衆が昭和ファシズムを担う国民になっていった言説空間が展望されていることは、新聞の書評で指摘されている通りである。天皇ファシズムは終わった。言い換えれば、天皇の知は一応消滅した、国民が新しい文脈で復活させなければという前提で。だが大衆は消滅してはいない。新しく再び精神分析と文化人類学の知が大衆をとらていくことになったのである。現在の問題は反知性主義にあるのではなく、寧ろ知に規定された道徳的問題にある。ポスト構造主義は実存主義と構造主義では十分にこの問題を扱えないと見抜いたからこそ、フーコー「言葉と物」はカントを呼び出したのである。(私の知る限りでは、ロンドンの書店ではポスト構造主義の本たちと並んで「実践理性批判」が置かれる。東京の書店は「純粋理性批判」が置かれる。現在の問題が反知性主義にあると見誤っているからだろう。これでは「国民道徳」に対する抗議の準備を効果的にできるのだろうか。) 戦後民主主義は、戦前ファシズムにときは知が欠如していたので単一価値観が大衆を突き動かしたとすると考えるが、これは間違いである。言説の知のもとに大衆がファシズムの国民となったのだから。したがって現在もこれから、戦前と同じ形ではないにせよ、時代の「知」のもとに、十分に教育のある国民が推進するファシズムが起き得るという可能性を否定しきれないのである。



ジェイムス・ジョイスの世界 No.9


近代の作家のなかで、ジョイスはファシズムの共感と植民地主義に行かなかった稀な作家である。「亡命」の定義によることであるが、ジョイスの場合は「自分で決めた亡命self-imposed exile」と自身のイタリア行きを形容した。その意味は何か?国に仕事が無く貧しいアイルランド人は大陸へ行って出稼ぎ労働しなければならない。彼は英語の教師の仕事を探した。大英帝国の植民市都市ダブリンではまだカトリックが政治權力をもっていなかったし、まだ内戦も起きていない。政治的迫害を受けたという意味での「亡命」は起きなかった。文学的な追放のことが推定されるが、イエーツたちのメインストリームに反抗したのもイエーツたちの意義を認めた上でそれを乗り越えるためのものであった。何を指示していたかは明らかではないが、大衆にではなく人類に自己の立場を置きたいというのが彼の「自分で決めた亡命」の意味だったかもしれない。ゲール文芸復興運動の知に対しては経験知からの市民の立場をとった。80年代からはじまったジョイス読み直しは、テクスト重視のポスト構造主義(デリダ)と權力批判のポストコロニアリズムの間にその批判的位置をとったのである。


ロダンのバルザックは、一見してギリシャ彫刻の美しい裸体像と違う。健全な精神は健全な肉体に宿るとすれば、近代の人間の精神がかくも崇高に醜い肉体に定位しているのかと見る人をぞっとさせる。完全の表象が掘り崩される、近代のこの孤独な不完全さをみよ。このバルザック像は身体を隠している。だが隠されているのは本当に、身体なのか?どんな起源であれ起源そのものを無意味にしていく時間ではなかったか。そこで、矛盾を孕んだ悍ましい時間が覆われているに違いないが、時間そのものを見ることはできないので、空っぽのようにみえるのだろうか。なんの価値もない空っぽの時代においては、価値を生み出すしかない。繰り返し不完全なものに裏切られ失望させられてきたにもかかわらず生み出すしかないという...


ジャン=リュック・ゴダールの世界 No.6

映画の世紀といわれた20世紀はワーキング・クラスの時代であった。映画が衰退していく21世紀にその没落が起きたのは単なる偶然だろうか。そして「貴族」復興の時代?だが彼らが依存するグローバル時代の「この道しかない」といわれたネオリベラリズムの終焉が始まっているという。映画は消滅しきったが、「別の道がある」とする思考の形式に定位することになった。つまりゴダールのモンタージュである。格差問題と地球環境に取り組むグローバル・デモクラシーの「公」の観念と、<一>に包摂されない多様性としての普遍主義。こうしたかつて語られることもみられることもなかった思想の大転換が起きてくるのはモンタージュからではないだろうか。

グローバル時代のネオリベラリズムの終焉が始まったという論評を読む(ザ・ガーデイアン紙)。グローバル・デモクラシーの「公」の観念をいう思想の大転換が必要だと思った。パナマ文章問題は、国民国家の常識のままだと国の中の企業の国の外での節税の問題でしかないが、百年後の人々はそれをグローバル・デモクラシーの「公」に反する行為としてみることになるだろう。債務問題の解決の為に行ったギリシャの国民投票を契機に、国民国家の常識で「私」に属するとされた権利は民主的介入の対象であると考えられるようになったことは重要である。ピケテイの理論が先行している。この問題を考えていくと、公式参拝という伊勢・靖国問題は、東アジアにおけるグローバル・デモクラシーの「公」に反している反道徳的行為であると構成できるだろう。


20世紀はワーキングクラスの時代、21世紀はその没落と「貴族」復興の時代?だがグローバル時代の新重商主義といわれるネオリベラリズムの終焉が始まったという。格差問題と環境問題が存在しないと偽った、2020年東京オリンピックの無理とその大失敗を契機に、国威発揚の19世紀的20世紀的の国民国家の終焉がはじまる。格差問題と地球環境に取り組むグローバル・デモクラシーの「公」の観念と、<一>に包摂されない多様性としての普遍主義という今迄無かった思想の大転換が起きてくるのではないだろうか


この男は国会から離れて五輪閉会式での卑小なコスプレ姿で何をしたいのだろうか!?国民の半分が支持した、歴史的偉業だったと賛美の言葉を贈る人々に問う。しかしただ平らになるだけではない。そのかわりに別の所で高くなるものがある。つまり安倍が偶像破壊的に国会の権威を平らにする代わりに新しい偶像として高くかかげるものはなにか?答えは、喝采しない私と喝采する諸君全員を踏みつけるほどの高さを以て現れる、伊勢・靖国の安倍自身である。そうしてヒトラーのフェテイシュなコスプレ姿に拍手を送っているあいだに、民主主義というゲームの規則が変わってしまっていたのである。


山奥の温泉地に来たら、なんとなく三月に訪ねた伊勢のことを思い出してきた。と、おのずと、本居宣長の墓が二つある理由を考え始めている...。宣長について書いて小林秀雄は墓から問いはじめて、最終的には決定的な答えを出さなかったと記憶している。それが答えだったかもしれない。確かめようがないことだが、おそらくは、墓の場所に関して一貫性よりも分裂があった方が、宣長自画像が伊勢に来た私のこころを動かしたに違いない。墓と彼の名が指示されているところに骨が無いのはどういうことなのか?痕跡が私を動かした。二つの場所の間で感じたり考えていたが、そもそもこちらとあちらを分けることに無理があるかもしれないと気がつくとき、最初からそもそも、分ける知はこの私とは関係がないのだと知る 。(死者の魂を差別化しヒエラルキーをつくる近代国家の祀る知なんかをどうして自分自身のこととしてかんがえなければならないの!?)。思い返すと、伊勢の散策のときは、感性・悟性・理性、構想力という意味での力の多様性の同時性について考えるのに、わざわざ自然法則とか道徳法則、趣味判断とかの語彙を特に使う必要がない場合だった


スポーツ、スポーツ、スポーツ
個人の記録の達成、参加することの意義と平和のための相互理解の理念を応援しているようには全くみえませんが。メダル、メダル、メダル。だれがこんな新聞を読むんでしょうね?マスコミは若者達に徴兵に耐えられる体力が十分にあり人格も改造できることを安倍自民党と防衛大臣の為に証明したいのだろうかと時々勘繰ってしまうのは、このわたしだけでしょうか?中には、「毎日が地獄、辞退者続出」。「闘争心なければ皆で「ユルふわ」と非難」をマスコミは美談として?称えていますが、大袈裟に書きたくないことではありますが、まさかもし煽っているとしたら...「非国民」と指差されたらと語られたエスカレートして止まらない、かつての国家理性と類似しているような悲惨とおぞましい恐怖の影がどうしてもね...

増殖 思想史カフェ 2020年




フーコー

私が臨床医学のテクストを書いた時には、私の考えでは政治的な本だったのですが、誰もそんな風には評していなかった。本当に誰も。それとは反対に、私が『言葉と物』でマルクスはリカードから経済学上の諸概念を受け継いだと書いた時には何が起きたでしょう?−権力のメカニズムにおける監獄と収容所−

『狂気の歴史』がフランスで公刊された時期では、政治に関心を持つ雑誌やグループで、この著作が政治的だと評したものなど一つもなかったのです。[…]そのように評していたのはバルトとンブランショだけで、勿論二人とも非常に重要な存在ですが、政治においてというよりは文学においてでしょう。

イギリス中産階級は必死に、税金がかからない本を読む。なぜだろうか?本というのは階級に分割されもせず階層的に秩序付けられもしていない。このことも言っておきたいのだが、翻訳のおかげでオリジナル言語に固定されないということが大事である。比べたら、この国の本が高いのは、資本主義にまかせているからである。資本主義は大切なものを保つことができない。本に代わるものがないままに、電車のなかで首を垂れたスマートフォンが予め複雑に組織化された私だけのこの私の話を毎日大量消費していくばかりではなあ...


神代も今もへだてなく、たゞ天津日嗣の然ましますのみならず、臣連八十伴獅ノいたるまで、氏かばねを重みして子孫(ウミノコ)の八十續(ヤソツゞキ)、その家の職業(ワザ)をうけつがひつゝ、祖神(オヤカミ)たちに異ならず、只一世の如くにして、神代のまゝに奉仕(ツカヘマツ)れり(古事記傳)


英語のカントなんだけれど、欲求能力は、昔買った本の中でこう訳されているな。The faculty of Desire is the being's faculty of becoming by means of its ideas the cause of the actual existence of the objects of these ideas 存在者が、かれの表象を介して表象されている対象を実現する原因性となる能力、というような直訳、たしかこんな感じだと思う。例えば、表象された対象を実現した喜びのことを思いえがく。言葉遣いが難しいけれど、(実践理性が道徳性を人間に与えるのに)、この欲求能力が、「各人は、自分自身を幸福にするために努力すべし!」という風に、実践理性の真似をして(主体が自身に適用する)行為の格律を自己立法化してみせる例は中々読ませる。欲求能力は自らを超えて実践理性の役割を勝手に行うとも読める。同様に、「第一批判」では、理性が自らを超えて概念の役割を演じることの問題が指摘された。「第三批判」の崇高論では、(構想力と理性が互いにネガテイブに反発しあ...うとみえるが)、構想力の根底に理性があるというか、構想力が理性の役割を演じることがポジティブに分析されているように読めなくもない。「趣味判断」を読むとき、ここで、いかに、構想力と、(悟性そのものとしての)悟性能力とが、諸能力の自由で無規定な一致として一致するかという分析に驚くだろう。そもそも最初から、<悟性><理性><構想力>をそれぞれ、定義すること、表にし分類してしまうというような近代知に顕著な体系化・中心化の無理があるのかもしれないと気がつく。カントの建築術の崩壊を怖れるよりも、ここから「物自体」の力への意志を新鮮に考える。ニーチェはカントを多様性, 生成, 偶然の思想としてし読んだ。ポスト構造主義によるニーチェとカントの読み直しが、1960年代の近代を問い直す運動の展開を通じて行なわれたが、このことが思想史にもった大きな意味をあらためて説明する必要もないだろう




L'enthologie comme la psychanalyse interroge non pas l'homme lui-même, tel qu'il peut apparaître dans les sciences humaines, mais la région qui rend possible en général un savoir sur l'homme  (Foucault)
私は嘗てスペイン王宮に仕える画家でした。この部屋にいる人々に語りかけてくる政治の議論もないし、議論する事実すらないのです。見よ、ただ、この人々に届くのは自分達と関係が無い無意味な象徴と煽ることをやめない感覚だけ。20世紀の問題は、「文化人類学も精神分析も、人文諸科学のなかにあらわれうるようなかたちでの人間それ自身にではなく、人間についての知一般を可能にする分野にむかって問いかける」ことにあります。21世紀の今日は文化人類学のかわりにネオリベの似非経済学を、精神分析の代わりに伊勢・靖国の似非神学を語ることになりました。ネオリベ似非経済学は遥かなる未来からの救済を約束します。現在のだれ一人生きてはいないだろうというほどの時間を待たなければなりません。一方伊勢・靖国の似非神学は遥かなる過去からの救済を約します。この場合も遥かに遠い過去からしか来ないこの救済が届くまで現在のわれわれは全員生きていないでしょう。これが、無意味な象徴と煽ることをやめない感覚、です。自分達と関係がある格差や地球環境について政治の議論がありません

ネオリベラリズムは失敗した近代の神。厄介なことに、失敗するほど極端に行くそのイデオロギーを強めていく。The greater the failure, the more extreme the ideology becomes。私は嘗てスペイン王宮に仕える画家だった。近代の部屋に来た人間達の背後に、亡霊の如き神の顔のつまらない絵が一枚あったものだ。それは王の顔を映した鏡だったかもしれぬ。いや絵を鑑賞しているあなたの反射像だったかも。部屋の水平的構成は曖昧な垂直性に対して秩序づけられる。と、祭壇に変わった場所の一番底にある絵こそが人間を容赦なく押し潰すブラックホールだ。人間たちは水平方向に沿って光がさしてくるドアの出口に向かっているつもりが、気がつかずに、垂直方向の奥の方に絡みとられていく向かっているだけではないか。 そこは危ない!ほかに道がないのか?だがこの道しかないとばかり内部へ向かっていく。'there is no alternative' この人々に語りかけてくる政治の議論もないし、議論する事実すらない。見よ、ただ、この人々に届くのは自分達と関係が無い無意味な象徴と煽ることをやめない感覚だけだ。When political debate no longer speaks to us, people become responsive instead to slogans, symbols and sensation. To the admirers of Trump, for example, facts and arguments appear irrelevant..



グローバル・デモクラシーの場からの問い
ー津田左右吉のナショナリズムと丸山真男の近代

ウエスタン・デモクラシーというのは、西欧と名指される空間でルネッサンスから約五百年かかって一応完成した市民的体制と教えられる。このウエスタン・デモクラシーは近代アジアにとって百年とかもっと短い十年や二十年の期間で本当に実現できるかという問題がある。極端に凝縮された時間のなかで、自由を隷属だと言ったり、隷属を自由だと言ったりするという混乱は避けられず、裏切られたという言葉が繰り返し聞き取られる。たとえば津田左右吉は完全なナショナリズムを戦後憲法に託したという。そしてやはりアメリカに裏切られたとき、彼にとってこれは最初に蒙った裏切りではなかった。また丸山真男をみると、彼がいう「歴史的状況」の歴史とは、近代を形成する歴史、ヘーゲルがいうような歴史であろう。丸山の言葉を素直に読むと、「ヨーロッパにおいてそれ(ウエスタン・デモクラシー)を担った力よりもはるかに、"左"の力」が歴史に裏切られてしまったのである。このとき、(国家に対して国家と等価の組織と暴力を作りだすというだけの)"左"の力が、市民という意味でほんとうにそれほど、自由を実現するという解放する’左’を構成できたのかについて問われるこの問いは意味がある。だが問いは、その思考を、行き詰まりの運動の中に埋葬させてしまうか、または、反駁できないほどの固有なもののへの指示によって自らを取り戻さなければならないというような方向で言説化してしまうとしたら、意味をうしなうかもしれない。言説は、今日の歴史修正主義者達が(書記の時代に先行する)遥かなるブラックホールの如き<過去>に託した完成された固有なものを指示する態度で、しかしこれとは正反対の方向から、想定された<完全>な市民的体制(いわゆる「市民社会」)の背後に、遥かなる’未来’に託した完成された起源・時間・歴史をみいだすからである。そうして何にであれ、右であれ左であれ、神話と現実の間のギャップ、歴史と現実のギャップが絶えず更新される。ギャップが終わらないのはなぜか?それはいつ終わるのか?民主化運動の東アジアならば終わるのか?その条件は何か?この問い自体がグローバル・デモクラシーの場において記述されていくべきであろう。
「...東洋のような、いわゆる後進地域ではウエスタン・デモクラシーそのままが植付けられるのではなくして、西欧的自由によって人格が解放されていったその歴史的過程というものが、ここではヨーロッパにおいてそれを担った力よりもはるかに、"左"の力によって行なわれているし、また行なわれざるをえないという歴史的状況にある」(丸山真男)


The greater the failure, the more extreme the ideology becomes
ネオリベラリズムは失敗した近代の神。厄介なことに、失敗するほど極端に行くそのイデオロギーを強めていく。近代の部屋に来た人間達の背後に、亡霊の如き神の顔のつまらない絵が一枚あったものだ。部屋の水平的構成は曖昧な垂直性に対して秩序づけられる。と、祭壇に変わった場所の一番底にある絵こそが人間を容赦なく押し潰すブラックホールだ・・・

ミシェル・フーコー ‏

人間学が自然と出会うのは、人間の居住可能な場=地球でしかなく、その結果、地理学と人間学を前もって遠くから支配し自然についての知と人間についての認識の統一的な参照枠とされるような、宇宙論的なパースペクティヴと言う理念が霧消してコスモポリスの理念にとってかわられる。−カントの人間学−




8月15日の意味を考える

自己の主観を客観的とみなす誤謬を避けた上で、全人類の他者の立場に自己を置くという公的感覚の先験的場所を、ぎりぎり理念的というか、いや絶対的必然という意味でもはや理念の要請といえなくとも、少なくとも可能性として認めなければ、民主主義から現れた全体主義的包摂にたいして抵抗できるか?たとえその可能性をみとめるとしても抵抗しきれないかもしれないのだ。人間の有限性の分析からは、理論破綻するかもしれないが、その可能性を言うほかない。この私は全人類である、と、たった一人でも全人類として、喝采を拒むこと、(私と人類の間の自由で無規定な一致とて)、この判断力を放棄してはならないこと



Let the Emperor Retire

大変気になるタイトルですが、この<let> という言葉を使ったコンテクストに出逢いませんでしたのでこれがどういう意味をもつのか私もはっきりといえないところですが、ただ海外ジャーナリズムの常として、とくに叫ぶ調子のときは、読者に反対のことをいつも喚起したいからです。天皇は引退できないという事実を強調しているのか、誰が引退させないのか?という事情、なぜかれの意志どおりにさせない国家とはなにか?というような問いかけを読み取れます

結局注釈がないから、あるいはあっても十分にないので解釈が難しくなるだけ、と、こう割り切って考えてしまおうと思っています。読む人間にとっての解釈はもしかしたら付随的なことかもしれないと思うこともあります。むしろ本はいかに本を読むかということ、本がいかに本を解釈するかということがもっといわれてもいいと思います。人間は本を助けるただの媒介者です。つまりその意味は、フーコーが言っていたように、言葉が拡散したとき人間が現れたならば、言葉が集中するとき人間は消滅するでしょう。本が主体ということですが、私はこの世から消滅するまえに、自分が読んだジョイスなりベケットを、何冊か分かりませんが、100冊に読んでもらおうと思っています。たとえば「百年の孤独」に、この私を介して、「ユリシーズ」を読んでもらおうと。多分これからはもっと、本がどの本を難しくおもうのかが問われるべきで、その方が色々面白い発見があるのではないかと思っています。「ユリシーズ」は、「白鯨」を凄く近くに感じ易しく読むでしょうが、(同時代の「意識の流れ」でかかれたといいわれる)ウルフ「波」をものすごく遠くに感じ難しく読まなければならないでしょうね。人間が消滅したらなにもかもゼロになってしまいますから、文学ではありませんけれど、例えば東アジアではマルクス「資本論」みたいなその読み方を知っていると威張る人間が知の権力をもつという不愉快な本が一定の影響力を以て依然として存在していることです。そういう人間は消滅していただきたいです


チェ―ホフとはだれだったのか?

「言葉、言葉、言葉」、と、作家志望のコスチャは苛立ちをもってシェークスピアの言葉をひく。戯曲の存在は演劇にとって不可避な理性のようなものである。演劇は、映画カメラが経験世界とらえるように、言葉によっては十分にとらえきれない生き生きとした世界を迫真性をもって提示することが不可能なのだろうか?戯曲=理性=言葉の演劇の限界をみる人もいる。だがその映画も俳優を必要としてきたのである。映画は演劇なくしては成り立たないことも事実だ。まだどうしても演劇がなくてはならないとしたらその演劇にはたしてなにが残るのだろうか?こうして、21世紀の「かもめ」は、演劇の理念を問うこの探求をもつ、と、私はかんがえる。
第1幕で上演されるコスチャの劇中劇はシェークスピアを喚起するものだ。この劇中劇を絵画フレームの中の絵画フレームとして構成している。ベラスケスの絵画・ラス・メニーナス(女官たち)を思わせるような奇妙な配置で、人物たちが傘をさして観客に相対する。観客として舞台前方に横に並んで座っているこの彼らの背後に、喪服のような白のベールのスクリーンが現れる。「人も獅子も鷲も鸚鵡も、生きとし生けるものはみな、悲しい循環を終えて消えてしまった。もう何十万年もの間、大地は生命を宿すこともない…」。コスチャはこの「循環」を復活させるつもりだろうか?だがなにも投射されないスクリーンを切り裂いているだけだ。まるで何も書かれていない白紙の本を書いているようである。途方にくれる、われわれ観客が目撃するのは、裂け目としての<不可能な循環>の痕跡しかない。
と、いきなりこの舞台は私に、「自転車の車輪」(1913年)のイメージへ連れ出した。「自転車の車輪」はデュシャン初期のレディメイドで、椅子の上に自転車がさかさに立ててある。これとまったく同様に、椅子の上の役者たちが失われた連続性への郷愁に侵入していくのを私はみたのである。存在の孤独と非連続性とを、一つの連続性の意識に代える欲望としての侵入というか...。椅子の上のアルカージナとマーシャの肉体を指示した欲望の線は、トリゴーリン(生計を立てる真面目な労働)とメドヴェージェンコ(家庭)の捕獲から逃れる。それだけではない。ポリーナとドールンの聖なる欲望はシャムラーエフ(国家)の監視からなんとか逃れようとするのだ。最後にコスチャの心情の欲望はビクトリアン朝消費社会のコピーとなったロシアの捕獲から逃れることになるだろう(生命のためでない遊びへ行った?)。
「自由に喋らせてくれ!」。これは戦争法案の強行採決あと、戦争法案に抗議してきた若い女性たちにたいする激しい非難が起きたときに、彼女たちから言われた言葉である。実はそれは日本社会ではじめて言われたことばである。これと同じ方向で、「生きたいと言っているのに!」という言葉は演劇の世界ではじめていわれたと私は考えようとおもっている。この言葉はそれまで一度も言われたことが無かった、言い換えれば、いままで一度も存在しなかったということとして。そういう意味で、「壁なき演劇センター」主催の演劇集団ア・ラ・プラスによって、チェ―ホフ「かもめ」がはじめて上演されることになったのである。ベトナム公演に行くという。もう一度コスチャの言葉を引く。人も獅子も鷲も鸚鵡も、生きとし生けるものはみな、悲しい循環を終えて消えてしまった。もう何十万年もの間、大地は生命を宿すこともない…」。たとえ大地は生命を宿すこともなく決定的な循環がなくとも、絶望の淵から巻き返していくという、生きたいと願っている人々によって世界演劇の絶えず再構成されていく理念を称えよう。



「いやしくも美に関する判断にいささかでも関心が交わるならば、その美学的判断は甚しく不公平である」というのは何故か?芸術の場合は、悟性は快・不快と結びつく対象を考えることができない。感性によって与えられた対象を考えるという関心が科学において成り立っていても、芸術のところでは成り立たない。美学的判断は対象の実在性の表象も関心もないのだ。例えば、トリゴーリンは自己が作り出した「美」についニーナが大きな「関心」をもっていることを告げるとき、彼女にたいして抗議するかのように苛立つが、ここにチェーホフは美学的判断の問題を表現していたのではなかったか。「かもめ」と「湖」が其々、「関心」と「美」に対応するとすれば、「かもめ」は撃ち落とされなければならなかった。2016年、再びトレープレフが撃ち落としたかもめとは「美しい日本」ではなかったか?


ジョルジュ・バタイユ

失われた連続性への郷愁は、全ての人間にエロティシズムの三つの形式、即ち肉体のエロティシズム、心情のエロティシズム、そして神聖なエロティシズムを強制する。私はこの三つの形式の中で常に問題になっているのが、存在の孤独と非連続性とを、一つの連続性の意識に代えることだという事を示したい




現代アートとは何か

感性によって対象が我々に与えられ、悟性は対象を考える。此処に経験というものが成り立つという。悟性は快・不快に結びつく対象を考えられないから、緩やかに感性に関わるとしか言いようがない(例えば、詩の芸術、物で書いた詩の芸術も含めた)。18世紀の人間の有限性の分析からは、このように説明される感性と悟性の関係の差異がそのまま、科学と芸術の差異として導かれる。この合目的性の言説から、感性と理念の間も説明できるか?芸術は、思考できないもの(無限)を思考する(世界は始まりと終わりがある)という主観性をもつのか。これは、人間が何ゆえに人間であるのかという問いかけを構成する。19世紀の文化的理念型へのこだわりはここに述べたカントの断絶の意義を見失ってしまった。20世紀に人間の問いが、ヨーロッパよりも遥かに広い地域的な普遍性をもって行われることになった。ただし「人間」という必要もないし、普遍性も一つである必然性もないということが認識されるようになった。現代アートの鑑賞にかかわる決定的な問題提起は17世紀の終わりから18世紀からはじまるといえるが、18世紀啓蒙的なものが同じようには完全な形で復活することがないのはなぜなのか。再びこれは芸術作品を介して思考を形成する




フラッシュバック

近代日本は、西欧で決して実現しなかったオリジナルな近代を始めるだけだという思いがあったでしょう。近代は、ヨーロッパ帰りの夏目漱石が日本近代は「浅い」と歎いたとき、近世のアジアに属していた普遍主義を完全に断ち切った自らの出発を見直すというチャンスがありました。なんのために誰のための近代化だったのか?日清・日露戦争後、もはや西欧列強による日本の植民地化の危険はなくなったのだから戦争のために国家権力を集中させたあり方を続ける必要がないではないか等々。しかし満州事変から昭和10年代に向かって、結局は東の<西>側から行なっている植民地主義に依存するだけの、自分に都合よく帰還すべき<古代>を未来に作り出していくのであります、天皇に国家権力を集中させた危険な状態のままでね、軍国主義と全体主義が同じ方向を向き始めるまで



マルクスは労働・土地・利潤のような価値を生み出す源泉を求めようと努力したが、不毛な企てに終わった。同様に彼は使用価値という用語を頑固に保持していた。交換市場に絶対的価値が存在しないという単純な事実を認めることは、誰にとってもやさしいことではなかったからである(『人間の条件』22)


私達が何をしようと、それはすべて「生計を立てる」ためにしていると考えられる。(略)社会がみずからすすんで受け入れている唯一の例外は芸術家であって、厳密にいえば労働する社会に残された唯一の「仕事人」である。(『人間の条件』17消費社会)
真面目な行為を全て生計維持の点まで均質化しようという傾向は労働をほぼ一致して遊びの反対概念として定義づけている今日の労働理論に明らかである。生み出す成果に関係なく、真面目な行為は労働と呼ばれ、生命のためでない行為はすべて遊びという言葉に一括されている。(『人間の条件』17)


The Ideas of Rational Cosmology are dialectical. They result in four kinds of opposing assertions, each of which is logically valid. The antinomy, with its resolution, is as follows:

Thesis: The world has, as to time and space, a beginning (limit).
Antithesis: The world is, as to time and space, infinite.

Both are false. The world is an object of experience. Neither statement is based on experience.

Thesis: Everything in the world consists of elements that are simple.
Antithesis: There is no simple thing, but everything is composite.

Both are false. Things are objects of experience. Neither statement is based on experience.

Thesis: There are in the world causes through freedom.
Antithesis: There is no freedom, but all is nature.

Both may be true. The thesis may be true of things-in-themselves (other than as they appear). The antithesis may be true of things as they appear.

Thesis: In the series of the world-causes there is some necessary being.
Antithesis: There is nothing necessary in the world, but in this series all is contingent.

Both may be true. The thesis may be true of things-in-themselves (other than as they appear). The antithesis may be true of things as they appear.

According to Kant, rationalism came to fruition by defending the thesis of each antinomy while empiricism evolved into new developments by working to better the arguments in favor of each antithes


「アジア社会、例えば中国においては非常に逆説的な言い方ですが、コンミュニズムというものが、歴史的にはブルジョアジーが西欧的自由を打立てていった、それと同じダイナミックスを東洋の現実の中で実現しているということもいえるのではないか。もちろん西欧的自由と同じものをつくっているとか、その段階を経過しなければ次の段階にいけないといった図式的なことを言っているのではない。僕はロシア型の共産主義が、モスコーから遠心的に世界的に普遍化していくということは決して信じません。しかしながら東洋のような、いわゆる後進地域ではウエスタン・デモクラシーそのままが植付けられるのではなくして、西欧的自由によって人格が解放されていったその歴史的過程というものが、ここではヨーロッパにおいてそれを担った力よりもはるかに、"左"の力によって行なわれているし、また行なわれざるをえないという歴史的状況にある」(丸山真男『現代政治の思想と行動(新装版)』、未来社、2011年、514頁)。



文学と漫画

「キャラクター論」の理解が私に足りず変な事をいいますが、文学に依るとどうしても一人のキャラに限りがあります。逆にベケットはそれを極限的にゼロにした(固有名も殆ど無い)。有限性はいかに顔たちの無限性に一致していくのか?漫画がキャラクターを生産することによってではないか


詩を中心とするアイルランド文学の根底に、「外的接触から肉体を守ることはしばしば抑圧社会の特徴であったから、回復した肉体は復活した共同体のイメージとなる」というのがあるとアイリッシュからよくきかされたのですが、そこまでではないとしても、<食うわ食わずで他人にかまっている余裕のない社会「ではなかった」>と書かれたのを読んで、他の肉体にかまっているまなざしたちを想像できました、(現在からの想像ですが)。


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2016 june (4) 言葉と表現と射影のブログ/BIGLOBEウェブリブログ
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