言葉と表現と射影のブログ

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zoom RSS 2016 june (5)

<<   作成日時 : 2016/08/26 12:56   >>

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言葉と物のコンパクトな世界 No. 8

世界と共有するものがなく、本の世界の中にしか生きていないような人間達。ドンキホーテは理想を追い求めるあまり誇大妄想に陥った狂気か?ハムレットは決断を下さず懐疑や苦悩に籠る狂気の人?だが彼らの前の時代は人間の存在と言語の存在とが共存していた。彼らをみる世界の視線が変わっただけなのだ。「我々は、最近現れたばかりの〈人間〉というものの明白さによって、すっかり盲目にされてしまっているので、世界とその秩序と人々が実在し、〈人間〉が実存しなかった、それでもそれ程遠くない時代を、もはや思い出の中にとどめてさえいないのだ」(フーコ「言葉と物])。それほど遠くない時代には、人間の存在と言葉の存在が共存していた、したがって、多孔性の、染みとおる、(他者などが)侵入しやすい宇宙であった...(孔子とその弟子達の存在とまだ未編集の先王の言葉の存在のように)

我々は、最近現れたばかりの〈人間〉というものの明白さによって、すっかり盲目にされてしまっているので、世界とその秩序と人々が実在し、〈人間〉が実存しなかった、それでもそれほど遠くない時代を、もはや思い出の中にとどめてさえいないのだ。−言葉と物−

もし〈人間〉が実存しないとすれば、世界と思考と真実がどのようなものとなりうるだろうか、と、たとえ一瞬足りとも想像してみるのは、逆説を弄ぶことと思われるかもしれない。−言葉と物−

異議申し立てが行われうるとすれば、我々の全ての思考を歴史的に可能にしてきたものといかにも調和が取れない故に、多分常軌を逸したものとみなされるような、ひとつの問いかけから出発してのことだろう。その問いかけこそ、まことに〈人間〉は実存するのかと、自らに問うことである。−言葉と物−

『ニーチェがね……哲学者の……誰しらぬ者もない、えら物(ぶつ)ちゅうのえら物の……あのすごい知恵者がな、その著述の中で、にせ札は作ってもいいとか言ってるが。』『あなたは、ニーチェを読んだんですか?』『いや、なに。……』   「桜の園」チェーホフ


羽田空港へ行ったら、「ようこそ、東京五輪2020」の横に、こんなの、ありですか?「ガンバレニッポン」と掲げた大看板をみて蒼ざめました。大会主催国なのに、参加国と参加者全部に応援の言葉をかけることができないのですか?イギリスのオリンピックのときでこんな異常なキャッチフレーズをみたことありませんよ。他の国がなくなっちゃう、こういう国家理性のもとでだからこそ、放射能汚染コントロールの嘘でトルコから奪ってきた国家日本の国際犯罪に鈍感になってしまうのではありませんか?


Bouche de Vérité 「真理の口」

「真理の口」は即ち「権力の口」。権力というものが解釈に依存する現代においては一層そうである。この「真理の口」にたいして、対抗的に、ネットは、政治の領域にむかって、<いつ?><どれくらい?><どのように?><だれが?>と言うことをやめない。<何?>と問う言葉が極端に欠乏していているが、思考はこうしてしか世界を発明できないからだろう。(相対主義の病に肩を竦める言説家も、相対主義の言説を非難するとき、それが<いつ?><どれくらい?><どのように?><だれが?>成立させたかと問うているではないか。)明らかに、現代の「自然の口」が物語る真理は自然とするのは屈辱的な楽観主義である。だが古代から真理は自然であることは一度もなかったのではあるまいか。(今日一層陰険に、歴史修正主義者の「真理の口」が政治は文化であると言うようになってきたことに注意しよう。)真理は思考と世界の間の揺れ動く関係においてしか存在できないのである。。「真理の口」の近代はこのことを教えるのである。「論語」の政治を問う言葉も例外ではないということをおもう。この原初的テクストに関してはかつて存在していたということを承認したうえで、テクストの真理の存在は、<いつ><どれくらい><どのように><だれが>読んだのかに依るのである。孔子は諸々の理念のようなものだろう。ただ孔子は弟子達のどこにも存在していたが、「何?」という問いに対して定義を与えことが非常に稀だったのである。


感じること・考えること・書くこと ー明確な境界線と曖昧な境界線の間で

「文学に現れたる我が国民思想の研究」(全四巻)は厳密な古典批判を行っている。(「厳密」というのは一応、脱神話化したというような意味。)この著作が出版された年1916年は、アイルランド独立の契機となったイースター蜂起Easter Risingの年でもある。1916年の意味を考えるために、この津田左右吉の仕事を読み始めた。彼の著作は思想史講座で扱う。後日の為に、岩波文庫で現在は八冊となっている最初の一冊を読み終わった所、纏まりもないが一応感想のようなものを書き留めておこうと思う。津田がこれを書いた大正という時代背景に鑑みると、いかにも国民精神が自らのコスモポリタ二ズムに対するナイーブな反発を綴っているようにも読めたが、ただしそう単純なことに尽きることではないだろう。ここからは新しい読みはない。むしろこの本に書かれている、明確な境界線と曖昧な境界線のことを考えることになった。最初に、明確な境界線について言うと、貴族は世界を創造できないと繰り返す津田の貴族に対してとるこの距離はブルジョア的な内容のものである。他方で民衆の側に立つ身振りをとりながら、自己の仕事からは、文学というスクリーンに日本思想を映し出したとい...う十分な確信がないと述べている記述がやはり気になる。冒頭で、自らの不完全な思考に関して津田は残念に思うと述べるが、かれの思考が不完全ではなく、むしろ完全だったからこそ、日本思想と民衆との間の完全な統一などは成り立たないしそこに国家の基礎をみるような企ての無理を明らかにしてしまったのである。これはアナーキズム的というほどではないかもしれないが、反ブルジョア的な観察に属する批判であると思う。こうしたことが、やや図式的だが、ブルジョアと反ブルジョアという明確な境界線に立つ立場と考える根拠である。
だが思考に占める曖昧な境界線も存在する。貴族的なものに対する失望は、これを補うような、"借り物"の文字に依存することのなかったと物語られる所謂遥かなる過去への期待が津田においてまったく存在しなかったのか。例えば国民精神の大嵐は貴族の狭い庭では活動できない。大地を掘り起こしていけば国民精神の民衆が存在していたと鼓舞されたことはなかったか?だが「民謡」に求めるべき答えを出すとき津田のその卑近な読み解きに痛い期待ハズレ感を味わうことになる。だが文字のほかになにもない知識人の、文字なき共同体への曖昧な同一化がここには存在しない。脱神話化というか、たしかに彼の妥協しない姿勢を読みとれるのである。(いくら曖昧な境界線に共感をもっていても、)書記行為からしか思考できないということは津田にははっきりしている。ただ書記行為のうえに"借り物"でない本物のオリジナルの国家を打ち立てようとするならば、その劇場はあまりにブルジョア的ではあるまいかという疑問がこの私に残る。
結局、津田は自らの思考を完成させるためにどこに立つのか?明確な境界線と曖昧な境界線の間にまだ開かれて可能性があるとしたら、それはなにか?思考が定位する諸々の理念に、距離の空間が与えられる。津田のの思考とは、ブルジョア的理念から反ブルジョア的理念へ行き、反ブルジョア的理念から再びブルジョア的理念へと帰っていく、ただし同じことが繰り返されないというどこの理念に属するが(関わるが、)決してその部分にはならないという迂回の思考である。結局、問題提起のほかになにも実体的なものを語ることができないのだ。「民族」・「国民」・「日本語」の戯曲を作りだす思想とそれを演じる役者と、「民族」・「国民」・「日本語」という観客との間に区別がないという思想の舞台を発明するとしたら、それは「中国文明」・「朝鮮」・「漢字」から独立した思想の<同一性>のための舞台でしかなく、ここからは文化の古い地層という幻想に絡み取られることだって避けられない。それに対して、津田にとっては、「民族」・「国民」・「日本語」も「中国文明」・「朝鮮」・「漢字」も一体のものである。それらは互いに切り離すことができない。例えば「万葉集」について言及するときは、そこで他の文明からの<自立的差異>を読み解いた。他の文明からの独立を証明したのではない。ただし津田がどうしても問題にしなければならなかったのは、「万葉集」からなんとかギリギリの自立の精神を読もうとしてもこの自立にはあまりに「公共的なもの」がともなっていなかったのである。大正時代のこの裏切られ感も、実は津田のテクストに理念的なものを付け加えるものとして読み解くことができるか。植民地主義に絡みとられていかざるを得なかった近代日本国家にたいするアンチテーゼとして読めるか。西欧の植民地化から免れるために国家権力を集中させた体制ー日清日露戦争という他者を自己の目的の道具化にするような形で中国と韓国を犠牲にしたブルジョア新国家の軍国主義ーから自立できる理念として普遍化できるものとは何?テクストは問題提起しかない



<東京五輪>寸劇

スーパマリオ「帽子とマント、衣裳を返しておくれ。いつまで僕は裸なの?雨にうたれてさむいし」

アベ「どうしても必要なんだ、あと四年待って。衣装を取り上げられたら皆ががっかりして僕を引き裂くんじゃないかと心配で仕方ないんだよ」

スーパマリオ「それならば心配するな。みんなが支持している君を引き裂く者なんていないよ、裸となる君自身のほかに..」


MESS !
Just as fear and the impotence from which fear springs are antipolitical principles and throw men into a situation contrary to political action, so loneliness and the logical-ideological deducing the worst that come s from it represent an anti-social situation and harbor a principle destructive for all human living-together. ( H. Ardent)


Le meilleur moyen de prédire l'avenir est de le crée; l'avenir sans fascisme




Apart from the unfiniShed natiOnalism,
aRt
is able to stand alOne



・Nur im echten Reden ist eigentliches Schweigen möglich.(Heidegger) (Authentic silence is possible only in genuine discourse)

・La désolation n'est pas la solitude. La solitude requiert que l'on soit seul, alors que la désolation apparaît jamais mieux qu'en la compagnie d'autrui.(...) l'homme solitaire, au contraire, est seul et peut par conséquent être ensemble avec lui-même>, puiseque les hommes possèdent cette faculté de < se parler à eux-même>. Dans la solitude, en d'autre terms, je suis < à moi-même>, en compagnie de mon moi, et donc deux-en-un, tandis que dans la désolation je suis en vérité un, déserté par tous les autres. (...) Le problème de la solitude eat que ce deuz-en-un a besoin des autres pour redevenir un; l'un d'un individual immuable dont l'identité ne peut jamais être confondue avec celle de quelqu'un d'autre. Pour être confirmé dans mon identité, je dépends entiérement des autres; et c'est grâce salutaire de l'amitié pour les hommes solitaires qu'elle fait d'eux à nouveau un <tout>, qu'elle les sauve du dialogue de la pensée où l'on demeure toujours équivoque, qu' elle restaure l'identité qui le fait parler avec la voix unique d'une personne irremplaçable. (H. Arendt)



「すごい」「心に光を灯す」「感動する」とあたかも「日本のこころ」という美談に「共感」する右翼に顕著な語り口。だが右翼だけではない。政治問題・社会問題にかかわる対象にアプローチするとき、構造を分析するよりは...



デリダの本は他者にHello!と言った。脱構築思想はHello!の思想なのである。ところが漢字に思想がないとばかりに、言論をゲンロン/ げんろん にしてしまう態度は、(私の理解不足でなければ、)他者にむかってHello!と声をかける思想であるとはみえない。何故こういうことが起きるのか?





長年デリダを日本に紹介してきたのは高橋哲也氏である。


Gothic(ゴシック)12c半〜15cに、ロマネスクの後に流行した建築様式のこと。その特徴に尖頭アーチや飛び梁などが挙げられる。彫刻は主に建築彫刻であり、教会堂の入り口周辺などに聖母などの彫刻が施され、絵画は壁画に代わり、ステンドグラスが盛んになる。


魯迅の「阿Q正伝」の主人公は、最後にのぞんで「二十年たてば、また一匹の男伊達…」という歌をうたうが、明治維新の急速な階級文化の過程は、かつての無頼の徒を、逆に謹厳をよそおう藩閥政府の最高の権力者に変えてしまったのである。
(花田清輝)


内閣支持率が62%に達したという(日経世論調査)。なぜ、内閣支持率が上昇しているのか?支持者たちは、日本経済が海外から繰り返し警告を受けている事実を知っているだろうか?現在有効需要が不足したまま不均衡に安定している経済の現実を正しく理解しているといえるか。市場に任せていたら一体いつ、<必要とされる>均衡を回復できるのかは分からないというのに。経済学者の浜矩子氏は指摘する。「日銀のマネタリーベースは7月末で325兆円となり、GDPの6割を超えています。政府が発行する長期国債を市場からバンバン買っているためですが、GDP比の4割近くにまで達した終戦直前の異常な状態に比べても、さらに高いのです。中央銀行が通貨価値の番人としての位置づけの放棄を強いられて、国家のための通貨供給装置となるというのは、最も極限的な「ファシズムの経済学」だといえるでしょう。それを看板政策として推し進めているのが安倍政権なのです」。付け加えたいことは、現在は、貧富の格差と戦争拡大が同時に進行していった戦前のパターンを繰り返しているのではないかという問題だ。しかし安倍内閣は、経済政策で弱者の救済をしようとしない。寧ろ広がる格差の問題を放置して構えわないようにみえる。伊勢・靖国の救済神学としての影響力を広げたいのではないかと言われても仕方がない。世論調査を行う新聞たち自身に答えが示されているではないか。全国新聞でこの問題の全体像を正確に語る人間がいないのだ。


権力分立は本当にそれほど権力分立なのか?誰が市民の権利を侵害したかといえば、米国は英国議会への不信があった(’代表権なければ課税なし’)。立法を正す司法権が憲法の番人だ。他方でフランスの立法権の主導権は行政(絶対王政)に対する不信感と無関係ではないだろう。(今回の判断のように、憲法から正す働きがなければ普遍主義は停滞してしまうのだろう)。日本の権力分立は即ち権力集中。最高裁が国による人権侵害を助けるという現実は、いつ終わるのか?
ー>イスラム教徒の水着「ブルキニ」を仏の自治体が禁止した措置をめぐり、行政裁判の最高裁にあたる国務院は26日に、(自治体による)禁止措置は「信教と個人の自由という基本的自由を明確かつ違法に侵害する」として凍結する初の判断を示した。



独立か従属かという二項対立に絡みとられるのではなく、第三項へ行くこと。書く対象から独立していなくともなんとか自立していること、その自立が開かれた意味をもつこと、それを自分のものとして獲得していくこと。ホ〜、ふくろう猫が生涯かけて自らに与える書くことの課題ニャ
 

書くことの問題について

12年間いたダブリンについて書きたいとおもうけど、現在は、対象(アイルランド)の外に生きているのだし代表してもいないので、(かつてのイギリス人のように、地球を眺望する植民地主義者でもない限り)、対象を一般化して書くことなどはできない。現場の経験知の反論が聞こえてしまうしね。どうしても書くというのならば、公共的な火星人として、どんな国と時代からも対等な世界性Weltlichkeitを自分のものにするというほどの覚悟が必要だろうとおもう。現存在Das Seindeは、たとえ誰一人も喝采しない普遍主義でも、なんとか自己の立場を世界に基づく世界性の立場に置かないと、いくら公平中立にみえても対等以下の関係の記述(たとえば自己が属する隠蔽されたナショナルな視点)をつくり出してしまうことも起きるから。喝采の一般性にたいしては沈黙すること。そのとき、「本当の語ることにおいてだけ、本来的の黙ることが可能なのです」(ハイデガー「存在と時間」桑木務訳)Nur im echten Reden ist eigentliches Schweigen möglich. .(Authentic silence is possible only in genuine discourse)だがわかっていてもそれほど簡単なことではない、というのは、普遍世界を複数形では書くことは矛盾だから、世界性も複数で書くことも無理ではないかという厄介な思想問題につきあたるから。と、このように書いていることが対象(アイルランド)について書くことになっているのだろうか。対象を語る自己を含めた全体のことにかかわることである。書くことの表象の問題もこの全体を構成する不可欠な要素であることはたしかだ。書くこととはなんて遠回りなことなんだろう。だけれど対象に近づくためにはこれ以上の近道を知らないのである。(そこにその対象が存在している保証もないが)


嘗ての政治の芸術化、芸術の政治化に続くような、政治のキャラクター化という悍ましい包摂が始まってしまった。政治のキャラクター化は、どんな嘘によって東京五輪開催を招致したのかという記憶を、「私(安倍)の話」という見かけだけの明瞭さ、退屈平凡という分からなさへと覆い隠してしまう


ニール・ジョーダンは映画「ブッチャーズ・ボーイズ」のなかで、札つき少年の凄い幻覚を描いていた。この少年は自然誌に紹介されるような地球の裏側にいたといういかにもステレオタイプの赤毛の男の子。アイデンティティの政治が極端に行く50年代。貧困は解決されない。餓死を恐れて国を出ていく者たち。国に残っても、仕事が無い父親は競馬の賭け事かテレビをみているしかない。少年の父親はインデイアンを追跡する西部劇をみながら騎兵隊のラッパを吹く(インデイアンというのはアイリッシュのヒーローであるからこの場面はなんとも屈折したアイロニーだ)。ある日マリアの声をきく奇跡が、施設に送られたこの少年に起きる。そして少年はアイルランドの山が核爆発するのをみる。メディア研究の先生が解説していたのは、現在は忘却されたか、思いだされてもタブーなんだそうだが、50年代の貧しいアイルランドは自らをこの韓国に重ねていた時期があったことを知らないと、この少年の幻覚の意味がわからないと言っていた。それから朝鮮戦争とか冷戦時代の核のオブセッションのことに言及。またこの先生は監督と共に、「崇高」論にたいする批判を共有しているということもわかった。そもそもこの「崇高」と何か?思い出すと、アイルランドの風景に崇高の念を抱く人々はアイルランド文学なり演劇の意義を十分に理解していた人たちだった。私が風景に感動を覚えなかったのは、私に「知」がなかったからだと気がついた。文学も読まない現地のアイルランド人は風景に崇高を感じていたようには思えない。彼らはナショナリズムと区別がつかないような宗教的感情をもって風景を自分達のものと感じていることは確かだ。だが少年はそこにいたのか?わたしはいまなお、この映画が伝えたかったことがわかっていない


「東」と「西」の近代

「東」と「西」との力の関係のことを指示しているとき、東西というのは、単に東と西の地理的分割の表象ではない。この関係は、劣ったとされた「東」は「西」に優越的な地位をみとめるという二項関係の言説に依る。たとえば、植民地化したが文明化をもたらしてくれた国に感謝しようという話は、大英帝国を「西」の項に、アイルランドを「東」の項に置くという前提で成り立っているような話である。この話は、内戦の危機と混乱のときエスタブリッシュメントのの現政権が国民に教育が与えてくれたから感謝しようという話と類似しているのは偶然ではないようにおもう。このときは、アイルランドと指示されているものは「東」の項から「西」の項へ移る、と同時に、民衆は「東」の項に位置づけられるのである。と、この点について認識を深めようとして、「植民地化された国は・・・」と口にしたらもう相手は我慢ならんとばかり不快感をあらわにする。他者と共に歴史の認識を形成することは口で言うほど簡単なことではない。もちろんこれは東アジアの問題の根底にあるものだ。わたしはどう考えたらいいのか?このわたしに明確な答えがない。だが、2000年に小田実が語っていた言葉から学ぶと、絶対的西と絶対的東のあいだに、無数の「西=東」が存在する。それが「西=東」の全体のかたちではないだろうか。そう全体のさまを見すえることで、私自身の自分の位置のありどころと責任もはっきりする。ここで、フランス革命から近代がはじまったこと、そこから「東西」の近代が初めてはじまったという認識だけは動かせないと考える。この認識をとるのはヨーロッパ中心主義の立場に立つからではない。国策的ポストコロニアリズムが自己に都合よく「近代」を発明してしまうことの問題を指摘したいからである。


Wiki


Sociability[edit]

Simmel refers to "all the forms of association by which a mere sum of separate individuals are made into a 'society,'" which he describes as a, "higher unity,"composed of individuals. He was especially fascinated, it seems, by the, "impulse to sociability in man,"which he described as "associations...[through which] the solitariness of the individuals is resolved into togetherness, a union with others," a process he describes by which, "the impulse to sociability distils, as it were, out of the realities of social life the pure essence of association,"and "through which a unity is made," which he also refers to as, "the free-playing, interacting interdependence of individuals."

He defines sociability as, "the play-form of association," driven by, "amicability, breeding, cordiality and attractiveness of all kinds." In order for this free association to occur, he says, "the personalities must not emphasize themselves too individually...with too much abandon and aggressiveness."He also describes, "this world of sociability...a democracy of equals...without friction," so long as people blend together in a spirit of fun and affection to, "bring about among themselves a pure interaction free of any disturbing material accent."As so many social interactions are not entirely of this sweet character, one has to conclude that Simmel is describing a somewhat idealised view of the best types of human interaction, and by no means the most typical or average type.

The same can be said of Simmel when he says that, "the vitality of real individuals, in their sensitivities and attractions, in the fullness of their impulses and convictions...is but a symbol of life, as it shows itself in the flow of a lightly amusing play,"or when he adds: "a symbolic play, in whose aesthetic charm all the finest and most highly sublimated dynamics of social existence and its riches are gathered." Again, one has to conclude that he is describing human interactions at their idealised best and not the more typical ones, which tend to fall a long way short of his descriptions.


Wiki

New Media is a term used to define all that is related to the internet and the interplay between technology, images and sound. As studies of online community proliferate, the concept of online community has become a more accepted social construct. Studies encompassed discursive communities; identity; community as social reality; networking; the public sphere; ease and anonymity in interactions.These studies show that online community is an important social construct in terms of its cultural, structural, political and economic character.

It has been demonstrated that people's ideas about community are formed, in part, through interactions both in online forums and face-to-face. As a result, people act in their communities according to the meanings they derive about their environment, whether online or offline, from those interactions. This perspective reveals that online communication may very well take on different meanings for different people depending on information, circumstance, relationships, power, and other systems that make up communities of practice. People enact community the way it is conceived and the meaning of community evolves as they come up with new ways to utilize it. Given this reality, scholars are continually challenged to research and understand how online communities are comprised, how they function, and how they are connected to offline social life.

Symbolic interaction theory was discussed in “The Cyberself: The Self-ing Project goes online, Symbolic Interaction in the Digital Age.” Robinson discusses how symbolic interaction theory explains the way individuals create a sense of self through their interactions with others. However, she believes advances in technology have changed this. The article investigates the manner in which individuals form their online identity. She uses symbolic interaction theory to examine the formation of the cyber “I” and a digital “generalized other.” In the article, Robinson suggests individuals form new identities on the internet. She argues these cyber identities are not necessarily the way the individual would be perceived offline



Wiki より引用

「個人と社会」の関係について、シンボリック相互作用論は、社会が人間を規定する側面よりも、人間が社会を規定する側面を強調している。社会とは、解釈を行う人びと(「主体的人間」)によって、日々形成・再形成を経験している「動的」で「過程的」なものと捉えられなければならない(「動的社会」観)。決して、静態的で不動な社会[18]が、人びとを一方的に「社会化」し「社会統制」の檻に閉じ込めているわけではない。シンボリック相互作用論の「社会観」の内実を、ブルーマーは以下のように要約している。

このアプローチ〔=シンボリック相互作用論〕では、・・・・人々は、その中で、展開途中にある自らの行為を互いに適合させ合わなければならないような、巨大な相互作用過程の中にいるものとして理解される。この相互作用過程は、他者〔たち〕に対して何をするべきかに関する表示をおこない、また、他者からの表示を解釈する[19]ということから成り立っている。彼等は対象[20]からなる世界に住んでおり、この対象の意味によって、自らの適応活動や行為に方向づけが与えられる。彼等の対象は、自分自身という対象も含めて、彼等が互いに相互作用することを通じて、形成されたり、維持されたり、弱められたり、変容されたりしてゆく。・・・・人々は互いに異なった様式でアプローチし、異なった世界に住み、異なった意味のセットに基づいて、自らの行為を方向づけてゆく。にもかかわらず、研究されているのが、家族であれ、少年非行のグループであれ、企業であれ、政党であれ、我々はそこに、表示と解釈の過程を通して形成されるものとして集合体の活動を見出さなくてはならないのである。

Blumer、(1969)


Thus, human interaction is mediated by the use of symbols and signification, by interpretation, or by ascertaining the meaning of one another's actions (Blumer 1962).


Herbert Blumer (1969) set out three basic premises of the perspective:
"Humans act toward things on the basis of the meanings they ascribe to those things."
"The meaning of such things is derived from, or arises out of, the social interaction that one has with others and the society."
"These meanings are handled in, and modified through, an interpretative process used by the person in dealing with the things he/she encounters."

The first premise includes everything that a human being may note in their world, including physical objects, actions and concepts. Essentially, individuals behave towards objects and others based on the personal meanings that the individual has already given these items. The second premise explains the meaning of such things is derived from, or arises out of, the social interaction that one has with other humans. Blumer, following Mead, claimed people interact with each other by interpreting or defining each other's actions instead of merely reacting to each other's actions. Their "response" is not made directly to the actions of one another but instead is based on the meaning which they attach to such actions. Thus, human interaction is mediated by the use of symbols and signification, by interpretation, or by ascertaining the meaning of one another's actions (Blumer 1962). Meaning is either taken for granted and pushed aside as an unimportant element which need not to be investigated or it is regarded as a mere neutral link or one of the causal chains between the causes or factors responsible for human behavior and this behavior as the product of such factors. (Blumer 1969). Social interaction is the source of meaning, and out of which the typical communication media which have meanings, i.e., the language arises, and is negotiated through the use of it. We have the ability to name things and designate objects or actions to a certain idea or phenomenon. The use of symbols is a popular procedure for interpretation and intelligent expression. Blumer contrasted this process with behaviorist explanations of human behavior, which does not allow for interpretation between stimulus and response.


3分間でわかるデリダ
デリダ的には、文字(エクリチュール)の課題とは、いかに起源を隠ぺいするかということに尽きますニャ。(梟猫のネコとしての起源を隠せ!あるいは、フクロウとしての起源を隠せ!)。だけどねー、起源は根拠がないことの隠蔽だったから、結局その課題はここに来る。隠蔽の隠蔽、ホホ〜、つまり無根拠性の開示であるニャッ!(梟猫はどこから来てどこへ行くかわからないということさあ) 不純な文字(エクリチュール)に、まちがってもー、純に惚れちゃいけない。あなたの善き魂の状態を読み込んじゃダメダメ。読めないほうが倫理的なのさ、そのまま他者の姿を見ているという意味で。
(おっと、そこのお兄さんお姉さん、お坊ちゃんお嬢さん、梟猫の絵を描くときは、直線的進行を避けて頂戴よ。迂回するときには、全基底を巻き込む二階テンソルの記号よりも、もっと無声でね!)あとは、大切な外部の問題がありますけどね。

「東」と「西」との力の関係のことを指示しているとき、東西というのは、東と西の地理的分割のことではない。この関係は、劣ったとされた「東」は「西」に優越的な地位をみとめるという二項関係の言説に依る。たとえば植民地化したが文明化をもたらしてくれた国に感謝しようという話は、大英帝国を「西」の教える項に、アイルランドを「東」の教化される項に置くという前提で成り立っているような話である。この話は、内戦の危機と混乱のときエスタブリッシュメントのの現政権が国民に教育が与えてくれたから感謝しようという話と類似しているのは偶然ではないように思う。このときは、アイルランドと指示されているものは「東」の項から「西」の項へ移る、と同時に、民衆は「東」の項に位置づけられるのである。と、この点について認識を深めようとして、「植民地化された国は・・・」と口にしたらもう相手は我慢ならんとばかり不快感をあらわにする。他者と共に歴史の認識を形成することは口で言うほど簡単なことではない。もちろんこれは東アジアの問題の根底にあるものだ。わたしはどう考えたらいいのか?このわたしに明確な答えがない。だが、2000年に小田実が語っていた言葉から学ぶと、絶対的西と絶対的東のあいだに、無数の「西=東」が存在する。それが「西=東」の全体のかたちではないだろうか。そう全体のさまを見すえることで、私自身の自分の位置のありどころと責任もはっきりする。ここで、フランス革命から近代がはじまったこと、そこから「東西」の近代が初めて始まったという認識だけは動かせないと考える。この認識をとるのはヨーロッパ中心主義の立場に立つからではない。国策的ポストコロニアリズムが自己に都合よく「近代」を発明してしまうことの問題を指摘したいからである



小田実は阪神・淡路大震災からラジカルになるー


「この国・日本には、どうしてかくも常識はずれ、常軌を逸したことが起こるのか。いや、この国は引き起こすのか。「阪神・淡路大震災」の被災地・西宮で被災後暮らしてきて、これで三年余。私が今あらためて考えることのひとつは、これだ。」


絶対的被害者と絶対的加害者のあいだに、無数の「被害者=加害者」が存在する。それが「被害者=加害者」の全体のかたちです。そう全体のさまを見すえることで、自分の責任のありどころもはっきりする。

小田民『ひとりでもやる、ひとりでもやめる―「良心的軍事拒否国家」日本・市民の選択』2000







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2016 june (5) 言葉と表現と射影のブログ/BIGLOBEウェブリブログ
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