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<<   作成日時 : 2016/09/25 02:25   >>

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South Korean protests demand resignation of President Park
Thousands of protesters took the streets of Seoul on Saturday night, demanding the resignation of President Park Geun-hye amid an escalating corruption and influence-peddling scandal.


Chaque fois que nous traçons une ligne de variation, les variables sont de telle ou telle nature, phonologique, syntaxique ou grammaticale, sémantique, etc, mais la ligne elle-même est a-pertinente, asyntaxique ou agrammaticale, asémantique. L'agrammaticalité, par example, n'est plus un caractère contingent de la parole qui s'opposerait à la grammaticalité e la langue, c'est au contraire le caractère idéal de la ligne qui met les variables grammaticales en était de variation continue. - D&G (Postulats de la linguistique)


われわれが変化線を引くたびに、変数は、音韻的、構文的、あるいは文法的、意味的など様々な性質をもつのだが、線そのものは、非関与的、非構文的、あるいは非文法的、非意味的なのだ。例えば、非文法性はもはやラングの文法性と対立するパロールの偶発的な性格ではない。逆に、それは、文法的な変数を連続変化状態ににおく線の理念的精確なのだ。...Each time we draw line of variation, the variables are of a particular nature (phonological, syntactical or grammatical, semantic, and so on), but the line itself is apertinent, asyntactic or agrammatical, asemantic. Agrammaticality, for example, is no longer a contingent characteristic of speech opposed to the grammaticality of language; rather, it is the ideal characteristic of line placing grammatical variables in a state of continuous variation. - D&G ( November 20, 1923, ; postulates of linguistic)

伊藤過程


戦後憲法を非難する安倍と日本会議は、アメリカ国家から押し付けられたことを第一の問題にします、自主性が奪われてしまったと。もしそのことが考えなければならない本質的に決定的な事柄ならば、彼らが称えるだけで一度も疑おうとはしない教育勅語の場合も、天皇の名で発布された、事実上明治国家から押し付けられたのです。やはり上から与えられたというその形について問題にしないといけません。大正に確立をみる帝国主義に向かうこの国家から、自主性が奪われたことに変わりないでしょう。
「教育ニ関スル勅語:教育に関して与えた勅語。以後の大日本帝国において、政府の教育方針を示す文書となった。一般的に教育勅語(きょういくちょくご)という。1890年(明治23年)10月30日に発布され、1948年6月19日に国会の各議院による決議により廃止された。」

ヘイトスピーチは、大きな声でいうことがかつて許されなかった内容が、安倍首相の登場から出てきたということ、このことを見逃してはならない問題だとおもいます。心に思ってもそういう言葉を出さなかったわけですが、だけれど、「土人」という言葉は抑え込んだ言葉としてもわれわれになかったのではないでしょうか。ナショナリズムというか、大正の帝国日本に戻っちゃったというか、安倍首相がいなかったらこういう排他的なことは起きなかったのです。相手の立場を思いやる他者への思い入れが、支持率7割の安倍自民党の日本社会から徹底的に喪失している酷い現実たいする憤りのことばをさがしています。

アボリジニーズが使う楽器はディジャリドゥーという木の筒っぽのようなもので、それを吹いて音を出します。また、ブーメランや狩猟に使う槍を叩き合わせてリズムをつくります。昔から語り継がれている、「ドリームタイム」と呼ばれる神話を音に託して、部落の長老が、若い人たちに語って聞かせます。

「形而上学は背景に沈み、今や個人的倫理学が、最大の重要性をもつにいたる。哲学はもはや、真理を勇猛に追究する少数の人々の、前方を行く火の柱ではなくなり、それはむしろ、生存闘争の跡を追って、弱者や負傷者をすくい上げる救急車となったのである」(ラッセル「西洋哲学史」)

ブリュンヒルデは、ファザーコンプレックスか、反対に、フェミニズムなのか?その両方なのか?昨夜は新国立劇場でワルキューレDie Walküreの4時間。なんか、ブリュンヒルが、デウオータンにたいして抗議したこの言葉について考えてしまったなあ。「というのも私自身よく考えても一つのことしか浮かばなかったから、あなたの愛したものを愛するということです」(wie mein eigner Rat nur das ein mie riet; zu lieben, was du geliebt.)。ワグナーは究極的なことを言っているようにもおもえる。つまり、惨めになるのは、愛していない過去を愛するふりをするから。統合する必要のないものを無理に統合しようとするから、無理に愛するふりをしなければならない。

究極的なことは長い言葉で言うと伝わらないことを知っているが、それでも言う。なにを?言ってから考えることにしよう。つまりこうだ。惨めになるのは、愛していない過去を愛するふりをするから。統合する必要のないものを無理に統合しようとするから、無理に愛するふりをしなければならない。

惨めになるのは、愛していない過去を愛するふりをするから。統合する必要のないものを無理に統合しようとするから、無理に愛するふりをしなければならない。

・愛していない過去を愛するふりをするから惨めになっていく。共同体は、統合する必要のないものを、無理に統合しようとするから、愛するふりをしなければならない。共同体が同一化するものに同一化するということが称えられるとき、開かれた外部に敵対的になっていないか?愛されていない内部はすでに消滅してしまっている場合があることを疑うべきだ

この映画については、Tariq Ali, Colin MacCabe, Terry Eagletonが書いていて、もちろん、Derek Jerman自身も書いています。フロイト精神分析との関連で面白いことを書いたのはTerry Eagletonで、この映画の台本の台本をかいています。(意訳で失礼)、ウィットゲンシュタインは、フロイトみたいに、どうも答えを持っていた感じだが、それを全部明かすことなく宙づりにして、むしろ読者に、self-demystification 自分で行う脱神秘化(脱神話化)を促し、分析の参加を実現しようとしたというようなことを指摘していました。またウィットゲンシュタインにおける社会への帰属に先行した、言語の帰属の問題も指摘されていて、かれのアイデンティティを形作る社会構成、かれの帰属する言語から、オーストリア=ハンガリー帝国、ソビエトとアイルランド、イギリスにおける(必ずしも左翼ばかりではない)かれの友達のネットワークといった社会がみえてくるはずなのですが、(アルカイックな芸術と前衛芸術の両方を好んだ)近代の芸術的なモダニストの側面を強調していました。デレク・ジャーマンによると、この哲学者は相当に映画をみていたことを指摘しています。彼曰く、Ludwig believed language was a series of pictures. Later, when he had watched too many film, he abandoned this notion.

Question;Why do we have to put up with sexual harassment?

Answer; A lot of women, especially women just starting their careers, encounter men who do or say things that are sexually inappropriate. Men in powerful posts are particularly dangerous because the higher you get, the less people say no to you. That's true everywhere - in business, in politics, in the military, in the civil service, even in journalism.

ホー、川崎市民センターでパスポート申請手続き。毎日のお髭剃りも鏡見ずにやるので、旅券用提出写真見て、えー、こんなかおしていたっけ?と驚く。「適当な写真例」で日頃の顔と著しく違わないようにとあるので、フクロウネコのかお写真でいいじゃんにゃ

トマス・アクナスは消滅してしまう魂の問題を死滅しない存在の問題として置き換えた。が、消滅という問題は新プラトニズムの神秘主義において扱われる。身体のかたちに魂が映像化されていると想像してみると、ブルーノBrunoが考えたように、右足と左足、右手と左手、それと頭で五で、魂は<五>という数字を持っているのかもしれない。だけど身体の器官はN個あるかもしれないから、どんな数でもかまわない。身体と魂が数を介して対応関係をもっている。問題は、魂は身体から離れてたとき、つまり死んだときである。朱子学的な語彙でいうと、鬼神はどこに住むのか?鬼神は身体に、再び故郷に帰るように戻ろうとするかもしれないが、地中の身体は腐ってすでに消滅してしまっている。魂は仕方がない、天に向かって上昇するしかないわけだが、いずれ消滅する運命だろう。だが完全に消滅しきってしまう前に、お天道さまから光を浴びることによって究極の言葉に住むようになるという大きなチャンスがあるかもしれない。そのことで彷徨う闇を輝かせることができるかもしれないのだが、そのときなにを言うのか?それまでは究極のことが言えなかった。(窮極の言葉なき孤独は、言葉なき暴力の場合と同様に、自らの存在を、言葉でしか理解できない人間のまえにして、あらわすことができない。)魂は永遠の言葉に住んだとき、国が作り出す境界線とヒエラルキーで他者を囲い込むな!国はふたたび戦う国家として国家自身を祀るな!!と、生者に向かって人類の理念を言うことになるのではないか。そしてそれが国家の起源よりも大切な憲法の原初だったとわたしはかんがえる。

Le seuil du classicism à la modernité ( mais peu importent les mots eux-même - disons de notre préhistoire à ce qui nous est encore contemporain) a été définitivement franchi lorsque les mots ont cessé de s'entrecroiser avec les représentations et de quadriller spontanément la connaissance des choses. - Foucault

「どんな一個人といえども人格性の全圏を己が内に吸収しきることはなく、どんな一個の主体といえども主体性の全圏を己が内に吸収しきることはないからである。公民たちの現実的自己意識としてではなく、そのかわりに、国家の共通の魂として、ひとりの人、一個の主体であるような、そのような国家理念主義などというおのはまた何と評すべきだろうか?これ以上のことをヘーゲルはまたこのセンテンスで展開することはしなかった。ところで今、このセンテンスと絡み合っている第二のセンテンスを見てみよう。ヘーゲルにとっては肝心なことは、君主を現実的な「神人」、理念の現実的化身としてあらわしてみせることである。」
ーマルクス「ヘーゲル法哲学批判序説」(大月書店)

Les avocats japonais à l’offensive contre la peine de mort
日弁連の死刑廃止を求める宣言採択
L’affaire avait relancé les critiques contre le système judiciaire. Au Japon, la reconnaissance de culpabilité repose principalement sur l’aveu, obtenu pendant la garde à vue, qui peut durer trois semaines sans véritable contrôle. Le taux de condamnation dépasse les 99 %.
日本での有罪認定は主として、実質的な司法統制がないまま3週間にも及びうる警察留置中の自白に依拠し、有罪率は99%

ホ〜、この何年間は機会をみつけてはイタリアとフランスばかり行っているのだけれど、東京から脱出できないという、もう行けなくなることも考えて、ジェイムス・ジョイスの世界を拡充発展させる方向で、ダンテ「神曲」と一緒に読んでいくのがいいだろうし、またジャン=リュック・ゴダールの世界の充実のために、プルースト「失われたときをもとめて」から考えてみるときにきたのかもしれない。ヨーロッパのかわりに、多数の部屋と入り口をもった参照系として、開かれた全体になっていけばニャン..

ミシェル・フーコー
私にとって決定的だったのは、サルトルが戦前に書いたバタイユについての論考を戦争後になって読んだことだった。サルトルの論考は、無理解、不当、尊大、憎しみ、そして攻撃性の見本のような代物だったので、その時以来私は断固として反サルトル、バタイユ支持となった。−M・フーコーとの対話−

mit verhaltener Stimme
mit santfer und schwacher Stimme
in a undertone
a voice gentle and soft



ジャン=リュック・ゴダールの世界 No.30

「不在のうえに君臨するですって?それはあなたのやることで、わたしのやることではない」と詩人なら言
うだろう。

・暗闇のショットと現在不在を問うことの意味。詩人はゴダールのこと?かつて人生と等価と言っていた映画の時代は終わっただけではなく、もはや語るべき映画もないとき、文学が残されていた



In praise of Chinese poem
漢詩をたたえる

1933年、55歳の作
河上はこの年の1月12日に検挙され、拘置所から妻にあてた手紙の中に本詩を記した。’若いころから吉田松陰を慕い、後にはマルクス・レーニン主義を学んだ。万巻の書を読んで来たが、それがいったい何だったというのか、老齢となった今、獄中の人となっただけである’ (無韻詩)
ー宇野直人「漢詩を読む」NHKラジオテキスト


die große Dinge sagt
wichtige, erstaunliche
saying big things
important astonishing


Lorsque quelqu'un demande à quoi sert la philosophie, la réponse doit être agressive, puisque la question se veut ironique et mordante. La philosophie ne sert pas à l'État ni à l'église, qui ont d'autres soucis. Elle ne sert aucune puissance établie. La philosophie sert à attrister. Une philosophie qui n'attriste personne et ne contrarie personne n'est pas une philosophie. Elle sert à nuire à la bêtise, elle fait de la bêtise quelque chose de honteux.
Gilles Deleuze 、Nietzsche et la Philosophie
Presses Universitaires de France, Paris, 1967

「けれども、このようなしるしをとおしてのみ古典主義時代の思考を認知するということは、その基本的配置を無視することであり、こうした顕現とそれを可能にしていたものとのあいだの関係を、完全になおざりにすることとなるだろう。」(渡辺一民訳)
Mais ne renconnître la pensée classique qu'à de tels signes, c'est en méconnaître la disposition fondamentale; c'est négliger entièrement le rapport entre de telles manifestations et ce qui les rendait possibles.



人間は書物を読むのではなく、読むことで自分自身を読む。同じように、彼は絵画を観るのではなく、その絵画を観ることで自分自身を観るのだ。
ーコクトー『存在困難』

封建制はヨーロッパを築き、このヨーロッパは、11世紀から13世紀にかけて、はじめての青春を、最初の活力ある時期を迎えることになる(フェルナン・ブローデル『文明の文法』)


理念<多としての普遍主義>は十分に美的理念(芸術)を説明しているかということは常に気にしていますが、私の思考不足で十分な答えがありません。ただ、理念<多としての普遍主義>は、自然を素材にして実現する理念ではなく、歴史に実現する理念だと認識し始めています。完全な唯一の歴史はなく、どの歴史も完成せずに不完全ゆえにどの歴史も各々の「正しさ」をもつというこの時代にあって、理念<多としての普遍主義>が私を考えさせるのです。理念<多としての普遍主義>は不完全なものそれ自身に美を見出すようにと悟性を拡張し想像力を拡大させよと要請してきます


For our trust in the reality of life and in the reality of the world is not the same, The latter derives primarily from the permanence and durability of the world, which is far superior to that of moral life.
- Hannah Arendt
「生命のリアリティにたいする私達の信頼と、世界のリアリティにたいする信頼は同じものではない。後者はなによりもまず、死すべき生命の永続性と耐久性よりはるかに優れている世界の永続性と耐久性から生まれるものである。」(ハーレント『人間の条件』)


ミシェル・フーコー

我々は解釈するまさにその瞬間に解釈されるべく委ねられているという事実を、あらゆる解釈者は知っておかねばなりません。この解釈の過剰性は、現在西洋文化を奥深いところで性格づけている一つの特徴に相違ないのです。−ニーチェ・フロイト・マルクス−



三木清『人生論ノート』(1941年)より

感情は主観的で知性は客観的であるという普通の見解には誤謬がある。むしろその逆が一層真理に近い。感情は多くの場合客観的なもの、社会化されたものであり、知性こそ主観的なもの、人格的なものである。真に主観的な感情は知性的である。孤独は感情ではなく知性に属するのでなければならぬ。

孤独であるとき、我々は物から滅ぼされることはない。我々が物において滅ぶのは孤独を知らない時である。




漢字を受容した時代の約千年後、17世紀の京都からは、12世紀原書の漢字と、漢字仮名交じり文で考えながら、東アジアの知のために、中国文明と対等な思想、朱子学批判の漢字テクストを書いた儒者たちがあらわれました。例えば、「童子問」がそういう本だとおもうのですね。外部性をその由来からもつ漢字、この他者の言語をいかに自分のものにしていくか、ここから、自立的に成熟した思考を獲得できるかということは、最低1000年要するような事柄なのですね。さてこの時代のことを考えますと、「日本書記」で国家のアイデンティティーを公に書いた理由に、国際情勢の変化の中で独立国家を作り出さなければならぬという政治的・軍事的な理由があったのでしょう。このとき、「日本書記」は中国知識人と朝鮮知識人と(かれらが育てた)日本知識人の共同作業だった可能性があります。いくら日本デビューといっても、先行する1000年の高度な文明が中国にありました。日本知識人たちはその他者の言葉ではじめて考えることができたと断定してしまいますがそういってもそれほど間違いではないだろうと思います。大胆にいってしまうと、これは、その<前>は一度も考えることがなかったという意味でもあります。「否、話し言葉が思考できる言葉として存在していたよ」という反論がくるでしょう。いわゆる「やまとことば」の存在ですね。しかし書かれる言葉(漢字)を排除しきった前提で、もっぱら話し言葉だけで概念を考えることができるものでしょうか?私は自分の海外にいた経験からいって大いに疑問です。現在のわれわれは強力な「やまとことば」を持っていたとしても、それで概念を考えることができないとしたら、やはり生活に役に立たないという理由でそれを棄てるでしょう。あるいは自然に消滅してしまったことになるでしょう。だから、「日本書記」、「古事記」という書かれた言葉で考えられたことを考えていくしかないじゃありませんか、と、これが私の構成であります。これとパラレルな話ですけど、近代ヨーロッパ語も近代日本語も、近代の<考える>人間を中心におきながら、書かれる言葉(ラテン語と漢字)を排除しきった前提で、話し言葉を捉えることがほんとうにできるのでしょうか?話し言葉だけでは人間は<考える>ことができないというのにですよ。このパラドックスを解決するために、漢字を日本語の記載主体の表現機能において捉えようというわけです。「漢字はもはや借り物ではない」としてしまうのですね。ところが、「漢字は借り物である」とする日本語の問題を解決するために、再び、それを推進した日本語の固有性の構造に依拠することはおかしいですね、ゆるされないはずです。問題となってくるのは、国の立場から防御的に、国語学の新しい対象となった漢字を再びただの共同体の心の声の等価物とするようでは、漢字を日本語の同一構造に包摂してしまうことなのです。日本精神分析の立場が構成する言語論的二本文化論は結局は、漢字の「不可避の他者」(子安)としての<介入>の歴史を消し去ることにしかならないこと、閉ざされた内部性の響きがきこえてくることについてよくかんがえてみる必要があるとおもいます。実際に、時枝言語学の問題はここにあったのです。(子安宣邦氏の「漢字論」(岩波書店)、漢字と「国語の事実」ー時枝言語過程の成立ー、漢字と自言語認識ー国語と日本語とー、を参考にしました。勉強中)




朝鮮の漢文 朝鮮の漢文訓読は、返り点を用いない。「有朋自遠方来、不亦楽乎」を日本の漢文は「ともありえんぽうよりきたる、またたのしからずや」と読むが、朝鮮漢文では、「朋」「来」「乎」のあとにハングルで付属語を書き、そのままの順に読んだ。ハングルが作られる以前には付属語と似た音の漢字を横に小さく書いた。日本語にあてはめれば、「ユウホウがジエンポウライならばフエキラクコじゃのう」という感じである。
 このような訓読の仕方から、「不可不」(必ず)、「甚至於」(甚だしきは)、「于先」(まず)といった語が朝鮮語に入った。日本漢文では「〜せざるべからず」「はなはだしきは〜にいたる」「さきに」というような読み方をしたので、このような漢語は考えられない。「ことば逍遥記より引用]


【社会運動】

現状や予想される事態に関する不満に基づいてなされる変革志向的な集合行為。かつては労働者を中心とした階級闘争的運動が中心だったが、1960年代以降「新しい社会運動」と呼ばれる人種差別反対運動、女性解放運動、環境運動などが興隆し、社会運動が多様化するようになった



国家を国家として形成するということはどういうことかという国家の理念が問われる。「手の届くところにある」人類的な問いの原初性を見ることを嫌い、(窮乏からあらわれてくる)独裁者が語る高遠にしておよぶべからずその真理と物質的切迫性を喜ぶものたちと、共同体の人々が窮極に由るところの人の道を共に語ることはできない。理念としての卑近。映像は手を指示している。私は究極的にどこに立つのかという理念的問いかけを指示している。つまり人間の目的とはなにか?


That which has always been accepted by everyone, everywhere, is almost certain to be false.
- Paul Valéry

論語の世界 No.15

「顔淵問為邦」(衛霊公第十五第十章)はいかに読むか?岩波文庫の金谷訳は、「顔淵が国の治めかたをおたずねした。」とある。ついでに英訳、仏訳をみると、金谷の現代語訳と同じ意味で、顔淵の問いが国の統治、治世を問うものと理解されているようだ。
Yan Yuan asked about how to order the state.
Yan Hui demanda comment gouverner un État.
しかしこの顔淵の問いの性格が、国の統治、治世を問うものとは異なることを伊藤仁斎は正しく察した。「邦を為す」とは国を創為する意。国の紀綱法度を創造することをいう。顔淵の問いは、「冢宰(ちょうさい)、邦治を掌り、以て王を佐く。邦国を均しくす」といわれる国家創建についての問いだったのである。つまりどういう理念をもって国家をつくったらいいかを問うている。つまり国家を国家として形成するということはどういうことかという国家の理念が問われていたのである。子安氏の訳を参考にしながら読むと、ここでの孔子の古代国家のあり方に言及した言葉を解釈した仁斎の考えは、民に迷惑をかけるな!に集約されている。民のために国家をつくること、それは民のために時をつくることと同じ意味をもつことである。なんという言葉の力だろうか。漢字というのはおおげさになってしまうのか。だが話し言葉の安易な現代語訳に依存することを許さない、漢字の書かれた言葉によってこそ、「草枕」の夏目漱石の高さに誘われるというものだ。この高さから、(私の理解だけれど)、民に迷惑をかける、理念なき国家とは現在の緊縮財政を自己目的化している国家のことではないかときがつく。そこで民は生活できないのである。



from L ' A C A D E M O S

Fondements philosophiques de l’existentialisme sartrien :
l’en-soi, le pour-soi et le pour-autrui

Nous trouvons les profonds mobiles de l’existentialisme sartrien dans la distinction entre l’être en-soi et l’être pour-soi. Nous y ajoutons le pour-autrui comme un élément complémentaire.

Sartre fit du thème de la « Nausée », le titre d’un roman célèbre (1942) où il présente l’expérience de l’être. La nausée est un vertige ontologique qui saisit tout homme. La nausée existentielle est un malaise qu’on éprouve en face de la « contingence » de l’être. L’être entretient des rapports étroits avec l’en-soi et le pour-soi. L’en-soi est la caractéristique de toute chose, de toute réalité extérieure à la conscience. La contingence de l’en-soi fait qu’il n’a pas en lui-même sa raison d’être. Mais sa contingence est encore le lieu de son absoluité. Car l’en-soi ne dépend d’aucun autre être, il est opaque aux autres êtres, il n’est ouvert ni aux autres, ni à soi-même. L’en-soi est sans cause, sans raison et sans nécessité. Dieu est l’être nécessaire, un pur être de raison. L’en-soi est incréé. Il est, et c’est tout.

Or être seulement un en-soi, ce n’est pas exister réellement, car cela seul existe vraiment, qui est connu par un sujet qui pense. Le monde comme un en-soi n’existe que lorsqu’il devient un pour-soi ou un monde pour-nous. Il n’y a un monde que dans le surgissement du pour-soi. Pour Sartre, à la suite de Heidegger, l’homme est l’être pour qui il y a de l’être et de l’existence. Le pour-soi est le rien par quoi il y a des choses. Si l’homme est un pour-soi et non un en-soi, et que l’essence ne pré-existe pas à l’homme, on peut parler comme Emmanuel Mounier d’un « refus originel de l’être vivant » par l’existentialisme.

Les hommes sont des pour-soi, ils entretiennent quelques rapports avec les autres. Ils sont doués de conscience et de liberté. La conscience fait qu’une fissure se trouve établie dans la compacité de l’être. Il y a une distance intérieure entre le moi-sujet et le moi-objet. Malgré tout l’homme est libre parce que c’est encore lui qui est l’auteur de cette « faille de néant ». Cherchant à boucher cette césure intérieure, il tend à devenir un pour-soi en-soi, à se faire Dieu.

La liberté est l’existence même de l’homme : « nous sommes une liberté qui choisit, mais nous ne choisissons pas d’être libres. Nous sommes condamnés à la liberté, jetés dans la liberté ou, comme dit Heidegger, délaissés » (L’être et le néant). L’homme est librement ce qu’il devient, il crée librement ses valeurs et tend à se créer son essence. Il est une série d’entreprises organisées librement. L’existence de l’homme est antérieure à son essence. L’homme a par rapport à sa situation un libre projet qui lui donne sens. Comme le montre L’existentialisme est un humanisme, Situation et liberté s’entremêlent pour conduire l’homme existant vers son essence. Seul autrui est un obstacle à cette liberté existentielle.
Le « pour-autrui » de Sartre reconnaît l’existence d’autrui. Mais il existe comme un sujet qui me transforme en objet. Autrui est pour moi « un système lié d’expériences hors d’atteinte dans lequel je figure comme un objet parmi les autres. » Les autres sont l’enfer de l’homme. Faisant de moi un objet, la présence d’autrui me fige, me prive de ma liberté, de mon existence. C’est pourquoi la relation existentielle à l’autre est toujours conflictuelle. La relation de sujet à sujet étant impossible, le conflit est l’essence des rapports entre consciences. C’est le désir de la liberté qui caractérise l’être moral.

アイルランドに入ったとき純粋異教徒のこの私にも(笑)、デリダ的ジョイシアンからは、Hello!を連発されました。ジョイスは、傘の形をしたスピーカーを通して Hello!と呼びかけると棺桶に繋がる蓄音機 常に死者(スター)をみていることに気がつけばですね、このジョイスがベンヤミンの問題意識に沿って、テクノロジーが媒介する神話世界の(根拠なき)現前を前衛的に描き出していたその画期性を理解できるのではないでしょうか。ジョイスのブルームが交通していこうとする死者とは、文字通りの死者ではありません。それでは、郵便論的な靖国公式参拝になってしまいます(汗)。そうではなく、他者としての死者は、たしかに近くに存在しながらも遠くにいるとかんじられるようなを書きました。文学の倒錯に陥る滑稽極まる想像と一笑するなかれ!今日私たちが過去の映画をみるときにそうではなく、他者としての死者は、たしかに近くに存在しながらも遠くにいるとかんじられるような存在です。つまりマルクス的な意味で'疎外された人々'、多様性として受け入れられていない人々のこと。具体的には「ユリシーズ」では、主人公である、アイルランドに生まれたユダヤ人のことでした。もし今日ジョイスが生きていたら間違いなくアラブ人を主人公にするはずです。なぜか?Ulysee gramophone を読むことは、 反時代的に、多様性にたいしてHello!と言うことの倫理性を読むことにほかなりません。そしてデリダのエクリチュールも、政治のルソー的演劇化、すなわち単一の声が支配する全体主義の領域にたいして批判的に介入していくという脱構築的のHello!、なのでした。Hello!

昔の投稿

In praise of the revival of Irish literature.
M.Synge wrote his poem and fiction with the distinguished language, the hiberno English based on the gaelic grammar that he have positively studied in Alan Island.I think it considered as the "documentarily fictional" in terms of Godard.
Being influenced by Synge, Joyce wrote the topological multilingual space in Europe where he determined his "self-imposed exile" with his wife, Nora. It was not only a revival of realism, mythic realism, but one of Europe's mind after the great collapse, the First World War.
So Finnegans Wake is considered as the "fictional documentary"
To the universal history of ri(e)ver-run FW splits the <Irish> into two. It alienates the feminine principle <greekenhearted yude> from the father-son's principle <Irish>
シングのアラン島ゲール語文法を基底とした英語の文学は、ドキュメント的フィクション。他方、ジョイスのヨーロッパに定位したトポロジー的多言語空間はフィクション的ドキュメンタリーに対応する。FWは、男性原理の〈アイルランド人〉を、女性原理の〈ギリシャ精神のユダヤ人〉から異別化し排除した

アイルランド西部を舞台としたシングの戯曲「西の世界から来た色男」。この「西」の語は、チェコ人にとって、地理的文化的に「西欧」を表すと、チェコ語翻訳者は解説した。「色男」がダブリンから来たという意味にかぎられない。ヨーロッパの最も西の方へ行けば行くほど限りなく東に近づく。文化的に固定した位置は存在しない。


・ダブリンに来たジャンヌ・モロー、祖母がアイリッシュと言っていた。コメディー・フランセーズの役者ジャンヌはブニエル映画でデビューした。当時衣装係はジャンヌを醜い女性と考えて全身を洋服で隠そうとした、とか。実際はなんでもないのに、いつもデュラスからは、「あなた、苦しんでいるんでしょう」と同情された。憂鬱な表情が実存的で、50年代の観客に受けた

無慈悲な"単なる肯定"。「犬とアイリッシュはお断り」。1950年代の英国人の家の掲示板の文句だった。実際に彼等は犬だった。ロンドンに辿り着いた人々は疲労と空腹で公園で死んだ。アイルランド人がアイルランド人である、"単なる肯定"。ああ、なんと無慈悲な!

同時代的に、ただフーコを紹介し、そしてただフーコへのドゥルーズ批判を紹介するだけでは足りない。言説家・論説家は、ヨーロッパ中心主義の唯一の普遍主義ではもうやって行けないのだという究極的なことを言う。だがこの究極的なことを言葉で説明すると、特に長い言葉によると、わからなくなってしまう。ここにだれでもぶつかってしまう。言説家・論説家フーコーにおいてもこの問題があった。この困難にもかかわらず、普遍主義の時代と対等な自己/非自己を確立するために、「言葉と物」のフーコーは普遍主義の内部から、ヨーロッパ中心主義の唯一の普遍主義の言説に対して果敢なたたかいをつづけた。ドウルーズからみると初めから勝ち目のない戦略だったかもしれない。わかっていても、ただフーコーはそれをするしかなかったのではなかったか。それにしても、やはりフーコーならば、自己のヨーロッパ中心主義批判のあとに、原理に戻る人間が必ず出てくるということを、光と闇の交代の如く繰り返し生じるように、ちゃんと見抜いていたのではないだろうか?日本哲学者が「われわれはドウルーズにおけるフーコー読解の核心に近づいた」といった後に、普遍主義とたたかうことを止めて、再び「原理」という普遍主義に頼らなければならないほど、われわれは普遍主義に寄生しているということを了解していたかもしれない。たしかに、権力批判が問題となってくる。それは「監獄の誕生」からはっきりしてきたことだ。ただ、権力批判が大事と言っても、それを一般論で紹介するだけでは、近代日本における対抗<ヨーロッパ>として出てきた諸言説をどう考えていいのか教えてくれはしない。普遍主義近代のもとで国家神道・儒家言説(教育勅語)の影響によって成り立った国体的言説を、また靖国言説を、分析せずしてどうやってそれらの権力批判をやるつもりなのか?だから近代日本における言説を批判することを止めてしまってはならない。と、これは他人事ではなく、自分自身にたいして、自己批判を込めて書くのである。


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2016 sept (2) 言葉と表現と射影のブログ/BIGLOBEウェブリブログ
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