文学・大杉栄  9   本多敬




新聞記者は溜息をついた。「大杉さんが捕まったという事実の証明ですよ」。

「一部始終目の前で見ていたのよ。わたしの目の前で、栄さん達が捕まったよ。私の目が証明です」。

「しかし、政府と警察は新聞社に一言の説明もないのですよ」。

野枝は再び立ち上がり、記者に指差した。「政府と警察が事実を隠しているだけのことでしょう。ジャーナリスト達は、政府と警察から貰った情報がなければ、新聞記事を一つも書けないのかしら。あなた達が自分達の力で取材しているものといったら、スポーツと芸能話だけじゃない。新聞の名に値しないわ。恥を知れ!」。

新聞記者は不快とばかり顔を背けた。「わが国のジャーナリズムを侮辱するつもりですか」。

「侮辱と感じる良心がまだあるようだけど、大正デモクラシーといっても、政府と警察の発表を右から左に流しているだけでは、本当の言論の自由とはいえないわ」。

「しかし、野枝さん、大杉さんが捕まった、と判断するには、令状とか、手錠とか、ロープといった物を見ているはずではないですか」。

「そのとき、二人の男達に力ずくで押さえつけられていたから、分らないのよ。栄さん達が捕まった。憲兵達が連れて行ってしまった。どうか、わたしの言葉をその通りに書いてください。お願いします」と、野枝は請願した。

「我々の仕事は理性を必要とするのですよ。あなたがいくら叫んだとしても、支離滅裂な話だと読者には意味が伝わりません」。

野枝は動転した。 「どうしよう、栄さんが捕まる!」。

新聞記者は冷静に言った。「正確な文法は「捕まった」と言うべきではありませんか」。

「栄さん達が捕まる、捕まった。同じことだわ」。

「大杉さんの他に、誰が連行されたのですか」。

「自宅には、わたしと栄さんの二人しかいませんでした」。

「大杉さん一人でしたら、「栄さんが捕まった」と言うべきではないでしょうかね。「栄さん達が捕まった」という日本語は間違っていますよ。それで、誰が捕まえたのですか。」と、新聞記者は言った。

野枝は声を振り絞って訴えた。「大勢の男達が栄さんを取り囲んだ。憲兵隊どもが!」。

「憲兵隊と判断なさった根拠は一体何ですか」。

「軍隊だったかもしれない、そんなこと、はっきりと分からないのよ。とにかく、国家権力の豚どもが栄さん達を捕まえに来たのよ」。

「なぜですか」。

「分からない」。

「いや、困りましたね。果たして、文章にできるかどうか。」と、新聞記者は嘲笑った。

「なぜ、あなたはわたしの言葉を聞いてくださらないの!?」。

「いまタイピングさせますから、この文で正しいか、おしゃってください。「大正十一年九月十六日正午、自宅にて大杉栄、逮捕されると、友人からの通報あり」。この文でよろしいでしょうか。」と、新聞記者は言った。

「友人って、どういうことですか。なぜ、私の名前を書かないのですか」

「しかし、あなたと大杉さんとの関係がはっきりしないじゃありませんか。」と、新聞記者は言った。

「私は大杉の妻です」。

と、新聞記者は呆れた。「冗談じゃない。大杉さんには過去に同時に交際していた女が沢山いたんです。真の意味で、妻と呼ぶに値する女は結局存在しなかったのです。そういう、あなただって、二人の子供もいた他の方の妻でした。そういう意味で、誰も大杉さんの妻と名乗る資格がないのです。あなたは何者でもない」。

野枝は言葉を返した。「あなたの言葉の意味が分りません。もっと、説明して下さい」。

新聞記者は説明した。「いいでしょう。革命の力と大杉さんが呼ぶもの、自然発生的直接行動に憧憬の念を抱いていますが、しかし、そのことによって家族の倫理を犠牲にすることには、私は反対です。すべての女子は彼女が所有する処女を、それを捨てるにもっともな時に達するまで、大切に保たなければなりません。さらに言えば、不適当な時において処女を捨てるのを罪悪であるが如く、適当な時にありながら、なお捨てないのもまた等しく罪悪です。処女を捨てるに値するに最も適当な時はいつかというと、各自の内的生活の経験から見る時は、それは恋愛の経験において、恋人に対する愛情の中から官能的欲求を発し、自己の人格内に両者の一致結合を真に感じたときにほかなりません。こう考えると処女の価値は誠に大きい。日本婦人の中心生命である恋愛を成就させることが、日本婦人の全生活を幸福にする第一条件です」。

野枝は新聞記者に告げた。「しかし、私達女は、そんな天使のような処女の捨て方をのみ想像することはできません」。

新聞記者はしばらく間をおいて促した。「皇室に範を求めるべきではありませんか」。

野枝は軽蔑の眼差しで語った。「処女とか貞操とかいうことのほかに、もっと根本的な思索と行動があるはずです。それは真に人としての自覚です。女性達は、自己と自己との全周囲との関係を自覚しなければならないのです。栄さん達こそ、そのような自己と自己との全周囲との関係なのです。私が主張しているのはこの関係に他なりません。そして、そして、栄さん達が捕まってしまった」。

「それじゃ意味不明だ。主語の文法が間違っている。単数形でなければならない。新聞の読者は頭を使わないんですよ。単純明快なものを求めているんです」と、新聞記者はペンを置いた。

「栄さん達が捕まってしまった。栄さん達が捕まってしまった。栄さんが・・・」と、野枝は繰り返した。




君が代が朝鮮を侵略したとき、わたしは黙っていた、なぜって、わたしは朝鮮人じゃないから。
君が代が中国を侵略したとき、わたしは黙っていた、なぜって、わたしは中国人じゃないから。
君が代が共産党を弾圧したとき、わたしは黙っていた、なぜって、わたしは共産党員じゃないから。
君が代が国会を停止したとき、わたしは黙っていた、なぜって、わたしは民主主義者じゃないから。
君が代が労働組合を解散させたとき、わたしは黙っていた、なぜって、わたしは組合員じゃないから。
君が代が抗議する先生達を辞めさせたとき、わたしは黙っていた、なぜって、わたしは先生じゃないから。
君が代がわたしのところに来たとき、助けてくれる仲間はひとりもいなくなっていた。



文学・大杉栄

69新聞記者は溜息をついた。「大杉さんが捕まったという事実の証明ですよ」。「一部始終目の前で見ていたのよ。わたしの目の前で、栄さん達が捕まったよ。私の目が証明です」。「しかし、政府と警察は新聞社に一言の説明もないのですよ」。


70と、野枝は再び立ち上がり、記者に指差した。「政府と警察が事実を隠しているだけのことでしょう。ジャーナリスト達は、政府と警察から貰った情報がなければ、新聞記事を一つも書けないのかしら。あなた達が自分達の力で取材しているものといったら、スポーツと芸能話だけじゃない。


71・・新聞の名に値しないわ。恥を知れ!」。記者は不快に感じ顔を背けた。「帝国のジャーナリズムを侮辱するつもりですか」。「侮辱と感じる良心がまだある様だけど、大正デモクラシーといっても、政府と警察の発表を右から左に流しているだけでは、本当の言論の自由とはいえないわ」

72「しかし、大杉さんが捕まった、と判断するには、令状とか、手錠とか、ロープといった物を見ているはずではないですか」。「その時二人の男達に力ずくで押さえつけられていたから、分らないのよ。栄さん達を、憲兵が連れて行ってしまった。どうか私の言葉をその通りに書いて下さい」

73「我々の仕事は理性を必要とするのですよ。あなたがいくら叫んだとしても、支離滅裂な話だと読者には意味が伝わりません」。野枝は動転した。「どうしよう、栄さんが捕まる!」。新聞記者は冷静に言った。「正確な文法は「捕まった」と言うべきではありませんか?」。

74「栄さん達が捕まる、捕まった。同じことだわ」。「大杉さんの他に、誰が連行されたのですか」。「自宅には、わたしと栄さんの二人しかいませんでした。」。「大杉さん一人でしたら、"栄さんが捕まった"と言うべきではないでしょうかね・・・

75・・・"栄さん達が捕まった"という日本語は間違っていますよ。説明になっていない。それで、誰が捕まえたのですか?」と、新聞記者は言った。野枝は声を振り絞って訴えた。「大勢の男達が栄さんを取り囲んだ。憲兵隊どもが!」。


76「憲兵隊と判断なさった根拠は一体何ですか」。「軍隊だったかもしれない、そんなこと、はっきりと分からないのよ。とにかく、国家権力の豚どもが栄さん達を捕まえに来たのよ」。「なぜですか?容疑は?」。「分からないわ」。

77「いや、困りましたね。果たして、文章にできるかどうか。」と、新聞記者は嘲笑った。「なぜ、あなたはわたしの言葉を聞いてくださらないの!?」。「いまタイピングさせますから、この文で正しいか、おしゃってください・・・。


78・・"大正十一年九月十六日正午、自宅にて大杉栄、逮捕されると、友人からの通報あり"」。この文でよろしいでしょうか。」と、新聞記者は言った。

79 「友人って、どういうことですか。なぜ、私の名前を書かないのですか」「しかし、あなたと大杉さんとの関係がはっきりしないじゃありませんか。」と、新聞記者は言った。野枝は大声で、新聞記者にむかって告げた。「私は大杉の妻です! 」



80すると、新聞記者は呆れた。「冗談じゃない。大杉さんには過去に同時に交際していた女が沢山いたんです。真の意味で、妻と呼ぶに値する女は結局存在しなかったのです。そういう、あなただって、二人の子供もいた他の方の妻でした。・・・


81・・そういう意味で、誰も大杉さんの妻と名乗る資格がないのです。あなたは何者でもない」。野枝は言い返した。「言葉の意味が分りません。説明して下さい」。新聞記者は説明した。「いいでしょう。革命の力と大杉さんが呼ぶもの、自然発生的直接行動に憧憬の念を抱いていますが、



82・・しかし、そのことによって家族の倫理を犠牲にすることには、私は反対です。すべての女子は彼女が所有する処女を、それを捨てるにもっともな時に達するまで、大切に保たなければなりません。さらに言えば、不適当な時において処女を捨てるのを罪悪であるが如く、・・・


83・・適当な時にありながら、なお捨てないのもまた等しく罪悪です。処女を捨てるに値するに最も適当な時はいつかというと、各自の内的生活の経験から見る時は、それは恋愛の経験において、恋人に対する愛情の中から官能的欲求を発し、自己の人格内に両者の一致結合を真に感じたです。

84・・こう考えると処女の価値は誠に大きい。日本婦人の中心生命である恋愛を成就させることが、日本婦人の全生活を幸福にする第一条件です」。野枝は軽蔑の眼差しで反論の言葉を返した。「しかし、私達女は、そんな天使のような処女の捨て方をのみ想像することはできません!」。


85新聞記者はしばらく間をおいて促した。「皇室に範を求めるべきではありませんか」。野枝は自分の考えを語った。「処女とか貞操とかいうことのほかに、もっと根本的な思索と行動があるはずです。それは真に人としての自覚です。・・・

86・・女性達は、自己と自己との全周囲との関係を自覚しなければならないのです。栄さん達こそ、そのような自己と自己との全周囲との関係なのです。私達が主張しているのは、この関係に他なりません。そして、そして、栄さん達が捕まってしまった!」。


87「それじゃ意味不明だ。主語の文法が間違っている。単数形でなければならない。新聞の読者は頭を使わないんですよ。単純明快なものを求めているんです」と、新聞記者はペンを置いた。「栄さんが捕まった。栄さんが捕まってしまった。栄さん達が・・・」と、野枝は繰り返した。


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君が代が朝鮮を侵略したとき、私は黙っていた、なぜって、私は朝鮮人じゃないから / 君が代が中国を侵略したとき、私は黙っていた、なぜって、私は中国人じゃないから / 君が代が共産党を弾圧したとき、私は黙っていた、なぜって、私は共産党員じゃないから /

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/ 君が代が国会を停止したとき、私は黙っていた、なぜって、私は民主主義者じゃないから。/ 君が代が労働組合を解散させたとき、私は黙っていた、なぜって、私は組合員じゃないから。/


90
/ 君が代が抗議する先生達を辞めさせたとき、私は黙っていた、なぜって、私は先生じゃないから。/ 君が代が私のところに来たとき、助けてくれる仲間はひとりもいなくなっていた。









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