反論  ―柄谷行人氏の"世界史のなかの中国―文革"を読んで




反論 
―柄谷行人氏の"世界史のなかの中国―文革"を読んで

私の理解不足を恐れるが、柄谷行人氏の中国論は、いわば"資本論としての北京"と思えてならない。同化政策と交易の関係はマルクスの価値形式論の機械的適用にみえる。思考の地図とて、遥か俯瞰的な高さからの眺望だけに、亡命者達の複雑な立場と少数民族の歴史的現実を、捉えたといえるのだろうか? さて、柄谷氏は「脱政治化」のことを指摘する。1990年以後、「資本主義」のかわりに、専ら「市場経済」という言葉が使われるようになった事実に注目している。「それは資本の蓄積が資本と賃労働という階級関係にもとづく事を無視し、また資本主義経済が自然的・永続的であるかの様に考える」隠蔽であった。「このような脱政治化が日本や先進資本主義国でおこった」が、「実は、中国でも同じであった」と述べる。「社会主義的市場経済」の名の下に、資本主義経済(新自由主義)が急激に進行し、各地で深刻な階級対立が生じたことの指摘に関しては、とくに私も異論がない。だが柄谷氏が次の様に統括するとき、たちまち私は彼の思考の地図が分らなくなる。
「ところが、それはナショナリズム、エスニック・アイデンティティー、あるいは人権問題などの"政治"にすり替えられた。それらは政治的に見えるが、脱政治的なのだ」。
これに関して、中国に関心を持ち始めた初学者の私のようなものが、柄谷氏の分析に口を挟む十分な知識もないし能力もないのは確かだ。ただ、中国の独立は農民革命の性格をもっており、そうである以上、ポストコロニアリズム研究は、理念的には、中国の独立がアイルランドの独立に依拠したとみなす意見があるのだ。(正確には、農民革命を訴えた中産階級を中心とした独立運動というべきだが)。俗に言うと、アイルランドが抱える問題はそのまま、中国が抱えている問題と重なり得る。ちなみに、中国も依拠してきた第三世界の非同盟的連帯のモデルは、アイルランドの独立にあったといわれる。その独立は、政治的には独立したけれども、大国との経済的な依存を断ち切れない新興諸国の括弧つきの「独立」であった。
ここで結論を先取りしてしまうと、「政治化」か「脱政治化」かの区別はそれ自体では意味をもつものではないとおもう。むしろ大切なのは「抵抗」があるかどうかなのだだ。例えば、「政治化」であっても「抵抗」を欠いてしまっているのが、エスタブリッシュメントの「政治」の現実だ。他方、「脱政治化」でも「抵抗」を伴なっているのが、市民社会的な運動である。
例えば、ダブリンで十万人の集会デモが実現させた人々は (the ordinary people)、米国のイラク爆撃決行に反対するだけでなく、エスタブリッシュメントの「政治」に異義申立てを行った。よく注意して吟味すべきなのは、民族主義的ナショナリズムが植民地主義に対決するとみなすあまりにナィーブな見解だろう。許しがたきことに、現実にはエスタブリッシュメントの「政治化」のもとで、彼らのナショナリズムといえば、米国型市場主義と(見返りに、後に交易と商売と雇用を運んでくる)爆撃機を自国に手招きしたことだ。これは、中国に於ける「社会主義的市場経済」のエスタブリッシュメントを考えるためのひとつの視点を与えるのではないか。
思い返すと、ダブリン十万人反戦デモ、ロンドンのシティー占拠(反G20)に参加したおかげで、世界が以前と全く違ってみえたきたことを思い出す。専制君主的帝国(米国)と、従う貴族達(IMF,世界銀行、EU、金持ち主権国家クラブ)が協力し合う体制が目の前に現れたのだから。このような自分の経験に即して言えば、ネグリが「帝国」と呼ぶのは、「世界市場」のことであり、これを軍事的に支えているかぎりで、アメリカが帝国だと分析していることは説得力がある。ちなみにロンドン開催のG20には、オブザーバーとして中国とインドが参加してきたことは、この国々の「貴族」の仲間入りを意味している。
またネグリは、「帝国」(世界市場)の下で国民国家が実質的に意味を失い、それに対して「マルチチュード」が対抗するといい見通しを語る。貧困、マイノリティー、移民、半失業的労働者、原住民等の多様な人間集団が重要な役割を果たすと言う。市民社会の概念は、「マルチチュード」によって、豊かになっていく。確かに、現在、市民社会の再定義が行われている。私の結論は、こうだ。「ナショナリズム、エスニック・アイデンティティー、あるいは人権問題などの"政治"は、政治的に見えるが、脱政治的なのだ」と柄谷氏は語ったが、「政治的」か「非政治的」かにかかわりなく、マルチチュード的な「抵抗」を伴なうかが決定的に重要なのであるー亡命者達であれ、少数民族であれ。柄谷氏の「世界史」には、国家は能動的な役割を与えすぎているために、市民社会の意義を欠落させてはいないだろうか。が不在なのである。ここに私の疑問が集約される。市民社会の構築の意義。原発問題を決定的に終えるために市民的介入が必要とされている現在ゆえに、この思いは一層強いのである。いづれ国が解決してくれるという「待つ」態度は、わたしたちは消極的な生き方に飼い馴らされてしまう


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