柄谷行人「トランスクリティーク」(英語版)を読む

柄谷行人「トランスクリティーク」(英語版)
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「内在性の中の超越性」(フッサール)というテーマほど、マルクスにとって重要な問題意識はない。柄谷的には、哲学と経済学、この両者は、「内在性の中の超越性」において互いに出会う。哲学と経済学は、文学と同様に、或いはそれ以上に、独我論を排しつつ、窓のない個(モナド)の外に出る試みだった。
ライプニッツは、窓なきモナドの予定調和を語った。が、柄谷氏は、モナドの窓が無い故の不可能性を説く。モナドの内側(他者を手段とする資本主義)は、モナドの外側(他者を目的とする共産主義)によって、規定される。そのためには「窓」が必要である。即ち、窓とは、資本主義・国家・民族の、牽制し合う構造的配置のことである。
ジジェク的には、マルチチュードの抵抗とて、資本主義の内部の運動だけに、再び資本主義に回路づけられる運命でしかない。そうならば、柄谷氏は、マルチチュードとしての貧困の力よりも、寧ろ国家に能動的な役割を与えるかもしれない。が、国家はそれほど本当に、資本主義の外部として働く得るのだろうか?この疑問がある。

「世界史の構造」は、「トランスクリティーク」のあとに出版された。柄谷氏の「世界史」を呼んでも、疑問は解けなかった。柄谷氏は、国家の能動的な役割を強調するあまり、市民社会の意義を欠落させてはいないだろうか?言い換えれば、「革命」を待ち望むように、「国が解決するときがくる」という「待ち」の姿勢は、私達を消極的な態度と生き方にするのではないか。
ところで、米国に亡命したアドルノは大変な苦労話がある。但し彼が語らなかった大切な真理もあるはずとサィードは言う。亡命者というのは、周縁的な存在だけに、日常的な事柄を異化的に捉える能力があるー外国人が撮る写真の新鮮さを考えよ。語りの特権を持つ快楽すら持つ。亡命者は知識人的に存在できるのだと。

顕著な個人主義者であった二十年代前衛芸術家は、亡命といっても、自分で決めた亡命を行った。サィードが注目する亡命とは、寧ろポストコロニアル世界の狭間に生きる民衆の匿名的な亡命だ。mobility, flexibility, precarity、即ち、亡命のマルチチュード的形式である。

ウィットゲンシュタインやアルトーの文体に、マルチチュード的な特徴がある。mobilityとflexibilityは、身体の介入によって"不動でありながら絶えず動く"思考の柔軟な運動性。precarityは、up to down,しれゆえに、内在性の中の超越性の如き越境性であり、終身雇用的ではない。ジョイスの造語こそは、マルチチュードの真髄なり。天に御座す超越的な観念を、身体が属す世俗世界に引きずり降ろす。例えば、dainticalという造語は即ち、alike or identical in delicateness and daintiness。神と人間の"類似性"を嘲笑う言葉

ネグリ的には、資本主義に対する知識人的抵抗は、mobility, flexibility, precarity 即ち、貧困の力から起きる。だから、浅田彰の「構造と力」は、「構造と貧困」としてもよかったのである。恐らく、「人類」「逃走」の代わりに、「マルチチュード」「亡命」と言うこともできた。一考に値する仮説。
浅田氏は消費の次元でのスキゾ的主体性の回復を説くも、柄谷氏ほどには、語りの特権性を、亡命者的知識人を擬制した文学者の語りを実現できなかった。ただ、柄谷氏のは、遥か俯瞰的な高さからの語りだけに、資本の運動の不可能性が見えても、現実の亡命者や少数民族が強いられる困難性が見えるかどうかだ。
繰り返すが、柄谷氏の「世界史」には、国家は能動的な役割を与えすぎているために、市民社会の意義を欠落させてはいないだろうか。ここに私の疑問が集約される。市民社会の構築の意義。原発問題を決定的に終えるために市民的介入が必要とされている現在ゆえに、この思いは一層強いのである。(本多)

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