柄谷氏の"命懸けの飛躍"-一般等価形式としてのカメラ、剰余価値としての編集、行き詰る"命懸けの飛躍"



柄谷行人氏の"命懸けの飛躍"を考える

一般等価形式としてのカメラ、剰余価値としての編集、行き詰る"命懸けの飛躍"


もはや再稼動は止められないだけでなく、原子力基本法の目的に「安全保障」の語が書き込まれる事態にあって、抗議者達の身振りと行動から意味が剥ぎ取られている。運動と意味とが分裂した、あまりにも光学的な状況。

かくも拡散したこの光学的な運動は、カメラによって、とらえらえよう。カメラは、マルクスが一般等価形式と呼んだ形式といえよう。一般的には、エイゼンシュタインの映画の様に、現場に多くの人々がいると思わせる様な撮影の仕方が大事なのだが、今回は話のポイントは別の所にある。

官警達の介入によって、不覚にも途切れ途切れに分断され、しかも屈辱にも行列のなかに閉じ込められた人々。もしそのまま撮ってしまっては、所詮権力が都合よく描いた地図を撮るに等しいではないか?と、怒りを覚えた。

隔てられた官邸には憤慨する抗議の声も届かない。マスコミはいない。T新聞も。記者達は近所の国会議員と一緒に高みの見物か。が、撮影せずにいることは、事件性を掻き消すことに協力すること。歴史を忘れろとでも?

言葉というのは、映像から盗み出すことができるー観念の呈示が映像の不在を隠蔽するかぎりはね。だが編集とてとて、前借りに対する支払いは延期し続ける事は無理だ。収穫も無く、厭らしい洞穴を掘り進めていくだけの映画に変わりがない。

こうして、カメラ(一般的等価形式)は、世界によって、確証されることはない。"命懸けの飛躍"は、見事に行き詰ったわけだ。だがその前に、"命懸けの飛躍"の考え方それ自身の限界がありはしないか?こうして、思考イメージが始まる・・・

真理の生産者といえば、理性(人間)だけではない。狂気(怪物)もまた、豊穣な真理を生産する能力が与えられている。それは、理性(人間)と対等なのだ。そこで、狂気(怪物)を排除しない方法は無いものだろうか?その解決策のひとつとして、理性を消し去るという合理的な考え方がある。ところで、理性というのは、普遍性のことであるから、これは、普遍性を消し去ることを意味する。そうして、狂気(怪物)、従って、特殊性が残ることが可能となろう。これこそが、ポストモダニズムの論理的帰結なのだ。ポストモダニズムは、世界ー内ー貨幣を語ってきた言説といえよう。この言説は、変換の体系を物語っている。倫理的には、この体系に変換を拒む権利を留保しなければならないーマイノリティーに対してだ。が、ポストモダニズムから来た東氏はこの権利の留保の意義を理解できない。マジョリティーへの同化を強いる彼の憲法草案は、極左でも極右でもない、過激な極中道と呼ぶべき代物である。

さて、柄谷氏の"命懸けの飛躍"は、こうしたポストモダニズムの問題意識を理解して始めて理解できよう。解説してみよう。最初に、貨幣(=一般者)による、商品(=特殊者)の世界へのproject down(落下!)が起きる。これは、俗に、カネでモノを買う過程に対応させると分りやすい。こうして、project downは、「一般者」の王位が空白になるが故に、前述した様に、特殊者、したがって、怪物(狂気)の生き残り戦略を意味している。

言うまでもなく、特殊性を重んじた考え方といえば、マルチカルチュアリズム、多文化主義ー西欧中心主義の植民地主義を反省したーを正当化する考え方となるのは明らかだ。

ところで"命懸けの飛躍"とは、project down のあとに起きる過程を指した言葉である。つまり、いかにして商品(=特殊者)は貨幣(=一般者)へとメタモルフォーゼするかだ。俗に、この商品が売れるのか?という問題意識で、個別者から一般者への(キルケゴール的な意味で不可能な)飛躍が語られる。

柄谷氏は、普遍性に伴なわれた特殊性、特殊性に伴なわれた普遍性の場の意義を考える。高度な次元でのマルクス主義の復活から、ポストモダニズム、解放の大きな物語を非難する考え方に批判的フレームワークを与える

"命懸けの飛躍"は西田的ゆえに、純化のオブセッションの限界がある。この身体とあの身体を越境的に横断するマルチチュード的な映像を伴なわなければ・・・



http://youtu.be/HO_dqY4E6Qs @youtube

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