3・11以降の思想の肖像(2a) われわれはどうマルクスを論じるのか



1、イェニーとは誰か?イェニーは、亡命したマルクスと一緒にやってきた。かれらは、始めロンドンの市中のソーホーに住んだ後、ハムステッドの広い住居へ移った。イェニーは、悪筆で判読不能なマルクスのドイツ語の原稿をくまなく清書する役目を負っていた。

2、ちなみに、マルクスの原稿を清書するイェニーの姿は、ジョージ・オーゥエルの原稿をタイプした妻の姿を思い起こさせるが、こうした、内助の功とも呼ぶべき関係はブルジョア的作家において別段珍しいことではなかった。清書の作業を長年に渡って引き受けた、このイェニーの影の力は、「天才」の業績

3、を伝えるメッセンジャーによる「人類の貢献」、というような美化された陳腐な修辞で語られがちであるが、このような見方は、イェニーとマルクス、そしてエンゲルスの間に存在した意義深い関係を捉える上で何の意味をも持たない。が、しかし「資本論」を読むために、なぜジェニーから書き始めるのか?


4、なぜエンゲルスからではなくイェニーから資本論にアプローチするのか?この問いに対する答えは、なぜテクストに一つの解釈による先占ではなく、多数の解釈の接近を認めるのかという問いに答えることと等価である。又なぜ公共空間に多数の入り口が必要かという問いに対して答えを与えることにもなるだろう

5、最後の点に関していえば、「人間の条件」によると、入り口を一つに限定してしまうと、結局現在生きている世代の立場が優先されることになる結果、「隣人の有意性」とアーレントが呼ぶ他者性が消去されてしまう事態が常に起きよう。しかし、死んだ過去の人々も今後生まれてくる未来の人々も、平等に、、この隣人に含まれるべきなのだ。

6、そして、「隣人の有意性」の空間とは、参照系としてのテクストの近傍をいう。資本論に関していえば、近傍は、作者に起源的な特異点を与える幻想を炸裂する位置と機能をもつのだ。こうして、資本論を読む上で、マルクスの内部のなかに絡みとらてしまう危険を回避する為に、イェニーの通路からアプローチすることには大きな意義がある

7、「資本論」というオリジナルなものをイェニーはコピーした。が、これは神話ではないか?「資本論」はエンゲルスが読む前にイェニーが読んだのである。テクストというものは、解釈をつくる欲望の介入なしに読む事はできない。ここで思考実験ーエンゲルスはイェニーのマルクスを翻訳したかもしれない

8、否、もっと単純なことだったかもしれない。エンゲルスは、原典としてのテクストと、解釈者である自己との関係を署名を通して徴づけしておけば十分だった。言い換えれば、あまりに多くのことが書かれているが故になにも書かれていない空白のテクストに、根拠というオイデプスを与えることができたのだ


9、このような署名は、署名者の死によって、特権化されていく徴ではないか。仮にそうならば、「マルクス」と「エンゲルス」の署名は、ブルジョア的市民法が行う権利の名宛人と本質的に同じものだ。マルクス主義者達は、この「人」と民法がいうものがブルジョアジーのことであると謎解きをしてみせた。

10、近代法の神話とは、ブルジョアジーという特殊歴史的な規定性を、永遠に続く抽象的かつ普遍的な規定性に還元してしまうことにある。即ち隠蔽だ。しかしそこから具体的な存在として、「労働者」と現代法がいうものを発見したつもりなら、それも別の抽象的かつ普遍的な規定性といわなければならない。こうなると、われわれは、システムからシステムへと、マルクスの内部のなかに絡み取られてしまうことになる。

11、ジョイスが「ユリシーズ」に記した署名はそんな署名とは別のものであったように思える。署名は即ち運河。このテクストを読んでいく人と人を結ぶつけたり離したりする運河か、或いは場所の名前である。これと同様に、「ウォール街を占拠せよ」の署名者は、Writers for the 99%

12、即ち、どんな他者が入ってくるか分らないけれども、合理的な信頼を前提としなければ成り立たない運河の如き、<人間マイク>であった。言い換えれば、この本の署名は、人々の占拠によって公共空間となった,ニューヨーク
<ズコッティ公園>というわけである。再び問う。なぜ「資本論」には「イェニー」の署名がないのか?

13、否、誰が署名したかはどうでもいことである。イエニーだったかもしれないが、偶然にも「マルクス」と「エンゲルス」は場所の名として記された。「資本論」テクストを神殿として崇めその作者を死者の語りとして特権化したい解釈的言説空間が、「イエニー」という固有名を消去したことだけは確かだ

14、さて、イェニーがマルクスとエンゲルスとの間に取った、「資本論」テクストをめぐる意義深い関係を考察する準備として、ここで、ウィリアム・フォーサイスが振付け演出した舞台作品である「気象学に関する三つの事柄」の第二幕における母親とアラブ人官吏(=翻訳者)の関係を観察してみたい。

15、戦時下の混乱のなかでデモに出た青年が逮捕されてしまう第一幕のあと、第二幕では、息子が不当に逮捕されたと訴える母親と、彼女の言葉をアラビア語に翻訳して記録を取ろうとする官吏(=翻訳者)とのやり取りが描かれるが、時間の経過とともにこのやり取りは混乱を極めていくという設定である。

16、第二幕の舞台美術として、舞台奥から、マリアの受難を描いた大きな絵が呈示されている。官吏(=翻訳者)の言葉が、自身の意図を全く伝えることができないことを苛立ちながら理解するにしたがい、母親の疎外感は募っていく。母親は「わたしの息子が逮捕された」と自国語で繰り返し叫ぶのだが、

17、アラビア語で報告文をタイプする官吏(=翻訳者)の言葉は、自身の言葉を聞くようにしか、これらの訴える言葉を聞くことができない。官吏(=翻訳者)は、文法の誤りを繰り返し指摘した挙句、母親が全体の客観的な状況を理解できていない、と厳しく咎め始る。そうして、この官吏(=翻訳者)は、

18、この母親の懇願する姿を受難のマリアの姿に重ね合わせてしまう。こうして、言葉の不自由から身体の自由がままならなくなった母親は、拷問を受けたときのような苦痛と絶望の声を洩らし始める。このとき、観客は、この設定を逆にすることによって、アラブ人の母親と西側ジャーナリズムとの間の

19、相互理解の欠如の状況としても解釈するだろう。官吏(=翻訳者)の言葉は、母親からみると、意味と非意味の間を機械的に往復するだけで、結局自分に都合よい狭い視野の中で他人を情報の客体にする事にしか関心がない。ここには、母親が主体となる望まれたコミュニケーションは成立する事はない。

20、ここで再び、「資本論」テクストを巡る関係に目を向けると、イェニーの立場は、この母親の立場と非常に類似していることがわかる。そしてそうならばその場合、パトロン的存在であるエンゲルスは「官吏(=翻訳者)に対応しているとみなせる。母親が官吏(=翻訳者)に対して疑念を抱いたように、

21、エンゲルスがマルクスによる言葉を、自分に都合よく解釈を加えて英語訳をする事で恣意的な編集を行っている、と疑う権利がイェニーには無かったのか?ロンドンで物議を醸したF・マックギネスの戯曲は、イェニーによる落書きや詩、意味不明のサインで汚されたマルクスの原稿を物語った芝居である

22、「何故あなたの原稿には女の身体を表す言葉が頻繁に使われているのかしら?」。マックギネスの演劇の特徴は、詩的な語りの力が誘う民衆感情への近づきである。イェニーの言葉と眼差しと身体に、言葉を奪われたアイルランドの民衆感情が投射されていることは明らかだ。が、それだけではあるまい。

23、テクストに関するある種の方法論的な思考の可能性を問題提起しているのだ。この思考のための方法論は、探偵的なバイオグラフィーの実体性とも文献学的な真実性とも関係がない。イェニーは、エンゲルスがマルクスの言葉を都合よく勝手に解釈し恣意的な編集を行っていると疑うと考えてみるのである。ここから、このイェニーの疑いがどのような認識上の帰結をもたらすか、ということについて考えてみよう。


24、まずマルクスが書いた原稿とエンゲルスの翻訳の関係を単純化してみてみると、エンゲルスの視点からは、マルクスによるオリジナルのテクストは自分が行った英語訳と同一であるしそうでなければならない。しかしイェニーの視点からみると、それらの間には必ずしも完全な対応があるようにはみえない

25、この一見単純な視点のズレから、関係に於ける捻じれた形式化を導くことができる。つまり、ここでは、イェニーの目には、エンゲルスは互いに異質なものを同一化しようとする幻想、つまり結局は、自分がマルクスを代表するのだというある種の狂気に陥る危険をおかしているようにみえるかもしれない

26、つまり、エンゲルスは、共通項なき相異なる項aと項bを、商品a=商品bのような等価式で結ぶ、というパラノイア的とドゥルーズが呼んだ表象にとらわれている、ということになる。次にマルクスの原稿とイェニーの清書との関係についてみてみなければならない。エンゲルスはなにを見るだろうか?

27、エンゲルスは、イェニーがマルクスの言葉を自分に都合がいいように勝手に解釈している、つまり、落書きやサインだけでなく、マルクスの代わりに自分の言葉を勝手に書き込んでいる、と疑っている。しかし、ふたたびイェニーの眼からみると、マルクスがドイツ語で書いたオリジナルのテクストは、

28、自分が清書したドイツ語の原稿と全く同じであるし、そうでなくてはならない。それらは同一である、と確信している。

29、よって、オリジナルの「資本論」テクスト(エンゲルスには判読できない)と、清書された原稿との間には、必ずしも信頼に値するような対応がない、とするエンゲルスを、イェニーの立場から観察すると、このエンゲルスは同一なものを互いに異質であると主張しているようにみえる。言い換えると、

30、エンゲルスは同一の項であるaとbを、商品 a≠商品bという不等式で関係づける、という分裂的分析を行っている。こうしてイェニーの視野は、シンメトリーの等価式からアンシンメトリーの不等価式へ、後者から前者へと反転していくが、この視野は「オリジナル」という前提に立った結果といえる


31、私はたとえば、イェニーがエンゲルスと抗いながら、「資本論」テクストをどう読んだのかというように、彼らの読みを通して「資本論」をみれないか考えるのである。参照系として介入してくる外部的テクストは、子安氏の「論語」の思想史的体験をかたちづくっているものであるが、そこへ向かって、

32、「資本論」テクストはイェニーやエンゲルスのあり得べき読みを辿る私の参照系として彼らの解釈の向こうにみられる外部的テクストになるだろう。ここから、私は恐れて言えなかったことをはっきり示すことができる。つまり、外部的テクストの前では、マルクスですら特権的な語りの位置に存しない。

33、特権的な語りの位置とはオリジナルな始源性のこと。これに反して、「資本論」テクストはマルクスから始まったけれども、そこから始まる必然性は一切なかったと私は言いたい。当然特別な終わりもない。そうならば、マルクス
はイェニーとエンゲルの読みを読んだという可能性も考える余地がでてくる

34、翻訳の問題も同様だ。外部的テキストからみれば、マルクスはイエニーとエンゲルスを翻訳したといえるし、マルクスはマルクス自身を翻訳したということすらできるのだ。この参照系としての「資本論」テクストは、もっと後に続く諸解釈を相対化しながら、しかし私の絶対的な唯一正しい解釈を

35、要求するような実体性のあるものではない。むしろ新たな読みを常に可能にしていく開放的なテクストである、と、子安氏が「論語」を自分の読み直しを可能にするテクストとして再発見したように、私は「資本論」に、特異点なき連続的で分割不可能な、多数の入り口から成るメタ空間を見出すのである

36、多様性ー単純性によっては隠蔽され得ないーを表現する豊穣性の方向を辿る芸術がある。ジョイスのような作家は、多様性の芸術を志向したけれども、基底としてのアルファベットの単純性を排除しなかった。そういうアルファベットの役割は、「資本論」テクストにおいて、富の単位である商品が担った

37、単純性ー多様性によって隠蔽され得ないーを表現した不毛性の方向を辿る芸術もある。単純性の領域に向かったベケット。が、最初にフランス語で書いた後に英語で書くという面倒な遠回りを好んだのは多様性を尊重したからだ。「資本論」は単純性ならば貨幣から語り始めるが、実際には商品から始めた

38、なぜ、マルクスは商品所有者から書き始めなかったのだろうか?「資本論」の書き出しは商品である。商品所有者が登場しないかれの「価値形式論」を追っていくと、アジア的生産様式の風景の中に迷いこんだ錯覚がある。理論的にはここには共同所有しかないから土地の所有の移転は起きない世界なのだ

39、当時のマルクスの思いは二つの極の間に揺れ動いたーコミュニズムとナショナリズム。しかしこの話題はもっと後に言及する。いまの関心は、前述したように「資本論」テクストの空間というものが特異点なき連続性の空間ならば、「資本論」の書き出しに商品を選ぶ必然性はなかったという点である。

40、逆に、マルクス主義者が安易に考えるように、具体から抽象へ発展していくような運動の発展を「資本論」の筋に読み込み、そこからその書き出しが商品であることに必然性をみとめてしまうと、結局特異点化・分割化という構造化の読みが介入し、その顕著な連続性の空間性が台無しなる危険があるのだ


41、われわれはどこで間違えたか?端的に言って、「資本論」の商品分析の視点は、<使用価値>と<交換価値>との対立構造の分析として展開した。「資本論」は政治経済学という別名がある以上、純粋な経済学に留まらないだろう。伝統的マルクス主義は、<交換価値>即ち市場に対する抵抗を展開したのである

42、しかし八十年代の消費論的記号論は、<使用価値>と言おうと、<交換価値>と言おうと、マルクス理論のどの部分に視点を置くかの問題であって、思想の本質的な理解に大きな違いはないとした。特にボーリヤールや吉本
隆明等の消費論の特徴は、結局次の一点に向かって収斂されていったように思える

43、つまり、<使用価値>の領域を、神聖不可侵な特権的な領域として、交換価値によっては囲い込めない領域として、外部化していく努力にあった。結局、後期資本主義を擁護する正当化の言説はここを基点に旋回した。即ち<使用価値>の生産、言い換えれば、無意識的な多義性の生産によってである。

44、旧マルクス主義的な<交換価値>に対する抵抗を無効化した。それどころか、右翼的ポストモダニズムのナショナリズムへの転位とともに、脱構築を脱抵抗と等値する理解が蔓延した。が、二千年以降ネオリベ的なグローバリズムの展開によって、思想は、交換価値に対する抵抗の意識を取り返して行く

45、しかしウォール街占拠を報じた日本マスコミは当初反格差の運動として紹介するだけで反資本主義のメッセージを無視した事実から分るように、抵抗の意識の覚醒に、<反資本主義>という構造を捉える問題意識が伴なっていない。問題の所在を明らかにする為にも、簡単に「資本論」の地図を俯瞰しよう


46、マーケットに対して防御できない裸の自己と向き合い始めた結果、重力の落下法則みたいに貫徹してくる、世界資本主義という比類なき広がりが、人々を反資本主義の問題意識に向かわせる。例外はない。もはや地元の公共図書館ですら、世界資本主義、ネオリベ的グローバリズムからの競売の対象である

47.ヘーゲルの名を知ろうと知るまいと、現在の状況というのは、誰もがヘーゲル的に、自分達が直面している事態を考えざるを得なくなった。所有即権利。だから公的な所有である図書館の所有が侵害されると、われわれは自身の権利が侵害されたという怒りは、ヘーゲル的法哲学から説明できることなのだ

48、他方、これとは別に、土地や物や人格との結びつきでしか所有を考えられない法意識があり、ネオリベの政治家達、ポピュリストの"左も右もない"と説く全体主義がこの法意識を体現している。例外なく、図書館というのは、土地や物や人格の集合体でしかなく誰かの人格に帰属する土地と物に過ぎない

49、国家の整理すら躊躇しないネオリベ破産管財人にとって、誰かの人格とは結局銀行に帰する人格なのだ。新重商主義の復活だ。所有と権利、この両者は、世俗的なものにおいて、互いに切り離せない関係にある。ヘーゲルの卓見は、この世俗的なものとは政教分離の国家の事として理解したところにある。

50、遅きに逸したが人々は理解し始めたーこの世俗的なものこそ「一億総中流」のブルジョア的幻想を形成した休息であったと。世俗的なものを葬り去るものは超国家意識、君が代斉唱と日の丸だ。世俗的なものの消滅と共に所有の社会性が消滅し始め、結局所有の私的契機だけが喋り続けるー嗚呼、ネオリベ的至福!


51、ローカルな公共図書館ですら、世界資本主義即ちネオリベ的グローバリズムの標的となっていると書いたが、正確には、知への合理的な信頼それ自身が標的となっていると言うべきだろう。世界資本主義の比類なき広がりにおいて、全体性と関係しないような部分対象などは存在しなくなったのだから

52、ポストモダニズムの左翼的知識人は大丈夫か?毛沢東神話に傾くシステムとしての中国論は"資本論としての北京"の観をなすが、それほど可能性の多数の中心とはいえなくなってきた。遥か俯瞰的な高さからの眺望だけに、亡命者達の複雑な立場と少数民族の歴史的現実を、捉えたといえるだろうか?

53、北京の資本論は「脱政治化」について語る。1990年以後、「資本主義」のかわりに、専ら「市場経済」という言葉が使われるようになった事実がある。「それは資本の蓄積が資本と賃労働という階級関係にもとづく事を無視し、また資本主義経済が自然的・永続的であるかの様に考える」隠蔽であった

54、「この様な脱政治化が日本や先進資本主義国でおこった」が、「実は中国でも同じであった」という。「社会主義的市場経済」の名の下に、資本主義経済(新自由主義)が急激に進行し、各地で深刻な階級対立が生じたと分析する。が、北京の資本論が次の様に統括するとき、私はたちまち分らなくなってしまう。

55、「それはナショナリズム、エスニック・アイデンティティー、あるいは人権問題などの"政治"にすり替えられた。それらは政治的に見えるが、脱政治的なのだ」。が、ここでは政治化に関する区別よりも、むしろ「抵抗」があるかないかをみていくことがだいじなのではないだろうかという疑問が起きる

56、例えば、べ平連的な市民運動は「政治的」だが、その流れを汲む現在の反原発運動は90年代以降に端を発するからという理由で「脱政治的」と分類できるのだろうか。"北京の資本論"の「世界史」は、あまりにも国家に能動的な役割を与えすぎている為に市民社会の意義を欠落させてはいないだろうか

57、いつか国が解決してくれるという「世界史」は、「待つ」という消極的な態度を前提にしている。が、反グローバリズム運動として4年前に参加したロンドンのシティー占拠(反G20)のときは、マルチチュード的抵抗の他に活動性というものが市民社会の再定義に欠かせないメルクマールと気がついた

58,活動性はアーレンが人間の条件と考えた。彼女は言う。「労働しなくても十分うまく生きていける。また、世界を使用し、享受しようとするだけにしても一向構わない。たしかに不正であろうが、しかし人間であることにまちがいない。ところが、言論なき生活、活動なき生活は、文字通り死んでいる」。

59、「小さな人間」と小田が呼ぶ小さな声に活動性を与えるのは、この人間の条件である。ネグリは、この「小さな人間」」から私有財産に腐食する共和主義者達をはずした。なぜなら、活動性の場がない社会よりも、活動性の場がある社会の方がいいからであるー亡命者であれ少数民族であれ同じ条件である

60、子安氏は公冶長篇を引く。"道が行われる世ではない。筏に乗って海に浮かび出ようか"という孔子の言葉がある。乱れた国を去って、東海に浮かび出ようかといったことを孔子は口にするのだ。乱れた国を去ることは、間違った事ではない。乱れた国で、過った君主に臣の道を尽くす方が間違いである

61、・・・この孔子の言葉はいろいろ考えさせる。なぜこの日本には国のためならどんな馬鹿げたことでもしてしまう国士という存在がいるのか。ここでは国家が常に正しさの根拠としてある。従って国を去ることは、ここでは裏切りである。だからここには亡命の思想がない。隣国の亡命者への同情もない"

62、「亡命」の監督・翰光氏によると、米国やタイや台湾の他に、この日本にも、迫害を逃れてくる中国人が存在するという。私達は気がつかないのか?国は経済難民の扱いで目立たなくしているが、これとは別に、国家を絶対視するあまり、亡命者に無関心な日本人の認識フィルターのこともあると思う。

63、人間の条件とは活動性にあるのだから、それを妨げるものからは逃げるということはは当然なのだ。この条件を妨げるものこそ、資本主義の構造なのだ、とマルクスは明確に語ったのである。ここで、「資本論」が俯瞰する構造をみるために、いま一度「資本論」が呈示した地図をみてみることにしたい。


64、近年の金融危機の影響で、「資本論」がドイツ、フランス及びイギリスで再び脚光を浴び、経済学者としてのマルクスの恐慌を分析する言説が復活した。一方、前に述べたように、このマルクスの思想には、経済学の範疇を遥かに超えた、哲学的考察や歴史的な政治の考察が埋め込まれており、


65、その批評精神の真骨頂は、経験という巨大な重力に引き込まれることのない自由な思考に存する。「資本論」は「価値」の釈義であり、経済学の膨大な学説が書き込まれてはいるが、自己完結した”経済至上主義”、すなわち「経済のための経済」を解説した書物ではない。なぜなら、そこには、

66、ドイツ観念論の哲学とフランスのユートピア主義の政治学が批評的メタ言語として働いていたからである。ところで、自分が他人の身体の中に在った、と自身の夢を告白したのはデカルトである。狂気の中での確信に過ぎないとしても、彼にとって、

67、少なくとも「考えること」と「存在すること」だけは確かな真実であった。これと同様に、マルクスが考察の対象とした「商品」は、自分が他の商品の身体の中に在った、という夢を語るが、ただ考えたり存在したりするだけでなく、「欲望」を持っていると説く。

68、(「我考えるゆえに我存在する」、「我他の商品の身体の中にあると考えるゆえに我交換を欲する」)。このことによって、マルクスの「資本論」は、シンメトリーを破壊したい(「商品」の)「欲望」の証言を語っているといえる。


68 - 89

さて、シンメトリーとは何か。日常を観察してみると、皆多かれ少なかれ、「シンメトリーの世界」の中に生きていることが分かる。二つの目、二本の腕、そして、二本の足然り。楽園のアダムとイブ。意味するものと意味されるもの。話すことと聞くこと。使用価値と交換価値。これらはすべて「シンメトリーの世界」を構成しているといえる。しかし、「シンメトリーの世界」は基本的に閉じた世界であり、「商品」の眼からみると、狭い共同体の世界に自足してしまった自己同一的なものに映る。そして、そのような「シンメトリーの世界」は、芸術至上主義に顕著に観察される内面的閉鎖性の領域において成立するものである。つまり、芸術至上主義は、「芸術のための芸術」を主張し、それ自身のために存在するという思想だからである。

ここで、商品世界という舞台が繰り広げるドラマを観察してみよう。「商品」の精神は外の世界に飢えている。「商品」は皆、自分の肉眼が見える範囲を越えて遥か遠くかなたに旅立つ欲望を持っている。理性の笑みと善意は心地好いが、所詮、メロドラマ的安楽な均衡状態である。「商品」はこのような有限で閉じた内部世界に背を向けて、外の無限の世界へ越えて行くことを欲する。そして、「商品」の精神にとって、閉じた世界に安住することは監獄を意味する。「諸商品の交換が最初に可能となるのは、互いに交易を行おうとする近接した共同体と共同体の間の狭間においてである」と表現されたように、マルクスが書いた「商品」は変化や運動を要求する。つまり、「交通」である。ところが、「シンメトリーの世界」はこうした自在な「交通」を妨害する。マルクスは、この閉じた「シンメトリーの世界」を「トートロージーの論理」と表現している。そして、「商品」が、「トートロジーの論理」、すなわち「X量商品A=X量商品A」の等価式を打ち破ることによって、他との関係を表す「X量商品A=Y量商品B」の等価式へと移行する必然性を説いている。これが、「価値形式」とマルクスが呼ぶ法則である。
ここで、価値形式とは、すなわち商品の価値の現象形式を意味する。そして、商品は、もともと使用価値と価値との統一物である。従って、商品には、使用価値の形式と、それとは別の価値の形式とがある。前者は、商品の自然的形式であることから、感性的に認識することができる。あたかも、役者の肉体が演劇の自然的形式であるように。例えば、マルクスの説明には「見る」という動詞が頻繁に使われており、注意を惹起する。一方、後者は、価値自体にはなんら自然的素材が含まれていないために、単独の商品自体についてはこれを認識することはできない。それが認識され得るのは、ある商品と他の商品との関係としての価値関係においてでのみある。例えば、20単位のリンネル=1単位の鉄、というような場合においてである。価値の形式には、自らを表す側の価値の形式、すなわち「相対的価値形式」と、それが表されている側での「等価形式」との二つの極があるわけである。リンネルは相対的価値形式に位置し、鉄は等価形式に位置している。要するに、ある商品の価値の現象形態は、その交換価値において表示される。こうして、マルクスが表現しているのは、商品と商品の間に展開する視線の交換なのだ。こうして、ゴーリキ「避暑地に訪れた人々」の登場人物達の視線を、価値形式の構造に応じて分類することの可能性を検討してみたい。

表A 簡単な、単独な、または偶然的な、価値形式 (Einfache, einzelne, oder zufällige Wertform)X量商品A=Y量商品B、すなわち、X量の商品Aは、Y量の商品Bに価する

表B 全体的な、または展開された価値形式 (Totale oder einfaltete Wertform)
Z量商品A=U量商品B、または=V量商品C、または=W量商品D、または=X量商品E  
              
表C 一般的価値形式 (allgemaine Wertform)

U量商品B   
V量商品C 
W量商品D           = Z量商品A
X量商品E   
他の商品
演劇的対応;想像された国家と臣民の関係 
ヴァルヴァーラ、カレーリヤ、ザムイスロフ

表D 貨幣形式 (Geldform)

Z量商品A = 
U量商品B = 
V量商品C =
W量商品D=           2オンスの金
X量商品E =
他の商品=


表E 高度に回復された互酬性(Socialism、Communism、Anarchism)
 

 
このような価値形式の発展は商品生産の歴史的発展に照応しており、貨幣の出現以来、価値形式は表Dの貨幣形式に位置している。ここで仮に2ポンドが2オンスの金の鋳貨名であるとすれば、表Dにおける相対的価値形式に位置するZ量商品Aおよびその他の商品の価値は2ポンドという価格で表される。注目したいのは、表Cから表Dへの移行の意義だ。その意義とは、商品が一般的価値形式(皆から見られる鏡)の状態で現れる時は、決まって、自分自身の相対価値形式(見る権利)を排除しなければならないのではないか、という問いについての考察である。この問いに関するマルクスの分析はおおよそ次のようなものであった。仮に、リンネルが等価形式であると同時に、自身にとっての相対的価値形式であるとしたら、たちまち、「20単位リンネル=20単位リンネル」(鏡が鏡を見る)という奇妙な事態が生じてしまう。このトートロジーの式では、価値も、価値量も表現できない。それらを表現するためには、表Cは表Dへと移行しなければならない。こうして、等価形式のもとに選ばれ皆の鏡となる唯一の商品(=貨幣)は、他の仲間(商品)との間に共通なものを持たない、という約束が結ばれる。このような唯一の商品(=貨幣)を設定することによって、無限に続く商品の系列は、整理された価値の秩序を構築することになる。



90ー118

以上の知識を前提として、そこから、マルクスは金融危機をどのように理解したか説明することができる。まず、マルクスによる信用のメカニズムの分析から始めよう。ここで、シンメトリーと非対称性の問題が再び登場する。商品流通のあるところには、信用という独自の関係の成立が可能となる。買い手の事情によって商品売買に際して貨幣が商品と交換に引き渡され得ない場合、いわゆる掛売りが行なわれる。その場合、売り手は買い手に対して価格の等価を貸し付けることになるが、これが信用の最も原始的な形態であり、ここに売り手は買い手に信用を与えるという関係が成立する。そして、これは商品売買に伴なって生じたものであることから、商業信用という。商業信用は、商品流通を前提とするため、資本主義生産関係の成立以前でも、つまり単純商品生産のもとでも発生し得るものである。単純商品生産の場合、買い手は自分の商品を販売(W(商品)-G(貨幣))して貨幣を取得した後に、その貨幣でもって望んだ商品を購買(G(貨幣)-W(商品))する。つまり、商品は貨幣に転形した後、貨幣から再び商品となる(W-G-W)。これは予定調和的な「シンメトリーの世界」であるといえる。前述のとおり、商品の精神は外の世界に飢えており、自分の限界を飛び越えて無限に遭遇したいと欲する。こうして、商品は商業信用の世界へ移行する必然性を有して、それを形成する。そこでは、買い手は自分の商品が貨幣となる前に、既に手に入れた貨幣で望む商品を購買(G-W)することが可能となる。つまり、買い手は、商品の最初の転形(W-G)を飛び越えて、いきなり二番目の転形(G-W)を遂げてしまうことになるわけである(ちなみに、この商業信用は商業手形を手段として行なわれるが、手形は背後に現実の商品売買を持つ限り、満期には支払い手段としての貨幣によって支払われ得るものである。ところが手形は金額がまちまちであり、期限にも長短があるので、その流通範囲は自ずから限定される。そこでこの手形を満期前に貨幣に転形する方法が発展する。その方法として、手形を満期前に貨幣にするものと、貨幣支払いを約束する銀行手形に化するものとがある)。
ところで、商品の最初の転形(W-G)の完遂が後の期間中に生じるという信用のメカニズムには、恐慌の一般的、抽象的、かつ形式的可能性が存在している。何故か。つまり、商品と商品との交換が貨幣を媒介として行なわれている商品流通(W-G-W)においては、商品と商品との交換が商品の販売(W-G)と購買(G-W)との対立に分裂しているので、商品を販売(W-G)して得られた貨幣(G)が蓄蔵貨幣となり、つぎの購買(G-W)が行なわれない為に、交換の相手方は自分の商品を販売(W-G)し得ないということがあり得るからである。また、貨幣が支払い手段という機能を営み、掛売りが行なわれるために、最終的債務者の債務の不履行が他の一連の債務の不履行という結果を招くということがあり得るからである。ここに恐慌の発生理由が存する。貨幣における支払い手段としての機能には、このような非対称的な社会関係が反映されている。マルクスの分析によれば、商品交換の体系は、多数の債務が編み出す長い連鎖であるため、一見自立した諸関係の体系のように現れるけれども、実際それは「延期」された支払いである最初の転形(W-G)の運命に決定的に依存した極めて脆弱な体系に過ぎない。つまり、貨幣の支払い手段としての機能は、それ自体、解決できない矛盾を常に抱え込んでいるのであり、原理的には、それは一撃でシステム全体の崩壊を招くような決定的な矛盾である。確かに、支払いの要求が互いに均衡する(債務同士が相殺し合う)時、貨幣は万事順調に、計算貨幣として立ち回る。この時、手綱をはずされて自由に循環する貨幣は、現実と権力と人々を皆一緒に、「生きる喜びのかけらも見出せない強欲な商品世界に変えてしまう」。貨幣は夢の中での曖昧さの如く、ジグザグに彷徨しながら目標に接近した方が効率的なのである。
 ところで、夢のメカニズムを分析したフロイトは、「死の本能」の意義に注目したが、ジャック・デリダはこのフロイトの概念を、多義的な曖昧さを産出していく「遅れ(差異)」という言葉でとらえ直そうと試みた。この点についてサルヴォ・ジジェクの平易な解説を援用すると、一見遠回りにみえても曲線に沿って移動した方が、直線に沿って動く場合と比べて最も効率的になる、という。つまり、迂回こそ、欲望充足のための経済的なプロセスに他ならない。欲望は、あたかも夢の中での曖昧さの如く、ジグザグに彷徨しながら接近した方が、「現実原則」の経済的な要請に沿って効率的に充たすことができるのである。例えば、文化的昇華という現象は、戦争等の破壊衝動に不可避的に収斂していく「死の本能」の進行を遅らせるために、欲望があえて選択していく、いわば迂回の戦略である。そして、これと同様な事が、貨幣において生じる。この場合、「最初の転形」(W-G)は「直線に沿って動く場合」であり、「最初の転形」の失敗(債務の不履行)は「死の本能」に対応する。そこで貨幣は「一見遠回りにみえても曲線に沿って移動した方」が効率的になる。(計算貨幣としての)貨幣の欲望は、あたかも夢の中での曖昧さの如く、ジグザグに彷徨しながら目標に接近した方が、「現実原則」の経済的な要請に沿って効率的に充たすことができるのだ。つまり、これが「信用」についての文化的分析である。フロイトがいうところの文化的昇華という現象は、資本主義経済における「信用」の現象に他ならない。「最初の転形」(W-G)が成立しない事は、結局、商品が「リンネル=リンネル」というトートロジーの式に後退することを意味する。このようなトートロジーは、他者の欲望のために商品を生産することを前提条件とする交換社会においては無意味なものとみなされる。つまり、これを「死の本能」と表現できる。こうして、「信用」は、不確実な「最初の転形」」(W-G)、すなわち「死の本能」の進行、を遅らせるために貨幣があえて選択していく、いわば迂回の戦略と解される。
 さて、最初の転形(W-G)が失敗し債務の不履行が生じると、貨幣は流動性の代理として、商品交換世界の中を自由に循環できなくなるという事態が生じる。その時、たちまち貨幣は社会的労働の単なる個別的な体現、すなわち(価値実現に必要な)交換から切り離されてしまった只の断片、すなわち単なる普通の商品に落ちぶれてしまう、とマルクスは述べる。貨幣の支払い手段としての機能に伴なう矛盾は、いわゆる金融危機という形となって顕現化する、産業と商業一般の危機において深刻な様相を呈するが、このような金融危機は長い支払い連鎖を可能とする人為的な信用システムが高度に発展を遂げた資本主義にしか生じない。観念的な計算貨幣であった貨幣が、突然、現物貨幣へと変化していく中で、「不信心な商品達はもはや自身達を貨幣(=神)とみなすことはない」。商品の使用価値は無価値となる、と同時に、価値そのものの消滅が生じるからだ。欲望を満たすべく商品は外の世界へ見事に旅立ったが、いまやその商品は他の商品との間に関係を打ち立てる方法を知らないまま呆然と立ち尽くしている。金融危機のもとに深刻な貨幣飢餓が発生すると、マルクスは文学の修辞を駆使してこのような事態を分析し嘲弄する。「富に酔いしれたブルジョアジーは至上の幸福感を味わっていたが金融危機に襲われると、突然、貨幣が単なる無益な想像物に過ぎないと宣告しなければならない。確かに、昨日は商品だけが貨幣だった。しかし今日は貨幣だけが商品である、と訴える。ブルジョアジーの心は、息切れした鹿が新鮮な水を求めるように、唯一の富である貨幣のもとに殺到するのである。」膨らんだ希望のすべては無意味で、全く根拠なき幻想に過ぎなかった、と反省するも束の間、今度は現実の黄金を拝みたいとするような偶像崇拝者達が貨幣のもとに殺到する。金融危機の根本的な問題は、商品に内在する価値(交換価値)としての不可能性、すなわち、貨幣に依存しなければならない相対的な不安定性に存する。マルクスは、これを「絶対矛盾」としての顕現、と形容している。

118.「総資本」分析が始まる前に、「価値形式論」において、マルクスがスケッチするパラドックスに辿り着くのである。つまり、資本主義の危機を推進したものが信用における貨幣の一体的構造である以上、その危機の解決を、再び同義反復的に、この貨幣の一体的構造に依拠することは不可能だろう。

119、構造が齎した問題の解決は再び構造への依拠によっては不可能なばかりでなく、倫理的にも許されない。ネオリベ的貨幣数量説的オカルト主義は、貨幣の危機は貨幣が少ないからと銀行に資金投入するが、これに対する市民から怒りの声が生じている。事件性だけが構造の同一的な反復を終わらせる。

120、市民的介入こそが事件性だろう。民主主義に多数の入り口をつくろうとする「ウォール街を占拠せよ」は、草の根運動による事件性である。「OWSには目的がない」と非難する言説がある。これに対する反論としては、反グローバリズム運動というのは、目的がないようにみえる事件性なのだといえる

121、「ウオール街を占拠せよ」の前に、2009年四月二日、ロンドンG20開催に四千人が抗議した。シティにて五百年間世界資本主義を象徴した中央銀行前の広場でだ。包囲してきた万の数の警察による挑発に乗らないようにと、道に絵を書く人、詩を朗読する人、寸劇する人と一緒に、この抵抗を続けた



122、貨幣の運動の記述は常に、再帰性という抽象性を観察する。連続性と再帰性、この両者は、空間としての「資本論」テクストにおいて相互に切り離せない。再帰性という抽象性からなにかを積極的に言うためには、資本主義におけるトートロジー的反復の構造を否定しなければならなかった、ともいえる

123,再帰性の抽象性は、多文化主義と関係した概念であることだけは確かである。そして、ベケットはこれを語ることに躊躇を覚えなかった。16個の石が彼の宝。左右両ポケットに各々8個の石がはいっている。今日は新しい石4個を右ポケットに入れる。取り出した古い石4個を左ポケットに移す。

124、満杯の左ポケットから古い4個の石を捨て去る。一週間続けろ。古いものは一掃されるだろう。これと比べると、国策マルチカルチュラリズムは不徹底だ。「差異への権利」要求と表裏一体となった計画だけに、「権利の差異化」という前近代へ退行、反動化する危険がある。ゲットーの空間が現れてしまう危険がある

125、非連続的に、各々のゲットーに、動物の如く生存手段にしがみついた人々の惨めな姿しか目撃されなくなる危険性がある。だから現実を避けるためには、共通のものをつくって行くというプロセスが欠かせない。ここから、再帰性とは、絶えず共通のものをつくるプロセスとして再定義されるのである。

126、「アンチ・オィデプス」による記述が豊かなだけに、脱領土化のプロセスが、自動仕掛けの如く起きるとする誤解を招く。がなぜ続編「ミルプラトー」でノマドの力が強調されたのか、とこの理由を考える必要がある。繰り返すように、資本主義の危機を齎す構造は、自ずと終わるはずがないからだ。

127、終わるとしても、(敗戦後米軍の主導のもとに曖昧に処理された戦争責任のように)、終わらしてはならない終え方なら、けっして終わらせるべきではない。アトム的に、「小さな人間の力」(市民的介入)による生産的切断がなければ、構造からの脱領土化は自ずと起きないし、小さな人間の声の再領土化も起きないのだ

128、ここで大きな疑問に直面する。SocialismであれCommunismであれ、あるいはAnarchismと呼ぶかは別として、そうした共通のものをつくる社会的な再帰性は、高度に回復された互酬性しかあり得ないが、それを表した表Eが「資本論」には書いていないことである。なぜか?

129、ところで共同体といえば、高度に回復された互酬性のことだが、「資本論」はこの互酬性についてはウィットゲンシュタインの沈黙の様に語らず沈黙をとる。「貨幣」から「世界貨幣」へ向かう「価値形式論」は「共同体」を語らない。寧ろ、書かれた言葉は共同体の外側へ、交通空間へと転回していくDer Warenaustausch beginnt,wo die Geminwesen enden,an den Punkten ihres Kontakts mit fremden Gemeinwessen oder Gliedern fremder
Gemeinwesen.

130,David Harveyは森嶋に言及する。「資本論」を数学的に洗練化して、二部門間(生産財生産部門と消費財生産部門)の蓄積と技術的条件の違いから、不均衡explosive oscillation、monotonic divergenceが必然的に生じることを明らかにしたと

131、 つまり資本主義の均衡成長は非現実的なシナリオなのである。新古典経済学が都合よく想定する資本主義の均衡的成長率は、均衡貯蓄率を要求する。が、現実の貯蓄率は人々の貨幣に対する行動で変動する。例えばインフレが進行するバブルに過小貯蓄が、物価が下がる不況に過大貯蓄が生じてしまう

132、バブルでは貨幣の価値が目減り逆に不況で貨幣の価値が上がるから等々。こうした分析は、貨幣を無視した規範的な経済変数の状態は、非現実的な想定と証明するだけでなく、経済主体間の共同体形成が不均衡の解決に有利という提言も暗黙に含むが、その文化的条件ー互酬原理ーを呈示する事はない

133「資本論」テクストは互酬原理をどうみたのか?そもそも、人間の現実に即して考えてみると、誰もが生まれた状態において無力な存在であるから、物理的に生き延びるために他者に依存しなければならず、この様な依存関係は、配慮や献身、覚醒、保護といった社会的なモラルと一体化して機能している

134、ここで、私達の世話をしてくれる能力は「愛」のことである。が、アリストテレスの人間像には「愛」についての記述がない。寧ろ彼の道徳人のモデルは、ミルなどの近代の功利主義論者達が理論づけた自由社会のモデルと結びつく。このモデルにおいては、ブルジョア的民主主義の市民は、


135、他人のためにこの者が繁栄できるような空間を創造したい、と望む。今度はその他人が同じことを私達に行う。こうして他人の幸福に仕える理性であることが、真の幸福として自覚されることになる、とされる。しかし、この常識に訴える幸福を語る言葉は、ブルジョア的民主主義のイデオロギーを孕んでいる

136この社会モデルの中では、個人は他人からの干渉を受けずに、自身の空間を繁栄させなければならないが、そのような政治的な空間は、ヴィクトリア朝に顕著な中立的な空間に過ぎない。ちなみにジョイスの様な文学者は、この種の中立的な空間の中で、孤立し離れ離れに生きなればならない人々について

137、ヴィクトリア朝の植民都市ダブリンを映し出した作品である、「ダブリナーズ(ダブリン市民)」と「ユリシーズ」を通して、証言したのではなかったか。ダブリンの人々は、自分一人の自己実現に向かうときのみは最低限の自由を享受できるが、このような一望監視方式のような社会では、

138、個人の最大限の自己表現を導くための必須条件となる、社会的相互作用が存在しないのである。「ユリシーズ」におけるブルームとスティーブンの出会いは、ある意味で、ジョイスが目指した社会的相互作用を具現化したものだったかもしれない。他方、中立的な空間には、


139他者から与えられた主体として自分達を受容するような互酬関係における人間は一人も現れてこないし、また他者が語る言葉に対して敏感に向き合う主体の存在もない。こうして文学からは、言葉が本来的に自身の外へ出て行くことによって、他者である映像と常に遭遇しなければならないことをみるが、

140、これは、功利主義的な最大多数の最大幸福の自由社会、つまり、中立空間ではけっして実現しないのである。不可視の少数者である他者の姿、言葉を奪われて抑圧されたしまった他者の姿、が決定的な映像として現れることは果たして可能なのだろうか?、「資本論」はこのことを問うたに違いない。

141、だからこそ「資本論」にとって、高度に回復された互酬性を記述することはなによりも決定的に重要な意義があったのに、にもかかわらず社会主義の理念を再構成したマルクスはここで、互酬性原理を再構成できなかったのである。「共産党宣言」のように、近代化過程についての徹底した批判と・・・




























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