3・11以降の思想の肖像 (2b) われわれはどうマルクスを論じるのか

142、そのアンチテーゼとしての革命のリベラルなモデルの可能性を語る言語を齎し広めたようには。互酬性原理の基づくモデルをつくりあげることによって、世界資本主義とその革命についての批判的言説を失わせる危険があったかもしれない。この点に関して運動の経験が教えるところでは、互酬性原理は

143、構造を正そうとする「小さな人間」の側だげに適用できる原理とはいえないことだ。つまり構造を支える「大きな人間」の側にも適用されうる原理であることをみなければならないだろう。特にナショナリズムと国家が互いに手を結び合うときに非合理な言説として実体化し機械仕掛けの如く作動する危険がある


144、反グローバリズム運動に立つ者の中には、反原発派が強調するような意味で、イマージナルな"生命"の共同体の意義を説く人々が存在する。世界資本主義と両立できない"生命"は、反理性の代名詞となっているケースがあるが、しかし果たしてわれわれは反理性である必要が本当にあるのだろうか?

145、マルクスからみれば、空想主義と彼が呼ぶ神秘主義が失敗しているのは、効率が悪い間違った訴え方だからではなく、不合理な従属性と結びついているから失敗しているのだ。結局従属性というのは、フーコが「監獄の誕生」で分析したような従順な身体の管理を呼び込んでしまうものではないだろうか

146、たしかに、反TPPをはじめとする反グローバリズム運動は、合理性に対する抵抗に依拠している。理性それ自身の欠陥を鋭く意識しているのは、資本主義が狂気ではなくむしろ理性の極限だからだ。が、単純にそのことをもってして、反グローバリズム運動は反理性の側に立つということにはならない

147、ただし、"生命"を強調することは、受動的依存性に帰するという合理主義者からの非難は、受け入れることはできない。スピノザと共に、われわれは受動的依存性をネガティヴに考えてはいないとマルクスは答えるだろう。受動的依存性というものが、合理性の領域の外にあるとする誤解がある。

148、スピノザ的には、デカルト的合理性から出発しても、受動的依存性に至ることをみる必要がある。たとえば、ネオリベ的グローバリズムの自己保存的武装化をみよ。この弱肉強食のマーケット競争は、「痛い!」とウィットゲンシュタインが呼んだ私的な感覚、即ち耐え難き孤立の感情に導くだろう。

149、この全体性を喪失した感覚は購えない絶対貧困に属す。ここから必然として誰もが出口を求めて社会化への方向を目指す。この社会化を世界宗教と呼ぶかは名前の問題だ。全体性を喪失すると、非合理性から抵抗をとらえることが生じる。が、連続性と再帰性の空間は、非合理性の特異点を必要としない

150、「資本論」"の窓"(ノマド?)は将来、世界を映す真実の鏡としての責任を果たし、開かれた方向に向かって広がるのか、あるいはまた、ポストモダニズム的に割れたガラスの破片のままで閉じた方向のうちに停滞し、無知の避難所として消滅の過程を辿ってしまうのか。この問いには歴史が証言することになるだろう

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