なぜ、「思想・良心の自由」は、改憲の手続きによっても、取り除くことができないのでしょうか?




思想良心の自由といえ言論表現の自由といえ、「憲法を作る力」のどの部分に視点を置くかの権利であって、介入し喋る民主主義の本質的な理解に大きな違いはない。憲法はこの市民の声によって明確になり、両者は互いに強化し合う。改憲によっては、思想を黙らしてはならないと憲法はファシスト達に抗議している



大川XX的に吾芦部の愛弟子也と託宣するエリートの愚か者に対抗して、大川興行的に、法学部落ちこぼれであった、我が自説の憲法論をぶちまけてやろうじゃありませんか!広告のチラシは散漫と商品を羅列してはおりませんね。同様に、人権というのは、憲法に散漫と羅列されているわけではありません。
さて、芦部はアメリカの違憲立法審査権を研究した学者です。人権を、統治権である司法権からとらえなおそうとしたのです。それは、憲法が、とくに「思想良心の自由」に大きなポイントが与えているということを証明したかったからに他ならないのです。ところで原発問題等生命に関わる重大な決定に関して、専門家知識集団に依拠しない市民に「介入」する特権を、憲法は与えています。例えば国民投票がその一例です。デモの権利も保障されています。考えてみるとすごい特権ですよね。これほどの特権は、「憲法を作る力」からしか正当化され得ません。かれはこの「憲法を作る力」を主権概念と関わる憲法制定権力とみたのです。
そして、「思想良心の自由」こそは、「憲法を作る力」の声にあたると私は考えます。つまり、この喋る民主主義は、改憲によって、決して黙らしてはならないと、憲法はファシスト達に抗議しているのではないでしょうか。歴史的にも、ファシスト達が攻撃するのは、この「思想良心の自由」と共に「言論・表現の自由」なのです。
なぜ、「思想・良心の自由」は、改憲の手続きによっても、取り除くことができないのでしょうか?答えは明白です。自民党が行おうとしている姑息な修正も一切許されません。肝心なことは、あとは、あなたが辿った考え、すなわち、あなたの「思想」を友達と共有していくことです。<選ぶ>(だけの)民主主義とは別の、<喋る>(喋ってこその)民主主義への参加です。


参考;

『憲法は、人間は生まれながらにして自由であり、平等であるという自然権思想(天賦人権論)を、国民に『憲法を作る力』が存するという考えに基づき成文化した法。憲法の根本規範と言うべき人権宣言の基本原則を改変することは改憲の限界を超え許されない』(芦部信喜「憲法」第5版386頁)



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