3.11以降、再びサルトルへ ー <思考を表現する>とはどういうことか?

土地を奪われ言葉を奪われ文化の記憶すら奪われて残るものがあるとしたら、それはサルトルが意識と呼んだもの相違ない。貧困から生じるあらゆる問題を抱えるアイルランド人。ここから彼らは自分達に、同様の貧困に直面する世界を持つ。産業革命の歴史が無い圧倒的多数派の、最底辺ゆえに、ホワイトホール的に、地球上どこにでも繋がっていけるアイリッシュ的<我々>。ところで、九十年代ヨーロッパの貧国といえば、スペイン・ポルトガル・ギリシャ・アイルランド。が、ケルトの虎という景気浮上効果で、ポルトガルやギリシャを見下す中流がアイルランドから現れた。この成金的方向とは一線を画し、最底辺ゆえに、ホワイトホール的に、地球上どこにでも繋がっていけるアイリッシュ的<我々>にスピリチュアルに定位する者が多くいた。例えば、ジョイスが今日生きていたら、ヨーロッパで最も疎外されたアラブ人を主人公にした「ユリシーズ」を書くだろうと看破したのは、他ならないデビッド・ノリスだった。ちなみに、<俺よりもっと下の貧乏人がいる>と思う限り階級意識は成立しないと指摘したのは大島渚である。逆に、幻想とはいえ、中産階級は自己に<一番虐げられた貧しい人々>を持ったのだから、フランス革命では自己欺瞞とサルトルが呼んだ投射がラディカルな作用を展開した。投射といえ映画といえ政治的なのだ。最後に、フーコは思考が他のものではあり得ないと考えていたとドゥルーズは記している。恐らくこれと同様に、サルトルがいう意識も置き換えられないものである。意識は存在論的に独立して純粋だけれども、意識に介入してくる語り(言葉)が純粋(単一)であるという必然性はないのだ。サルトルはここを間違えたんだな・・・二項対立的に捉えすぎた結果、現地の言葉をオリジナルなものとして神聖化した間違い。本当は、意識は、思考は雑多なものとは異なるし、同じ意味で、意識も雑多なものとは異なるけれど、思考も意識も雑多なものと共に生きることができるのだと思うよ。ドゥルーズのスピノザ的テーマに即して言えば、<表現>できるということではないかな。神は自らを<表現>できる。思考は自らを<表現>できる

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