大島渚を語る -OSHIMA, JAPANESE ICONOCLAST 大島渚 日本における偶像破壊

<大島渚を語る>
大島渚は好きだ。ただ日本語で書かれた彼についての映画評は苦手。民衆史から語るものが多いが、笑止。この民衆史は、知識人の土に対する執着に過ぎず、近世の藩の帰属意識から由来するというのが私の自説。民衆史における偽の対抗概念として、相補的に、かならず天皇が現れる。明治以降墓の執着に変容したという藩意識は、民衆史という共同幻想を発明していく。例えば、私の理解では、岩波書店の日本史、吉本隆明、網野や中沢新一の中世史、大河ドラマ、民衆vs天皇と、繰り返し二項対立の物語を反復する。(但し網野はそう単純でなないかもしれないが)Fbで映画監督の藤原敏史氏から示唆していただいた。大島は京都の人だから「藩」に属していないこと、「民衆vs天皇」という発想からどんどん逸脱していった点である。「猥褻とは明治の官僚の醜い造語」という大島の言葉は、彼が創り出した愛のイマージネーションに当惑する・・明治官僚のように振舞う現在の観客にあてた軽蔑を込めた痛烈な言葉だ。二年前ICAのコーディネーターに頼まれて、電話で東京事務所にかけ合って「絞首刑」のアイルランド上映許可を貰った。私の勝手な思い込みだが、「愛の亡霊」こそこの「絞首刑」の続編ではないかと思っているつまり、姑息にも国家官僚が再現することができない、エロスの記憶が提示されたのではないかと。この考えは、「愛の亡霊」に関する藤原監督の洞察に富んだご意見を伺って、そう間違いではないと分ってきた。兎に角、大島が拒否したのは、官僚的な自己抑制的な国家意識であった。溝口の「滝の白糸」(新派劇)の中で描いている裁判官ほど、大島が批判してきた明治官僚を体現しているキャラクターはない。大島に与えた溝口の影響力を明らかにしたカイエの評価とは別に、こういう方向から、溝口ー大島ラインは今一度探求に値する映画の歴史であろう。英国では年末に大島の「戦場のメリークリスマス」がテレビ放映される。残念ながら大して才能もないタレントの知名度につられて観るのだが、大島の名を知らずともこの映画が提起した普遍的な問題意識が分る。毎週「愛のコリーダ」を上映していたパリの映画館はどうなったかな

OSHIMA, JAPANESE ICONOCLAST(大島渚 日本における偶像破壊者) フェイスブックにて収集いたしました、大島映画の展示です。 http://www.facebook.com/media/set/?set=a.1561843843614.2078243.1160873230&type=1&l=09d096cb0b

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