東京演劇アンサンブル「忘却のキス」の感想



・舞台とはそもそも遠くからくる。そして意外にも、プイグとプルーストが見事に描いたように、キスも同様に、そもそも遠くからくるのだ。隕石よりも遥か遠くからかもしれぬ。キスがもつ異様さとは何か?キスがもつ異様さとは、同一的に安らうものに他者が与える異様さである。そうして、出会われるキスの他者性は、「リカルダ」の生を絶えず外部へと開いていく。われわれの出会いも元々そのようなものではなかったか?親しい透明な近さに安逸をむさぼる一方で、歴史的であり物質的でもある不透明な出会いを忘却してしまってはいないだろうか。忘却のキスが意味するものは何か?おそらくそれは外部的な他者性をもって成立する異様さを再び思い出せる覚醒である。繰り返し舞台もキスも遠くからくるーわれわれに変容と脱皮の悦びを絶えず与えるために。

・「去年マリアンバード」は、映画でないもの(映像に従属しない声voice-off)に、自らを与えた映画であった。そして、レネに於ける演劇の継承をなす、「忘却のキス」の非明瞭性に真実があるとすれば、それは一体何だろうか?読むことはそもそも他のものではあり得ない。しかし敢えて本は即ち読むことは、自らを、声に委ねようとする?矛盾、不可能性にキスする傲慢な自惚れ、これこそが、リカルダという名の女の決定的多義性、反哲学的演劇が自らを描いた、炸裂したクローズアップの肖像ではなかっただろうか。


・「忘却のキス」観劇後のパーティーで、快活な田中克彦氏に捕獲されてしまった(笑)。田中氏曰く、役柄に拘束される役者は誠に不自由だとご自説を展開なさった。一般的に言って、役者は自身の領域へ越えたくとも、観客の反応が悪ければ劇団に迷惑をかけてしまう。越えることにはリスクがある。つまり役者が与えられたアイデンティティーを越えるには、観客の介入が関わるということ、と、わたしはこのお話を理解した。ところで、観客が舞台に介入すること、市民が政治に介入すること、この両者が一致したのが、古代ギリシャにおいてであった。このことは一考に価する。歴史的には、ギリシャに於ける弁論術に依拠した民主政治は、演劇における修辞の発達がなければ成り立たなかったのだから。(ロンドン時代、BBCラジオのFree thinkingという番組で、ブレアーの広報を長年担当していた人物がこの弁論術と修辞学との歴史的な関係について喋っていたのは、凄く驚いた)


・「忘却のキス」は多くの映画を参照する。但し映画批評を行う主体は人間ではなく、演劇であることに注意しよう。演劇は忘却に抗して、アントニオーニを呼び起こす。アントニオーニは嘗て語った。我々がエロスに病むのはエロスそれ自身が病んでいるから。それは時代遅れという意味か?否である!エロスとはそもそも和解不可能な不動の過去と死の未来からきたのだ。此方と彼岸に引き裂かれた、リカルダ(山崎智子)とイェルケ(松下重人)との間の関係において証言されていた如くー「忘却のキス」のなかで。六十年代ヌーベルバーグがもった「愛の不可能性」の主題が、あえて、戦争の世紀である二十世紀の負の遺産を背負う現在の我々に与えられていく。なんにしても我々は購わなければ済まされないだろうーイラク戦争の間違いは何であったかを問うこと。情報の客体の側に置かれた我々が、なぜ、コミュニケーションの主体になれないのか、と問うこと


・イギリスに渡ったオスカー・ワイルドとシングをして、アイルランド農民の心情がいかに英国貴族のそれと類似しているか驚かせたという逸話がある。これは歴史から説明できるだろうか。農民と貴族は共に産業革命の敗北者となったのだから世界観が似てくるのは、寧ろ当然の事理なのだ。さて、貴族と間違われた農民の社交界での栄光と挫折を皮肉に描いた映画、キュービリック「バリーリンドン」の名が冒頭で告げられる。これは芝居の展開を予告するものだ。イェルケル(マルクス+実存主義)の葬儀の後、ルーカス(貴族的なネオリベ的ポストモダニズム)がリカルダの愛人として登場する、という展開のことだ。もちろんいうまでもなく、これはソ連とベルリンの壁の崩壊の前後を物語ろうとする。ベテランの松下重人のイェルケル役はいわば知識人が自身に都合よく投射した重い自己観照的な労働者階級的実存主義を表現するとしたら、竹口範顕のルーカス役は言語ゲームを遊べというネオリベ的ポストモダニズムの軽やかなデガダンスを、それぞれ見事に体現していた。


・ドイツ留学経験のある田中克彦氏は、マウトナー医師(伊藤克)に、ドイツ人の極限まで自己内省していく本質を感じたようだ。私の方は、ウディ・アレンが語る外国映画、(恐らく)ベルイマン映画の美しいモノローグを思い出した。マウトナー医師は、真に人間的に人間らしい心の言葉を呟くのだ。(「不思議なことに、僕はずっと外国映画のほうが好きだった。外国映画には字幕がついていて、それを読む習慣がついている。そのせいなのか、セリフを書くとき、それが人の喋る言葉だということを忘れて、字幕的な感覚で処理してしまう」ウディ・アレン)



差異の戯れから差異の実体化に向かう、ポストモダニズムのナショナリズムとも皮肉に形容したくなるような反動的な言説が90年代から今世紀に入って一層拡散してきた。ポストモダニズムは、運動初期において解体を目論んだはずの貨幣的権力の流通の内部のなかに、逆に、自身が取り込まれてしまったのだ。この憂うべき思想の停滞について批判が出されている。今年ポストモダニズム特集を組んだ「現代思想」の関係者から聞いた。もう一度、ポストモダニズムの原点に帰れとする声が出てきているらしい。しかしそもそも原点とはなにか?なにであったか?開けた窓から、新しい世界に辿り着こうと考えたモダニズム。このモダニズムの明晰且つ素朴なユートピア的ヴィジオンを徹底的に遠のけようとしたのが、ポストモダニズムであった。ポストモダニズムの中心的コンセプトがそもそも、複雑且つ曖昧な言明と観念と状況の配置をもったのは、反権威的な抵抗を意図したからだ。この原点は決して忘却してはならない原点だ。さて、前置きが長くなってしまったが、演出家の公家義徳氏が「忘却のキス」を演出する意義も、このような与えられた時代的な課題から理解できよう。そして公家氏がボートー・シュトラウスをとらえることができるのは、かれがアドルノとフーコの射程をもつからである。すでに昨年から「忘却のキス」の脚本に高い評価を与えていたのは、これを読んだ渡辺一民氏(フーコ「言葉と物」の訳者)であった。
ところで、広渡氏と交友関係をもった、渡辺氏が東京演劇アンサンブルに与えている助言とは、「決して同じことはできない」という言葉に集約される。音楽と衣装と映像、マルチメディアと連動したあの難解な脚本を、あそこまで現実化した公家氏の力量に、渡辺氏が大きな称賛を与えたことはやはり特筆に価するだろう。初日の成功の4分の3は演出家に帰せられるとも語っていた。渡辺氏は、(教室の端っこでこの私も参加させていただいた)「二十世紀精神史」といった一連の講義を通して、マルクス主義批判を課題にした現代思想の問題提起を、演出家(公家)に与えてきた。フランス現代思想かリベラルか、あるいはフレンチ・セオリーか、なんしても人民戦線的ポスト構造主義が、ドイツ圏の演劇空間に介入していったことは確かである。「忘却のキス」とは、モダニズムのブレヒトと、ポストモダニズムのウィトゲンシュタイン、この両者が出会う大きな実験であろう。だからこそ、東京演劇アンサンブルは『忘却のキス』を理解するために多くの努力をしただろう。観客もその努力が必要である。最後に、子安宣邦氏(思想史)が素直に呼びかけるように、観客としてぜひこの上演に介入しようではないか。



東京演劇アンサンブル「忘却のキス」感想文ー言語学者と文学者の論争

言語学者曰く、「僕は東京に上京したときのこと、頼まれて一度演出をしたことがあるけれど、自分には全く持っていない感覚だと知った」。私はこの言語学者にきいてみた。「成程、自分に無い感覚をもとめて、長年芝居を観続けてきたのですか?」
と、話に加わってきた文学者がこの言語学者にきっぱり一言。「演出は感覚ではないんだ」と。言語学者は蒼ざめた。黙ってはいない。「僕は君の芝居好きがイデオロギーかと思っていた」と早口に反撃した。これに対して、文学者の方は、「僕は新劇が大好きだ」、とだけ返した。言語学者は論争に持ち込む。
「僕等労働者がランニングシャツで汗水流して働いている間に、君の様に青年時代から新劇に通う不良はブルジョア的怠惰だ」と言った。これは恐らく三十年間近くブレヒト小屋でこの文学者と言語学者の間で繰り返された、言葉の左翼的ボクシングなのか?。興味深くも、演劇の見方の違いが浮き彫りにされる。
この言語学者の見解では、芝居は舞台上の役者たちを照らす電灯さえあれば十分であり、必ずしもそれは音楽や映像と関わる必要がないという。そうすると、「感覚」と言語学者が言ったものは、言葉と声から到来してくるものを受け止める「感覚」のことと解せる。これはいかにも言語学者らしい演劇観である。
他方、文学者のほうだが、感覚的なものを否定的に評価しているわけではなかっただろう。昨年末、「故郷よ」というチェルノブィリをテーマにした映画の感想を述べたとき、映像の力のこと、その説得力のことを強調していた。演劇では、映画が持つこのようなリアリティー感を表現できないだろうと分析した
文学者は演劇の脚本それ自身の限界のことを語る。脚本それ自身の限界を、理性それ自身の限界と等価と哲学的にとらえている。演劇における関係の冒険、音楽と映像との出会いを祝した、「忘却のキス」を通して、演劇それ自身の再定義が世に問われる。言語学と文学の対話ー理性のルネッサンス的舞台の主宰

・昨日は、東京演劇アンサンブル「忘却のキス」の千秋楽だった。(この劇団はキャラクターという言葉を使わないのだが)、初演と比べると、象徴性をもった一人ひとりのキャラが生き生きと表現されていた。台詞も非常に聞き取りやすくなっていた。特に葬儀の場面は映画それ自身かと錯覚するほど美しかった。この「忘却のキス」という芝居は、若い助監督達が説明するように、連続性というか、transitionというか、映画の場面と場面をつなぐ饒舌さがある。また、演出家公家氏の演出は、渡辺一民氏がフーコの本のように語り継ぐ知の誘惑を喚起した。今回の公演で、若い人から中堅とベテランまで、俳優の層が厚くなってきたと思った

「忘却のキス」はいうまでもなく、記憶をテーマにしていた芝居だった。ところで、見た映画について語る場合、忘却の介入は避けられない。いくらで言葉で追っても、映像についての記憶は消失していく。結局、映画に人は到達することがない、到達はもともと不可能であり、ただ、いつまでも接近しつづけるだけ、それは一つの極限。<盲目の言葉>と<沈黙の映像>のあいだ。わたしとあなたのあいだ


この記事へのトラックバック