子安宣邦著 "和辻倫理学を読むーもう一つの「近代の超克」"の感想文



子安宣邦氏「和辻倫理学を読む」は、言語の拡散と集中というフーコと共有する問題意識から、和辻解釈学を暴き出す。翻訳の新漢語でしかないのに和辻が解釈してみせる<倫理>の語は、十分に拡散していた言葉などではなかった。歴史の古層という装いで彼の倫理学の解釈は倫理学のナショナリズムの一点に集中していく。ただし、和辻の方法としての<倫理学>は、アカデミズムの紹介する為に専ら翻訳する<倫理学>からの思想的自立という課題を持っていたことを無視したらフェアーではないだろう。結果的には、方法としての彼の<倫理学>は、実体としての我々の<倫理学>、帝国日本の昭和の<倫理学>に置き換えられていったのだが。統括すると、1980年代後半には、三十年代が九十年代に反復するであろうという言説がもっともらしく幅を利かせて流通したものだが、
仮にそうだとすると、昭和における和辻の<倫理学>のナショナリズムは、平成における、差異の戯れから差異の実体化に堕したポストモダニズムのナショナリズムに忍び込んだといえるか?嘗てアカデミズムの外へ出たと高く自惚れた「脱」(=差異)の哲学的修辞の木霊があった。・・・しかしこれは十分に拡散する前に、過剰な自己意識を伴なって集中に向かった。昭和からきた和辻の過剰な<倫理学>の亡霊は、現在貨幣のネオリベ的<表層>へ滑り出し、大日本帝国憲法的<倫理>を徘徊しているのだろうか?以下、子安氏の言葉をひこう。

・<倫理学>という学的テキストがもつ意味の過剰は、「倫理」への問いを根低化するという学的作業それ自体からくるだけではない。一九三〇年から一九四〇年代ににいたる昭和日本の歴史的な時空で「倫理」の問い直しがなされること自体が、和辻倫理学に遥かに過剰な意味を与えているのである。

・和辻「倫理学」とは、文字通り過剰な体系となるのである。ことに「倫理学」中・下巻とは、人間という共同存在をめぐる社会学であり、民俗学・文化人類学であり、政治学・国家学でもある。そこで展開される主題も議論も、共同体論であり、比較社会学であり、家族・民族・国家論であり、風土論であり、また文化類型論などなどである。和辻は倫理学から溢れ出てしまうこの過剰をなお倫理学として体系化しようとするのである。こうして過剰な体系「倫理学」上・中下三巻が、昭和前期の15年という戦争を間にした歴史的経過とともに昭和の読者に与えられることになったのである。あらためてわれわれはこの過剰な体系「倫理学」とは何なのかと問わざるをえない。

・「人民の種族」から「民族」とその同義語「民種」という語彙が成立してくるのは、明治のかなり後年に属することである。恐らく一国人民の種族という「民族」の語が日本社会に成立するのは明治の三十年代である。
しかし国家を成す種族的な、言語的な同一性をもった人民という、あるいは歴史や民俗、精神や感情を共通にする人民という「ネイション」に対応する「民族」概念が日本に成立するのはさらに遅く、ほとんど大正末年から昭和に入る時期であったようである。この「ネイション」としての「民族」概念が成立することは、同時に一国史をその構成主体としての民族を中心に記述するような歴史的視点が成立することでもある。あるいは民族性をもって一国の神話や宗教、文学や言語などの文化的遺産を研究し、記述する文化学・文化史学的視点が成立することでもある。
もちろんこうした「民族」概念の社会的成立の前提には、まさしく「民族問題」が国際的問題として登場してくる第一次大戦後の世界史的状況があった。

・一国民的同一性の根拠である「民族」概念の要請と、一国のいわゆる文化的、精神的伝承をめぐる学的認識の要求とは、どっちが先でどっちが後だともいう事はできない。伝統への要請と共に伝統は創出されるとすれば、「民族」概念の要請とともに、民族的同一性もまた学的に構成され記述されてくるのである。昭和初期とはまさしく一国民的同一性の根拠としての「民族」概念がはっきり成立するとともに、民族とその同一性をめぐる学問的言説が言語学、社会学、宗教学、神話学、民族学、民俗学などなどで展開されていった時期である。日本における精神的同一性を歴史に通観する日本精神史もまたこの時期に成立するものであることを付加えておこう。1945年にいたる昭和前期とは、明治の国家形成期とは異なるもう一つのナショナリズム、世界の一強国となった日本のナショナリズムが強力な時代思潮をなした時代である。私はこれを明治のそれと区別して昭和ナショナリズムと呼ぶ。昭和ナショナリズムとは<世界史>的日本のナショナリズムである。それは<東>からの<世界史>的日本の自己主張である。哲学が<世界史>的日本史の自己主張であり、自己理解であるかぎり、昭和の哲学とは哲学というナショナリズムである。和辻倫理学もまた、<東>からの「世界史的任務」を自覚した倫理学というナショナリズムである。


さて、根本において歴史とはなにか?和辻は、公共的領域よりもあいまいな領域が問題であることに気づいていたのだろう。そうして、<共同存在としての人間>という「人間」の定義からはじめた。和辻は、人倫的組織に於ける連帯性の構造の問題に関してつぎのように語っていた。「我々はそれを先づ存在の共同といふ点から捕える。それは二人結合といふ如き単純な共同存在から国民的結合といふ如き複雑な存在共同に至るまで層階的に辿ることが出来る」(「倫理学」序論)。しかし、結局、子安氏が指摘するように、「和辻倫理学とは、国家とともに挫折の運命をもった<負>の思想遺産である。<共同存在としての人間>という「人間」の定義が正当であるならば、この定義を掲げた和辻倫理学という近代文明の克服の道はなぜ挫折の運命を辿ったのか」。一方の項に家族を、もう一つの項に国家を置くとする夫婦的二人共同体とは、一つの映像に二人の人物を置く示す配置のことである。和辻は、ここに、市民社会的な公共的領域よりもあいまいな領域を見出した。しかし結局、そうして配置された国家は自ら死の領域へ超越化してしまう。

ところで「和辻倫理学を読むーもうひとつの近代の超克」を読んで、高田保馬「統制経済学」を思い出した。この本はもともと中国戦地へ行った叔父が京大の学生だったとき手に入れた本で、屋敷の一番端にある、薄暗く長い廊下の本箱に積まれていた本であった。パレート最適を超克せよ、に要約される本だっただろうか?そうだとしたら、今日マスコミによって流行している正義論のことを考えた。つまり、これらは同じではないかと。結局、戦前において「近代の超克」と和辻の「もう一つの近代」が対峙した、所謂個人主義的自由主義観のアングロサクソン的市場主義は、2013年我々が一方的に選択を迫られているアメリカ型グローバリズム、新自由主義・新保守主義の完成たるTPPの問題と本質的には変わらない。
実際に、反TPPをはじめとする反グローバリズム運動は、合理性に対する抵抗に依拠している。「近代の超克」や、和辻の「もうひとつの近代の超克」に見出された合理性に対する抵抗が、今日主張される生命の哲学において木霊していることは明らかだ。、しかし反グローバリズム運動は反理性の側に立つということにはなるのだろうか。理性それ自身の欠陥にゆいて鋭く意識している生命の哲学が見失っているのは、資本主義が狂気ではなくむしろ理性の極限にある体制だということである。ただし、"生命"を強調することは、受動的依存性に帰するというような、合理主義者からの非難は、受け入れることはできない。これに対して、われわれは受動的依存性をネガティヴに考えてはいない、とマルクスはスピノザと共に答えるだろう。そもそも受動的依存性というものは、それが合理性の領域の外にあるとする誤解がある。スピノザ的には、デカルト的合理性から出発しても、受動的依存性に至ることをみる必要がある。たとえば、ネオリベ的グローバリズムの自己保存的武装化をみよ。この弱肉強食のマーケット競争は、「痛い!」とウィットゲンシュタインが呼んだ私的な感覚、即ち耐え難き孤立の感情に導くだろう。この全体性を喪失した感覚は購えない絶対貧困に属す。ここから必然として誰もが出口を求めて社会化への方向を目指す。この社会化を世界宗教と呼ぶかは名前の問題だ。全体性を喪失すると、非合理性から抵抗をとらえることが生じる。が、連続性と再帰性の空間は、非合理性の特異点を必要としないのではないだろうか。

「和辻倫理学がマルクスから始まったことは、彼の「人間の学としての倫理学」以降の倫理学的著述においてはまったく消されてしまっている。マルクスの社会的存在としての人間も、間柄的存在としての人間という和辻的倫理学的な人間存在となる。それとともにあの始まりのマルクスも、「人間の学」としての倫理学史の末尾の章を構成する終わりのマルクスとなる。論文「倫理学」は和辻自身によっても捨てられるのである。彼はこれを己の公的著述に数え上げることはしないのである。だがそこに一たびマルクスとともに記した「人間の社会的存在の学が倫理学たらざるを得ない」という言葉は決して消すことはできない。それは隠された主動因として、和辻倫理学の昭和<近代>における独自の形成をひそかに支配し続けたと私は見ている」

最後に、マルクス主義とは結局、近代が自分自身について記した戯曲だった。ところで、言語の領域に主観性が存在しない様に、シェーンベルクがオペラに要求した如く、演出家は戯曲の解釈に介入できない。自由があるとすれば、それは役者が役柄を越えるダイアローグ的行為から実現するけれども、やはりこれは戯曲と観客の期待に反しない限りにおいてだ。一方、ポストモダンといえば、演出家の解釈だ。演劇は表現に美的に従属する。舞台は過剰を孕む。舞台は、あまりに文学的に文学的で、戯曲それ自身の忘却から、世界の喪失を齎す遊びに委ねていく。実際に1990年代を契機にマルクス主義それ自身を否定した多くの知識人は全部を失った観がある。1920年代にマルクス主義の出発点を隠蔽した、和辻の「もうひとつの近代の超克」が取り組んだ問題が現在繰り返されていることは繰り返し述べた。ユートピアも抵抗もなく、倫理学のナショナリズムのかわりに正義のナショナリズムが取ってかわる。残されたものといえば、最悪の映画しかないーすなわち戦争体制と国家百年の計をいう安部の国家主義的スタンス、という最悪の映画のことである。結局どこにも逃げ道はなくなったのだ。「もうひとつの近代の超克」の、マルクスからの始まりを隠した出発が、国家によって挫折に帰した倫理学であったとしたら、戦後の倫理学の構築を再び国家に委ねることは不可能であろう。

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