子安宣邦著「日本ナショナリズムの解読」の感想文 ー福沢諭吉、ジョイス、清沢満之



子安宣邦著「日本ナショナリズムの解読」の感想文 ー福沢諭吉、ジョイス、清沢満之

アリストテレスは道徳人を、自己中心的な人間ではなく、良き人生そのものとして友情を楽しむ人、と説き、いわゆる知識人の瞑想生活に大きな意義を与えているが、アリストテレスの理解には道徳が本質的に互酬的な関係である、という認識が欠けている。アリストテレスは、それが政治生活の中で育まれることをよく分析したが、人と人との間で生じるもの、つまり、関係において生じるもの、という大事な点を見失っている。ここで注意を要するのは、アリストテレスがいう、いわゆる「偉大な魂」を持った人、というのは、ヴィクトリア朝の節制を重んじた自己満足のみを意味している点である。私が関心を持っているジョイスは、独立運動の指導者パーネルの失脚の後、このようなビクトリア朝の美徳を頂点とする節制がカトリックのモラルと相伴って、アイルランドにおいて大きな影響力を持ち始めたことを警鐘に鳴らそうとした。つまり、イギリスの植民都市ダブリンの中産階級は、現実的な自治を求めた政治的な運動が挫折してしまうと、「偉大な魂」を持った人の自己満足の内面化へ閉塞していったのである。このような自己満足とは相反する考え方が、パリ時代の若いジョイスが読んだバクーニンを初めとするアナーキスト達が強調している相互関係、すなわち互酬的な依存であった。この「依存」という概念は、物質的な次元における関わりから、鳥がひなを抱くように、モラルを抱くイメージとして思い描くことができるだけでなく、平等な相互関係のあり方を喚起させる。
さて、福沢諭吉の文明論が直面していたのも、また、子安氏によると、「明治の社会的転換と共に生じた道徳的な空白がその再生を促した道徳主義の主張であった」。具体的には、「教育勅語」という天皇の名による国民道徳の宣布と臣民的規範の賦与のことである。ここから、「徳の否定的作業を通して生まれたのは、徳から切り離され、その否定的徳の向こう側にある肯定的な智、即ち文明的な知識・知性であった」と、子安氏は分析している。
ところで、人間の現実に即して考えてみると、誰もが生まれた状態において無力な存在であるから、物理的に生き延びるために他者に依存しなければならず、このような依存関係は、配慮や献身、覚醒、保護といった社会的なモラルと一体化して機能している。ここで、私達の世話をしてくれる能力は「愛」のことである。この点に関していうと、アリストテレスの人間像も、福沢諭吉の「智」「文明」にも、「愛」についての記述がないが、ジョイスのテクストは、「愛」が社会のモデルである、と訴えている。例えば、どの言語の受容にも愛と憎悪という互いに対立した感情が共存していることが観察でき、特に、前者が後者に優る場合にだけ言語の存続が可能となる、というように。
アリストテレスの道徳人のモデルは、ミルなどの近代の功利主義論者達が理論づけた自由社会のモデルと結びつく。このモデルにおいては、ブルジョア的民主主義の市民は他人のためにこの者が繁栄できるような空間を創造したい、と望む。今度はその他人が同じことを私達に行う。こうして他人の幸福に仕える理性であることが、真の幸福として自覚されることになる、とされる。しかし、この常識に訴えかける、もっともらしく幸福を語る言葉は、ブルジョア的民主主義のイデオロギーを孕んでいる。この社会モデルの中では、個人は他人からの干渉を受けずに、自身の空間を繁栄させなければならないが、そのような政治的な空間は、ヴィクトリア朝に顕著な中立的な空間に過ぎない。人々は、自分一人の自己実現に向かうときのみは最低限の自由を享受できるが、このような一望監視方式のような社会では、個人の最大限の自己表現を導くための必須条件となる、社会的相互作用が存在しないのである。
中立的な空間には、他者から与えられた主体として自分達を受容するような関係も現れてこないし、また、他者が語る言葉に対して敏感に向き合う主体の存在もないだろう。これと同様のことは、福沢諭吉についてもいえる。たしかに、「智」は「徳」から区別されて外部化された。「徳」はどこへ行くのか?この「徳」は内面の領域に置かれる。しかし、そうして「徳」を内部に持つに至った人間どうしの間で、はたして、福沢が望んだような「智」が知性として十全に働くのものなのだろうか疑問だ。「智」「文明」も所詮、他者無き中立空間の枠を超えるものではないのだ。

子安氏は2013年から講座「歎異抄を読む」をはじめた。子安氏が語る、「精神主義」の提唱者である清沢満之の思想に、他者無き中立空間を打ち破る概念があるのかもしれないと私は注目している。「精神主義」は明治34年の日本社会、即ち日清戦争、やがて日露戦争が始まろうとする明治戦間期の社会に反響を呼び起こしたという。日露戦争と太平洋戦争を比較した子安氏によると、「二つ目の戦前の軍国主義とは<全体主義>であることだ。そこでは己の精神に自由の<立脚地>を求めることも許されない」。「精神主義」の冒頭で清沢満之はこう語り出していた。「吾人は只だ此の如き無限者に接せざれば、此世に於ける完全なる立脚地ある能はざる」と。ここで「無限者」とは、阿弥陀のことをいう。そして明治36年の最晩年に、この言葉に至った。「如来の奴隷となれ、其の他のものの奴隷となること勿れ」と。子安氏の解説よると、「如来の奴隷となれ、其の他のものの奴隷となること勿れ」という言葉は存在論的な命法といったものではない。そこには、「親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけまいらすべしと、よきひとの仰せをかふむりて、信ずるほかに、別の子細なきなり」(「歎異抄」)と同様の、他のすべてを捨てて、ただそれだけへの<信>という不条理ともいいうる絶対他力の決断があるという。恐らこれほどの「絶対他力」は、「依存」という概念の純粋な徹底化ではなかった、と私は考える。そうすると、清沢満之が「如来」と呼んだものからは、先述したように、物質的な次元における関わりから、鳥がひなを抱くように、モラルを抱くイメージとして思い描くことができるだけでなく、平等な相互関係のあり方を喚起させるものではないかと。つまり、「清沢の儒家的言語使用における戦略的意図とは私の勝手な推定である」と子安氏は述べているが、中立空間を打ち破る、天の愛と形容すべきものが「如来」である というのが私の問題提起である。
また、現在の我々に於ける国家的被拘束性からの最初の思想的離脱を与えるものであるように思われる。
現在に目を向けてみると、我々は救いを求めているのは、「如来」ではなく、「ギャンブル」である。つまり、「ファイナンシャルタイムズ」が評した、アベノミックスという「ギャンブル」である。小泉改革の完成をなすベノミックスとは、市場に対する過剰な期待、ネオリベのヴァリエーションでありながら、生存に不安を感じざるを得ない自己保存本能はかえって自己の生存の基盤を一層不利にしていく「ギャンブル」に救いを求める有様ではないか。ギャンブルで時間を潰しているうちに根本的に回復不可能な状態が進行しているに相違ない。ただし、暗黒の時代というのはいきなり来るわけではない。恐らく発狂の時代が先にあるのだろう。内閣府調査は、愛国心が「非常に強い」「どちらかといえば強い」の合計が58.0%と過去最高になったことを発表しているけれども、この善意な人々が自分の愛国心が、他者殺戮の声を張り上げている大阪や東京の新大久保での極右翼の行動となにか関係があると一度も疑わないとしら・・・。
アメリカのためのグローバル経済。小泉改革の完成であるアベノニッミクスはTPPと相伴って、究極的には、ナショナリズムの対内的な極限的テーゼに行き着いたではないか。極右翼のプラカードから読み取れるそのテーゼとはなにか?すなわち、「国家のために殺せ」。そして、最後に、アメリカのための平和。「国家のために殺せ」という排他的ナショナリズムの極限的の極限的テーゼが来るのだ。こうして、我々は、「はじめに」で子安氏はこう語っていた言葉に必然として帰るのである。

「私達はいま冷静に、リアルな眼をもって見なければなりません」


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