子安宣邦著"「江戸思想史講義」(岩波書店)の感想文ー



子安宣邦著"「江戸思想史講義」(岩波書店、1998)の感想文
ー「方法としてのアジア」、「方法としての江戸」、「方法としての知識人」

子安宣邦氏は最近のツイートで、山口昌男が「《重い》級友であった」ことを綴った。「彼と私とは知の関係史を作っている。私をマルクス主義に、そしてポスト構造主義に位置づけていったのは彼の存在であったかも知れない」と。マルクス主義と構造主義。この<関係の冒険>からは、新たに普遍性の構築を模索しようとする知性が生まれたことを子安氏の回想は証言している。それ自体が歴史を構成する出来事といえようが、兎に角、そうして、1990年に、世に問われたのが『「事件」としての徂徠学』であった。
この『「事件」としての徂徠学』(1990年)から、『「中国」はどう語られてきたか』(2012年)まで、子安宣邦氏が直視し続けたのは、歴史を書くことの意義と、歴史を書くことの不可能性だったとおもう。顕著な二つの探求があった。そのひとつは、アジアからの眼差を受けながらも、何故かくもこの他者を語ることの不可能性が繰り返し生じてしまったのかという探求である。(「近代の超克論」「和辻倫理学」「国家と祭祀」「日本ナショナリズム論」)。他者に於ける他者性の痕跡を消すようにして行われる、自己の中の他者の措定の挫折を読者は読み取ることになる。もうひとつは、仰ぐ見る「大いなる他者」を求める探求である。「アジア論」には台湾儒学のことが記述されているが、この台湾儒学の将来に、江戸朱子学の再生を託してはいなかっただろうか。「中国論」の根底には、亡命者に見出していく「大いなる他者」の声の通低音が支配している。歴史、歴史、歴史である。

ところが、八十年代というのは、歴史の終焉と普遍主義への幻滅がもことしやかに語られた時代だった。かのサィード曰く、「ポストモダンの知識人たちは、いまや、真実とか自由といった普遍的な価値ではなく、専門的能力のほうを高く評価するということらしい。」。構造主義に転向していた多くの知識人たちにとっては、八十年代に起きたソ連の解体、ベルリンの壁の崩壊、天安門広場事件などは、特に驚くべき事件ではなく、既にその前の時代に証言されていたユートピア的神話的象徴に対する幻滅ースターリンとヒトラーの独ソ不可侵条約が齎した人民戦線の崩壊、強制収容所の発覚、顕在化した文革の犠牲、社会主義国間戦争ーを確認した事件としてあらわれとみえたかもしれない。八十年代に、ポストモダニズムの構造主義的言説が流暢に喋り始めた。反ユートピア的言説とはいえ、少なくとも、啓蒙主義ユーとピアから排除された他者たちを取り戻すことの意義だけは訴えたけれども。また前衛的マルクス主義とは別の仕方で反資本主義の運動をなしていたことも。たしかに批評的な問題的提起から活発な論争が起きた。ただ日本に限っていえば、オタク知識人、今村 仁司のような同時代性の「フランス思想」を自慢する人々があらわれた。かれらはレヴィナスに言及しても、その暴力の概念を日本の暴力の問題に即して考えることは消極的であるようにみえる。結局、九十年代に入ると、世界的な傾向として、ポストモダニズはメインストリームの核に取り込まれていった。今日資本主義そのものとなってしまったのである。「専門的技能がすべて、手軽なもうけ話や一攫千金の野望達成の手段へと矮小化されるような、たえざる流通循環過程の領域。」(サィード)。日本の現在については、ポストモダニズムのナショナリズムという憂慮すべき反動的事態も生じているのだが、今回はこのことを指摘するだけに留めておきたい。

サィード「知識人とはなにか」は1994年に出版された。この六年後に、彼の「故郷喪失についての省察」(Reflections on Exile)が出る。そして「江戸思想史講義」は、その間の1998年に出版されたことは注目したい。この本で子安氏が「方法としての江戸」で問うたものこそ、サィードが再構築しようとした普遍主義の「知」と深い関係があったのではないかと私は主張したいのである。子安氏は、「仁斎論」の最後でこうまとめていることに注目したい。

・<人間の時代>において「天」は「論語」テクストに人間孔子を読み出すことともに、読み出されてくる。すなわち、性理学的な思惟とその言語学的構成の外側に、もはや己れの存立根拠ではない「天」が、仰ぎ見る「天」が読み出されてくる。「論語」の「天命を知る」の言葉にみずから思い入れるものは、孔子とともに仰ぎ見る「天」を、もはや己の存立根拠にはない「天」を、恐れとともに見出すのである。

ここで<もはや己の存立根拠にはない「天」>とは、知識人における「語りの特権性」と子安氏がいうものと関係があるだろう。知識人が「語りの特権性」をもつのは、かれが専門性も否定していく外部的な位置と関係した立場をもつからである。サィードもつぎのように言っている。「知識人とは、あくまでも社会のなかで特殊な公的役割を担う個人であって、知識人は顔のない専門家に還元できない。つまり、特定の職務をこなす有資格者階層に還元することはできない。」「まもるべき砦となる職務もなく、また、まもりを固めて防御すべき縄張りもない知識人には、つねに、不安定で遊牧民的なところがある。」。また、文中の<仰ぎ見る「天」>という言葉はそのまま、サィードの次の言葉を喚起しないだろうか。「知識人が真の知識人といえるのは、形而上的で高尚な理念に衝きうごかされつつ、公正無私な、真実と正義の原則にのっとって、腐敗を糾弾し、弱気をたすけ、欠陥ある抑圧的な権威にいどみかかるときなのだ。」「わたしをとらえて離さないのは、同化精神よりも、やはり反骨精神であって、知識人のありようをめぐるロマンスなり、利害なり、挑戦なりは、すべて、現状に対する異議申し立てのなかで光をはなつものだ-」。「知識人が、公衆に向けて、あるいは公衆になりかわって、メッセージなり、思想なり、姿勢なり、哲学なり、意見なりを表象=代弁したり、肉付けしたり、明晰に言語化できる能力にめぐまれた個人であるということだ」

結局、サィードは「方法としての知識人」について語り出したのだ。そうならば、あえて図式的に分りやすく整理してしまうと、「方法としての知識人」とは、即ち、「方法としての江戸」といえないだろうか?もちろん、これは、私の勝手な推定であるけれども、ただしここではっきり言っておきたいこととは、江戸儒学者の研究は決して、アナクロニズム的な衒学ではないという点なのだ。「方法としての江戸」は1990年代の問題意識を反映して行われるのである。すべて金で支配しようとする新植民地主義の世界的復活とネオリベのグローバリズムに対して、原発推進のための新安全神話に対して、抗議するわれわれは、<仰ぎ見る「天」>とともに在るのだ。実際に、子安氏は序文でこう書いているではないか。

・「方法としてのアジア」とは、中国研究者竹内好が「思想史の方法」をめぐる連続講座で行った講演の表題である。世界認識への竹内の独自の立場を伝えるその言葉は、彼の論集のタイトルともなって一般にすでによく知られている。竹内のいう「方法としてのアジア」とは西欧近代を包みかえすいわば方法的視座としてのアジアの提示であった。「西欧をもう一度東洋によって包みかえす、逆に西欧自身をこちらから変革する、文化的な巻き返し、あるいは価値上のの巻き返しで、西欧の生み出した普遍的な価値をより高めるために西欧を変革する、・・・その巻き返す時に、自分の中に独自なものがなければならない。それは何かというと、おそらくそういうものが実体としてあるとは思わない。しかし方法としてはありうるのではないか」と竹内はいうのである。「実体としてのアジア」が、近代ヨーロッパ帝国の世界支配に対抗するもう一つの帝国=日本が、かつてその盟主の名のもとに仮想したアジアであったとすれば、「方法としてのアジア」とは西欧近代とその世界史的展開への、西欧の外部における批判的な視座の確保の主張である。「方法としてのアジア」とは変革への可能性を見た中国に己の視座を据えながら竹内が、現代史に終始かかわり続けることを通じてわれわれに残した貴重な遺産ともいうべき視座、即ち、<歴史への批判的な視座>である。「方法としての江戸」とは、この竹内の「方法としてのアジア」を貴重な示唆として構成される歴史批判のための方法的な視座である。西欧近代を追走しながら、その対抗として自己形成した日本の近代を読み直し、とらえかえすべき批判的な視座、それが「方法としての江戸」である。「江戸」といっても、それは決して対抗としての実体的な江戸・徳川日本の主張ではない。「実体としての江戸」の語りとは、西欧的近代の転移としてある近代日本に対抗するもう一つの近代、すなわち徳川日本の再構成的なナラティヴでしかないだろう。だが「方法としての江戸」とは、日本の近代史の外部に構成される<歴史への批判的な視座>の主張である。




 













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