近代主義と反近代主義、原発推進派と反原発派  

近代主義と反近代主義、原発推進派と反原発派  





乱暴かもしれないが、非難を恐れずにあえて分かりやすく図式的に整理してしまうと、こうだ。近代主義の原発推進派からみると、反原発派の生命の讃歌と一体としてある主張は、前近代的な不合理なもの(自然)に対する寄生にみえる。一方、反近代主義の反原発派からみると、原発推進派が国策としての原発政策の優越性を自明視するのは、近代に顕著な不合理なもの(国家)に対する寄生に他ならない。さて、一方に、前近代的な不合理なもの(自然)に対する寄生があり、他方に、近代に顕著な不合理なもの(国家)に対する寄生がある。両者各々互いに相手を前提せずには成り立たぬステレオタイプ、つまり不合理なもの対する従属的寄生を共有している。出口はどこか?われわれの他者がどうみるかにかかっている、と私は思う。われわれの他者は科学者共同体を含むが、それが全部なのではない。われわれの他者は、内部的には、最後に核廃棄物を押しやられる「周辺」地域の人々であり、外部的には、輸出されてくる危険な原発を押し付けられる人々だ。未来的には、まだ生まれてきていない子供達、過去的には、原爆で殺された死者達である。


  

わたしは全部即廃止の反原発派(十年以上の期間では無意味と考える立場)ですが、この自分とは意見を異にする人々との間に対話が成立するには、一体どういう切り口があるのか?と考え方を探している.




世界には非難すべき実体がない。ただ、合理的なものとそれほど合理的でないものとしか存在しない。と、かくもナイーヴな近代合理主義からすれば、さて、現在進行中の、ドイツとイタリアの国民投票の流れの中にある、草の根的反原発運動は、言語を絶するほどの非合理の要求とは到底いえないものだろう。
ところが、反原発運動が犯してきた無視できない誤謬とは別に、日本の多くの知識人が、異議申し立て運動を前に、合理性それ自身の否定を簡単に封印する傾向があるのは、彼らの多くがそもそも合理性を信頼していなかったという、(今まで隠していた)正体を露わにするものだ。この暴露は3.11から始まっている…


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