1、(工事中) 思想における他者の介入 -言葉を中心としてー




1、子安宣邦「思想史家が読む論語ー「学び」の復権」の感想文 - 「論語」と戦後憲法(前文)と


丸山真男の江戸思想のシナリオ(「日本政治思想史研究」)は、ポストコロニアリズ的語彙によって、翻訳できないことはない。主観哲学に定位する仁斎を批判した、徂徠の「公」という男性原理の領域の成立は、被治者が属す感性的領域から超越的な「天」の風景を排した後である。他方、男性原理に回収されぬ残余として現れた「私」の領域は、宣長を介して、女性原理という「非政治の政治化」を準備していくと語られたと理解できるのである。子安氏によれば、宣長の源氏的世界は「私」に属す和文で書いた。35歳を契機に古事記的世界を「公」に属す漢文で書く。この変化が意味するのは、古事記伝の作家としてのアイデンティティーは漢文エクリチュールによって成立したということだ。思想における他者の介入としての言語が宣長を通過したのだ、と私は考える。言語的転位の場から江戸思想の風景を眺めると、丸山が整理するようには、宣長を男性原理に回収されぬ残余として現れた「私」の領域に位置づけることには無理がある。もし本当にそうならば、宣長は古事記的世界を「私」に属する和文で書き続けたはずではないか。しかし現実は「公」に属する漢文で書いたのだ。子安氏は丸山の福沢的徂徠像を指摘する。ならば、丸山において徂徠と宣長を関係づける語り口に、福沢による水戸学的国体論批判が先行していた可能性も否定できまい。が、抜け落ちたのは徂徠と宣長自身、そして仁斎だ。思想における他者の介入としての漢文エクリチュールといかにかかわったかという問題。

ところで、憲法は押しつけれたという右翼民族主義者達は、殊更、翻訳体の違和感を指摘する。外国人が持ち込んだ憲法に、Shut up!と威嚇する。ここでもオリジナルとコピーの上下関係の適用がある。右翼民族主義者の言い分では、戦後憲法は英語のコピーでしかない、だからオリジナルの日本語で本来の憲法を書けと。しかしかれらは無視しているー 憲法は自分自身を翻訳しているということを。つまり、憲法は、ヨーロッパで育った自然法思想・社会契約論の「信」を、さらに、徳川日本における儒学概念の「信」に翻訳しているのだ。実際にわれわれは憲法前文中の「信託」「信頼」の語を考えるとき、"trust"という英語を参照したりしないだろう。寧ろ、他者に対する親切心とか誠実さという日常卑近の儒学的な意味から、「信託」「信頼」を「依拠」と理解できるのである。これが憲法が自らを翻訳するという意味だ。外国嫌いの右翼民族主義者達の論に従っても、戦後憲法は、すでに立派に、オリジナルなのである。ここで、実質的なことを言えば、「戦う国家」「祀る国家」は、究極的に依拠できる他者とはなり得なかったということを証明した歴史をわれわれはもっているのだ。「信託」「信頼」について子安氏はいう。


孔子は、「民、信無くずんば立たず」という。人民は信がなければ立ち行かない、というのである。なぜ信が無ければ人民はやっていけないのか。その信とは何か。また孔子は、「我を知るものは、それ天か」という。孔子は究極的に天に己の信を置いているように思われる。・・・漢和辞典はこの「信」字の成り立ちから説明する。すなわち「信」字が会意という二つの文字とその意味とから構成されたものであることを辞書はいう。「信」は「人」と「言」とから成るというのである。・・・原初、人の言葉は信頼できるもの、すなわち信じることのできる実なものであったのである。人の言の実であることを根拠にして信頼という対他的な人間の態度が生じ、「信」字とともにその意義をかくとくしていったと私は考える。・・・大事なことは、「信」という字が人の言葉が実であり、信頼の根拠であったことの人間の記憶を持ち続けていることである。「信じる」という人間の態度は何によるのかを「信」字は、この字が生まれて依頼われわれに示し続けているのである。(「信について。論語講義・第四講」より抜粋)

ここでいわれていることは、、「天」と「人」、「言」と「人」、この両者は、仁斎において互いに切り離せないということである。大切なのは、天道は人道のメタファーでしかないという点である。これに関して、子安氏は日本思想史で絶えず出てくる天的概念に注目する。伊藤仁斎は「御天道様(おてんとうさま)」との関係を考えていた。清沢満之ならば「絶対無限」と呼ぶこの「天」は「公」と繋がり合う。儒学は、仏教のようには政治的な意味を脱色しない。天下の「公」は、絶対的平等性の理念ゆえに国家を越える。儒者は徳が行われない国家を見捨てて良い(「子曰く、道夫行われず、筏に乗りて海に浮かばん」)。この仁斎の徹底した「徳」の重視は、政治的権力を必要とせずとしたラディカルな解釈も導かれ得るほどだ。以下、子安氏が「論語塾」第一回で配布したレジュメを参考にして書くと、ポンイントは三つある。

(1)伊藤仁斎は「論語」にみる孔子の教えとは人の日常卑近な道の教えであるという。「惟孝弟忠信を言いて足れり(ただ孝弟忠信をいうことで十分であったのだ)」とは、仁斎が「論語」における孔子の教えの本質を一言で言い切った言葉である。(ちなみに、「孝弟忠信」は友人関係のこと。)。「論語」をこのようにみることは、すでに一つの思想革命、あるいは知の革命である。仁斎は「童子問」では、;次のようにいっている。「蓋し知り難く行い難く高遠及ぶべからざるの説は、乃ち異端邪説にして、知り易く平正;親切なる者は、・・・孔子立教の本原、論語の宗旨なり。」

(2)仁斎は「論語」を基本的に孔子が弟子との対面的関係において、具体的に、何を、どのように為すべきかを説いた書だと見ていることである。このことは仁斎が「論­語」に人における「教え」と「学び」の原初的(=本来的)なあり方をとらえたことを意­味している。「教え」と「学び」とはもともと対面的になされる人間的な行為である。し­たがって「論語」の言語とは言語遂行的(performative)な性格をもったも、規範的(normative)なものではない。「論語」の性格をこのようにいっ­たのは仁斎が最初である。あるいは仁斎だけかもしれない。仁斎は「論語は専ら仁義礼智­を修める(行為の仕方を問ういている!)の方を説いて、未だ嘗てその義を発明せず」と­仁斎はいっている。孔子は「こう行為することが仁だよ」と説くので、「仁とは何々であ­る」と概念規定することはしないというのである。仁斎は原初的な経典が持っている性格­を正しくとらえたといえる。

(3)ここに述べてきたような特質をもつ「論語古義」は、17世紀日本の市井の儒者である伊藤仁斎によって達成されたものであることをいわねばならない。仁斎は町人階級に属する­学者である。「論語」とは中国では士大夫といわれる支配階級を読者とし、学問的・思想;的な担い手としてきた第一の経典である。日本では朝廷・寺院に属する支配的知識階層が­「論語」の読み手であり、それを学ぶ人であった。日本の近世社会の成立は、「論語」の­そのような学問的制約を排除した。かくて京都の町人学者である仁斎によって日本ではじ­めての「論語」の体系的解釈がなされることになる。しかも既存の支配的な朱子学的解釈­を批判する古学という方法的理解による「論語」解釈が達成されたのである。「論語古義­」の事件性は、何よりも<民>の立場から「論語」がはじめて体系的に読まれたという点にある。私(子安宣邦氏)が市民講座で仁斎の「論語古義」によって「論語」を読む理由はここにある。


最後に、戦後憲法の根底を破壊しようとする超保守主義者達、自分達で勝手に歪曲した、徳川日本の江戸期に端をもつ<国体>概念を振りかざしてくる言論上の戦いがある。ところが、それを阻止したいわれわれの方と言えば、七月革命が起きた1830年に、「天保の改革」に、明治維新のリーダー達が生まれた歴史も、現在の超保守主義者が崇める、遅れてきた帝国主義者の野蛮も知らない。人民主権・国民主権を語源的に説明し定義を与えても、江戸期に成り立った政治理論との関係を一言も語れない。われわれはどうやって、耳を貸さぬこの超保守主義者達と闘うつもりなのか。「論語」と憲法との交差からしか ...




2、子安宣邦「漢字論ー不可避の他者」
ー思考と精神が究極的に依拠すべき漢字の普遍主義


2003年は、天安門広場前占拠から約四分の一世紀後であるこの年は、アメリカ軍によるイラクの首都バクダードへの空爆が始まった年である。2003年以降、外交政策の占拠とチョムスキーが形容した、世界的な規模の反戦運動、ネオリベのグローマリズムに抗議したデモが、自発的に起き始めた。こうした小さな人間たちが大きな人間をただす「介入」の運動は、フクシマを契機に反原発運動において貫くことになった。英語で書いた柄谷行人「transcritique」(「トランスクリティーク」)の出版の年、2003年は、音声中心主義的論理の決定的勝利を記した年、と同時に、思考に占める漢字エクリチュールの物質性の消去、その介入の意義を忘却していく最初の年であった。子安宣邦氏の介入をテーマにした「漢字論」は同年に必然としてわれわれに与えられたのである。「グラマトロジー」"De la Grammatologie"(1967年)のDerrida デリダは、漢文漢字で書かれたテクスト、「論語」を指さすという可能性もあった。子安氏は遅れてきたものとして、かれの「グラマトロジー」を、約五十年後の、漢字エクリチュール的思考の危機の時代に、世に問うことになったのである。(ただし、指標と方向と座標を変換しさえすれば、そのデリダとて、古義学の伊藤仁斎に対して、250年遅れたともいえるのだけれど)

さて、「介入」は子安氏の「漢字論」のキーワードである。例えば、「異言語文字・漢字の自言語における介入的な構造的現存」という言い方である。「介入」というテーマをもった【日本人は中国はどう語ってきたか昭和とは何であったか】(2012)は、この「漢字論」の続編と位置づけられよう。2013年の「漢字論」が自身に課した課題とは、「世界史の構造」を教えるようなことではなく、「世界史の構造」に介入することにあったからだ。「介入」という語は、副題である「不可避の他者」のなかの「不可避」と関係がある。このこととの関連でいえば、「漢字論」の最大の主張とは、「漢字は借り物ではない!」という子安氏の主張に集約できよう。漢字を「借り物」とみなす人は、己が「自然」に持つようになった「母国語」の中に、自国語の固有性を排他的な態度で表象する。ここでちなみに、漢文漢字の役割は、芸術作品での説明文の役割と同一化できる。なぜなら、漢文漢字が自国語に依存したテクストの読みに介入していくように、まさに、芸術理論の言葉は、鑑賞の固定されたあり方(構造)に介入していくことが起きるからだ。子安氏が強調するのは、他者としての言語がもつ「介入」の意義である。この問題意識は、「原初的なテクストは基本的に読めない」という注釈学的な問題意識と深い関係があるだろう。端的に、「介入」とは、己に都合よく読みたいもの対する批判のことである。またこれを考えるためには、ブレヒトの劇場の機能に言及した考察が役に立つかもしれない。読み手は同時に見たくないことも見せられることになるから、つまり自分の見たいもの(自国語)が演じられるだけでなく、自分が見たいものに対する批判まで(自分が主体としてではなく客体として)見せられることになる。基本的に読めないものをあえて読もうとするのは、解釈の欲望であろう。やはり、子安氏は、【「アジア」は語られてきたか】(2003年)、【昭和とは何であったか】(2008年)における場合と同様に、本居宣長を、「漢字論」に導入している。以下本文からの引用。

「アメ」とは何か。宣長はいうのである。「かくて阿米(アメ)てふ名義(なのこころ)は、未だに思ひ得ず。」。これは落とし穴的なしゃれをいってるのか。かつて私はこの宣長の言葉に恣意的な名義推定への注釈学者の禁欲的な姿勢を読んでいた。だがそれは宣長の注釈学への思い入れ的な読み過ぎであったであろう。むしろこの宣長の言葉は、表意文字・漢字という意味体系における「天」字からその意味体系的背景を漂白し、ただ表記記号化したことから生じる意味の空白を、ただ正直に言っているにすぎない。「漢意」批判という国学の思想方法、すなわち己の内から理念的意味体系を異質的他者として排除しながら固有の自己を求めていく思想方法は、常に己における意味の空白を露呈していく。この意味の空白の上に、あるいは意味の空白を反転させながらいかに自己を主張していくかは、国学イデオロギーの核心をなす問題である。「阿米(アメ)てふ名義(なのこころ)は、未だに思ひ得ず」という言葉は、「天」字からの漢字的意味の排除によって生じる意味の空白を告げるものである。ところで表意文字・漢字からのそれ固有の意味の排除とは、漢字をただ表記記号として見ようとすることであり、それは漢字を仮り字(仮名)とする用法は【古事記】の歌謡の表記に用いられている漢字の表音文字化、いわゆる万葉仮名の用法である。漢字を仮り字とするのはそれだけではない。「天」「地」「神」「国」漢字をただ表記記号として見ようとすることであり、それは漢字を仮り字(仮名)とする用法は【古事記】の歌謡の表記に用いられている漢字の表音文字化、いわゆる万葉仮名の用法である。漢字を仮り字とするのはそれだけではない。「天」「地」「神」「国」などの漢字がそれぞれ「アメ」「ツチ」「カミ」「クニ」などのやまとことば(いわゆる訓)に適合性をもった漢字(表訓漢字・訓漢字)とみなされ、そしてそれらの漢字が「アメ」「ツチ」「カミ」「クニ」などの訓に従属する表記文字とみなされるかぎり、それらの漢字も基本的に仮り字であろう。宣長の【古事記】テクストを構成する漢字に対する見方は基本的にこの漢字=仮り字観である。文字とは「後に当てたる借りの物」なのである。「まして其の文字は、後に当てたる借りの物にしあれば、深くさだして何にかはせむ。唯いく度も古語明らめて、古へのてぶりをよく知るこそ、学問の要とは有るべかりけれ」。(子安)

ところで、「テクストとしての世界は読めない」というテーゼは、ひとつの亀裂の表明である。哲学者にかかると、そんな原初性が過去へのノスタルジーとなる。例えば、失われ不在となった古代世界を彼らは教える。それに対して、我々の思考のうちで我々の世界と共有するものが何も無いと訴えることによって、未来の問題を呈示しようとするのは、常に亀裂を現在に感じる詩人の方であろう。さて、詩人に劣らない危機感と正義感と学究的な良心とから、子安氏の「原初的なテクストは基本的に読めない」というその注釈学的テーゼは、、漢文エクリチュールの他者性の意義を訴えることによって、ナショナリズムの問題を射程においている。外部の意義の重要性を喚起する。つまり、他者の言語を、自国語の内部から内部に即してとらえることは不可能であるし、また倫理的にもできないということを示唆する。具体的な例として、「孝弟也者、其為仁之本与」は、訓読みの仕方によって、互いに両立しない二つの意味を導く。つまり、モラルは心の中に本来的にあるか、心の外に社会的にあるとするかである。後者に読む人でなく前者に読む人こそが、訓読みを通じて日本語(翻訳)を読んでいるだけなのに中国語を読んでいると思い込んでしまうのである。

私が漢字についてありきたりの見方をしてきたということは、漢字に異言語性、すなわち異言語・中国語の文字であるという性格を振り当てながら、そのことの問題に長く気づかずにいたということである。そのことは一方では、私たちの使用する漢字漢語の中国語との共有性なり共通性を前提にして、日本人と中国人との間の容易な相互理解の可能性を漠然と私も認めていたことを意味している。共有する漢字を基盤にした日中の同文同種という幻想を、私もどこかに持ち続けていたのである。しかし他方で私は漢字漢語の中国由来の異言語性から、「漢字・漢文の極端な影響による不自然な漢語のノサバリ」を非難しながら国語の整序をいう国語学者の主張があることをもそれなりに理解していたのである。この漢字をめぐる正反対とも見える二つの見方は、日本語における異言語・中国語的要素としての漢字漢語への共感と反発という相反する感情的契機を持ちながら、しかし両者とも漢字漢語に中国由来の異言語性を振り当てるという共通の見方に立ったものである。漢字についてのありきたりの見方とは、日本語における漢字に異言語性を振り当てながら、そのこと自体の問題性に気づくことなく持ち続けられている見方である。(子安)

ここで、心の中に本来的にあるものを語る考え方は、「共有性」「共通性」に帰していく、固有の自己を求めていく思想方法であることは明らかだ。例えば、国家主義の政治家は人々は「祖国愛」を「自然に」もつというとき、心の中に本来的にある「共有性」「共通性」を勝手におしつけてくるのである。だがこれは政治家だけに限らない。アカデミズムも、「共有性」「共通性」に帰していく、固有の自己を求めていく思想方法に依存してしまうのである。丸山真男は、宣長の政治原理、つまり文学が政治化され政治が文学化されるという、柄谷ならば美学的統整原理と呼ぶかも知れぬものを明らかにしたつもりでも、肝心な点、漢字エクリチュールの排除という政治を十分に検証することがない。丸山の言語論的日本文化論も実は文学を構成している。が、丸山は、その言語論的日本文化論という文学を、宣長的に、非政治化しただけなのである。日本精神分析という、音声中心主義的な論理から、いいかえれば、固有の自己を求めていく思想方法から、日本の起源を実体化してしまったのだ。注釈学の外部の批判性が、解釈学の内部性の奥に、眠る。悪夢からいつ目覚めるのか?子安氏は、丸山真男と(恐らくかれの宣長論も含めて)に対して根本的な疑問をつきつけている。子安氏はいう。

外部性をその由来からもつ漢字をただ異質的他者とみなすことは、閉ざされた内部的な自己をしか生み出さない。日本精神分析の立場が構成する言語論的日本文化論から、丸山真男による歴史意識の古層論と同じ閉ざされた内部性の響きから聞こえてくるのはそれゆえである。私たちはいま漢字を自言語の展開に不可避な他者とみなすべきである。あらゆる自然言語に他者言語を前提にしない純粋な自言語などはありえない。純粋言語とは比較言語学が構成する祖語のような人工言語学的な抽象である。漢字とは排他的に自己を生み出すための異質的言語でもなければ、受容者の自言語意識が負い続けねばならないトラウマとしての異質的他者でもない。それは日本語の成立と展開にとって避けることのできない他者である。漢字とは日本語にとって不可避の他者である。それは自言語がたえず外部に開かれていくことを可能にする言語的契機としての他者である。(子安)

まさしく「古事記」的世界は漢字・漢文エクリチュールからなるテクストの世界として、いいかえれば漢字・書記言語的世界としてはじめてわれわれの前に姿を見せるのである。だが漢字をただ日本語の表記文字としてだけ見ようとするものは、「古事記」がこのように漢字・書記言語的世界としてはじめて成立することを決して見ようとはしない。漢字を日本語の表記的文字としてだけ抽象化することは、自国の言語とともにその文化に不可避にかかわる他者、まさしく不可避の他者としての漢字を、いわば己に異質な他者として自己の圏外に排出的に措定していくことである。自己の存立に不可避な他者を異質な他者として己の外側に排出していくことは、同時に己の内側に幻想の固有性をつくりだしていくことでもある。それはすでに触れていたように宣長の「古事記伝」における「古事記」訓読の作業を成立させている二つの重大な作業仮説的な前提であった。宣長において漢字の表記記号(仮り字、借り字)としての抽象化、その異質性としての己の外部への排出は、固有日本語(口頭言語・やまとことば)の原初からの存立の主張と、漢字テクストからのその訓み出し可能性の主張とまったく相関的であったのである。(子安)

「漢字論」の第六章は、「漢字と自言語認識について -国語と日本語とー」と題されている。【「近代の超克」とは何か】(2008)、【和辻倫理学を読む もう一つの「近代の超克」】(2010)について書くまえに、「漢字論」のこの章を読むべきだったと私は思った。第一次世界大戦後の1920・30年代の問題意識から、「介入」の概念をとらえている。なによりも、この章の分析を際立たせるのは、大胆にも、近代の入り口である17・18世紀の注釈学的な思考方法から、二十世紀精神史の要である「普遍主義」に再定義を与えようとしていることであろう。ここで、子安氏は、言語学者の時枝の国語学に一定の評価を与えたうえで批判的な考察を行っている。

時枝の国語学が、日本語文の、いいかえれば漢字漢語とを自らの重要な構成契機としてもった日本語文の言語学的反省に立った自己認識の学として成立したといえるだろう。異言語文字・漢字の自言語における介入的な構造現存という言語的事実の直視から始まる国語学、その出発から異端性を背負っていた時枝の国語学は、しかし1930-40年代に成立する西田・田辺らの哲学、和辻の倫理学、そして柳田の民族学などとともに日本の自己認識の学として成立したといえるのではないか。この時期、普遍性を主張する近代ヨーロッパ諸学に対して批判的な学的志向は、究極的な自己認識を通じて自らを学的に表現していこうとする。近代の超克的志向はこの時期の諸学が多かれ少なかれもった共通の志向であった。この近代の超克的志向をもった諸学において強い他者性をもって意識されたのは近代ヨーロッパに成立する諸学である。それは主観性の哲学であり、個人主義的倫理学であり、旅人の外部的観察からなる民族誌であり、印欧親族言語の比較言語学であり、構成主義的な言語学などなどである。近代日本の学術そのものを形成してきたそれら諸学は、この時期、日本あるいは東洋の自己認識を通じて批判的に超えられようとするのである。時枝国語学においても強い他者性をもって意識されていたのはヨーロッパの近代言語学である。時枝がソシュール言語学を批判的な他者として再構成しながら、いかに自己の言語学的立場を導いていったかについては私はすでにのべた。ここでも「国語の事実」への直視に立ち国語学への志向が、批判的他者として対峙するのはヨーロッパ比較言語学である。ヨーロッパ言語学を批判的他者として成立する国語学は、もはや他言語・漢字漢文に対する自言語・国語の意識に立つ国語学ではない。すでにそれは漢字漢語を不可避の表現媒体として内在化させた言語文化の日本語的性格を記述する国語学である。この国語学の対象としての日本語という言語には、しかし他者的契機はすでにない。自言語・日本語の成立のあり方そのものへの他言語・中国語の無視し得ない影響という事実から始まった時枝国語学は、他者的契機を失った自言語・日本語の過程的構造をめぐる形式的特質を記述する時枝文法学として成立するのである。(子安)

間違いかもしれないが、モダニズムである時枝の国語学と1930年代の関係を考えるとき、ポストモダニズムにおける子安氏の近代・現代批判と1990-2000年の関係のことを考えるのである。もちろんパラレルではありえないが、同じ「昭和」という時代に属したことの意味は何だろうかと考えざるを得ないのである。
振り返ってみると、1960年代の西欧は、マルチカルチュアリズムの時代に到来にあって、「普遍主義」の合理主義の規律を、はたして、他者、即ちヨーロッパの外から来る移民たちに強いることができるかと躊躇った。そういうコンテクストのなかで、「グラマトロジー」は、神話化した理性のあり方に対する失望、普遍主義が現実にもたらした弊害を顧みず、反植民地主義を言えば足りたルソー主義とマルクス主義を非難しなければならなかったのである。サルトルだけでなくレヴィ=ストロースも、「本来性」に定位する、音声中心主義的起源の普遍主義と告発されたのであった。そうしてポストモダニズムの舞台が整っていくのであった。とはいえ、「平等」という普遍主義がまず始めにあって、それから、普遍主義の弊害を克服する多様性に対して大切な意義が与えられるのが本当ではないだろうか。そういう意味で、抵抗としての存在のあり方は、普遍主義的<一>でもなく、差異の<多>でもありえない。例えば、ドゥルーズは存在論的一元論の立場を取ったのは現実に、差別と闘っていたからかれが一的多様体の理論を展開しなければならなかった。1990年代までに、思想は普遍主義を捨て去った結果、差異の多元主義だけが関心事となってしまったけれども、そんな多様性の追求は始めから無に等しかったことは明らかだ。マルクス主義的平等の普遍主義を捨てたポストモダニストは、たんに、抵抗しない差別主義者となっただけである。恥ずべきことに、今日あからさまに反動と化した、差異の日本的多元主義たちが、前近代的な身振りとジェスチャーで、モダニズムである憲法そのものの破壊を試みている。それに対して、子安氏においては、そういう<一的多様体>は結局<一>に帰結するしかないという分析を行っている。この分析を可能にしているのは、中国問題の視野から、官僚資本主義の帝国主義的<一>に対するリアルな批判をもっているからだと考えられる。具体的には、「台湾と中国との距離を共有しながら、東アジアを開かれた多元的世界として構成していこうとして台湾と関わってきた立場」(子安氏)をもったのであった。と同時に、誤解を恐れずに言ってしまえば、一元論的にも、儒学的概念の射程から、「天」における理念としての絶対的平等を訴えてきたことが重要なのだと書いておきたいのである。ここでもちろん、儒学概念である天道の道は人の道のメタファーでしかない。「昭和」において成立したのは、同質的な国民国家と戦争であったのだが、子安氏においては、それを越えるものとして、東アジアの漢字文化圏に成立する絶対的他者のヴィジオンがあるのだ。言い換えれば、思考と精神が究極的に依拠すべき漢字の普遍主義のヴィジオンである。それは、精神が絶えず外部に開かれていくことを可能にする言語的契機としての他者にほかならないだろう。



3、子安宣邦著「日本人はどう中国を語ってきたか」(2012)

天安門広場事件から簒奪された「事件性」を取りもどすこと、今日神話的に内側に絡み取られてしまった言説から、批評にもとづくリアルな歴史を取り戻すために、子安宣邦氏は、本書「日本人はどう中国を論じたか」を書いたのではないだろうか。「日本人はどう中国を論じてきたか」という問いとは、なによりも、「われわれはどう他者を語ってきたか」という開かれた問題提起と等価ではないかと私は考える。
ところで神話的な語りというのは、対象を対象の内部から対象に即してみる<語り>に立脚する。本書のなかで日本における中国学の視野を分析している箇所が大変示唆的である。そこで、中国学が、いかに中国を中国の内部から中国に即してみる言説として自ら完成していくのかという知の歴史が、説得力をもって描き出されている。たとえば、日本における中国学の内部で、「内なる天皇」に対応するが如き「内なる中国」というオリエンタリズム的幻想が誕生していくプロセスがよく理解できた。驚いたことは、今日中国のアカデミズムが、この最近の日本の中国学を取り込んでいるというのだ。
なぜ今日日本の知識人たちが、命を脅かされている2010年ノーベル平和賞受賞者劉暁波をはっきりと支援できないのか?オリエンタリズム的言説と知識人のあり方、この両者は、「日本人が中国をどう論じてきたか」において、互いに切り離せない関係にあるだろう。本書を読み終えたとき、なぜ日本の知識人たちが命を脅かされている劉暁波を見捨てるのかその理由の核心が、それまでこの問題を無知であったこの私にも非常によく理解することができたのであった。
現代の中国を語るとき、「官僚制資本主義」を語る視点が欠かせない。端的に「官僚制資本主義」とは、<アジア的原始共同体>と<専制政治>から成る体制として定義できるが、神話的な語りは、この両者が、孫文と毛沢東によって、あたかもすでに克服されて終わったかのように語ってきた。いつでもわれわれが生きている現在の姿というのは、神話的な語りによって、過去との連続性に位置づけられるものだ。中国も然り。しかし神話が終わったところから、天安門広場の占拠が始まったのである。天安門事件広場での抗議は、連続性の夢からわれわれを覚醒させようとしたのである。つまり、現実には、<アジア的原始共同体>と<専制政治>は解決済みのものではなかったことを一人ひとりが自発的に世界に知らせようとしたのだ。そして、これこそが、事件性と呼ぶに値する、批評性と関係した言論活動にほかならない。
言論の場で子安氏が繰り返し訴えてきたように、事件性とは、小さな人間の声が、大きな人間を糾す<喋る>民主主義の語りのことである。この点に関して、<かれら>の官僚的資本主義の問題といえ、<われわれ>の原発問題といえ、構造が齎したの問題の解決を、再びそれを推進した政治的経済的文化権力的一体的構造に委ねることは不可能であるしまた倫理的にも許されないものだ。こうして、「日本人はどう中国を論じたか」という問いとは、なによりも、「われわれはどう他者を語ってきたか」「われわれは依拠すべき他者との関係をどのようにつくっていくかと」いう開かれた問題提起として、与えられてくるのである。


以下、子安宣邦「日本人は中国をどう語ってきたか」のあとがきより

私の「中国論を読む」ことの動機をめぐってさらにいえば、現在なお中国の獄中にいる2010年のノーベル平和賞の受賞者劉暁波の支援の問題があった。劉暁波に対する私たちの支援は日本ではまったく孤立している。日本の既存の中国研究者で劉を批判するものは数多くいても、彼を支援しようとするものは殆どいないということは、私にとって驚きであり、考え込まされる事態であった。なぜなのか。この懐疑が私を戦後日本における中国観の見直しに向かわせたのである。さらにいえば、現代において全く批判的、思想的機能も意味をも失ったかのような日本のアジア主義、あるいは中国主義というアジア・中国への<肩入れ>とはいったい何であったのか、という問いもまた私に「中国論を読む」ことを促した理由でもあった




4、子安宣邦著"「江戸思想史講義」(岩波書店、1998)の感想文
ー「方法としてのアジア」、「方法としての江戸」、「方法としての知識人」

子安宣邦氏は最近のツイートで、山口昌男が「《重い》級友であった」ことを綴った。「彼と私とは知の関係史を作っている。私をマルクス主義に、そしてポスト構造主義に位置づけていったのは彼の存在であったかも知れない」と。マルクス主義と構造主義。この<関係の冒険>からは、新たに普遍性の構築を模索しようとする知性が生まれたことを子安氏の回想は証言している。それ自体が歴史を構成する出来事といえようが、兎に角、そうして、1990年に、世に問われたのが『「事件」としての徂徠学』であった。
この『「事件」としての徂徠学』(1990年)から、『「中国」はどう語られてきたか』(2012年)まで、子安宣邦氏が直視し続けたのは、歴史を書くことの意義と、歴史を書くことの不可能性だったとおもう。顕著な二つの探求があった。そのひとつは、アジアからの眼差を受けながらも、何故かくもこの他者を語ることの不可能性が繰り返し生じてしまったのかという探求である。(「近代の超克論」「和辻倫理学」「国家と祭祀」「日本ナショナリズム論」)。他者に於ける他者性の痕跡を消すようにして行われる、自己の中の他者の措定の挫折を読者は読み取ることになる。もうひとつは、仰ぐ見る「大いなる他者」を求める探求である。「アジア論」には台湾儒学のことが記述されているが、この台湾儒学の将来に、江戸朱子学の再生を託してはいなかっただろうか。「中国論」の根底には、亡命者に見出していく「大いなる他者」の声の通低音が支配している。歴史、歴史、歴史である。

ところが、八十年代というのは、歴史の終焉と普遍主義への幻滅がもことしやかに語られた時代だった。かのサィード曰く、「ポストモダンの知識人たちは、いまや、真実とか自由といった普遍的な価値ではなく、専門的能力のほうを高く評価するということらしい。」。構造主義に転向していた多くの知識人たちにとっては、八十年代に起きたソ連の解体、ベルリンの壁の崩壊、天安門広場事件などは、特に驚くべき事件ではなく、既にその前の時代に証言されていたユートピア的神話的象徴に対する幻滅ースターリンとヒトラーの独ソ不可侵条約が齎した人民戦線の崩壊、強制収容所の発覚、顕在化した文革の犠牲、社会主義国間戦争ーを確認した事件としてあらわれとみえたかもしれない。八十年代に、ポストモダニズムの構造主義的言説が流暢に喋り始めた。反ユートピア的言説とはいえ、少なくとも、啓蒙主義ユーとピアから排除された他者たちを取り戻すことの意義だけは訴えたけれども。また前衛的マルクス主義とは別の仕方で反資本主義の運動をなしていたことも。たしかに批評的な問題的提起から活発な論争が起きた。ただ日本に限っていえば、オタク知識人、今村 仁司のような同時代性の「フランス思想」を自慢する人々があらわれた。かれらはレヴィナスに言及しても、その暴力の概念を日本の暴力の問題に即して考えることは消極的であるようにみえる。結局、九十年代に入ると、世界的な傾向として、ポストモダニズはメインストリームの核に取り込まれていった。今日資本主義そのものとなってしまったのである。「専門的技能がすべて、手軽なもうけ話や一攫千金の野望達成の手段へと矮小化されるような、たえざる流通循環過程の領域。」(サィード)。日本の現在については、ポストモダニズムのナショナリズムという憂慮すべき反動的事態も生じているのだが、今回はこのことを指摘するだけに留めておきたい。

サィード「知識人とはなにか」は1994年に出版された。この六年後に、彼の「故郷喪失についての省察」(Reflections on Exile)が出る。そして「江戸思想史講義」は、その間の1998年に出版されたことは注目したい。この本で子安氏が「方法としての江戸」で問うたものこそ、サィードが再構築しようとした普遍主義の「知」と深い関係があったのではないかと私は主張したいのである。子安氏は、「仁斎論」の最後でこうまとめていることに注目したい。

・<人間の時代>において「天」は「論語」テクストに人間孔子を読み出すことともに、読み出されてくる。すなわち、性理学的な思惟とその言語学的構成の外側に、もはや己れの存立根拠ではない「天」が、仰ぎ見る「天」が読み出されてくる。「論語」の「天命を知る」の言葉にみずから思い入れるものは、孔子とともに仰ぎ見る「天」を、もはや己の存立根拠にはない「天」を、恐れとともに見出すのである。

ここで<もはや己の存立根拠にはない「天」>とは、知識人における「語りの特権性」と子安氏がいうものと関係があるだろう。知識人が「語りの特権性」をもつのは、かれが専門性も否定していく外部的な位置と関係した立場をもつからである。サィードもつぎのように言っている。「知識人とは、あくまでも社会のなかで特殊な公的役割を担う個人であって、知識人は顔のない専門家に還元できない。つまり、特定の職務をこなす有資格者階層に還元することはできない。」「まもるべき砦となる職務もなく、また、まもりを固めて防御すべき縄張りもない知識人には、つねに、不安定で遊牧民的なところがある。」。また、文中の<仰ぎ見る「天」>という言葉はそのまま、サィードの次の言葉を喚起しないだろうか。「知識人が真の知識人といえるのは、形而上的で高尚な理念に衝きうごかされつつ、公正無私な、真実と正義の原則にのっとって、腐敗を糾弾し、弱気をたすけ、欠陥ある抑圧的な権威にいどみかかるときなのだ。」「わたしをとらえて離さないのは、同化精神よりも、やはり反骨精神であって、知識人のありようをめぐるロマンスなり、利害なり、挑戦なりは、すべて、現状に対する異議申し立てのなかで光をはなつものだ-」。「知識人が、公衆に向けて、あるいは公衆になりかわって、メッセージなり、思想なり、姿勢なり、哲学なり、意見なりを表象=代弁したり、肉付けしたり、明晰に言語化できる能力にめぐまれた個人であるということだ」

結局、サィードは「方法としての知識人」について語り出したのだ。そうならば、あえて図式的に分りやすく整理してしまうと、「方法としての知識人」とは、即ち、「方法としての江戸」といえないだろうか?もちろん、これは、私の勝手な推定であるけれども、ただしここではっきり言っておきたいこととは、江戸儒学者の研究は決して、アナクロニズム的な衒学ではないという点なのだ。「方法としての江戸」は1990年代の問題意識を反映して行われるのである。すべて金で支配しようとする新植民地主義の世界的復活とネオリベのグローバリズムに対して、原発推進のための新安全神話に対して、抗議するわれわれは、<仰ぎ見る「天」>とともに在るのだ。実際に、子安氏は序文でこう書いているではないか。

・「方法としてのアジア」とは、中国研究者竹内好が「思想史の方法」をめぐる連続講座で行った講演の表題である。世界認識への竹内の独自の立場を伝えるその言葉は、彼の論集のタイトルともなって一般にすでによく知られている。竹内のいう「方法としてのアジア」とは西欧近代を包みかえすいわば方法的視座としてのアジアの提示であった。「西欧をもう一度東洋によって包みかえす、逆に西欧自身をこちらから変革する、文化的な巻き返し、あるいは価値上のの巻き返しで、西欧の生み出した普遍的な価値をより高めるために西欧を変革する、・・・その巻き返す時に、自分の中に独自なものがなければならない。それは何かというと、おそらくそういうものが実体としてあるとは思わない。しかし方法としてはありうるのではないか」と竹内はいうのである。「実体としてのアジア」が、近代ヨーロッパ帝国の世界支配に対抗するもう一つの帝国=日本が、かつてその盟主の名のもとに仮想したアジアであったとすれば、「方法としてのアジア」とは西欧近代とその世界史的展開への、西欧の外部における批判的な視座の確保の主張である。「方法としてのアジア」とは変革への可能性を見た中国に己の視座を据えながら竹内が、現代史に終始かかわり続けることを通じてわれわれに残した貴重な遺産ともいうべき視座、即ち、<歴史への批判的な視座>である。「方法としての江戸」とは、この竹内の「方法としてのアジア」を貴重な示唆として構成される歴史批判のための方法的な視座である。西欧近代を追走しながら、その対抗として自己形成した日本の近代を読み直し、とらえかえすべき批判的な視座、それが「方法としての江戸」である。「江戸」といっても、それは決して対抗としての実体的な江戸・徳川日本の主張ではない。「実体としての江戸」の語りとは、西欧的近代の転移としてある近代日本に対抗するもう一つの近代、すなわち徳川日本の再構成的なナラティヴでしかないだろう。だが「方法としての江戸」とは、日本の近代史の外部に構成される<歴史への批判的な視座>の主張である。





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