(3)、(編集中)思想における他者の介入 -言葉を中心としてー




六、「国家と祭祀」

祀る国家、戦う国家の絶望とはなにか?滅びゆくものから、言葉・音・石・色から、不朽のものを創り出そうとする、その絶望的な試み。形をまとった空間が、時代を超越していくために。ニ十年ごとに繰り返す「再帰する始源の呪縛」がその形態のひとつに過ぎない。
さて明治を総括すると、祀る国家、戦う国家であった。靖国神社は近代において発明された戦争機械の一つである。だから<諸君の大地を掘り起こすと古代から靖国が現れるぞ>は、贋の文化概念である。ところがこの戦争機械を近代以前のものと思い込まされたら最後、これを廃止できなくなる危険があろう。子安宣邦氏は語る。

「一般市民を巻き込んだ総力戦の悲惨さを反省した、私達の戦後憲法は、祀る国家、戦う国家をやめると決めたのである。靖国神社の廃止は論理的帰結」。「新しい世紀とともに始められたアメリカの戦争はそれに加担する国家の国民に戦争それ自体への根本的な疑念をもたらした。公然たる国民意思の分裂、あるいは国家と国民との意思の分裂をあえて無視する形でしかこの戦争の遂行も、それへの加担もまたありえない。もはや戦争とは国民のためのものでは決してないのだ。われわれはすでに太平洋戦争によってそのことを教えられたのである。国家が戦うことへの本質的な懐疑から、われわれは憲法における戦争放棄の条項をもったのである。そして戦う国家とは英霊を作り出す国家であり、英霊を祀る国家であるゆえに、国家の宗教的行為もそれへの関与をも憲法は禁じたのである。戦う国家を連続させない意志の表示であった戦争放棄と完全な政教分離をいう日本国憲法の原則は、いまいっそうその意義を増しているといえるだろう」。

「国家と祭祀」で子安氏が行っている問題提起とは、死者を選別し靖国を祀るのは誰か?と問うことである。ここで私は、介護保険法立法化の中心にいた元厚生省官僚が語った言葉を思い出すのである。厚生省が福祉と人権に十分に取り組めなかった大きな理由の一つに、エネルギーの大半が靖国に吸収されてしまったからという弁解である。しかしこの言葉はよく注意する必要がある人権と福祉の軽視と靖国神社の重視は、国家にとってにみれば、同一の平面上にあることではなかったのか。死者の祀りは、生者をヒエラルキーに基づいて差別する国家が介入するのだから、必然として、死者に対してヒエラルキーと差別を持ち込んでしまうのでは?この疑問に子安氏は私に明快な示唆を与えてくれた。

「国家が祀ることとは、国家が戦うこととともに差別的で排他的な自己中心的な行為である。国家は己のためにだけ祀るのである。沖縄の集団自決した住民たちに「崇高な犠牲的精神」の美辞を与えるだけで国家は祀ることはない。イラクの子供達のミサイルによる死は「自由」のためやむをえない犠牲としてアメリカは無視するだろう。戦争するアメリカ人にとって守られるアメリカ人の生活があるだけだ。パレスチナ人の生活もなければ、アフガニスタン人の、イラク人の生活もない。」と。たしかに、思い返せば、当初イラク空爆反対は八割で、ロンドンは百万人が反戦デモに出たおだが、ブレアーが英国軍を派遣したその日、イギリス国教会の長であるエリザベス女王が軍隊に「お気をつけて」とメッセージを送った。と、今度は逆に、戦争支持が8割となったのである。これは、英国版のいわば靖国的「戦う国家」「祀る国家」の熱狂ではないかと思射返している。(ちなみに、アイルランドの話題に触れると、ポストコロニアリニズム的風景とは、独立後の反帝国主義的言説が帝国主義的言説との類似性が指摘されるのであるが、総括してしまうと、アイルランドの文化政策は、英国における靖国的<戦う国家><祀る国家>を輸入しただけと知って逃げ出した作家が ジョイスであった)。

再び問う、誰が死者を祀るのか?と。2013年3月11日、人々が経産省脱原発テント前でキャンドルに点火するのを警察が許可しなかった。他方、国が殉死した兵士の如く死者たちを祀した。テレビ化・イベント化していく「祈り」「誓い」。なんののために?ヒロシマとナガサキで祈ったあとにフクシマがきたのに。ところでダブリンの通りで野良犬の小便する姿から芸術上の啓示をえたと17歳のときのベーコンは言うが、彼の絵をみると、ゴシック教会の柱の頂にいる化物の様な、死んだ動物の姿をした人々を祀っているのではないかと想像してしまう。但し靖国の如く国家が死者を祀る特権的なやり方ではない。ベーコンの絵にも死を儀式化する顕著な表現があるとしても、死後どこへ行くのかを読み取ろうとしても無駄であろう。死者はそもそも遠くからくるのではない。死者は生者の近傍に生きている。それは街頭を通過していく野良犬の影かもしれない。我々は死者と共に天を感じるだけだと表現しているようだ。
いったい誰が死者を祀るのか?子安氏は警告の言葉を与えるー国家は祀ってはならない、と。
「国家と祭祀」は、靖国の源流を求めて「水戸学」の政治神学を検証、国民国家成立における宗教の役割をアジア大の視野から考察する。「危機の政治神学は死に場所・行き場所を見出すことで安心をえられた民たちの国家への心を一にした統合を語っていく。祭祀する国家を語り出す言説とは民に死に場所を与えていく言説でもある。祭祀する国家は祀られる護国の鬼神とともにこの政治神学的言説の上に作り出されていったのである」(沈黙する鬼神と生者の饒舌ー靖国の現在)。最後に、この本の執筆動機について示唆した子安氏の言葉をひいて感想文のまとめとしたい。

「小泉首相による公然たる靖国参拝という自国民とアジアの隣人たちに対する挑発的行為に、思想史家として私は答えねばならないと思っていた。この英霊の社・靖国神社の参拝が、本質的に時代錯誤に満ちた欺瞞行為である・・・私がここで「時代錯誤」だというのは、その行為がただ時代に遅れているということではない。その行為が、二十世紀の数え切れない戦争犠牲者たちとともにある歴史をおよそふまえることのない傲慢で、無恥なものであることをいっているのである。この小泉首相による時代錯誤の靖国参拝は、しかし強力な言説的な支援を受けている。それは国民の栄光の歴史を主張する歴史見直し論者たちによる支援である。国民の栄光の歴史の主張者とは、同時に国民の栄光をもたらした英霊祭祀の支持者でもあるのだ。首相の靖国参拝は、この歴史見直し論者たちの支援を背景にして公然と、アジアの隣人たちを挑発するようにして繰り返されるのである。この挑発的な行為に対する私の批判的回答も、従ってこの歴史見直し論、"国家神道"見直し論をめぐってなされねばならなかった」。

この怒りの言葉は、国家が勝手に持ち込んだ領土問題に関与させられていく現在の我々にそのまま、突き刺さってくる重い言葉だ。その小泉以降、ネオリベの右翼の政治家は、自らつくった戦争の恐怖で人々に自己保存の欲求をかきたて、かえって生存に不利な条件を次々に承認させていくだろう。そもそもTPPに反対するはずもない自民党だが、それも分らないほど、昨年の領土問題以来、我々の側の理性は眠っているのか?我々は、いかに、靖国という戦争機械の悪夢から目覚めていくのか?現在のアジアの人々だけでなく、沖縄とアジアの祀られない死者から、このことが切実に問われている。


七、「近代の超克」とは何か"(青土社)


「近代の超克」とは何か?活動し語る人びとの思考と存在のXであった。「近代の超克」は何を超克するというのかのか?それは文化と存在者を超えるということだったら、開かれた世界史的ホームレス性へ行く。しかし実際に行ったのは、「世界史的日本」という国家の牢獄だった。「近代の超克」は、近代という名のヨーロッパ劇場を越える<ホンモノ>劇場を、戦う国家に求めたからだ。「近代の超克」が定位したのは、ナショナリズムのブルジョア的<住屋>であった。チョムスキーが見抜いたように、知識人は自らを解放者と思い込むけれど、歴史に鑑みると、多くは最後に、酷いのは始めから最後まで、全体主義に従順な太鼓持ちであった。座談会「世界史的立場と日本」における参加者も、そのような知識人だった。「近代の超克論。知識人の発言を分析した、子安宣邦氏はこう語る。

・日本の近代がヨーロッパ的近代を志向するものであるかぎり、その「反」としての民族主義とは土着的アジアへの志向である。そして日本にとっての近代が、表層的変容としての近代であるかぎり、その「反」としての民族主義は底深いアジア的深部からの変革の主体を求めていく。あるいはまた日本の近代国家が先進ヨーロッパ文明の模倣的受容からなる偽以的近代国家とみなされるかぎり、その「反」としての民族主義は民族の魂をもった真正の民族国家を希求する。要するに日本の近代がよそものであれば、その「反」としての民族主義はアジアのほんものの近代を主張する。この両義性の言説を構成する反語(イロニー)とは、ほんものをたえず根底的に求めながら、表層的に実現されているにせものをひたすら否定していく言語的態度を意味している。これは「イロニーとしての日本」をいう日本浪漫派あるいは保田興重郎の言語的態度である。竹内好は保田のこのロマン主義的な反語的(イロニー)言語を共有し、継承するのである。日本の表層的近代の疑似性に対する否認と、アジア的日本とその民族主体的深部への思い入れとからなる竹内の反語的な両義性を上のように敷衍してみるならば、これがすでに「昭和日本」の反省的知識が構成する歴史的な自己・日本理解の言説であることが知れるだろう。

・高坂は日本の歴史哲学が第三の段階、「具体的には世界歴史の哲学でなければならない、さういふ自覚に到達している」ことを述べ、その上で、「では何故さうなったか」と問うている。その問いに高坂はみずから、「日本の世界歴史に於ける現在の位置がさうさせたのだと僕は考へる」と答えている。「世界史」の理念は、日本の現在の位置が要請しているというのである。では現代日本とは、どのような世界的位置にあるのか。だがこう問い返してこの座談会を読み直してみても、そのどこにも現代日本をめぐる歴史的自己分析などはない。それどころか日本の直面する内外の危機的事態をめぐる言及など、ここではまったくなされていない。これは驚くべきことだ。ここにあるのはヨーロッパの危機であり、それと相関的に語り出されていく日本の世界史的意識だけである。「世界史的日本」とは、ヨーロッパの危機と相関的に日本人である彼らに抱かれた肥大した自己感であるようだ。それは「支那事変」という現実への思想的関与から生まれた三木の「世界史」的意義づけの言説との決定的な違いを思わせる。だがこの座談会「世界史的立場と日本」は、開戦に湧く日本で大評判だったのである。

・ヨーロッパ人が考へる世界史といふものと、我々の考へる世界史といふものとには、よほど違ったところがあると思ふ。・・・本当の意味で世界史といふものを、身にしみて感じるものは、ヨーロッパ人よりも我々日本人だと思ふ。そしてこれが正当だと思ふ。といふのは、これは日本人の主観的な観念だけでなくて、世界史自体の中に根拠をもっているからなんで、僕はさう思っている」と高山は、高坂による冒頭の歴史哲学的問題提起を受けて発言する。交差化と鈴木が直ちに「同感だね」とそれに応じている。この高山の発言は、日本人が「世界史的日本」を自らいう言説とは何かを教えている。それはヨーロッパ的世界秩序に大きな破綻をもたらし、その世界史の終焉をも告げるように、いままさにアジア・太平洋に登場する帝国日本を、日本人の主観的な歴史意識をもって表明する言説以外のものではないということである。日本がいま世界史的立場をいうことは正当なのだ。なぜ正当なのか。その理由は、日本がいままさに世界史的立場にあるからだ。これは循環論法である。これが循環論法であるのは、それが主観的な確信の表明であるからである。そしてこの循環論法を成立させているのは、その絶対的前提として帝国日本が存在していることである。この存在から出発する議論は、現代日本と国際状況の認識も分析もまったく必要としない。この帝国日本をただ「世界史的日本」として再発見することだけが問題なのである。

思考から生まれるすべての物の中で、詩は最も思考に近く、他の芸術作品とくらべると、最も物から遠い。詩人たちは思考の運動と主体の変革のもとに集まる。また、活動し語る人びとにとって、思考と存在にかんしてゲームの規則はなにも無いけれども、その正当化を芸術に依拠することが起きる。このような正当性は、人びとの不滅でありたいと願う一切の欲求と関係しているかもしれない。アーレントは、活動し語る人びとが芸術家や詩人や作家の助力を必要とする理由を考えた。「活動し語る人びとは、最高の能力をもつ<工作人>の助力、すなわち、芸術家、詩人、歴史編集者、記念碑建設者、作家の助力を必要とする。なぜならそれらの助力なしには、彼らの活動力の産物、彼らが演じ、語る物語は、けっして生き残らないからである。世界が常にそうあるべきものであるためには、つまり人びとが地上で生きている間その住屋であるためには、人間の工作物は、活動と言論にふさわしい場所でなければならない」。実際にそうして、日本浪漫派と文学的叛乱は、詩こそが世界秩序を変革すると主張した。「当時の国家の状態は、肉体による詩的表現によってしか救いがたい位に頽廃していたのである。しかもさういう表現は時代を風靡した社会主義によってされず、日本主義者の詩的挺によってされたのである。この時文学上の新運動は所謂日本浪漫派といふ宣言から出発した。」(保田)。このように、文学原理から活動し語る人びとは変革のシナリオを与えたつもりだった。しかし、彼らが説く「世界史的日本」という循環論法ほど、愛されるイマージュからほど遠いものもなく、八紘一字という国家的事由とは天が愛しむ至高の価値に対極にあるだろう。我々の前でアジアの全体を抱擁してみせる力が帝国国家に微塵もないか、失われてしまっている。この点にかんしてゴダールが看破したように、言戦争に勝つ国は詩がない、敗れた国にしか詩人があらわれないという。だからイスラエルとイギリスには詩がない。パレスチナとアイルランドに詩がある。おそらく、排除なき開かれた全体性は、敗れた国の詩人だけが構想できるのだろう。詩人は、外と内を隔てる<住屋>を求めないからである。アジアとヨーロッパの全体こそは、外部である、愛されるものの中では、客体として与えられる。それと同時に、内部である、愛するものの中では、主体として与えられる、と。最後に、ニセモノの近代国家・日本/ホンモノの近代国家・日本をめぐる二項対立的シーソーゲーム的と、「世界史的日本は世界史的日本」と繰り返すだけの内部から内部に即してしか語ろうとしない循環論法的トートロジー、こうしたものから、いかに、対抗的な道義的八紘一字的日本の像が発明されていったのか、子安氏は説得力のある分析を与えている。

・京都学派の世界史の立場も東亜協同体論・東亜共栄圏論も日本を中核としたアジアからの超克論である。これらのヨーロッパ的近代の超克を志向する理論作業は、その主要部分に道義的国家日本とそれを指導的中核とした東亜協同体の構成作業をもつことになる。この作業自体がヨーロッパ的近代に対して日本的・アジア的近代、すなわちのり越えた近代を対比的に再構成していくのである。利益社会(ゲゼルシャフト)的ヨーロッパに対して共同体(ゲマインシャフト)的アジアが、功利的帝国主義的ヨーロッパに対して道義的八紘一字的日本が対抗的に構成される。昭和10年代日本における文化系の諸学、すなわち歴史学、民族学、社会学、倫理学、哲学などはその課題にこの日本とアジアの理念的再構成作業を多かれ少なかれもっていた。それはヨーロッパ的近代を超克する日本的・アジア的主体を再構成する作業であった。アジア・日本からの近代の超克の志向は、超克主体であるアジア・日本を実体的にアジア的国家・共同体として再構成しようとするのである。その実体的アジア・日本によって既存のヨーロッパ一元世界は多元的世界へと解放されるというのである。

チョムスキーが、ニューディールの(組合運動と座り込み)とベトナム反戦運動に関連づけているのは、国境を越えて起きたイラク爆撃抗議デモだ。なるほど、爆撃は起きてしまったが、しかし、戦争前に起きた反戦運動という点で、六十年代になかった全く新しくユニークなものだった、と、ラディカリズムの精神が語る。Occupy、<外交政策を占拠すること>、これは、我々が、子安氏が打ち出した問いに答えるひとつの形であろう。子安氏の"「近代の超克」とは何か"は、2008年に出版された。この本は当時の「東アジア共同体」構想の問題を批判の射程に置いていた。本書はそのまま、2013年現在の安部による「美しい日本」のファシズムを批判していく役立つ視点を供するであろう。




八、 「日本思想史」の成立とイスラム世界ー和辻哲郎と大川周明ー<「日本近代思想批判、ー国知の成立」(2003)>

帝国主義と旅行者の視線、この両者はオリエンタリズム形成の条件だった。例えば、19世紀末帝国アカデミの画家は旅した仏領の風景を描いたのであった。30年代に西欧の視線の客体から主体へと転位したと思い込んだ日本のアジアに対する視線は、留学先の独逸に向かう一人の旅行者の視線に折り重ることになった。和辻哲郎である。
他方、偶然に、ある回心は神田古本街の散歩のとき起きた。かれは、「三酔人経綸問答」(中江兆民)の豪傑先生的アジア浪人・中国浪人の如く外の変革を通して内の変革を夢見たのか、又は反西洋の対抗の中で日本を復興亜細亜の戦士の盟主にする構想を抱いたのか?両方がこの散歩者の欲望をとらえた。大川周明である。

子安氏はいう。「青年期における知的環境を共にしながら、そして帝国主義的国家の伸張と挫折という昭和期日本を背景にしながら、一方は帝国日本の知的指導者の有力な一人としてアカデミズムにおける経歴を順調に経ながら、風土論的な、あるいは文化類型論的な視界を介して日本の倫理思想の理念史的叙述に向かっていく。他方は一つの回心を経由して西欧帝国主義支配下のアジアの復興の課題と連携しながら、日本の国家改造を主張し、その内的動力としての「日本精神」の歴史的な再構成を企てていく。一方は「日本倫理思想史」の和辻であり、他方は「日本精神研究」の大川である。」と。

さて、例外なく、哲学概念は、国家との関係に於いてその機能を測らないと、私小説的語りに陥いる。本質主義も然り。旅行者和辻哲郎の視線も、散歩者大川の回教的回心も、国家との関係において、前者の本質主義は国策的オリエンタリズム、後者の本質主義は反西欧の対抗的イデオロギーとして機能したのである。

ここで、和辻と大川を分析した批評が収められている「日本近代思想批判、一国知」(岩波現代文庫)のタイトルは元々、「近代知のアルケオロジー」(岩波書店)だったということは覚えておいてもよい。副題は、「国家と戦争と知識人」である。知のアルケオロジー、即ち、考古学的探求からは、一見対立する両方の考え方が互いに類似しているだけでなく互いに相手の側に自己の足場があるということが明らかにされていく。例えば「西欧」の旅行者和辻は、「旅行」によって外部で新しい見聞を得たわけではなかった。寧ろ既に所有していたオリエンタリズム的知識をアジアに人類学的神話的に適用しただけだった。それに対して、大川の方は、植民地主義の現実を描いた「新印度」との出会いによって、和辻が依ったオリエンタリズムをリアルに批判したのである。

こうして明らかなように、和辻と大川は互いにオリエンタリズムに対して正反対の態度をとったけれども、強い国家をつくれとする共同の幻想が両者に働いた。その結果、ここで子安氏の言葉を引用すると氏が鋭く指摘するように、和辻による日本の「国民的」への自己遡及的な言及も大川による「日本精神」史の自己宣伝的な叙述も、かれらそれぞれの反西洋的立場にかかわりながら、昭和期日本に成立してくる言説なのである。

最初に、大川からみてみる。「既に韓国を併合し、中国に二十一箇条の要求をつきつけ、朝鮮の独立運動や中国の反日運動を呼び起こしている帝国主義的国家日本の知的指導層の一員として大川が、従属的アジアの悲惨から立ち上がる人々と一体化して、自らを「復興亜細亜」の戦士と名乗ることはどのようにして可能なのか」と子安氏は問う。つまり、大川は民衆史を語るときは、散歩者の読書のときのリアルな立場を失い、和辻的に神話主義的に考え始めてしまうのである。つまり和辻はアジアの人々を西欧の視線の客体の側に置いたように、民衆史の大川はアジアの人々を情報の客体として語り始めることに躊躇しないのである。

次に和辻をみよう。旅行者の、自分に都合よくしか対象を語らない視線について、もっとはっきり言うと、このような視線は、対象を丸い円で囲った上で対象の内部から内部に即して自己自身を語った視線に他ならない。そうであるからこそ、旅行者の視線は、外部からの正当化を欠いては成り立たないものなのであろう。これこそが、居直った正当性の論理と子安氏が呼ぶものではないか。子安氏はいう。「高度の文化認識者である旅行者和辻は、アラビア半島の「乾燥」という自然的な特質が、「服従的、戦闘的の二重の性格」をもった<砂漠的人間>」を作り出すという。(…)和辻の上の論は論理的な詐術によって、外部的他者である旅行者による自己に異質な他者理解の正当性を導こうとしている。だが他者性に居直ったこの旅行者である認識者による他者理解とは、自己との異質性において他者を見出すことでしかない」。そうして子安氏は、その他者理解が「本質的理解」であるという他者性に居直ったこの認識者の傲慢を指弾する。
結局、和辻達において、大川的に、ヨーロッパ的普遍性が地域的特殊性に押し戻しされていく。と同時に、これと全く逆の方向の運動が生じる。、倫理学の対象が「日本の国民的性格」という一般化が措定され昭和という歴史の特殊条件が消去されてしまうのである。あるときは、普遍性が特殊性に縮約され、またあるときは特殊性から一般性が回復される。これらは、強い国家に迎合する居直った正当性の論理というものからしか説明できないだろう。

最後に、思想に於ける他者としてのアジアの介入が、「日本思想史」の課題にあった。とくに子安氏は和辻論理学の意義を明らかにする上で、いつものように内部のなかに絡み取られないようにと、あえて外部から別のもの、即ち大川を方法的に導入したと思う。和辻もそして大川も失敗したのは、この両者とも、方法としてのアジアを、実体化してしまったことにあるだろう。結局抵抗としての精神の歴史を失ったのである。けれども、和辻は失敗者とはいえ、彼が考えた日本的近代とそれを乗り越えていく(「もうひとつの近代の超克」)の課題がそのまま無効となったわけではないだろう。現在、われわれは彼の問題に直面している。ヨーロッパの市民社会とは別の日本的近代があることを認め、これを乗り越えていくこと。これはもはや日本人だけでは不可能で、どれだけ東アジアの人々とともに考え行動することが問われてきたのではないだろうか。安倍自民党による「強い国家」の幻想は、この課題から逃げているのではないだろうか?



九、 "和辻倫理学を読むーもう一つの「近代の超克」"


子安宣邦氏「和辻倫理学を読む」は、言語の拡散と集中というフーコと共有する問題意識から、和辻解釈学を暴き出す。翻訳の新漢語でしかないのに和辻が解釈してみせる<倫理>の語は、十分に拡散していた言葉などではなかった。歴史の古層という装いで彼の倫理学の解釈は倫理学のナショナリズムの一点に集中していく。ただし、和辻の方法としての<倫理学>は、アカデミズムの紹介する為に専ら翻訳する<倫理学>からの思想的自立という課題を持っていたことを無視したらフェアーではないだろう。結果的には、方法としての彼の<倫理学>は、実体としての我々の<倫理学>、帝国日本の昭和の<倫理学>に置き換えられていったのだが。統括すると、1980年代後半には、三十年代が九十年代に反復するであろうという言説がもっともらしく幅を利かせて流通したものだが、
仮にそうだとすると、昭和における和辻の<倫理学>のナショナリズムは、平成における、差異の戯れから差異の実体化に堕したポストモダニズムのナショナリズムに忍び込んだといえるか?嘗てアカデミズムの外へ出たと高く自惚れた「脱」(=差異)の哲学的修辞の木霊があった。・・・しかしこれは十分に拡散する前に、過剰な自己意識を伴なって集中に向かった。昭和からきた和辻の過剰な<倫理学>の亡霊は、現在貨幣のネオリベ的<表層>へ滑り出し、大日本帝国憲法的<倫理>を徘徊しているのだろうか?以下、子安氏の言葉をひこう。

・<倫理学>という学的テキストがもつ意味の過剰は、「倫理」への問いを根低化するという学的作業それ自体からくるだけではない。一九三〇年から一九四〇年代ににいたる昭和日本の歴史的な時空で「倫理」の問い直しがなされること自体が、和辻倫理学に遥かに過剰な意味を与えているのである。

・和辻「倫理学」とは、文字通り過剰な体系となるのである。ことに「倫理学」中・下巻とは、人間という共同存在をめぐる社会学であり、民俗学・文化人類学であり、政治学・国家学でもある。そこで展開される主題も議論も、共同体論であり、比較社会学であり、家族・民族・国家論であり、風土論であり、また文化類型論などなどである。和辻は倫理学から溢れ出てしまうこの過剰をなお倫理学として体系化しようとするのである。こうして過剰な体系「倫理学」上・中下三巻が、昭和前期の15年という戦争を間にした歴史的経過とともに昭和の読者に与えられることになったのである。あらためてわれわれはこの過剰な体系「倫理学」とは何なのかと問わざるをえない。

・「人民の種族」から「民族」とその同義語「民種」という語彙が成立してくるのは、明治のかなり後年に属することである。恐らく一国人民の種族という「民族」の語が日本社会に成立するのは明治の三十年代である。
しかし国家を成す種族的な、言語的な同一性をもった人民という、あるいは歴史や民俗、精神や感情を共通にする人民という「ネイション」に対応する「民族」概念が日本に成立するのはさらに遅く、ほとんど大正末年から昭和に入る時期であったようである。この「ネイション」としての「民族」概念が成立することは、同時に一国史をその構成主体としての民族を中心に記述するような歴史的視点が成立することでもある。あるいは民族性をもって一国の神話や宗教、文学や言語などの文化的遺産を研究し、記述する文化学・文化史学的視点が成立することでもある。
もちろんこうした「民族」概念の社会的成立の前提には、まさしく「民族問題」が国際的問題として登場してくる第一次大戦後の世界史的状況があった。

・一国民的同一性の根拠である「民族」概念の要請と、一国のいわゆる文化的、精神的伝承をめぐる学的認識の要求とは、どっちが先でどっちが後だともいう事はできない。伝統への要請と共に伝統は創出されるとすれば、「民族」概念の要請とともに、民族的同一性もまた学的に構成され記述されてくるのである。昭和初期とはまさしく一国民的同一性の根拠としての「民族」概念がはっきり成立するとともに、民族とその同一性をめぐる学問的言説が言語学、社会学、宗教学、神話学、民族学、民俗学などなどで展開されていった時期である。日本における精神的同一性を歴史に通観する日本精神史もまたこの時期に成立するものであることを付加えておこう。1945年にいたる昭和前期とは、明治の国家形成期とは異なるもう一つのナショナリズム、世界の一強国となった日本のナショナリズムが強力な時代思潮をなした時代である。私はこれを明治のそれと区別して昭和ナショナリズムと呼ぶ。昭和ナショナリズムとは<世界史>的日本のナショナリズムである。それは<東>からの<世界史>的日本の自己主張である。哲学が<世界史>的日本史の自己主張であり、自己理解であるかぎり、昭和の哲学とは哲学というナショナリズムである。和辻倫理学もまた、<東>からの「世界史的任務」を自覚した倫理学というナショナリズムである。


さて、根本において歴史とはなにか?和辻は、公共的領域よりもあいまいな領域が問題であることに気づいていたのだろう。そうして、<共同存在としての人間>という「人間」の定義からはじめた。和辻は、人倫的組織に於ける連帯性の構造の問題に関してつぎのように語っていた。「我々はそれを先づ存在の共同といふ点から捕える。それは二人結合といふ如き単純な共同存在から国民的結合といふ如き複雑な存在共同に至るまで層階的に辿ることが出来る」(「倫理学」序論)。しかし、結局、子安氏が指摘するように、「和辻倫理学とは、国家とともに挫折の運命をもった<負>の思想遺産である。<共同存在としての人間>という「人間」の定義が正当であるならば、この定義を掲げた和辻倫理学という近代文明の克服の道はなぜ挫折の運命を辿ったのか」。一方の項に家族を、もう一つの項に国家を置くとする夫婦的二人共同体とは、一つの映像に二人の人物を置く示す配置のことである。和辻は、ここに、市民社会的な公共的領域よりもあいまいな領域を見出した。しかし結局、そうして配置された国家は自ら死の領域へ超越化してしまう。

ところで「和辻倫理学を読むーもうひとつの近代の超克」を読んで、高田保馬「統制経済学」を思い出した。この本はもともと中国戦地へ行った叔父が京大の学生だったとき手に入れた本で、屋敷の一番端にある、薄暗く長い廊下の本箱に積まれていた本であった。パレート最適を超克せよ、に要約される本だっただろうか?そうだとしたら、今日マスコミによって流行している正義論のことを考えた。つまり、これらは同じではないかと。結局、戦前において「近代の超克」と和辻の「もう一つの近代」が対峙した、所謂個人主義的自由主義観のアングロサクソン的市場主義は、2013年我々が一方的に選択を迫られているアメリカ型グローバリズム、新自由主義・新保守主義の完成たるTPPの問題と本質的には変わらない。
実際に、反TPPをはじめとする反グローバリズム運動は、合理性に対する抵抗に依拠している。「近代の超克」や、和辻の「もうひとつの近代の超克」に見出された合理性に対する抵抗が、今日主張される生命の哲学において木霊していることは明らかだ。、しかし反グローバリズム運動は反理性の側に立つということにはなるのだろうか。理性それ自身の欠陥にゆいて鋭く意識している生命の哲学が見失っているのは、資本主義が狂気ではなくむしろ理性の極限にある体制だということである。ただし、"生命"を強調することは、受動的依存性に帰するというような、合理主義者からの非難は、受け入れることはできない。これに対して、われわれは受動的依存性をネガティヴに考えてはいない、とマルクスはスピノザと共に答えるだろう。そもそも受動的依存性というものは、それが合理性の領域の外にあるとする誤解がある。スピノザ的には、デカルト的合理性から出発しても、受動的依存性に至ることをみる必要がある。たとえば、ネオリベ的グローバリズムの自己保存的武装化をみよ。この弱肉強食のマーケット競争は、「痛い!」とウィットゲンシュタインが呼んだ私的な感覚、即ち耐え難き孤立の感情に導くだろう。この全体性を喪失した感覚は購えない絶対貧困に属す。ここから必然として誰もが出口を求めて社会化への方向を目指す。この社会化を世界宗教と呼ぶかは名前の問題だ。全体性を喪失すると、非合理性から抵抗をとらえることが生じる。が、連続性と再帰性の空間は、非合理性の特異点を必要としないのではないだろうか。

「和辻倫理学がマルクスから始まったことは、彼の「人間の学としての倫理学」以降の倫理学的著述においてはまったく消されてしまっている。マルクスの社会的存在としての人間も、間柄的存在としての人間という和辻的倫理学的な人間存在となる。それとともにあの始まりのマルクスも、「人間の学」としての倫理学史の末尾の章を構成する終わりのマルクスとなる。論文「倫理学」は和辻自身によっても捨てられるのである。彼はこれを己の公的著述に数え上げることはしないのである。だがそこに一たびマルクスとともに記した「人間の社会的存在の学が倫理学たらざるを得ない」という言葉は決して消すことはできない。それは隠された主動因として、和辻倫理学の昭和<近代>における独自の形成をひそかに支配し続けたと私は見ている」

最後に、マルクス主義とは結局、近代が自分自身について記した戯曲だった。ところで、言語の領域に主観性が存在しない様に、シェーンベルクがオペラに要求した如く、演出家は戯曲の解釈に介入できない。自由があるとすれば、それは役者が役柄を越えるダイアローグ的行為から実現するけれども、やはりこれは戯曲と観客の期待に反しない限りにおいてだ。一方、ポストモダンといえば、演出家の解釈だ。演劇は表現に美的に従属する。舞台は過剰を孕む。舞台は、あまりに文学的に文学的で、戯曲それ自身の忘却から、世界の喪失を齎す遊びに委ねていく。実際に1990年代を契機にマルクス主義それ自身を否定した多くの知識人は全部を失った観がある。1920年代にマルクス主義の出発点を隠蔽した、和辻の「もうひとつの近代の超克」が取り組んだ問題が現在繰り返されていることは繰り返し述べた。ユートピアも抵抗もなく、倫理学のナショナリズムのかわりに正義のナショナリズムが取ってかわる。残されたものといえば、最悪の映画しかないーすなわち戦争体制と国家百年の計をいう安部の国家主義的スタンス、という最悪の映画のことである。結局どこにも逃げ道はなくなったのだ。「もうひとつの近代の超克」の、マルクスからの始まりを隠した出発が、国家によって挫折に帰した倫理学であったとしたら、戦後の倫理学の構築を再び国家に委ねることは不可能であろう。



十、「江戸思想史講義」(岩波書店、1998)
ー「方法としてのアジア」、「方法としての江戸」、「方法としての知識人」

子安宣邦氏は最近のツイートで、山口昌男が「《重い》級友であった」ことを綴った。「彼と私とは知の関係史を作っている。私をマルクス主義に、そしてポスト構造主義に位置づけていったのは彼の存在であったかも知れない」と。マルクス主義と構造主義。この<関係の冒険>からは、新たに普遍性の構築を模索しようとする知性が生まれたことを子安氏の回想は証言している。それ自体が歴史を構成する出来事といえようが、兎に角、そうして、1990年に、世に問われたのが『「事件」としての徂徠学』であった。
この『「事件」としての徂徠学』(1990年)から、『「中国」はどう語られてきたか』(2012年)まで、子安宣邦氏が直視し続けたのは、歴史を書くことの意義と、歴史を書くことの不可能性だったとおもう。顕著な二つの探求があった。そのひとつは、アジアからの眼差を受けながらも、何故かくもこの他者を語ることの不可能性が繰り返し生じてしまったのかという探求である。(「近代の超克論」「和辻倫理学」「国家と祭祀」「日本ナショナリズム論」)。他者に於ける他者性の痕跡を消すようにして行われる、自己の中の他者の措定の挫折を読者は読み取ることになる。もうひとつは、仰ぐ見る「大いなる他者」を求める探求である。「アジア論」には台湾儒学のことが記述されているが、この台湾儒学の将来に、江戸朱子学の再生を託してはいなかっただろうか。「中国論」の根底には、亡命者に見出していく「大いなる他者」の声の通低音が支配している。歴史、歴史、歴史である。

ところが、八十年代というのは、歴史の終焉と普遍主義への幻滅がもことしやかに語られた時代だった。かのサィード曰く、「ポストモダンの知識人たちは、いまや、真実とか自由といった普遍的な価値ではなく、専門的能力のほうを高く評価するということらしい。」。構造主義に転向していた多くの知識人たちにとっては、八十年代に起きたソ連の解体、ベルリンの壁の崩壊、天安門広場事件などは、特に驚くべき事件ではなく、既にその前の時代に証言されていたユートピア的神話的象徴に対する幻滅ースターリンとヒトラーの独ソ不可侵条約が齎した人民戦線の崩壊、強制収容所の発覚、顕在化した文革の犠牲、社会主義国間戦争ーを確認した事件としてあらわれとみえたかもしれない。八十年代に、ポストモダニズムの構造主義的言説が流暢に喋り始めた。反ユートピア的言説とはいえ、少なくとも、啓蒙主義ユーとピアから排除された他者たちを取り戻すことの意義だけは訴えたけれども。また前衛的マルクス主義とは別の仕方で反資本主義の運動をなしていたことも。たしかに批評的な問題的提起から活発な論争が起きた。ただ日本に限っていえば、オタク知識人、今村 仁司のような同時代性の「フランス思想」を自慢する人々があらわれた。かれらはレヴィナスに言及しても、その暴力の概念を日本の暴力の問題に即して考えることは消極的であるようにみえる。結局、九十年代に入ると、世界的な傾向として、ポストモダニズはメインストリームの核に取り込まれていった。今日資本主義そのものとなってしまったのである。「専門的技能がすべて、手軽なもうけ話や一攫千金の野望達成の手段へと矮小化されるような、たえざる流通循環過程の領域。」(サィード)。日本の現在については、ポストモダニズムのナショナリズムという憂慮すべき反動的事態も生じているのだが、今回はこのことを指摘するだけに留めておきたい。

サィード「知識人とはなにか」は1994年に出版された。この六年後に、彼の「故郷喪失についての省察」(Reflections on Exile)が出る。そして「江戸思想史講義」は、その間の1998年に出版されたことは注目したい。この本で子安氏が「方法としての江戸」で問うたものこそ、サィードが再構築しようとした普遍主義の「知」と深い関係があったのではないかと私は主張したいのである。子安氏は、「仁斎論」の最後でこうまとめていることに注目したい。

・<人間の時代>において「天」は「論語」テクストに人間孔子を読み出すことともに、読み出されてくる。すなわち、性理学的な思惟とその言語学的構成の外側に、もはや己れの存立根拠ではない「天」が、仰ぎ見る「天」が読み出されてくる。「論語」の「天命を知る」の言葉にみずから思い入れるものは、孔子とともに仰ぎ見る「天」を、もはや己の存立根拠にはない「天」を、恐れとともに見出すのである。

ここで<もはや己の存立根拠にはない「天」>とは、知識人における「語りの特権性」と子安氏がいうものと関係があるだろう。知識人が「語りの特権性」をもつのは、かれが専門性も否定していく外部的な位置と関係した立場をもつからである。サィードもつぎのように言っている。「知識人とは、あくまでも社会のなかで特殊な公的役割を担う個人であって、知識人は顔のない専門家に還元できない。つまり、特定の職務をこなす有資格者階層に還元することはできない。」「まもるべき砦となる職務もなく、また、まもりを固めて防御すべき縄張りもない知識人には、つねに、不安定で遊牧民的なところがある。」。また、文中の<仰ぎ見る「天」>という言葉はそのまま、サィードの次の言葉を喚起しないだろうか。「知識人が真の知識人といえるのは、形而上的で高尚な理念に衝きうごかされつつ、公正無私な、真実と正義の原則にのっとって、腐敗を糾弾し、弱気をたすけ、欠陥ある抑圧的な権威にいどみかかるときなのだ。」「わたしをとらえて離さないのは、同化精神よりも、やはり反骨精神であって、知識人のありようをめぐるロマンスなり、利害なり、挑戦なりは、すべて、現状に対する異議申し立てのなかで光をはなつものだ-」。「知識人が、公衆に向けて、あるいは公衆になりかわって、メッセージなり、思想なり、姿勢なり、哲学なり、意見なりを表象=代弁したり、肉付けしたり、明晰に言語化できる能力にめぐまれた個人であるということだ」

結局、サィードは「方法としての知識人」について語り出したのだ。そうならば、あえて図式的に分りやすく整理してしまうと、「方法としての知識人」とは、即ち、「方法としての江戸」といえないだろうか?もちろん、これは、私の勝手な推定であるけれども、ただしここではっきり言っておきたいこととは、江戸儒学者の研究は決して、アナクロニズム的な衒学ではないという点なのだ。「方法としての江戸」は1990年代の問題意識を反映して行われるのである。すべて金で支配しようとする新植民地主義の世界的復活とネオリベのグローバリズムに対して、原発推進のための新安全神話に対して、抗議するわれわれは、<仰ぎ見る「天」>とともに在るのだ。実際に、子安氏は序文でこう書いているではないか。

・「方法としてのアジア」とは、中国研究者竹内好が「思想史の方法」をめぐる連続講座で行った講演の表題である。世界認識への竹内の独自の立場を伝えるその言葉は、彼の論集のタイトルともなって一般にすでによく知られている。竹内のいう「方法としてのアジア」とは西欧近代を包みかえすいわば方法的視座としてのアジアの提示であった。「西欧をもう一度東洋によって包みかえす、逆に西欧自身をこちらから変革する、文化的な巻き返し、あるいは価値上のの巻き返しで、西欧の生み出した普遍的な価値をより高めるために西欧を変革する、・・・その巻き返す時に、自分の中に独自なものがなければならない。それは何かというと、おそらくそういうものが実体としてあるとは思わない。しかし方法としてはありうるのではないか」と竹内はいうのである。「実体としてのアジア」が、近代ヨーロッパ帝国の世界支配に対抗するもう一つの帝国=日本が、かつてその盟主の名のもとに仮想したアジアであったとすれば、「方法としてのアジア」とは西欧近代とその世界史的展開への、西欧の外部における批判的な視座の確保の主張である。「方法としてのアジア」とは変革への可能性を見た中国に己の視座を据えながら竹内が、現代史に終始かかわり続けることを通じてわれわれに残した貴重な遺産ともいうべき視座、即ち、<歴史への批判的な視座>である。「方法としての江戸」とは、この竹内の「方法としてのアジア」を貴重な示唆として構成される歴史批判のための方法的な視座である。西欧近代を追走しながら、その対抗として自己形成した日本の近代を読み直し、とらえかえすべき批判的な視座、それが「方法としての江戸」である。「江戸」といっても、それは決して対抗としての実体的な江戸・徳川日本の主張ではない。「実体としての江戸」の語りとは、西欧的近代の転移としてある近代日本に対抗するもう一つの近代、すなわち徳川日本の再構成的なナラティヴでしかないだろう。だが「方法としての江戸」とは、日本の近代史の外部に構成される<歴史への批判的な視座>の主張である。



十一、「日本人はどう中国を語ってきたか」(2012)

天安門広場事件から簒奪された「事件性」を取りもどすこと、今日神話的に内側に絡み取られてしまった言説から、批評にもとづくリアルな歴史を取り戻すために、子安宣邦氏は、本書「日本人はどう中国を論じたか」を書いたのではないだろうか。「日本人はどう中国を論じてきたか」という問いとは、なによりも、「われわれはどう他者を語ってきたか」という開かれた問題提起と等価ではないかと私は考える。
ところで神話的な語りというのは、対象を対象の内部から対象に即してみる<語り>に立脚する。本書のなかで日本における中国学の視野を分析している箇所が大変示唆的である。そこで、中国学が、いかに中国を中国の内部から中国に即してみる言説として自ら完成していくのかという知の歴史が、説得力をもって描き出されている。たとえば、日本における中国学の内部で、「内なる天皇」に対応するが如き「内なる中国」というオリエンタリズム的幻想が誕生していくプロセスがよく理解できた。驚いたことは、今日中国のアカデミズムが、この最近の日本の中国学を取り込んでいるというのだ。
なぜ今日日本の知識人たちが、命を脅かされている2010年ノーベル平和賞受賞者劉暁波をはっきりと支援できないのか?オリエンタリズム的言説と知識人のあり方、この両者は、「日本人が中国をどう論じてきたか」において、互いに切り離せない関係にあるだろう。本書を読み終えたとき、なぜ日本の知識人たちが命を脅かされている劉暁波を見捨てるのかその理由の核心が、それまでこの問題を無知であったこの私にも非常によく理解することができたのであった。
現代の中国を語るとき、「官僚制資本主義」を語る視点が欠かせない。端的に「官僚制資本主義」とは、<アジア的原始共同体>と<専制政治>から成る体制として定義できるが、神話的な語りは、この両者が、孫文と毛沢東によって、あたかもすでに克服されて終わったかのように語ってきた。いつでもわれわれが生きている現在の姿というのは、神話的な語りによって、過去との連続性に位置づけられるものだ。中国も然り。しかし神話が終わったところから、天安門広場の占拠が始まったのである。天安門事件広場での抗議は、連続性の夢からわれわれを覚醒させようとしたのである。つまり、現実には、<アジア的原始共同体>と<専制政治>は解決済みのものではなかったことを一人ひとりが自発的に世界に知らせようとしたのだ。そして、これこそが、事件性と呼ぶに値する、批評性と関係した言論活動にほかならない。
言論の場で子安氏が繰り返し訴えてきたように、事件性とは、小さな人間の声が、大きな人間を糾す<喋る>民主主義の語りのことである。この点に関して、<かれら>の官僚的資本主義の問題といえ、<われわれ>の原発問題といえ、構造が齎したの問題の解決を、再びそれを推進した政治的経済的文化権力的一体的構造に委ねることは不可能であるしまた倫理的にも許されないものだ。こうして、「日本人はどう中国を論じたか」という問いとは、なによりも、「われわれはどう他者を語ってきたか」「われわれは依拠すべき他者との関係をどのようにつくっていくかと」いう開かれた問題提起として、与えられてくるのである。


子安宣邦のあとがきより

私の「中国論を読む」ことの動機をめぐってさらにいえば、現在なお中国の獄中にいる2010年のノーベル平和賞の受賞者劉暁波の支援の問題があった。劉暁波に対する私たちの支援は日本ではまったく孤立している。日本の既存の中国研究者で劉を批判するものは数多くいても、彼を支援しようとするものは殆どいないということは、私にとって驚きであり、考え込まされる事態であった。なぜなのか。この懐疑が私を戦後日本における中国観の見直しに向かわせたのである。さらにいえば、現代において全く批判的、思想的機能も意味をも失ったかのような日本のアジア主義、あるいは中国主義というアジア・中国への<肩入れ>とはいったい何であったのか、という問いもまた私に「中国論を読む」ことを促した理由でもあった












この記事へのトラックバック