(1)、(編集中) 思想における他者の介入 -言葉を中心としてー

1、(工事中) 思想における他者の介入 -言葉を中心としてー




1、子安宣邦「思想史家が読む論語ー「学び」の復権」の感想文 - 「論語」と戦後憲法(前文)と


丸山真男の江戸思想のシナリオ(「日本政治思想史研究」)は、ポストコロニアリズ的語彙によって、翻訳できないことはない。主観哲学に定位する仁斎を批判した、徂徠の「公」という男性原理の領域の成立は、被治者が属す感性的領域から超越的な「天」の風景を排した後である。他方、男性原理に回収されぬ残余として現れた「私」の領域は、宣長を介して、女性原理という「非政治の政治化」を準備していくと語られたと理解できるのである。子安氏によれば、宣長の源氏的世界は「私」に属す和文で書いた。35歳を契機に古事記的世界を「公」に属す漢文で書く。この変化が意味するのは、古事記伝の作家としてのアイデンティティーは漢文エクリチュールによって成立したということだ。思想における他者の介入としての言語が宣長を通過したのだ、と私は考える。言語的転位の場から江戸思想の風景を眺めると、丸山が整理するようには、宣長を男性原理に回収されぬ残余として現れた「私」の領域に位置づけることには無理がある。もし本当にそうならば、宣長は古事記的世界を「私」に属する和文で書き続けたはずではないか。しかし現実は「公」に属する漢文で書いたのだ。子安氏は丸山の福沢的徂徠像を指摘する。ならば、丸山において徂徠と宣長を関係づける語り口に、福沢による水戸学的国体論批判が先行していた可能性も否定できまい。が、抜け落ちたのは徂徠と宣長自身、そして仁斎だ。思想における他者の介入としての漢文エクリチュールといかにかかわったかという問題。

ところで、憲法は押しつけれたという右翼民族主義者達は、殊更、翻訳体の違和感を指摘する。外国人が持ち込んだ憲法に、Shut up!と威嚇する。ここでもオリジナルとコピーの上下関係の適用がある。右翼民族主義者の言い分では、戦後憲法は英語のコピーでしかない、だからオリジナルの日本語で本来の憲法を書けと。しかしかれらは無視しているー 憲法は自分自身を翻訳しているということを。つまり、憲法は、ヨーロッパで育った自然法思想・社会契約論の「信」を、さらに、徳川日本における儒学概念の「信」に翻訳しているのだ。実際にわれわれは憲法前文中の「信託」「信頼」の語を考えるとき、"trust"という英語を参照したりしないだろう。寧ろ、他者に対する親切心とか誠実さという日常卑近の儒学的な意味から、「信託」「信頼」を「依拠」と理解できるのである。これが憲法が自らを翻訳するという意味だ。外国嫌いの右翼民族主義者達の論に従っても、戦後憲法は、すでに立派に、オリジナルなのである。ここで、実質的なことを言えば、「戦う国家」「祀る国家」は、究極的に依拠できる他者とはなり得なかったということを証明した歴史をわれわれはもっているのだ。「信託」「信頼」について子安氏はいう。


孔子は、「民、信無くずんば立たず」という。人民は信がなければ立ち行かない、というのである。なぜ信が無ければ人民はやっていけないのか。その信とは何か。また孔子は、「我を知るものは、それ天か」という。孔子は究極的に天に己の信を置いているように思われる。・・・漢和辞典はこの「信」字の成り立ちから説明する。すなわち「信」字が会意という二つの文字とその意味とから構成されたものであることを辞書はいう。「信」は「人」と「言」とから成るというのである。・・・原初、人の言葉は信頼できるもの、すなわち信じることのできる実なものであったのである。人の言の実であることを根拠にして信頼という対他的な人間の態度が生じ、「信」字とともにその意義をかくとくしていったと私は考える。・・・大事なことは、「信」という字が人の言葉が実であり、信頼の根拠であったことの人間の記憶を持ち続けていることである。「信じる」という人間の態度は何によるのかを「信」字は、この字が生まれて依頼われわれに示し続けているのである。(「信について。論語講義・第四講」より抜粋)

ここでいわれていることは、、「天」と「人」、「言」と「人」、この両者は、仁斎において互いに切り離せないということである。大切なのは、天道は人道のメタファーでしかないという点である。これに関して、子安氏は日本思想史で絶えず出てくる天的概念に注目する。伊藤仁斎は「御天道様(おてんとうさま)」との関係を考えていた。清沢満之ならば「絶対無限」と呼ぶこの「天」は「公」と繋がり合う。儒学は、仏教のようには政治的な意味を脱色しない。天下の「公」は、絶対的平等性の理念ゆえに国家を越える。儒者は徳が行われない国家を見捨てて良い(「子曰く、道夫行われず、筏に乗りて海に浮かばん」)。この仁斎の徹底した「徳」の重視は、政治的権力を必要とせずとしたラディカルな解釈も導かれ得るほどだ。以下、子安氏が「論語塾」第一回で配布したレジュメを参考にして書くと、ポンイントは三つある。

(1)伊藤仁斎は「論語」にみる孔子の教えとは人の日常卑近な道の教えであるという。「惟孝弟忠信を言いて足れり(ただ孝弟忠信をいうことで十分であったのだ)」とは、仁斎が「論語」における孔子の教えの本質を一言で言い切った言葉である。(ちなみに、「孝弟忠信」は友人関係のこと。)。「論語」をこのようにみることは、すでに一つの思想革命、あるいは知の革命である。仁斎は「童子問」では、;次のようにいっている。「蓋し知り難く行い難く高遠及ぶべからざるの説は、乃ち異端邪説にして、知り易く平正;親切なる者は、・・・孔子立教の本原、論語の宗旨なり。」

(2)仁斎は「論語」を基本的に孔子が弟子との対面的関係において、具体的に、何を、どのように為すべきかを説いた書だと見ていることである。このことは仁斎が「論­語」に人における「教え」と「学び」の原初的(=本来的)なあり方をとらえたことを意­味している。「教え」と「学び」とはもともと対面的になされる人間的な行為である。し­たがって「論語」の言語とは言語遂行的(performative)な性格をもったも、規範的(normative)なものではない。「論語」の性格をこのようにいっ­たのは仁斎が最初である。あるいは仁斎だけかもしれない。仁斎は「論語は専ら仁義礼智­を修める(行為の仕方を問ういている!)の方を説いて、未だ嘗てその義を発明せず」と­仁斎はいっている。孔子は「こう行為することが仁だよ」と説くので、「仁とは何々であ­る」と概念規定することはしないというのである。仁斎は原初的な経典が持っている性格­を正しくとらえたといえる。

(3)ここに述べてきたような特質をもつ「論語古義」は、17世紀日本の市井の儒者である伊藤仁斎によって達成されたものであることをいわねばならない。仁斎は町人階級に属する­学者である。「論語」とは中国では士大夫といわれる支配階級を読者とし、学問的・思想;的な担い手としてきた第一の経典である。日本では朝廷・寺院に属する支配的知識階層が­「論語」の読み手であり、それを学ぶ人であった。日本の近世社会の成立は、「論語」の­そのような学問的制約を排除した。かくて京都の町人学者である仁斎によって日本ではじ­めての「論語」の体系的解釈がなされることになる。しかも既存の支配的な朱子学的解釈­を批判する古学という方法的理解による「論語」解釈が達成されたのである。「論語古義­」の事件性は、何よりも<民>の立場から「論語」がはじめて体系的に読まれたという点にある。私(子安宣邦氏)が市民講座で仁斎の「論語古義」によって「論語」を読む理由はここにある。


最後に、戦後憲法の根底を破壊しようとする超保守主義者達、自分達で勝手に歪曲した、徳川日本の江戸期に端をもつ<国体>概念を振りかざしてくる言論上の戦いがある。ところが、それを阻止したいわれわれの方と言えば、七月革命が起きた1830年に、「天保の改革」に、明治維新のリーダー達が生まれた歴史も、現在の超保守主義者が崇める、遅れてきた帝国主義者の野蛮も知らない。人民主権・国民主権を語源的に説明し定義を与えても、江戸期に成り立った政治理論との関係を一言も語れない。われわれはどうやって、耳を貸さぬこの超保守主義者達と闘うつもりなのか。「論語」と憲法との交差からしか ...




2、子安宣邦「漢字論ー不可避の他者」
ー思考と精神が究極的に依拠すべき漢字の普遍主義


2003年は、天安門広場前占拠から約四分の一世紀後であるこの年は、アメリカ軍によるイラクの首都バクダードへの空爆が始まった年である。2003年以降、外交政策の占拠とチョムスキーが形容した、世界的な規模の反戦運動、ネオリベのグローマリズムに抗議したデモが、自発的に起き始めた。こうした小さな人間たちが大きな人間をただす「介入」の運動は、フクシマを契機に反原発運動において貫くことになった。英語で書いた柄谷行人「transcritique」(「トランスクリティーク」)の出版の年、2003年は、音声中心主義的論理の決定的勝利を記した年、と同時に、思考に占める漢字エクリチュールの物質性の消去、その介入の意義を忘却していく最初の年であった。子安宣邦氏の介入をテーマにした「漢字論」は同年に必然としてわれわれに与えられたのである。「グラマトロジー」"De la Grammatologie"(1967年)のDerrida デリダは、漢文漢字で書かれたテクスト、「論語」を指さすという可能性もあった。子安氏は遅れてきたものとして、かれの「グラマトロジー」を、約五十年後の、漢字エクリチュール的思考の危機の時代に、世に問うことになったのである。(ただし、指標と方向と座標を変換しさえすれば、そのデリダとて、古義学の伊藤仁斎に対して、250年遅れたともいえるのだけれど)

さて、「介入」は子安氏の「漢字論」のキーワードである。例えば、「異言語文字・漢字の自言語における介入的な構造的現存」という言い方である。「介入」というテーマをもった【日本人は中国はどう語ってきたか昭和とは何であったか】(2012)は、この「漢字論」の続編と位置づけられよう。2013年の「漢字論」が自身に課した課題とは、「世界史の構造」を教えるようなことではなく、「世界史の構造」に介入することにあったからだ。「介入」という語は、副題である「不可避の他者」のなかの「不可避」と関係がある。このこととの関連でいえば、「漢字論」の最大の主張とは、「漢字は借り物ではない!」という子安氏の主張に集約できよう。漢字を「借り物」とみなす人は、己が「自然」に持つようになった「母国語」の中に、自国語の固有性を排他的な態度で表象する。ここでちなみに、漢文漢字の役割は、芸術作品での説明文の役割と同一化できる。なぜなら、漢文漢字が自国語に依存したテクストの読みに介入していくように、まさに、芸術理論の言葉は、鑑賞の固定されたあり方(構造)に介入していくことが起きるからだ。子安氏が強調するのは、他者としての言語がもつ「介入」の意義である。この問題意識は、「原初的なテクストは基本的に読めない」という注釈学的な問題意識と深い関係があるだろう。端的に、「介入」とは、己に都合よく読みたいもの対する批判のことである。またこれを考えるためには、ブレヒトの劇場の機能に言及した考察が役に立つかもしれない。読み手は同時に見たくないことも見せられることになるから、つまり自分の見たいもの(自国語)が演じられるだけでなく、自分が見たいものに対する批判まで(自分が主体としてではなく客体として)見せられることになる。基本的に読めないものをあえて読もうとするのは、解釈の欲望であろう。やはり、子安氏は、【「アジア」は語られてきたか】(2003年)、【昭和とは何であったか】(2008年)における場合と同様に、本居宣長を、「漢字論」に導入している。以下本文からの引用。

「アメ」とは何か。宣長はいうのである。「かくて阿米(アメ)てふ名義(なのこころ)は、未だに思ひ得ず。」。これは落とし穴的なしゃれをいってるのか。かつて私はこの宣長の言葉に恣意的な名義推定への注釈学者の禁欲的な姿勢を読んでいた。だがそれは宣長の注釈学への思い入れ的な読み過ぎであったであろう。むしろこの宣長の言葉は、表意文字・漢字という意味体系における「天」字からその意味体系的背景を漂白し、ただ表記記号化したことから生じる意味の空白を、ただ正直に言っているにすぎない。「漢意」批判という国学の思想方法、すなわち己の内から理念的意味体系を異質的他者として排除しながら固有の自己を求めていく思想方法は、常に己における意味の空白を露呈していく。この意味の空白の上に、あるいは意味の空白を反転させながらいかに自己を主張していくかは、国学イデオロギーの核心をなす問題である。「阿米(アメ)てふ名義(なのこころ)は、未だに思ひ得ず」という言葉は、「天」字からの漢字的意味の排除によって生じる意味の空白を告げるものである。ところで表意文字・漢字からのそれ固有の意味の排除とは、漢字をただ表記記号として見ようとすることであり、それは漢字を仮り字(仮名)とする用法は【古事記】の歌謡の表記に用いられている漢字の表音文字化、いわゆる万葉仮名の用法である。漢字を仮り字とするのはそれだけではない。「天」「地」「神」「国」漢字をただ表記記号として見ようとすることであり、それは漢字を仮り字(仮名)とする用法は【古事記】の歌謡の表記に用いられている漢字の表音文字化、いわゆる万葉仮名の用法である。漢字を仮り字とするのはそれだけではない。「天」「地」「神」「国」などの漢字がそれぞれ「アメ」「ツチ」「カミ」「クニ」などのやまとことば(いわゆる訓)に適合性をもった漢字(表訓漢字・訓漢字)とみなされ、そしてそれらの漢字が「アメ」「ツチ」「カミ」「クニ」などの訓に従属する表記文字とみなされるかぎり、それらの漢字も基本的に仮り字であろう。宣長の【古事記】テクストを構成する漢字に対する見方は基本的にこの漢字=仮り字観である。文字とは「後に当てたる借りの物」なのである。「まして其の文字は、後に当てたる借りの物にしあれば、深くさだして何にかはせむ。唯いく度も古語明らめて、古へのてぶりをよく知るこそ、学問の要とは有るべかりけれ」。(子安)

ところで、「テクストとしての世界は読めない」というテーゼは、ひとつの亀裂の表明である。哲学者にかかると、そんな原初性が過去へのノスタルジーとなる。例えば、失われ不在となった古代世界を彼らは教える。それに対して、我々の思考のうちで我々の世界と共有するものが何も無いと訴えることによって、未来の問題を呈示しようとするのは、常に亀裂を現在に感じる詩人の方であろう。さて、詩人に劣らない危機感と正義感と学究的な良心とから、子安氏の「原初的なテクストは基本的に読めない」というその注釈学的テーゼは、、漢文エクリチュールの他者性の意義を訴えることによって、ナショナリズムの問題を射程においている。外部の意義の重要性を喚起する。つまり、他者の言語を、自国語の内部から内部に即してとらえることは不可能であるし、また倫理的にもできないということを示唆する。具体的な例として、「孝弟也者、其為仁之本与」は、訓読みの仕方によって、互いに両立しない二つの意味を導く。つまり、モラルは心の中に本来的にあるか、心の外に社会的にあるとするかである。後者に読む人でなく前者に読む人こそが、訓読みを通じて日本語(翻訳)を読んでいるだけなのに中国語を読んでいると思い込んでしまうのである。

私が漢字についてありきたりの見方をしてきたということは、漢字に異言語性、すなわち異言語・中国語の文字であるという性格を振り当てながら、そのことの問題に長く気づかずにいたということである。そのことは一方では、私たちの使用する漢字漢語の中国語との共有性なり共通性を前提にして、日本人と中国人との間の容易な相互理解の可能性を漠然と私も認めていたことを意味している。共有する漢字を基盤にした日中の同文同種という幻想を、私もどこかに持ち続けていたのである。しかし他方で私は漢字漢語の中国由来の異言語性から、「漢字・漢文の極端な影響による不自然な漢語のノサバリ」を非難しながら国語の整序をいう国語学者の主張があることをもそれなりに理解していたのである。この漢字をめぐる正反対とも見える二つの見方は、日本語における異言語・中国語的要素としての漢字漢語への共感と反発という相反する感情的契機を持ちながら、しかし両者とも漢字漢語に中国由来の異言語性を振り当てるという共通の見方に立ったものである。漢字についてのありきたりの見方とは、日本語における漢字に異言語性を振り当てながら、そのこと自体の問題性に気づくことなく持ち続けられている見方である。(子安)

ここで、心の中に本来的にあるものを語る考え方は、「共有性」「共通性」に帰していく、固有の自己を求めていく思想方法であることは明らかだ。例えば、国家主義の政治家は人々は「祖国愛」を「自然に」もつというとき、心の中に本来的にある「共有性」「共通性」を勝手におしつけてくるのである。だがこれは政治家だけに限らない。アカデミズムも、「共有性」「共通性」に帰していく、固有の自己を求めていく思想方法に依存してしまうのである。丸山真男は、宣長の政治原理、つまり文学が政治化され政治が文学化されるという、柄谷ならば美学的統整原理と呼ぶかも知れぬものを明らかにしたつもりでも、肝心な点、漢字エクリチュールの排除という政治を十分に検証することがない。丸山の言語論的日本文化論も実は文学を構成している。が、丸山は、その言語論的日本文化論という文学を、宣長的に、非政治化しただけなのである。日本精神分析という、音声中心主義的な論理から、いいかえれば、固有の自己を求めていく思想方法から、日本の起源を実体化してしまったのだ。注釈学の外部の批判性が、解釈学の内部性の奥に、眠る。悪夢からいつ目覚めるのか?子安氏は、丸山真男と(恐らくかれの宣長論も含めて)に対して根本的な疑問をつきつけている。子安氏はいう。

外部性をその由来からもつ漢字をただ異質的他者とみなすことは、閉ざされた内部的な自己をしか生み出さない。日本精神分析の立場が構成する言語論的日本文化論から、丸山真男による歴史意識の古層論と同じ閉ざされた内部性の響きから聞こえてくるのはそれゆえである。私たちはいま漢字を自言語の展開に不可避な他者とみなすべきである。あらゆる自然言語に他者言語を前提にしない純粋な自言語などはありえない。純粋言語とは比較言語学が構成する祖語のような人工言語学的な抽象である。漢字とは排他的に自己を生み出すための異質的言語でもなければ、受容者の自言語意識が負い続けねばならないトラウマとしての異質的他者でもない。それは日本語の成立と展開にとって避けることのできない他者である。漢字とは日本語にとって不可避の他者である。それは自言語がたえず外部に開かれていくことを可能にする言語的契機としての他者である。(子安)

まさしく「古事記」的世界は漢字・漢文エクリチュールからなるテクストの世界として、いいかえれば漢字・書記言語的世界としてはじめてわれわれの前に姿を見せるのである。だが漢字をただ日本語の表記文字としてだけ見ようとするものは、「古事記」がこのように漢字・書記言語的世界としてはじめて成立することを決して見ようとはしない。漢字を日本語の表記的文字としてだけ抽象化することは、自国の言語とともにその文化に不可避にかかわる他者、まさしく不可避の他者としての漢字を、いわば己に異質な他者として自己の圏外に排出的に措定していくことである。自己の存立に不可避な他者を異質な他者として己の外側に排出していくことは、同時に己の内側に幻想の固有性をつくりだしていくことでもある。それはすでに触れていたように宣長の「古事記伝」における「古事記」訓読の作業を成立させている二つの重大な作業仮説的な前提であった。宣長において漢字の表記記号(仮り字、借り字)としての抽象化、その異質性としての己の外部への排出は、固有日本語(口頭言語・やまとことば)の原初からの存立の主張と、漢字テクストからのその訓み出し可能性の主張とまったく相関的であったのである。(子安)

「漢字論」の第六章は、「漢字と自言語認識について -国語と日本語とー」と題されている。【「近代の超克」とは何か】(2008)、【和辻倫理学を読む もう一つの「近代の超克」】(2010)について書くまえに、「漢字論」のこの章を読むべきだったと私は思った。第一次世界大戦後の1920・30年代の問題意識から、「介入」の概念をとらえている。なによりも、この章の分析を際立たせるのは、大胆にも、近代の入り口である17・18世紀の注釈学的な思考方法から、二十世紀精神史の要である「普遍主義」に再定義を与えようとしていることであろう。ここで、子安氏は、言語学者の時枝の国語学に一定の評価を与えたうえで批判的な考察を行っている。

時枝の国語学が、日本語文の、いいかえれば漢字漢語とを自らの重要な構成契機としてもった日本語文の言語学的反省に立った自己認識の学として成立したといえるだろう。異言語文字・漢字の自言語における介入的な構造現存という言語的事実の直視から始まる国語学、その出発から異端性を背負っていた時枝の国語学は、しかし1930-40年代に成立する西田・田辺らの哲学、和辻の倫理学、そして柳田の民族学などとともに日本の自己認識の学として成立したといえるのではないか。この時期、普遍性を主張する近代ヨーロッパ諸学に対して批判的な学的志向は、究極的な自己認識を通じて自らを学的に表現していこうとする。近代の超克的志向はこの時期の諸学が多かれ少なかれもった共通の志向であった。この近代の超克的志向をもった諸学において強い他者性をもって意識されたのは近代ヨーロッパに成立する諸学である。それは主観性の哲学であり、個人主義的倫理学であり、旅人の外部的観察からなる民族誌であり、印欧親族言語の比較言語学であり、構成主義的な言語学などなどである。近代日本の学術そのものを形成してきたそれら諸学は、この時期、日本あるいは東洋の自己認識を通じて批判的に超えられようとするのである。時枝国語学においても強い他者性をもって意識されていたのはヨーロッパの近代言語学である。時枝がソシュール言語学を批判的な他者として再構成しながら、いかに自己の言語学的立場を導いていったかについては私はすでにのべた。ここでも「国語の事実」への直視に立ち国語学への志向が、批判的他者として対峙するのはヨーロッパ比較言語学である。ヨーロッパ言語学を批判的他者として成立する国語学は、もはや他言語・漢字漢文に対する自言語・国語の意識に立つ国語学ではない。すでにそれは漢字漢語を不可避の表現媒体として内在化させた言語文化の日本語的性格を記述する国語学である。この国語学の対象としての日本語という言語には、しかし他者的契機はすでにない。自言語・日本語の成立のあり方そのものへの他言語・中国語の無視し得ない影響という事実から始まった時枝国語学は、他者的契機を失った自言語・日本語の過程的構造をめぐる形式的特質を記述する時枝文法学として成立するのである。(子安)

間違いかもしれないが、モダニズムである時枝の国語学と1930年代の関係を考えるとき、ポストモダニズムにおける子安氏の近代・現代批判と1990-2000年の関係のことを考えるのである。もちろんパラレルではありえないが、同じ「昭和」という時代に属したことの意味は何だろうかと考えざるを得ないのである。
振り返ってみると、1960年代の西欧は、マルチカルチュアリズムの時代に到来にあって、「普遍主義」の合理主義の規律を、はたして、他者、即ちヨーロッパの外から来る移民たちに強いることができるかと躊躇った。そういうコンテクストのなかで、「グラマトロジー」は、神話化した理性のあり方に対する失望、普遍主義が現実にもたらした弊害を顧みず、反植民地主義を言えば足りたルソー主義とマルクス主義を非難しなければならなかったのである。サルトルだけでなくレヴィ=ストロースも、「本来性」に定位する、音声中心主義的起源の普遍主義と告発されたのであった。そうしてポストモダニズムの舞台が整っていくのであった。とはいえ、「平等」という普遍主義がまず始めにあって、それから、普遍主義の弊害を克服する多様性に対して大切な意義が与えられるのが本当ではないだろうか。そういう意味で、抵抗としての存在のあり方は、普遍主義的<一>でもなく、差異の<多>でもありえない。例えば、ドゥルーズは存在論的一元論の立場を取ったのは現実に、差別と闘っていたからかれが一的多様体の理論を展開しなければならなかった。1990年代までに、思想は普遍主義を捨て去った結果、差異の多元主義だけが関心事となってしまったけれども、そんな多様性の追求は始めから無に等しかったことは明らかだ。マルクス主義的平等の普遍主義を捨てたポストモダニストは、たんに、抵抗しない差別主義者となっただけである。恥ずべきことに、今日あからさまに反動と化した、差異の日本的多元主義たちが、前近代的な身振りとジェスチャーで、モダニズムである憲法そのものの破壊を試みている。それに対して、子安氏においては、そういう<一的多様体>は結局<一>に帰結するしかないという分析を行っている。この分析を可能にしているのは、中国問題の視野から、官僚資本主義の帝国主義的<一>に対するリアルな批判をもっているからだと考えられる。具体的には、「台湾と中国との距離を共有しながら、東アジアを開かれた多元的世界として構成していこうとして台湾と関わってきた立場」(子安氏)をもったのであった。と同時に、誤解を恐れずに言ってしまえば、一元論的にも、儒学的概念の射程から、「天」における理念としての絶対的平等を訴えてきたことが重要なのだと書いておきたいのである。ここでもちろん、儒学概念である天道の道は人の道のメタファーでしかない。「昭和」において成立したのは、同質的な国民国家と戦争であったのだが、子安氏においては、それを越えるものとして、東アジアの漢字文化圏に成立する絶対的他者のヴィジオンがあるのだ。言い換えれば、思考と精神が究極的に依拠すべき漢字の普遍主義のヴィジオンである。それは、精神が絶えず外部に開かれていくことを可能にする言語的契機としての他者にほかならないだろう。




その他;柳田国男批判 (「近代知のアルケオロジー」)



子安氏的「「いくつもの日本」は、赤坂憲雄による柳田的「ひとつの日本」批判の課題をもつ。即ち、思想における他者としての介入を、破れ傘的空間を中心として、表現した考え方。固有性の内部性を拒む、全体に回収されぬ余剰を散在させる、徳川日本という言い方も、「いくつもの日本」による介入を為す。
子安宣邦氏は柳田国夫を点検した結果、<内><一><固有性>という三重の致命的誤謬を犯していた。;彼は「旅人」ではない>内なる観察者>新しい「お国学」>平民の日常への視線>「国民」を主題とする学>「国語」の将来>方言の視線>一国言語学の成功>民族の内なる心意>「固有信仰」という語り



「鬼神論」

子安氏は鬼神論を中心とした徳川朱子学の議論をデイスクールの地図として再構成した。朱子とは異なる、理から鬼神を導いた山崎派の解釈の線は、儒学の圏外、篤胤に向かう。批判する線は仁斎から。徳川朱子学から来た子安氏の線は、近代日本における文学の独自の意義を措定し更にそれを乗り越えんとするのだ


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