ゴダールの方法 ー 映画と資本主義と全体主義



1、演劇と映画

対象を追うという言葉は、演劇人が依拠する訴因的中心の構成を言い表している。対象とはなにか?それは、与えられた脚本から解釈し再現しなければならぬ、そこに作者が定位しているとみなされる言語的射程をいう。だから、映画人が軽々と、「フレームを通して対象に迫る」と自慢するのをきくとき、演劇人にとっては、肩を竦めるほどの即物性しか含まぬ発話なのだ。興味深いことに、逆に、ここから、映画の、あまりよく知られていないアイデンティティーが垣間見られる。演劇の支配に抗する作家ならば、見ることの神聖化を訴えるという、方法としての見るコギトの存在意義を擁護していくことになるだろう。実際にゴダールがそうだった。それにしても、かれの映像を神聖化してやまない映画世界とは、まさに、16世紀である。つまり、八〇年代以降、「パッション」を契機に、まだ原初のテクスに書かれたエクリチュールの外面性に祝福を与えていた注釈学の16世紀にかれが限りなく遡行していったのは、しかし、単にアナクロニズムの企てとしては片づけられない、なにかがあったはずなのだ。が、残されたわれわれは、この二十年間、さしたる成果を上げることもできず、ただ、異端大審問官の如く、なにが良い映画でなにが悪い映画であるかを説教し続けたゴダールの言葉をまえに、自失茫然としてきただけであった。益々映画は孤独になってしまったが、暗闇の中から、言葉だけが、対象として追うに値するということだけが確かなこととしてあらわれてきた。これが16世的な現象なのである。映像から言葉へ、さらに思考へと移行してきたからこそ、孤独な映画だけが・・・。もはやそれを映画と呼ぶ必要がないのだろう


2、 映画と資本主義と全体主義

スクリーンは、光の亀裂。それは、映画に先行する資本主義という全空間に属す亀裂をなす。この亀裂に向かって、全体主義の影は自らを投射する。そして光である、映画したがって資本主義の方も自らを影に向かって、全体主義に向かって投射するということが常に起きる。朝の始まりにおいて、満たされちた暗闇を、夜の背後から襲う光の一撃のように。だから、このようにして、暗闇の海岸での人々の会話の如く、いったいだれがなにを喋ってきたのか定まらぬという映画史の性質とは、第一に、ファシズムの幾何学的性質に関係するといえるのだーゴダールが見事に映画を利用して可視化してみせたように。これは、ファシズムの影が、いわゆるポピュリズムが、いったいだれがなにを代表するのか分からなくなった議会の内部から必然として現れてくることを許す構造を、光の芸術である映画が模倣しているともいえようか…



3、シュールレアリズム。再び誰が語るのか?

シュールレアリズムとは、まず、なんでもかんでも金が支配する世界とそれに寄生する文化に対する憎悪に根差していた。このことを知らなければならない。だから、シュールレアリズムとは、総体としての表象を、総体としての存在に関係づけていく、解体と結合の運動として存在したのだ。そうして、シュールレアリズムはダダから生まれる必然性があった。ところが資本主義の文化の側から、コギト的主体と解釈が、シュールレアリズムとダダの運動を纂奪してしまった。抵抗としては、注釈学的の映像エクリチュールによる占拠が起きた。ゴダールたちのヌーヴェルバーグ運動はダダの継承であった。が、再び何を言うかが問われていたときに、しかし、映画それ自身が消滅してしまったとは!結局、貨幣の無慈悲な世界しか選択がないのか?否、シュールレアリズムがかくの如き未来を思い出していたはずだ。恐らくは、なんでもかんでも金が支配する現在に介入すべく、再び演劇が来るのだろうー未来と過去から


この記事へのトラックバック