ブレヒト「屠畜場の聖ヨハンナ」の感想文 (東京演劇アンサンブル公演)



ブレヒト「屠畜場の聖ヨハンナ」の感想文 (東京演劇アンサンブル公演)

公の空間とは、未来の世代に大切なことを伝える空間のことである。この公の空間は、人びとが妨げられずに自由に接近できる'道'として思い描かれてきた。そうして、例えば、1939年の'子供の十字軍'では、迷った五十五人の居場所を伝える救いの手紙を一匹の野良犬に託したとき、僅かな希望として、まだ道があった。しかし「屠畜場の聖ヨハンナ」では、ブレヒトにおいて、その道すらなくなる資本主義の未来を想定していたのではないか。絶えざる自己変革によっていかなる危機も克服してきた資本主義。しかし地球の生存を不可能にするほどの環境汚染の問題とは、資本主義そのものの成立を不可能にする問題にほかならず、われわれはこれに直面している。演出の小森明子が召喚したヨハンナ(久我あゆみ)は、労働者たちに託された緊急の手紙を携えて、解決する確証もないまま現われることになったのは、他ならぬ2014年現在のわれわれの前においてである。資本主義的な欲望の回路を止めることがいかに困難かは、30年代の産業資本主義であれ、現在の後期資本主義であれ、われわれは知っている。3・11以降、人類の破滅をもたらし得る危険な原発すら止められないのだ。
ヨハンナは絶望的に凍えて死ぬ最後に他者('労働者')の飢えと寒さの恐怖を知るのであった。久我は、このブレヒトの畏怖すべきリアルなパラドックスを見事に演じたとおもう。さらに興味深いのは、ヨハンナと、かの分身である'麦わら隊救世軍兵士'との関係だ。小森はこれをアイドルのファンとして寓意的に表現した。そうすることによって、浮遊する消費の記号であるアイドルも、欲望の回路に従属しているという点では、産業資本主義における労働者の従属的な立場と変わらないことが知らされる。と同時に、現在の民主主義が単なる観客となってきた現実を告発している。そういう観客の中立的な視点とは、テレビに登場する政治家をみているだけの傍観者的な視点であり、実は、ブレヒトにおいては、ブルジョアの牛肉王(松下重人)においてあらわされていた俯瞰的視点であったといえないだろうか。人々が主体として向き合う、公の空間を喪失している点で違いはないだろう。最後に、特筆すべき事として、東京演劇アンサンブルはこれまで、存在論的な一体性を中心とした演劇活動を展開してきたが、さらにこの「屠畜場の聖ヨハンナ」によって、俳優たちの多様性が生き生きと現実化してきたという印象をもった。新しい感覚を生み出している音楽 (かとうかなこ)と、芸術作品のように現われる衣装 (稲村朋子)が、多様性の方向を助けていることは確かである。


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