柄谷行人の発言 (「現代思想」3月号 2014)



柄谷行人の発言
(現代思想2014年 3月号、討議;柄谷+丸川 <帝国・儒教・東アジア>より抜粋)


1、なぜ帝国か
2、互酬性を超える国家原理
3、二つの中国
4、帝国の原理
5、現代における儒教と帝国


注意; <>は私のMEMOです。


1.なぜ帝国か

(1).私はもともと「世界史の構造」で、帝国について書きました。それはブローデルの見方にもとづくもので。世界=帝国と世界=経済を区別します。彼の考えでは、世界=経済は、世界=帝国の周辺、もっと正確に言えば、亜周辺に成立した。それが、ヨーロッパに世界=帝国が成立しなかったこと、それゆえ、世界=経済、資本主義市場経済が発展したことの理由です。資本主義的発展だけを見ていると、帝国はただ古い社会でしかありません。しかし、世界史の総体は、世界=帝国を見ないと分からないのです。

<そもそも何故、ヘーゲルの「世界史」を自明とするのかの問題>

(2) 帝国の問題として考えたことがもう一つあります。それは第一次大戦のあと、旧帝国が崩壊したとき、帝国の輪郭を保ったのはマルクス主義者が革命を起こしたところだけだ、ということです。たとえば、ソ連や中国は言うまでもないし、それにユーゴスラビアも、ある意味でオーストリア帝国の遺産を継いでいます。なぜマルクス主義者がリードしえたのか。それは、民族よりも階級を重視したからですが、そもそも、彼らが旧帝国のなかで考えたマルクス主義者だったからです。かれらは民族問題をかんがえなければならなかった。マルクス自身は、民族問題について、あるいは、帝国の問題について考えなかった。彼にとって、帝国は政治的上部構造の一形態であり、また東洋の帝国は、たんに東洋的専制国家あるいはアジア的生産様式ということで片づけられる。

<マルクスについていうと、アイルランドにおける民族問題を大英帝国との関連で展開していた>


(3) 一九九〇年頃、ソ連が崩壊するとともに、それらが相継いで崩壊しました。ところが中国だけは存続した。それはなぜなのか。それを考えるようになったのは、数年前ですね。二〇一二年に汪暉が来日して東大駒場で一緒に講演したのですが、そのとき、私は帝国の問題について話しました。またその翌年に、「世界史の構造」の漢訳が出るのを合わせて、清華大学で講演したのですが、その問題がいつも頭にありました。汪暉さんや他の教授らが、私のクラスに毎回聴講にきましたし。しかし、私が中国の帝国に関して考えるようになったのは、中国の問題に関心があったからではない。中国の帝国の問題を考えないと、帝国のことが一般的に理解できないからです。


<石井氏によると、「日本では、中国における新左派は日本の新左翼、欧米のニューレフトと同一視されがちだが、それは基本的な前提が異なる点を無視した議論である。むしろ、新左派は現在の体制を部分的にせよ擁護する補完的な勢力であり、内容的には「新保守主義」と捉えるべきだ」という。「新左派」の代表、汪暉への批判>


(4) 私がもともと帝国に関心をもったのは、そこに、近代国家(ネーション=国家)を超えるものがあると考えたからですね。ハンナ・アーレントはこう言っています。ローマ帝国には帝国の原理があった。近代の国民国家にはそれがない。だから、国民国家が拡大しても帝国にはならず、たんに「帝国主義」になるだけだ、と。私はそれに同意しますが、アーレントの議論がおかしいのは、ローマ帝国しか考えていないことです。帝国はほかにもある。アーレントはローマ帝国だけを別格に扱う西欧中心主義を免れていません。
実際は、ローマ帝国は、ヘレニズム帝国を、そしてヘレニズム帝国はペルシア帝国を受け継ぐものです。さらに、そのメソポタミア帝国も、エジプト、あるいはメソポタミアの代々の国家を襲うかたちで成立した。アッシリアやバビロニアなどメソポタミアの諸国家も、多数の都市国家を統合してできたシュメールを受け継いでいる。その証拠に、その後のメソポタミアの国家はほとんどシュメール語に由来する概念を使っています。シュメール語は、東アジアで言えば、漢語のようなものです。ところが、ここでは、中国においてあるような継続性の意識がない。一方、中国では歴代の記録がある。そして、中国の歴史にもとづいて考えると、メソポタミアの歴史がある程度わかります。
たとえば、いかにしてシュメールは国家となりえたか。武力だけでは、都市国家を統合することはできません。その過程に、一種の諸子百家の時代があったはずだ、と私は推測します。例えば、「目には目を」という言葉がある。これは旧約聖書よりももっと古く、シュメールから来るものです。これは「やられたら、やり返せ」という意味ではまったくない。「目をやられたら、目の分しか報復してはならない」ということです。「やり返す」、あるいは「倍返し」などは、互酬性の原理です。それによって復讐合戦が増幅する状態があった。それがいわば「戦国時代」をつくる。「目には目を」は、そのような互酬性を禁じるものです。が、このようなことを誰かたまたま思いつくわけがない。これは「思想」なのです。このような考えは、中国で言う法家のものですね。

<「やり返す」「倍返し」「復讐合戦が増幅する状態」は、勝手に想定したオリエンタリズムの風景。または、近代の概念である'自然状態'を都合よく投射していないか?(パレート最適に至らない)囚人のジレンマは法(礼)によって解決できるという考え方を示唆しているが、前提に疑問がある。これは消費社会の行き過ぎ(他者の欲望を欲望する)を規制した、柄谷的徂徠の政策論と比較せよ>

<「やり返し」「倍返し」「復讐合戦が増幅する状態」。と、このように柄谷がいう古代社会の風景などは、現代の民族紛争をエモーショナルに描くハリウッド映画もどきの風景である。この'自然状態'を解決する帝国の原理、ヘーゲル的客観的精神は、帝国が自分の為に語ってきたものだ。しかし例えば、英国人とアイルランド人の紛争に先行して、帝国が存在したのだ。この事実によって、三流の映画ですら誰が一番問題をつくったのかを知っている。柄谷は知らないのか。見ないのか、見て見ぬふりをしているのか。見ているが、知りたくないということか。それとも、ただヘーゲル的に世界史のシナリオを読むために、帝国の原理、客観的精神をもった国家に過大に委ねようとしているのだろうか?>


(5) 西アジアでは、シュメールからローマ帝国にいたるまで、別の帝国ですから、それらを前代のこととして記録したり検討したりすることはしなかった。しかし、中国では、別々の帝国を、一つの帝国のなかでの別々の王朝として見ます。王朝が変わっていくなかで、新しい王朝が前のそれを受け継ぐ正当性を問う。それが歴史です。また専門的にそれに従事する史官がいた。だから、中国の歴史を参照すると、他の地域での帝国の連続性が見えてきます、その一方、中国の歴史を参照することは、中国を見るにあたって障害になります。というのは、それは本来、異質な外的なものがたえずはいってくることでできたものを、中華史的な同一性に還元してしまうことになりがちだからです。中国の帝国と言っても、その担い手から見ても、バビロニア帝国とローマ帝国ほどに違いがあるのに、それは見ない。あるいは、偶然的な要素として無視することになる。
とりあえず、中国の春秋戦国時代に関して述べておきたいのは、この時期にあった「思想」が重要だということです。マルクス主義では、思想は経済的下部構造、すなわち生産様式によって規定される観念領域(上部構造) ということになります。しかし、私は経済的下部構造を、交換様式から考える。すると、国家や思想というものが、たんなる観念的上部構造ではなく、下部構造と密接に繋がっていることがわかります。たとえば、互酬性(交換様式A)が支配的な状態では、絶えず抗争が増幅される。たんなる武力では、それを超える国家秩序をつくりだすことはできない。交換様式Aを超える必要があるのです。そのために、たとえば「目には目を」というような思想が必要となります。それが法家です。だから、春秋戦国時代は、思想家の時代です。これがなければ、秦漢帝国はない。今日は、儒家の話をしますけど、儒家は実際は、諸子百家の思想を包摂したものですね。そして、それは帝国を可能にしたとともに、むしろ帝国によって形成されたと言えます。

<「私は経済的下部構造を、交換様式から考える」、と柄谷はいう。わかならくなるのは次のようにいうときである。うなわち、「すると、国家や思想というものが、たんなる観念的上部構造ではなく、下部構造と密接に繋がっていることがわかる」。これはデリダが起源の起源による隠ぺいととよぶ考え。結局、他者=交通がなくなっているのである。他者との関係について内部的に説明しているだけ。(自己意識)。この説明を承認するとは限らない他者の存在を無視している>



2、互酬性を超える国家原理


(1) 都市国家ということで考えるならば、一番目につくのはギリシャ、あるいはルネッサンス期のイタリアです。しかしこれらはその後に帝国にならなかった。実際、それらは、帝国にならないようなものであったからこそ、その面白さがあるのです。ところが、それらが目立つために、どんな帝国でも、その前段階に都市国家が競合するような時期、諸子百家が輩出した時期があったことが忘れられる。しかし、中国はその例外です。資料が残されたからです。春秋戦国時代の諸思想は多種多様ですが、その根底にあるのは老子だと思います。丸川さんが言うように、老子と孔子は違うし、儒家と法家は両極端なものとして存在してきました。書物としての「老子道教経」は孔子よりずいぶん後の時代、孟子のころに出たものですが、そうした史実とは別に、私は老子的な思想が先行したと考えます。司馬遷も、老子という人物は三人いると言ってます。本当はもっと多いでしょうね。仮にそれを老子1、老子2、老子3と呼ぶとうれば、老子1は孔子が教えをこうたような人物です。つまり、老子1とは諸子百家の全員にとって存在した存在、というより態度です。現にある社会制度を自明とはせず、それを根底から問い直す態度のようなものです。それは人を暴力によってではなく、説得によって動かすという態度です。その意味で思想が不可欠です。老子が言う無為は、武力と呪力による作為的強制をしないということです。すると、思想のあり方自体が無為ということになります。この態度は、すべての思想家が共有していたのです。その意味で、老子1が先行するといってよい。法家も例外ではありません。法家の思想は法によって統治しようというjことであり、暴力による支配をしないということです。互酬性の混乱を避け、安定したかたちで統治しようとするならば、法の支配でなければならない。

<????罰する支配はそれほど安定的なのか?>

そのなかでもっとも重要なのは、権力者が法にしたがうことです。むしろ、そこから始める。たとえば、秦の宰相となった商()は、王の兄を、法を破ったことで鼻を削ぐ刑に処した。そうすれば、他の人も法に従うようになるからです。これが「無為」です。

<なぜ?>

もちろん法を貫くためには武力を使いますから、作為も一部では存在しますが、非常に少ない武力で足りる。基本的には法だけがあればよいとうのが法家であり、それは無為自然だというわけです。諸子百家はさまざまですが、根底には、そのような無為があります。

<?????>

この諸子百家の争いは、ひとまずは法家の勝利で終わりました。そして、法家を中心に秦という帝国ができたのですが、これは二十年ぐらいしか続きませんでした。法による統治は不安定なものだったからです。そこで、漢の時代の初期には、老荘思想が導入された。つまり、レッセ・フェールの政策がとられた。レッセーフェールというのは重農主義経済学者のケネーの言葉ですが、彼はそれを無為のフランス語から取った。だから、無為=レッセー・フェールというのは冗談でも何でもない。その意味で、老荘思想が、今の真自由主義にも繋がっているともいえます。実際、毛沢東が自身がいうように秦の始皇帝のようなものであるとすれば、鄧小平が漢初期の董太后に対応するといえます。ちなみに、私は東大の駒場の講演では、この次は、武帝のようになるだろうと話しました。
老子は本当は統治あるいは権力の思想ではありませんでしたから、このような無為の思想は、老荘思想とはかなり違っています。しかし、同じことは、儒教についても言えます。孔子は、根本的には、非国家的な思想家です。だから、秦時代で儒教が弾圧されたのは当然です。しかし、漢の武帝の時代になって、儒教が取り入れられた。これは、董仲()を中心としたもので、新しい儒教です。すでに戦国時代に、孟子の思想は孔子とは違っていたし、さらに、荀子はもっと違っていました。むしろ法家に近かった。実際、秦の理論家であった韓非子は、荀子の弟子でした。要するに、法家であれ、道家であれ、儒家であれ、一派だけでは帝国を形成する原理にはなれませんでした。儒教といっても、諸子百家をすべてふくんだものとなっていた。逆に言えば、帝国の思想となることで、それぞれが皆変容した、といえます。だから、秦漢帝国という歴史的な契機をとって、それぞれの思想史を別々に考えるのは不毛です。


<それは変容はあたりまえ。統一に関しては、近代日本の法体制ー英米法と大陸法のごたまぜから類推していないか?>


(2) 漢の時代の儒教は国家思想に変質していたと思います。その変化のきっかけは孟子のあとに出てきた荀子にあると思う。彼は性悪説を唱え、そこから'礼」を重視するようになった。荀子と法家の思想は非常に近いものがあります。そのために、荀子以降の儒教が帝国の思想になり得た、と思うのです。しかsじ、儒教がすべて国家的になったかというと、そうではない。私は儒教は本来非国家的な思想だと言いましたが、今でもそうですね。中国人が華僑のように世界中に散らばっても平気なのは、儒教があるからです。キリスト教徒になっても、根底に儒教がある。したがって、儒教のそういう面は今も続いています。また孟子的な儒教は、今もユートピア主義の原動力として残っていると思います。同じことが老荘について言えます。漢の時代の老荘思想は、戦国時代のそれとは違って、一種の国家思想となっていた。しかしそれによって消えたわけではなくて、復活した。後漢の後期、黄巾の乱のころです。それ以降、道教が、老子を教祖とすることで、国家思想としての儒教に対抗する思想としてせいりつしたわけです。


<中国人が世界中に散らばってもなぜ中国人なのか?という謎。しかし柄谷のように、決めつけるのは問題がないか?「中国人が華僑のように世界中に散らばっても平気なのは、儒教があるからです」>


(3) そうですね。董仲()の儒教は、官僚養成制度と切り離せないですね



3、二つの中国

(丸川 ; ではこの辺りから、帝国の形成という領域へと話を進めたいと思います。)


(1) 中国における帝国は、秦漢から始まったわけです。それは世界史的な意味があります。私はペルシャ帝国を、厳密な意味で、最初の帝国だと考えているのですが、それはペルシャがエジプトとメソポタミアの文明を統合したからです。エジプトはナイル川、メソポタミアはチグリス・ユーフラテス川という河川を基礎としています。 エジプトの王朝はすでに2000年の歴史をもっていた。それを包摂しなければ、ペルシャ帝国はありえない。アレクサンダー大王もエジプトを征服し、自ら、ファラオと称しています。この二つの文明を繋ぐことによって、初めて帝国だと言える。
それは中国でいえば、黄河と長江ということになります。この二つの川はまったく文明が異なる。農業という面で言えば、畑作と稲作に分かれていますからね。この二つの文明を繋いだのが秦漢帝国であった。今まで、古代の四大文明は、四大河川の河口に始まったといわれてきましたが、本当は、五つですね。そのうちの二つを統合したのがペルシア帝国で、後の二つを統合したのが秦漢帝国です。これは大変なものであったと思います。


(2)漢は帝国をつくりましたが、その外部にいた匈奴に対して手を出すことができなかった。丸川さんの言い方で言えば、「北世界」は漢の時代でも中国の外部にあった、ということです。漢が滅んだあとの三国時代、五胡十六国時代には、外にいた民族が中国のなかに入ってきます。そのなかで、鮮卑と呼ばれた遊牧民族が興した国が北魏です。
先ほどから強調しているように、漢の時代の儒教は荀子に近いものです。逆に孟子は重視されなかった。孟子は、農民の土地を均等に分けるために井田法(正方形の土地を九等分し中央に公田という共有区画をつくる方法) を考案しますが、それを採用し実行したのは漢ではなく、遊牧民国家だった。言うまでもないことですが、隋や唐という王朝も、北魏と同じ拓跋氏の家系に属します。唐の時代になって、本当の帝国が成立したと思います。しかし、唐の律令制が、朝鮮・日本・ベトナムのような周辺国家に行きわたったのは、たんに中央の制度だったからではなく、もともと周辺国で始まったものだからです。唐が秦漢と異質な帝国だというのは、この意味においてです。むしろ、唐に比べれば、秦漢は帝国といえないぐらいです。
唐の時代に発展したのは、仏教や道教であって儒教ではありませんでした。儒教の発展と呼べるものはまったくなかった。なぜならば、多民族国家としての帝国の規模がそれまでとはまったく違ったからです。唐を帝国とした李世民(一説には目が青かったといわれますが) は、中華を統治する皇帝であると同時に、遊牧民社会におけるハーンでもありました。ハーンは王ではなく、部族間の選挙で選ばれる代表者です。ですから元のフビライと同様に、李世民の唐王朝は、国家原理と遊牧民の原理を統合するものであったと言えます。
この唐王朝がもっていた二重性の一つが、宋や明の時代には捨てられ、その代わりに漢文化の回復が図られた。だから、宋の時代に儒教のルネッサンスがあったわけです。朱子に代表される宋学は、唐代に普及した仏教(禅)を超克することを目標としていました。朱子の理気二元論は、仏教における唯識を受け継いでいる。さらに、ヨガ的な要素も含んでいる。森羅万象のすべてを説明しようとするのみならず、身体的修養までやったわけです。そこまでしなければ、唐を超えて儒教を回復することができなかった、ということです。
そのようにして儒教の全体系をつくった朱子は、ヨーロッパで言えば、アリストテレスを導入して神学大系をつくったトマス・アクィナスのようなものです。それは確かに偉業ではありましたが、唐がもっていた帝国のもう一つの可能性は、宋ではなく、契丹へ、さらに、モンゴルへと受け継がれたと思います。それは単なる遊牧民ではなく、遊牧民が農耕民と共にやっていくという形態です。そして、この形態が中国本土に回帰したものが、元だったのです。ですから、元はよく言われるように、外部からの征服者ではなく、里帰りをしたようなものです。元が唐の可能性を完成した、と言えます。内藤湖南は、宋がつくった近世を元が破壊したと考えました。しかしそれは日本的な視点ですね。

<里帰り???陳腐な民族抗争の物語>


4、帝国の原理

(1) 元をどのように考えるかという問題だと思います。朱子学というのは、明で栄えたのであって、朱子(南宋)ではまったく認められておらず、朱子は命も危なかったようです。朱子学が栄えるようになったのは、科挙のテキストに用いられたからですが、それは元の時代なのです。元王朝は科挙に興味をもっていなかったのですが、官僚を養成する必要に迫られて、一時は廃止していた科挙を復活させ、朱子学をテクストに用いた。だから、朱子学を宋学と呼称するのはおかしい。宋代では迫害されたのだから、それに対して、元は帝国だから、思想的に寛容なのです。その意味で、宋や明の時代の中国は、帝国ではありませんでした。

(2) しかし排他的でした。その点で、国民国家に似ている。攘夷という言葉は朱子から来ています。幕末の日本ではそれを唱えたのですが、自らが夷であるにもかかわらず、攘夷を叫んだわけです(笑)

<敵の言説が、自らのナショナル・アインデンティティーとなる例。日本は自らを「中国」とすら呼んでいた>


(3) そうです。とにかく、絶えず北方からの脅威を感じていた宋は、とても遊牧民を取り込むような帝国の思想をもち得なかった。また、元のあとの明も同じように閉鎖的な国家でした。それに対して、攘夷を唱えた朱子を受け入れたのが、夷と見なされていた元なのです。したがって、近世というのは元から始まると考えたほうがいい。
このことは中国だけではなく、世界史にかかわるものです。なぜなら、元はヨーロッパまで繋がったモンゴル帝国の一部であったからです。中国に起こったのは、世界的な同時代性のなかの一つの現象であって、中国のなかだけを見ていたのではわからない。元という帝国は、陸の帝国であるだけでなく、海の帝国でもあった。歴史上、唯一の例外です。
モンゴル帝国はイスラムにも影響を与えています。イスラム教には帝国の原理がなかったのですが、モンゴル帝国に占領され、そこで宗教改革が起きた。そして各地のモンゴル帝国の支配者がそのイスラム教に改宗したことで、イスラム国家は拡大していったのです。ヨーロッパの十字軍からは何のショックを受けなかったのに、モンゴルに一発で占領されたことは大変な衝撃で、それがイスラム教を変えた。その一つは、スーフィズム(神秘主義)の出現ですね。各人と神が直結するので、祭司=国家は要らない。これは当然、社会思想に転化します。そうした変化は、他の宗教を信じていた人間にもイスラムへの改宗を容易にさせた。インドを占領したムガール帝国がまったく強制しなかったにもかかわらず、イスラム教が人々の間に広まったことはその一例です。
ここで重要なのは、帝国の領域であって、イスラム教ではありません。イスラム教が優れていたから各地に広がったのではなく、帝国が存在していたから、そのなかでイスラム教も拡大できたのです。この順序を間違えないことです。オスマン帝国が素晴らしいのは、そのなかでイスラム教だけでなく、キリスト教やユダヤ教も迫害を受けることがなかった点です。これはイスラム教が寛大であったからではなく、オスマン帝国が帝国の原理に即して統治をしたからです。中国の場合も同様です。儒教あるいは道教や仏教によって国家が維持されているわけではない。それらは帝国の下でこそ存続しえたし、また、そのなかで変貌した。だから、帝国の原理がむしろ重要なのです。多民族をどのように統治してきたかという経緯がもっとも重要であり、それなしに宗教や思想を考えることはできない。

<帝国の商人たちによる奴隷売買という倫理的問題は?>


(4) マルクス主義の話がありましたが、マルクスやエンゲルスは、本当の意味で民族問題を考えたことがなかった。西ヨーロッパにいたからです。

<マルクスが取り組んだアイルランド問題は?帝国主義者の英国人は西ヨーロッパからアイルランドをかき消したが、帝国の原理も同じように、そうしているのはなぜか?>

マルクス主義のなかでその問題にぶつかったのは、オーストリア帝国、そしてロシア帝国のマルクス主義者です。中国の場合、もっと古い帝国の伝統があります。
たとえば、毛沢東は農民・農村革命を主張した。しかし、どこでもマルクス主義者は、農民を革命の主体と見なすことはなかったのです。中国でも、陳独秀はプロレタリアート中心を唱えた。だから、毛は一貫して共産党指導部から排除されました。毛沢東が農民による革命を考えたのは、たんに現実に貧農が圧倒的多数の存在だったからではありません。その点なら、ロシアでも同じです。毛沢東が考えたのは、中国の社会的政治的構造と歴史に通じていたからだと思います。王朝の交代期には、必ず農民・流民の反乱があった。それらに支持され、また、土地改革(均田制)を掲げることによって、新たな皇帝が出てきた。毛沢東の政権も同様です.孫文や陳独秀らが西洋モデルで考えていたのに対して、毛沢東は帝国の経験に立脚したと言えます。
それだけでなく、帝国は、諸国家がいかに連合していくかという問題に対して、歴史的な教訓を与えるものです。ホッブス以来の近代国家論を超える道は、帝国から出発して国家間の関係を考えた思想にあると思います。
西洋でも、それはライプニッツやカントにあります。イギリス、オランダ、フランスといった西ヨーロッパからは、近代国家を超える発想は生まれてこなかった。つまり、西ヨーロッパ・モデルで考えているとわからない問題なのです。だから帝国の経験は、マルクス主義であろうとなかろうと、けっして見逃すことができないものです。

<西ヨーロッパは現在の中国を、帝国主義とみなす見解とそうでないとする見解がある>

中国でそのような思想をもっていたのは、清朝末期の康有為でしょうね。中国で、私の「世界史の構造」を読んだ人から、康有為の「大同世界」と似ていると言われました。実は、それで急に興味を持ったのです。(笑)。康有為は将来的に国家や民族が消滅するという理念をもっていた。孔子から引き出した理念ですね。これはカント的な意味で「統整的理念」であり、現実には、漸進主義的であった。まず清朝を立憲君主制にして、そののちに君主を排していくという道筋を描いたわけですね。そこから、漸進的に大同世界へ向かう、という。これは清朝という帝国を生かそうという考えだったと思います。

(5) 近年の中国で、清朝末期の思想家に対する注目の大きさには、私も驚かされました。たくさんの思想家がいましたが、そのなかでも康有為と章()とは対照的で興味深いですね。儒学においても近文と古文という違いがありますし、中国思想史全体をアレンジしながら対立していたと思います。それがまた、一つの儒教史をかたちづくっている。




5、現代における儒教と帝国

(1) 中国人は、客家がそうですが、世界中に散らばりながらも、中国人として繋がっている。ある意味ではユダヤ人と似ていますね。それは儒教による宗教の概念があるからだと思うのです。国家に対して、別の形のネットワークをつくろうという動きは、中国の場合は古代から存在しますね。その担い手は儒教や道教です。世界中に散らばっても、先祖は同じだということで、繋がっていく。この点は、現代中国の社会的特徴としても無視できないと思うのです。
(2) (丸川; 改革開放の時代にも、華僑のネットワークを通じて多大な資本が入りましたね。) それがなければ近年の経済発展はありません。この華僑のネットワークが、儒教があったためできあがったのか、あるいは宗族があるために儒教が存続するのかはわかりません。その両方が相まっているのでしょうし、あるいは道教の影響も入っているでしょう。とにかく、国家空間を超えて人が繋がっていくようになっているわけです。そのネットワークは、国民国家の概念では理解できないものです。
(2)モンゴル帝国が短期間にグローバルに拡大したのは、それが地域に平和をもたらし、またそのことを全員が支持したからです。帝国の範囲のなかで交易が自由にできるようになったことが歓迎された。それ以外の目的をもって自国の勢力を広げようとすれば、帝国主義にしかなりません。現在、帝国を言うとすれば、それは徹底的に平和主義的なものになります。カントが言う諸国家連邦も、実際は、帝国の原理にもとづいています。それを遡ると、ライプニッツになるでしょう。彼はカソリックとプロテスタントを統合しようとした。これはヨーロッパに「帝国」を実現することです。彼のモナドロジーも、政治的には、帝国論です。
実は、モナドロジーを政治的に解釈した哲学者が一人います。西田幾多郎です。彼は大東亜共栄圏をモナドロジーで解釈しようとした。アジアの諸国は、それぞれがモナドであって、自律的である。それらのモナドを統治するような上位の権力はない、ただ、それらは絶対無を通して繋がっている、というのです。しかし西田は、その絶対無の場所に、天皇をもって来たので、結局は日本の帝国主義支配を美化するイデオロギーにしかならなかった。とはいえ、ライプニッツの考えを政治的に読むことは、重要だと思います。興味深いことに、ライプニッツはその発想を中国から得ているのです。その一つが、華厳経からくるものですね。小さな世界に、三千世界が映っている、という発想。それがモナドロジーです。華厳経はインドの大乗仏教ですが、唐帝国の時代に広まったのは、偶然ではないと思います。つまり、それは帝国の思想だったのです。それぞれの国は独立しているが、同時に、すべてが繋がってあるというあり方を示している。中国のなかにそうした思想の根がもともと存在していた、ということですね。ですから現在の中国も、民族国家主義=帝国主義に向かうことなく、中国に本来あった帝国の概念に戻るべきなのです。

(丸川;最後に最も重要なお話をいただきました。まさにそのとおりで、帝国主義ではなく、帝国の原理を活用することだと思います)



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