感想文ー東京演劇アンサンブル憲法集会『憲法を語ろう』 (5月17日)

第六回憲法集会は、「物語」「弁舌」「歌」から成り立っていた。つまり、寸劇仕立て『くらべてみよう 自民改憲案』、海自いじめ裁判の弁護団長岡田尚弁護士の講演、林光の憲法前文ソング、という三部構成だ。「物語」をなす寸劇は驚きだった。俳優達が書いた寸劇によって、安倍の憲法改正案の現行憲法との差異が非常に明確になってくるのであった。本当に不思議だ、この寸劇とは一体何者なのか。 新劇の訛り?新劇の裏道の忍びやかな唄声? と、なにであれ、演劇が依る人間探求の特色をゲリラ的に満たしているのが愉快だ。つまりその探求の結果が単に抽象的、概念的に羅列することではなくして、必ずそれを一つの可及的に生きた具体的な像に再構成して見せることだ。そうして、寸劇『くらべてみよう 自民改憲案』は、憲法という政治思想史の<旅>を見事に構成してみせた。われわれの前に、小さな声でされど大きな真実を語ったのではないだろうか。大切なことは、われわれの演劇が、対話の憲法的本質を破壊する安倍体制のようには、同じ一つの声で語ってくる対話ではなかったということである。


美しい日本の私から、美しい日本の恐怖と貧困へ

劇団員による「くらべてみよう、自民党草案と日本国憲法」の舞台は、左側にある現行憲法の領域と右側にある自民党草案の領域に分かれている。「象徴天皇」(現行憲法)が左側の領域から右側の領域へ移ったとき、「元首」(自民党草案)として称えられる混乱と当惑を演じたのは、熊谷氏であった。竹口氏と大多和氏は、最初から最後まで右側の領域に立ち、自民党政治家と草案解説者を演じた。俳優が演じたくないものを演じなければならぬときにかえって真実の開闢が生じることもあるのか?政治家と解説者が終始みせる苛立ちの正体とは何か?安倍自民党の憲法改正派は、現在の憲法を無意味に思っているだけでなく、実は自分達が書いた改正憲法も無意味だとみなしているようにみえる。ファシストにとっては、理性そのものが無意味だから、左であれ右であれどんな憲法の言葉も無意味なのだ。ここでハーレントが見抜いたように、思考そのものが無意味というファシズムの権威主義のもとでこそ、'思考が出来なくなると平凡な人間が残虐行為に走る'ことになったのだ。最後に、憲法の旅の乗客(これは舞台を眺めている観客の姿でもある)はファシズムといかなる関係を取りもつか?三瓶氏がこれを滑稽にカフカ的に表現した。緊急事態が一方的に告げられる。次々に命令が下されるなかで自分のお札すら燃すことに同意する男の孤立は、背を向けた他の乗客たちの姿によって一層強調されていた。背を向けた乗客の誰もが美しい日本の私をみているつもりになっているかもしれない。だが、外部から見ると、美しい日本の恐怖と貧困に従属した人々の惨め姿しか目撃されないのである。


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