テーマ:子安宣邦

書評;子安宣邦著、『「大正」を読み直す』(藤原書店)

子安宣邦著、『「大正」を読み直す』(藤原書店) 本多敬 1 なぜいま『「大正」を読み直す』ことが意味を持つのか。この問いは、「大正デモクラシー」とは何であったのかという問いと一体をなすと考えられる。子安宣邦氏は藤原書店発行の月刊誌「機」で次のように語っている。 私が大正に眼を向けだしたの…
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子安宣邦著「帝国か民主か -中国と東アジア問題」を読む

レジスタント運動のサルトルのジレンマは、かりにファシズムをやっつけてもそのかわりに資本主義が勝利したらいったい意味があるのだろうかというものでした。このサルトルのジレンマとは逆に、反グローバル資本主義の意思表示であった、2009年ロンドンでのG20開催とサッチャーリズムの労働党に反対した中央銀行前広場の占拠のときは、この占拠によって、労…
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子安宣邦「仁斎学講義」を読む、朱子学ロゴス中心主義を脱構築的解体すること

1、東アジアの「論語塾」、朱子学ロゴス中心主義を脱構築的解体すること 伊藤仁斎が十年近い瞑想中心の知のあり方に限界を知ったのは三十歳半ばであったという一文を読むとき、彼が自分の書斎から縁側を横切って庭へ出ようと一歩を踏み出したときの様子を想像するのだが、古義堂の書斎から、17世紀の東アジアの知識革命が起きたときの様子である。さて、…
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亡命するエクリチュール - l'ecriture self-impos 論語塾からの報告 (準備中)

認識学では<一>と<多>の代替可能性について問うのに対して、倫理学はいかに行動するかを問う道徳行為者にとっての<一>か<多>が問題となる。だから近代・現代世界においてはそれは<一>のスターリニズム・毛沢東主義か、<多>の西欧民主主義か、そうでなければ、子安氏…
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大正という他者 (準備中)

大正論 フーコ・言語の拡散と人間の登場、言語の集中と人間の拡散? 人間の拡散のなかで「人」の問い、ー>幸徳。大杉、小田 言語の拡散と集中 ー>萩原朔太郎のアバンギャルド(言語の集中)から反時代的な漢詩の復活へ。 唯物史観が自己のために読む「資本論」、貧困問題の不在 (ダイアグラム的にフーコ的に分析する…
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書評; 子安宣邦「中国論」を読んで ー 人類史的に開かれた二十一世紀の精神をかんがえるために

書評; 子安宣邦「中国論」を読んで ー人類史的に開かれた二十一世紀精神をかんがえるために 本多敬 書評; 子安宣邦「中国論」を読んで ー 人類史的に開かれた二十一世紀の精神をかんがえるために 本多敬 1 だれもが他者の重要性をいう。誰もが他者との関係の重要性を知っているというのである。が、実際には、自分…
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グローバル資本主義、国家、帝国、グローバルデモクラシー ー 渡辺一民、柄谷行人、子安宣邦

1,「フランスの誘惑」の渡辺一民は、嘗て航路でニか月かかったが、飛行機などの交通手段・テクノロジーの発達で到達時間が数時間までに短縮されると皮肉にもかえって、'フランス'は消滅してしまったという。これは、国家を国家の内部から内部に即して捉える視点を相対化しようとするポスト構造主義的国家論であったとおもう。 2,国家をどう語るかとい…
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方法としての「歎異抄」- 子安宣邦「歎異抄の近代」」(白澤社) の感想文

方法としての「歎異抄」- 子安宣邦「歎異抄の近代」の感想文 (本多敬) 1、方法としての「歎異抄」 世界資本主義の誕生は12世紀に遡る。富の蓄積は教会に。逆に貧困の進めが貴族に大流行した。聖書の字面から貧困を学んだフランシスコは、平等を説くマルキシズムよりも遥かにラジカルだった。同時代の親鸞は、往生還相へ行く。教行…
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方法としての絶対他力、方法としての「歎異抄」

講座「歎異抄の近代」について 方法としての「歎異抄」 ,世界資本主義の誕生は12世紀に遡る。富の蓄積は教会に。逆に貧困の進めが貴族に大流行した。聖書の字面から貧困を学んだフランシスコは、平等を説くマルキシズムよりも遥かにラジカルだった。同時代の親鸞は、往生還相へ行く。教行信証の学問僧の教えは、ウィットゲンシュタインにおけるラ…
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愚者も亡命する国家 (1)

運動としての、原初のテクスト 最初に、誰も言わなかった少し変わったことを「論語」について言いますと、この原初のテクストは運動です。無限の速さと遅さをもっています。象徴的にいうと、そのコンパクトによく統御された言葉は常に、彗星の如くあまりに速く過ぎ去ってしまうので後に何が通過したのか分かりません。またこれとは反対に、この…
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子安宣邦著「鬼神論」の感想文

茅ヶ崎での投票のついでに両親の家に立ち寄り、子安氏の「鬼神論」(福武書店、1992)を二十年ぶりに読み返してみた。鬼神は、キシン、きじん、、おにがみとも読む。昔はお手上げだったが、今回jは、子安氏の、近代日本における文学の独自の意義を措定し、ここにとどまらずして、更にそれを乗り越えんとした意欲をなんとか理解することができた。…
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(2)、(編集中)思想における他者の介入 -言葉を中心としてー

三、子安宣邦著"「アジア」はどう語られてきたかー近代日本のオリエンタリズム"(藤原書店、1993)の感想文 「アジア」はどう語られてきたかは、アジアに包摂されるわれわれはどう語られてきたかという問いを含んでいる。だから、子安氏はこう語り出すのである。私の宣長への関心は、「われわれ日本人」とか「われわれの日本語」といった日…
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(1)、(編集中) 思想における他者の介入 -言葉を中心としてー

1、(工事中) 思想における他者の介入 -言葉を中心としてー 1、子安宣邦「思想史家が読む論語ー「学び」の復権」の感想文 - 「論語」と戦後憲法(前文)と 丸山真男の江戸思想のシナリオ(「日本政治思想史研究」)は、ポストコロニアリズ的語彙によって、翻訳できないことはない。主観哲学に定位する仁斎を批判した、徂…
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(3)、(編集中)思想における他者の介入 -言葉を中心としてー

六、「国家と祭祀」 祀る国家、戦う国家の絶望とはなにか?滅びゆくものから、言葉・音・石・色から、不朽のものを創り出そうとする、その絶望的な試み。形をまとった空間が、時代を超越していくために。ニ十年ごとに繰り返す「再帰する始源の呪縛」がその形態のひとつに過ぎない。 さて明治を総括すると、祀る国家、戦う国家であった。靖…
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子安宣邦氏;「日本思想史」の成立とイスラム世界ー和辻哲郎と大川周明ー(「日本近代思想批判」)の感想文

子安宣邦氏;「日本思想史」の成立とイスラム世界ー和辻哲郎と大川周明ー<「日本近代思想批判、ー国知の成立」(岩波現代文庫、2003年)より>の感想文 帝国主義と旅行者の視線、この両者はオリエンタリズム形成の条件だった。例えば、19世紀末帝国アカデミの画家は旅した仏領の風景を描いたのであった。30年代に西欧の視線の客体から主体…
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1、(工事中) 思想における他者の介入 -言葉を中心としてー

1、子安宣邦「思想史家が読む論語ー「学び」の復権」の感想文 - 「論語」と戦後憲法(前文)と 丸山真男の江戸思想のシナリオ(「日本政治思想史研究」)は、ポストコロニアリズ的語彙によって、翻訳できないことはない。主観哲学に定位する仁斎を批判した、徂徠の「公」という男性原理の領域の成立は、被治者が属す感性的領域から超越…
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子安宣邦「思想史家が読む論語ー「学び」の復権」の感想文 - 「論語」と戦後憲法と

子安宣邦「思想史家が読む論語ー「学び」の復権」の感想文 - 「論語」と戦後憲法(前文)と 丸山真男の江戸思想のシナリオ(「日本政治思想史研究」)は、ポストコロニアリズ的語彙によって、翻訳できないことはない。主観哲学に定位する仁斎を批判した、徂徠の「公」という男性原理の領域の成立は、被治者が属す感性的領域から超越的な「天…
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子安宣邦「漢字論ー不可避の他者」(岩波書店)の感想文 ー思考と精神が究極的に依拠すべき漢字の普遍主義

子安宣邦「漢字論ー不可避の他者」(岩波書店)の感想文 ー思考と精神が究極的に依拠すべき漢字の普遍主義 1 2003年は、天安門広場前占拠から約四分の一世紀後であるこの年は、アメリカ軍によるイラクの首都バクダードへの空爆が始まった年である。2003年以降、外交政策の占拠とチョムスキーが形容した、世界的な規模の反戦運動、ネ…
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子安宣邦の論語塾 第一回4月27日 仁斎とは誰か。古義学とは何か。なぜ「論語」注釈は思想革命なのか

http://www.youtube.com/watch?v=1pi2ITzcH8g&feature=share&list=UUSGOwhlK_1LXUQ7qG5GiI4w 子安宣邦氏が配布したレジュメより ポイント1;「論語」の再発見。伊藤仁斎は「論語」にみる孔子の教えとは人の日常卑近­な道の教えであることを…
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子安宣邦著「日本人はどう中国を語ってきたか」(2012、青土社)の感想文

子安宣邦著「日本人はどう中国を語ってきたか」(2012、青土社) 天安門広場事件から簒奪された「事件性」を取りもどすこと、今日神話的に内側に絡み取られてしまった言説から、批評にもとづくリアルな歴史を取り戻すために、子安宣邦氏は、本書「日本人はどう中国を論じたか」を書いたのではないだろうか。「日本人はどう中国を論じてきたか」という問…
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子安宣邦著"「江戸思想史講義」(岩波書店)の感想文ー

子安宣邦著"「江戸思想史講義」(岩波書店、1998)の感想文 ー「方法としてのアジア」、「方法としての江戸」、「方法としての知識人」 子安宣邦氏は最近のツイートで、山口昌男が「《重い》級友であった」ことを綴った。「彼と私とは知の関係史を作っている。私をマルクス主義に、そしてポスト構造主義に位置づけていったのは彼の存在であ…
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子安宣邦著「日本ナショナリズムの解読」の感想文 ー福沢諭吉、ジョイス、清沢満之

子安宣邦著「日本ナショナリズムの解読」の感想文 ー福沢諭吉、ジョイス、清沢満之 アリストテレスは道徳人を、自己中心的な人間ではなく、良き人生そのものとして友情を楽しむ人、と説き、いわゆる知識人の瞑想生活に大きな意義を与えているが、アリストテレスの理解には道徳が本質的に互酬的な関係である、という認識が欠けている。アリストテレ…
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子安宣邦著「昭和とは何であったか」(2008年;藤原書店)の感想文

「昭和」とは、戦争する国家が非軍人の人々を巻き込み生活の隅々を監視した時代の名前だ。イラク戦争勃発五年後、「昭和」を問う子安氏が何故三木清から書き始めたのか?敗戦後彼を獄死させた「昭和」は終わっていないからだ。現在国家は再び勝手に領土問題を起こしている。昭和はどう終わらせるのか?,このことを「昭和とは何であったか」を読みながら考…
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 子安宣邦著"「アジア」はどう語られてきたかー近代日本のオリエンタリズム"(1993)の感想文

 子安宣邦著"「アジア」はどう語られてきたかー近代日本のオリエンタリズム"(藤原書店、1993)の感想文 「アジア」はどう語られてきたかは、アジアに包摂されるわれわれはどう語られてきたかという問いを含んでいる。だから、子安氏はこう語り出すのである。私の宣長への関心は、「われわれ日本人」とか「われわれの日本語」といった日本の…
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子安宣邦著 " 「近代の超克」とは何か"(青土社)の感想文

子安宣邦著 "「近代の超克」とは何か"(青土社)の感想文。 「近代の超克」とは何か?活動し語る人びとの思考と存在のXであった。「近代の超克」は何を超克するというのかのか?それは文化と存在者を超えるということだったら、開かれた世界史的ホームレス性へ行く。しかし実際に行ったのは、「世界史的日本」という国家の牢獄だった。…
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子安宣邦著 "和辻倫理学を読むーもう一つの「近代の超克」"の感想文

子安宣邦氏「和辻倫理学を読む」は、言語の拡散と集中というフーコと共有する問題意識から、和辻解釈学を暴き出す。翻訳の新漢語でしかないのに和辻が解釈してみせる<倫理>の語は、十分に拡散していた言葉などではなかった。歴史の古層という装いで彼の倫理学の解釈は倫理学のナショナリズムの一点に集中していく。ただし、和辻の方法としての<倫理学>…
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子安宣邦著「国家と祭祀」の感想文

祀る国家、戦う国家の絶望とはなにか?滅びゆくものから、言葉・音・石・色から、不朽のものを創り出そうとする、その絶望的な試み。形をまとった空間が、時代を超越していくために。ニ十年ごとに繰り返す「再帰する始源の呪縛」がその形態のひとつに過ぎない。 さて明治を総括すると、祀る国家、戦う国家であった。靖国神社は近代において発明された…
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6・22は転換点、即ち、市民的介入が始まる最初の日です。 思想史の小安宣邦氏共に歩いたデモの現場です

<小さな人間>の力が <大きな人間>の過ちを正す。 それがデモクラシー。 <われ=われ>が正せば、今日よりよい明日が必ずきます。 6・22は転換点、即ち、市民的介入が始まる最初の日です。 思想史の小安宣邦氏と共に歩いたデモの現場です http://youtu.be/pvS6KW8a4b0 @youtube
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