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zoom RSS ALSO SPRACH OWLCATO ふくろ・ねこ、かく語り き 2010 Oct-Nov 本多敬

<<   作成日時 : 2010/11/13 00:20   >>

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2010 Oct-Nov (1)

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1 哲学・思想



・何故、「ダブリン市民」は女性使用人Lilyから書き始めているのか。全ての人は平等とした作者の信条の反映だから。何故、世界史という書物はギリシャから語り始めてきたのか?フランス革命等、民主主義の礎だから。成る程重要だ。しかしギリシャ語は英語の様に国際語として普及していない。何故か?

・ヨーロッパ人はまず「大きな歴史」を語る。例えばルネッサンスやフランス革命。しかしアメリカ人にとっての歴史は「小さな歴史」、自分の個人史を意味する。「大きな歴史」観が存在しないようにみえる。歴史は意識としたら、何故その違いが生じるのか

・ヨーロッパ人は歴史の連続性を意識する。現実に繋がりがなくても、イギリス人は支配した先住民(例、ケルト人)を自分達の祖先と考える。他方、アメリカ人の歴史には断絶がある。インディオを祖先と認めることは起きない。疑問だ

・私の理解。連続性と線形性を充たすテンソル性がリーマン数学の本質で、座標変換で保存されるcoherentな全体性を記述した。同様にポストモダニズムは全ての文化の座標を相互に変換可能なゲームと考えたが、変換を留保する権利をマイノリティーに認めただろうか?階級史観とコンセンサス史観は?

・ロールズの講義計画ノートを読むと、マルクス労働価値説の分析をしている。パレート最適である市場的均衡では価値法則は成立しない。資本の有機的構成が高度化すれば益々困難。だから、マルクス労働価値説は、所得再分配に関するコンセンサス、正義を前提とした考えではないか、と。ヒューム的な社会デザイン

・コンセンサス史観とは何か。ヨーロッパから継承した同化政策に関係があるのでは?押しつけた文化に同化を命じるフランス型中央主権モデル、英国の絶滅モデルと呼ばれる、アイルランド植民地化の様に支配した原住民の絶滅を放任する適者生存的市場モデル

・"コンセンサスの偽造manufacturing consent"という言葉で、米国メデイァの体制迎合主義を批判したチョムスキー。サイード、ゾンターグ、ロールズ、亡命者アドルノ、それからウッデイ・アレン、コンセンサスの暴力に抵抗する知識人達

・「流行のコミュニタリアニズム(サンデルの系列)のいう共通善」のことを知らない。ベトナム戦争や人種差別を国家が求めたコンセンサスと考えれば、ロールズは市民的抵抗と不服従を正義と看做したと思う

・「対関係こそが本質的で存在論的だ」。吉本は焼き直しの範疇を越えた独立した思想家である。「マチウ試論」を読んだ時アナーキズムについて考えた。


・スピノザ「エチカ」は十七世紀に、オランダのハーグとアムステルダムで書かれた哲学書。他者は常に外部から到来し、実際にどんな人々なのか分らないけれども、最初にそういう他者を信頼することの大切さをスピノザは説いているように思う。私が愛する、真に普遍主義的な「運河」の本

・Spinoza's "Ethica" (1675) written in Hague and Amsterdam depicts the universal canal, the confidence in other always coming from the outside


・ヨーロッパ人を自称する根無し草コスモポリタンにとって、オリジナルなもの(例、ギリシャ=ローマ)は権威的「根拠」になりがち。単独者たる、故郷喪失としてのヨーロッパ人は自己同一的な根拠を拒否する。ジョイスとゴダール然り、自己の言葉をコピーせず、他者の言葉をコピーすべきと考える。

・ポスト・コロニアリズムの理論家 デクラン・カイバードによると、ヨーロッパ人は自分がオリジナルであることを怖れる。反抗する作家達はコピーのIdentityに向かう。それに対して、ヨーロッパの周縁の人々、例えば日本人は自分がコピーであることを怖れ、オリジナルなものに憧憬を感じてきた。オリジナルとコピーのシーソーゲーム?


・ジョイスとゴダールの様に他者の言葉をコピーする考え方はどこから来るのか?でオリジナルなもの(例、ギリシャ=ローマ古典世界)は権威的な「根拠」となる危険があり、単独者たる、故郷喪失者として自覚するヨーロッパ知識人は、そのような自己同一的な根拠を受け入れる事ができません。
コスモポリタンたる知識人にとって、他者の言葉のコピーは無意味な事ではない。外国語は他者の言葉のコピーだし、複数の外国語を尊重する理由がある。日本の知識人の様に、大衆に振り回される事は稀有だが、禅の瞑想の如く内面世界に孤立せず、社会契約として自己を外に開いていく

・As Japanese, Europeans asks of where they came from and pursuit its origin along mythological imaginative faculty (Greek mythology etc,) .

・Remembering the future with consistency. Joyce's "Ulysses", an epic that consistency consists in the impossible as long as it is consistency

・ヨーロッパ人は日本人と同様、自分達がどこから来たかと起源の問いを常に発し、その探求をギリシャ神話の如く神話的想像力に委ねる。未来を思い出すこと。矛盾し合う過去と未来が調和的に共存する世界。ジョイスのリアリズムの戦略とは,その無矛盾性の証明が本質的に不可能な事を暴露した点に存する。

・利益侵害としての犯罪という発想が大事。例えば、欧米では家族減税(日本の家族手当)は、独身女性に対する事実上の刑罰適用だとして世論の反発がある。独身である選択はなんの法益侵害でなく「無実」であるべきで、減税措置は間違いという具合。私の理解では、倫理違反としての犯罪という発想は「個と共同体のバランスを重んじるわが国の国情を考慮すべきだ」だ。そうして優遇措置OKなら事実上罰すべしの立場である。理論的には。ナチスと戦前日本の刑法理論。戦後、過失犯理論等判例の中で一定の役割を果たした

・Adorno; Thinking that renounces argument - Heidegger - switches into pure irrationalism. 議論を放棄した思考はハイデガー哲学のように、純粋な非合理主義に陥る危険がある

・ホルクハイマー、曰く。人間として決して後退してはならない前文化的段階を避けよ、と、彼らは説き伏せてきた - マルクス主義であれ、ブルジョア世界であれ。すなわち、そのような前ー文化的段階とは、子供の状態に逆戻りすることによって、大人として働く労働を避けるような段階である。

・Adorno; the subjective aspect of use value conceals the objective utopia, while the objectivity of exchange value conceals subjectivism.

・客観的ユートピアを、交換価値の客観性は主観主義を隠蔽する」(注;マルクスによると、商品は対立する二つの極の統一体。二つの極とは使用価値と交換価値である。前者は有用性、後者は他の財と交換される際の交換比率)

・アドルノは言う。「実際上、使用価値の私的側面は公共圏的ユートピアを、交換価値の社会的側面は単独者の実存を隠蔽する」。商品は対立する二つの極、使用価値と交換価値の統一体。同様に労働力商品は使用価値と交換価値から成る。しかし身体のなかで公共圏的ユートピアと単独者の実存が分裂している

・あらゆる人間が「労働」する人間になり、あらゆる活動が「労働化」する。そこでは各個人は肉体的必要に集中し、共通世界や複数の個人の関係性に目を向けようとはしない。生きる喜びが無く、ただ動物の様に自己の生存手段を維持するだけ。労働力商品の使用価値は公共圏的ユートピアを隠蔽する、の意味

・資本主義商品世界では、政治の目的が中立化してしまい、単なる配分的正義や社会経済的問題の解決になるーフリーケットの新自由主義であれ、福祉国家のケインズ主義であれ。政治の目的は、大杉栄の様な過剰な生を肯定した活動的単独者を殺戮する。労働力商品の交換価値は単独の実存を隠蔽する、の意味

・Thinking is a form of behaviour that in a curious way has taken on the appearance of something in which human activity is not involved・・・
・社会科学者アドルノが指摘した事で、考えることthinkingは人間の活動が関わらないようにみえる奇妙な態度の形式。理論は常に実践から離れて、純化された存在でありたい、と。考える行為は人間の性質を物語っている

・Icannot imagine a world intensified to the point of insanity without objective oppositional forces being unleashed.

・ヨーロッパ中世はアラブ世界に存在した?マキャべリの政教分離主義は、哲学を宗教の上に置いたal-Farabi(9世紀)に原型があった?!哲学者は神を理性の言葉で、宗教予言者はイメージで語る(スピノザ)。カントは、こうしたアラブ=ユダヤ思想の痕跡を消し去った。他者たる文化の抹殺では?

・今日「易経」(岩波文庫)を読んだ。不得手の分野だが、昔九段下の整体道場で柳田先生が時間の差異化に関心を持ち、易と陰陽思想に取り組んだ。偶然だが、リーマン微分方程式の様に、十六の方向を規定して空間の差異化を行う。各々の方向にシンボリックな文字が配置される。未来を思い出すゲームの類?

・正しい説明。ただ、実存主義と言おうと構造主義と言おうと、マルクス主義の理論のどの部分に視点を置くかの問題であって、思想の本質的理解に大きな違いはないだろう。現在ヨーロッパでは、ファシズムに抵抗する、サルトルの思想が復権している。

・ドゥルーズとサルトル、風と猫・・・グローバリゼーションのもとで、容赦なく加速化していく変換の諸体系に向かって、私達一人ひとりは、スピノザ論のドゥルーズが描いたゲームに、実存的に直面しているのだ。

・Deleuze et Sartre, Vent et Chat

・確かに「性」でないように思えてきた。「N個の運河」という理解の仕方はどうか?D+Gが影響を受けているHjelmslev(言語学)ーQuineーDun Scotusの考え方に沿うと「運河ー性」とか「ねこー性」が実質、システム+メタが形式に対応する

・paltipsypoteという縮約的造語は、"密造酒ポチーンを飲んで酔っ払った詩人の顔で参加する"と解読可能で、語の本質は「詩人ー性」poet。n個の性たる酒も参加も、「詩人ー性」(実質)を表現する。ラディカルな思考。スコトゥスは石と神との間に存在上の優劣を認めなかった。同様に、「酒」や「参加」が各々「詩人ー性」を備える以上、これら個物は人間(詩人)と同等。(ベケットの文学を読め!)形式はシステム+メタ、即ち、詩人でありShamたるジョイス自身のこと(嘘つきのパラドックス!)

・Surtout en quoi , face à l'accélération généralisée des mutations, à leur mondialisation , グローバリゼーションのもとで、加速化していく変換の諸体系に向かって・・・

・nous sommes confrontés existentiellement aux enjeux que Deleuze développe si clairement dans la "Spinoza " 我々はスピノザ論のドゥルーズが描いたゲームに実存的に直面している

・ブルバキ;une application f d'une partie A de E х E dans E これは一種の独我論と看做す事ができないだろうか。独我論を非生産的と非難するなかれ!ブルバキの数学も非生産的になってしまう。ところで外国語の翻訳は独我論とは別のことを教える

・西田幾多郎「真善美」。禅の意義を社会契約の意義に置き換えると、Deleuzeを先取りした哲学? 代数が幾何と結合せられるか否かは代数の真理とは無関係、という数学者の見解に対して、西田はカントを援用し反論する。数学的知識は知識自身ではなく、感覚と結びついてこそ真の知識となる、と。こうして、「知識の倫理性」とは具体的統一を求める知識と、(統一を与える)思想との総合に他ならない。


・形式論理学の世界では、システムについての言及と、システムの内部の言及とが食い違うことが起きる。それは、日本人は外部のアジアから戦争加害者として評価されていることを知りながら、システムの内部で自身を被害者とみなすというギャップに対応する。このシステムは自己表象、欺瞞的な鏡像である。

・システムについての言及と、システムの内部の言及が食い違う例は、日本男性作家達のミソジニー(女性軽蔑)にも看取できる。日本人の被害者意識と同様に、女性差別者たる吉行も永井も自身を、被害者と考えている。この欺瞞に対して、誰がゲーデルの役割を引き受け不完全定理第二命題を証明するのか。

・ミソジニーの背理。男性として性的主体化をとげるためには女という他者に依存しなければならない(上野)。商売女を描いた吉行「驟雨」、永井荷風「ぼく東綺だん」は単に幼稚だが、シェークスピアは「リア王」を通して女性嫌悪を強力に表現している。英国公立学校ではシェークスピアを教えない理由。

・シェークスピア、リア王の女嫌い。 But yet thou are my flesh, my blood, my daughter/Or rather a disease that's in my flesh / Which I must needs call my fresh.




2 言葉・表現・本


・Marxの言葉。ラディカルであるとは、事柄を根本において把握することである。だが、人間にとっての根本は、人間自身である、と。同じことだが、ゴダール(Godard) の場合は、"1+2 PENSÉE" と言った。


・Marxの言葉。ラディカルであるとは、事柄を根本において把握することである。だが、人間にとっての根本は、人間自身である、と。同じ事だが、Claude Lèvi-Straussの場合は、われら自身の鏡像 L’image symétrique de nous-mêmes と言った。

・Radikal sein ist die Sache an der Wurzel fassen.Die Wurzel für den Menschen ist aber der Mensch selbst. ( K. Marx )

・ラディカルであるとは、事柄を根本において把握することである。だが人間にとっての根本は人間自身である。「人間」という翻訳には問題はないか?マルクスは人間=市民=ブルジョアという等式を拒否したはずだから。「ヒトは根っ子から考えるときラディカルだ。根っ子とは、ヒトそのものなのだから」

・さむいな/ と、つぶやくわたし/ けれども、声をきいているのは/わたしではない/ことばの動きをとらえても/ みえてこないよ、わたしの姿は /わたしは/ひとつの伝説/ さむいな/といっているのは,べつの人/この人とは/ わたしはかんけいがない

・"われかんがえる、ゆえに われあり" のなかの、"われあり"  の  "われ"。それと、"われかんがえる"  の  "われ"  は、おなじ もの ではない。なぜか?


・運命と夢から/見放されされたとしても/ 解き放たれた芸術の形式は/ 歌になる/ 唯一の、/ だれにもきこえないあのこえ / 呼び声の笑みは / 偶然に身を委ねようとする / 奇跡の方へ向かうためだ

・ことばが ほうかいし / だれか から だれへ の /そんざい のなにかに かかわる、 /ぞうよ でなくなってしまう とき / ほうかいする のは / ひとびとの ゆうじょうだ

・李白;浮雲遊子意 Fú yún yóu zĭ yì 浮雲は旅人たる君の心I knew life in Dublin.And I still knew about life in London.What I know of life in Tokyo my own place ?


・そのコントラストとその音楽/僅かに空気に皺を刻むその声/この囁きの力/みえるもの、気がつくこと、深い縁/見ぬかれた企み/宇宙を斥けるこの笑み!/ 私は思い浮かべる/絹の音を/燃え尽きる/火の音を/孤独で密かに部屋全体を照らした/それは呟き/わたしに話しかける/殆ど呟きの様に

・猫が聞きました / 不思議だな、ここには誰もいないのに、どうして木がどんどん高くなるんだろう / 風の神様が言いました / おやおや、変なことに驚いているんだな/ 私がずっとここにいるじゃないか / 木が育つのはね、塔のてっぺんにいるふくろうが、君をみているから

・この自然の光沢。 / 青みを帯びたみどり色が 炸裂させる、/ 美だ。 / 木々の間に / 凛と、ひろがっている / 静けさ よ...


・ああ、かすかな 声 よ/ あなたには、わからないだろう / はなれた ところで きいて /ただの、おしゃべり と きめつけている から/ 安心しきっている きみの 耳にとってとるにたりないから

・ユダヤ文化センターの近所に住んでいたので、ハムステッドに毎日散歩していた。ロンドン回想の詩;言葉達は木星の輪に連結して/ でもいつも遅れてくる / 私があなたを愛しているほどには、地下世界はあなたを愛していないわ/ だから、窪みに落ちちゃだめだ


・Cartisme a tué la nature comme si le vent du nord a dépouillé les arbres de leurs feuilles, デカルト主義者達は、秋風が木から葉っぱを払い落としてしまうように、"自然"を殺戮してしまったのか?
donc l'imagination au baroquisme, Spinoza et Leipniz, repredrait la puissance de la nature; Dieu=Nature バロックの想像力、スピノザとライプニッツが、自然の力を取り返す;神=自然

・ロンドン回想;I remember an infinite mutter of dissatisfaction slopped from their lips in London , the ring ロンドンのあちらこちらで/ぶうぶう不平を洩らす言葉達/巨大な輪を形づくる

・Connected to the ring of Jupiter" / Always delayed / The world of underground didn't love you like I loved you/ Mind the gap

・Eyes, walk, voice. Well, the voices, yes; gramophone. Have a gramophone in every grave or keep it in the house....Kraahraark.....
Hellohellohello amawfullyglad kraark awfullygladaseeragain... Remind you of the voice like the photograph reminds you of the face (Ulysses)


・「分りにくい話」とか難しい話って、本当は存在しないと思う。分りやすく簡単に理解したいから、分りにくくなったり難解になったりするだけでは?人生や愛の問題は一生かかる思考。ところがハリウッド映画観るみたいにオンリー2時間で理解すると非常に難しく感じられる

・確かにそう!鏡の物質的素材ではなく、「映る」という性質をとらえる点で、詩と論理の思考は類似している。だから、鏡はいつも「前にある」という必然性はない。後ろも可。「映る」という性質も抽象的に考えべきですし、その方が面白い。貝でもヤギでもかまわない

・詩(想像力)と形式(悟性)の大きな相違は、前者には秩序の感覚がないこと。詩の呟きに酔う..One has fear in front of a goat, in back of a mule, and on every side of a fool

・錬金術的造語センスで哲学的探求を書け。「批評=憎悪=排斥」なる方程式を提示したけど、「批評=愛=無限」が私の実践。(但し、非難はする!)デリダ風脱構築なら、批評(批評(批評(・・・)))。例えば、イスラム教(キリスト教(ユダヤ教(・・・)))

・Γ¹₁₁е₁tipsy (ヒック!酔っ払いの) + Γ²₁₁е₂poet (詩人) + Γ³₁₁е₃poteen(密造酒ポチーン) +Γ⁴₁₁е₄participate (参加する)

・「 自然」と「天才」という美学上の超メジャーな(歌舞伎でいうと「連獅子」と「鳴神」みたいな)主題"。異化的な面白い視点ではないかと驚いている。シュールレアリズム的、映画的思考の本質は「遠くの物同士を近づけてみよ」とする、Anti-ロマン主義に存する。

・Astruc /  caméra-styloカメラ万年筆 / caméra-écriture カメラエクリチュール

・十月に、ノーベル賞受賞拒否したサルトルの三つの言葉;存在するとはただ単にそこに在るということである。人間はそれぞれ自分の道をつくりださなくてはいけないんだ。われわれの受身の態度そのものがひとつの行動である。(サルトルにとって、ノーベル賞受賞は「受身の態度」だったということか)
十月に、ノーベル賞受賞拒否したサルトルの三つの言葉;Exister, c'est être là, simplement. Chaque homme doit inventer son chemin. Notre passivité même serait une action.

・わたしは しんぴてきな こえ を しんじない/ ただ, じじつの よびかけに しんらいをよせている。/じだいを みつめ,/われわれがいきる ばしょ、/われわれをとりまく せいかくな じょうきょう/そして そこから 生じる よびかけを みきわめよう。/判断をくだすのは それからだ

・我々が文明国たるためには、血なまぐさい戦争の名誉によらなければならないとするならば、むしろいつまでも野蛮国に甘んじよう。(岡倉天心)Fain would we remain barbarians, if our claim to civilization were to be based on the gruesome glory of war. (K.Okakura)


・芭蕉を巡る音と言葉の旅。感謝します。芭蕉の、妥協なきリアリズムの貫徹とシュールレアリズム的想像力に外国人は驚嘆する

・吉本隆明「共同幻想」と廣松松渉「共同主観」は大体同じ。詩人吉本の文は独特の統語法、廣松松の場合、錬金術的な漢字源の発明であった。西田の様に、日本語であり且つ日本語でないかもしれない書き方

・吉本の「対幻想」と廣松の「相互主観性」。共同体の内部の分割、互酬的な「我と汝」(西田)の焼き直しだったのでは?

・吉本「固有時との対話」と廣松「相対性の哲学」。戦後日本のラディカリズムの思考の断層。しかし吉本「マスイメージ論」は、不毛な砂漠の光景、知的探求が枯渇する八十年代を象徴している。吉本の共同幻想論、廣松「近代の超克」論は、明治以来日本知識人のオブセッション、保守的的アジア回帰の反復

・社会主義擁護者(兄)vs資本主義擁護者(弟)。「社会主義は存在すると、私は認める」と兄は言うとき、「社会主義は存在しないと、君は認めない」と弟が反論すると矛盾をきたす。弟は存在を前提として存在の否定を主張しているからですが、対話は可能。何故か?

・ある日本人の脳科学者が週刊誌に綴った「ジョイスのダブリン」。Oh!幼稚な感想文だが、紋切り型の褒め文句で自身の無知さを隠すその器用さに、感心した。ギネスビールを飲んだ米国人の様に傲慢にも、素朴なアイルランドにノスタルジーを感じている。「生きるコツを学んだ」らしい。本当かな?


・昔ロンドンの家の近所にユダヤ文化センターがあった。そこでAC Graylingが講演した話を思い出して書いた。リベラルで穏健な無神論の立場で書いた本「All against all Gods」を出版した直後だった

・ひとびとの ふあん とは そのことだ 。/ もとより、ぶっしつ てきなもの ではない / なによりもまず、 ゆうじょう の し から うまれる / こころ と せいしん の / ふあん である 。

・翻訳した外国現代詩。日本語を学ぶ(又は教える)外国人の為に、全部平仮名で書いていたが、毎日色々な事を発見。怖ろしく効率が悪いのが大きな魅力(笑)。音の運動が生じ、偶然性が介入する。結果的に映像を引き立てることがある。

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